« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月の12件の記事

2007/03/30

【温泉】角間温泉には3つの趣きある共同浴場があります(★★★★★)

 角間温泉越後屋に泊まってすっかりいい気分になったぽん太とにゃん子は(「【温泉】角間温泉越後屋は隠れ里のような穴場(★★★★★)」2007/03/27)、翌朝、朝食を終えてから、共同浴場に入りに行きました。角間温泉には3つの共同浴場がありますが、それぞれに味わいがあります。ぽん太とにゃん子は、もちろん、すべて制覇しました。
 共同浴場には鍵がかかっていますが、泊まっている旅館で鍵を無料で借りることができます。観光客とはいえ、地元のひとの迷惑にならぬよう、マナーを守って入りたいものです。

大湯/角間温泉 大湯/角間温泉 大湯/角間温泉
 まず、旅館街の中心にあり、堂々とした風格があるのが「大湯」です。浴槽は新しく、タイル張りで手すりもついていますが、木造の美しい屋根や、石けんおきの美しい造形が見事です。
滝の湯/角間温泉 滝の湯/角間温泉 滝の湯/角間温泉
 次が「滝の湯」です。同じくタイル張りですが、こちらは鄙びた雰囲気があり、一方の壁は岩になっております。ここも木造の建物がとても見事です。
新田の湯/角間温泉 新田の湯/角間温泉 新田の湯/角間温泉
 最後は「新田の湯」です。ここが一番古そうに見えます。簡素な造りですが、アルカイックな美しさあります。脱衣場の板の割れ目から差し込む朝日がとても美しかったですが、真冬は雪が吹き込んで衣服を置けないのでは?
林芙美子文学館/角間温泉
 宿でお支払いをすませ、温泉街のなかにある林芙美子文学館によりました。なんでも林芙美子は、戦争中、角間温泉の一角にある農家に疎開をしていたそうで、その農家が現在の文学館となっております。係りのおじさんが解説をしてくれて、昨年、森光子の「放浪記」を見たばかりのぽん太とにゃん子が興味深く聞いていたら、解説が1時間を超え、ぽん太とにゃん子はせっかく温泉で暖まった体が、すっかり冷えきってしまいました。でも、とっても興味深いお話をお伺いできました。おじさん、ありがとう!

2007/03/27

【温泉】角間温泉越後屋は隠れ里のような穴場(★★★★★)

角間温泉越後屋 ぽん太とにゃん子は、2007年3月、角間温泉越後屋に泊まってきました。角間温泉というと、小諸・上田の近くにある岩屋館のある角間温泉も有名ですが、こんかい行ったのは、湯田中温泉や渋温泉の近くにある角間温泉です。
角間温泉越後屋 で、湯田中温泉や渋温泉は超有名ですが、その近くにある角間温泉は一般にはあまり知られていない穴場です。この温泉は、美しい木造建築の旅館があり、こじんまりとしてなつかしい雰囲気が漂います。林芙美子、吉川英治、横山大観など多くの文化人が滞在したことでも有名です。ぽん太は20年近く前にも角間温泉に泊まったことがあるのですが、近くに志賀高原に通じるオリンピック道路ができたものの、隠れ里のような雰囲気はまったく変わっていません。
角間温泉越後屋 越後屋は、木造三階建ての美しい建物が特徴です。明治後期に作られたものだそうで、1階より2階、2階より3階が手前にせり出す、独特の造りです。泊めていただいた部屋は、吉川英治が約1年半滞在して初期の作品を執筆した部屋だそうです。宿の一番奥の、急な階段を登ったところにあり、細かいところまで作り込まれた美しい和室です。
 角間温泉越後屋 浴室は三つあり、ローマ風呂、明治後期のイタリア製タイルが美しい風呂、肌触りのいい木造の風呂と、それぞれ特色があります。露天風呂はありませんが、十分満足できます。お湯は無色透明のやわらかいお湯で、泉質はナトリウム・塩化物硫酸温泉。スキーで冷えたからだがぽかぽかに暖まりました。もちろん源泉掛け流しです。
角間温泉越後屋 料理は地元の食材を使った素朴な料理です。おいしゅうございました。
 旅館に泊まると、鍵を借りて3つの外湯を利用できます。外湯については、日を改めて書くことにいたします。
角間温泉越後屋 鄙びた温泉街、美しい木造建築、源泉掛け流しのお湯がぽん太の好みで高得点となります。食事がもう少し凝っているといいかなという気もしますが、総合評価は5点満点です。

2007/03/25

【医療格差】精神病院への強制入院も金次第?

