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2008年4月の19件の記事

2008/04/27

【歌舞伎】仁左衛門の弁慶・玉三郎の義経に見とれる(2008年4月歌舞伎座夜の部)

 歌舞伎座夜の部のお目当てはなんといっても『勧進帳』。仁左衛門が荒事の代表の弁慶をどう演ずるか、玉三郎の義経がどれほど美しく高貴か、いやでも期待が高まります。玉三郎、仁左衛門が花道に姿を見せるたびに、盛大な拍手が起こって鳴り止まず、会場も異様な熱気につつまれています。
 仁左衛門の弁慶は、大きさや迫力はもちろんのことですが、仁左衛門特有のやわらかさと色気が荒事に消し飛ばされることなく、演技に優美さを与えていました。一般に弁慶は力強さを強調するあまり、演技が大げさで様式的になりがちですが、仁左衛門は過度な表現を抑えて、どちらかというと写実的に演じていました。例えばとかく仰々しい動作になりがちな、葛桶の蓋で酒を飲むシーン。ふーっとお酒を吹くところも大げさにせず、酒を飲み干すところでも蓋をぐるぐるとまわしたりはしません。また、細かな心理をしっかり表現していました。たとえば勧進帳を読み終えて富樫の反応を待つ間の緊張感、富樫が「勧進帳聴聞の上は、疑いはあるべからず」というのを聞いて、ほっとすると同時にどうだとばかりに帰ろうとするさま、次いで富樫の「さりながら」という言葉でハッとするあたり……。セリフも聞き取りやすく明瞭で、心理的な駆け引きのドラマとしての面白さが浮き彫りになっておりました。
 玉三郎の義経は、貴品と美しさは言うまでもなし。最初の花道でのセリフはなんかもっさりしている気がしましたが、弁慶に手を差し伸べるところの優美さと憂いには、思わず口を開けて見とれてしまいました。
 それと宿題の檀特山ですが、今回はきっちり聞き取れました。

 いや〜、いいものを見たという感じの『勧進帳』でしたが、その他の演目は『勧進帳』の前後に「泣き」と「笑い」。『将軍江戸を去る』ですが、三津五郎・橋之助は熱演だったものの、ぽん太は真山青果の脚本は、『元禄忠臣蔵』もそうですが、あんまり好きじゃありません。「尊王であって勤王ではない」などセリフが理屈っぽいし、舞台上におじさんが大勢並んで「ううう」と泣き崩れている様子は美しくありません。『浮かれ心中』はおかしかったが、ただおかしいというだけの演目。三津五郎は何でもできる役者だなぁと改めて感動しました。

歌舞伎座 歌舞伎座百二十年 四月大歌舞伎
夜の部
一、将軍江戸を去る(しょうぐんえどをさる)
            徳川慶喜  三津五郎
           高橋伊勢守  彌十郎
          宇佐見常三郎  巳之助
           間宮金八郎  宗之助
            天野八郎  亀 蔵
           山岡鉄太郎  橋之助

二、歌舞伎十八番の内 勧進帳(かんじんちょう)
           武蔵坊弁慶  仁左衛門
           富樫左衛門  勘三郎
            亀井六郎  友右衛門
            片岡八郎  権十郎
            駿河次郎  高麗蔵
           常陸坊海尊  團 蔵
             源義経  玉三郎

三、浮かれ心中(うかれしんじゅう)
  中村勘三郎ちゅう乗り相勤め申し候
             栄次郎  勘三郎
             おすず  時 蔵
            大工清六  橋之助
           三浦屋帚木  七之助
              お琴  梅 枝
            番頭吾平  亀 蔵
           佐野準之助  彌十郎
              太助  三津五郎
         伊勢屋太右衛門  彦三郎

2008/04/26

「病と医療ー江戸から明治へ」(国立公文書館)・「東山魁夷展」(東京国立近代美術館)・イタリアンレストランBiCE東京(カレッタ汐留)

 国立公文書館で「病と医療ー江戸から明治へ」という展示会をやっているのを地下鉄のポスターで見かけ、行ってみることにしました。そもそも国立公文書館ってどこ? 竹橋の東京国立近代美術館の隣のようです。何と入場無料で、カラー67ページのパンフレット付き。ありがたいと思いつつも、税金の無駄遣いが行われている疑念が湧いてきます。
 江戸から明治にかけての病と医療の変遷を、古文書の資料を例示しながら解説したもので、なかなか興味深かったです。展示されていた『養生訓』は新しいものでしたが、杉田玄白が執筆し養子の杉田伯元が出版した『形影夜話』は1810年(文化7年)のものですから、初版本でしょうか。
 最近日本では、新型インフルエンザのパンデミックが話題になっております。厚生労働省の「新型インフルエンザ対策行動計画」では、日本の全人口の25%が新型インフルエンザにかかると想定されています。新型インフルエンザの毒性が中等度と仮定すると、死亡者は日本全体で17万人、重度の場合は64万人となります。とっても恐ろしく思えますが、人類の歴史上このような伝染病の被害は何度もありました。命が医療によって保証されていると考える方が間違っています。今回の展示によれば、資料の数字が正確かどうかはわかりませんが、例えば1716年(享保元年)のインフルエンザでは、1ヶ月の間に江戸だけで8万人の死者が出たという記事があるそうです。1858年(安政5年)にはコレラが流行し、江戸の死者は3〜4万人だったといいます。江戸の人口に関しては正確な資料は乏しいようですが、よくいわれるように100万都市だったとしても人口の3〜4%。現在の日本の人口に単純に換算すれば、400万人くらいが死亡したことになりましょうか。
 昔どっかでぽん太が聞いた話しで、出典は覚えていませんが、江戸時代の女郎かなんかが「私○歳よ」とサバを読んでいたら、流行病に感染しなかったため、前回の流行時にすでに生まれていて免疫ができていることがわかってしまい、年がバレてしまった、というのがあります。また江戸時代には、麻疹(はしか)や痘瘡(天然痘)の流行が何度もありましたから、子どもが顔に瘢痕を残さずに成長するということは、親にとっては大きな喜びでした。江戸時代の「容姿端麗」というのは、単に美人というだけではなく、疫病の瘢痕が少ないという意味もあったそうです。乳幼児の死亡率も非常に高く、無事に成長した子どもを両親が大切にしたのもうなづけます。海外ではたとえば作曲家のモーツァルト(1756〜1791)は6人の子どもをもうけましたが、無事に成人したのは2人だけでした。子ども全員に同じ名前をつけたら一人だけ生き残ったのでちょうど良かった、などという話しも聞あります。現代では正常分娩は病気でないという考えから、健康保険も使えないことになっていますが、それはひとえに産科学の進歩によるものですから、みなさん産婦人科医を大事にしてあげて下さい。

