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2008年3月の19件の記事

2008/03/31

【寺院】岩手県水沢市の黒石寺と正法寺をみちくさ

 東北旅行の途中で時間が余ったぽん太とにゃん子は、岩手県は水沢市にある黒石寺と正法寺に行ってみました。

妙見山黒石寺 妙見山黒石寺(みょうけんざん・こくせきじ)は、なんといっても蘇民祭で有名になりました。ぽん太も今回の騒動で初めて、黒石寺と蘇民祭のことを知りました。こちらが黒石寺の公式サイトです。写真は本堂(薬師堂)です。ここで「あの」祭りが行われたかと思うと、暑苦し〜いオーラを感じます。
妙見山黒石寺 聖武天皇の時代729年(天平元年)に開山したという歴史あるお寺ですが、案内板によれば、現在の本堂(薬師堂)は1884年(明治17年)に再建されたものだそうです。2代目高橋勘次郎によるという入口の彫刻もなかなか見事です。
妙見山黒石寺 中国の楼閣のような建物ですが、1階は供物を準備する御供所、2階が鐘楼になっているのだそうです。1883年(明治16年)に建てられたものだとのこと。黒石寺には国指定重要文化財の仏像も何体かあるようですが、参拝には事前連絡が必要なようで、今回は拝観できませんでした。

正法寺 続いて正法寺(しょうぼうじ)です。なんといっても茅葺き屋根の本堂と庫裡が美しく、惣門とともに国指定重要文化財となっております。こちらが正法寺の公式サイトですが、音楽がなるので注意!
正法寺 こちらが本堂です。茅葺き屋根のお寺というと、以前に訪れた能登半島の阿岸本誓寺(あぎしほんせいじ)を思い出します。阿岸本誓寺の茅葺き屋根は曲線を描いて軟らかく暖かい感じでしたが、正法寺の方は、直線的で凛とした雰囲気です。前者が浄土真宗で後者が曹洞宗というのが関係しているのでしょうか?内部も簡素で華美な装飾もなく、質実剛健な感じでした。

2008/03/30

【温泉】久々の五つ星!鄙びの宿・鎌倉温泉

宮城県鎌倉温泉 平沢の集落からさらに細い道を入って行くと、山懐に抱かれて、木造の鄙びた建物が見えてきます。これが伝説の秘湯、鎌倉温泉です。こちらが地図ですが、東北自動車道と山形自動車道に囲まれたところにありながら、山里の風景が広がります。
宮城県鎌倉温泉 湯治場らしい雰囲気ある建物ですが、近づいてみるとけっこう大きいようで、かつては湯治客で賑わったことが想像されます。
宮城県鎌倉温泉 木造二階建ての建物は、古びてはいますが、ずらりと並んだガラス戸が美しいリズムを刻みます。
宮城県鎌倉温泉 廊下と部屋の境は障子一枚。となりの部屋との境も襖で、個人情報は保護されません。でも、今日の宿泊客は、ぽん太たちだけのようです。
宮城県鎌倉温泉 こじんまりとした質素な部屋ですが、片隅の火鉢で炭が燃えています。単なる装飾ではなく、暖房として役立っています。ストーブを借りると、追加料金がかかります。
宮城県鎌倉温泉 床の間には、掛け軸に並んで、なんと「京都のペナント」が掛かっています。これはぽん太的には得点が高いです。京都旅行が物珍しかった時代を思わせます。
宮城県鎌倉温泉 廊下の突き当たりには、地元の演歌歌手のポスターが。その名も刈田ゆみさん。ググって見たら、公式ウェブサイトがありました。
宮城県鎌倉温泉 廊下のガラス戸も、昭和っぽいいい味わいを出しています。
宮城県鎌倉温泉 浴槽は普通のタイル張り。3人でいっぱいになるくらいの小さな湯船です。ライオンの注ぎ口が似合ってなくていいです。お湯は無色透明でした。残念だったのは、翌朝、朝食後に入浴しようと思ったら、地元の人が次から次へと入りにきていて、ついつい入りそびれてしまったことです。朝食前に入っておけば良かった!
宮城県鎌倉温泉 お風呂の隣りにある売店コーナー。宿泊客も現金払いです。
宮城県鎌倉温泉 夕食は地元の素材を使った素朴なお料理ですが、おいしくて大満足でした。
宮城県鎌倉温泉 朝になると、火鉢に炭を入れにきてくれます。朝食もヘルシーで品数が多く、お味噌汁もおいしかったです。

 美しい木造建築、ひなびた建物、素朴なサービス、かつての湯治場の雰囲気。鄙びた秘湯好きのぽん太とにゃん子は大喜びでした。

2008/03/29

【神社】遠刈田温泉の刈田嶺神社の狛犬はとってもラブリー

 ぽん太とにゃん子が以前に蔵王に行ったとき、刈田岳山頂の刈田嶺神社についてみちくさしました。そのときの調査の結果では、刈田嶺神社の里宮は、遠刈田温泉にある刈田嶺神社であるようでした。そしてそこには、とってもラブリーな狛犬がいるようで、機会があったら訪れてみたいとぽん太は思っておりました。で、今回の東北旅行で、刈田嶺神社を訪ねてみました。
刈田嶺神社 場所は遠刈田温泉の北で、日帰り温泉の神の湯の裏手です(地図)。鳥居には「蔵王大権現」と書かれています。蔵王権現について知りたい方は、Wikipediaを参照して下さい。蔵王権現のお姿は、たとえばこちらのページの写真のように、右足を高く上げているのが特徴です。
刈田嶺神社 この鳥居をくぐると左手に、もうひとつなかなか渋い雰囲気の鳥居があります。
刈田嶺神社 こじんまりとした境内です。鐘楼があるなど、神仏習合の名残が観られます。
刈田嶺神社 彫刻はなかなか細かく作り込まれています。
刈田嶺神社の狛犬 で、今回のお目当ての狛犬です。まず左側。カ、カエル?
刈田嶺神社の狛犬 こちらが右側です。どう見ても犬には見えません。右側の方が細部がしっかりと残っています。
刈田嶺神社の狛犬 右側の狛犬を別の角度から。なかなかいい味を出しています。ぽん太の中では、以前のブログで書いた軽井沢の熊野皇大神社の狛犬と一二を争う名品で、かなり得点が高いです。境内に、御由緒などが書かれた案内板がなかったのが残念です。

2008/03/28

アスピリンスノーってなんじゃ?

 ぽん太とにゃん子は先日、岩手県は安比高原スキー場に行ってきました。
 首都高の山手トンネル、始めて走りました。いいですね〜。これまで東京脱出に1時間はかかっていたのに、約半分の時間ですみました。ちゃんとこういう道路を造ってくれるのなら、ガソリン税も払う気がするのですが……。マッサージチェアじゃね。
 で、安比高原スキー場のキャッチフレーズのひとつが「アスピリンスノー」。むむむ、「アスピリンスノー」ってなんだ? 初めて聞いたぞ。パウダースノーなら知っているが。
 アスピリンと聞いて医者の端くれのぽん太が思い浮かべるのは、ドイツバイエル社の医薬品です。解熱消炎作用があるから、冷たい雪のことか? あるいは抗血小板作用で血液サラサラにするので、サラサラの雪のことか?
 「アスピリンスノー」は国語辞典に出てないし、aspirinを英和や独和で引いても薬のアスピリンという意味しかありません。
 仕方ないからググってみたら、素人投稿ビデオで児童買春で捕まった北海道の小学校教頭がヒット!なーんだそうだったのか。ちがうやろ!
 さらに検索してみたらwebioに出てました。北海道方言辞書に載ってますが、標準語だと主張しています。「粉状のさらさらした雪。氷点下のごく寒い状況下で見られる」と書いてあります。いくつかのサイトを総合してみると、「気温が非常に低いところで降る、普通の粉雪よりもさらに細かい良質の雪」といった語感のようです。これでだいたい意味はわかりましたが、何でアスピリンスノーというのかはわかりません。
 「まるでアスピリンの粉末のように白い粉雪のこと」と書いてあるサイトもありましたが、白い粉末ならアスピリン以外にもあると思うのですが。第一、アスピリンの粉末なんて、医者のぽん太も見たことがないぞ。
 ということで、「アスピリンスノー」という言葉は、実際のアスピリン粉末の形状から来た表現ではなく、「アスピリン」という言葉のイメージや印象からきたものだと考えられます。
 やはり解熱消炎作用や血液サラサラが関係しているのだろうか。あるいはアス「ピリン」というところが、氷点下っぽくも感じられるのだろうか。「アス」の方も、「アイス」を連想させます。「通常の自然現象を超えたもの」→「化学物質」という連想でしょうか? なんかよくわからないけど、確かに「アスピリンスノー」と聞くと、粒子が細かくて舞い上がると日の光でキラキラ輝くような雪を思い浮かべるから不思議です。
 ちなみにアスピリンをピリン系薬剤だと誤解している人が多いですが、アスピリンはピリン系ではありません
 安比高原は、とても広くてダイナミックなスキー場でしたが、さすがに3月下旬では雪が重かったです。今度はアスピリンスノーのときに行ってみたいです。

