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2007年11月の13件の記事

2007/11/30

【ダイビング】冬が訪れた安良里・黄金崎ビーチを潜る

 11月下旬、ぽん太とにゃん子は安良里にダイビングに行ってきました。水温も22度と、この時期にしては珍しい暖かさのはずでしたが、ちょうど西高東低の強い冬型の気圧配置となり、冷たい北西の風が吹きまくってボートはクローズド。二日とも黄金崎ビーチとなりました。気温は14度、水温も初日は21度、二日目は19度とどんどん下がり、名物のネジリンボウ君も出が悪かったです。
 サービスは安良里ダイビングサービス・タツミ。アットホームで魚に詳しく、スタッフがみな潜るのが大好き。ちょくちょくお世話になっているサービスです。ランチの海鮮丼もお勧めです。
 で、今回見た魚のうちからいくつかをご紹介します。

メイチダイ幼魚@安良里 メイチダイの幼魚です。ぽん太は初めてお目にかかりました。
アオスジテンジクダイ@安良里 アオスジテンジクダイです。これも初見参です。名前の通り顔にある青い筋が美しいです。
ミジンベニハゼ@安良里 おなじみミジンベニハゼ君が、おきまりの空き缶でハイポーズ。かわいいですね。
ネジリンボウ@安良里 ネジリンボウ君です。2日間で4本潜って、顔を出していたのはたったのこれ一匹。でも、かなり近くまで寄らせてくれました。
トラフケボリダカラガイ@安良里 おなじみトラフケボリダカラガイ。阪神ファンは大喜びです。
ササハゼ@安良里 今年はササハゼが多いとのことです。ぽん太は初めて見ました。ちょっと大きくて、体は茶色で渋いですが、目の下の青い線がチャーミングです。
ヤマドリ@安良里 おなじみヤマドリですが、ピントがあったので載せときます。
ホウセキハタ幼魚@安良里 ホウセキハタの幼魚です。初めてお目にかかりました。水温が急に下がったためかナーバスになっていて、なかなか写真を撮らせてくれませんでした。

2007/11/21

【ヴォイツェク・レンツ】ビューヒナーと精神医学

 以前に『ヴォイツェク』と『レンツ』を読んで精神障害が描かれているのを知り、ビューヒナーに興味を持ったぽん太ですが、先日ネット上をみちくさしていたら、面白い文献に行き当たりました。河原俊雄の「G・ビューヒナー研究  殺人者の言葉から始まった文学」(文献(1))です。「第三部 『ヴォイツェック』と『レンツ』の研究史」と、「第四部 『ヴォイツェック』と『レンツ』の時代背景」がダウンロードできるようですが、ダウンロード先は記事の末尾をご覧下さい。河原俊雄は広島大学の文学部教授のようです。
 第三部の方は、『ヴォイツェク』と『レンツ』のこれまでの作品研究の総説で、文学論の領域ですからぽん太は関心がありませんし、読んでもよくわかりません。興味深いのは第四部の方で、ここではビューヒナーの作品を、同時代(1820年代、30年代)のドイツとフランスの精神医学の状況と結びつけて論じています。
 『ヴォイツェク』と『レンツ』はともに狂気を扱った作品で、ビューヒナー自身は医者でした。ぽん太は、ビューヒナーが精神医学の聞きかじりの知識を使ってこれらの作品を書いた、ぐらいに思っていました。ところが河原俊雄の論文によれば、これらの作品と精神医学との関係はもっと深く、もっと本質的なんだそうです。
 当時、ある精神医学上の問題が社会的に大きな関心を集め、法曹界をも巻き込む大論争を引き起こし、一般民衆の興味の的となっていました。すなわち、精神障害者の刑事責任能力の問題です。
 現在の日本の法律では、精神障害によって善悪を判断する能力や、それに従って行動する能力が低下している場合、その程度に従って刑が減軽されたり無罪になったりします。一部に異論や抵抗感もあるものの、一応それが普通とされています。このような、精神障害者は刑事責任能力が低下していて減刑が必要になる、という考え方が社会的な同意を得られるようになってきたのが、まさに19世紀前半なのだそうです。それ以前は、精神障害があろうとなかろうと、犯罪行為そのものに対して罰を与えていましたが、その頃から、責任能力がない者は罪に問えないと考え方が生まれてきたのです。
 過渡期にあったその19世紀前半には、判決を巡って激しい議論が闘わされて世間の注目を集めた事件がいくつかあったようで、その代表と言えるのが『ヴォイツェク』の題材となったヴォイツェク事件の裁判(1821-24)と、フランスのリヴィエール事件の裁判(1835-36)でした。ヴォイツェク事件とは、精神障害を負っていたヴォイツェクという名の鬘師(かつらし)が嫉妬からヴォーストという未亡人を刺殺した事件であり、一方のリヴィエール事件は、やはり精神障害の若い農夫リヴィエールが、ナタで母親と弟・妹を惨殺した事件です。そういえばミシェル・フーコーがリヴィエール事件についてなんか本を書いていたような……。書庫を探したらありました。『ピエール・リヴィエールの犯罪ー狂気と理性』(河出書房新社、1975年)で、訳者はなんと岸田秀と久米博です。買ったまま読んでいませんでした。
 フランスとドイツの裁判の結果は相反するものでした。ヴォイツェクは責任能力ありと判断されて公開斬首刑となったのに対し、リヴィエールは一度は死刑判決が出されたものの、当時のフランス精神医学の権威エスキロールの精神鑑定もあって、王の特赦によって終身禁固に減刑されました(ただし4年後に自殺)。
 ビューヒナーが『ヴォイツェク』を執筆した1836年は、まさにこのリヴィエールの判決が下された年で、またエスキロールの精神鑑定書もこの年に医学雑誌に公表されました。一方、ヴォイツェクは1824年にすでに処刑されていましたが、その後もこの判決が正しかったかどうかの議論が続けられ、リヴィエールの判決を契機に改めて問い直され、同じく1936年にヴォイツェクの精神鑑定書とそれに対する弁護士による批判が、法医学関係の雑誌に公表されたのだそうです。
 ビューヒナーはニゴイの神経系の研究で学位を取得しましたが、これは当時の最先端の神経科学の研究でした。そしてビューヒナーの父親のエルンスト・ビューヒナーも医者であり、裁判で精神鑑定をしたことがあったそうです。
 つまり『ヴォイツェク』と『レンツ』はビューヒナーが、当時の最先端の精神医学と、最新の社会問題に取り組んだ作品だったわけです。
 精神障害の責任能力の問題は、それ自体とても重要な問題ですが、かなり複雑なので、機会があったらみちくさすることにしましょう。
 フランス革命、近代的自我の成立、ピネルによる精神障害者の鎖からの解放、精神障害者の刑事責任能力低下が認められたこと。これらは、ある思考の枠組みの同一の変化が、さまざまな形で現れたものだと思うのですが、ぽん太の頭のなかではいまひとつ整理がつきません。まだまだみちくさしたい領域です。