 ついでに隣の東京国立近代美術館の「東山魁夷展」を見ました。東山魁夷というと、ぽん太は、緑の林が池に映って白い馬がいる絵しか知らなかったので、とても興味深かったです。今年が生誕100年なんだそうです。晩年の絵は、写真のようにリアルなのがかえって俗っぽく感じられ、ぽん太はあんまり好きになれませんでした。

 その後、カレッタ汐留のイタリアンレストランBiCE東京でディナー。もちろんタヌキのぽん太とネコのにゃん子が、自腹でこんな高級レストランに来ることはありません。キャッシュカードのポイントでディナー券を手に入れたのです。料理もおいしく夜景もきれい、ボーイさんも外人で、雰囲気良かったです。ぽん太たちは正体がばれるのではないかと緊張しました。またポイントがたまったら来たいです。
 しかし汐留駅がこんなになっていたとは知りませんでした。電通やリコーのビルが建ち並び、おしゃれな会社員が闊歩しておりました。これまで「好景気」と言われても実感がなかったのですが、ここに来たら「なるほどこのあたりは景気がいいんだな」と納得できました。

2008/04/25

新発田城の桜と足軽長屋

新発田城の桜 出湯温泉清廣館で山菜料理と温泉を満喫したぽん太とにゃん子は、国道290号線を北に向って新発田市へと抜けました。初めて訪れる街です。まずは新発田市のシンボル新発田城へ。桜がちょうど満開で、週末の花見客向けに屋台などの準備が行われていました。写真は復元された三階櫓です。後で述べる事情により、内部の見学はできません。
新発田城表門 新発田城の表門です。国指定重要文化財です。江戸末期に再建されたもののようです。
新発田城 こちらは二の丸隅櫓。やはり重要文化財です。また石垣は「切り込みハギ」と呼ばれる、石同士の隙間が生じないように積み上げる高度な技法が用いられているそうです。
陸上自衛隊新発田駐屯地 現在、お城の敷地の大部分は、陸上自衛隊の新発田駐屯地となっております。復元された三階櫓は、自衛隊の敷地にかかっているため、立ち入りが禁止されています。
堀部安兵衛像@新発田城 表門の前に、堀部安兵衛の銅像があります。新発田市の出身だそうです。ん?まてよ。堀部安兵衛って忠臣蔵の赤穂浪士だろ。赤穂(兵庫県)のひとじゃないの? Wikipediaで調べてみると、堀部安兵衛は1670年(寛文10年)に新発田市で出生。しかし13歳のときにお家断絶となり、浪人に。19歳で江戸に出て剣術の腕で頭角を現します。1694年(元禄7年)、有名な高田馬場の決闘で江戸中の評判となり、これを知った赤穂浅野家家臣の堀部弥兵衛が養子に迎えます。そして1702年(元禄15年)に赤穂浪士の一員として吉良上野介の屋敷に討ち入りとなったことはご存知の通りです。

足軽長屋 こちらはお城からは少し離れた所にある足軽長屋です。新発田藩当時の足軽の八軒長屋がそのまま残っているのだそうです。木造茅葺きの質素な建物です。国指定重要文化財です。内部の見学は入場料がかかるので、外から眺めました。

2008/04/24

【温泉】木造三階建てが美しい出湯温泉清廣館★★★★(付:へぎそば「わたや」、鳥屋野潟公園の桜)

 「攻めの花見」が今年のテーマのぽん太とにゃん子、東京の桜は既に散り始めた4月中旬、桜を追い求めて新潟県に行ってきました。
小千谷へぎそば「わたや」 まずは途中の小千谷で腹ごしらえ。小千谷といえば「へぎそば」です。ぽん太とにゃん子は「わたや」さんの本店にお邪魔しました。こちらが「わたや」の公式サイトです。これによれば、「へぎそば」という名前は、蕎麦がざるにではなく、杉の薄板の片木(へぎ)の上に盛られていることからついたのだそうです。つなぎに「ふのり」が使われているのが特徴で、しこしこつるつるした食感です。この地方では蕎麦をメインディッシュとしてテーブルの真ん中に最初から据えていたため、時間がたっても食感が損なわれないように工夫したのだそうです。

鳥屋野潟公園の桜 次いで、燕市の大河津分水の桜並木を見に行きましたが、残念ながら1分咲き。そこで新潟市の鳥屋野潟公園(とやのがたこうえん)の桜を見に行きました。こちらはちょうど満開で、桜の広々とした林が見事でした。もちろんついでに近くの地酒の都屋に寄り、おいしい新潟の地酒をゲット。