2008/03/27

【温泉】大丸あすなろ荘は落ち着く秘湯の宿(★★★★)

大丸あすなろ荘 弥生は中旬、東京では春の訪れを感じる暖かさですが、福島県二岐温泉はいまだに残雪がいっぱいありました。今回お世話になった宿は大丸あすなろ荘です。公式サイトはなさそうで、こちらの「御名湯温泉」のサイトが詳しそうです。
大丸あすなろ荘 国道118号線は、国道とは名ばかりの峠路で、奥州街道と会津西街道を東西に結んでいます。そのほぼ中間にある岩瀬湯本温泉は、茅葺き屋根の残る風情ある温泉で、ぽん太は以前に泊まったことがあります。その近くからさらに山道を南に入って行ったところに、二岐温泉があります(地図)。二岐温泉には何軒かの宿がありますが、そのなかに湯小屋旅館というところがあって、つげ義春の『二岐渓谷』や『枯野の宿』のモデルとなっております。ぽん太は20年ほど前に、つげファンのゴールデン・レトリバー君やクマ君とここに泊まり、つげさんの思い出話をお伺いしたことがあります。なつかしくなってググってみたら、今は経営者が変わって、名前も「新湯小屋温泉」となっているそうです(高田馬場つげ義春研究会のページ)。
大丸あすなろ荘の岩風呂 話しを戻して、今回泊まった大丸あすなろ荘の売りは、なんといっても昔は川底だった岩盤を利用して作られた岩風呂です(混浴ですが、女性専用時間帯あり)。緑色の岩の割れ目から温泉が自噴しています。川底であった証拠に、甌穴(ポットホール)と思われる二つの窪みがあります。ちなみにぽん太が、沖縄の古宇利島にあるトケイ浜のポットホールを訪れたときの報告はこちらにあります。
大丸あすなろ荘渓流露天風呂大丸あすなろ荘内湯 お風呂はその他に、渓流を間近に眺めながら入浴できる男性用渓流露天風呂と女性用子宝露天風呂、また男女別の露天風呂つきの内湯があります。お湯は無色透明、無味無臭のやわらかいお湯です。岩風呂はかなり暑いのですが、渓流露天風呂は少しぬるめです。
大丸あすなろ荘夕食大丸あすなろ荘夕食 お食事どころでいただくお料理は、山の素材を使って手が加わった会席料理で、岩魚の塩焼き、山菜の天ぷら、粕煮などができたてで運ばれて来ます。とくに野菜を粕汁で煮込んだ粕煮は初めて食べましたが、おいしかったです。ただひとつ気になったのは、仲居さんに後から運ばれてくる料理を聞いたら、答えが実際と違っていたので、粕煮が出てきたときには既にお腹がいっぱいにだったことです。簡単なお品書きを置いていただくか、あるいはあらかじめどんな料理が出てくるか正しく教えていただければ、すべてのお料理をもっと堪能できたのですが。
大丸あすなろ荘朝食 朝食も朝から鳥鍋がついてボリュームも満点、味もおいしかったです。
大丸あすなろ荘 お彼岸ということで、柏餅をお土産にいただきました。職員の応対もとてもはきはきしていて気持ちがいいです。建物が鉄筋なのはやや残念ですが、温泉、料理、あたたかいもてなしが良く、敷地も広々としていて、静かで落ち着く温泉です。しかも今回は、朝日旅行と日本秘湯を守る会の冬期キャンペーンの安い値段で泊まらせていただきましたので、ぽん太とにゃん子は大満足でした。

2008/03/25

歌舞伎『鈴ヶ森』から鈴ヶ森刑場・幡随院・『牡丹燈籠』をみちくさ

 ぽん太は先日歌舞伎座に行ってきました。そのとき観た『鈴ヶ森』から、本日のみちくさを開始しましょう。

 まずは題名の元になっている鈴ヶ森刑場ですが、現在で言えば東京都品川区南大井で、京浜急行大森海岸駅のやや北側に、鈴ヶ森刑場跡があります(地図)。白井権八のモデルとなった平井権八はここで処刑されましたが、他にも慶安事変の丸橋忠弥や、天一坊、八百屋お七などもここで処刑されています。
 『鈴ヶ森』に出てくる幡随院長兵衛は実在の人物で、本名は塚本伊太郎です。Wikipediaによれば、幡随院の裏手に住んでいたので、そのように呼ばれるようになったと書いてあります(幡随院に身を寄せていたという説もあるようです)。
 幡随院の歴史については、文献が手元にないので、ネットの情報を観てみましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/幡随院
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tjo/j010/j010t.htm
 1610年(慶長15年)に神田駿河台に創建。その後、年代は不明ですが湯島に移り(台東区谷中2-18あたり、地図)、1659年(万治2年)に浅草神吉町に移転(台東区東上野5-23,24あたり、地図)しました。ここには跡地の碑があるようです。1940年(昭和15年)(昭和7年説もあり)に焼失のために小金井市前原町3-37-1(地図)の現在の場所に移っております。なお現在の幡随院は非公開だそうです。
 さて、幡随院長兵衛は1622年(元和8年)に生まれて1657年(明暦3年)に死んでおりますから、この頃幡随院は湯島にあったことになります。
 
 とこで幡随院といえば、三遊亭円朝の『牡丹燈籠』にも出てきます。牡丹燈籠を掲げて萩原新三郎を夜な夜な訪れる幽霊のお露とお米の墓は「新幡随院」にあり([1]p.82)、新三郎にお札と海音如来のお守りを与えた良石和尚は、そこの住職です。「谷中の新幡随院」([1]p.232)という表現があるので、2番目の湯島にあった幡随院のことでしょう。しかし『牡丹燈籠』の出だしは寛保3年(1743年)ですから([1]p.13)、すでに浅草神吉町に移っていたはずで、これも時代があいません。ちなみに円朝が『牡丹燈籠』を作ったのは文久年間(1861〜1863)と言われていますから([1]p.302)、100年も前の時代考証をあまりしっかりしなかったのかもしれません。

【参考文献】
[1] 三遊亭円朝『怪談 牡丹燈籠』岩波文庫、2002年。

2008/03/24

【歌舞伎】かわいくてやがて恐ろしい藤十郎の娘道成寺(2008年3月歌舞伎座・夜の部)

 わ〜い、桜じゃ桜じゃ。ぽかぽか陽気のなか、ぽん太とにゃん子は歌舞伎座に出かけてきました。
 まずは「鈴ヶ森」。前髪立ちの美少年、白井権八が雲助どもをバッタバッタと斬り捨てますが、その際の小道具の仕掛けが面白いという演目です。軽い一幕物ですが、配役がとにかく豪華でした。芝翫の白井権八はさすがに立派ですが、後には吉原に入り浸るという若侍の色気が感じられなかったのが残念です。富十郎の幡随院長兵衛は、朗々としたセリフまわしといい侠客らしい気っ風の良さといい親分らしい男気といい最高。
 藤十郎の「京鹿子娘道成寺」は、今回一番の見物でした。しかも愛之助の楽しいマイマイ尽くしの道行きと、團十郎の迫力満点の押戻しまで入ったフルコース。実はこれまでぽん太は踊りというと、あんまりよくわからないし、たいてい弁当のあとだし、時々意識喪失するのが普通でした。しかし今回は一睡もしないで最初から最後まで見とれていました。娘らしいかわいらしさ、怨霊となってからの迫力、とても喜寿とは思えません。おまけに手ぬぐいもゲットしました。
 「江戸育お祭佐七」は初めて観る狂言ですが、配役や部分部分の場面はいいのに、脚本が変。菊五郎演じるイナセだけども子どもっぽいかわいらしさを持ち合わせた鳶の佐七、時蔵の美しい芸者小糸、仁左衛門の堂々とした鳶頭など配役は最高です。また、ひとつひとつの場面はすばらしく、神田祭りのにぎやかな雰囲気や、煙草盆を使ってのじゃらじゃら、佐七が小糸に言いよる伴平をやっつけて颯爽と立ち去って行く姿、家で新婚気取りの佐七と小糸のやりとり、仁左衛門の鳶頭がきっちりと話しをつける風格、書き置きをしたためる小糸を心を知らずに花道で訪ねようか訪ねまいか迷う場面、柳原土手の殺害シーンの妖しい美しさなどなど、どれも絶品です。ところが全体の話しの流れが悪く、いまひとつ気持ちが盛り上がりません。ストーリーの骨格は、「女がやむにやまれぬ事情から、本当は愛している男に愛想尽かしをするが、男はそれを本気にして逆上し女を殺してしまう」というもので、「籠釣瓶花街酔醒」や「伊勢音頭恋寝刃」と基本的には同じですが、なんかスカッとしません。かっこいいと思っていた仁左衛門の鳶頭が、実は強欲ババアおてつに手玉に取られていたことがあとでわかります。佐七の仇の娘であったという小糸の訴えを聞いた佐七が、小糸がおてつとグルになって自分をだまそうとしていると、いとも簡単に誤解するあたりも不自然。柳原土手で佐七が小糸を殺害したあと手紙を読み始めるまでの運びがなんだか滑稽で、真実を知った佐七が小糸を抱いて「死んでる〜」とか言うのも、気持ちが冷めてしまいます。幕引きも佐七と伴平の闘いでは、なんだか尻つぼみの感じがしました。
 「籠釣瓶花街酔醒」や「伊勢音頭恋寝刃」では、愛想尽かしされた屈辱と恨みとがヒートアップしていって殺人の大団円に至るという盛り上がりがあったのですが。「江戸育お祭佐七」は、佐七のダメ男ぶりを楽しむ狂言なのでしょうか?

