ゲーテの『詩と信実』におけるレンツの言われよう
岩波文庫のビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』(2006年)の巻末の、訳者・岩淵達治の解説のなかに、ゲーテが『詩と真実』でレンツに言及していると書いてあったので、みちくさしてみることにしました。第三部のなかで、ゲーテは3回レンツに言及しているようです。参照したテクストは『ゲーテ全集〈10〉自伝ー詩と真実第3部・第4部』(河原忠彦他訳、潮出版社、1980)です。
最初は第11章で、邦訳の50〜51ページ、ゲーテがシュトラースブルクに滞在中に、仲間たちとともにシェイクスピアに熱中したことが書かれているくだりです。レンツもその仲間のひとりだったようです。ゲーテがシュトラースブルクに向かったのは1770年、21歳のときで、滞在期間は1年弱でした。シュトラースブルク滞在の終わり頃に初めてレンツに会った、とゲーテは書いています。ちなみにゲーテが生まれたのは1749年、レンツが生まれたのは1751年ですから、レンツが2歳年下という関係です。レンツの外見については「小柄ではあるが容姿美しく、ひどく可愛い小さい頭、その顔の品のいい格好に優雅な多少おっとりした容貌がひどくぴったりだった」と悪しからず書かれていますが、ひととなりに関しては「彼の気質にたいしてはただ英語のwhimsical(風変わりの)という言葉が適切だと思う」と書いています。「レンツ以上にシェイクスピアの天才の奔放と奇矯を感得して、模倣できるも者はおそらくいなかった」のであり、彼のシェイクスピアの翻訳は、「……原作者を非常に自由に扱い、翻訳の態度としてけっして簡潔でも忠実でもなかったが、この先人の武具、ないし道化服さえも、巧みに着こなして、その身ぶりをユーモアたっぷりに再現してみせることができた」そうです。
次にレンツに言及しているのは第14章、邦訳の152〜155ページです。ゲーテが1774年に『若きウェルテルの悩み』を出版して大成功をおさめた直後の時期です。ここでゲーテは、レンツの「性格について話してみたい」といいますが、「曲折の多い彼の生涯をたどり、彼の特性を描写し伝達することなど、とても不可能」であるから、性格ではなく「性格から生まれた結果を話してみよう」といいます。ちなみに『詩と真実』のこの部分が執筆されたのは1813年だそうです。レンツは1776年に精神病の発作に襲われ、1792年にはロシアで死去しています。1813年の時点で、ゲーテはレンツの情報をどこまで知っていたのでしょうか。邦訳154ページの訳注には、「ゲーテが1813年にこの項を書いたとき、レンツに関する文献学的な資料はほとんどなかった」と書いてあります。
ゲーテは、道徳的要求は高いのに実際の行動がそれに見合わないために深い葛藤に苦しむというウェルテル的な風潮のなかに、レンツもいたと考えています。さらにレンツは「権謀術策を好むという性癖」を持っていて、しかも何らかの目的を達成するために権謀術策を用いるのではなく、陰謀をもくろむこと自体を楽しんでいたそうです。
恋人を残して祖国に戻らなければならなくなった友人のために、留守中に恋人を守ってあげようとしたレンツは、自分がこの女性に恋をしているふりをし、場合によっては恋をしようと決心しました。彼はこの女性を理想化し、その理想に固執し、考えを行動に移したのですが、実のところ彼自分が彼女の遊びと楽しみの具になっていることを、けっして認めようとしなかったそうです。この女性との複雑で入り組んだ関係を、レンツはゲーテにことこまかに伝えていたそうです。
また軍隊の知識を持っていたレンツは、次第に自分は軍事通だと思い込み、フランスの陸軍大臣宛に大規模な回想録を送りつけようとしました。その文章は、フランス軍の欠陥に関してはよく観察しているものの、改善策は滑稽で実現不可能なものばかりだったそうです。そこで友人たちが発送を止めさせたのですが、そのことをレンツは恨みがましく思ったそうです。