出湯温泉清廣館 今宵の宿は、出湯温泉清廣館(せいこうかん:清広館)です。新潟市の南東、白鳥で有名な瓢湖からさらに山間に入ったところに、村杉温泉、今板温泉、出湯温泉という3つの温泉が点在し、五頭温泉郷(ごずおんせんごう)と呼ばれています。こちらが五頭温泉郷旅館協同組合の公式サイトです。出湯温泉は一番北側にある、静かで小さな温泉街です。磐越自動車道安田インターからの国道290号線は、両側に桜の古木が立ち並び、新潟市から少し標高が高いせいか五分咲きでしたが、満開のおりにはさぞ美しかろうと思われました。
出湯温泉清廣館 こちらが清廣館の公式サイトです。鉤の手に曲がった木造三階建ての建物が美しく、雪国らしい素朴さと、温泉旅館特有の華やかさが入り交じっています。部屋の細部の草食も小粋に造り込まれておりますが、だいぶ傷んでしまっているのが残念です。少しずつ修理をしているそうです。ぽん太が泊まった部屋は2階で、普通に廊下があって、そこから各部屋への入口がありますが、3階はちょっと変わった造りになっています。2階の廊下からいくつかの登り階段があり、それぞれの階段が二、三の部屋に通じています。3階には各部屋をつなぐ廊下がなく、プライバシーが保たれています。このような造りの旅館は初めてです。
出湯温泉清廣館 浴室はあまり広くはありませんが、木をふんだんに使ってあり、落ち着きます。お湯は無色透明で、単純弱放射能泉だそうです。泉温が33度と低めのため加熱していますが、源泉掛け流しです。湯船の中央の底に直径3センチほどの丸い穴があいており、そこからお湯が噴き出しています。温泉好きのぽん太も初めて見る珍しい構造ですが、その意味はあとで明らかになります。
出湯温泉清廣館 ここがお食事所ですが、ご覧の通り、ほとんどスナックです。この宿の欠点として、バブル時代にツアー客向けの改修をしてしまったことがあります。このスナックもそのひとつです。また廊下にも、赤いカーペットが敷かれていますが、これが黒光りする木の床だったらどんなに素敵なことか! ぜひともリニューアルならぬリオールドして、古さを取り戻して欲しいです。
出湯温泉清廣館 こちらが夕食です。ぽん太とにゃん子が期待した通り、女将が摘んできてくださった採りたての山菜料理の数々! 日本海が近いので、刺身も新鮮でした。ご飯も胚芽米(?)のような感じでとてもおいしかったです。
出湯温泉清廣館 朝食も山菜がおいしかったです。ご飯はとってもおいしい新潟の白米でした。
出湯温泉清廣館 石油ファンヒーターの温風をこたつに引き込む装置です。これも生まれて初めて見る文化です。
出湯温泉清廣館 宿の前に華報寺というお寺があるのですが、その境内に共同浴場があります。境内に温泉を持つお寺は珍しいです。もっとも日光の温泉寺のように、寺の内部に温泉があるところもありますが。さて、共同浴場には翌朝入りに行きました。ここの湯船も中央の底に穴からお湯が湧き出すという、同じ構造をしていました。湯殿の壁に貼ってある注意書きを見て、その意味がわかりました。そこには、「このお湯は弘法大師様によって授かったものなので、感謝の気持ちで入るように、お湯の湧出口をまたいだり、足をかざしたりしてはいけません」みたいなことが書いてありました。弘法大師が地面を杖でついたら、そこからお湯が湧き出たという言い伝えは、あちこちの温泉の由来として珍しくありませんが、ここ出湯温泉では、温泉に対する信仰心が現在も残っているのです。湯船の底の穴は、まさに弘法大師が杖で地面に開けた穴を意味していたのです。

 この地域の温泉は、ぽん太は初めて行きましたが、静かで落ち着いた雰囲気がよかったです。バブル時代の改修が惜しまれてぽん太の採点は4点です。日本秘湯を守る会にも入会したとのこと。できればクラシック・モダンにリニューアルしないて、リオールドして歴史的な建物を取り戻していただきたいというのが、ぽん太の願いです。

2008/04/23

【歌劇】小沢征爾は日本が生んだ世界の宝だね『エフゲニー・オネーギン』

 東京のオペラの森は、昨年は画家(!)の『タンホイザー』でしたが、今年はチャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』です。ぽん太は初めて観る演目なので、とても楽しみでした。
 舞台装置は、幕が開くと舞台奥で雪がしんしんと降り続け、抱き合う男女が彫像のように立ち並んでいるという美しいものでした。第1幕第2場の氷の額縁のようなセットや、第2幕の祭りの場の棒状に立ち並んだネオン、第3幕の階段など、モダンで美しかったです。しかし演出はちょっと物足りなく、第1幕第3場でオネーギンがタチヤーナの愛の告白を拒否する場面で、背景の男女が次々と別れて行く演出は、心理の表現だかなんだかわかりませんが、安易だし重複しています。第2幕の祭りのシーンも、テーブルの上に女性が登って踊ったりし、ジュリアナ東京かっつ〜の。群衆の振付けも退屈です。先日コンヴィチュニーの『アイーダ』を観てしまったせいか、全体に俗っぽくてありきたりに感じてしまいました。ひょっとしてぽん太は、もうコンヴィチュニー中毒に陥っているのでしょうか?
 チャイコフスキーの音楽に関してですが、『エフゲニー・オネーギン』はバレエの名作『白鳥の湖』と同じ年の1877年に完成したとのこと。でも第1幕は長くて退屈に感じられ、第2幕のフランス人の歌も平凡なメロディーに思われました。しかしだんだんと盛り上がってきて、チャイコフスキー独特のすすり泣く弦も美しく、最後は心底感動いたしました。
 歌手では、レンスキー役のマリウス・ブレンチウがよかったです。特に第2幕第2場のアリアは、子どもの頃から育って愛を知ったこの家で、なぜ決闘するはめになったのかという悲しみを、繊細でのびのある声で歌い上げました。またタチヤーナを代役で務めたイリーナ・マタエワも、最後のアリアなどすばらしかったです。
 劇としては、貴族の俗悪な暮らしには満足できないが、自分でなにかを産み出すこともできなず、虚無的な人生を送る人物という、ロシアお得意のパターン。鬱屈したなかでちょっとしたからかいから発展して友人を殺すはめに到るところなど、現代日本の閉塞感と似ている気がしました。ラストでも、タチヤーナは本当はオネーギンを愛しているのに、秩序と生活を守るために立ち去っていきます。愛よりも世間を重視して苦悶するというのはまるで歌舞伎の世界です。
 楽日だったせいか、カーテンコールでは出演者一同大喜びしていましたが、その様子を見ていると、小澤征爾がいかにみんなから信頼され、愛されているかがよくわかりました。小澤征爾は日本が生んだ世界の宝だと思いました。
 以前に観たルグリとルディエールのバレエ「オネーギン」の状況がようやくわかり、あゝそうだったのかと感動を新たにしました。

