以前に神仏習合について学んだぽん太は、それではなぜ明治政府は神仏分離を行ったのかという疑問を持ったのでした。幕藩体制をこわして明治政府を打ち立てるために、なぜ長い間どの権力者も手をつけなかった神仏習合を改める必要があったのでしょうか? さっぱりわからないので、とりあえず手軽に読めそうな『 神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈 』(安丸良夫、岩波新書、1979年)を読んでみました。ところが手軽どころか、江戸時代の宗教の状況から説き始め、明治政府による神仏分離、廃仏毀釈の嵐、そして「信教の自由」に至までの流れがかなり詳しく書いてあり、新書でありながら読み応えのある立派な本でした。ぽん太が知らないことばかりで、とても勉強になりました。興味のある方にはぜひご一読をお勧めします。
現在われわれが日常的に関わっている仏教や神道が、どのように歴史的を経てきたものなのかを知ることは、最近よく目にするナショナリズム的な日本人論について考えるうえでも、とても大切に思われます。ナショナリストが「日本古来の伝統」などと言っているものが、実は明治以降に成立したものだったりします。たとえば一般には日本伝統の儀式と思われている神前結婚式も、実は明治33年に大正天皇の婚儀のために作られた様式が、民間に普及したものなのだそうです。
以下、ぽん太にとって面白かった点をまとめてみたいと思います。
まず、信長が一向宗や比叡山を徹底的に弾圧したように、ときの権力者にとって、宗教は常に弾圧の対象だったそうです。宗教の信者は、世間一般の考えとは異なる勝手な理屈を信じて、社会通念や道徳に反する行動をとり、平気で支配者の命令を拒否します。江戸幕府は、寺請制度にいよって民衆を特定の寺院につなぎ止め、その寺院を幕府が統制するという形で、きびしい宗教支配を行っていました。
一方で江戸時代の民衆の信仰は、氏神や自然神、祖霊崇拝と混ざり合ったものでした。また、参詣講、飲食や娯楽を伴う地域の講、開帳や縁日など、宗教は民衆の娯楽でもありました。民衆の生活と宗教は、深く結びついていました。
江戸幕府は、かくれキリシタン、不受不施派、かくれ念仏などの宗教的異端を取り締まっただけでなく、在家法談、夜談義、いわれのない人集め、遊行勧進僧の入国、新法異説、流行神などを禁止しました。つまり幕府に取って問題なのは信仰の内容ではなく、民衆の行動の様式であり、人々が奇異な説を信じたり、人集めが行われたりするのがイヤだったのです。こうした禁を犯さなければ、日常的な民衆の宗教生活は、比較的自由でした。
しかし一方で、権力が民衆の宗教をコントロールし、国家が祭祀を行うべきだという考え方もありました。おそらくは荻生徂徠(1666〜1728)に端を発し、幕末の水戸学や、平田篤胤などの後期国学につながって行きました。こうした思想は、日本侵略を狙う西欧諸国のキリスト教に対抗するためでもありました。しかしこのような祭政一致論は、あくまでもさまざまな考えのうちの一つに過ぎませんでした。
明治維新は、「幕府を倒して古の天皇中心の国家に戻す」というイデオロギーのもとで行われましたから、大昔の律令制度にならって神祇官という役職が置かれました。ここに神道国家主義を唱えるひとたちが登用され、国家権力における足がかりを得ました。明治政府は、当初は列候会議に基づく公議政体論を目指したのですが、岩倉具視などの一部の公家が、薩摩や長州の武力を背景にして、専制的な政治体制をうち立てました。このときに自分たちの立場を正当化するために使われたのが、「神権的な天皇を自分たちが擁している」という理屈でした。これも神仏分離の要因の一つとなりました。
神仏分離が、廃仏毀釈の嵐を生じさせたことは、省略いたします。注意すべきことは、廃仏毀釈によって仏教が完全に破壊されたわけではないということです。明治政府は浄土真宗の権力と財力を必要としていました。また僧侶も、これまでの民衆との深いつながりを利用して国民教科をし、競って明治政府に協力しました。
もうひとつ注意すべきことは、明治政府が弾圧したのは仏教だけでなく、氏神や村の祠、土地の神々を祀った神社も対象となったということです。こうした祠や社は破壊されたり整理統合されて、かわりに天皇家にゆかりの神々が御祭神としてすえられました。つまり、天皇家とそれにまつわる神様以外のあらゆる信仰が弾圧されたのです。ですから明治政府の宗教政策を、神仏分離や廃仏毀釈だけで捉えることは間違っていることになります。
してみると、ぽん太はあちこちの神社を訪ねては祀ってある神々を調べるという遊びをしていたのですが、そうした神々は古来の伝統的なものではなく、多くは明治以降に勝手に決められたものだということになります。ああ、ショック。これからは現在の御祭神を調べるのではなく、神社仏閣の御由緒を調べ、江戸以前に祀ってあった神仏を調べる必要がありそうです。
祭政一致による支配をもくろんだ明治政府ですが、外国との外交交渉の過程で、前提として「信教の自由」の保証を要求されます。しかし、こうして得られた日本における信教の自由は、宗教に対する深い理解に基づくものではなく、開国して世界のなかに入って行くために明治政府が身にまとった衣装にすぎませんでした。
またこの頃、日本の僧侶が外国を訪れ、政治から独立したキリスト教のあり方を目の当たりにすることによって、仏教がこれまで時の権力におもねるようなやり方をしていたことに対する反省も生まれて来たそうです。
この本を読むことで、幕末から明治にかけての日本の宗教の流れが少し理解できました。新たに興味がわいてきたのは、江戸時代にどのようにして国体神学が成立し、強まって来たのかということと、明治以降、神道非宗教説に立った国家神道がどのように発展し、昭和の戦前の思想につながっていったかということです。機会があったらみちくさしたいと思います。
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