ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』を読んで興味を持ち、周辺をみちくさしているぽん太です。
以前の記事で、『レンツ』が精神障害者を主人公にしていることを書きましたが、『ヴォイツェク』の主人公も精神障害者です。そこでこんかいは、ビューヒナーと精神医学の関係をみちくさしてみましょう。
『ヴォイツェク』は1836年に執筆された戯曲ですが、翌年ビューヒナーがチフスで亡くなったため、未完に終わりました。そのため各部分の順序や書かれた時期がはっきりせず、編者や演出家によってさなざまな解釈を許す結果となっております。あらすじは、たとえばこちらのページにある、ベルク作曲の歌劇「ヴォツェック」のあらすじをご覧下さい。ヴォイツェクは幻覚や妄想がある精神障害者で、内縁の妻マリーを殺してしまいます。
邦訳の解説によると、『ヴォイツェク』にはモデルとなった事件があるそうで、ヨーハン・クリスティアーン・ヴォイツェクという鬘師(かつらし)が嫉妬からヴォーストという未亡人を刺殺したのですが、被告に精神異常の可能性が疑われたため精神鑑定が行われました。その結果、責任能力ありと認定されて、1842年8月27日にライプツィヒの市会議事堂前広場で公開斬首刑となったそうです。ヨーハン・クラールス教授による精神鑑定書をビューヒナーは読んでいたそうですが、彼自身は1837年に死去しておりますから、犯人の死刑執行は見届けなかったことになります(2009年3月6日付記:ヴォイツェクが処刑されたのは1824年8月27日の誤りで、従ってビューヒナーはヴォイツェクの処刑を見届けたことになります。「くんすけ」さんのコメントに基づき、お詫びして訂正させていただきます)。
また『ヴォイツェク』には、次のような医者のセリフがあります。
「医者 ヴォイツェク、お前は典型的な局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)だ、第二種症状が、じつに見事にあらわれている。ヴォイツェク、手当は割増しだ。第二種、固定観念が認められるが、全般的には理性は正常な状態、まだいつものように勤務しとるな、大尉の髭剃りは?」(前掲書、88ページ)。
ここにつかわれている固定観念という言葉は、現代の精神医学ではあまり使われない用語ですが、日常用語としてはよく聞きます。しかし、局部的精神錯乱(アベラチオ・メンタリス・パルチアリス)とか第二種症状といった用語は、不勉強のぽん太は知りません。翻訳の問題もあると思うので、本来ならドイツ語の原文にあたるべきでしょうが、ちとめんどくさいです。
実はビューヒナーは精神医学の知識を持っていました。というか、ぽん太よりよっぽど優秀な医者だったようです。彼は1831年、18歳のとき、当時フランス領だったストラスブール大学の医学部に入学しています。その後規定に従って1833年からドイツのヘッセン大公領のギーセン大学に在籍し、1835年に再びストラスブール大学に戻りました。1836年には『ニゴイの神経系に関する覚書』という論文でチューリヒ大学の哲学博士号を取得し、動物解剖学の講義を行っています。
ビューヒナーが医学を学び、『ヴォイツェク』を執筆した、19世紀前半の精神医学はどのような状況だったのでしょうか。今回はおおまかな流れをつかんでみましょう。
当時の精神医学史上の重要なメルクマールは、1793年に行われた、ピネル(1745〜1826)による精神障害者の鎖からの解放です。それまで精神障害者は、暴れたり何をするかわからないので、鎖で壁につながれていました。ピネルはフランスのビセートルという精神病院で、この鎖を取り外したのです。この功績によって彼は、近代精神医学の創始者とうたわれることになりました。もっとも鎖は取り外したものの、拘束衣を使ったり、サスマタで取り押さえたりはしていたようですが、薬もなかった時代だから仕方ないですかね。ピネルが1801年に著した『精神病に関する医学=哲学論』は、道徳療法を世に広めました。道徳療法というと、たまに「患者を人道的に扱うこと」と勘違いしているひとがいるのですが、そうではなくて、規律正しい秩序だった生活をさせ、対話や介入によって働きかけることによって、患者が自分の衝動性を自制できるようにしていくことです。
このような精神医療の改革は、フランスだけではなくヨーロッパ各地で同時に押し進められ、1840年代までに各地に改革的な精神病院が作られました。
ところが19世紀後半になると、精神病患者の爆発的増大という新たな事態が出現し、精神病院は再び治療の場から監禁・収容の場に逆戻りしていくのですが、そのあたりは今回のみちくさの範囲外です。
こうした流れとは別に、19世紀前半のドイツでは、「ロマン主義精神医学」と呼ばれる極端な思弁的・心理的精神医学があだ花を咲かせました。ハインロート(1773〜1843)やイーデラー(1795〜1860)が代表的な人物でした。ハインロートは1823年に『精神衛生の教科書』を出版しまたのですが、その内容は例えば、ひとは熱情に捕われると生活の秩序を失ってしまう、それを防ぐのは自由であり、神だけがわれわに自由を与えてくれる、などというシロモノだったそうです。「ロマン主義精神医学」は当時から批判されていましたが、ベルリン大学の精神医学の教授をしていたイーデラーが1960年に死去することによって、またたくまに消滅しました。
ドイツの精神医学を思弁から引き離して身体的な基盤の上に位置づけたのが、グリージンガー(1817〜1868)です。弱冠28歳にして著した教科書『精神病の病理と治療』(1845)は高い評価を得ました。彼の「精神病は脳病である」という言葉はたいへん有名です。
再びフランスに目を転ずると、ピネルは先に述べた『精神病に関する医学=哲学論』(1801)のなかで、精神病をマニー、メランコリー、痴呆、白痴に分類しています。ピネルの後を継いだのはエスキロール(1772〜1840)で、モノマニーという概念を発展させました。19世紀後半になるとモレル(1809〜1873)が悪名高い「変質論」を提唱しました。精神障害は遺伝性であり、代を重ねるごとに悪化し、最終的には絶滅するという考え方で、いまではまったく否定されていますが、当時は一般社会の中で広く信じられていました。
【参考文献】エドワード・ショーター『精神医学の歴史 隔離の時代から薬物治療の時代まで』、木村定訳、青土社、1999年
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