歌劇『エフゲニ・オネーギン』
作曲:チャイコフスキー
指揮: 小澤征爾
演出: ファルク・リヒター
日時:2008年4月20日(日)
会場:東京文化会館

装置: カトリーン・ホフマン
衣装: マルティン・クレーマー
照明: カーステン・サンダー
振付: ジョアンナ・ダッドリー

オネーギン: ダリボール・イェニス(バリトン)
タチヤーナ: イリーナ・マタエワ(ソプラノ)
レンスキー: マリウス・ブレンチウ(テノール)
オリガ: エレーナ・カッシアン(メゾ・ソプラノ)
グレーミン公爵: シュテファン・コツァン(バス)
ラーリナ夫人: ミハエラ・ウングレアヌ(メゾ・ソプラノ)
フィリッピエヴナ: マルガレータ・ヒンターマイヤー(メゾ・ソプラノ)
トリケ: ヘルムート・ヴィルトハーバー(テノール)
ザレツキー: 北川辰彦(バス)
隊長: 桝貴志(バリトン)/他

演奏: 東京のオペラの森管弦楽団
合唱: 東京のオペラの森合唱団

2008/04/22

【オペラ】良くも悪くもペーター・コンヴィチュニー『アイーダ』

 大雨のなか、渋谷のオーチャード・ホールにヴェルディの『アイーダ』を観に行ってきました。なんかぽん太とにゃん子がオーチャード・ホールに行くときは、雨が多いような気がします。
 演出家のペーター・コンヴィチュニーは、2006年の4月にモーツァルトの『皇帝ティトの慈悲』(二期会)を観たことがありますが、皇帝ティトがトイレの中でアリアを歌ったりして、あまりにおちゃらけた演出にびっくりした記憶があります。ぽん太はコンヴィチュニーと聞くと、父親の指揮者フランツ・コンヴィチュニーの方が頭に浮かびます。ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とのコンビは「いぶし銀」サウンドと評されました。父はいぶし銀、子どもはスキャンダラス、親子でかくも違うものか。『アイーダ』は、2005年にプラハ国立歌劇場を東京文化会館で観劇中に地震に遭遇して以来、今回が2回目です。

 幕が開くと、とっても狭苦しい白いキューブ状の空間しかありません。中央に赤いソファが置かれ、下手にドアがあります。物語のほとんどすべてがこのちいさな空間のなかで展開します。服装もラダメスは白いシャツに白いズボン、アイーダはメイド服。壮大なスケールのグランド・オペラが、コメディ風室内劇になってました。
 あの有名な凱旋の場も、音楽こそ2階客席の両側に配置された金管がファンアーレを吹き鳴らし、普通以上に壮大なサウンドでしたが、舞台上では狭い室内のなかで、国王とアムネリスとランフィスの3人が、クリスマスパーティーよろしく乱痴気騒ぎをするだけです。しまいには3人がそろってビリビリ感電しているような仕草をしますが、何のことだかちっともわかりません。「あの勇壮なスペクタクル・シーンをよくもこんなにしやがって!」と笑いがこみ上げてきます。
 第1幕で軍隊の指揮官に選ばれたラダメスにアムネリスが与えるのは、軍旗ではなくゾウのぬいぐるみです。帰還してきたときにはぬいぐるみがぼろぼろになっており、戦闘の激しさを物語っています。
 第3幕になると、白い部屋の壁に、スフィンクスとピラミッドとヤシの木の写真が投影されますが、そのいかにもエジプトという絵葉書のような風景は、「はいはい、君たち観客はエジプトの風景が見たかったんでしょ、そんなにみたけりゃ見せてあげますよ、これで文句ないでしょ」とコンヴィチュニーにからかわれているかのようです。
 最後の地下牢のシーンでは、キューブがアムネリスによって壊され、舞台の一番奥に東京(?)の夜景の動画が映し出されます。アイーダとラダメスがビルの屋上で歌っているような感じです。東京が牢獄だと言いたいのでしょうか?
 こうして書くと、ずいぶんおちゃらけたひどい演出のように思えるかもしれませんが、実際に観た印象は、モダンでセンスがあり、アイディアに満ちていてすばらしかいものでした。余分なスペクタクルを排して小さな空間で物語が繰り広げられることで、主要な登場人物の微妙な関係や心理が、とてもよくわかりました。終盤に近づくと余分なおちゃらけが減って、感情移入することができました。カーテンコールでコンヴィチュニーが登場すると、ブーイングとブラボーが両者入り乱れておりましたが、良しにつけ悪しきにつけ注目を集める力がある人のようです。
 歌手について論評する能力はぽん太にはありません。ネーグルスタッドとヤン・ヴァチックの最後の二重唱は、イタリアオペラ的な仰々しさを微塵も感じさせず、崇高で哲学的でした。ぽん太は、『アイーダ』の十数年前に初演されたという『トリスタンとイゾルデ』のラストを思い浮かべました。

