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2007年9月の13件の記事

2007/09/30

シェイクスピアの時代の狂気と魔術と医学

 以前にぽん太は、シェイクスピアの『十二夜』で狂気と悪魔憑きが扱われていることを述べました。だまされて馬鹿げた身なりと振る舞いをしたマルヴォーリオは狂ったと勘違いされて部屋に閉じ込められてしまいますが、そこに道化が牧師の振りをしてやってきて、悪魔を尋問したりします。こうしたやり取りが喜劇として笑い飛ばされています。
 シェイクスピアの活躍した時代、狂気と医学と悪魔との関係はどうなっていたんじゃろうか?という疑問から、酒井明夫の『魔術と狂気 (精神科医からのメッセージ)』(勉誠出版、2005年)と森島恒雄『魔女狩り 』(岩波新書、1970年)を買って読んでみました。
 酒井の本は、予言者にして医師でもあった古代ギリシアのメランプスの伝説、人が動物に変身する病気とりわけ王神に変身するリュカントロピア、ルネッサンス期を代表する魔術師アグリッパ、ヒポクラテスの神聖病、という4つのトピックスを扱っています。興味深いのは2番目のトピックスで、人間が狼に変身するというリュカントロピアは、夜になると青白い顔にうつろなまなざしで狼のような仕草をしながら墓場をうろつくというおぞましいものなのですが、4世紀頃からすでにメランコリーの一種の病気であるという記載があり、以後一貫して疾病として扱われ、近代精神医学の19世紀になっても疾病分類の一部に記載されていたそうです。とはいえ、一方ではリュカントロピアを悪魔に結びつけようとした人たちがいたのも事実で、こうしたリュカントロピア=悪魔論に対する例のレジナルド・スコットの反論が要約されています。
 しかし残念ながらこの本を読んでも、中世からルネッサンスにかけての人々が多くの精神障害者を魔女として処刑したなかで、なぜリュカントロピアだけを病気として扱ったのかはよくわかりませんでした。ぽん太が知りたいのはそこなのです。当時の人々の頭の中で、狂気と悪魔がどのように区分されていたかなのです。
 森島恒雄の『魔女狩り』は、魔女狩りの始まりから最盛期までの概説です。魔女狩りが終息していく過程は書かれていません。魔女狩りは異端審問から発生したそうです。異端審問とは、誤った信仰を持つ異端者を発見し改宗させることを任務とし、1233年のグレゴリウス9世の教書が、組織的な異端審問のはじまりとされています。この異端審問に徐々に魔女が現れるようになってきたのですが、1318年にヨハネス22世が魔女狩り解禁令とも言える教書を発表したのをきかっけに、魔女狩りは激化します。そこで起きたことはよく知られていますが、多くの無実の人々が、そのなかには精神障害者も混ざっていたと思われますが、拷問のすえに処刑されたのです。
 ここで腑に落ちないのは、シェイクスピアの時代はまさに魔女裁判の最盛期だったということです。ちなみにシェイクスピアは1564年に生まれ、1616年に死去。『十二夜』は1601-02年頃の執筆とされています。1603年にイングランド王となったジェームズ1世は、自ら魔女の尋問を行ったこともあるという「魔女狩り王」でした。時代は少し下ってイングランドのマシュー・ホプキンスは、さまざまな拷問によって自白を引き出すエキスパートとして有名で、「魔女狩り将軍」とあだ名されていたそうです。このような時代になぜシェイクスピアは、だまされて狂人と見なされた人に「黙れ悪魔憑き」などと言う「喜劇」を書けたのでしょうか? ブラッックジョークにしても恐ろしすぎるような気がします。
 ちなみに当時の医師たちは、魔女の身体的な証拠を探したり、拷問に立ち会って監視するなど、魔女狩りの手助けをしていたそうです。

 結局、魔女・魔術については少し詳しくなりましたが、シェークスピアの生きた時代の狂気と魔術と医学の関係については、あいかわらずわからないままです。

2007/09/28

【温泉】信州小渋温泉赤石荘(★★★★)と大鹿村名所(福徳寺・大磧神社舞台)

 光岳からへろへろになって下山したぽん太とにゃん子は、その日の宿、信州小渋温泉赤石荘に向かいました。こちらが宿の公式ホームページです。
 林道を下って152号線に戻り、北上して行きます。ところが152号線は地蔵峠のところが未通になっており、蛇洞林道を迂回する必要があります。蛇洞林道は舗装されており、ちょっと時間はかかるものの、美しい樹林のなかの気持ちのいい道です。
 152号線から別れて小渋温泉への道を走っていると、ちょ、ちょっと待った〜。道ばたにちょっと目を引く美しいお堂があります。