【参考文献】
(1)河原俊雄「G・ビューヒナー研究  殺人者の言葉から始まった文学」第三部、第四部、2003年。(こちらからpdfファイルがダウンロードできます)。
(2)ビューヒナー『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』岩淵達治訳、岩波文庫、2006年。
(3)ミシェル・フーコー編『ピエール・リヴィエールの犯罪ー狂気と理性』岸田秀・久米博訳、河出書房新社、1975年。

【ブログ内の関連する記事】
(a)ビューヒナーの『ヴォイツェク ダントンの死 レンツ』は興味深い2007/04/20
(b)そういえばビューヒナーの『レンツ』はドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス』に出てたな2007/04/25
(c)アルバン・ベルクの『ヴォツェック』は怖すぎ2007/05/03
(d)ビューヒナーの時代の精神医学の状況は?2007/05/20
(e)ビューヒナーが使った精神医学用語について2007/05/23
(f)レンツの時代(18世紀後半)の精神医療は?2007/06/08
(g)グリージンガーの『精神疾患の病理と治療』の抄訳を読む2007/06/10

2007/11/19

【登山】八丈富士に登るが何も見えず

 八丈島ダイビングの最終日、八丈島の最高峰である八丈富士に登りました。登り始めは曇りでしたが、お鉢巡りの途中で雨が降り出し、風も強くてびしょびしょになりました。しかし、八丈島固有の花も見られたので良かったです。
 八丈島に来たときは、空港に観光案内やハイキング地図のパンフレットが置いてあるので、それをお持ちになるといいでしょう。

八丈富士【山名】八丈富士(854.3m)
【山域】伊豆諸島
【日程】2007年11月3日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】曇りのち雨
【コース】八丈富士登山口(9:09)…山頂(10:08)…(お鉢巡り)…八丈富士登山口(10:53)
【マイカー登山情報】登山口周辺に路駐可
【参考リンク】
八丈島総合ポータルサイト

八丈富士登山道 登山口付近に車を停め、登山道に入ります。写真のような階段が延々と続きます。
ナンバンギセル もう季節は秋ですが、花がちらほらと咲いていました。見たことのない花です。ナンバンギセルという名です。
ノコンギク ノコンギクです。白くて地味な花です。
ハチジョウアザミ 秋の山につきもののアザミですが、ただのアザミにあらず。八丈島固有種のハチジョウアザミだそうです。
イズノシマダイモンジソウ ん? ダイモンジソウか? 似ていますが、ちょっと花びらの幅が広いようです。イズノシマダイモンジソウという花だそうです。
ハチジョウアキノキリンソウ これも普通のアキノキリンソウのようですが、固有種のハチジョウアキノキリンソウだそうです。
センブリ まったく初めて見る花ですが、センブリだそうです。漢方薬では胃腸薬として使われます。
八丈富士お鉢巡り ガスが強まり、途中から雨模様となりました。せっかくのお鉢巡りですが、何も見ません。噴火口の中に下りて行く道もありますが、今回は省略しました。ぽん太は以前に行ったことがありますが、噴火口の跡の「小穴」に面して浅間神社があり、そこには丸い石がいくつも備えてあります。子供が何歳だかになったときに、海岸の丸石を担ぎあげ、この神社に備える風習があったそうです。また、もう一方の道を行くと、小さな池があるのです。

2007/11/17

【ダイビング】八丈島でウミウシ探し

 10月下旬、ぽん太とにゃん子は八丈島にダイビングに行ってきました。八丈に行くのは数年ぶりです。インターネットの黒潮情報を見ると、八丈島と三宅島のあいだのいい位置に入っています。水温も26度とバッチリです。
 しかし、残念ながら、八丈島を代表するポイントであるナズマドには一度も潜れず、八重根を4本潜ってきました。天気も初日は晴れ間が差して来たものの、2日目は秋の空気が入って来て寒い雨模様で、海に入ると「暖ったか〜」という感じでした。
 お世話になったダイビングはアミニスダイバーズです。以前に愛用していたサービスがいつのまにかなくなっていたので、雑誌とホームページを見て選んだのですが、なかなかよかったです。次回も利用したいと思います。
 八重根の美しいアーチは健在。人懐っこいハマフエフキや、アオウミガメも定番で、ナンヨウカイワリの美しい姿も見れましたが、今回は、ウミウシなど小物を中心にご紹介したいと思います。ガイドさんの目がいいのには驚きました。藤原さん、ありがとう。

フリソデエビ フリソデエビです。その名のとおり振り袖のような手足がきれいです。
モザイクウミウシ モザイクウミウシです。ちょっと角ばった茶色い体と、白くて柔らかな鰓の取り合わせがキュートです。
モンコウミウシ モンコウミウシです。写真はピンぼけですが、初めて見るウミウシなので載せておきます。
センテンイロウミウシ センテンイロウミウシです。こいつはきれいですね。
アンアウミウシ アンナウミウシです。水色と黄色の対比が色鮮やかです。
クセニアウミウシの一種? 正体不明です。クセニアウミウシの一種か?
オキナワキヌハダウミウシ オキナワキヌハダウミウシです。とにかくちっちゃくて、ピンぼけです。
サキシマミノウミウシ サキシマミノウミウシです。これは伊豆海洋公園でも見たことがあります。
イソギンチャクエビ イソギンチャクエビはありふれたエビですが、とても大きな個体だったので、明瞭な写真が撮れました。
コイボウミウシ コイボウミウシも良く見かけますが、歩行中の図です。
キカモヨウウミウシ キカモヨウウミウシは、鰓突起の黄色い模様がきれいです。
クロスジウミウシ クロスジウミウシです。
ミカドウミウシ ミカドウミウシも比較的よく見かけます。食べるとマーマレードの味がしそうな気がします。
コールマンウミウシ 最後ににゃん子が見つけたコールマンウミウシです。とても小さいです。
 ウミウシというのは、陸上で会ったらちょっと嫌ですが、海の中だととてもきれいでかわいいですね。