【演目と配役】
一、御存 鈴ヶ森(すずがもり)
            白井権八  芝 翫
           東海の勘蔵  左團次
            飛脚早助  段四郎
           北海の熊六  彦三郎
          幡随院長兵衛  富十郎
二、坂田藤十郎喜寿記念
  京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)
  道行より押戻しまで
           白拍子花子  藤十郎
              所化  翫 雀
               同  扇 雀
               同  進之介
               同  孝太郎
               同  愛之助
               同  壱太郎
               同  虎之介
               同  吉 弥
        大館左馬五郎照秀  團十郎
三、江戸育お祭佐七(えどそだちおまつりさしちり)
  浄瑠璃「道行旅路の花聟」
            お祭佐七  菊五郎
            芸者小糸  時 蔵
          すだれの芳松  権十郎
              三吉  錦之助
             鳶重太  松 江
             同柳吉  男女蔵
             同長蔵  亀三郎
             同辰吉  亀 寿
             同仙太  松 也
             同佐助  萬太郎
             同勇次  巳之助
             娘お種  梅 枝
           女髪梳お幸  歌 江
           箱廻し九介  亀 蔵
          おででこ伝次  市 蔵
           矢場女お仲  右之助
             おてつ  家 橘
            倉田伴平  團 蔵
          吉野屋富次郎  萬次郎
          世話人太兵衛  田之助
          鳶頭勘右衛門  仁左衛門

2008/03/23

【医学史】小浜藩と杉田玄白・中川淳庵

 先日小浜市に行って来たぽん太とにゃん子ですが、そのとき小浜市が杉田玄白の出身地であることを知りました。杉田玄白といえば、フルヘッヘンドの『解体新書』で有名な江戸時代の医師、ぽん太の大先輩ではないか。こちらの小浜市のホームページを見てみると、中川淳庵も小浜藩の藩医ではないか。これはみちくさしなくては。杉田玄白の生涯を小浜藩との関係を中心に振り返ってみましょう。

 杉田玄白は1733年(享保18年)9月13日、牛込矢来の小浜藩酒井若狭守の下屋敷で、藩医の子どもとして生まれました。古地図を見てみると、現在で言えば東西線神楽坂駅と大江戸線牛込神楽坂のあいだあたりで(地図)、今でも矢来町という地名が残っています。この屋敷には塀がなく、竹を縦横に組んだ矢来垣が巡らされていたそうで、そこから矢来という地名ができたのだそうです([1]、p.125-127)。あれ?この本では「上」屋敷になっているぞ。まあいいか。
 母親は、出産時に亡くなったそうです。1740年(元文5年)から1745年(延享2年)までの少年時代を小浜で過ごし、ふたたび江戸の下屋敷に戻ります。1752年(宝暦2年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤務します。上屋敷は筋違御門の近くにあったそうです。筋違御門は、現代でいえば昌平橋と万世橋のあいだ(地図)にあり、橋が架けられていました。徳川家が寛永寺に詣でるために作られた橋だそうです。筋違橋、昌平橋、万世橋の歴史については、こちらのwikipediaの「万世橋」の項目が詳しいです。筋違御門の南側は防火のための広場になっていました。しかし1859年(安政6年)頃の地図を見る限り、そこに小浜藩の上屋敷は見当たりません。残念ながらぽん太の手元には1750年頃の古地図はありません。ちなみにこの筋違御門の広場は歌川広重の「名所江戸百景」に描かれています。たとえばこちらの森川和夫さんのホームージそれを見ることができます。そこにはさらにプロシア使節の随員が描いたという筋違御門の絵もあります。
 さて、話しを戻しますが、1754年(宝暦4年)、京都で山脇東洋が日本で初めて公的な許可を得た人体解剖を行います。この解剖を願い出た原松庵・伊藤友信・小杉玄適は実は小浜藩医で、かつ許可をした京都所司代は若狭小浜藩主酒井讃岐守忠用だったそうです([2]、p.27)。むむ、小浜藩おそるべし。
 玄白は1757年(宝暦7年)、25歳で日本橋通4丁目に居を構え、開業をしたようです。当時の藩医の開業とは、どのようなものだったのでしょうか? 「藩医としての勤めに加えて開業医としての診療」([2]、p.15)と書いてあるところをみると、藩医として働きつつ、自宅で一般の病人を診ていたのでしょうか? よくわかりません。この年江戸では、平賀源内が中心となって第一回の物産会が開かれます。この物産会の出品者の中に、小浜藩医中川淳庵がいたそうです。
 1765年(明和2年)に玄白は小浜藩の奥医師となり、さらに1769年(明和6年)には侍医となり、新大橋(地図)の西側にあった小浜藩中屋敷内に住むことになります。
 1771年(明和8年)は杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』と出会った年です。中川淳庵が江戸に来ていたオランダ商館一行から借り受けたものを一目見るなり、杉田玄白はどうしてもそれが欲しくなりました。しかしあまりに高価で手が出ません。そこで小浜藩の予算で買ってもらおうと、大夫岡新左衛門に掛け合ったところ、「それは買い求めて必ず役に立つものか? 役に立つのならとりはからいましょう」と問いただされました。玄白は「必ずこうであるという目的はないけれど、私がそれを役立ててみせます」と答えました。傍らにいあわせた倉小左衛門が、「杉田玄白はこれを無駄にする人ではないから、ぜひ買ってあげて下さい」と助言し、希望が叶えられたのだそうです([3]、p118-119)。よっ、小浜藩、太っ腹!
 同年杉田玄白は小塚原刑場で腑分けを見て、『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚くという出来事がありましたが、小浜藩とは直接関係なし。小塚原刑場の位置が気になります。東京都荒川区南千住2丁目で、現在は延命寺となっているとのこと。こちらが地図ですが、JRと日比谷線の間に挟まれ、延命寺という名前すら載っていません。ちなみに1859年頃の江戸絵図には、小塚原刑場が載っておらず、田んぼになっています([1]、p.66)。この本に掲載された江戸絵図がいい加減なのでしょうか、それとも刑場というものは絵図に載せないものだったのでしょうか?(2008年3月24日付記:よく見ると[1]の江戸絵図と現在の鉄道の重ね合わせが間違っているようで、ちゃんと田んぼのなかに緑地ないし空き地として書き込まれていました)。
 『ターヘル・アナトミア』を翻訳して1774年(安永3年)に『解体新書』を刊行するまでの苦労話は省略。
 『解体新書』刊行の前年、杉田玄白は、予告見本ともいえる『解体約図』を出版します。これは、漢方医など世間の反応を見るという意味もあったようです。そこには、本書発行の責任が小浜藩と杉田塾に限られるということが明記されているそうです([2]、p.114)。
 1776年(安永5年)、玄白は藩の中屋敷を出て浜町に転居しますが、この場所は明らかではありません。1785年(天明5年)、酒井候のお供で小浜藩を訪れます。1805年(文化2年)、時の第11代将軍家斉に拝謁を赦され、さらに翌日には小浜藩の上屋敷に招かれて酒井候からもお褒めの言葉を頂いたそうです。1807年(文化4年)には隠居を赦されました。最晩年に書かれた回顧録の手録は大槻玄沢に託されましたが、その写本のひとつが福沢諭吉の目にとまり、明治2年に木版で刊行されたことはよくしられています。1817年(文化14年)に死去。なきがらは港区虎ノ門の栄閑院に眠っているそうです。そのうちお参りに行ってみようと思います。

 小浜藩すごいじゃないですか。江戸の蘭学の発展に大貢献しているようです。小浜市はオバマ候補に便乗して騒いでばかりいないで、杉田玄白記念館でも作ったらどうでしょうか?

