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2007年2月の2件の記事

2007/02/13

水天宮の場所の変遷

P1310018 ぽん太とにゃん子は、水天宮に行ってきました。 以前の記事「水天宮利生深川」と狂気(2006/03/15)で書いたように、歌舞伎で「水天宮利生深川」(すいてんぐうめぐみのふかがわ)を見て以来、一度は行きたいと思っていたのですが、東京に棲息していながらこれまで行く機会がありませんでした。
 で、初めて訪れた水天宮でしたが、交通量の激しい道路と高いビルに囲まれ、境内も狭くて、ちょっと拍子抜けしました。有名だけどこんなもんかな、というのが正直な感想でした。
P1310017 お参りをすませたぽん太は、近くの人形町商店街をぶらついたのですが、そこには昔ながらの下町情緒があふれていて、とても感動いたしました。今半などの老舗はもとより、昔ながらの小さな店が立ち並び、江戸の下町の心意気が伝わってきます。水天宮と人形町を両方合わせると、かなり得点が高いです。ぽん太とにゃん子は手作りパン・まつむらで昔ながらのジャム・バタートーストを食べましたが、表面はこんがり、中は柔らかくて湯気が上がっており、とてもおいしかったです。

 ところで、Yahoo!で東京の古地図のサービスが始まりました。最近江戸にはまっているぽん太には、たいへん有り難いサービスです。2007年1月25日から3月15日までの期間限定のようですが、ぜひそれ以後も継続してほしいとぽん太は思います。ただ、古地図の年代が明記されていないのが残念です。
 さて、古地図で水天宮を見てみましょう。まず、現在の水天宮です(地図1)。同じ場所の明治の地図です(地図2)。同じところに水天宮があります。続いて江戸時代です(地図3)。水天宮が消えました。どうやら現在の水天宮は、明治時代にできたようです。ちなみに河竹黙阿弥の「水天宮利生深川」は1885年(明治18年)初演で、この頃は水天宮は深川にあったことになります。

 ということで、ぽん太は、水天宮の歴史をみちくさしてみたくなりました。東京の水天宮のホームページ福岡県久留米市の全国総本宮水天宮のホームページを参照して、水天宮の歴史を簡単に辿ってみましょう。
 時は1885年、源平の戦いにまで遡ります。壇ノ浦の合戦の敗北が決まり、平清盛の血を引く安徳天皇は、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院とともに海に身を投げます。官女の按察使局(あぜちのつぼね)も、波間に飛込もうとしたところを、二位の尼に「生き残って霊を鎮めて欲しい」と頼まれ、ただ一人生き残って追っ手を逃れ、千歳川(現在の筑後川)の鷺野ヶ原(さぎのがはら)に祠を建てたのが1190年(建久元年)、これが水天宮の始まりです。その後いくつかの場所に移ったのち、1650年(慶安3年)久留米藩主有馬忠頼によって、現在の福岡県久留米市の全国総本宮水天宮の場所に移りました。その後も水天宮は有馬家によって尊崇されました。さて、江戸時代は参勤交代が義務づけられていたたため、江戸詰めの藩主がお参りできるように、1818年(文政元年)11月1日に、現在の港区の三田にあった有馬藩の江戸屋敷内に水天宮が祀られました。本来は屋敷神で一般人はお参りできなかったのですが、次第に江戸庶民の信仰が高まって塀越しにお賽銭が投げ込まれるようになり、しまいには日を限って一般人に屋敷を開放されるようになたそうです。1871年(明治4年)に屋敷の移転にともない、水天宮は赤坂に移りました。そして翌1982年(明治5年)、さらに屋敷と水天宮は現在の位置に移ったのだそうです。

