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2008/02/19

斎藤茂太『精神科医三代』で日本の精神医学史を学ぶ

 昨日のブログに映画の『去年マリエンバートで』のことを書いたら、本日の新聞に、脚本を書いたアラン・ロブ・グリエの訃報が出てました。ぽん太のブログはデスノートか!?

 森田正馬の評伝を読んで日本の精神医学史に興味をもったぽん太は、続いて斎藤茂太『精神科医三代』(中公新書、1971年)を読んでみました。斎藤茂太先生は、言わずと知れた精神科医で斎藤病院の元院長、斎藤茂吉の息子にして北杜夫のお兄さんです。本書は斎藤家の紀一・茂吉・茂太の三代に渡る歴史を書いたもので、北杜夫の小説『楡家の人びと 』と同一の題材です。
 こんかいも書評や要約ではなく、ぽん太が興味深かった点を抜き書きいたします。

 まず斎藤紀一は、1891年(明治24年)に浅草区東三筋町54番地に浅草医院を開業しました(p.4)。現在も台東区三筋という地名が残っていますが、こちらの大正元年の浅草地図の東三筋町54番地を現在の地図と比べてみると、ここらあたり(地図)のように思うのですが、正確にはわかりません。ちなみに三筋2-16の三筋老人福祉会館に、斎藤茂吉の碑があるそうです。で、この頃、まだ紀一が精神科を志す以前で、あらゆる病気を診ていましたが、なかなか繁盛したそうです。1896年(明治29年)、守谷茂吉(のちの斎藤茂吉)は、生まれ故郷の山形県の上ノ山を立ち、紀一にもとに身を寄せました。ちなみに現在、山形県上山市には斎藤茂吉記念館があります。
 この頃の思い出を茂吉は、『三筋町界隈』(1937年、昭和12年)という随筆に書いているそうですが(p.5)、こちらの青空文庫で読むことができます。それを読むと「ぽん太」という芸妓が出てきますが、小生とは無関係なことはいうまでもありません。初代ぽん太は鹿島ゑ津というひとだそうですが、多磨墓地にお墓があるそうです。彼女は森鴎外の『百物語』(1911年、明治44年)に出てくるのだそうですが(こちらの青空文庫で読めます)、「太郎」という芸妓がそうでしょうか?
 さて、紀一は明治28年頃(?)に、神田泉町一番地にもうひとつ東都病院をつくりました。この場所はのちに坪井医院となり、昭和45年に茂太がそこを訪問したと書かれていますが、現在も坪井医院は残っているようです。
 細かい理由はわかりませんが、紀一は精神病院設立を思い立ち、まず自分が精神医学を修得するために、1900年(明治33年)にヨーロッパに旅立ちます。帰国は1903年(明治36年)ですが、奇しくも夏目漱石のイギリス留学からの帰国と同じ船になったそうで、日本で漱石の帰国を待っていた親戚は、精神科医が同船していると聞いて、留学中に精神障害になったのではないかと戦々恐々だったそうです(p.41)。
 帰国した紀一は、東都病院を精神科の病院に造りかえ、「帝国脳病院」と命名しました。さらに赤坂区青山南町5丁目に大精神病院の建設を開始し、1907年(明治40年)に完成。これが有名な青山脳病院です。この場所は現在では、表参道交差点から根津美術館方向に向かい、青山南小学校の向こう側を左に曲がった突き当たりです(地図はこちら)。マンションの一角に、斎藤茂吉の歌碑(注:当初「句碑」と書きましたが、「茂吉ファン」さんのご指摘で2014年3月3日に修正)があるそうです。こんどブルーノートにで行くときによってみようっと。
 話しは飛んで1924年(大正13年)、青山脳病院は火災で焼失します。病院の再建に対して反対運動が起こり、紀一は東京府下松原村に土地を借りて、病院を建設します(p.125)。これが現在の都立梅ヶ丘病院のある場所ですね。なぜこの病院が都に移ったかについては、後で述べます。
 知らなかったのは、この頃、精神病院の監督官庁が警視庁だったこと。有名な金子準二先生が、当時警視庁に技官としておられたそうです(p.129)。年配の先生にとっては当たり前か?厚生省ができたのは1938年(昭和13年)で、ようやく精神病院が警視庁の管轄からはずされたのだそうです(p.146)。