2007/11/15

【バレエ】Kバレエカンパニー「白鳥の湖」

 バレエを見に行くのは久しぶりだったので、行く前からワクワクでした。熊川哲也が怪我で出られないのは残念ですが、仕方ありません。Kバレエカンパニーの「白鳥」は、今年の2月に吉田都がオディールを踊ったのを見て以来2回目です。そのときはオデットとオディールを別のダンサーが踊るという版でしたが、今回は同じダンサーが踊るKバレエ初演版とのこと。
 Kバレエの「白鳥」の特徴はドラマチックなストーリ性にあるような気がします。これは「白鳥」だけでなく、熊川哲也の演出に共通する特徴かもしれません。まず除幕で、オデットが白鳥に変えられるシーンを見せます。また第3幕では、王子がなぜ黒鳥に愛を誓ってしまうのかという疑問が昔からあり、黒鳥に魅せられて白鳥のことはすっかり忘れてしまったとか、ロットバルトの魔術で幻惑されて黒鳥が白鳥に見えたとか、さまざまな解釈がありました。熊川版では、2幕でオデットが落としていった羽とオディールの羽とが同じであることをロットバルトが王子に示す場面があり、王子が二人を同一白鳥だと思い込んでしまう理由が示されています。このあたりは、同じくスト−リー性を重視したブルメイステル版に近いようです。そういえば、ロットバルトの広げたマントの後ろから黒鳥が登場したり、王子と黒鳥のパドゥドゥにロットバルトが絡むあたりも似ています。
 熊川演出のもうひとつの特徴として、オリジナルの重視があるように思えます。第3幕の嫁さん候補の踊りでファンファーレが2回鳴り、2回にわけて踊るのも、王子が黒鳥に愛を誓う前に、嫁さん候補踊りの音楽が再度流れるのも、チャイコフスキーのオリジナルです。また熊川版「白鳥」には道化が出てきませんが、こちらの鈴木晶先生のサイトのデータによれば、初版や蘇演版では道化ではなく、熊川版と同じベンノが登場したようです。「白鳥の湖」の版による違いについてはぽん太はよく知らず、いつからベンノが道化に変わったのかわかりmせん。どなかたいい本があったら教えていただきたいです。
 嫁さん候補の踊りのあとに民族舞踊が来るという順序もオリジナル風。民族舞踊はハンガリー(チャルダッシュ)がなく、ナポリとマズルカとスペインだけ。この部分は、本筋とは別にさまざまな民族舞踊を観客が楽しむという部分なので、省略したのでしょうか? 前回の2月のチラシを見てみたら、こちらではさらにマズルカもありませんでした。ただ少し気になるのは、スペイン舞踏団は熊川版でもロットバルトの手先のようなのに、3幕の冒頭にナポリやマズルカと一緒に入場すること。よくある演出のように、ロットバルトと一緒に入場する方が自然なような気がします。
 さて、オチですが、白鳥と王子は湖に身を投げ、残された白鳥たちがロットバルトをやっつけます。むむ、恐るべしコール・ド・バレエの力。ただ、ロットバルトを倒したのが二人の愛の力なのか、コール・ド・バレエの団結の結果なのか、いまいちわかりにくい。最後はあの世(?)で、王子と人間に戻った白鳥が結ばれます。逆光のなか、後ろ向きで羽根を広げた白鳥たちが浮かび上がる光景は確かに視覚的には美しいですが、ぽん太にはこのラストの部分だけこれまでの古典バレエとスタイルが違うように感じられ、ちょっと違和感がありました。
 中村祥子の白鳥は、「おじさん」のぽん太には、しっとり(ねっとり?)した情感が足りないように感じられ、小悪魔的な黒鳥の方がよかったです。グラン・フェッテも最後は少しよれたけど連続ダブルでトリプルも入れてお見事。片足のつま先で立つバランス(すみません、バレエ用語知りません)も長かったです。宮尾俊太郎は日本人離れして脚が長くタッパもあり、踊りが大きく見え、今後が楽しみ。ベンノ役のバットボルトは、体も重いし柔軟性もないしなんかイマイチでした。全体として満足で★★★★。
 
「白鳥の湖」<Kバレエカンパニー初演版>(2007/11/15オーチャードホール)
オデット/オディール 中村祥子
 ジークフリード王子 宮尾俊太郎
    ロットバルト スチュアート・キャシディ
        王妃 天野祐子
      家庭教師 デイビッド・スケルトン
 ベンノー王子の友人 ビャンバ・バットボルト
     パドトロワ 長田佳世、輪島拓也、東野泰子
     4羽の白鳥 神部里奈、小林絹恵、中谷友香、渡部萌子
     2羽の白鳥 長田佳世、柴田有紀
      6人の姫 東野泰子、長田佳世ほか
       ナポリ 神戸里奈、アレクサンドル、ブーベル
      マズルカ 中島郁美、杜海ほか
      スペイン 千頭由貴、遅沢祐介ほか

2007/11/14

【歌舞伎】2007年11月歌舞伎座昼の部(「傾城反魂香」、「曽我綉侠御所染」など)