福徳寺/大鹿村 立て札を見ると、なんと国指定重要文化財とのこと。福徳寺本堂で、鎌倉時代のものだそうです。小さいながらもバランスのいい洗練された建物です。

信州小渋温泉赤石荘 いきなり思いがけないいいものを見た後で、いよいよ温泉へ。小渋川に沿った林のなかにあります。こじんまりした宿かと思っていたら、けっこう駐車場が広いのが意外でした。
露天風呂/信州小渋温泉赤石荘 この宿の売りはなんといっても天空露天風呂。すばらしい見晴らしで、遠くには中央アルプスの宝剣岳が望めます。お湯は無色透明で、お肌すべすべ系です。すぐ近くにある鹿塩温泉は塩分が強いお湯だったので、ここも似たような泉質かと思っていたら、まったく違うのでびっくりしました。泉温が低いため循環加熱していますが、加水はしていないそうです。すごく開放的な気分になれました。
信州小渋温泉赤石荘 建物は「普通」で、特に鄙びているわけでも洒落ているわけでもありませんが、居心地は悪くありません。
赤石岳/信州小渋温泉赤石荘 宿からは南アルプスの赤石岳が見えます。赤石荘という宿の名前の由来だそうです。夕日を受けてオレンジに染まっています。
モノレール/信州小渋温泉赤石荘 ところが部屋の窓から赤石岳を見ようとすると、変なものが邪魔をしています。モノレールのレールです。昔、食事を運んだりするために作ったものの、いまでは無用の長物となっているそうです。赤石岳の美しい姿よりも、モノレールが喜ばれる時代があったようです。中国の需要で鉄の値段が上がっている今が撤去のチャンスだと思います。
信州小渋温泉赤石荘 にゃんと、屋根から噴水が!! 暑さ対策で屋根に水を撒いているのだそうです。客室にはクーラーがありませんが、おかげで快適に寝ることができました。
夕食/信州小渋温泉赤石荘 夕食です。食堂でいただきます。地元の夏野菜を中心にしたおいしいお料理でした。なまずの刺身は初めて食べました。写真にさらにニジマス丸一匹の姿あげがつきます。舞茸ご飯もおいしかったです。受付のときに夕食の献立を見せてくれるのですが、せっかくなら夕食のテーブルにもコピーを置いていただけるとうれしいのですが。
朝食/信州小渋温泉赤石荘朝食もおいしかったです。
 駐車場が広かったり、モノレールがあったりと一時は拡大路線をとっていたようですが、現在では山奥の自然に囲まれた宿を目指しているものの、変革の途中の宿のようにぽん太は思いました。欠点もありますが、1泊8千円台という値段を考えると、なかなかよい宿ではないでしょうか。

大磧神社の歌舞伎舞台/大鹿村 ここ大鹿村は大鹿歌舞伎が有名なのだそうです。近頃歌舞伎にはまっているぽん太とにゃん子は、歌舞伎の舞台がある大磧神社を訪ねました。ここや檜枝岐歌舞伎など、地方でやっている歌舞伎を、一度生で見てみたいものです。

2007/09/26

【登山】光岳はなんか展望も花もない地味な百名山だな

光岳 ぽん太とにゃん子は、南アルプスの最南部にある光岳(てかりだけ)に登ってきました。全般に南アルプスはアルバイトがたいへんですが、光岳もご他聞に漏れず、登り約8時間、下り約5時間半。山小屋も前日で営業を終了し、寝袋持参の自炊で、下山後数日間筋肉痛に悩まされました。

光岳【山名】光岳(2591.1m)
【山域】南アルプス
【日程】2007年9月17日〜18日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(9/17)豪雨のち晴れ(9/18)晴れで強風
【コース】(9/17)易老度(7:08)…易老岳(12:43)…光岳(15:32)…光岩…光小屋(泊)
(9/18)光小屋(6:35)…易老度(13:10)
【マイカー登山情報】飯田I.C.から易老度までの道は、例えば光小屋の公式ホームページのなかのこちらの案内図や、こちらのページの下部の地図をご覧下さい。三遠南信道という立派なトンネルを通過して152号線に出ます。152号線を南下して、上村の集落を過ぎてちょっといくと、上島トンネルがありますが、その手前を右折してスノーシェッドみたいなのを通って道を渡り、東に登って行きます。途中からはダート。やや車高の低いぽん太の車でも、なんとか易老度の駐車場にたどり着くことができました。駐車スペースは約30台。
【参考リンク】
光岳 山と高原地図web:登山地図でお世話になっている昭文社のページ
県営光岳小屋:頂上近くの光小屋の公式ページですが、なぜか「光岳小屋」となっております。
【見た花】ミヤマモジズリ(初)、ミヤマウズラ(初)

 前夜は飯田のビジネスホテルに宿泊。当日の4時に起床し、寝ぼけ眼をこすりながら登山口を目指しました。
 7時頃に登山開始。南アルプス名物の樹林帯を登って行きます。しばし登ったところで、突然夕立のような豪雨が……。今回は新兵器「ポンチョ」を持参しました。新兵器と言っても、小学校の頃は雨具といえばポンチョだったように思います。最近はセパレートタイプの雨具が普通で、ぽん太ももちろん利用しておりますが、暑いところで雨具を着ると、雨具の中が汗でびっしょりになり、雨具の外より中の方がずぶぬれになったりします。またザックカバーも、一部を被っているだけですから、ザックはけっこう濡れてしまいます。ポンチョなら風が抜けるので涼しいだろうし、ザックごとかぶるのでザックも濡れないだろうと考え、購入してみたのです。実際に使った感想としては、たしかにセパレートタイプよりも涼しいようですし、ザックも濡れませんでした。しかし欠点もあります。ズボンの裾のあたりが濡れてしまうこと、急な登りでは足下が見えないこと、風に弱いことなどです。「ちょっと雨がぱらついてきたけど、雨具着ると暑そうだな」というぐらいのときにはポンチョはいいかもしれません。