ペーター・コンヴィチュニー演出
ヴェルディ「アイーダ」
公演日程:2008/4/17(木)
オーチャード・ホール
(全4幕・イタリア語上演・日本語字幕付)
指揮:ウォルフガング・ボージチ
演出:ペーター・コンヴィチュニー
美術:ヨルク・コスドルフ
衣装:ミヒャエラ・マイヤー=ミヒナイ
管弦楽:東京都交響楽団 合唱:栗友会
出演:コンスタンティン・スフィリス(王) イルディコ・スェーニィ(アムネリス) キャサリン・ネーグルスタッド(アイーダ) ヤン・ヴァチック(ラダメス) ダニロ・リゴーザ(ラムフィス) ヤチェック・シュトラウホ(アモナスロ) ウルリケ・ビヒラー=シュテフェン(巫女)

2008/04/21

蔵の街栃木市でみちくさする

蔵の街栃木市 那須塩原の明賀屋本館の露天風呂を満喫したぽん太とにゃん子は、多摩の巣穴への帰り道、古い蔵の街並があると聞いて、栃木市に立ち寄りました。こちらが栃木市ホームページのなかの観光ページ、そしてこちらが栃木市観光協会のサイトです。写真はとちぎ蔵の街美術館ですが、善野家土蔵(通称おたすけ蔵)を改装したものだそうです。なかなかいい味を出しています。
蔵の街栃木 こちらは横山郷土館。昔は麻問屋だったそうです。瓦葺きの和風建築の両側に、石造りの蔵がシンメトリーに配置されていて、和洋折衷のおもしろい建物です。
蔵の街栃木 現在は市役所別館として使われていますが、大正10年に栃木町役場として建てられたものだそうです。建物の前に案内板があり、細かい文面は覚えていないのですが、もとはこの場所に栃木県庁があったけれど、明治17年に県庁が宇都宮に移されてしまったということが、とってもくやしそうに書いてありました。そういえば、栃木県に栃木市があるのに、なんで県庁所在地が宇都宮なのか、ぽん太も疑問に思ったことがあります。栃木市公式ホームページには、栃木市が自由民権運動の拠点であったことが関係しているのではないかと書かれていますが、真実はよくわかりません。明治以降、都道府県の線引きや名称、県庁所在地の決定がどのように行われたのかについては、ぽん太も興味があるのですが、いまだみちくさする機会がありません。
蔵の街栃木 こちらは肥料のお店。歴史的建築物ではないようですが、いい雰囲気です。
蔵の街栃木 神明宮の拝殿ですが、どう見ても寺院です。中教院の講堂として1875年(明治5年)に造られたものだそうです。中教院とは何か!?というのは重要な問題ですが、ちと複雑なようなので、日を改めてみちくさしたいと思います。
蔵の街栃木 裏手には、神明造の様式にのっとった社殿があります。屋根の両端のV字型に飛び出した木を千木(ちぎ)と言いますが、この神明宮の千木(ちぎ)が、栃木(とちぎ)という地名の由来であるという説があるそうです。
蔵の街栃木 近龍寺は浄土宗のお寺です。
蔵の街栃木 近龍寺には、山本有三のお墓があります。栃木市の出身なのだそうです。昔『路傍の石』などを読みましたが、内容は全く記憶しておりません。

2008/04/20

【桜】小田原城・長興山しだれ桜・鎌倉段葛

小田原城の桜「攻めの花見」が今年のテーマのぽん太とにゃん子、本日は小田原城に行ってきました。小田原城に行くのは、なんと小学校の遠足以来です。
小田原城の桜 前回の池上本門寺の厳粛な雰囲気とはことなり、屋台も出て、家族連れやカップルでにぎわっていました。桜はちょうど満開でした。
小朝 小朝といっ平がテレビの撮影に来ていました。テレビ東京の「いい旅・夢気分」(2008年4月16日)で放映されたようです。

長興山紹太寺のしだれ桜 続いて、天然記念物の長興山のしだれ桜を見に行きました。こちらが長興山紹太寺の公式ホームページです。歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」の花笠踊りを思わせる美しい姿です。
長興山紹太寺のしだれ桜近くに駐車場がないので注意が必要です。小田原駅近くの駐車場に車を停め、小田原城を見学し、箱根登山鉄道で紹太寺のしだれ桜を見に行くのが、一番いいと思います。駅近くの駐車場の方が、小田原城周囲の駐車場より値段も安いです。各駅停車で小田原から3つ目の入生田駅で下車し、5分ほど歩くと紹太寺の入口がありますが、桜まではそこからさらに10分ほど坂道を上らなくてはいけません。しかしその美しい姿は、はるばる来るだけの甲斐があります。

鎌倉段葛の桜 鎌倉を通って帰りました。時間がなかったので、段葛の桜を車窓から見学しました。

2008/04/19

【歌舞伎】時蔵の八重垣姫がよかった(2008年4月歌舞伎座昼の部)