 顔見世大歌舞伎の昼の部を見てきました。
 まず「種蒔三番叟」。梅玉は高貴。孝太郎もきれいでかわいらしく、夜の部のお嬢三吉よりやっぱりいいです。華やかな舞台を見て、もう正月の気分になりました。
 「傾城反魂香」は吉右衛門と芝雀の夫婦が絶品。吉右衛門は花道の出からすでに心に決意を秘めた表情。その後も命をかけても土佐の名字が欲しいという緊張感が保たれ、一同その気持ちを察しながらも、吃りであるために名字を与えることができないという事実を前にしての同情とやるせなさが、強く伝わってきました。先日の三越歌舞伎の「反魂香」はなんかヘンで、又平がおとくを打つところなど、小太鼓を叩くかのように両手てポカポカ叩いたりして、又平は吃り以外に別の障害も持っているのではないかと思うくらいでしたが、吉右衛門の又平はフツーの人だったので安心しました。妻を打つ所も、左手を右手で打つようにして様式的にすませ、吃りのしゃべり方もリズムを感じさせ、歌舞伎の様式美を失わない演技でした。
 「反魂香」は吃りに対する差別が描かれており、つね日頃から障害者に接し差別と闘っているぽん太としては、最初に見たときにはとても不愉快に感じました。江戸時代の話しを見るのですから、当時は吃りが差別されていたということを時代背景として受け入れるしかないと頭ではわかっていても、生理的にイヤな感じがしてしまうのをどうしようもありませんでした。しかしよくよく考えてみれば、現在においても、いけないとは言われながらも、現実としてはさまざまな差別があり、障害者は差別のなかで生きているわけです。そうした差別される者の苦しみを、「吃り」を題材で描いたと考えたら、このお芝居に入っていけるようになりました。江戸時代も平成の世も、障害者差別の苦しみは変わっていません。 
 差別といえば、野茂投手がドジャーズ時代にインタビューで、キャッチャーのピアッツァを誉めたなかで、「彼は差別をしないし」と言っていたのを覚えています。ということは、ドジャーズの他の選手のなかには、東洋人の野茂を人種差別していた人もいるということでしょう。
 差別と言えば、ぽん太は以前に登山で足を痛め、手すりを使わないと階段が上り下りできなかったことがあります。電車でホームに降り立つと、乗客がいなくなるまで待ってから、手すりを伝わって階段を降りました。それでも上を見ずに階段を上って来た人に、迷惑そうな視線を向けられることがありました。たったこんなことだけでも、自分が社会の厄介者のような気になりました。
 差別といえば、この体験を精神障害者に話したとき、「でもそれは、そのうち治りますからね」と笑いながら言われたことが、心に残っています。
 さて、お弁当を食べてから「素襖落」。おおいに笑いましたが、幸四郎のリアルな演技がときどき周囲から浮いている気がしました。
 「御所五郎蔵」は、舞台も華があり、七五調の台詞の掛け合いも心地よかったですが、あんまり内容はない芝居。でも仁左衛門がかっこよくて大満足でした。いなせな町人風の役がぽん太のお気に入りです。

【演目と配役】
1 種蒔三番叟(たねまきさんばそう)
             三番叟  梅 玉
              千歳  孝太郎

2 傾城反魂香(けいせいはんごんこう) 土佐将監閑居の場
            浮世又平  吉右衛門
         又平女房おとく  芝 雀
          土佐修理之助  錦之助
           将監北の方  吉之丞
          狩野雅楽之助  歌 昇
            土佐将監  歌 六

3 新歌舞伎十八番の内 素襖落(すおうおとし)
            太郎冠者  幸四郎
             姫御寮  魁 春
            次郎冠者  高麗蔵
             三郎吾  錦 吾
             鈍太郎  彌十郎
             大名某  左團次

4 曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ) 御所五郎蔵
           御所五郎蔵  仁左衛門
              皐月  福 助
              逢州  孝太郎
            新貝荒蔵  権十郎
           二宮太郎次  松 江
         茶屋女房おわさ  鐵之助
           畠山次郎三  男女蔵
            秩父重介  由次郎
            梶原平蔵  友右衛門
          星影土右衛門  左團次
           甲屋与五郎  菊五郎

2007/11/12

【宗教】神仏分離についてちと勉強してみる

 以前に神仏習合について学んだぽん太は、それではなぜ明治政府は神仏分離を行ったのかという疑問を持ったのでした。幕藩体制をこわして明治政府を打ち立てるために、なぜ長い間どの権力者も手をつけなかった神仏習合を改める必要があったのでしょうか? さっぱりわからないので、とりあえず手軽に読めそうな『 神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈 』(安丸良夫、岩波新書、1979年)を読んでみました。ところが手軽どころか、江戸時代の宗教の状況から説き始め、明治政府による神仏分離、廃仏毀釈の嵐、そして「信教の自由」に至までの流れがかなり詳しく書いてあり、新書でありながら読み応えのある立派な本でした。ぽん太が知らないことばかりで、とても勉強になりました。興味のある方にはぜひご一読をお勧めします。
 現在われわれが日常的に関わっている仏教や神道が、どのように歴史的を経てきたものなのかを知ることは、最近よく目にするナショナリズム的な日本人論について考えるうえでも、とても大切に思われます。ナショナリストが「日本古来の伝統」などと言っているものが、実は明治以降に成立したものだったりします。たとえば一般には日本伝統の儀式と思われている神前結婚式も、実は明治33年に大正天皇の婚儀のために作られた様式が、民間に普及したものなのだそうです。
 以下、ぽん太にとって面白かった点をまとめてみたいと思います。