光岳のゲジゲジ さて、途中からゲジゲジが大量発生しており、登山道を這い回っていました。かなり気持ち悪かったです。集団見合いかなんかの季節なのでしょうか?
 光小屋ももう少しというところでようやく雨も上がり、時おり日も射し始めました。静光平の水場で、自炊用も含めて水を汲みました。この水場が涸れている場合は、小屋からガレ場を下って別の水場まで水を汲みに行かなければなりません。
 光小屋に荷物を置いて、山頂に向かいました。残念ながら展望はなく、富士山も見えませんでした。
光岳の光石 光岳の名物、光石です。頂上を通り越して少し下ったところにあります。光石というから小さなものかと思っていたら、大きな岩でした。
 光小屋は新しくて、とても清潔で気持ちのいい小屋でした。営業は前日で終了していましたが、管理人さんは後始末のためまだ残っていました。宿泊したのは10人足らずで、広々と寝ることができました。
 夜中は風の音が強く、いったい天気はどうなっているのだろうと心配でした。翌朝は、確かに風は強かったものの、雨は降っていませんでした。時おり聖岳に続く稜線は見えたものの、富士山はついに見ることができませんでした。

ミヤマモジズリ/光岳 ミヤマモジズリです。登りはじめの低いところに咲いていました。ぽん太は初めて見ました。光岳はすっかり秋で、高山植物もほとんど枯れていましたが、初めての花が見れてよかったです。
ミヤマウズラ/光岳 ミヤマウズラです。これも初めてで、同じく標高の低いところに咲いていました。
南限のハイマツ/光岳 ハイマツです。え?知ってるって? でも、ただのハイマツではありません。光岳はハイマツの南限とされているそうです。

2007/09/23

【神社】鳥海山大物忌神社

鳥海山大物忌神社 ぽん太が先日登った山形県の鳥海山の山頂直下には、鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)がありました。例によって、この神社について調べてみました。こちらが神社の公式ホームページですが、かなり地味です。
 普通は山の上にあるのは「奥社」で、ふもとにあるのが「本社」なのですが、鳥海山大物忌神社の場合は、山頂にあるのが「本社」で、ふもとの吹浦と蕨岡の2カ所にある神社を「口の宮」と呼んでいるようです。
 江戸時代に2つの里宮が一宮の名称を巡って争ったために、幕府の裁定で山頂の祠を一宮に決めたという情報もあります(2)。

 御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)と豊受姫神(とようけひめのかみ)ですが(1)、倉稲魂命が大物忌大神と同一視されているようです(2)。

 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)は『日本書紀』では伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)と伊弉冉尊 (いざなみのみこと)の間に生まれた子供とされています(6)。
 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)は『古事記』の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と同一視されますが、この神は素戔鳴命(すさのおのみこと)と神大市比売命(かみおおいちひめのみこと)の間の子供とされています。乱暴者の素戔鳴命は高天原をおわれて出雲の国に降り立ちます。そこでヤマタノオロチを退治し、宮を造って居を構え、さまざまな神と結ばれて子供を生みますが、その一人が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です(5)。
 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)は五穀・食物を司る神とされ、赤い鳥居にキツネが目印の稲荷神社の御祭神となっている場合が多いです。
 
 次に豊受姫神(とようけひめのかみ)ですが、『古事記』には、伊弉冉尊 (いざなみのみこと)の尿から生まれた和久産巣日神(わくむすびのかみ)の娘として、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)が名前だけ紹介されています(5)。しかし、むしろこの神様は、豊受大御神(とようけのおおみかみ)という名で伊勢神宮の外宮の御祭神となっていることで有名です。ぽん太が見たかぎり、『日本書紀』には、豊受姫神(とようけひめのかみ)は出て来ないようです。Wikipediaの「トヨウケビメ」の項を見ると、「日本書紀では豊受媛神と表記される」と書いてありますが、ホントでしょうか? 「豊受媛神 日本書紀」でググってみると、同じ内容を主張するページがいっぱいひっかかりますが、まさかどれもWikipediaの丸写しなのでは……?

鳥海山御浜神社 なお、鳥海山の登山道の途中に御浜神社というのがありますが、これについてはぽん太はよくわかりません。鳥海湖のほとりにあるからでしょうか?

【参考リンク】
(1)鳥海山大物忌神社HomePage:公式ホームページです。
(2)鳥海山大物忌神社-Wikipedia:ご存知Wikipediaのページ
(3)玄松子神社参拝の記憶:日本全国の神社を訪ねる玄松子さんのホームページ。左のメニューの「山形」のなかに、「鳥海山大物忌神社」「鳥海山大物忌神社(蕨岡口之宮)」「鳥海山大物忌神社(吹浦口之宮)」があります。
【参考文献】
(4)川口謙二編著『日本の神様読み解き事典』、柏書房、1999年。
(5)『口語訳古事記 完全版』、三浦佑之訳、文藝春秋、2002年。
(6)『日本書紀 (講談社学術文庫)』、宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年。