[1] 『江戸散歩・東京散歩 切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図で歩く100の町と道』成美堂出版、2005年。
[2] 『杉田玄白 』片桐一男著、吉川弘文館、1971年。
[3] 『蘭学事始 鎖国の中の青春群像』杉本つとむ訳。社会思想社(現代教養文庫)、1974年。


2008/03/22

悉達太子・檀徳山と『平家物語』付記

 以前のブログでぽん太は、「悉陀太子(しっだたいし)を檀特山(だんどくせん)に送った車匿(しゃのく)童子の悲しみ」という物語のみちくさをしました。そのとき、『平家物語』の巻第十「三日平氏」にこの物語が出てくることを指摘しました。その後、『平家物語』の別の所にもこの物語が出てくることがわかりましたので、ご報告しておきましょう。
 一番最後の「灌頂巻」(かんじょうのまき)の「大原御幸」です。「灌頂巻」は、長い長い平家物語の締めくくりにあたり、建礼門院の余生を描きます。建礼門院は、平清盛の次女であり、高倉天皇と結婚して安徳天皇を生みます。しかし壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。建礼門院の母親である二位尼(時子)は安徳天皇を抱いて海に身を投げます。建礼門院もともに入水しましたが、源氏方の武将に引き上げられ、生きて捕虜となります。女性であったため罪は問われませんでしたが、尼になり京都の大原の寂光院に隠棲します。
 あるとき後白河法皇はふと思い立って、お忍びで大原に建礼門院を訪ねます。寂光院は古めかしく由緒はあるものの、都の暮らしとは比べ物にならぬわびしさです。法皇が声をかけると、なかから老いた尼が出てきます。建礼門院が自ら山へ花を摘みに行っていると聞いて哀れむ法皇に対して、尼は次のように言います。

「五戒十善の御果報つきさせ給ふによ(ッ)て、今かかる御目を御覧ずるにこそさぶらへ。捨身の行に、なじかは御身を惜しませ給ふべき。因果経には、『欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因』ととかれたり。過去未来の因果をさとらせ給ひなば、つやつや御歎あるべからず。
 悉達太子は十九に伽耶城を出て、檀徳山のふもとにて、木の葉をつらねてはだへをかくし、嶺にのぼりて薪をとり、谷にくだりて水をむすび、難行苦行の功によ(ッ)て、遂に成等正覚し給ひき」

 わかりやすくタヌキ語訳(注:現代語訳に非ず)すれば、だいたい次のような意味になります。

「これまで積んだ善行の御果報もつきてしまったので、いまはこのようなひどい目にあっているのです。いまは捨身の修行なのですから、身を惜しんでいる場合ではありません。『過去現在因果経』にも、『過去の原因を知りたければ、現在の結果を見よ。未来の結果を知りたければ、現在の原因を見よ』と書かれています。過去と未来の原因と結果の摂理を理解していれば、まったく嘆く必要はありません。
 悉達太子は19歳で伽耶城を出て、檀徳山のふもとで、木の葉をつづり合わせたもので肌を隠し、峰に登って薪を取り、谷に降りて水を汲むなど、難行苦行を行ったことで、ついに悟りを開きました」

 ここには、前の記事でもふれた『過去現在因果経』にも言及されています。そのとき書いたように、この経典では、釈迦がこもって修行をした場所は檀徳山ではなく苦行林です。むむむ、『因果経』を引用しながら、中身を読んでいなかったのだろうか?

 話しは全く変わりますが、「灌頂巻」のラストシーン、つまり『平家物語』のラストシーンは、建礼門院の死去です。建礼門院は、阿弥陀仏の手にかけてある五色の糸を持ち、念仏を唱えながら、静かに息を引き取ります。
 「仏像の指にかけてある五色の糸」と聞いて、以前に訪れた山形県の月山のふもとにある注連寺を思い出しました。このお寺は、鉄門海上人の即身仏(つまりミイラ)や、森敦がこの寺で過ごした体験をもとに書いた小説『月山』などで有名です。で、このお寺には大日如来があって、その指に五色の糸がかけられていた記憶があります。
 『平家物語』の解説によればこの五色の糸は、臨終のとき阿弥陀仏に浄土に導いていただくために手をつなぐものだそうですが、なんで大日如来なのかなどの詳細については、ちとぽん太にはわかりません。

【参考文献】
[1] 『平家物語〈12〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1991年。

2008/03/21

【ドラリオン東京最終公演】ウン十年ぶりのサーカスは楽しいな(2008年3月3日〜4月6日、原宿・新ビッグトップ)

 先日、ぽん太とにゃん子は、ドラリオンを見てきました。
 サーカスと言えばぽん太は、小学校の頃そろばん塾の遠足で、キグレ・サーカスだったか木下大サーカスだかを見て以来、ウン十年ぶりです。以前にNHKホールにマリンスキー・オペラを見に行った時、近くにあるドラリオンの会場(新ビッグトップ)から歓声が漏れてきたのを聞いて、むむむと思っておりました。
 席はなんと前から7列目。すごい迫力でしたが、エアリアル・パ・ド・ドゥやダブル・トラピスなどを見上げていたら、首が痛くなってきてしまい、年には勝てません。え?演目の名前を言われてもわからないという方は、こちらのページを参照して下さい。
 トランポリンを踏み外したり、ダブル・トラピスで手をつかみ損ないそうになったり、ジャグリングでクラブを落としたり、フープ・ダイビングでフープを倒したりと、失敗するところが返って真剣勝負の緊迫感が感じられ、思わずドキドキしてしまいます。
 エアリアル・パ・ド・ドゥの大人の優美さなど、どれもよかったけれど、フーフ・ダイビングやトランポリンのスピード感溢れる超人的な妙技が一番気に入りました。
 舞台裏で演奏をしていたミュージシャンが途中で紹介されましたが、「テープじゃなくて生で演奏していたのか」とぽん太はびっくり仰天。ナルホド、舞台で演じる人とミュージシャンの阿吽の呼吸でなりたっているのですね。
 クラウン(道化)も楽しめました。ネタバレするといけないので、内容は書かないでおきます。
 ところで、ドラリオンの公演を行ったサーカス団の「シルク・ドゥ・ソレイユ」って、名前からフランスかと思っていたら、カナダのフランス語圏のケベック州の団体だったんですね。初めて知りました。
 以前に見た「マッスル・ミュージカル」とは、ちと格が違う感じがしました。ごめんなさい。「マッスル・ミュージカル」もよかったですけど。
 シルク・ドゥ・ソレイユに味を占めて、ボリショイ・サーカスと中国雑技団も見てみたくなりました。

2008/03/16

【スーパ−歌舞伎】父と子の感動のドラマ(『ヤマトタケル』2008年3月新橋演舞場)

 ぽん太とにゃん子は新橋演舞場に『ヤマトタケル』を観に行ってきました。スーパー歌舞伎ははじめてです。2階の西袖のチケットが偶然とれました。ヤマトタケルは右近と段治郎のダブルキャストですが、細面の段治郎を選択。右近さんごめんね。
 美しい衣装を身につけた役者がずらりとならんでの豪華な幕開き。次いで段治郎の早変わりの連続による一人二役。熊襲の祝宴の群衆。宮殿のセットを破壊しつくす大立ち回り。ふだん歌舞伎をあまり見ないひとにとっては「をを、歌舞伎ってスゴイ」という感じかもしれませんが、ぽん太はケレンの連続にちと苦笑。第2幕になっても、焼津の火の海が終わったかと思ったら、次は大海原を船でいくシーンとなり、「火の次は水かい」と食傷気味。ここは箸休めにあっさりと所作事でも入れて欲しいところです。とはいえ、焼津の火の海のシーンは、美術的にも美しく、火の精たちのアクロバティックの身体能力もすごくて、とても迫力がありました。
 第3幕は伊吹山の山神と姥神が間狂言のように滑稽でおもしろかったです。ヤマトタケルの上にでっかい雹(ひょう)がどどどと落ちてくるシーンは、ドリフターズを思わせ、できればタライも落として欲しかったです。「能煩野」の場になってから芝居が締まってきて、父親に受け入れて欲しいという願いや、故郷への思い、妻や子への愛情が、心に響いてきました。
 そしてラストシーン。タケルが白鳥となって飛び立ちます。2階西袖の座席。これまで舞台が見にくくとも花道が見えなくても我慢してきたかいがありました。すぐ目の前をタケルが飛んで行きます。段治郎の表情は、白鳥となって、人間的な悲しみや苦しみや怒りといった感情は超越しながらも、人間レベルを超えたもっともっと深い悲しみをたたえており、ぽん太はすっかり感動してしまいました。
 普通の歌舞伎と違ってカーテンコールつき。「白鳥となって飛び去っていったタケルが、素の段治郎に戻って挨拶するのを見るのは気分が壊れてやだな」と思いながら見ていたのですが、各役者たち、真剣な面持ちで、役を演じたままご挨拶。そして最後にセリから上がってきた段治郎、いやタケルが、父親に抱きしめられます。父に受け入れてもらうことを願って戦いに明け暮れて生涯を終えたタケルが、ついに父と和解する場面が、カーテンコールにしつらえてあるとは、とても素敵な演出だと思いました。
 右近のタケヒコの味のある演技、笑三郎の古風で存在感のある倭姫と使者、猿紫のヘタルベの若さゆえのいちずさなどもよかったです。