 4月の診療報酬改定などの医療制度改正に伴うどたばたもようやく一段落。疲労がたまって頭がぼーっとしています。4月の歌舞伎座は仁左衛門と玉三郎というロイヤル・コンビですが、寝てしまいそうないやな予感がします。
 まずは「本朝廿四孝」の「十種香」。「本朝廿四孝」は1766年(明和3年)に人形浄瑠璃として初演され、同年に歌舞伎に移された作品。「十種香」は、歌舞伎の三姫のひとつの八重垣姫が登場いたします。歌舞伎初心者のぽん太は、これでようやく三姫を全部みることができました。ああ、うれしや。
 で、時蔵の八重垣姫がすばらしかったです。蓑作(実は勝頼)をかいま見て「ヤア我が夫か、勝頼様」と思わず飛び出しそうになり、次の瞬間勝頼は既に切腹したのだと気がついて、いくら似ているとはいえ他人に一時でも心をときめかしたことを恥じ、亡き勝頼公の絵姿に向って一心不乱に手を合わせる出だしからして、若い姫様のうぶで純真な気持ちが感じられました。その後も、濡衣と蓑作の関係を疑っての嫉妬、濡衣に蓑作との仲立ちを頼んで照れる姿、赤の他人に恋心を打ち明けてしまったことを恥じて殺して欲しいと迫る武家の姫君らしい毅然とした態度、父が勝頼を殺そうとして追っ手を放ったことを知って不安と憂いをたたえた表情など、最初から最後まで引きつけられました。橋之助の勝頼は美しい。錦之助の白須賀六郎の若武者振りもりりしかったです。
 「熊野」(ゆや)は、おそらくは今回の目玉ですが、お昼のお弁当も手伝って意識が断続的となりました。舞台中央にいた玉三郎が、次の瞬間花道にワープしていたりして、このような超能力をいつの間に身につけたのか、などと混濁した意識で考えながら鑑賞。切れ切れの記憶のなかで、玉三郎の抑制した表情と、仁左衛門の熊野に対する愛情が、印象に残っております。
 「刺青奇偶」は、周囲の人たちはハンカチで目を拭い、客席のあちこちからすすり泣きが聞こえてくるという熱演でしたが、ぽん太はあまり感情移入できませんでした。第一幕は、これまで不幸な人生を送って来たお仲が、男らしい半太郎に惚れるという場面で、おおいに笑わせていただきました。能楽+世話物(お笑い付き)というのが最近の玉三郎のパターンか? 第二幕は、一転して半太郎が博打好きの困ったちゃんで、お仲は死病に冒されながらも夫に恨み言ひとついわない貞淑な女房となります。このぐらいの矛盾は歌舞伎ではよくあることです。博打をやめて欲しいという願いを込めて、お仲が半太郎の腕にサイコロの刺青を彫る所が見せ所。しかしぽん太は、「好き勝手なことをする夫が、優しい妻に赦してもらえる」というよくあるプロットがベタすぎて、感動できません。第三幕は、半太郎と鮫の政五郎の男同士の大勝負です。しかし半太郎の「人並みの家財道具を揃えた家で女房を死なせてやりたい」という気持ちがよくわかりませんし、その話しのどこにほだされて政五郎が半太郎と大勝負をする気になったのかもわかりません。それに、あれほどお仲がやめてほしいと言っていた博打で得た金で家財道具を揃えたとしても、お仲は喜ばないんじゃないかと思うのですが、タヌキのぽん太には人間の感情はなかなか難しくて理解できません。勘三郎、玉三郎、亀蔵、仁左衛門、個々の演技は絶品。

歌舞伎座 四月大歌舞伎 昼の部
一、本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)
  十種香
            八重垣姫  時 蔵
            武田勝頼  橋之助
           白須賀六郎  錦之助
            原小文治  團 蔵
            腰元濡衣  秀太郎
            長尾謙信  我 當
二、熊野(ゆや)
              熊野  玉三郎
              従者  錦之助
              朝顔  七之助
             平宗盛  仁左衛門
三、刺青奇偶(いれずみちょうはん)
             半太郎  勘三郎
              お仲  玉三郎
          荒木田の熊介  亀 蔵
          赤っぱ猪太郎  錦 吾
             太郎吉  高麗蔵
           鮫の政五郎  仁左衛門

2008/04/18

【桜】花見スポットの王道・千鳥ヶ淵(付:荒木町の策の池)

千鳥ヶ淵の桜 「攻めの花見」がテーマのぽん太とにゃん子、池上本門寺の桜を愛で、日蓮聖人の御威光に触れたあと、東京都のお花見スポットの王道というべき千鳥ヶ淵に向かいました。ちょうど桜は満開!平日だというのにすごい人出。立ち止まらずに歩きながらの花見です。
千鳥ヶ淵の桜 桜のトンネルを透かして、お堀の反対側の桜が見え、とても美しい景観です。
千鳥ヶ淵の桜 日が暮れるとライトアップされ、さらに幽玄さが際立ちます。千鳥ヶ淵はいつのころから桜の名所になったのでしょうか?ググってみてもよくわかりません。こんどは花見ばかりではなく、戦没者墓苑の方にも行きたいと思いました。

荒木町の策の池 桜を満喫していい気分のぽん太とにゃん子は、さらにいい気分になるべく、四谷の荒木町の与太呂にはしごしました。ついでに、以前に荒木町に行ったときに見ていなかった「策の池」(むちのいけ)を見てきました(地図はこちら)。ぽんたが以前のブログで書いたように、もともと荒木町は松平摂津守の屋敷だったところで、そこには滝のある大きな池がありました。明治以後、その池の周りに料理屋ができて花街として発展したのですが、その名残がこの小さな「策の池」だそうです。

2008/04/17

【桜】寺院と桜の美しいハーモニー・池上本門寺

池上本門寺 今年は「攻めの花見」を目標に据えたぽん太とにゃん子、まず桜の名所池上本門寺に行ってきました。こちらが池上本門寺の公式サイトです。池上本門寺は日蓮宗のお寺で、日蓮聖人御入滅の一大霊場です。
池上本門寺 日蓮聖人の像です。時の政権や他宗派と生涯戦い続けた聖人さまも、桜に囲まれて心無しか表情が軟らかいようです。
池上本門寺 五重塔は国指定重要文化財です。1608年(慶長13年)に建立されたものだそうです。池上本願寺の桜は、一面に咲き乱れているというものではありませんが、広々とした境内のなかに点々と桜が咲いていて、お寺の建築物と美しいハーモニーをなしています。もちろん宴会・飲酒は禁止です。
池上本門寺 池上本門寺といえば力道山のお墓があるので有名です。ぽん太は格闘技はあまり詳しくありませんが、せっかくなのでお参りしてきました。
池上本門寺 本門寺から坂を下ったところに大坊本行寺があります(こちらが公式サイトです)。身延山で晩年を過ごしていた日蓮は、1282年(弘安5年)、湯治のために常陸に向けて出発します。ところが武蔵国の池上宗仲の館に逗留中に容態が悪化、10月13日に息を引き取ります。その館の場所に建立されたのがこの大坊本行寺です。したがって、正確には日蓮聖人が入滅した場所は本行寺です。

