ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』は興味深い
書店をウロウロしていたら、ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(岩淵達治訳、岩波文庫、2006年)が目にとまりました。たしか『ヴォイツェク』といえば、アルバン・ベルクのオペラの原作だったはず……という程度の知識と興味で期待しないで買ってみたのですが、あまりのおもしろさにびっくり仰天いたしました。
というのも、『ヴォイツェク』も『レンツ』も狂人が主人公であり、特に『レンツ』では、狂気に陥ったひとの内的体験が、とてもリアルに生き生きと描かれていたからです。すっかり温泉・旅行のブログと化していますが、ぽん太がいやしくも精神科医の端くれであることを皆さんお忘れなく!
精神病の体験を描いた文学はいろいろありますが、精神科医の目から見ると「?」というものが多いなか、『レンツ』はいい線行ってます。牧師館を尋ねたレンツが夜になって、混乱して泉に飛び込む下りを引用してみましょう。
真の闇がすべてを呑み込んだ。名状しがたい不安が彼を襲った、彼は跳び起き、部屋を走り抜け、階段を駆け下りて建物の外に出た、しかし無駄だった、一切が闇であり無であり、自分自身さえも夢なのだった。ばらばらの思いが頭のなかを掠め過ぎていった、それに次々にしがみついた。絶え間なく「主の祈り」を唱えなくてはいられないような気持ちだった。もう自分自身が見つけられなかった。自分を救おうとするおぼろげな本能に駆り立てられて、彼はそこここで石くれや石の壁にぶつかり、爪でわが身を掻きむしった。その痛みで意識が戻ってきた。彼は泉に飛び込んだが、あまり深くなかったので、そのなかでばしゃばしゃと暴れた。人々がやってきた、物音を聞きつけたのだ、大声で彼に呼びかけていた、オーベルリーンも駆けつけてきた(前掲書、12ページ)。
ね、なかなかいいでしょう?この小説が雑誌に出版されたのは、ビューヒナーの死の2年後の1839年です。同じ頃の日本だと、1841年に老中水野忠邦の天保の改革がありますが、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の刊行が始まったのが1814年、鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の初演が1825年といったところです。この時代にこのような文章が書かれたとはびっくりです。
で、ビューヒナーという人はどういう人なんだろう、ということになりますが、例えばこちらのウィキペディアの項目をご参照下さい。1813年にドイツで生まれ、1837年、わずか23歳4ヶ月でこの世を去ったそうです。その間に残した戯曲や小説はけっして多くはありませんが、どれも先駆的なものばかりで、日本でこそあまり知られていませんが、ドイツではゲーテやシラーと肩をならべる高い評価をされているそうです。1831年に18歳で、フランス領のストラスブール大学「医学部」に入学しております。ここで精神医学の知識を得たのでしょうか。また、文庫の巻末の年譜を見ると、1833年末に脳炎にかかって静養をしたと書いてあります。ひょっとしたらビューヒナー自身が、脳炎の最中に病的体験をしている可能性もあるかもしれません。
主人公のレンツも、実在のモデルがいるそうです。文庫の訳注と解説によると、ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ(1751〜1792)は、一時はゲーテとともにシュトルム・ウント・ドラングの代表者といわれた作家だそうです。ところが1776年、狂気の発作に襲われます。「精神分裂病の発作」あるいは「精神分裂症的な狂気の発作」などと書かれていますが、レンツが医学的に本当に統合失調症だったのかどうかは、とりあえず保留しておく必要があるでしょう。牧師ヨーハン・フリードリヒ・オーベルリーンがこうした患者の治療の心得があるということで、レンツは彼のもとに送られることになります。1778年1月20日、牧師を訪ねてひとり山を越えるところから、この小説は始まります。しかしオーベルリーンのもとでも病状は安定せず、エメンディンゲンのシュロッサー家にレンツは引き取られることになります。この途中、ストラスブールに到着したところで、小説は終わっています。シュロッサー家では、訪ねて来た友人の作家クリンガーが、レンツをベッドに縛り付けて、冷たい池に10分間漬けるとよいと言ったところ、この治療法が効を奏してレンツは眠れるようになったそうです。しかしその後、病状が悪化し、シュロッサーも「いっそ死んでくれればよい」とか「精神病院に入れる」とかまで考えたそうです。病状には波があったようで、やがてロシアに渡りましたが、1792年6月4日にロシアの路上でのたれ死んだそうです。
これまで知らなかったのかと怒られそうですが、ぽん太はしばらくビュヒナーやレンツの周辺をみちくさしてみたいと思います。
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