演目と配役
 小碓命後にヤマトタケル/大碓命  段治郎
            タケヒコ  右 近
        兄橘姫/みやず姫  笑 也
         倭姫/帝の使者  笑三郎
     老大臣/尾張の国造の妻  寿 猿
            ヘタルベ  猿 紫
             弟橘姫  春 猿
     ヤイラム/伊吹山の山神  猿 弥
       皇后/伊吹山の姥神  門之助
               帝  金田龍之介

2008/03/15

駐車場を探す一日・羽根木公園の梅と小平の蕎麦『吟』(★★★★)

梅の羽根木公園 忙しいなか、ぽっかりと予定のない一日。梅でも見に行こうか、ということになり、世田谷の羽根木公園に行ってきました。梅が有名で近場ですが、これまで行ったことがありませんでした。
 車で行ってみたのですが、駐車場がどこにあるのかわからない。一通の細い路を、地元の車にあおられながらぐるぐる走り回り、なんとかコインパーキングを見つけて車を停めました。実は駐車場は公園の北側にあった模様。調べてから行けばよかった。
梅の羽根木公園 ほぼ満開だったのですが、なんか木についている花がまばら。木の本数も少なくて面積も狭く、ちょっと物足りなかったです。多摩地区からわざわざ都心方面に来たのが失敗でした。

小平の蕎麦『吟』 そこで、せめておいしい蕎麦でも食べて帰ろうと、雑誌に載っていた、小平駅の近くの蕎麦屋さん『吟』に行きました。公式サイトはなさそうなので、こちらの食べろぐ.comのページにリンクしておきます。
 小平駅の北側の路沿いにあり、店はすぐ見つかったのですが、駐車場がなし。近くを走るもコインパーキングがどこもいっぱい。ようやく車を停めて店に入りました。
小平の蕎麦『吟 店内は以外とこじんまりしています。もりそば720円なりを注文。少しザラめがあり腰の強い蕎麦は、そば粉の香りが強いです。つゆも品良くすっきりでおいしいです。驚いたのは蕎麦湯。どろどろです。「すごく少量のお湯で蕎麦をゆでているのか?」「朝から同じお湯でゆでているのでは」などと、さんざん悩んだすえ店主に聞いてみたら、ゆで汁ではなく、蕎麦湯用に挽いたそば粉でわざわざ作ったものだそうです。おいしゅうございました。

2008/03/13

平山武者所季重と『平家物語』、日野市

 先日歌舞伎座で観た『一谷嫩軍記』のなかに、市蔵の演ずる平山武者所季重(ひらやまのむしゃどころすえしげ)という人物が出てきました。ホントは源氏方の大将なのに、『一谷嫩軍記』では敵役として登場します。で、イヤホンガイドで、この武将の出身地が現在の東京都日野市だと解説しておりました。なに、日野市といえば、ぽん太が生息する多摩地区ではないか。そういえば日野には「平山」城趾公園というのがあるぞ。むむむ、これはみちくさしてみたくなりました。

 まず、『一谷嫩軍記』の元になっている『平家物語』の「巻第九 敦盛最後」を見てみましょう。坂落しで有名な一の谷の合戦ですね。『平家物語』では、熊谷直実が首を刎ねるのは本物の敦盛ですが、それを知るのは戦がすんでからです。合戦の場では直実は、「名前はわからないが、年の頃十六、七と息子小次郎と同年代の立派な若武者。先ほど息子小次郎が軽傷を負っただけで自分(直実)は心苦しいのに、この若武者を討ち取ったら父親はどれほどなげくだろうか」と考えて、逃そうとします。そこに登場するのは平山季重ではありません。

……うしろをき(ッ)と見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。
 熊谷涙をおさへて申しけるは、
「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ」([1]、p.255)。

 「土肥、梶原五十騎」と書いてあり、季重の名前はありません。では、一の谷の戦いで平山季重がどこに出てくるかというと、2月4日に源氏は、範頼率いる大手と、義経率いる搦め手の二手に分かれて、都を出発します。その搦め手の武将のなかに、熊谷次郎直実とともに平山武者所季重の名前があります。義経はその日の夜、平家の先鋒に夜襲をかけてこれを蹴散らします。6日に義経は、配下の一万騎をさらに二手に分け、七千騎を土肥次郎実平に託して一の谷の西側に回らせ、自らは三千騎を率いて鵯越(ひよどりごえ)をめざします。しかしここは名だたる難所。義経が「誰かこの山の案内人はいないか」と問うと、

……武蔵国住人平山武者所すすみ出でて申しけるは、
「季重こそ案内は知(ッ)て候へ」
御曹司
「わ殿は東国そだちの者の、今日はじめて見る西国の山の案内者、大きにまことしからず」
と宣へば、平山かさねて申しけるは、
「御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野、泊瀬の花をば歌人が知り、敵のこも(ッ)たる城のうしろの案内をば、剛の者が知候」
と申しければ、是又傍若無人にぞきこえる([1]、p.168)。
 
 平山季重が道案内の名乗りをあげたので、義経が「東国育ちのおぬしが何で西国の初めての山を案内できるのだ」と聞いた所、「すぐれた歌人が見たこともない吉野の桜を知るように、すぐれた武将は初めてのところでも道案内ができるのです」と答えて皆の顰蹙をかったという話しです。
 しかしここは季重の非論理性をあげつらっているというよりは、戦で功名を得ようとはやる荒武者の心性を描いていると考えたいものです。
 
 既に述べたように、直実と季重は、ともに義経率いる搦め手に加わり、鵯越に向っておりました。しかし6日夜半、直実は、「このような急坂を下って背後を襲うような戦では、混戦となって先陣の功名を得ることができまい。一の谷の西に向った土肥が率いる軍に合流し、そちらで先陣を得よう」と考えます。ふと気がついて「まてよ、平山季重も同じことを考えているかもしれない」と思って様子を見に行かせると、案の定季重も出発の準備をしております。二人はそれぞれ義経の隊を抜け出し、土肥軍の陣地を目指します。ここから二人の先陣争いの物語となるのですが、興味がある方は『平家物語』をお読み下さい。

 平山季重の生涯に関しては資料によっていろいろな異同があるようで、それを比較検討するのは面倒なので省略。

 『日野市史』([1]、p.322-328)を見ると、季重のことが出ています。平山氏の本姓は日奉(ひまつり)氏で、10世紀中頃に日奉宗頼が武蔵に現れ、西党の租となったそうです。当時、武蔵の国には、武蔵七党と呼ばれる武士団があり、西党はそのひとつでした。季重は定期的に上京し、上皇や法皇の親衛軍である北面の武士を務めたために、「武者所」と呼ばれるようになったと考えられているそうです。『保元物語』『平治物語』『吾妻鏡』などに熊谷直実とライバルとして描かれているそうです。
 日野市観光協会のサイトにも平山季重について書かれています。そこには、季重ゆかりの史跡もまとめられています。そのうち訪ねてみたいです。
 このサイトによると平山城趾公園は、実は城があったわけではなく、京王電鉄がレジャー施設としてこの公園を作った時、平山氏の言い伝えを元に名付けたものだそうです。な〜んだ、そうだったのか……。

[1] 『平家物語〈9〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1988年。
[2] 『日野市史 通史編1』日野市史編さん委員会、1988年