また、ゲーテが1773年に『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を出版するとすぐに、レンツはゲーテ宛てに『私たちの結婚について』という論稿を送ってきました。その内容は、題名の通り、「ゲーテとできるだけ密接な関係を持ちたい」というものでした。ゲーテはそれに応じて、レンツにさまざまな情報を知らせたり、出版の便宜を図ったりしました。しかし、「こともあろうにその彼が私を空想上の憎悪の主たる対象にしたてあげ、奇怪なきまぐれな迫害の目標に選んでいたとは、夢にも思わなかったのである」とゲーテは書いています。この迫害が実際どういうものだったのかは書かれていませんが、次のような訳注が付いています。
「レンツはゲーテがシュトラースブルクを去ったあとでゼーゼンハイムにおもむき、フリーデリーケに恋文をさしだした。彼は、ゲーテの作品の出版社であるライプツィヒのヴァイガントから戯曲を出版し、ゲーテの妹コルネーリアのいるエメンディンゲンと、彼の母親のいるフランクフルトを訪れた。1776年春、ヴァイマルにやってきて、シュタイン夫人を訪問した」(邦訳155ページの訳注)。
簡略な記述ですが、岩波文庫の『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』の注や解説から補ってみます。ゲーテはシュトラースブルクに滞在中フリーデリーケという女性と恋に落ちます。有名な『野ばら』が作られたのはこの頃です。結局ゲーテは彼女を振ったのですが、ゲーテがシュトラースブルクを立ち去ったあと、レンツが傷心のフリーデリーケを訪ねて恋文を渡したのです。
またゲーテの妹コルネーリアは、エメンディンゲンのシュロッサー家に嫁いでおりましたが、1776年11月にヴァイマールを追放されたレンツは、一時シュロッサー家に身を寄せました。彼女は1777年に産褥熱で亡くなりましたが、それを聞いたレンツは悲しみにくれてシュロッサー家を訪問したそうです。
ビュヒナーの『レンツ』で、レンツはオーベルリーン夫人に、「オーベルリーンの奥様、あの女性がどうしているか、僕に話してくださいませんか? 彼女の運命は、僕の心に鉄の重荷のようにのしかかっているのです」(邦訳34ページ)と問いかけ、これを聞いたオーベルリーン夫人は、その女性がフリーデリーケのことだと直ちに察したのだそうです。このフリーデリーケが、シュトラースブルク滞在中にゲーテが振ったフリデリーケであるという説と、ゲーテの妹のコルネーリアだという説があるそうです。というのもゲーテの妹の正式の名は、コルネーリア・フリーデリーケ・シュロッサーだったからです。ちょっと複雑ですね。さらに『レンツ』には、偶然にもフリーデリーケという名前の子供が死んだことを聞いたレンツが、妄想的な意味付けをしてしまい、混乱して自室に引きこもって食事をとらなくなったことが書かれています(邦訳37ページ)。
また、ゲーテはヴァイマール時代にシュタイン夫人と浅からぬ関係になりました。このシュタイン婦人はゲーテにとって大変重要な人物で、ゲーテが疾風怒濤から古典主義に移るきっかけになったともいわれています。レンツはヴァイマールにもやってきて、シュタイン夫人の邸宅に滞在したそうで、このことがゲーテをいたく傷つけたそうです。
さて、ゲーテが『詩と真実』で最後にレンツに触れているのは第15章です。彼は批評家ヴィーラントを批判した戯曲『神々・英雄たち・ヴィーラント』を即興で書き、仲間内で朗読して大喝采をえました。この戯曲を読んだレンツは出版を勧め、ゲーテもそれに従ったのですが、後にゲーテが知ったことには、これはレンツがゲーテの評判を落とし、傷つけようとしてやったことだったのだそうです。
以上、ゲーテが『詩と真実』のなかでレンツについて書いた部分をピックアップしてみました。これはあくまでもゲーテの言い分なので、客観的な事実かどうだったのかはわかりません。ゲーテによれば、精神病の発作以前のレンツは才能はあるものの、普通のひととは異なる奔放さや奇矯さを併せ持っていたようで、確かに統合失調症を思わせるところがあります。一時期ゲーテとレンツは、かなり親密だったような気がします。が、次第にゲーテはレンツを疎ましく思うようになってきて、妄想的な敵意をもってつきまとわれていると感じるようになったようです。統合失調症患者の病気による奇異でまとまらない行動に対して、本当は病的なものであって深い意味はないのに、一般のひとが勝手に深読みしすぎて、隠された意図を想定してしまうことがあります。ゲーテのレンツ理解もそうであったのかどうかは、これだけからはわかりません。
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