2008/04/16

水沢の高野長英記念館、佐藤昌介著『高野長英』

水沢市の高野長英記念館 ぽん太とにゃん子は、先日岩手県水沢市(現在は奥州市水沢区)にたちよったとき、高野長英記念館でみちくさしてきました。こちらが高野長英記念館の公式サイトです。歴史紙芝居もありますが、音が出るので要注意。
 水沢市(現在は奥州市水沢区)には、ほかにも後藤新平記念館斎藤實記念館もありますが、そのなかで一番興味深い高野長英を選びました。ちなみに水沢市(現在の奥州市水沢区)出身の有名人は、ほかに小沢一郎や吉田戦車がいます。
 無学なぽん太は、高野長英と聞いても、蛮社の獄で捕まった蘭学者というぐらいの知識しかありません。また群馬県吾妻郡の六合村(くにむら)に赤岩温泉「長英の隠れ湯」というところがあり、高野長英が付近に隠れていたという言い伝えがあることは、以前から気になっていました。
 ちなみに、同じく蛮社の獄で捕まった渡辺崋山はぽん太はすでにみちくさ済みです。
 記念館には、椿椿山筆「高野長英画像」や自筆の手紙などの重要文化財があり、興味深かったです。高野長英が蛮社の獄で永牢(無期懲役)を申し付けられたことや、牢屋に火を放って脱出したこと、薬品で顔を焼いてわからないようにして江戸に戻って医療を行ったことなどを初めて知りました(無学ですみません)。明治初期には歌舞伎にもなっていたようです。また、高野長英の生涯を描いた紙芝居も展示してありました。明治以降の価値観からすれば、蘭学を学んで開国を訴え、幕府から迫害されても不屈の精神で真実を訴え続け、医師として患者を救った長英は、「日本人の鑑」なのでしょう。

 で、高野さんともせっかくの縁なので、多摩の巣穴に戻ってから、佐藤昌介著『高野長英 』(岩波新書、1997年)を読んでみました。知らないことばかりで(無学でごめんね)おもしろかったです。興味を持たれた方は勝手に自分で読んでいただくことにして、ぽん太が面白かった点だけをピックアップいたします。
 まず、現在一般に知られている高野長英の生涯は、高野長運の『高野長英伝』(1928、昭和3年)によるのだそうです。高野長運は、血のつながりはないものの、長英の曽孫さんだそうです。しかしこの伝記は、長英をあまりに神格化しているうえに、単なる伝聞に多く基づいていて、科学的な信憑性に欠ける傾向があるのだそうです。佐藤昌介は本書で、できるだけ資料に基づいて、史実と伝説を区別しようと試みています。
 長英はかなり強烈な個性の持ち主だったようです。こうと思ったことを貫き通す強い意志を持つ反面、厚かましく、他人への思いやりや共感性が乏しく、周囲に配慮したり状況に合わせたりすることが苦手だったようです。例えば、これは伝説ですが、養父の代理で出席した無尽講で当たった15両を持ち逃げして、江戸に遊学しようとしたそうです(p.11)。世間知らずでお人好しの面もあったようで、知り合った男に人足の仕事を世話してやったところ、その男は金品17両余りを持ち逃げして姿をくらましてしまい、身元引き受け人だった長英は中間(ちゅうげん:武家の奉公人)にまで身を落として返済にあてたそうです(p.20)。長崎留学中にはたびたび養父に借金を懇願する手紙を出し、やがて養父も腹に据えかねて手紙に返事を書かなくなり、事実上の絶縁となってしまいました(p.34)。しかし長英自身は、その事実に長らく気がつきませんでした。そしてついには養父が死去し、高野家の家督相続人であり婚約者も決まっていた長英は、当然帰郷してあとを継がなければならなかったのですが、なんだかんだ理由をつけては帰郷を先延ばししました。ついには自分が隠居し、婚約者を娘として養子縁組し、娘が婿をもらうことでお家断絶を免れるという秘策を考え出し、武士の身分を捨てて町医者になりました。長崎から江戸にもどってからの蘭学者仲間での評判も芳しくなく、長崎時代の同輩を平気で呼び捨てにし、金に困ると知人宅におしかけては強奪同然に金を借りたそうです。また彼の酒好き・女好きは有名で、脱獄後に幕府が配布した人相書きに「大酒のよし」と書かれていたそうです(p.64)。本書の著者の佐藤昌介は、「封建的諸制約から解放された自我の貫徹であり、個人の自立であって、当時の社会的通年からはみだしていた」(p.56)と述べていますが、ぽん太の印象では、長英の言動は近代的な自我の先取りなどではなく、現代社会に生きていたとしても、迷惑で困ったちゃんでヤなやつだったように思えます。
 また長英は、世界情勢に目を向け、日本の政治状況を批判した「憂国の士」というイメージがありますが、実は卓越した語学力を持った学究肌のひとで、政治や大局観には欠けていたようです。渡辺華山は長英の語学力を評価し、華山自身は外国語を習得する暇がなかったため、さまざまな洋書の翻訳を長英に依頼しました。その華山も、長英の見識は伍長程度だと手紙に書いていたそうです(p.94)。 しかし一方で『西洋学師ノ説』と佐藤が呼ぶメモは、西洋自然哲学史と呼びうる内容で、アリストテレスからガリレイ、デカルト、ベーコン、ライプニッツ、ロックなどを論じているのだそうです。
 本筋とは関係ありませんが、オランダ語文法の全容を日本に紹介したのは、オランダ通詞馬場佐十郎貞由(さだよし)(1787-1822)で、オランダ語文法に基づいてオランダ語を読むことを「新読法」といい、杉田玄白や大槻玄沢のように、経験だけをたよりに読む方法を「古読法」と読んだことを初めて知りました(p.17)。
 さて、ぽん太恒例の江戸考古学。高野長英にまつわる場所を調べてみましょう。シーボルト事件をきっかけに長崎を去り、広島、京都などを経て江戸に戻った長英は、1829年(天保元年)頃、麹町貝坂に居を構えて開業・開塾しますが、その名も大観堂といいました。1837年(天保8年)には貝坂近くの家屋を購入しましたが、翌年の火災で類焼。ただちに再建したものの、「俗に『医者の玄関構え』というように、職業柄、客寄せのために外構には見得を張らねばならず、そこだけは年内に無理して再建したものの宅内の再建はおくれ、天井板は張れず、瓦はふけずという状態で、年を越した」そうです(p.60)。江戸時代の医者は大変だったんですね〜。そういえば落語の「ちしゃ医者」でも、ヤブ医者が見得をはって、底が抜けた籠に乗って往診にいくシーンがあります。
 ググってみると、東京都平河町1-6-13(地図)に高野長英大観堂学塾跡という石盤があるようですが、上記のうちどれなのかは、ちとわかりません。貝坂なので、おそらくは最初に住んだ借家のことでしょうか。ちなみに落語や歌舞伎の文七元結(ぶんしちもっとい)で、最後にお久と結ばれた文七が元結いの店を開いたのも、麹町貝坂だそうです。こんど最高裁判所じゃなくて国立劇場にでも行ったときによってみたいと思います。
 大観堂の門人には上州の吾妻川流域のひとが多かったそうで、1836年(天保7年)には長英自身が上州に旅行もしており、「長英の隠れ湯」の言い伝えと関係がありそうです。
 町営が永牢となったのは小伝馬町の牢屋敷ですが、地図ではこのへんです。1841年(天保12年)に牢名主となります。「牢名主になる」というのが年譜にある人は珍しい気がします。ちなみにこの年、渡辺華山が自刃しております。
 放火に乗じて脱獄した長英が、六合村に隠れていた事実があるかどうか。佐藤昌介の考えは否定的で、比較的早く江戸に戻り、潜伏していたのではないかと想像しています(p.174)。
 その後は多くの兵学書を翻訳。一時は密かに宇和島藩で翻訳に携わります。再び江戸に戻った長英は麻布本村町に身を潜めますが、生活のためか青山百人町に転居し、医業を行います。薬品を使って顔を焼き人相を変えたという逸話にかんしては、証拠が見当たらないそうです。その場所は港区南青山5-6-23(地図)で、スパイラルホールの入口横に、高野長英終焉の地の碑があるそうです。そのうちみちくさしてみます。