 さて、まず1818年に有馬家の江戸屋敷があったのはどこでしょうか。Yahoo!の江戸時代の地図の三田近辺を探してみたところ……。あった(地図4)。「有馬中務大輔頼成」と書かれた屋敷があり、敷地の北西の角にはっきりと「水天宮」と書かれています。明治時代になると(地図5)、屋敷の跡は「海軍造兵廠」となっていますが、有馬屋敷時代の庭園の池が残っているのがわかります。現在はこのようになっており(地図6)、いくつかの病院などが建ち並んでいます。庭園の跡はもうないようです。が、旧有馬屋敷の敷地内にある赤羽小学校のホームページを見てみると、「旧芝赤羽町有馬屋敷(久留米藩)の屋敷跡の校庭には樹齢300年をこえる樹木が点在し、閑静な雰囲気を作っています。これらの樹木は、開校以来「赤羽の緑」として親しまれています」と書いてあり、一度このあたりを訪れてみたい気になります。なお有馬屋敷というと、火の見櫓有馬猫騒動などの話題もありますが、今回はみちくさしないでおきましょう。
 さて、有馬屋敷は1871年(明治4年)に赤坂に移ったとあります。ググってみると、例えばこのページに「明治四年(一八七一)七月一四日、廃藩置県の詔書が発せられ、久留米藩は久留米県と称し、政庁を城内に置いた。東京の藩邸に謹慎中であった有馬頼咸は藩知事を免ぜられ、二五日には赤羽邸を上地して、赤坂薬研坂の吉井邸を賜り、華族に列せられた」と書いてあります。またこちらのページには、明治4年の7月25日に、「三田私邸は上地となり、赤坂薬研坂の吉井邸を旧久留米藩主に下賜さる」と書いてあります。そこで薬研坂近くの吉井邸を江戸時代の地図で調べてみると……あった(地図7)。「上野吉井藩(群馬)松平左兵衛督信発」と書いた屋敷があります。明治時代には(地図8)斜めに道が走り、残された三角形の土地は赤坂区役所と警察署になり、現在も(地図9)赤坂地区総合庁舎と赤坂署になっています。現在の地名では、薬研坂ではなく彈正坂になるかと思います。おそらくここが、明治4年に有馬屋敷と水天宮が移ってきた場所でしょう。
 さて、そして翌年の1872年(明治5年)、有馬屋敷は現在の水天宮がある日本橋に移ります。中央区有馬小学校のホームページを見ると、「有馬小学校は、明治6年に旧久留米藩主の有馬頼咸(よりしげ)候の多大な寄付により幼童学所として発足し、明治7年に公立有馬小学校として開校しました」と書いてあります。有馬小学校の位置は、明治時代と現代とでは異なるようです。その後、有馬屋敷がどうなったのかぽん太には知る由もありませんが、水天宮は現在にいたるまで残っているわけです。

2007/02/10

【温泉】奥飛騨・福地温泉の湯元長座は囲炉裏の郷土料理がいいね(★★★★★)

P1250011 ぽん太とにゃん子は、奥飛騨温泉郷福地温泉にある湯元長座に泊まってきました。日本秘湯を守る会のスタンプをためての無料ご招待です。P1250042福地温泉は、わずか13軒の宿からなる小さな温泉郷ですが、どの宿も古い建物を移築するなどして、静かな雰囲気あるたたずまいを、温泉街全体で作り上げているところがすばらしいです。湯元長座も、豪農の館を移築したものだそうで、風格があり歴史を感じさせます。
P1250012 お風呂は、男女別の内風呂と露天風呂、無料の四つの貸切風呂、それからちょっと歩いた川沿いに男女別の半露天のかわらの湯があり、いろいろな雰囲気で入浴することができます。源泉は何本かあるようで、どれも無色透明の柔らかいお湯です。かわらの湯は湯船についた析出物が目立ちます。
P1240011 そして、囲炉裏端でいただく食事。岩魚の塩焼きや飛騨牛のすき焼き、朴葉焼きなど、とてもおいしい郷土料理でした。
 従業員のサービスも親切で、活気があります。お値段もいいので4点と言いたいところですが、今回は無料ご招待だったので5点満点です(2007年1月宿泊)。

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