 1928年(昭和3年)、紀一は、気に入ってたびたび訪れていた熱海の旅館「福島屋」で死去します(p.137)。なぬなぬ、温泉と聞くと目の色が変わるぽん太ですが、ぐぐってみると、確かに熱海温泉福島屋という旅館が現存します。現在は日帰り入浴しか行っていないようですが、現在は古びてはいるものの内装も凝っていて、「ここに違いない」とぽん太の野生の本能が話しかけてきます。
 もうひとつ豆知識。精神科の病名から「狂」の字を取り除いたのは呉秀三先生だそうで、「躁うつ狂」を「躁うつ病」に、「早発痴狂」を「早発性痴呆」に改めたそうです。またカルテを日本語で書いたのも呉秀三先生の流儀で、当時カルテを日本語で書いたのは精神科だけだったそうです(p.139)。
 さて、千葉県市川市にある国府台病院の歴史。もともとは1872年(明治5年)に教導団兵学寮(のちの陸軍士官学校のようなもの?)の病室として使われたのがそもそもの始まりだそうです。1937年(昭和12年)、時の陸軍省小泉親彦医務局長が、自らドイツの第一次大戦で観察した経験に基づいて、日本でも戦争によって遠からず大量の神経症者が発症するだろうと予測し、国府台に精神科専門病院を作ったそうです。茂太さんは、「皇軍に精神病者はいない」「精神病はたるんでいるから起こる」などという思想だった当時の帝国陸軍において、精神病院を作った小泉軍医の先見の明と勇気を誉めたたえています。ちなみに茂太さんは、戦争中に召集されてここで働いていたそうです(p.155)。
 戦局が長引いてくると、後療法の必要が生じ、山梨県下部温泉に下部転地療養所が開かれ、作業療法などが行われたそうです。ちなみにぽん太が2006年6月に下部温泉大市館に泊まったときの記事はこちらです。ちなみに大市館は、つげ義春一家も泊まったことがあるなかなかいい旅館でしたが、昨年の9月15日から休館中です。再開を期待いたします。
 この下部転地療養所がどこにあったのかぐぐってみると、こちらの下部温泉湯元旅館大家のサイト(音楽がなるので注意!!)のなかに、下部ホテルが国府台陸軍病院の転地療養所として接収されたことが書いてありました。しかしこちらの下部ホテルのサイトは、そのような歴史には触れていません。
 茂太先生が、国府台病院の諏訪病院長の統計を引用して言うには、外地から送り返された傷病兵の精神疾患の比率は、昭和13年には1〜2パーセントでしたが、年々増加し、昭和19年には7〜8パーセントに達したそうです(p.158)。あれ、ぽん太は、「戦争中は神経症が減る」と思い込んでしましたが。それは軍隊にいない一般の国民の場合でしょうか?ホントはどうなのでしょう。謎です。
 こうした患者の症状は、敗戦後数日で劇的に変化したそうで、歩行不能だった患者が歩き出したり、失声症が自然に治ったりしたそうです(p.167)。
 松原の青山脳病院が東京都に移譲された話しですが。大戦中、松沢病院が戦災にあった場合に備えて、ほかにベッドを確保する必要が生じたそうです。いくつかの候補地が検討されましたが、最終的に青山脳病院に白羽の矢が立ち、1945年(昭和20年)5月18日に都立松沢病院梅ヶ丘分院となりました。この計画には先程述べた金子準二先生(当時は東京都の衛生技師)がかかわったのだそうですが、移譲の一週間後に梅ヶ丘分院は空襲で半分焼けてしまい、金子先生はえらく怒られたそうです(p.162)。

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コメント

茂吉ファンさん、間違いのご指摘ありがとうございます。
直ちに修正させていただきます。
今後ともよろしくお願いします。

 文中 マンションの一角に「茂吉の句碑」がある・とありますが茂吉の「歌碑」ですのでご訂正ください。

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