 過日、ぽん太のクリニックに通院している患者さんの病状が悪化し、緊急に医療保護入院が必要になりました。そこで入院先を探そうと近くの精神病院に電話で問い合わせたところ、2カ所続けて「差額ベッドならあいてます」と言われたので、ぽん太はショックを受けました。自分で希望して入院する任意入院で差額ベッド代を取られるのはまだしも、強制入院の一種である医療保護入院で、差額を払えないと入院できないというのは、ぽん太は納得できませんでした。緊急に強制入院が必要になったとき、お金がある人はすぐ入院できるけれど、お金がない人はしばらく待たされたり、遠くの病院になったりする時代が来たということです。
 精神科の入院形態に関しては、「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(通称、精神保健福祉法)の第五章で規定されており、任意入院、医療保護入院、応急入院、措置入院、緊急措置入院があります。条文を読むのが面倒な方は、たとえばこちらの都立松沢病院のページでわかりやすく解説してあります。このうち任意入院は患者さん自身の意思による入院ですが、それ以外の医療保護入院から緊急措置入院までは、患者さん自身の同意がなくても可能な、一種の強制入院となります。
 精神科の病棟には、「開放病棟」と「閉鎖病棟」があります。開放病棟は、普通の内科や外科の病棟のように、出入りが自由な病棟です。閉鎖病棟は、病棟の入り口の扉に鍵がかかっており、入院している患者さんが自由に出入りできない病棟です。病状によって例外はありますが、おおざっぱに言うと、任意入院の患者さんは開放病棟に入院し、医療保護入院などの強制入院の患者さんは、閉鎖病棟に入院します。
 また差額ベッド代とは、入院したときにかかる医療費以外に、自己負担しなくてはいけない部屋代のようなものです。こちらのAll Aboutのページは、差額ベッド代についてわかりやすく書かれております。なんでも、防弾ガラスや北欧直輸入の応接セットを備えた1日21万円の差額がかかる豪華病室もあるそうです。
 精神科の入院費用は、おおよそ一ヶ月で十数万円ぐらいでしょうか。しかも高額療養費制度によって、限度額(収入やかかった医療費によって異なります)を超えた金額は戻ってきます。ところが差額ベッド代がこれに加わると、1日3,000円でも1ヶ月約9万円、1日5,000円なら月約15万円の出費が上乗せになります。しかも差額ベッド代は高額療養費制度の払い戻しの対象とはなりません。ついでにいうと年末の医療費控除に関しては、差額ベッド代は控除の対象になる場合とならない場合があります

 さて、神経症やうつ病の患者さんを主な対象としてアメニティを高めた開放病棟では、差額ベッド代が必要なものがこれまでもありました。こうした病棟が増えてきたのはこの数年でしょうか。患者さん自身が希望して任意入院する開放病棟では、多少費用がかかっても快適な入院生活を送りたいということで、こうした病棟があってもよいとぽん太は思います。しかし、患者さんの意思に反して入院させる閉鎖病棟で差額ベッド代がかかるというのは問題があると、ぽん太は思うのです。
 閉鎖病棟への入院は、緊急性がある場合が少なくありません。例えば統合失調症の患者さんが、激しい幻覚や妄想を伴って、興奮状態にあるような場合です。このようなケースで「お金が払えれば今日でも入院できるけれど、払えないならベッドが空くまで2週間家族で面倒を見て下さい」などというのは、患者さんにとっても御家族にとってもマイナスです。閉鎖病棟への入院は、身体疾患で言えば救急入院のようなケースが含まれているわけで、仮に体の具合が悪くなって救急車を呼んだときに、差額ベッド代を払えば入院できるけれど、払えないと入院できないなどということがあったら、人道上大きな問題になるのではないでしょうか。
 お金がなければ、精神科救急を利用すればよいという人もいるかもしれません。確かに、ぽん太が棲息している東京都の場合、夜間休日の精神科救急の制度があります。しかしそれはあくまでも夜間休日だけの制度であり、しかもそこで受け入れてくれるのは警察沙汰になるような激しいケースだけです。ですから通常の緊急入院ではこの制度を使うことはできません。
 しかし、だからといって精神病院を非難すればいいというわけではありません。ここ数年、診療報酬が引き下げられ、精神病院の収入は減少の一途をたどっていますから、こうした方法で収入を増やさないことには、生き残っていけないという事情があるのです。
 ちかごろ「格差社会」ということが言われております。ぽん太は、その全体像を分析する能力は持ち合わせていませんが、ぽん太が直接関わっている精神医療の世界に限れば、お金の有る無しで受けられる医療の質が変わるという「医療格差」が増大してきていることは事実です。

2007/03/23

【テレマークスキー】冬の戸隠の森を歩く

戸隠 ぽん太とにゃん子は、戸隠に歩くテレマークスキーに行ってきました。戸隠はなだらかな起伏がある広々として美しい樹林が広がり、滑るテレマークスキーが苦手なにゃん子も楽しむことができます。ぽん太が冬の戸隠に来たのは4〜5回目ですが、何度来ても飽きることはありません。こんかいは暖冬で雪があるか心配だったのですが、ちょうど寒波がやってきて夜中に10センチほど雪が積もったので、二日目は誰のトレールもない純白の雪原を歩くことができました。

【山名】---
【山域】戸隠
【日程】2007年3月7日〜8日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(3/7)曇りのち雪、(3/8)曇り時々雪
【コース】(3/7)奥社入口(14:38)<<随神門<<奥社入り口(15:58)
(3/8)森林植物園入り口(9:44)<<鏡池<<森林植物園入り口(11:47)
【マイカー登山情報】奥社入り口、森林植物園入り口ともに除雪された駐車場あり。

随神門 3月7日に戸隠に到着したのは午後2時すぎ。奥社入り口から参道の右手の林を、奥社目指して歩きました。ここ数日の暖かさでくさった雪が、この日の寒さでクラストして、ちょっと歩きにくかったです。でも、今シーズン初のオフピステで、ぽん太はうれしくてしかたがありません。樹々の間をぬって雪原を自由に歩き回ります。整備されたゲレンデでのスキーとはまったく違った楽しさです。
戸隠山 随神門でテルモスのお茶を飲んでお菓子を食べました。戸隠の岩壁がまるで墨絵のように見えました。帰りは参道の反対側の雪原を戻りました。
 その日の夜は、以前のブログ「【旅館】戸隠の中谷旅館はこころが落ち着く宿(★★★)」(2007/03/19)に書いた中谷旅館に宿泊。とてもゆったりできました。
戸隠 翌日は森林植物園入り口に車を停め、鏡池を目指しました。戸隠は夜間に降り積もった新雪で被われ、誰もトレースもなく、とても静かで清らかで美しかったです。往きは平地を通って行きました。暖冬のためか木道が見えており、またあちこちに雪解け水のせせらぎが姿を現していました。鏡池ももう氷が溶けているのではないかと思いましたが、一面に雪に覆われていました。鏡池を眺めながらおにぎりを食べ、みそ汁を飲みました。鏡池帰りは丘を越えてショートカットしました。 峠を越えたところで沢の右側を行くのがコツです。こうした起伏があるコースは、エッジのないクロカンよりもテレマークが楽です。
 午後は戸隠スキー場で滑り、その夜は角間温泉の越後屋に泊まりました。角間温泉については、日を改めてご報告いたします。