2007/09/18

【苦情】NHKがケーブルテレビの団体一括払い制度を隠して受信料ぼったくり

 先日、義妹夫婦が新居に引っ越したので、お祝いに行ってきました。歓談をするうちに、「さっそくNHKが受信料を取りに来た」という話しになったのですが、義妹の新居はケーブルテレビを引いているはずなので、「団体一括割引」を使ったか聞いてみると、「なにそれ?」という返事でした。多くのケーブルテレビ会社では、NHK受信料の団体一括払いというサービスがあり、それを使うと通常よりも受信料が安くなるはず。ぽん太も以前からそれを利用し、年間2,000円ほど安くすんでいます。
 義妹の契約書を見てみると、通常の契約で、しかも1年払いになっていました。契約に来た人に「ケーブルテレビですか?」と聞かれて「そうです」と答えたら、「ではこれですね」とすすめられたものを信じて、言われるがままに契約を結んだそうです。
 頭に来てNHKに電話をしてみました。すると返事は、「ケーブルテレビの団体一括払いは、ケーブルテレビ会社によってあるところとないところがあるので、訪問契約のさいはご案内していません」とのことでした。
 「ケーブルテレビですか」と聞いて「そうです」と答えたときに、「それでは、団体一括払いの制度があるかもしれませんから、問い合わせてみるといいですよ」と言うことがなぜできないのでしょうか? 
 さらにお客様第一で考えるのだったら、その地域に引かれているケーブルテレビ会社を調べておいて、団体一括払いができるかどうかの情報を仕入れておき、案内するべきではないでしょうか。
 受信料を安くできる方法があることを訪問員が知っていながら(知らないはずはないですよね)、それを教えずに高い契約を結ばせるというのは、ほとんどぼったくり、詐欺に近いのではないかとぽん太は思うのです。
 NHKは、受信料不払いが多くて困っているはずなのに、受信料をちゃんと払おうという人をだまして、必要以上の受信料をぼったくるとは、いったいどういうつもりなのでしょうか? ぽん太には信じられません。よっぽど、今後は受信料を不払いしようかと思いました。
 今回の教訓は、NHKの言うことを信じてはならないということでした。NHKは、まだまだお役所体質が抜けていないようです。

2007/09/16

【雑学】山形県戸沢村は国保発祥の地?

 先日、山形県を旅行してきたぽん太ですが、最上川沿いの国道47号線を走っていたら、「国保発祥の地」という看板が目に入りました。場所は戸沢村(Yahoo!地図)です。なんじゃそりゃ、ということでさっそくググって見ました。
 戸沢村のホームページのなかに国保発祥地の歴史というページがありますが、なんか文章が途中から始まっているようで、この前の部分があるような気がします。が、ようするに、現在は戸沢村となった角川村で、村民の医療を充実させるために昭和11年に角川村保健組合を結成し、村立診療所なども作った。昭和13年に7月に国が国民健康保険法を施行したとき、角川村保健組合が「角川村国民健康保険組合」として全国第1号の設立許可を受けたのだそうです。
 なるほど、現在は医者にかかるときは健康保険を使い、その結果、診察料も全国一律で、ぽん太もそれが当たり前のように思っていました。しかし江戸時代などは医者は勝手に診察料を決めていたわけだし、健康保険制度の歴史もそのうちみちくさしてみる必要があるな。でも、今は止めておきます。
 それより気になったのは、ググってみると、埼玉県の越谷市も国保発祥の地なんだそうで、越谷市のホームページのなかの年表の1968年12月のところに、「国民健康保険施行30周年(越谷は国保発祥の地)」と書いてあります。また市指定文化財の「越ヶ谷順正会関連資料」の解説のなかに、「越ヶ谷順正会国民健康保険組合」が発足したいきさつが書かれています。
 むむむ、どっちが本当の「国保発祥の地」なんだ。大人の世界はよくわからん。

2007/09/14

【登山】やっと鳥海山の形がわかりました(付:十六羅漢岩)

鳥海山 ぽん太とにゃん子は、すでに2000年に鳥海山に登っているのですが、あいにくの暴風で、稜線で飛ばされそうになったり、ガスで道に迷ったりと散々な目にあい、鳥海山がどういう形の山なのか全くわかりませんでした。今回はその雪辱戦ですが、天気は雲ひとつない快晴。すばらしい山歩きを楽しめそうです。
 前回は御室小屋で一泊しました。ここは食事のおかずが質素なので有名ですが、今はどうなのでしょう。今回は日帰り登山です。南側の滝ノ小屋から登るのが一番時間がかからないのですが、このコースは前回利用したのと、アイゼンを持ってきておらず雪渓の状況もわからなかいのとで、西側の鉾立から登るコースを選びました。

鳥海山【山名】鳥海山(2236m)
【山域】東北
【日程】2007年8月29日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】快晴
【コース】鉾立(5:59)…御浜小屋…行者岳…鳥海山山頂(新山)(10:43)…鉾立(14:21)
【マイカー登山情報】鳥海ブルーラインの鉾立に広大な駐車場がある。
【参考リンク】
鳥海山大物忌神社HomePage:宿泊の予約はこちら
鳥海山 山と高原地図web:登山地図の昭文社のページ。
鳥海山登山ガイド:鳥海国定公園観光開発協議会のページ
観光情報/鳥海山:秋田県にかほ市のページ
【見た花】チョウカイフスマ、ヤハズヒゴタイ?、イワブクロ、ハクサンフウロ、ワレモコウ、オヤマリンドウ、ハクサンシャジン、イワギキョウ、ヨツバシオガマ、ミヤマリンドウ、イワショウブ