2008/03/11

檀特山の憂き別れ、悉陀太子を送りたる、車匿童子が悲しみも……

 ぽん太とにゃん子は先日、歌舞伎で『一谷嫩軍記』を見てきました。感動いたしました。
 で、そのなかに「檀特山(だんどくせん)の憂き別れ、悉陀太子(しっだたいし)を送りたる、車匿(しゃのく)童子が悲しみも」という一節がありました。出だしは義太夫が語り、「悉陀太子」からは熊谷直実のセリフになります。イヤホンガイドでは、釈迦が生まれ育った城を離れて出家した時、白馬の口を引いて従った車匿童子が、別れを惜しんで悲しんだという話があるのだとの説明でした。
 仏陀の生涯に関しては様々な伝説が入り乱れていてはっきりしませんが、父親は王様で、何不自由ない暮らしをし、結婚もしていたそうです。しかし次第に贅沢な暮らしに満ち足りなくなり、29歳のときに生まれ育った城を抜け出して出家しました。上記の話は、このときのエピソードと思われます。
 「筋書」([1]、p14)によれば、この話は『宇津保物語』、『梁塵秘抄』や浮世草子に載せられ、能の『通小町』や歌舞伎の『勧進帳』にも出てくるそうです。なんか、みちくさしたくなってきたぞ。

 まず『宇津保物語』を見てみます。平安中期に成立した長編物語で、『源氏物語』に影響を与えたと言われています。作者は、源順(みなもとのしたごう)という説もありますがはっきりしないそうです。
 『宇津保物語』の「俊蔭」の巻の二十六に、兼雅が北山を再び訪れる下りがあります。兼雅は北山の山中から聴こえてくる琴の音がに耳を留め、兄と一緒に山の中へと分け入ります。すると驚くことに山一面に獣が集まっています。兄が「気持ち悪いなあ、もう帰ろう」というと、兼雅は「わろきことをも宣はするかな。これこそおもしろけれ。ふかき山にけだものすまずは、なにをか山といはむ。だんどく山に入るとも、兼雅ら、けだものにせずべき身かは」と答えます([2]、p240)。「嫌なことをおっしゃいますね。これだからおもしろいんじゃないですか。深い山に獣が住んでいなかったら、なんで山と言えましょうか。私たちが檀特山に入ったとしても、自らを獣に施さなくてはいけないわけではないでしょう」といった意味でしょうか? ここには檀特山は出てきますが、釈迦の出家には触れていません。きっと当時の読者は、檀特山というだけで、何のことかわかったのでしょう。『宇津保物語』の他の部分で釈迦の出家の件が出てくるのかもしれませんが、さすがに全部調べる元気はありませんでした。

 続いて『梁塵秘抄』。後白河法皇が編纂した平安末期(1180年頃)の歌謡集です。雑法門歌五十首のなかに次のような歌があります。

(207)太子の御幸には、犍陟駒(こんでいこま)に乗り給ひ、車匿舎人に口取らせ、檀特山にぞ入り給ふ([3]、p61)

(219)摩掲陀国(まかだこく)の王の子に、在(おは)せし悉達太子(すだちたいし)こそ、檀特山の中山に、六年行い給ひしか([3]、p64)

 釈迦が乗っていた馬は「カンタカ」という白馬だったそうで、それがなまって犍陟駒(こんでいこま)になったのだそうです。摩掲陀国はマガダの音を写したもので、紀元前6世紀頃から中インドにあった王国とのこと。しかし実際には釈迦の父親はネパールの迦毘羅衛(カピラヴァスツ)の王でしたら、ちょっと違っています。なぜこのような間違いが生じたのかについては、ぽん太には皆目見当がつきません。

 また『平家物語』の巻第十「三日平氏」には、次のような一節があります([4]、p209)。

 ……舟底にふしまろび、をめきさけびる有様は、むかし悉達太子の檀特山に入らせ給ひし時、車匿舎人がこんでい駒を給は(ッ)て、王宮にかへりし悲しみも、是には過ぎじとぞ見えし。

 一の谷の戦いに敗れ、平家の敗色が濃くなります。平維盛は陣を抜け出して出家し、熊野詣でをしたのちに船で沖に漕ぎ出し、供をつれて海に身を投じます。遺言に従って後の供養をするためにただ一人船に残った舎人武里(たけさと)の悲しみの描写です。

 この話はさらに『過去現在因果経』にまで遡ることができます。この経典は5世紀にインドの求那跋陀羅(ぐなばつだら)が漢訳したもので、釈尊の前世での行いから現世の伝歴までを語ることで、過去に撒いた因が必ず結果を生ずることを説いたものです。巻の第二、十五、「出家」に、例の話がでてきます([5]、p.49-57)。これは長いのであらすじを言えば……
 29歳となった太子(釈迦)は出家を決意しますが、王である父は反対し、なんとかやめさせようとします。しかし太子は、ある夜、皆が寝静まっているときに、車匿(しゃのく)を起こし、愛馬の犍陟(けんぢょく)に鞍をつけて連れてくるように命じます。車匿は王の命令と板挟みとなって悩みますが、結局釈迦に従って馬を引き、城を後にします。やがて一行が跋伽(はが)仙人が苦行をする林の中に至ると、太子は馬から下りて、車匿に犍陟を連れて城に帰るように言います。車匿は、「太子をおいて一人で城へは帰れません」などといいますが、太子はありがたいお言葉で諭します。やりとりの間にも、太子は髪を剃り、美しい衣類や装飾品を脱ぎ捨て、袈裟を身にまといます。車匿はもはや太子を引き止めることができないことを悟り、泣く泣く犍陟を連れて来た道を城へ引き返してゆきます。
 ここでは、車匿や犍陟は出てきますが、釈迦が行った先が檀特山ではありません。

 檀特山は北インドにある山で、ホントは須大拏(しゅだいぬ)太子が修行した場所ですが、釈迦と混同されたのだそうです([3]、p.61)
 もともとは出家する釈迦を見送る話しが、『一谷嫩軍記』や『平家物語』では何で死んだ人との離別で使われているのかという疑問が湧いてきますが、「死ぬこと」=「極楽浄土に生まれ変わること」である浄土思想の影響があるのかもしれません。

 次に能の『通小町』ですが、小学館の『歌謡集2』(新編日本古典文学全集59、小学館、1998年)を見ましたが、それらしきものが出てきません。むむむ、なぜだ? 朝田富次さんがほかの小町物と間違えたのか。それとも『通小町』にもいろいろな版があるのか。

 『勧進帳』では、問答の部分で、富樫が「山伏は何で金剛杖を持っているのか」と聞くのに対して、弁慶が「事も愚かや、金剛杖は天竺檀特山の神人、阿羅邏(あらら)仙人の持ち給ひし霊杖にして、胎蔵金剛の功徳籠めり」と答えます([6]、p.311)。『勧進帳』は何度も観ているのに気がつきませんでした。四月大歌舞伎でニザタマの『勧進帳』を観るときに、注意して聞いてみたいと思います。ところで阿羅邏仙人って誰じゃ?
 もう疲れたので今日のみちくさはこのへんで。

【参考文献】
[1]朝田富次「芝居片片」、2008年3月大歌舞伎「筋書」に所収
[2]『宇津保物語・俊蔭』上坂信男等訳注、講談社学術文庫、1998年。
[3]『梁塵秘抄』、「新日本古典文学大系56」所収、岩波書店、1993年。
[4]『平家物語〈10〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1988年。
[5]『国訳一切経 (印度撰述部 本縁部 4)』大東出版社、1929年。
[6]『勧進帳』守随憲治校訂、岩波文庫、1941年。
 

2008/03/09

【温泉】上林温泉・湯宿「せきや」は自然の中の落ち着いた和風旅館(★★★★)

上林温泉湯宿せきや ぽん太とにゃん子は2月末、降りしきる雪のなか、信州は上林温泉・湯宿「せきや」に行ってきました。こちらが宿の公式サイトです。
 上林温泉(かんばやしおんせん)といって知らないひとが多いと思いますが、信州中野インターから志賀高原に行く途中、湯田中温泉、渋温泉を過ぎた左側あたりに位置します。温泉場のような騒がしさはなく、自然に囲まれた静かな温泉です。
上林温泉湯宿せきや 湯宿「せきや」は、古めかしさはありませんが、落ち着いた小さな木造旅館。創業90余年で、三好達治、壷井栄、林芙美子らも定宿としていたそうです。
上林温泉湯宿せきや上林温泉湯宿せきや上林温泉湯宿せきや 浴室は、男女交代制の露天風呂つき浴室と、無料の貸切風呂があります。そのほか露天風呂つきの浴室も2室あるようですが、ぽん太とにゃん子は今回は一番安い部屋をお願いしました。それでも窓から林の見える落ち着いた和室で、かなり高級なマッサージチェアがついていて、無料で使用できます。
上林温泉湯宿せきや こちらは貸切風呂。雪を見ながらの温泉は最高です。お湯は無色透明で、褐色の湯の花が舞います。泉質はナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩温泉。源泉温度は59.5度と高く、循環濾過はしているそうですが、加水無しの源泉かけ流しです。
上林温泉湯宿せきや 夕食も見た目も美しくおいしい和食を別室の個室でいただきました。信州牛すき焼き、ステーキ、タケノコ焼き、マスのホイル焼きなどが、アツアツでいただけます。美味しゅうございました。
上林温泉湯宿せきや 朝食も美味しゅうございました。
上林温泉湯宿せきや 真空管アンプを備えたオーディオサロン。宿主の趣味の部屋の可能性が高いです。夜はジャズ、朝はモーツァルトがかかっていました。
 静かで落ち着いた和風旅館。とてもくつろげます。プラスαの売りがあると満点なのですが……。