2007/03/21

【江戸】永井荷風も有馬屋敷跡を探検していた

 ぽん太は以前の記事「水天宮の場所の変遷」(2007/02/13)で、現在は日本橋にある水天宮が、もともとは1818年に有馬藩の江戸屋敷に祀られていたもので、1871年に有馬屋敷が赤坂に移るまでそこにあったことを述べました。そして、江戸(地図4)・明治(地図5)・現代(地図6)の地図を見比べてみると、有馬屋敷は明治時代には海軍造兵廠となり、現代は小学校や病院などが建ち並んでいることを述べました。
 先日、永井荷風の『日和下駄』(『荷風随筆集 上 (1)』野口富士男編、岩波文庫、1986年に所収)を読んでいたら、永井荷風が、有馬の猫騒動の古塚を探しに、有馬屋敷の跡地に忍び込んだ話しが出ていたので、ご紹介いたします。68ページから73ページにかけて書かれています。
 荷風が『日和下駄』を執筆したのは1914年(大正3)8月から翌年の6月にかけてですから、まだまだ東京のあちこちに江戸の名残が見られたと思います。荷風は、江戸切絵図を片手に東京の裏道を歩き、当時の東京と江戸を引き比べるのを楽しみにしていたようです。「第四 地図」に荷風は、次のように書いています。
 「蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板の江戸切図を懐中にする。これは何も今時出版する石盤摺の東京地図を嫌って殊更昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引き合わせて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができるからである」(29ページ)。
 さて、「第八 閑地」は、市中に残るさまざまな閑地(あきち)について書かれていますが、そこに有馬屋敷跡が出てきます。この頃はすでに海軍造兵廠も取り壊されて広大な空き地となっていたのですが、その跡地に有馬の猫騒動の猫塚があるという噂が広まり、新聞にも何回か取り上げられたりしていたのだそうです。荷風は友人の久米氏(久米秀治でしょうか?ぽん太は日本文学に詳しくないのでわかりません)に誘われ、屋敷跡を訪ねます。「今年の5月頃の事である」とありますから、1914年(大正3)の5月でしょうか?最初、敷地の東側にある三田通りから侵入を試みましたが、板塀とどぶに阻まれて果たせません。そこで「恩賜財団済生会」という札の下がった門から、用事がある振りをしてなかに入ります。恩賜財団済生会はもちろん現在もあり、旧有馬屋敷の敷地内にある三田国際ビルヂングに本部があります。また同じ敷地内には、東京都済生会中央病院があります。ホームページ内の「病院沿革」を見ると、1915年12月に「恩賜財団済生会芝病院」が開設されたとありますから、荷風が訪ねたのはその1年半前で、まだ病院はできていなかったということになります。へ〜え、初代の院長は北里柴三郎だったのですね〜。
 あれ、でも北里柴三郎といえば、たとえばこちらの北里大学のホームページにもあるように、1914年に伝染病研究所を辞任し、私立北里研究所を創立して所長となり、1917年には慶応義塾大学医学科を創立して初代科長になったはずです。兼務だったのかな〜?よくわかりません。そのうちみちくさする機会があるかもしれません。
 さて、荷風に戻って、済生会の門から入った荷風と久米が奥へ進んで建物の裏手に回ると、うっそうと木が茂った空き地はなだらかな丘陵をなしていて、そのふもとに大きな池がありました。ところがその池のまわりは、大勢の大人や子供が釣り竿を持ってわいわいがやがや騒いでいて、さらには釣り道具やパンなどを売っているおじさんまでおり、荷風はすっかり拍子抜けしてしまったようです。目的の猫塚も、つまらない石のかけらで、はたして本当に猫塚の台石であったかどうかもはっきりしなかったと書いています。
 荷風は、書物や絵にも描かれた江戸時代の名園が、明治の文明によって惜しげもなく破壊されて兵舎や兵器の製造場となったこと、そしてこの跡地もまた新しい計画によって消え去って行くことを思い、深いため息をつきました。

2007/03/19

【旅館】戸隠の中谷旅館はこころが落ち着く宿(★★★)

中谷旅館 2007年3月、ぽん太とにゃん子は戸隠に歩くスキーに出かけました。記録的な暖冬で
 雪があるのか心配でしたが、この日の夕方から翌朝にかけて雪が降り、10センチほどの積雪と成りました。
 で、こんかい宿泊したのは戸隠中社の鳥居の前にある中谷旅館(なかたにりょかん)です。
中谷旅館 古くは宝泉院と呼ばれ、戸隠山顕光寺の宿坊だったそうでが、明治の神仏分離によって戸隠神社の社家となり、現在にいたっているそうです。建物は風格がある古い木造建築で、室内も、料亭のような洒脱な感じではなく、寺院建築のようなどっしりと落ち着く感じです。これで屋根が茅葺きのまま残っていたらな〜と惜しまれます。食事は地元の食材をふんだんに使った料理が有り難く、もちろん蕎麦も絶品です。スキーシーズンということで肉の鍋もついていましたが、食べきれませんでした。浴室は新しくきれいですが、温泉でないのが残念。もっとも歩いてすぐのところに戸隠神告げ温泉があるので、温泉にこだわる方は入りにいくといいでしょう。ぽん太とにゃん子は以前に入ったことがあるので省略。神主でもある宿のご主人はとても優しくて親切で、ご遠慮したのに、ぽん太とにゃん子が車の荷物を整理するのを雪のなかで待っていてくれて、見送って下さいました。
 とてもすばらしい宿ですが、ぽん太の個人的な好みからすると、温泉がないのと屋根が茅葺きでないのとで「ややよし」の3点です。
 戸隠には、ここをはじめとして、雰囲気がある宿がいっぱいあるので、皆さんもぜひ泊まってみたらいかがでしょうか(戸隠観光協会・宿泊ガイド)。