 朝の4時に起きて酒田のホテルを出発。ところがガ、ガソリンがない! 以前に平ケ岳に登ったときガス欠でえらい目にあったぽん太とにゃん子ですが、またしても同じ過ちを繰り返しました。カーナビで調べて何軒かガソリンスタンドに行ってみますが、早朝にやっているところなどなかなかありません。駅のソバならあるかもと、とりあえず酒田駅に行ってみるが見当たらず。にゃん子が駅の交番に行ってみるが無人。客待ちをしていたタクシーの運転手さんに聞いてみたところ、方言が聞き取れず難航したものの、ようやく24時間営業のガソリンスタンドを教えてもらうことができました。ありがとう!運転手さん。
 時間のロスはありましたが、登山口を目指します。薄明のなかの鳥海山が見事でした。今日山頂に泊まっていた人たちは、すばらしい御来光と影鳥海をみることができたでしょう。
 6時に登山開始。虫が多い。刺されてから気がついて虫除けスプレーを使う。後手後手である。

鳥海山 振り返ると日本海の海岸線が見えました。街は象潟のあたりでしょうか。賽ノ河原で朝食をとりました。
鳥海山御浜神社 御浜小屋には神社がありました。しかしこの道は、完璧に整備されているのがすごい! 御浜小屋あたりまでは完璧に石畳あるいは階段となっており、その先もあちこちが階段状に整備されています。
チョウカイフスマ 鳥海山の花といえば、その名を戴いたチョウカイフスマですね。あちこちに咲いていたアザミも、後で調べたらチョウカイアザミという固有種だったらしいのですが、アザミは種類が多くてどうせ同定できないと思い、写真を一枚も撮らなかったのが残念です。
鳥海山大物忌神社 七五三掛からは外輪山を登りました。七高山から新山に抜ける道が通れるかどうか事前の情報を得ていなかったので、行者岳のところで稜線から離れて御室の山小屋に向かいました(結局通れたみたいですけど)。ここには鳥海山大物忌神社があります。岩場をひと登りで山頂へ。いい気分です。地図上では外輪山の七高山の方が6メートル低いことになっていますが、どうも向こうの方が高く見えて、腑に落ちない気分でした。
 下りは谷コース。雪渓が残っていたら滑り降りて時間を短縮するつもりでしたが、もうほとんど残っていませんでした。

十六羅漢岩 帰りに遊佐町の十六羅漢岩を観光。海岸の岩に掘られた磨崖仏で、明治元年に完成したそうです。素朴な感じの仏様でした。

【温泉】山形県の肘折温泉丸屋旅館はレトロモダンな大人の隠れ家(★★★★)(付:最上川と芭蕉)

肘折温泉丸屋旅館 快晴の鳥海山登山を満喫したぽん太とにゃん子は、その夜の宿泊地、肘折温泉の丸屋旅館に向かいました。酒田から西に向かい、国道47号線で最上川を遡ります。
 途中、清川というところがあり、なんでも幕末の志士清河八郎 が生まれたところだそうで、清河八郎記念館というものもあります。清川八郎と言えば、大河ドラマの『新撰組』で聞き覚えがあり、後に新撰組となる連中を京都に連れて行ったひとだった気がします。ちょっと興味がわきましたが、今回はみちくさ省略。
 さらに最上川を遡って行くと、最上川下りの乗船所がいくつか目に入ってきます。しかし川下りといっても、天竜川や長瀞の川下りのような急流ではなく、眼前の最上川は川幅が広く悠々と流れています。松尾芭蕉が当初は「五月雨をあつめて涼し最上川」と読んだ句を、あとで「五月雨をあつめて早し最上川」に改作したという話しを思い出し、「実際は急流ではなく、芭蕉のフィクションか」という疑いを抱き、帰ってから調べてみました。松尾芭蕉に関しては、こちらの芭蕉庵ドットコムというホームページが詳しく、そのなかのこちらこちらが参考になります。それによるとこの句は、元禄2年(1689年)5月29日(新暦7月15日)尾花沢近くの大石田にある高野一栄宅に泊まった際に、「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」というかたちで読まれたそうです。このとき芭蕉はまだ川下りをしておらず、最上川に面した高野一栄宅で涼風に陸路の疲れを癒しながら、この句を作ったのだそうです。6月1日(新暦7月17日)に大石田を発った芭蕉はさらに陸路をたどり、6月3日(新暦7月19日)、本合海(Yahoo!地図)から先の清川まで舟で最上川を下ります。この時は梅雨の影響で実際に急流だったらしく、芭蕉は「水みなぎって舟あやうし」と書いています。この体験からのちに芭蕉は、「五月雨をあつめて早し最上川」と改作するのですが、その時期はよくわかりません。なお芭蕉は、「ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有」と書いていますが、この難所はもっと上流で、芭蕉は実際には下っていません。

