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2006/09/30

【雑学】細井和喜蔵『女工哀史』と富岡製糸場

 紡績業の女工といえば、大竹しのぶが主演した映画『あゝ野麦峠』(1979、東宝)(→映画.com)で描かれていたように「悲惨」というイメージがありますが、ぽん太とにゃん子が以前に冨岡製糸場を訪れたとき(「大和茶屋の蕎麦と富岡製糸場」2006.6.14)ここで働いていたのは旧藩士や華族の子女たちのエリートであり、設備や環境も整っていたと知って驚いたのでした。

 富岡製糸場の女工の生活を知るための資料としては、『富岡日記』(和田英著、中央公論新社、1978年)(山形浩生がテキスト化したものあり)がありますが、読んでみるといろいろと大変だったようですが、悲惨という感じはまったくありません。『あゝ野麦峠』の哀れな女工たちと、富岡製糸場のエリート女性労働者はあまりに違いすぎて、ぽん太の頭の中ではどうしてもつながらないのです。

 そこでこんかい、本屋でたまたま目についた『女工哀史』(細井和喜蔵著、岩波文庫、1954年)を買い求めて読んでみました。

「女工哀史」という言葉は広く知られていますが、実際に元になる本を読んだ人は少ないのでは? ぽん太もその一人でした。

 この本は、1923年(大正12)7月に書き始められ、1925年(大正14)7月に出版されたそうです。ちなみに関東大震災は1923年(大正12年)9月ですから、当時東京にいた著者は、書き始めてすぐに関東大震災に遭ったようです。

 『女工哀史』の著者が細井和喜蔵だということも、ぽん太は初めて知りました。このひと自身も、長いあいだ紡績工場の職工をしていたそうで、のちに社会運動に関わるようになり、自分のまわりで長年見聞きしてきた女工の生活を書物にまとめようと考えたそうです。

 繊維業は日本の近代化をすすめる上で最も重要な産業のひとつでした。富国強兵を行うためには外貨を獲得しなければなりませんが、その主要な手段が繊維製品の輸出であり、日本は国をあげて繊維業の育成を行ったのです。その結果、1937年(昭和12)頃には、木綿・麻・絹・毛を合わせた繊維製品は日本の総輸出額の45%を超え、綿布の輸出は世界の綿布総輸出額の40%を占め、イギリスを抜いて世界一になったそうです(津名道代「日本史のなかの女性 20」)。

 で、当時の女工たちがいかに悲惨だったかということになるのですが、いちいち書き写すのは面倒なので、上記のリンクを参照するなり、各自ググルなりしてくらはい。ただ注意すべきは、この本に描かれた世界を現代の平均的な生活と比べて、「ああ悲惨だ、ああかわいそう」と言っていても仕方がないのであって、当時の一般的な社会のなかで彼女たちの生活はどうだったのか、あるいは現代の日本社会のなかで虐げられているひとたち(たとえば外国人留学生)と比べてどうかなどを考えてみる必要があるということですが、ぽん太にはそれをするための知識がありません。また、著者の見方がどれだけ正確で公平だったかという問題もあることは、言うまでもありません。

 で、当初の疑問であった、女工哀史の悲惨な女工と富岡製糸場のエリート女工とのギャップの問題に戻りましょう。最初に考えられるのは、時代の違いです。富岡製糸場の操業が開始されたのは明治になって間もない1872年(明治5)でした。この工場は、機械を使った大規模な近代製糸工場を日本にも導入しようという目的で造られた、官営模範工場でした。当時においては、最先端の技術を備えた工場だったわけです。一方で『女工哀史』が書かれた大正末期には、繊維工場はどこにでもある普通の工場となっており、技術としても目新しいものではなく、仕事の内容も子供にもできる単純労働となっていたわけです。してみると女工の待遇に差があるのは当然に思えてきます。

 ギャップの第二の理由として、工程の違いが考えられます。『女工哀史』の女工たちが携わっていたのは「紡績・織布」で、富岡製糸場は「製糸」です。作業が違うことで、待遇も異なっていたのかもしれません。しかしながら細井和喜蔵は「自序」のなかで、「紡績女工および織布女工に次いで多数を占め、制度の桎梏を受けながら重要な生産を営んでいるものは製糸女工であるが、『女工哀史』という表題のものに少しもそのことを書かなかったのは遺憾だ」(8ページ)と書いています。したがって「紡績・織布」も「製糸」も、労働環境は大同小異だったようです。

 ということで結論としては、『女工哀史』と富岡製糸場の女工の生活にギャップがあるのは「時代の差」だった、ということになりそうです。

 しかしそうだとすると、別の疑問も湧いてきます。官営であった富岡製糸場は1893年(明治26)に三井家に払い下げられ、以後何回か会社を変えながら、民営の工場として1987年(昭和62)まで操業が続けられました。大正から昭和初期にかけての女工たちの待遇はどうだったのでしょうか。次第に『女工哀史』のようになっていったのでしょうか。それとも元官営工場としてある程度の水準が保たれたのでしょうか? 富岡市の富岡製糸場・世界遺産推進ホームページにはまったく書かれていません。世界遺産の認定を受けようとするのなら、負の歴史(あったとしたら)に関してもはっきりと公表すべきだと思います。

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コメント

ayaさん、コメントありがとうございました。
さいきん富岡製糸場を世界遺産に登録するという動きが出ているようですが、ぽん太の頭のなかでは、いまだに富岡製糸場と「女工哀史」がつながりません。どなたか教えてくれませんかね〜。

富岡製糸工場の世界遺産、、表の素晴らしさと、裏の真実、、私には、はたして「女工哀史」と富岡の共通点はわかりませんが、高校の頃読んで、レポートを出しました よくもあの時代に出版できたものだと思いました もうすこし時代がこっちだったら、「あか」とかで、細井和喜蔵さんは、小林多喜二なみのめにあっていたでしょうね かなしい  
 思想や表現をつぶすこともいやですが、だましてはたらかせるのもいやですね できれば、今後も日本では、こんなことがないように

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