 まず、信長が一向宗や比叡山を徹底的に弾圧したように、ときの権力者にとって、宗教は常に弾圧の対象だったそうです。宗教の信者は、世間一般の考えとは異なる勝手な理屈を信じて、社会通念や道徳に反する行動をとり、平気で支配者の命令を拒否します。江戸幕府は、寺請制度にいよって民衆を特定の寺院につなぎ止め、その寺院を幕府が統制するという形で、きびしい宗教支配を行っていました。
 一方で江戸時代の民衆の信仰は、氏神や自然神、祖霊崇拝と混ざり合ったものでした。また、参詣講、飲食や娯楽を伴う地域の講、開帳や縁日など、宗教は民衆の娯楽でもありました。民衆の生活と宗教は、深く結びついていました。
 江戸幕府は、かくれキリシタン、不受不施派、かくれ念仏などの宗教的異端を取り締まっただけでなく、在家法談、夜談義、いわれのない人集め、遊行勧進僧の入国、新法異説、流行神などを禁止しました。つまり幕府に取って問題なのは信仰の内容ではなく、民衆の行動の様式であり、人々が奇異な説を信じたり、人集めが行われたりするのがイヤだったのです。こうした禁を犯さなければ、日常的な民衆の宗教生活は、比較的自由でした。
 しかし一方で、権力が民衆の宗教をコントロールし、国家が祭祀を行うべきだという考え方もありました。おそらくは荻生徂徠(1666〜1728)に端を発し、幕末の水戸学や、平田篤胤などの後期国学につながって行きました。こうした思想は、日本侵略を狙う西欧諸国のキリスト教に対抗するためでもありました。しかしこのような祭政一致論は、あくまでもさまざまな考えのうちの一つに過ぎませんでした。

 明治維新は、「幕府を倒して古の天皇中心の国家に戻す」というイデオロギーのもとで行われましたから、大昔の律令制度にならって神祇官という役職が置かれました。ここに神道国家主義を唱えるひとたちが登用され、国家権力における足がかりを得ました。明治政府は、当初は列候会議に基づく公議政体論を目指したのですが、岩倉具視などの一部の公家が、薩摩や長州の武力を背景にして、専制的な政治体制をうち立てました。このときに自分たちの立場を正当化するために使われたのが、「神権的な天皇を自分たちが擁している」という理屈でした。これも神仏分離の要因の一つとなりました。
 神仏分離が、廃仏毀釈の嵐を生じさせたことは、省略いたします。注意すべきことは、廃仏毀釈によって仏教が完全に破壊されたわけではないということです。明治政府は浄土真宗の権力と財力を必要としていました。また僧侶も、これまでの民衆との深いつながりを利用して国民教科をし、競って明治政府に協力しました。
 もうひとつ注意すべきことは、明治政府が弾圧したのは仏教だけでなく、氏神や村の祠、土地の神々を祀った神社も対象となったということです。こうした祠や社は破壊されたり整理統合されて、かわりに天皇家にゆかりの神々が御祭神としてすえられました。つまり、天皇家とそれにまつわる神様以外のあらゆる信仰が弾圧されたのです。ですから明治政府の宗教政策を、神仏分離や廃仏毀釈だけで捉えることは間違っていることになります。
 してみると、ぽん太はあちこちの神社を訪ねては祀ってある神々を調べるという遊びをしていたのですが、そうした神々は古来の伝統的なものではなく、多くは明治以降に勝手に決められたものだということになります。ああ、ショック。これからは現在の御祭神を調べるのではなく、神社仏閣の御由緒を調べ、江戸以前に祀ってあった神仏を調べる必要がありそうです。

 祭政一致による支配をもくろんだ明治政府ですが、外国との外交交渉の過程で、前提として「信教の自由」の保証を要求されます。しかし、こうして得られた日本における信教の自由は、宗教に対する深い理解に基づくものではなく、開国して世界のなかに入って行くために明治政府が身にまとった衣装にすぎませんでした。
 またこの頃、日本の僧侶が外国を訪れ、政治から独立したキリスト教のあり方を目の当たりにすることによって、仏教がこれまで時の権力におもねるようなやり方をしていたことに対する反省も生まれて来たそうです。

 この本を読むことで、幕末から明治にかけての日本の宗教の流れが少し理解できました。新たに興味がわいてきたのは、江戸時代にどのようにして国体神学が成立し、強まって来たのかということと、明治以降、神道非宗教説に立った国家神道がどのように発展し、昭和の戦前の思想につながっていったかということです。機会があったらみちくさしたいと思います。

2007/11/11

【歌舞伎】歌舞伎座夜の部(「山科閑居」「土蜘」など)

 あいにくの冷たい雨のなか、歌舞伎座に出かけてきました。11月は顔見世です。
 「宮島のだんまり」は顔見世らしく華やか。「山科閑居」は堪能。傷を負ってからが長いのは同じなのに、先日の「摂州合邦辻」とは違って劇に違和感なく入り込める。話しのデキが違うのか? 菊之助きれい。「土蜘」は配役が豪華。主役の菊五郎はもとより、間の狂言が仁左衛門、梅 玉、東蔵。おじさん達が集まって何をやってるんだろうという感じだが、仁左衛門は何をやってもカッコイイ。「三人吉三」は、若い者が集まって何をやってるんだろうという感じ。顔見世のお祭りだからいいか……。

【演目と配役】
1 宮島のだんまり(みやじまのだんまり)
  傾城浮舟太夫実は盗賊袈裟太郎  福 助
            大江広元  歌 昇
          畠山庄司重忠  錦之助
           白拍子祗王  高麗蔵
            相模五郎  松 江
          浪越采女之助  亀 寿
            息女照姫  芝のぶ
          御守殿おたき  歌 江
            河津三郎  桂 三
            浅野弾正  彌十郎
          悪七兵衛景清  團 蔵
            典侍の局  萬次郎
           平相国清盛  歌 六

2 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら) 九段目 山科閑居
             戸無瀬  芝 翫
          大星由良之助  吉右衛門
            大星力弥  染五郎
              小浪  菊之助
              お石  魁 春
           加古川本蔵  幸四郎

3 新古演劇十種の内 土蜘(つちぐも)
       僧智籌実は土蜘の精  菊五郎
            番卒太郎  仁左衛門
             巫子榊  芝 雀
            侍女胡蝶  菊之助
           渡辺源氏綱  権十郎
            坂田公時  亀 蔵
            碓井貞光  亀三郎
            ト部季武  市 蔵
              石神  玉太郎
           太刀持音若  鷹之資
            番卒藤内  東 蔵
            平井保昌  左團次
            番卒次郎  梅 玉
             源頼光  富十郎

4 三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ) 大川端庚申塚の場
            お嬢吉三  孝太郎
            和尚吉三  松 緑
           夜鷹おとせ  宗之助
            お坊吉三  染五郎