 さて肘折温泉に行くには、芭蕉が乗船したという本合海から国道458号線を南下します。こちらが肘折温泉郷のホームページ、そしてこちらが丸山旅館のホームページです。
肘折温泉丸屋旅館 肘折温泉郷は、川沿いの谷間に20〜30軒の宿が建ち並んでいるのですが、やや古びたコンクリート造りの大型ホテルも多く、残念ながら「かつては観光バスでにぎわった」という雰囲気の温泉街です。しかしそのなかにも、ぽつりぽつりと古い木造建築の宿が残っています。丸屋旅館はそんな趣きのある宿のひとつですが、今年(2007年)の5月にリニューアルオープンしたばかりだそうで、内部はレトロモダンな雰囲気になっていました。古い旅館好きのぽん太には、前のままでもよかったのですが、旅館が集客力を維持するためには仕方がないのかもしれません。
肘折温泉丸屋旅館 宿の外観や玄関などは、このように昔ながらの雰囲気が保存されています。
肘折温泉丸屋旅館 一方客室は、昔の梁や家具を生かしながらも、洗練されたレトロモダンの雰囲気に改装されています。
肘折温泉丸屋旅館 お風呂は「金山杉の湯」、露天風呂つきの「檜葉(ひば)の湯」、貸切風呂の「幸鶴の湯」があります。写真は「金山杉の湯」ですが、最もレトロな雰囲気です。源泉は2種類あるようで、薄い褐色で甘塩っぱいです。湯口や床は鉄錆色になっていますが、鉄分はそんなに強くなく、非解離成分が析出しているのかもしれません。泉質はナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉。泉温が70度以上なので加水をしていますが源泉かけ流しです。
肘折温泉丸屋旅館 別室でいただく夕食は、地元の山菜や夏野菜に、鮎の塩焼きや米沢牛の鉄板焼き、天ぷらなどもついて大満足でした。
肘折温泉丸屋旅館 朝食もヘルシーながらも品数が多く、とくに朝取りのトマトはみずみずしくてジューシーで最高でした。
 従業員の応対も親切で、とっても気持ちよく宿泊できました。レトロモダンの大人の隠れ家として最高の宿だと思いますが、ぽん太個人の好みとしては鄙び度がたりないので4点となります。改装前にも泊まってみたかったです(2007年8月宿泊)。

2007/09/12

【地魚と地酒】酒田の寿司しばらく(★★★★)(付:皆既月食)

 山形県の酒田のビジネスホテルに泊まったぽん太とにゃん子は、いつものように、地元の酒と肴を求めて酒田の街に繰り出しました。ホテルのフロントでもらった地図を手がかりに、今宵の店を物色してまわります。

寿司しばらく@酒田 「寿司しばらく」に決定。公式ホームページはこちらです。手作りのホームページで若干見づらいので、こちらもご参照下さい。スーパーの建物の一階に店があり、外観も、買い物客が手軽にランチセットを食べる寿司屋のような雰囲気ですが、なかなかどうしてディープです。地魚と地酒にこだわったお店です。
寿司しばらく@酒田 お酒は酒田の地酒です。種類も豊富で、東京では聞いたことのない銘柄も多く、品評会の出品酒そのものを飲むことができるのも驚きです。値段もお手頃。店長のお勧めのお酒を味わいましたが、どれもおいしかったです。
寿司しばらく@酒田 地魚も地元の庄内浜でとれたものだけというこだわりで、白身魚が中心。旨味が強く、山形の香りが高いお酒とよく合います。気さくな店主と楽しいおしゃべりをしながら、酒田の夜を堪能することができました。

寿司しばらく@酒田 いい気分で店を出て空を見上げると、つ、月が……。そういえば今日は皆既月食でした。ちょっと神秘的な気持ちになりました。

2007/09/10

【山形観光】大井沢の大栗、山寺、そば吉里吉里、出羽桜酒造、山居倉庫

 古寺鉱泉で登山の疲れを癒したぽん太とにゃん子は、翌日は筋肉痛に悩まされながら、山形の観光を楽しみました。

大井沢の大栗 まずは大井沢の大栗です。古寺鉱泉から月山ICに向かう途中、大井沢という集落があります。ここには大井沢温泉 湯ったり館という日帰り温泉があります。ぽん太は入浴しませんでしたが、近くにある水沢温泉館は以前に入浴したときカルキ臭かったのですが、大井沢温泉のほうは泉質がいいと聞いた記憶があります。
 で、大栗の場所ですが、ちょっとわかりにくいのですが、Yahoo!地図のこのあたり、大井沢の郵便局と小学校のあいだのあたりの角に案内板が出ていて、それに従って細い林道を走って行くと、駐車スペースがあります。そこから3分ほど歩いたところに大栗があります。なかなか立派です。
 この大栗は西川町指定の天然記念物になっております。そのページの情報によると、「全国巨樹・巨木の会」理事、「巨樹の会」主宰の平岡忠夫を団長とする調査が平成8年に行われ、「根回り日本一位のクリ」と判定され、東京都奥多摩町立「奥多摩森林館」の館長原島金子廣により全国に情報発信されたのだそうです。
 なんじゃそりゃ? ググってみると、全国巨樹・巨木林の会という似たような名前の会があります。そこからのリンクで、奥多摩町日原森林館というものもあるようです。このページから、全国巨樹・巨木林データーベースにアクセスできますが、この事業は、環境省と全国巨樹・巨木の会が関わっているようです。全国巨樹・巨木の会は任意団体のようですが、どうもよくわかりません。
山寺 次は「山寺」に行きました。正確には宝珠山立石寺という名で、芭蕉が「閑さや岩にしみ入蝉の声」という句を詠んだところとして有名ですが、ぽん太は初めての訪問でした。公式ホームページはないようですが、山寺観光協会Presents 山寺の歩き方というページや、やまがた観光ダイジェスト[山寺]といったページが参考になります。風化した凝灰岩の斜面にへばりつくように作られており、登山の筋肉痛で階段の上り下りがきつかったです。岩壁にいくつもある窪みは修行の場となっていたそうで、ぽん太には修験道と関連しているように思えましたが、実際のところはよくわかりません。ぽん太は、芭蕉の句に出てくる「岩」は、地面に落ちている岩だとばかり思っていましたが、百聞は一見にしかずとはまさにこのことです。
そば吉里吉里 昼食は、山寺から近くの天童市にある「そば吉里吉里」で。昔の民家を改装したというムードある蕎麦屋さんです。白っぽくて細い「ざいご」と、黒っぽい「ざる」がありますが、両方味わえる「相盛り」をいただきました。ツユは辛口、器も凝っており、格調あるお蕎麦でした。ぽん太の評価は(★★★★)。なぜか店内は撮影禁止だそうで、残念ながらお蕎麦の写真はありません。
出羽桜酒造株式会社 せっかく天童に来たので、出羽桜酒造株式会社に寄る。香りが豊かなお酒で、ぽん太とにゃん子が大好きな酒のひとつです。残念ながら小売りはしていませんでしたが、隣りにかなり渋い酒屋があったので、純米吟醸無濾過生原酒と、雄町の純米吟醸を購入しました。
山居倉庫 そこから一路、今日の宿泊地の酒田へ。ビジネスホテルに宿泊し、明日の天気次第では鳥海山に登ろうというもくろみです。早めに到着したので、山居倉庫(さんきょそうこ)を見学。お決まりのアングルの写真で申し訳ありません。明治時代に作られたお米の倉庫だそうですが、現在でも現役で倉庫として使われています。
 次回の記事は、いよいよお待ちかね、酒田の居酒屋のご紹介の予定です。