2008/03/08

小浜市は、オバマで騒ぐ前に本業をきっちりやりましょう

 ぽん太とにゃん子は、オバマ氏で盛り上がる小浜市に立ち寄りました。小浜には美しい仏像を安置した古寺が多いと聞き、それらを参拝がてら、オバマ・フィーバーぶりを見てこようという企画です。

 ガイドプックを見ると、「若狭国小浜国宝めぐり 八心成就印譜」というスタンプラリーをやっているようです。300円で印譜を購入し、8カ所の寺を回ると、記念品がもらえるそうです。今回は時間がないので全部を回るのは無理ですが、何年かかけるつもりで集めてみるのもおもしろかろうと、参加することにしました。
 しかし、早くも疑問が湧いてきます。「国宝」めぐりと称していますが、実際は、8つのお寺のうちのひとつの本堂と三重塔が国宝なだけで、あとはほとんど重要文化財です。これでは小浜「重文」めぐりではないか!
 しかも、このブログを書くために「若狭国小浜国宝めぐり」を紹介したサイトにリンクしようと思っても、小浜市や観光協会のサイトに記事がありません。たとえばこちらの個人のサイトに8つの寺の名前が出ていますから、あとはこちらの小浜観光協会のページで、ひとつひとつ見て下さい。

国宝妙通寺本堂 さて、ぽん太とにゃん子は、まずは妙通寺を訪れ、入口で300円出して印譜を購入。本堂三重塔は、さすが国宝だけあって美しいです。
国宝妙通寺三重塔 本堂には、木造薬師如来坐像木造降三世明王立像木造深沙大将立像という三つの重要文化財が納められており、さらに木造不動明王立像も見ることができます。なかなか立派です。住職さんが丁寧に説明してくれるのもうれしいです。

 いい気分になって、次は多田寺に向かいました。ところが無情にも、12月1日から3月20日までは参拝できないとの札が!それだったら最初に印譜を買ったときに教えてくれい。もし、今日一日で全部まわるつもりだったらどうするんじゃい。

 ちょっとがっかりして、次は妙楽寺に行きました。ところが受付に誰もいません。「不在の時はこれを押して下さい」という呼び鈴を押しても反応がありません。何度呼び鈴を押しても声をかけても反応がないので、仕方なしに自主的に参拝することにしました。
重文妙楽寺本堂 重厚な山門をくぐると、庭というには何もないぽっかりとした空き地の向こうに、重文の小さな本堂があります。その庭にたまたま雪が積もっていて、日本的な間(ま)を感じさせ、とても静かで美しかったです。内部には重文の木造千手観音菩薩立像が、これまた重文の厨子の中に安置されています。ただ、電気が点いていないので、暗くてよく見えないのが残念でした。帰りがけにもう一度受付の呼び鈴を押すも、返事なし。参拝料を置いてこようかとも思いましたが、またこんどスタンプをもらいに来たときに参拝料を払わなくてはいけないからと、今回は省略させていただきました。

 そろそろ時間なので、お土産を求めて市内へ。若狭小浜お魚センターは時間が遅くて閉まっていたので、向かいの若狭フィッシャーマンズ・ワーフへ。「とれとれ寿司」で買ったお寿司を食事スペースでいただきましたが、とておもおいしかったです。お土産も充実していて満足!

 しかし、テレビでやっていたオバマ関係のグッズは無し。街を車で走っても、それらしい雰囲気はまったくありませんでした。ワイドショーでは話題になっているけど、小浜の一部のひとが盛り上がっているだけなのかしら。
 スタンプも3カ所まわってたった一個ゲットしただけ。小浜市さん、オバマ・フィーバーもいいけど、まず観光の整備という本業をしっかりやろうよ。

2008/03/07

【居酒屋】荒木町の雰囲気がすっかり気に入りました「与太呂」「来会楽」

 歌舞伎の帰り、荒木町に寄ってみました。以前に「出没!アド街ック天国」で、ぽん太とにゃん子好みの渋い和風のお店が多かったのを見たからです。四谷三丁目の駅を降りて路地を歩いてみると、いい感じのお店が並んでいます。

 まずはアド街にもランクインしていた与太呂。渋い小さな店構えですが、表にメニューや値段が出ていないのが心配。思い切って入ろうとすると、立て付けの悪い戸がガタガタと音を立て、店主がこちらをジロリとにらみます。ううう、怖い。女将に「とりあえずお飲物は?」と聞かれて「生ビール」と答えたら、生ビールはないとのこと。いかん……気まずい。店内に貼ってあるメニューにも値段はありません。
 定番の刺盛りや、お勧めの馬刺や銀ダラの酒粕漬焼などを頼む。お酒もメニューがないようで、好みの味を言って、おまかせで出してもらいました。
 ところがお酒も肴もとてもおいしい。刺盛りはどれも旨味がのっており、クジラは食べたことがないほど柔らか。銀ダラもふっくらした焼き上がりです。馬刺はレバーもついていて、肉嫌いのにゃん子は最初は嫌がっていましたが、ぜんぜん生臭くないので、最後は喜んで食べていました。お酒もおいしい新酒で、「酔鯨」などは淡麗辛口と思い込んでいたのですが、すごく香りが豊か。喜多方の「大和川」も甘いだけの酒かと思っていたら、とてもおいしい。普通に売っている酒ではなさそうです。
 うまい、うまいと騒いでいたら、店主の「テレビを見て来たんですか?」のひと言。「実はそ〜なんです」という会話をきっかけに、すっかり打ち解けて、会話に花が咲きました。なんでも蔵元さんを囲んでお酒を飲み比べながら料理も楽しむ「与太呂会」なるものを開いていたりして、ずいぶん日本酒に力を入れているようです。
 心配していたお値段は、ちょっと高めでしたが「想定の範囲内」(死語か?)のそこそこのお値段でした。

 荒木町がすっかり気に入ったぽん太とにゃん子は、一軒ではもの足らず、こんどは下調べ無しで酒飲みの嗅覚だけをたよりに、来会楽(こあら)という店に入ってみました。「アタリ」でした。
 店内は狭くて雑然としていて、何組かのサラリーマンがテーブルを囲んでいます。狭くてテーブルに持ち込めないのか、入口付近に黒いサラリーマン・カバンがまとめて置かれています。なんか歌舞伎で見た、侍が吉原に入るとき、入口で刀を店に預ける習慣を思い出しました。店主もママもナチュラリスト系の雰囲気。
 日本酒のメニューは多くて安い。肴は既にお腹いっぱいだったので、「生からすみ」というのを頼んでみました。日干しになっていない塩味のからすみで、見た感じはほぐした生タラコの黄色いヤツで、生まれて初めて食べましたがおいしかったです。アボガド豆腐もおおいしゅうございました。

 ぽん太とにゃん子は荒木町がとても気に入りました。今後も昼の歌舞伎の帰りに寄ってみたいです。

 ところでなんでこんなところに、渋い飲屋街があるのか、気になってぽん太は家に帰ってからググってみました。
 江戸時代にこのあたたりは植木屋が多かったことから、荒木町という名前がついたそうです。ここには「松平摂津の守」の屋敷があったそうで、現在も「津の守坂」という地名が残っています。すり鉢状の地形となっていて中心に小さな池があり、落差4メートルの滝があったそうです。明治になって庭園が一般に公開されると滝が評判になり、池の周りに滝見茶屋が開店し、「桐座」という芝居小屋もできて、花街として発展して行きました。第二次大戦では焼け野原となったそうで、古い建物も数軒残っているそうです。

【参考リンク】
http://www.tokyo-cci.or.jp/shinjuku/kanko/ichigaya.html
http://members.at.infoseek.co.jp/yotsuyanet/yotuya40.htm
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Tokyo_hd.htm

2008/03/06

【歌舞伎】團十郎の熊谷直実の感情表現、仁左衛門の伊左衛門のかわいらしさ(2008年3月歌舞伎座昼の部)+「西行の仮名」(出光美術館)

