平山武者所季重と『平家物語』、日野市
先日歌舞伎座で観た『一谷嫩軍記』のなかに、市蔵の演ずる平山武者所季重(ひらやまのむしゃどころすえしげ)という人物が出てきました。ホントは源氏方の大将なのに、『一谷嫩軍記』では敵役として登場します。で、イヤホンガイドで、この武将の出身地が現在の東京都日野市だと解説しておりました。なに、日野市といえば、ぽん太が生息する多摩地区ではないか。そういえば日野には「平山」城趾公園というのがあるぞ。むむむ、これはみちくさしてみたくなりました。
まず、『一谷嫩軍記』の元になっている『平家物語』の「巻第九 敦盛最後」を見てみましょう。坂落しで有名な一の谷の合戦ですね。『平家物語』では、熊谷直実が首を刎ねるのは本物の敦盛ですが、それを知るのは戦がすんでからです。合戦の場では直実は、「名前はわからないが、年の頃十六、七と息子小次郎と同年代の立派な若武者。先ほど息子小次郎が軽傷を負っただけで自分(直実)は心苦しいのに、この若武者を討ち取ったら父親はどれほどなげくだろうか」と考えて、逃そうとします。そこに登場するのは平山季重ではありません。
……うしろをき(ッ)と見ければ、土肥、梶原五十騎ばかりでつづいたり。
熊谷涙をおさへて申しけるは、
「たすけ参らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ」([1]、p.255)。
「土肥、梶原五十騎」と書いてあり、季重の名前はありません。では、一の谷の戦いで平山季重がどこに出てくるかというと、2月4日に源氏は、範頼率いる大手と、義経率いる搦め手の二手に分かれて、都を出発します。その搦め手の武将のなかに、熊谷次郎直実とともに平山武者所季重の名前があります。義経はその日の夜、平家の先鋒に夜襲をかけてこれを蹴散らします。6日に義経は、配下の一万騎をさらに二手に分け、七千騎を土肥次郎実平に託して一の谷の西側に回らせ、自らは三千騎を率いて鵯越(ひよどりごえ)をめざします。しかしここは名だたる難所。義経が「誰かこの山の案内人はいないか」と問うと、
……武蔵国住人平山武者所すすみ出でて申しけるは、
「季重こそ案内は知(ッ)て候へ」
御曹司
「わ殿は東国そだちの者の、今日はじめて見る西国の山の案内者、大きにまことしからず」
と宣へば、平山かさねて申しけるは、
「御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野、泊瀬の花をば歌人が知り、敵のこも(ッ)たる城のうしろの案内をば、剛の者が知候」
と申しければ、是又傍若無人にぞきこえる([1]、p.168)。
平山季重が道案内の名乗りをあげたので、義経が「東国育ちのおぬしが何で西国の初めての山を案内できるのだ」と聞いた所、「すぐれた歌人が見たこともない吉野の桜を知るように、すぐれた武将は初めてのところでも道案内ができるのです」と答えて皆の顰蹙をかったという話しです。
しかしここは季重の非論理性をあげつらっているというよりは、戦で功名を得ようとはやる荒武者の心性を描いていると考えたいものです。
既に述べたように、直実と季重は、ともに義経率いる搦め手に加わり、鵯越に向っておりました。しかし6日夜半、直実は、「このような急坂を下って背後を襲うような戦では、混戦となって先陣の功名を得ることができまい。一の谷の西に向った土肥が率いる軍に合流し、そちらで先陣を得よう」と考えます。ふと気がついて「まてよ、平山季重も同じことを考えているかもしれない」と思って様子を見に行かせると、案の定季重も出発の準備をしております。二人はそれぞれ義経の隊を抜け出し、土肥軍の陣地を目指します。ここから二人の先陣争いの物語となるのですが、興味がある方は『平家物語』をお読み下さい。
平山季重の生涯に関しては資料によっていろいろな異同があるようで、それを比較検討するのは面倒なので省略。
『日野市史』([1]、p.322-328)を見ると、季重のことが出ています。平山氏の本姓は日奉(ひまつり)氏で、10世紀中頃に日奉宗頼が武蔵に現れ、西党の租となったそうです。当時、武蔵の国には、武蔵七党と呼ばれる武士団があり、西党はそのひとつでした。季重は定期的に上京し、上皇や法皇の親衛軍である北面の武士を務めたために、「武者所」と呼ばれるようになったと考えられているそうです。『保元物語』『平治物語』『吾妻鏡』などに熊谷直実とライバルとして描かれているそうです。
日野市観光協会のサイトにも平山季重について書かれています。そこには、季重ゆかりの史跡もまとめられています。そのうち訪ねてみたいです。
このサイトによると平山城趾公園は、実は城があったわけではなく、京王電鉄がレジャー施設としてこの公園を作った時、平山氏の言い伝えを元に名付けたものだそうです。な〜んだ、そうだったのか……。
[1] 『平家物語〈9〉』杉本圭三郎訳注、講談社学術文庫、1988年。
[2] 『日野市史 通史編1』日野市史編さん委員会、1988年
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