 戸隠は、長野県は長野市の北西に位置します(地図はこちら)。東に飯縄山があり、北から西には戸隠山の絶壁が立ちはだかっておりますが、山間にありながら開放的で広々とした高原地帯となっています。自然に満ちあふれており、夏は登山やハイキング、冬はスキーを楽しめます。またおいしい蕎麦も名物です。
 戸隠の歴史は、戸隠神社と切り離して考えることはできません。戸隠山は平安時代の初期から山岳密教の霊場とされ、鎌倉時代には、高野山、比叡山に並ぶ一大霊場に発展しました。その後室町時代までに、戸隠山と「天の岩戸」が結びつけられるようになりました。越後の上杉謙信と甲州の武田信玄が何度もぶつかり合った戦国時代には、戸隠は荒廃しましたが、豊臣秀吉の時代に再興され、江戸時代には徳川家によって手厚く保護されました。明治時代、廃仏毀釈によって多くの仏宝が失われたそうですが、戸隠「神社」として現在に歴史を伝えています(以上戸隠神社の公式ホームページを参考にしました)。
 戸隠山の絶壁は、何度見ても崇高な気分になってきます。この地に信仰が栄えたことは、十分納得できます。ちなみにぽん太は1996年に戸隠山に登りました。奥社の裏に始まる登山道はまさに山岳修行そのもので、鎖場の難所や、特異な景観が次々と現れます。とりわけ「蟻の戸渡り」、「剣の刃渡り」は、両側が切れ落ちた幅50センチほどの狭い稜線で、最大の難所となっております。古くから数限りない修験者が、精神を統一してこの難所を渡ったんだな、と思うと神妙な気持ちになります。しかし修行の足りないぽん太は、這いつくばるようにして渡ったのを覚えております。

2007/03/17

【温泉】神立の湯は源泉掛け流しがうれしいけどちょっと割高(★★)

 ぽん太とにゃん子は今年(2007年)の2月、苗場プリンスに泊まってユーミンのライブを聞いてきました。バブリーな生活と縁がなかったぽん太ですが、バブル期の青春を20年遅れで堪能できました。なんか、戦争で卒業式をできなかった小学生が、20年ぶりに卒業証書をもらう、という感じでした。会場は年齢層が高く、とても楽しかったです。
神立の湯 で、翌日苗場で滑った帰りに温泉にでも入っていこうということになったのですが、前に入った宿場の湯はカルキ臭かった記憶があるので、「源泉100%かけ流し」のキャッチコピーに引かれて神立の湯(かんだつのゆ)に入ってきました。外観はあまりムードがないのですが、鄙びた素朴な感じがします。浴室はタイル張りで新しく清潔ですが、ちと趣きに欠けます。浴槽もあまり大きくありませんが、源泉掛け流しの名に恥じず、浴槽からお湯がどんどん溢れ出ています。加熱もしていないそうです。神立の湯泉質はアルカリ性単純温泉で、pH9.4とのこと。ヌルヌル感があるいいお湯です。露天風呂がないのが残念です。
 受付のおばちゃんの応対も素朴でよく、ロビーで飲泉したり、自分でインスタントコーヒーを入れて飲んだりできます。
 ただ、入浴料が1000円は高すぎる気がします。700円くらいが妥当じゃないかしら。
 源泉掛け流しのお湯は最高、素朴な雰囲気も悪くありませんが、施設面と値段に問題ありで、ぽん太の評価は普通の2点です(2007年2月入浴)。

