【医学史】小浜藩と杉田玄白・中川淳庵
先日小浜市に行って来たぽん太とにゃん子ですが、そのとき小浜市が杉田玄白の出身地であることを知りました。杉田玄白といえば、フルヘッヘンドの『解体新書』で有名な江戸時代の医師、ぽん太の大先輩ではないか。こちらの小浜市のホームページを見てみると、中川淳庵も小浜藩の藩医ではないか。これはみちくさしなくては。杉田玄白の生涯を小浜藩との関係を中心に振り返ってみましょう。
杉田玄白は1733年(享保18年)9月13日、牛込矢来の小浜藩酒井若狭守の下屋敷で、藩医の子どもとして生まれました。古地図を見てみると、現在で言えば東西線神楽坂駅と大江戸線牛込神楽坂のあいだあたりで(地図)、今でも矢来町という地名が残っています。この屋敷には塀がなく、竹を縦横に組んだ矢来垣が巡らされていたそうで、そこから矢来という地名ができたのだそうです([1]、p.125-127)。あれ?この本では「上」屋敷になっているぞ。まあいいか。
母親は、出産時に亡くなったそうです。1740年(元文5年)から1745年(延享2年)までの少年時代を小浜で過ごし、ふたたび江戸の下屋敷に戻ります。1752年(宝暦2年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤務します。上屋敷は筋違御門の近くにあったそうです。筋違御門は、現代でいえば昌平橋と万世橋のあいだ(地図)にあり、橋が架けられていました。徳川家が寛永寺に詣でるために作られた橋だそうです。筋違橋、昌平橋、万世橋の歴史については、こちらのwikipediaの「万世橋」の項目が詳しいです。筋違御門の南側は防火のための広場になっていました。しかし1859年(安政6年)頃の地図を見る限り、そこに小浜藩の上屋敷は見当たりません。残念ながらぽん太の手元には1750年頃の古地図はありません。ちなみにこの筋違御門の広場は歌川広重の「名所江戸百景」に描かれています。たとえばこちらの森川和夫さんのホームージそれを見ることができます。そこにはさらにプロシア使節の随員が描いたという筋違御門の絵もあります。
さて、話しを戻しますが、1754年(宝暦4年)、京都で山脇東洋が日本で初めて公的な許可を得た人体解剖を行います。この解剖を願い出た原松庵・伊藤友信・小杉玄適は実は小浜藩医で、かつ許可をした京都所司代は若狭小浜藩主酒井讃岐守忠用だったそうです([2]、p.27)。むむ、小浜藩おそるべし。
玄白は1757年(宝暦7年)、25歳で日本橋通4丁目に居を構え、開業をしたようです。当時の藩医の開業とは、どのようなものだったのでしょうか? 「藩医としての勤めに加えて開業医としての診療」([2]、p.15)と書いてあるところをみると、藩医として働きつつ、自宅で一般の病人を診ていたのでしょうか? よくわかりません。この年江戸では、平賀源内が中心となって第一回の物産会が開かれます。この物産会の出品者の中に、小浜藩医中川淳庵がいたそうです。
1765年(明和2年)に玄白は小浜藩の奥医師となり、さらに1769年(明和6年)には侍医となり、新大橋(地図)の西側にあった小浜藩中屋敷内に住むことになります。
1771年(明和8年)は杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』と出会った年です。中川淳庵が江戸に来ていたオランダ商館一行から借り受けたものを一目見るなり、杉田玄白はどうしてもそれが欲しくなりました。しかしあまりに高価で手が出ません。そこで小浜藩の予算で買ってもらおうと、大夫岡新左衛門に掛け合ったところ、「それは買い求めて必ず役に立つものか? 役に立つのならとりはからいましょう」と問いただされました。玄白は「必ずこうであるという目的はないけれど、私がそれを役立ててみせます」と答えました。傍らにいあわせた倉小左衛門が、「杉田玄白はこれを無駄にする人ではないから、ぜひ買ってあげて下さい」と助言し、希望が叶えられたのだそうです([3]、p118-119)。よっ、小浜藩、太っ腹!
同年杉田玄白は小塚原刑場で腑分けを見て、『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚くという出来事がありましたが、小浜藩とは直接関係なし。小塚原刑場の位置が気になります。東京都荒川区南千住2丁目で、現在は延命寺となっているとのこと。こちらが地図ですが、JRと日比谷線の間に挟まれ、延命寺という名前すら載っていません。ちなみに1859年頃の江戸絵図には、小塚原刑場が載っておらず、田んぼになっています([1]、p.66)。この本に掲載された江戸絵図がいい加減なのでしょうか、それとも刑場というものは絵図に載せないものだったのでしょうか?(2008年3月24日付記:よく見ると[1]の江戸絵図と現在の鉄道の重ね合わせが間違っているようで、ちゃんと田んぼのなかに緑地ないし空き地として書き込まれていました)。
『ターヘル・アナトミア』を翻訳して1774年(安永3年)に『解体新書』を刊行するまでの苦労話は省略。
『解体新書』刊行の前年、杉田玄白は、予告見本ともいえる『解体約図』を出版します。これは、漢方医など世間の反応を見るという意味もあったようです。そこには、本書発行の責任が小浜藩と杉田塾に限られるということが明記されているそうです([2]、p.114)。
1776年(安永5年)、玄白は藩の中屋敷を出て浜町に転居しますが、この場所は明らかではありません。1785年(天明5年)、酒井候のお供で小浜藩を訪れます。1805年(文化2年)、時の第11代将軍家斉に拝謁を赦され、さらに翌日には小浜藩の上屋敷に招かれて酒井候からもお褒めの言葉を頂いたそうです。1807年(文化4年)には隠居を赦されました。最晩年に書かれた回顧録の手録は大槻玄沢に託されましたが、その写本のひとつが福沢諭吉の目にとまり、明治2年に木版で刊行されたことはよくしられています。1817年(文化14年)に死去。なきがらは港区虎ノ門の栄閑院に眠っているそうです。そのうちお参りに行ってみようと思います。
小浜藩すごいじゃないですか。江戸の蘭学の発展に大貢献しているようです。小浜市はオバマ候補に便乗して騒いでばかりいないで、杉田玄白記念館でも作ったらどうでしょうか?
[1] 『江戸散歩・東京散歩 切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図で歩く100の町と道』成美堂出版、2005年。
[2] 『杉田玄白 』片桐一男著、吉川弘文館、1971年。
[3] 『蘭学事始 鎖国の中の青春群像』杉本つとむ訳。社会思想社(現代教養文庫)、1974年。
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