「水天宮利生深川」と狂気
ここのところ歌舞伎がマイブームのぽん太です。
先日、歌舞伎座の三月大歌舞伎(2006年3月公演)の夜の部を見てきました。おもしろかったです。
ぽん太は歌舞伎の超初心者なので、舞台についてあれこれ批評することはできません。しかし今回の出し物の「水天宮利生深川」(すいてんぐうめぐみのふかがわ)には、主人公の気がふれる場面が出てきますので、精神科医のぽん太も口を挟むことができそうです。
「水天宮利生深川」は、江戸末期から明治にかけて活躍した歌舞伎作家、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が明治18年(1885年)に書いた作品です。原作は『明治文学全集 9 (9)』(河竹默阿彌著、筑摩書房、1966年)に収録されていますが絶版のようです。ぽん太は近くの図書館で借りてきました。
今回の舞台のあらすじは以下のとおりです。
明治維新によって武士ではなくなった船津幸兵衛は、筆を売って暮らしていますが、生活は貧乏のどん底です。妻には先立たれ、目の見えない長女に年端のいかない次女、乳飲み子の長男(幸太郎)の3人を養わなければなりません。人々の善意を支えに生活していましたが、まじめで実直な性格のため、高利貸しや悪徳弁護士にいいようにだまされてしまいます。一家心中を決意した幸兵衛はまず幸太郎から殺そうとしますが、かわいい我が子をどうしても自らの手にかけることはできません。あまりの苦しみから気がふれてしまい、幽霊を相手に箒を長刀(なぎなた)のように振り回したり、世話になっている大家さんを薪で殴ったりしたあげく、家を飛び出して幸太郎を道連れに川に身投げしてしまいます。しかし水天宮様のご利益か二人の命は助かり、幸兵衛も正気に帰り、長女の目にも光が戻ってきたところでめでたしめでたしとなります。
黙阿弥の原作と今回の芝居を比べてみると、身投げして助けられてからあとの部分がかなり変わっているようです。もともと三幕からなる芝居のうち、今回は第二幕だけの上演であるため、次の幕に続く部分を削ったり、芝居の終幕にふさわしい結末となるように脚色した面もあると思いますが、精神障害に対して差別的にならないように配慮したという面もあるように思えます。
で、この芝居のユニークなところは、気が違った幸兵衛の演技にかなりの時間が割かれていて、芝居の見所のひとつにさえなっているという点です。芝居や小説のなかに気がふれたひとが出てくることはよくありますが、明治18年に作られた歌舞伎において、狂気の描写が芝居のクライマックスになっていることは、ぽん太には意外です。
「水天宮利生深川」に関して、精神医学的な立場から気になる部分を挙げてみましょう。
まず気がふれる原因が、激しい葛藤という心因に求められています。このまま生きて恥をさらし続けるのも堪え難いし、かといって一家心中するにはかわいい息子を殺さなければならない。このダブルバインドのなかで幸兵衛は泣き崩れ、その瞬間に気がふれてしまいます。
気がふれた幸兵衛に最初に現れる症状は幻覚です。「舟幽霊だ」と叫ぶと箒を長刀のように振り回します。舟幽霊とは、海に現れて船を沈没させてしまう幽霊で、水難事故で死んだひとの成れの果てだそうですが、さまざまなバリエーションがあるようです。「なんでいきなり舟幽霊なんだ」という疑問がわいてきますが、この狂言が水と縁がある水天宮を題材にしているためだと考えられます。いまでは水天宮は安産・子授けのご利益で有名ですが、そもそも水天宮の発祥は源平合戦にまで遡ります。平清盛の血を引く安徳天皇は、壇ノ浦の合戦で義経ひきいる源氏に破れ、祖母の二位の尼に抱かて入水します。二位の尼から生き延びて霊を慰めるよう命ぜられた官女の按察使局(あぜちのつぼね)は、筑後川のほとりにほこらを建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送るのですが、これが水天宮の起源だそうです(水天宮のホームページより)。水天宮の御祭神は、まず天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と、あとは安徳天皇と、二位の尼(安徳天皇の祖母)、建礼門院(安徳天皇の母)の四柱で、平家との深い関わりが見て取れます。