2007/11/08

フェルメール「牛乳を注ぐ女」→鳥獣戯画→エッシェンバッハ・パリ管弦楽団

 今日は夜にパリ管弦楽団の切符をとってあったのですが、早めに出かけて国立新美術館で「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」を見に行きました。国立新美術館に行くのは初めてでした。国立新美術館といえば、あの黒川紀章が設計した建物です。ガラスで造られた波打つようなファサードが、ちと生物的な感触も醸し出し、人目を引きます。内部構造は一転して機能的で、長方形の建物が長方形の展示ブロックに単純に分割されているだけです。国立新美術館が、収蔵品を持たない公募展や企画展のためのギャラリーであるため、使い勝手がいいように設計されたそうです。しかし、ここ数年で黒川紀章氏のお茶目な一面を知ったいま、ぽん太には「見かけは立派だが中身がない」という皮肉がこめられているように思えてなりません。この収蔵品を持たない国立の巨大貸しギャラリーは、所属オーケストラすら持たない新国立劇場とともに、日本の文化行政における究極の「箱モノ」として世界に誇るべきものでしょう。
 さて、会場に入るとオランダ風俗画がところせましと並んでいますが、ぽん太はそれらには目もくれず、お目当ての「牛乳を注ぐ女」に向って一直線。あった! 意外と小さい! 絵の手前を立ち止まらずに歩きながら見る方式でした。前の人に続いて絵に近づいて行くと、本当に絵がキラキラと輝いています。フェルメールは光を描いた画家と言われていますが、想像以上でした。有名なパンや籠に置かれた白点も、色彩の効果として光を表すというよりは、でこぼこした絵の具の表面が光を乱反射し、宝石のようにきらきらと輝いていました。ですからこの美しさは複製写真を見ても絶対にわかりません。せっかくなので3回並んで見ました。次に、この絵に関する解説の展示を見てから、もう2度みました。その後、入り口まで戻って、その他の展示品のオランダ風俗画を見ましたが、とにかく画面が暗い。闇のなかに溶け込んでおります。こうした同時代の暗い絵画を最初に見てからフェルメールを見たならば、驚きは数倍になることでしょう。お別れにもう2回「牛乳を注ぐ女」を見て会場を立ち去りました。思ったほど混んでいなかったのが驚きでした。フェルメールって、一般にはそんなに人気はないのでしょうか? 12月17日まで国立新美術館で開催。

 パリ管弦楽団まではまだ時間があったので、次はサントリー美術館の「鳥獣戯画がやってきた!ー国宝『鳥獣人物戯画絵巻』の全貌」にハシゴです。サントリー美術館の建物の設計は隈研吾氏。同じく彼が設計した銀山温泉の藤屋旅館とちょっと似ていることは、以前のブログで書きました。
 「鳥獣戯画」(正確には「鳥獣人物戯画絵巻」)は、甲・乙・丙・丁の4巻からなり、有名なカエルとウサギの相撲などは甲巻に含まれ、なかなか面白いです。しかし丁巻あたりになると、なんだか書きなぐったような絵で、ちっともいいとは思えませんでした。ところでぽん太は昔、「鳥獣戯画」の作者は鳥羽僧正と教わった気がするのですが、現在では、鳥羽僧正が生きたのは12世紀前半、「鳥獣戯画」が描かれたのが12世紀後半以降ということで、鳥羽僧正作者説は否定されているそうです。

 で、最後にサントリーホールでクリストフ・エッシェンバッハ指揮のパリ管弦楽団。プログラムは以下のとおりです。

チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.35」 
     ヴァイオリン:諏訪内晶子
(アンコール バッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番」よりアンダンテ)
ラヴェル「ラ・ヴァルス」
ストラビンスキー「バレエ『火の鳥』組曲(1919年版)」
(アンコール ラヴェル「ボレロ」)

 諏訪内のチャイコフスキーは、ゆったりしたテンポで細かいニュアンスを明瞭に描きつつも、全体として流麗で美しい演奏。ロシア的な土臭さ、演歌調の「ため」や「泣き」はいっさい無し。オケは控えめに伴奏といった感じ。一転して「ラ・ヴァルス」では、オケが得意のフランス音楽をのびのび思いっきり演奏。「火の鳥」も色彩豊か。アンコールでなんと「ボレロ」。しかもエッシェンバッハは気をつけの姿勢のまま動かず。途中から少しずつ体をゆすりはじめ、さらに頭の動きと顔の表情で指揮をして行く。まさに「他人をアゴで使う」の図。曲の進行につれて気合いが入って来て、だんだんとエッシェンバッハのハゲ頭が上気して赤くなっていくのを見て、先代柳家小さんの百面相の「タコの釜入り」という芸を思い浮かべる。コーダに入ってようやく両手を動かして指揮をとり、多いに盛り上がって拍手喝采。
 団員の服装もタキシードじゃなくて、でっかいネクタイに黒い詰め襟のような服で、しかも裏地は深紅。演奏もシャレていて、ボレロのパフォーマンス付き。やっぱり、なんかフランスっていいな、と思いながら家路につきました。

2007/11/07

【歌舞伎】国立劇場「摂州合邦辻」

 国立劇場2007年11月歌舞伎公演「摂州合邦辻」を見てきました。
【配役】
玉手御前 坂田藤十郎
誉田妻羽曳野 片岡秀太郎
高安俊徳丸 坂東三津五郎
奴入平 中村翫雀
浅香姫 中村扇雀
高安次郎丸 片岡進之介
誉田主税之助 片岡愛之助
合邦妻おとく 上村吉弥
桟図書 坂東秀調
高安通俊 坂東彦三郎
合邦道心 片岡我當

