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2008/02/21

中世ロシアの文学『イーゴリ遠征物語』を読む

 過日マリインスキー・オペラの『イーゴリ公』を観て感動したぽん太は、オペラの題材となった『イーゴリ遠征物語 』(木村彰一訳、岩波文庫、1983年)を読んでみました。

 

 ボロディンのオペラ『イーゴリ公』は、「だったん人の踊り」(ポロヴェツ人の踊り)で有名ですが、その物語の下敷きとなったのは『イーゴリ遠征物語』という作者不明の中世ロシア文学です。ちなみにイーゴリ公のポエロヴェツ遠征は、1185年に実際にあった出来事だそうです。

 この物語は、いまでこそ中世ロシア文学を代表する傑作として評価されていますが、発見されたのは比較的新しく、1790年代に写本(Mと略記)が見つかったのが始まりだそうです。1800年には、当時のロシア語への対訳・脚注・解題を添えた初刊本(Pと略記)が出されました。また、それとは別に、女王エカテリーナ2世のためにコピーが作られ、こちらは1864年になって公刊されました(Aと略記)。ところが写本Mは、1812年のナポレオンのロシア遠征によるモスクワの大火で焼失してしまい、現在はPとAだけが残っています。ちなみにテクスト・クリティークの結果から、焼失した写本Mも16世紀初め頃に北ロシアで作られたと考えられており、12世紀末に作られたとされる原作とは大きくことなっているそうです。

 『イーゴリ遠征物語』は比較的短い作品で、邦訳は叙事詩のような文体になっていますが、訳者の解説によれば、原文は複雑な詩的リズムを持つ散文で書かれているそうです。

 この物語の自然感は独特で、自然が意思や感情をもっており、人間や出来事に反応します。さらにはイーゴリ公とドネツ川が対話したりします。

 コンチャークがイーゴリ公を紳士的に扱ったことや、イーゴリ公の息子ヴラジーミルがコンチャークの娘と結婚したことなどは、『イーゴリ遠征物語』には出てきません。他の「年代記」などに記されているそうです。

 オペラの中では、イーゴリ公の妻ヤロスラーヴナが夫の身を案じて「郭公となって愛する夫のところに飛んで行きたい」と歌う美しいアリアがありますが、『遠征物語』のなかに、ほぼ同じ内容の詩句があるようです。

 

 邦訳の解説には、イーゴリ公遠征の時代背景について書かれています。ウクライナのキエフを中心に9世紀末に建国された東スラブ人の国家ルーシ(キエフ大公国)は、11世紀には全盛期を迎えますが、13世紀前半にモンゴル帝国によって滅ぼされます。イーゴリ公の遠征が行われた12世紀末は、ポロヴェツ人の侵入と、諸候の内乱によって、ルーシは危険をはらんだ状態だったそうです。

 ポロヴェツ人はテュルク系の遊牧民で、勇猛果敢であり、ルーシに何度も侵入して、村を焼き討ちしたり、住民を殺したり奴隷にしたりしたそうです。西ヨーロッパとアジアの交易を担って栄えていたルーシですが、ポロヴェツ人によって黒海やカスピ海への通商路を断たれたことや、十字軍遠征によって地中海貿易のルートが栄えたことなどによって、力を失うことになります。

 ルーシでは諸候同士の内乱が絶えませんでしたが、その原因のひとつは、独特の候位継承制度があったそうです。候が死んでも、候の子供には継承権がありませんでした。各都市はキエフを頂点とする格付けがなされており、ある都市を支配していた候が死ぬと、一つ下位の都市を支配していた候が後を継いだのだそうです。

 さらには諸候同士の内乱に際して、共通の敵であるはずのポロヴェツ人の軍事力を借りるといったことが横行していたのだそうです。

 この物語の主役のイーゴリ公の遠征も、個人的な功名心に基づくスタンドプレーだったどいう評価もあるようです。

イーゴリ公遠征関連地図 イーゴリ公の遠征は、この物語以外にも、古い年代記などに記載されているそうで、それらを総合すると、公は1185年4月23日、弟フセーヴォロト、甥スヴャトスラーフ、息子ヴラジーミルを伴い、居城のあったノーヴゴロト・セーヴェルスキイを出発(地図を参照して下さい。ただし邦訳を参考にぽん太が作成したので、多少違っている可能性があります)。5月1日夕刻、ドネーツ川付近で日食に遭遇。5月10日、ポロヴェツ人の小部隊と戦って勝利。しかし5月11日の明け方に敵の大群に包囲され、夜を徹して戦いますが、12日に大敗を喫して壊滅。その場所はいろいろと説がありますが、アゾフ海北岸に近いカリミウス川のほとりとも言われているそうです。勢いに乗ったポロヴェツ人はスーラ川とセイム川の間のドニエプル左岸にまで侵入して引き上げたそうです。おそらく6月頃、イーゴリ公はポロヴェツの陣地を脱出。11日歩いてドネーツに行き、ノーヴゴロドに戻りました。2年後の1187年秋、息子ヴラジーミルが、コンチャーク汗の娘と子供一人を伴って帰国したそうです。

 

 邦訳の底本は、ロマーン・ヤーコブソン『選集』第4巻(1966)に収録されたテクストとのこと。ロマーン・ヤーコブソンといえば、構造主義言語学で有名ですが、ロシアの古い物語の校訂のような仕事もしてたんですね。

 そういえば、遠征物語の舞台は現在のウクライナですが、バレエダンサーのウラディミール・マラーホフもウクライナ出身ですね。実は今夜観に行く予定です。

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コメント

ryotaroさん、コメントありがとうございました。
『イーゴリ遠征物語』、ぽん太は歌劇を見ておおまかな筋が頭に入っていたので、
なんとか読むことができましたが、確かに読みにくいですね。
オペラの『イーゴリ公』、ホントにすばらしいですよ。

こんにちは。「イーゴリ遠征物語」は
そう長くは無いですが巻末の系図や地図と首っ引きで
読むのが大変でしたw
「イーゴリ公」はまだ見てないです。。。

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