ですからこの舟幽霊は単なる舟幽霊ではなく、平知盛(たいらのとももり)の霊なのです。つまりこの場面は「船弁慶」を下敷きにしていると考えられます。「船弁慶」は、『平家物語』や『吾妻鏡』を題材にして作られた能楽作品で、平家の滅亡後、頼朝に追われる源義経や弁慶一行が西国に逃れる途中、壇ノ浦で入水した平知盛の幽霊が、長刀をかかげて現れて船を沈めようとするが、弁慶の祈祷によって退散するという話しです。ということは幸兵衛は最初は知盛の舟幽霊の幻覚を見ますが、次の瞬間には自らが知盛になりきって、長刀を振り回していることになります。さらにおもしろいつながりがあり、「水天宮利生深川」を明治18年(1885年)に書いた河竹黙阿弥が、同じ年に「船弁慶」という歌舞伎を初演しているではないか。なにか関係がありそうですが、いまのぽん太の知識ではこれ以上はわかりません。
幸兵衛は、信仰していた水天宮に納めるために買った碇(いかり)の額とともに、孝太郎を抱いて川に身を投げます。碇とともに入水するというのは、壇ノ浦で平知盛が、浮かび上がらぬように碇を身に巻き付けて入水したという話と対応しているように思われます。また子供を抱いて死ぬというのは、二位の尼が安徳天皇を抱いて入水したことを連想させます。「水天宮利生深川」は、平家物語を下敷きにして、「子供を道連れにして死ぬことが許されるのか」ということを問うているわけですが、これは明治の近代的な意識に基づく問いであるようにぽん太には思われます。
ついで幸兵衛は箒を槍に見立てて大名行列のまねごとをしたかと思うと、「おもしろくって堪えられねェ」とねじり鉢巻で踊りだします。本人はいたってハイテンションで爽快なようです。このあたりはかなり演技的ですが、幸兵衛の性格はいたってまじめで実直、正直に「ばか」が付くほどで演技的傾向はありません。さらには踊りながらかわいい娘たちを突き飛ばし、世話になっている大家さんの額を薪で血が出るほどたたきます。とうとうかわいい孝太郎の片足を持ってぶらさげます。すっかり善悪の判断を失っているようです。
かけつけた三五郎を高利貸しと間違えて襲いかかりますが、三五郎の説得でふと我に返って不憫そうに我が子を見つめます。しばらくは静かにしていますが、おせんが子供を抱きかかえたの見て「子供を盗みに来たか」と再び興奮します。隣家から聞こえて来た新内の音を祭り囃子と勘違いして、祭りを見せてやろうと孝太郎を抱いて外に飛び出し、そのまま川へ向かって走って行って身をなげてしまいます。
助け上げられた幸兵衛はすっかり正気に戻っていますが、気が狂っていた間の記憶がないという特徴があります。気がふれた理由ですが、三五郎のセリフでは「常から律儀な了簡に一途に迫って取逆せ、それで気が違ったのだらうが……」と、幸兵衛の律儀さが発狂の引き金になったとしています。また三五郎は正気に戻った理由については「瀧を浴びても気違ひは逆上が下って治るもの故、川へ飛込みつめたいので、治ったものと見えまする」と述べています。
いにしえの精神障害というと「狐憑き」などの憑き物がありますが、この狂言では憑き物の要素がまったくないのも目を引きます。これまで述べたところから「平家憑き」のようにも見えますが、平気物語はあくまでも劇の下敷きとして使われているだけで、発狂の原因とはされていません。あくまでも心因による狂気とされている点が、近代的に思われます。
また登場人物たちは、発狂した幸兵衛を危ないとは思っているようですが、恐怖感や恐れは抱いていないようです。狂気はけっして非日常的な畏怖すべきものではなく、日常のなかに位置づけられています。
今回の公演で幸兵衛を演じたのは松本幸四郎でしたが、哀しさよりも滑稽さが強く、客席からも笑いがおこっていました。しかし歌舞伎好きの知人の話では、ほかの役者ではもっと哀れみが強い演技もあったとのことです。
こういう芝居を見ると診断を付けたがる精神科医が多いのですが、創作された芝居に診断をつけても意味がありません。ぽん太が興味を持つのは、この頃の一般民衆が精神障害をどのように捉えていたかということです。医者が精神障害をどう捉えていたかという歴史は、精神医学史という分野でいろいろ研究されていますが、一般民衆が精神障害をどう捉えていたかという歴史はあまりよくわかっていないと思うのです。今後みちくさを深めたい分野です。
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