2007/09/08

【温泉】古寺鉱泉朝陽館は鄙び度満点(★★★★★)

 山形県は朝日岳からずぶぬれへとへとの状態で下山したぽん太とにゃん子は、登山口にある古寺鉱泉朝陽館(こでらこうせんちょうようかん)に宿を借りました。

古寺鉱泉朝陽館 森に囲まれ渓流に面した鄙びの宿です。建物が渋いです。まさにぽん太の好みです。公式ホームページはないようですが、たとえばこちらのはしご湯のすすめ/古寺鉱泉 朝陽館や、山の温泉ガイド/ランプの宿、山菜料理「古寺鉱泉 朝陽館」などをご参照下さい。車で行く場合は、山形自動車道の月山ICから約1時間で、道路はだんだんと細くなりますが、きれいに舗装されています。駐車場から徒歩3分で宿に着きます。
古寺鉱泉朝陽館 風雪に耐え、ペンキもはげ、歪みも出ていますが、時間だけが作り出すことのできるすばらしい味があります。
古寺鉱泉朝陽館 温泉は内湯がひとつだけ。入口に札を下げて、男女交代で入ります。広い浴室に、簡素なコンクリートの浴槽があります。浴槽は二つに分かれていて、写真の奥が源泉、手前は薪で加温してあります。加温してあるほうに入り、暑くなってきたら源泉をバケツでいれてうめるというのが、ここの入浴スタイルです。加温あり、加水なしの源泉掛け流しという分類になりましょうか? 源泉に直接入ってみたい気もしますが、源泉の温度は12.7度とのことで、とても無理です。鉄錆色をした非常に濃厚なお湯で、なめると甘塩っぱくて粉っぽいです。源泉は屋外で雨ざらしになっておりますので、お湯をなめすぎないよう注意しましょう。
古寺鉱泉朝陽館 夕食は食堂でいただきます。メインのイワナのお刺身に、さまざまな地元の山菜料理が加わり、素朴ですが新鮮でとってもヘルシーです。
古寺鉱泉朝陽館 部屋もいたってシンプル。鍵もなければテレビもありません。掃除が行き届いていて不潔感はなく、とっても気持ちが落ち着きます。フトンは宿の人が敷いてくれますが、浴衣やタオルはありません。
古寺鉱泉朝陽館 朝食です。これまたシンプルですが、ご飯もお味噌汁もおいしゅうございました。また、宿のひとたちのおもてなしも素朴で暖かくて気持ちがよかったです。
古寺鉱泉朝陽館 基本的には高級な山小屋と考えるべきで、電気も夜10時に消灯。朝は登山客が4時頃から出発して行きます。ですから、飲んで騒いでという目的には不向きです。お風呂も一カ所に交代で入りますから、ひとりで何度も入浴するのは困難です。秘湯とは名ばかりの高級旅館も多いなか、本当の秘湯を味わいたい方にはお勧めです(2007年8月宿泊)。

2007/09/06

【登山】朝日岳はもう秋の気配でした

 ぽん太とにゃん子は夏休みを利用して朝日岳に登ってきました。前線の影響であいにくの天気でした。また、日帰りだったので、時間もかかってけっこう疲れました。

大朝日岳【山名】大朝日岳(1870m)
【山域】東北
【日程】2007年8月27日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】雨
【コース】古寺鉱泉(6:03)…小朝日岳…大朝日岳(11:27)…古寺鉱泉(15:56)
【マイカー登山情報】古寺鉱泉手前に駐車場がある。そこまでは立派な舗装道路。
【参考リンク】
朝日岳/山と高原地図web:登山地図でお世話になっている昭文社のページ。登山地図も掲載されています。
【見た花】オニシオガマ、エゾリンドウ、ウメバチソウ、ミヤマコゴメグサ、アキノキリンソウ、トモエシオガマ、タカネマツムシソウ、アザミの一種、ミヤマトリカブト、ハクサンフウロ、タカネナデシコ、ミヤマゼンコ、ゴマナ、ミヤマリンドウ、ウツボグサ、ミソガワソウ、ニッコウキスゲ、イワショウブ、ヨツバシオガマ、ハクサンシャジン、エゾシオガマ、ママコナ、ツルリンドウ

