ぽん太とにゃん子は先日、歌舞伎で『一谷嫩軍記』を見てきました。感動いたしました。
で、そのなかに「檀特山(だんどくせん)の憂き別れ、悉陀太子(しっだたいし)を送りたる、車匿(しゃのく)童子が悲しみも」という一節がありました。出だしは義太夫が語り、「悉陀太子」からは熊谷直実のセリフになります。イヤホンガイドでは、釈迦が生まれ育った城を離れて出家した時、白馬の口を引いて従った車匿童子が、別れを惜しんで悲しんだという話があるのだとの説明でした。
仏陀の生涯に関しては様々な伝説が入り乱れていてはっきりしませんが、父親は王様で、何不自由ない暮らしをし、結婚もしていたそうです。しかし次第に贅沢な暮らしに満ち足りなくなり、29歳のときに生まれ育った城を抜け出して出家しました。上記の話は、このときのエピソードと思われます。
「筋書」([1]、p14)によれば、この話は『宇津保物語』、『梁塵秘抄』や浮世草子に載せられ、能の『通小町』や歌舞伎の『勧進帳』にも出てくるそうです。なんか、みちくさしたくなってきたぞ。
まず『宇津保物語』を見てみます。平安中期に成立した長編物語で、『源氏物語』に影響を与えたと言われています。作者は、源順(みなもとのしたごう)という説もありますがはっきりしないそうです。
『宇津保物語』の「俊蔭」の巻の二十六に、兼雅が北山を再び訪れる下りがあります。兼雅は北山の山中から聴こえてくる琴の音がに耳を留め、兄と一緒に山の中へと分け入ります。すると驚くことに山一面に獣が集まっています。兄が「気持ち悪いなあ、もう帰ろう」というと、兼雅は「わろきことをも宣はするかな。これこそおもしろけれ。ふかき山にけだものすまずは、なにをか山といはむ。だんどく山に入るとも、兼雅ら、けだものにせずべき身かは」と答えます([2]、p240)。「嫌なことをおっしゃいますね。これだからおもしろいんじゃないですか。深い山に獣が住んでいなかったら、なんで山と言えましょうか。私たちが檀特山に入ったとしても、自らを獣に施さなくてはいけないわけではないでしょう」といった意味でしょうか? ここには檀特山は出てきますが、釈迦の出家には触れていません。きっと当時の読者は、檀特山というだけで、何のことかわかったのでしょう。『宇津保物語』の他の部分で釈迦の出家の件が出てくるのかもしれませんが、さすがに全部調べる元気はありませんでした。
続いて『梁塵秘抄』。後白河法皇が編纂した平安末期(1180年頃)の歌謡集です。雑法門歌五十首のなかに次のような歌があります。
(207)太子の御幸には、犍陟駒(こんでいこま)に乗り給ひ、車匿舎人に口取らせ、檀特山にぞ入り給ふ([3]、p61)
(219)摩掲陀国(まかだこく)の王の子に、在(おは)せし悉達太子(すだちたいし)こそ、檀特山の中山に、六年行い給ひしか([3]、p64)
釈迦が乗っていた馬は「カンタカ」という白馬だったそうで、それがなまって犍陟駒(こんでいこま)になったのだそうです。摩掲陀国はマガダの音を写したもので、紀元前6世紀頃から中インドにあった王国とのこと。しかし実際には釈迦の父親はネパールの迦毘羅衛(カピラヴァスツ)の王でしたら、ちょっと違っています。なぜこのような間違いが生じたのかについては、ぽん太には皆目見当がつきません。
また『平家物語』の巻第十「三日平氏」には、次のような一節があります([4]、p209)。
……舟底にふしまろび、をめきさけびる有様は、むかし悉達太子の檀特山に入らせ給ひし時、車匿舎人がこんでい駒を給は(ッ)て、王宮にかへりし悲しみも、是には過ぎじとぞ見えし。
一の谷の戦いに敗れ、平家の敗色が濃くなります。平維盛は陣を抜け出して出家し、熊野詣でをしたのちに船で沖に漕ぎ出し、供をつれて海に身を投じます。遺言に従って後の供養をするためにただ一人船に残った舎人武里(たけさと)の悲しみの描写です。
この話はさらに『過去現在因果経』にまで遡ることができます。この経典は5世紀にインドの求那跋陀羅(ぐなばつだら)が漢訳したもので、釈尊の前世での行いから現世の伝歴までを語ることで、過去に撒いた因が必ず結果を生ずることを説いたものです。巻の第二、十五、「出家」に、例の話がでてきます([5]、p.49-57)。これは長いのであらすじを言えば……
29歳となった太子(釈迦)は出家を決意しますが、王である父は反対し、なんとかやめさせようとします。しかし太子は、ある夜、皆が寝静まっているときに、車匿(しゃのく)を起こし、愛馬の犍陟(けんぢょく)に鞍をつけて連れてくるように命じます。車匿は王の命令と板挟みとなって悩みますが、結局釈迦に従って馬を引き、城を後にします。やがて一行が跋伽(はが)仙人が苦行をする林の中に至ると、太子は馬から下りて、車匿に犍陟を連れて城に帰るように言います。車匿は、「太子をおいて一人で城へは帰れません」などといいますが、太子はありがたいお言葉で諭します。やりとりの間にも、太子は髪を剃り、美しい衣類や装飾品を脱ぎ捨て、袈裟を身にまといます。車匿はもはや太子を引き止めることができないことを悟り、泣く泣く犍陟を連れて来た道を城へ引き返してゆきます。
ここでは、車匿や犍陟は出てきますが、釈迦が行った先が檀特山ではありません。
檀特山は北インドにある山で、ホントは須大拏(しゅだいぬ)太子が修行した場所ですが、釈迦と混同されたのだそうです([3]、p.61)
もともとは出家する釈迦を見送る話しが、『一谷嫩軍記』や『平家物語』では何で死んだ人との離別で使われているのかという疑問が湧いてきますが、「死ぬこと」=「極楽浄土に生まれ変わること」である浄土思想の影響があるのかもしれません。
次に能の『通小町』ですが、小学館の『歌謡集2』(新編日本古典文学全集59、小学館、1998年)を見ましたが、それらしきものが出てきません。むむむ、なぜだ? 朝田富次さんがほかの小町物と間違えたのか。それとも『通小町』にもいろいろな版があるのか。
『勧進帳』では、問答の部分で、富樫が「山伏は何で金剛杖を持っているのか」と聞くのに対して、弁慶が「事も愚かや、金剛杖は天竺檀特山の神人、阿羅邏(あらら)仙人の持ち給ひし霊杖にして、胎蔵金剛の功徳籠めり」と答えます([6]、p.311)。『勧進帳』は何度も観ているのに気がつきませんでした。四月大歌舞伎でニザタマの『勧進帳』を観るときに、注意して聞いてみたいと思います。ところで阿羅邏仙人って誰じゃ?
もう疲れたので今日のみちくさはこのへんで。
【参考文献】
[1]朝田富次「芝居片片」、2008年3月大歌舞伎「筋書」に所収
[2]『宇津保物語・俊蔭』上坂信男等訳注、講談社学術文庫、1998年。
[3]『梁塵秘抄』、「新日本古典文学大系56」所収、岩波書店、1993年。
[4]『平家物語〈10〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1988年。
[5]『国訳一切経 (印度撰述部 本縁部 4)』大東出版社、1929年。
[6]『勧進帳』守随憲治校訂、岩波文庫、1941年。
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