 継母が継子を愛するという禁断の恋の物語。筋書きの解説によれば、もとはインドの物語で、それが日本に伝わって、たとえば『今昔物語』の巻4第4話の「クナラ太子説話」となり、ギリシアに伝わってギリシア悲劇『ヒッポリトス』となり、さらにはラシーヌの『フェードル』を生んだという。この題材は、能の『弱法師』や説教節の『しんとく丸』など、中世・近世の芸能で親しまれたそうで、また折口信夫のいう貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)とも関連しているそうです。へ〜。知りませんでした。こんど読んでみようっと。
 また、1978年初演の寺山修司の『身毒丸』もこの伝説をふまえており、来年3月には藤原竜也で再演されるようで、今から楽しみです。
 この芝居は、菅専助、若竹笛躬の脚本で1773年(安永2)人形浄瑠璃として大阪で初演されました。今回の歌舞伎での通し上演は、39年ぶりだそうです。
 継子の俊徳丸に恋をした玉手御前の坂田藤十郎が、恋にくるった女のさまざまな心を演じる芝居は圧巻。しかし最後の、実はすべては玉手御前の深謀遠慮に基づく芝居だったという「オチ」はとってつけたようで、くどくて長く感じました。今回の演出が初演当時と同じだったのかどうかぽん太は知りませんが、当時の観客はこんな「オチ」を喜んだのでしょうか?
 宗教的には浄土宗系の色が濃く、空也に始まるという踊念仏があったりし、イヤホンガイドによれば明治時代に流行していたのを取り入れたものだとのことでした。このあたりもみちくさしてみたいところです。

2007/11/06

【神様】そもそも『古事記』と『日本書紀』ってなに?

 日本各地の有名な神社を訪れては、そこに祀られている神々を調べ、『古事記』や『日本書紀』と照らし合わせたりして喜んでいるぽん太ですが、先日ふと「で、『古事記』とか『日本書紀』ってなんだっけ?」という疑問がわいてきました。高校時代に習った記憶では、奈良時代に作られた神話だか歴史書だったと思いますが、それ以上はわかりません。『古事記』と『日本書紀』は似ている部分も多いのですが、神様の名前や神話的なエピソードなどがかなり食い違っています。たしか『古事記』の方が少し早かったと思いますが、『古事記』をもとに『日本書紀』を書いたのか、それともまったく別のものなのか、ちんぷんかんぷんです。
 ちょっとググってみると、成立年代は『古事記』が712年(和銅5)、『日本書紀』が720年(養老4)でした。しかし、両者についてそれ以上ネットで調べようとしても、かなり怪しいカルト的な説が飛び交っていて、調べようがありません。ということで、正攻法を使って、何冊か本を読んでみました。

 『古事記』の成り立ちに関しては、その序文から、天武天皇の命令によって稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦み習わせたものを、元明天皇の時代の712年(和銅5)に太安万侶(おおのやすまろ)らがまとめたものだそうです。この「誦み習わせた」という意味が、暗唱させたのか、書き留めて何度も誦んだのかは意見が分かれるようですが、当時の神話は祭りや儀式で実際に唄われていたのでしょうから、天才的記憶力を持つ稗田阿礼がこれらの唄を収集して暗記したと考える方が、ぽん太はワクワクします。
 『日本書紀』の方も天武天皇の命令により681年(天武10)に編纂が開始され、こちらは元正天皇の時代720年(養老4)に舎人親王によって完成されたそうです。
 このように『古事記』と『日本書紀』は、どちらも天武天皇の命令で作り始められ、完成したのもわずか8年しか違わないので、似ている点が多いようです。話しの内容や神様の名前の多くが一致し、天皇の名前は完全に一致しているそうです。
 しかし両者は異なる点も多く、『日本書紀』が第40代持統天皇まで扱っているのに対して、『古事記』は第33代の推古天皇までしか書かれていません。また天皇の在位年数や寿命がほとんど異なっています。『古事記』はひとつの物語して書かれていますが、『日本書紀』は本書とともに複数の説が注記されています。『古事記』は漢文と、漢字を使って音を表記した部分からなる和漢混交文体で書かれていますが、『日本書紀』は漢文体で書かれています。
 で、両者の関係ですが、『古事記』を参考にして『日本書紀』が書かれたという説や、両者は別個に作られたという説などがあり、定説はないようです。両者の比較はさまざまな観点からなされているようです。
 『日本書紀』は、中国の陰陽思想に基づいて書かれており、中国を意識した日本の公式の歴史書として編纂されたようで、それを使って貴族たちが勉強会を開いたそうです。『古事記』に関しては、元明天皇の私的な本であるとか、(当時の)近代化によって失われつつある古を懐かしんで作ったのだとか、諸説があるようです。
 ですから古来、もっぱら『日本書紀』が重視され、『古事記』は一参考文献程度に扱われていたそうです。中世には『日本書紀』が本地垂迹説に基づいて仏教的に読み替えられていたことは、【宗教】神仏習合について勉強してみた(2007/10/30)で書きました。江戸時代に本居宣長は『古事記伝』という『古事記』の注釈書を書き、『日本書紀』よりも『古事記』を重視し、そのなかに外国文化に汚される以前の本来の日本の心を見出そうとしました。明治以降、両書は皇国史観の根拠とされていましたが、津田左右吉(1873-1961)は文献批判学的方法によって、『古事記』や『日本書紀』は、皇室による日本の統治を正当化するという政治的意図に従って作り上げたものだと主張しました。そのほか、さまざまな観点から研究、読解が行われているようです。
 いずれにせよ『日本書紀』と『古事記』は、当時の日本という国家の始まり、天皇制の起源、天皇とはどういうものであったかといった、とても重要かつ難解な問題につながっているようです。このあたりは現在のぽん太にはまったく歯がたちません。

【参考文献】
・倉西裕子『「記紀」はいかにして成立したか -「天」の史書と「地」の史書』、講談社選書メチエ、2004年。
・神野志隆光『 古事記と日本書紀ー「天皇神話」の歴史』、講談社現代新書、1999年。
・ 工藤隆『古事記の起源ー新しい古代像をもとめて』、中公新書、2006年。