2007/03/15

【南イタリア旅行】カプリ島とベンヤミン

 ぽん太とにゃん子がのんびり観光を楽しんだカプリ島ですが(「【南イタリア旅行】カプリ島・青の洞窟、ソレント」2007/01/12)、この島は、ヴァルター・ベンヤミンが、彼に非常に大きな影響を与えた女性アーシャ・ラーツィスに出会った場所であるということが、三原弟平の『ベンヤミンと女たち』(青土社、2003年)に書いてありました。第5章のあたりです。ベンヤミン(1892〜1940)は超有名なドイツの思想家ですが、ぽん太の狸脳では、ベンヤミンの思想とその価値がちっともわかりません。そこで、「え?ベンヤミン君もカプリ島に行ったことあるの?ぽん太も行ったよ〜。なんだ、仲間じゃん」ということで、ベンヤミンと少しでもお近づきになろうというのが、今回のぽん太の魂胆です。
 ベンヤミンの思想は、ユダヤ神秘主義とマルクス主義が結びついた、とっても難解なものですが、ベンヤミンがマルクス主義に関心を持つきっかけは、他ならぬアーシャとの出会いだったのです。アーシャ・ラーツィスは1891年にラトビアで生まれました。ギムナジウムを卒業したアーシャは、ペテルブルグの精神神経医学研究所に入学しました。「精神神経学研究所」と聞くと、精神科医の端くれであるぽん太の興味がかき立てられますが、彼女は医者になるつもりだったのではなく、当時この研究所は女性にも門戸を開いていて、ここで2年間一般教養を学ぶと、どの大学のどの学部にも進むことができたのだそうです。
 この研究所の所長はヴラディーミル・ベーフテレフという神経学者・精神医学者だそうです。ぽん太には初耳の名前ですが、ググってもあまり情報が出てきません。本書には「彼は条件反射の研究を行い、『反射学』の名のもとに人間行動学をうち立て、その立場から人間の社会生活の面にも研究領域を広げていった。また児童教育にも深い関心を有していたという。彼の講義にはマヤコフスキーも顔を出していたそうだ……」(150ページ)と書かれています。ぽん太はこれを読んで、ヴィゴツキーを思い浮かべました。ベーフテレフは1857年に生まれ1927年に死去、ヴィゴツキーは1896年に生まれ1934年に死去していますから、ベーフテレフが約40歳年上だったものの、同時代に活躍していたように思われます。ぽん太の書庫にあったヴィゴツキーの『心理学の危機』(明治図書、1987)をめくってみると、「行動の心理学の問題としての意識」という論文で批判されている「ベヒテレフ」という人が、ベーフテレフのようです。そこでベヒテレフでググってみると、リウマチ性疾患のひとつである強直性脊椎炎が、ベヒテレフ病(Bechterew病)という別名で呼ばれていることがわかりました。このあたりをみちくさしているとキリがなさそうなので、元の道に戻ることにしましょう。
 さて、アーシャは学生時代に出会った演劇に魅せられ、演劇の世界に飛び込んで行くとともに、マルクス主義思想に染まっていきます。アーシャがカプリ島を訪れたのは、1924年でした。肺炎になった娘ダーガの療養のために、夫のライヒとともに春と夏をイタリアに滞在しましたが、そのうちの数ヶ月をカプリ島で過ごしたのです。
 このときカプリ島には、未来派のマリネッティが住んでいて、ソレントにはゴーリキーが結核の療養に来ており、さらにブレヒトが妻とともにカプリ島を訪れたといいますから、役者がそろっています。
 ところでまたみちくさですが、『ベンヤミンと女たち』の175ページには、「モーターボートで彼らの行ったポジティアーノは、カプリ島からは南東にあるイタリア本土にあったが、まったく特別なところで、蜂の巣のような外観をしていた。人びとは岩山をくりぬいて、その小房のなかで暮らしていた。当時まだそこはまったく野生のままで、快適さなど必要とせず、いやそれどころかそうしたものは軽蔑しているわずかな数の芸術家だけが住んでいた」と書いてあります。岩山に穴を掘って住んでいるとは、ぽん太も観光したマテーラの洞窟住居(「【南イタリア旅行】世界遺産マテーラの洞窟住居サッシに感動」2007/01/14)のようです。洞窟住居はマテーラだけではなかったんですね。なお先の引用に出てくるポジティアーノというのは、ポジターノPositanoのことだと思います。現在はすっかり高級リゾート地になっているようで、岩穴に住んでいる人はいないようです。
 アーモンドを買いに行ったアーシャがイタリア語がわからずに困っているところにベンヤミンが通りかかり、通訳をした上に荷物を持ってあげたのが、ふたりの出会いだそうです。
 ベンヤミンが自分の著作のなかでアーシャに触れているのは、『一方通行路』(1928)(『ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅』ちくま学芸文庫、1997年に所収)だけのようです。この本の巻頭には「この道の名は/アーシャラティス通り/この道を著者のなかに/技師として/切り開いた女性の名に因んで」という言葉が掲げられています(18ページ)。そして「中国陶磁器・工芸品」で、「門があって、そこから一本の道が始まる。下ってゆくと、ある女性の家に至るのだが、私はその人を毎晩訪ねていったのだ。彼女が引っ越してしまったあと、門のアーチ型の入り口は、聴覚を失った耳介のように、私のまえに開いていた」(28ページ)という文章がありますが、この女性がアーシャだそうです。またそこに、裸で挨拶に出てくる女の子が書かれていますが、これがアーシャの娘ダーガだそうです。ベンヤミンはショーレム宛の手紙のなかで、カプリ島での生活について書いているそうです。書簡集を収録した晶文社の『ヴァルター・ベンヤミン著作集』を注文してみましたが、在庫があるのかないのか、まだ手元に届きません。
 ベンヤミンとアーシャは恋に落ち、お互いにさまざまな影響を受けたようですが、その辺は省略。アーシャは9月にカプリ島を去ってパリに向い、遅れて10月10日にベンヤミンもカプリ島を去ったようです。

2007/03/13

【医療】ぽん太も医療費の不正請求をしてみました【悪徳】

 近頃は「医は算術」などといい、医者も金儲けのことばっかり考えていて、いやですね〜。昨年の12月の日本経済新聞の記事にも、「返還求めた診療報酬の不正請求60億円・05年度厚労省まとめ」(2006/12/24)という記事が出ていました。厚労省の発表によると、2005年度に医療機関や薬局に対して返還を求めた不正請求の総額は約60億6000万円で、架空の診療行為をでっちあげたり、名義借りによる医師数の水増しなどの手口が多かったそうです。本当に医者は、高い給料をもらっているくせに、悪いやつばっかりですね。