大朝日岳 山形市内のビジネスホテルを早朝に出発し、一路登山口へ。山形自動車道を月山ICで下りて、以前に食べた大越そばのところから、大井沢に向かう道に入ります。道はだんだんと細くなりますが、古寺鉱泉手前の駐車場まできれいに舗装されています。
 ちょうど北陸から東北にかけて前線が居座り、いまにも雨が降り出しそうな天気でしたが、せっかく休みをとって来たので登ることにしました。登り始めてすぐ雨が降り出し、以後は降ったりやんだりの天候でした。
オニシオガマ 写真はオニシオガマです。シオガマのなかまでは大きくてがっちりしています。まだ8月の下旬だというのに、山にはアザミやリンドウ、アキノキリンソウなどが咲き、すっかり秋の気配でした。実をつけたユリ科の植物がいっぱいあったので何かと思ったら、ヒメサユリでした。ぽん太はヒメサユリを見たことがありません。ヒメサユリが咲いている時期の、天気がいい日にまた朝日岳に来たいです。
 朝日岳日帰りということで、全行程約10時間の長丁場となり、とっても疲れました。登山口の古寺鉱泉に宿泊しました。

2007/09/01

【神社】白山ひめ神社をみちくさしてみた

 ぽん太が先日登った白山の山頂に奥宮がある、白山ひめ神社について調べてみました。公式ホームページはこちらです。白山ひめ神社は、漢字では白山比{口羊}神社(4文字目は口へんに羊です)と書き、「しらやまひめじんじゃ」と読むようです。
 文京区に白山という地名がありますが、白山神社があることから、このように呼ばれるようになりました。ここ以外にも日本各地に白山神社がありますが、それらの総本山が白山ひめ神社です。
 白山ひめ神社の御祭神は、白山ひめ大神(しらやまひめのおおかみ)(=菊理媛神(くくりひめのかみ))、伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)だそうです。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)は、言わずと知れた、いまだ固まらぬ地上を矛でかき回して日本列島を造ったご夫婦の神様です。もともとは兄と妹ですが、結婚して夫婦となり、たくさんの神様をお産みになりました。
 で、菊理媛神(くくりひめのかみ)ですが、実は『古事記』には出てこず、『日本書紀』に登場する神様です。伊弉諾神(いざなぎのかみ)が、死んでしまった伊弉冉神(いざなみのかみ)に会いに黄泉の国に行くという有名なエピソードがあります。『日本書紀』には、何通りかのヴァージョンが記されているのですが、わかりやすくまとめると……
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は黄泉の国で伊弉冉神(いざなみのかみ)に会い、話しをします。しかし「わたしの姿を見ないで下さい」という伊弉冉神(いざなみのかみ)の言いつけを破り、火を灯して彼女の姿を見てしまいます。すると彼女の体には無数のウジがわき、なんとも醜い姿だったのです。驚いた伊弉諾神(いざなぎのかみ)はあわてて逃げ出しますが、伊弉冉神(いざなみのかみ)は「見〜た〜な〜」と追いかけてきます。泉平坂(よもつひらさか)でとうとう追いつかれ、言葉をかわすのですが、ここで菊理媛神(くくりひめのかみ)が出てきます。
 「このとき菊理媛神(くくりひめのかみ)が申し上げられることがあった。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)はこれをお聞きになり、ほめられた」(『日本書紀〈上〉 』宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年)。
 菊理媛神(くくりひめのかみ)が何と言ったのか書かれておらず、不思議な文章です。
 ちなみに『日本書紀』はテキスト化されており、たとえばこちらの埋れ木というサイトから、原文と読み下し文をダウンロードできます。巻1の18ページに菊理媛神が出てきます。
 川口謙二の『日本の神様読み解き事典』(柏書房、1999年)によれば、伊弉冉神(いざなみのかみ)と泉平坂(よもつひらさか)で言い争いになった伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、菊理媛神(くくりひめのかみ)の助言によって無事に黄泉の国を脱出することができたと『日本書紀』に書いてあるのだそうですが、どこをどう読めばそういう意味になるのかぽん太にはよくわかりません。しかし一般的には、言い争いの間に立って、それぞれの言葉を伝え、双方の主張を聞いて助言をしたとされているようです。
 菊理媛神(くくりひめのかみ)がどうして白山ひめ大神(しらやまひめのおおかみ)と同一視されるのかは、よくわかりません。
 さて、明治時代に神仏分離が行われる以前は神仏習合があたりまえだったわけですが、再び白山ひめ神社のホームページを見てみると、白山のピークのうち御前峰には白山ひめ大神の本地仏として十一面観音菩薩が、大汝峰には大汝命と阿弥陀如来が、別山には大山祇命(おおやまずみのみこと)と聖観世音菩薩が祀られていたそうです。

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