2007/11/03

【酒屋】新潟の「地酒の都屋」で純米酒の定義が変わったことを知る

 新潟市においしい寿司を食べに寄ったぽん太とにゃん子は、美味しい新潟の酒を求めて、雑誌に出ていた「地酒の都屋」に行ってみました。住所は新潟県新潟市親松2-3(地図はこちら)、電話番号は025-285-0761です。公式ホームページはないようですが、こちらに店舗の設計事務所のサイトがあり、またこちらの新潟県医師会のサイトでは、新潟のお医者さんがこの店を紹介しておられます。
 東京から来たことを告げると、お店の若旦那と思われる人が、新潟のお酒についていろいろと教えてくれました。酒には詳しいつもりだったぽん太も初めて伺う話しが多く、とても勉強になりました。その内容は書きませんので、興味がある方は実際に行ってみて下さい。
 有名どころの久保田や八海山は避け、初めて名前を聞いた千代の光(ひやおろし)と、よく見かけるけどこれまであまり飲んだことがなく、昨晩泊まった栃尾又温泉宝巌堂で飲んでとってもおいしかった緑川の純米、そして地元では普通に飲まれていながら生産量が少ないために東京ではバカ高い値段がつく某日本酒(名前は秘密だよ)の本醸造をミーハーで買いました。

 さて、この店でお伺いして驚いた話しは、純米酒の定義の変更です。ぽん太の昔の知識では、少なくとも純米酒と名乗るからには、精米歩合が70%以下であることが必要でした。ところが平成16年1月1日から精米歩合の制限が撤廃されたというのです。
 調べてみると、平成16年1月1日に酒税法の「製法品質表示基準」が改訂されたようです。詳しくはこちらの国税庁ホームページのなかの清酒の製法品質表示基準(平成元年国税庁告示第8号)「清酒の製法品質表示基準」の概要を参照下さい。
 精米歩合とは、お酒を造るためのお米をどれくらい精米するかを示したもので、精米歩合が70%以下ということは、お米の周りの3割以上を削り取ってしまうということです。ご飯として炊いておいしいのはタンパク質が多いお米なのですが、お酒を造るにはタンパク質はむしろ有害です。一般にお米の外側にタンパク質が多いので、精米をしてタンパク質の多い外側を削ることによって、品質のよい日本酒を造ることができます。とはいえ、削った外側は無駄になるわけですから、精米をすればするほど損失が多くなるわけです。酒蔵は、美味しいお酒を造るために、涙を飲んでお米を精米するわけです。
 で、何が問題かというと、精米歩合の制限が撤廃されることで、精米歩合が低い酒が売られるということだけではありません。精米によって削り取られたカス、いわゆる「米ぬか」の部分を使って造ったお酒も、純米酒と名乗ることができるのが問題なのです。こうした米ぬかを使った酒は、以前は「米だけの酒」とか「米100%の酒」という名で売られていました(聞いたことありますよね)。それが今や堂々と純米酒として売られているのです。
 この改訂によって「質が悪くても精米さえすれば良い」という考え方がなりたたなくなったのは良いことかもしれませんが、これまで普通酒と特定名称酒の区別の基準となっていた精米歩合70%が撤廃されたことは問題です。ただこんどは精米歩合の表示が義務づけられたようなので、純米酒を買うときは精米歩合を確認する必要が出てきそうです。精米歩合が70%以上の場合は、注意が必要です。ただ、先にリンクした清酒の製法品質表示基準(平成元年国税庁告示第8号)によると、「精米歩合とは、白米(玄米からぬか、胚芽等の表層部を取り去った状態の米をいい、米こうじの製造に使用する白米(以下「こうじ米」という。)を含む。以下同じ。)のその玄米に対する重量の割合をいうものとする」と書かれているので、精米歩合が本当に米の外側を削った割合なのか、それとも削りかすの外側の部分なのかは定かでありません。
 純米酒の基準のこの改訂は、日本酒を愛し、日本酒が多くの人たちに飲まれるようになるのを願うぽん太には、ちとショックでした。

2007/11/01

【温泉】栃尾又温泉宝巌堂はレトロモダンの落ち着く宿(★★★★

栃尾又温泉宝巌堂 紅葉の魚沼駒ヶ岳に登ってきたぽん太とにゃん子は、栃尾又温泉の宝巌堂(ほうがんどう)に泊まりました。こちらが宿の公式サイトです。栃尾又温泉は、この宝巌堂と自在館神風館の三つの宿がありますが、ぽん太は自在館には2回ほど泊まったことがあります
栃尾又温泉宝巌堂 外観は落ち着いた和風建築で、黒い柱と白い壁がきれいです。内部は冒頭の写真のようにレトロモダンにリニューアルされていて、暖かく落ち着く雰囲気です。
栃尾又温泉宝巌堂の夕食 栃尾又温泉宝巌堂の露地栽培マイタケ炭火焼 夕食も地元の食材を生かしたちょっと手の込んだお料理で、名物の栃尾揚げ、サツマイモの素揚げ、露地物のマイタケの炭火焼(ジューシーで美味)、子持鮎の塩焼き、越後牛のステーキなどが、できたてで次々と運ばれてきました。
栃尾又温泉宝巌堂の朝食 こちらが朝食です。ここは新潟県魚沼市。ご飯がおいしいのは言うまでもありません。
栃尾又温泉宝巌堂の内風呂 ただ問題なのはお風呂です。栃尾又温泉は、3軒の旅館が共同して上の湯と下の湯という二つの温泉を管理しており、時間制で男女を入れ替えております。泉質はぬるめのラジウム温泉で悪くはなく、下の湯は昔ながらの湯治場風でムードがあっていいのですが、上の湯が元温泉センターの味気ない建物で、脱衣場のロッカーも金属製でプールのよう、湯船も毒々しい青いタイルです。そして宝巌堂からこれらの風呂に入るには、宿からいったん外に出ないといけません。そのため、寝る前にちょっと入ったり、朝起きて食事前にひと風呂浴びたりするのがちとおっくうです。写真の木の浴槽の貸切制の内風呂もあるのですが、残念ながら温泉ではありません。これが温泉なら文句なしなのに……。
栃尾又温泉 自在館の旧館前のレトロな雰囲気の写真です。宝巌堂はリニューアル系のレトロモダンの快適な宿で、食事もとてもおいしいし、ご主人や女将もとても気さくでいいのですが、お風呂がちと遠いのと、上の湯の風情がないのが残念ながら減点となり、ぽん太の評価は4点です。リニューアル前にも泊まってみたかった気がします。

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