 さて、今回ぽん太も、医療費の不正請求をしてみましたので、皆様にご披露いたしましょう。

 その前に、医療機関が診療報酬を得るまでの事務処理の流れを頭に入れておくと、わかりやすいと思います。
 現在の日本の健康保険の制度はとても複雑で、一介の開業医のぽん太が全体を理解することは不可能です。ですから、ぽん太の狸脳が理解している範囲のおおざっぱな話しをします。細かいところで間違いがあると思いますが、お許し下さい。
 健康保険には、大きくわけて、会社員などが加入している社会保険と、自営業者やその他の人が加入している国民健康保険の二つがあります。どちらの場合も、事務処理の流れはほぼ同じですので、ぽん太が不正請求をした社会保険の方で説明しましょう。社会保険診療報酬支配基金のホームページのなかの、「支払基金のしくみと役割」というページに、診療報酬の業務の流れが詳しく書いてありますので、ご参照下さい。
 医療費の一部は、患者さんが病院の窓口で負担しますが、残りの医療費は病院が請求をします。請求の窓口は、社会保険の場合は社会保険診療報酬支払基金です(国民健康保険の場合は、国民健康保険団体連合会です)。請求は、患者さんごとに1ヶ月ごとの診療内容をまとめた診療報酬明細書(通称レセプト)で行います。患者さん一人につきA4の書類1枚で、その月に来院した患者さんの分の書類の束を提出するわけです。社会保険支払基金は、まず患者さんの名前や健康保険組合のコードなどの記載の誤りを、事務点検します。ここで誤りが見つかると、レセプトは医療機関に差し戻されます(「返戻」といいます)が、これも「不正請求」に含まれると言われています。つまり、冒頭の記事のように「医療機関の不正請求が年間60億6000万円」と言われると、悪徳医師が詐欺によって「不正」に手に入れた医療費が61億近くあるように思われますが、実際は単なる事務的なミスも含まれているわけです。こうした単純ミスを「不正」請求と呼ぶのは誤解を招きやすいので、「過誤」請求などと呼び方を帰るべきだとぽん太は思います。
 さて、事務点検が終わると、支払基金は診療内容の「審査」を行います。さまざまな法律や規則等に照らし合わせて診療内容が適切かどうかを審査し、不適切な診療行為に対しては医療費を支払わないことを決定します(「査定」といいます)。ぽん太の経験では、この審査ではおおむねムチャクチャな査定はしないようで、事務のミスで処方せん料が2回分入っていたりしたのを見つけて指摘してくれたりして、いつもご迷惑をおかけしております、という感じです。
 審査が終わると、計数処理を行って、各医療機関に診療報酬を支払います。またレセプトをそれぞれの保険者(つまり健康保険組合)に送ります。
 さて、ここで問題の「再審査」です。
 各保険者(つまり健康保険組合)は、もう一度独自にレセプトをチェックし、さらに処方せんと照らし合わせたりして、診療内容に納得できない点があると、支払基金に「再審査」を請求します。支払基金は、再審査請求があると、レセプトに記載された診療内容が適切かどうかを再び審査します。この審査は、支払基金と契約した医者が行っているようです。そして診療内容が不適切と認められると、支払基金は医療機関に診療報酬の返還を請求します。この「再審査」による査定(診療報酬の返還請求)がかなりムチャクチャだということは、医療関係者のあいだでは常識となっています。