 冬に逆戻りしたかのような寒さのなか、ぽん太とにゃん子は歌舞伎を観に出かけてきました。3月の歌舞伎座は、團十郎、藤十郎、菊五郎に仁左衛門と役者がそろっており、たいへん充実した舞台で、ぽん太とにゃん子は大満足で帰ってきました。しかし、たまたま今日だけなのか、それとも若い人気役者がいないせいなのか、はてまた派手な演目がないせいなのか、空席が目立ったのには納得できませんでした。
 さて、昼の部の一番の見物は『一谷嫩軍記』。この狂言は三段目の「熊谷陣屋」が有名で、ぽん太も何度か観たことがありますが、その前段の「陣門・組打」は今回が初めてでした。熊谷直実が一の谷の合戦で、源義経の「一枝を切らば,一指を切るべし」という制札の真意を読み解いて、敦盛の身代わりに自分の息子である小次郎の首を切るという場面です。團十郎と藤十郎が同じ舞台を勤める、というのがすごいことらしいのですが、歌舞伎歴の浅いぽん太にはよく実感できません。
 團十郎の演技が武将の大きさといい、我が子を手にかける悲しみの表現といい絶品でした。これまでぽん太の印象では、團十郎はどちからというと表面的でカラリとした役者で、深い感情表現は向いていないように思っていました。しかし今回の舞台ですっかり見方を改めました。直実が息子を殺すのは、単に主君義経の命令だからというだけではなく、不義密通の罪から救ってくれた藤の方(敦盛の母)への恩義を返すためでもあります。ときには子を思う親心から気持ちがぐらつきながらも、衆人環視の戦場で敵にも味方にも気づかれないように堂々と首を討たねばならないという複雑な心情を、見事に演じておりました。ことが済み、我が子の首を布で包み、亡がらを川に流し、鎧や刀を馬に積み、後片付けをする静かで長い演技のあと、悲しみが一気に押し寄せて来て馬の首に顔をうずめて身を震わせて泣き出す場面も感動しました。
 藤十郎の小次郎と敦盛の二役は、若々しく色気があり、また小次郎が父に早く討ってくれろと告げる場面など品格が感じられました。魁春の玉織姫は、目が見えなくなって小次郎の首を敦盛と思って嘆く下りが、感情を大げさに表に出さない分、哀れさが胸を打ちました。
 昼の部でもうひとつすばらしかったのは、「吉田屋」の仁左衛門です。伊左衛門はなよなよした若旦那で、子供っぽくてしょうもない人物ですが、仁左衛門が演じるといやみったらしくならず、ホントに無邪気でかわいらしく見えました。火鉢で冷えた手のひらを暖める仕草なども美しかったです。福助も、夕霧のような花魁の役は絶品。
 菊五郎は「女伊達」で気っ風のいい姐さんの立ち回り。最初の『三番叟』『萬歳』『屋敷娘』の踊りが春らしくて楽しいです。

 ところで、今回の歌舞伎では、歌舞伎独特の遠近法の表現が二つ出て来たのが面白かったです。ひとつは「組打」。波が描かれた板が、手前から奥に向かって三段あって、一番奥の三枚目には小さな船が浮かんで、沖にある船を表します。浜辺の設定の舞台手前を馬に乗って下手から上手に駆けていった敦盛(実は小次郎)は、次いで一枚目の波の向こうを上手から下手に移動しますが、次に二枚目の板の向こうに下手から現れるのは子役で、浜辺からだんだんと遠くの船に向かって馬を泳がせて遠ざかっていく様子が表現されます。遠くで子役同士が一騎打ちをし、浅黄幕が振り落とされると、組み合った熊谷直実と敦盛が舞台手前にセリ上がってくるのは、現代の映画でいえば望遠から突然クローズアップにカットバックするような、見事なスペクタクルです。 
 もうひとつは「吉田屋」で、伊左衛門が吉田屋の奥座敷へ夕霧の様子をうかがいにいく場面です。伊左衛門はふすまをいくつも開けて舞台のはるか奥にある奥座敷へと走って行くのですが、実際はふすまとふすまの間隔はそれぞれ半間ほどしかありません。現実にはわずかの奥行きを、すごい距離があるかのように見せて、何回か行ったり来たりするシーンは、ちょっと滑稽でおもしろかったです。

 さらに豆知識ですが、馬上の敦盛と熊谷直実は、二人とも背中に布をかけたカゴのようなものを背負っていました。これは母衣(ほろ)と呼ばれる軍装で、元来は背後から飛んで来た矢を防ぐためのものでしたが、のちには身分などを表す装飾としても使われたそうです。花弁をこの母衣に見立てて名付けられた、その名もクマガイソウアツモリソウというランがあります。ぽん太はどちらも見たことがないのですが、一度見てみたいと思っています。美しい形から、盗掘が後を絶たないそうです。

 帰りに出光美術館の「西行の仮名」展を見ました。国宝の「一品経和歌懐紙」(京都国立博物館蔵)はわずか数点敷かない西行の真筆のひとつだそうです。字が下手で書道の素養のないぽん太には、「上手だった」という感想しかないのが悲しいところです。
 
一、春の寿(はるのことぶき)
  三番叟
  萬歳
  屋敷娘
  <三番叟>
               翁  我 當
             三番叟  歌 昇
             三番叟  翫 雀
              千歳  進之介
  <萬歳>
              萬歳  梅 玉
  <屋敷娘>
              お梅  扇 雀
              お春  孝太郎
二、一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
  陣門・組打
          熊谷次郎直実  團十郎
             玉織姫  魁 春
         平山武者所季重  市 蔵
  熊谷小次郎直家/無官太夫敦盛  藤十郎
三、女伊達(おんなだて)
           木崎のお秀  菊五郎
           淀川の千蔵  秀 調
           中之島鳴平  権十郎
四、夕霧 伊左衛門
  廓文章(くるわぶんしょう)
  吉田屋
          藤屋伊左衛門  仁左衛門
            扇屋夕霧  福 助
           太鼓持豊作  愛之助
            番頭清七  錦 吾
           阿波の大尽  由次郎
        吉田屋女房おきさ  秀太郎
         吉田屋喜左衛門  左團次

2008/03/04

【札幌】すすきので酒と肴のおいしいお店(福長・北の酒蔵+α)+α

 ぽん太とにゃん子は先月、札幌に行ってきました。もちろん日が暮れると、ぽん太はポンポコ腹鼓を打ち、にゃん子はニャンニャン鳴きながら、毎晩すすきのに繰り出しました。今回訪れたお店のなかで、お勧めをご紹介します。

鮨の福長 まずは鮨の福長。ネタが美味しいのは当たり前。カウンターを囲んで、店主や店長、ほかのお客さんとの会話がはずみ、和気あいあいとした楽しいお店です。
鮨の福長 カラフトシシャモではないホンモノのシシャモも美味しいです。思わずお酒が進みます。
鮨の福長 野球選手の話しなどにノリがいいようです。シメは当然お鮨。北の海の幸を堪能しました。

炭焼き炉端 北の酒蔵 お次にご紹介するのは、炭焼き炉端 北の酒蔵です。2階に小上がりもあるようですが、1階のカウンターは7席とこちらもアットホーム。目の前の水槽で生きているホタテが……
炭焼き炉端 北の酒蔵 調理されて出てきます。料理長や従業員のおねえさんたちとの会話も楽しいです。
炭焼き炉端 北の酒蔵 地酒が充実しているのも、ぽん太とにゃん子には得点が高いです。今回はハシゴの2軒目でお邪魔しましたが、こんどは1軒目でじっくり飲みたいお店です。

すすきのの秘密の店 ぽん太とにゃん子が札幌を訪れるたびに必ず訪れるお店です。写真はクジラやタチ。タチはタラの精巣で、いわゆる白子のことです。新鮮な地元の素材に、料理長の腕が冴え、地酒もそろっています。店の名前は……秘密です。

小樽の秘密の寿司屋3 さらに番外編。ぽん太とにゃん子が小樽に行ったとき、必ず立ち寄る寿司屋さんです。もともとクマ君に教わりました。小樽の鮨といえば、新鮮な素材を美味しく頂くのは当たり前。ここはさらに板さんの手が加わっています。塩がふってあって、醤油をつけずに頂きます。店の名前は……秘密です。

鮭児(ケイジ) こんかい、某お店で、生まれて初めて鮭児(ケイジ)を食べました。鮭児とは、遺伝子解析によれば元来はアムール川水系に属するサケが、雄雌の判別が不可能な未成熟な状態で羅臼付近で捕獲されるもので、数の少ない貴重なものだそうです。今回はルイベでいただきましたが、とても脂がのっていて、軟らかくて美味しかったです。

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