【宗教】神仏習合について勉強してみた
豊川稲荷が神社ではなくお寺であることを知ってショックを受けたぽん太は、神仏習合について実はよく知らないことに気づき、義江彰夫の『神仏習合 』(岩波新書、1996年)を読んでみました。とても勉強になりました。
詳しくは本を買って読んでいただくしかないのですが、本書の特徴は、神仏習合の各段階を、当時の政治的・社会的状況と結びつけて解説していることです。
神仏習合の始まりは、8世紀後半頃です。諸国に鎮座する神様が仏教に帰依するという現象がおき、神様が仏様になるために修行をする寺(神宮寺)が神社のなかに作られるようになりました。こうした動きを支えたのは密教でしたが、やがて王権は空海の大乗密教を利用して諸国の神宮寺を支配するようになります。こうした変化は、律令制度における農村の貧富の増大、私営田の出現に結びついています。
神仏習合の第2段階ですが、8世紀後半から9世紀前半にかけて、権力闘争で敗れた人たちが怨霊となって悪さをするという考えが生まれ、それを鎮めるための御霊会(ごりょうえ)が行われるようになりました。有名なのは菅原道真の怨霊ですね。律令制度の変化や権力闘争によって没落する貴族や豪族が現れ、彼らの不満や彼らに対する共感が密教と結びつき、反権力的な気分を生じさせたのです。しかしこうした怨霊も時代とともに鎮静化され、菅原道真の天神様も10世紀末には王権の守護神となりました。神仏習合のこの段階は、各地の私営田が、王権や上級貴族、大寺院への寄進によって再編成され、私的所有に基づく王朝国家が成立したことに対応しています。
第3段階は、9世紀から10世紀頃に広まった浄土信仰です。それは10世紀末、源信の「往生要集」で頂点を迎えました。彼の厭離穢土(おんりえど)という考え方は、現世をケガレの世界、死後の極楽浄土をケガレのない世界と見なすことで、神道のケガレ忌避概念と仏教とを結びつけました。国家を維持するためにさまざまなケガレを受けなければならない貴族たち、一族の繁栄のために戦を繰り返す武士たちに、浄土信仰は心の支えを提供したのです。
神仏習合の第4段階は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と中世日本紀です。本地垂迹説は、日本古来の神々は実はさまざまな仏様が姿を変えて現れたものだ、という考え方で、11世紀頃に生まれ14世紀初頭には全国に広がりました。さらに『日本書紀』などに書かれた古来の神話を本地垂迹説によって解釈し直すという作業が(中世日本紀)、13世紀後半から15世紀にかけて行われました。これに対応する社会状況は、殺生やケガレを意に介さない武士が台頭したことと、王権が彼らに対抗して一層の権力を身にまとおうとしたことです。
以上が大雑把な要約ですが、細かい所でもいろいろと面白いところがありました。例えば支配と所有の罪悪感が仏教への帰依をもたらしたことに関連して、そもそも仏陀自身が王族だったというご指摘。なるほど、仏教は元々支配者の悩みに答えるものだったのか。
また『平家物語』の安徳天皇入水の場面で、二位殿が幼い安徳天皇に対して、「まず東に向かって伊勢神宮に別れを告げ、次に西方浄土に生まれかわれるよう、西に向かって念仏を唱えなさい」と諭す部分を取り上げ、12世紀末から13世紀初頭には、天皇すら阿弥陀仏に極楽往生を願っていたことを示していると指摘しています。この場面は、歌舞伎の『義経千本桜』の「碇知盛」でも見所となっており、ぽん太も何度も涙を流しながら見ているのですが、そんな深い意味を読み取ったことはありませんでした。
さらに、これまであまり縁のなかった密教や『往生要集』への興味もわいてきました。そして、これほど長く続いてきた神仏習合なのに、なぜ明治政府が神仏分離を行ったのかがますます疑問に思えてきました。
みちくさしたいことがかえって増えてしまいました。
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