  さて、本題のぽん太の行った不正請求に戻りましょう。ぽん太はセロクエルという薬代1ヶ月分、20,440円を不正請求いたしました。
 今月初め、支払基金より通知が来ました。その内容は、平成18年2月(一年以上も前です!)に患者さんに処方したセロクエルという薬代1ヶ月分の20,440円を査定するというもので、結果としてぽん太は20,440円の不正請求を行ったことになりました。ぽん太のクリニックでは院外処方を行っておりますが、薬が査定された場合、ぽん太の発行した処方せんによって薬局に損害を与えたとされ、民法に従って、損害を与えたぽん太が薬代を全額負担することになるのです。ちなみに平成18年2月にこの患者さんの診察によってぽん太が得た診療報酬は5,170円ですから、差し引き15,270円の損失となります。この患者さんをそもそも診察しなければ、もちろん0円なのですが、診察したことによって15,270円の損失になったのです。さて、これは昨年の2月の分ですから、保険者がやろうと思えば、既に提出してある今年の2月分のレセプトまでの全11回分を査定することができ、ぽん太の約1年間のこの患者さんの治療の結果が、マイナス20万円ということになります。これではやる気がなくなってきます。
 で、なぜセロクエルが査定されたのか、ということになるのですが、支払基金に電話で問い合わせたところ、ぽん太の提出したレセプトに「糖尿病(副作用による)」という病名が入っていることが原因らしい、ということでした。原因「らしい」というのは変な言い方ですが、支払基金の職員は、「私は事務員なのでわかりませんが……」と何度も言いながら、「××という可能性もあると思いますが、あとは審査の先生のご判断なので……」という言い方を必ずすからです。セロクエルは糖尿病の患者さんには使ってはいけないことになっているので薬代を査定したというのが、支払い基金の言い分のようです。確かにセロクエルの添付文書には、【禁忌(次の患者には投与しないこと)】として「(5)糖尿病」があげられており、そのことはぽん太も知っています。ではぽん太がなぜ「糖尿病(副作用による)」という病名をレセプトに書いたかと言うと、平成18年1月にこの患者さんの糖尿病の副作用をチェックするために、血液検査で血糖値とHbA1cを測定したからです。狸医者の世界では、「検査はよく査定されるから気をつけろ」と言われており、「糖尿病疑い」などの「疑い病名」で検査をすると査定されやすいので「疑い病名」は使うべきではない、というのが常識になっています。実際、「糖尿病疑い」でHbA1c検査を査定されたという噂も聞いたことがあります。そこで「糖尿病」という病名をつけたのですが、それに「(副作用による)」をつけた理由は、「自立支援医療費(精神通院)」の制度と関わってきます。自立支援医療費(精神通院)は、精神障害で通院している患者さんの医療費を助成する制度ですが、助成を受けられる疾患は、精神障害、精神障害に起因する疾患、精神障害の治療薬による副作用、に限られています。ですから、助成を使って患者さんの医療費の負担を減らすために、「(副作用による)」という文言を入れたわけです。
 で、検査の結果、糖尿病ではありませんでしたので、ぽん太が実際に行った医療行為にはまったく問題がなかったことになります。そこでこの病名を消しておけばよかったのですが、「どうせしばらくしたらまた検査するし、そのとき病名を入れ忘れて検査を査定されるといやだから、このまま入れっぱなしにしておこう」と考えたのがぽん太の誤りでした。
 しかし、「禁忌」にもいろいろと問題があり、例えばマイナートランキライザーや抗うつ剤の多くは「緑内障」が禁忌となっていますが、実際に危険なのは緑内障のうちのひとつである閉塞偶角緑内障だけであり、開放偶角の場合は問題はなく、禁忌であっても薬を使用することがあります。そこで添付文書上で「禁忌」というだけで、薬代を査定するのはおかしいのではないかと支払い基金の事務員に尋ねたところ、「禁忌」のレベルにもいろいろあり、セロクエルと糖尿病の組み合わせは、厳しくチェックをすることになった、とのことでした。「厳しくチェックすることになった」のだったら、まずそれを医療機関に通知してくれればいいのであって、勝手にルールを変えておきながらそれを通知せず、いきなり1年以上も前に遡って査定してくるというのはいかがなもんでしょう?
 レセプトの審査というものは、架空請求等の悪意ある詐欺行為はいうまでもありませんが、不適切な医療をチェックして減らすことが目的だと思います。適切な医療をまじめに行っているのに査定をするというのは、本来の目的から外れています。支払基金で再審査をするときに、医療機関にひとこと問い合わせをすれば、こうした無意味な査定はなくなると思うのですが、このような簡単なことも行われていないのが実情です。
 支払基金の事務員さんについついグチを言っていたら、「うちは決められた通りにやってるだけなので、こちらに言われても……」と言うので、「それでは、支払い基金のなかに医療機関からの苦情を上にあげる制度はないのですか」と聞くと「ない」とのことでした。現場と接して問題点を一番良く知っているはずの窓口が、ただ制度に従って事務処理を行うだけで、制度の問題点を直してゆこうという仕組みも意識もないというのは悲しいことです。
 で、さらにぽん太は、「それでは正しい社会保険診療に則った診療と請求をしたいので、セロクエルを使っている患者さんの糖尿病の副作用のチェックはどのようにやって、どのようにレセプトに書けばいいのか教えて下さい。HbA1cは測るなということですか?」と聞いてみました。すると、「特に基準はなく、どういう検査をすべきか、どのようにレセプトに記載すればいいのかは決まっていない。個々の場合で審査員が判断することになる」との返答でした。
 つまり、保険診療の適・不適を審査している機関に、その判定基準がないのだそうです。審査員によってばらつきがある個人的な判断(ある程度の基準はあるのでしょうが)の寄せ集めで、保険診療の適・不適がファジーに判断されているわけです。すると医者としては、仲間と連絡を取り合いながら、1年前のレセプトの査定の情報を交換して、「これは通りそうだ」とか「これはだめっぽい」とか蓋然的に判断するしかないわけです。これが現在の保険審査の現実です。
 昨今、電子レセプト化による診療情報の集約とか、保険者機能の強化とか言われていますが、このように不合理な保険審査がまかり通っている現状では、不安が先立ちます。レセプトの情報が電子化されれば、保険者が、「セロクエル」と「糖尿病」でレセプトに検索をかけ、引っかかったレセプトを全部再審査請求することが簡単にできます。さらにあらゆる禁忌の組み合わせのリストを作成し、それで検索をかけることだってできるのです。その結果、実際は社会保険診療としてふさわしい医療をしているのに、書類に難癖をつけて医療費を削られることになってはたまりません。とはいえ、あらゆる診療行為の基準を作るというのも無理ですし、まあ、裁判のように、再審査の段階で医療機関の意見も聞くというあたりが落としどころのような気がするのですが。

 などとプリプリしていたら、次のようなニュースがありました。「肝移植後に「保険不適用」 患者に高額請求続出 04年以降18人手術断念も」(読売新聞、2007/03/07)。肝臓がんで生体肝移植を受けた後、健康保険が使えないと判断され、ひとりあたり数百万から千数百万円の医療費が査定されたケースが相次いでいるそうです。
 す、す、数百万から千数百万……。なるほど、ぽん太の数万円の査定なんかたいした額じゃないから、相手にしてられないってことね。

2007/03/12

雪を頂く東北の百名山を空撮!

 今年の2月、ぽん太とにゃん子は、北海道の千歳から羽田まで飛行機に乗りました。とても天気の良い日で、窓から雪をかぶった東北の山々がそれはそれは美しく見えました。写真を撮ってきたので、皆様にもお見せしましょう。

岩木山 まずは岩木山です。青森県の名峰です。ぽん太の登山報告は、以前の記事【登山】強風の岩木山はリフトが動かず(2006/10/11)に書きました。
岩手山 岩手山です。ぽん太の暴風雨のなかでの登山報告は、【登山】暴風雨の岩手山で修行する(2006/09/28)をご覧下さい。
鳥海山 鳥海山です。ぽん太が登ったのは2000年で、まだブログを始めていませんでした。このときも暴風雨で大変でした。なんか、お菓子の「ひよこ」に似てますね。
月山 月山ですね。暖冬とはいえ、さすがに雪が深いです。ぽん太は1995年と2003年に登りました。
朝日岳 朝日岳です。ぽん太はまだ登っておりません。今年か来年にチャレンジしたいと思っています。
飯豊山 飯豊山です。9月下旬、山小屋も無人となり、人気のなくなった飯豊の秋は美しくも寂しかったです。報告はこちらです。秋を迎えた飯豊山は静かでした(2005/09/27)
磐梯山 磐梯山ですね。写真の左に猪苗代湖がちょっぴり写っています。磐梯山も2回ほど登ったことがあります。
 どうです、見事でしょう。え?こんな画像はGoogle Earthで簡単に見れるって。そ、そりゃ、そうなんですけどね。
磐梯山 ちなみにこちらが、上の磐梯山の空撮写真とほぼ同じアングルの、Google Earthによる画像です。ほとんど同じですね。
 でもほら、実際に見るのと違うでしょ。ちなみにGoogle Earthはこちらからダウンロードできます。

2007/03/11

【旅行】福井県の熊川宿は素朴で暖かい

熊川宿 さて、ぽん太とにゃん子は、冬眠前の2月上旬、熊川宿に行ってきました。熊川宿は、琵琶湖の西側、福井県の若狭町にある宿場町です(地図はこちら)。熊川宿に関する参考リンクとしては、こちらの若狭町のページや、こちらの「さんさく鯖街道in WAKASA」があります。
きく家 熊川宿は、京都と日本海に面する小浜とを結ぶ若狭街道の宿場町です。若狭街道は別名鯖街道と呼ばれ、日本海の海産物を京都に運ぶための重要な道でした。秀吉の時代、1589年に、浅野長政によって宿場町として整備されたそうです。
焼き鯖寿し 宿場町というと、ぽん太は木曽の奈良井や馬籠によく行きますが、熊川宿はそれらほど整備されてはいないものの、観光化も進んでいないので、静かで素朴な雰囲気が味わえます。
まる志ん 熊川の宿はグルメも充実しております。まず老舗の「きく家」で名物の「鯖寿し」をいただきます。普通の鯖寿しと、焼き鯖寿しがあります。ぽん太の知っている鯖寿司は、酢で硬くしまったものですが、きく家の鯖寿しは身が柔らかく、鯖の旨味が口に広がります。ご主人との世間話も楽しかったです。
くずもち 続いて「まる志ん」の「くずもち」をデザートにいただきました。注文してからくずを作るので、暖かい状態で出てきます。くずのぷるるんとした感触が美味しゅうございました。

2007/03/10

【福祉】生活保護の母子加算廃止と赤ちゃんポスト設置は、過去の歴史に逆行

 みなさん、お久しぶりです。
 しばらく冬眠していたぽん太ですが、暖かいと思って起きてみたら、まだ3月上旬ですか。ことしの暖かさは異常ですね。

 で、冬眠から目覚めたばかりの寝ぼけ眼に、次のような記事が飛び込んできました。
 『母子加算』段階的廃止の代償、月1万円の就労促進費(読売新聞、2007年3月5日)。
 母子加算とは、15歳以下の子供を育てている生活保護世帯に対して、地域によって異なりますが月額2万数千円を加算する制度です。政府はこの母子加算を段階的に引き下げ、2009年度には全廃する方針なのだそうです。
 理由のひとつとして、生活保護を受けずに働いて暮らしているひとり親世帯よりも、生活保護世帯の収入の方が多いことがあげられています。「公平を期するときは悪い方に合わせる」というのが政府の常套手段ですが、今回もその通りとなりました。
 ぽん太が以前の記事「【医療】「赤ちゃんポスト」は既に18世紀に存在した」(2006/11/11)で書いたように、18世紀にフランスで赤ちゃんポストが設置されましたが、その後捨て子が激増したため、捨て子を療育院で育てるという方針を改め、在宅のまま母親を補助するという制度が19世紀に出来上がったのです。昨今の日本における赤ちゃんポストを設置し、母子加算を廃止するという措置は、この歴史的な流れに逆行しております。果たしてどのような結果になるのか、目を凝らして見て行かなければなりません。

 ぽん太は毎日の診療を通して、現行の生活保護制度は働く意欲を奪う制度だと感じています。生活保護は、収入が最低生活費に満たない場合、その差額を補助するというものです。ということは、働いてお金を稼いでも保護費が減らされるだけで、最低生活費を超えた収入を得て、初めて自分の生活費が増えることになるのです。例えば一人暮らしの障害者は、正確な額は分かりませんが、家賃込みで月13万円くらいの保護を受けているとします。この障害者が作業所で働いて月2万円の収入を得たとしても、保護費が2万円減らされるというのが現行の制度です。月に13万稼いでも収入は増えず、それ以上稼ぐとやっと収入が増えるのです。しかし多くの障害者は、13万以上稼ぐのは困難です。ですから、どうせ頑張って働いても保護費を減らされるだけだし、ほどほどに働いてのんびり暮らせばいいや、ということになるわけです。働けば多少でも収入が増えるようにできないものでしょうか。(2007/03/16修正。「生保ワーカー」さんにコメントいただいて調べたところ、収入の全額分の保護費を減らされるのではなく、就労意欲を高めるため、収入の一部が手元に残るように基準が決められているそうです。訂正してお詫び申し上げます)。

 一人親世帯に話しを戻すと、冒頭の記事によれば、政府は、働いて月収3万円以上の収入を得ている働く一人親世帯に月1万、職業訓練中の世帯に月5000円の就労促進費を支給する制度を2007年度に創設するのだそうです。生活保護から抜け出すための就労を促す狙いだそうですが、そもそもこれまでの保護費よりも減額になっているのですから、働いても収入は減るけど、働かないともっと減るよと脅しているようなもので、タヌキを巣穴から煙でいぶり出すのと同じです。
 格差社会はまだまだ進んで行くようです。

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

無料ブログはココログ
フォト
2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31