2008/04/15

【神社】オシャレでシックな国宝大崎八幡宮

仙台の国宝大崎八幡宮 「国宝」の近くを通ったときは立ち寄ることにしているぽん太とにゃん子は、仙台の大崎八幡宮をみちくさしました。こちらが公式ホームページです。
 権現造の社殿は黒漆塗りで、丹念に彫り込まれた彫刻は極彩色に塗られており、シックですけどきらびやかな印象です。仙台藩主伊達政宗が1604年(慶長9年)から12年間をかけて造ったそうです。
 権現造り・黒漆塗りの本殿といえば、ぽん太は以前に行った妙義神社を思い浮かべますが、こちらは国指定重要文化財で、1756年(宝暦6年)の建造でした。
仙台の国宝大崎八幡宮 社殿の手前にある長床は、質素で落ち着いた印象ですが、国指定重要文化財だそうです。「長床」という言葉はぽん太は初耳ですが、ググってみてもいろいろな説があります。どうやら社殿の手前にあり、そこで信徒が集会したり修行をしたりするところで、拝殿として使われることもあるもののようです。
仙台の国宝大崎八幡宮 御祭神は、公式ホームページには明示されていないのですが、ぐぐってみると応神天皇・神功皇后・仲哀天皇のようです。応神天皇のご両親が、仲哀天皇と神功皇后ですね。御由緒は、平安時代に坂上田村麻呂が武運長久を祈って、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりだそうです(宇佐神宮(宇佐八幡宮)の公式サイトはこちら)。
 ここで八幡宮について少しみちくさしてみましょう。八幡宮の本源は上記の宇佐神宮ですが、もともと大分県の宇佐地方には八幡神と呼ばれる氏神がおり、鍛冶の神であったとも農業神であったともいわれていますが、本性は明らかではありません。この八幡神が、のちに応神天皇と同一視されたそうです。また神様である八幡神は、神仏習合の影響を受けて、八幡大菩薩とも呼ばれるようになりました。
仙台の国宝大崎八幡宮 応神天皇は、5世紀頃の第15代天皇ですが、実在した人物かどうかははっきりしないそうです。父親は仲哀天皇、母親は神功皇后で、仲哀天皇の死後、新羅遠征から戻った神功皇后が筑紫で産んだそうです。国内的には蝦夷や筑紫など支配権を拡大・強化し、対外的には、朝鮮半島から王仁(わに)をはじめとして多数の文化人や技術者を招いたそうです。応神天皇の後継者争いも激しかったようで、第16代天皇となったのが仁徳天皇です。
 八幡大菩薩は戦の神様とされておりますが、なぜ応神天皇が戦と結びついたのかについては、こんかいのみちくさではわかりませんでした。

【参考文献】
[1]川口謙二著『日本の神様読み解き事典』柏書房、1999年。

2008/04/11

【温泉】川岸露天風呂は最高(明賀屋本館@那須塩原★★★★)

明賀屋本館 逆杉と那須サファリパークで時間をつぶしたぽん太とにゃん子は、無事、本日のお宿の明賀屋本館にご到着。この旅館は、なんといっても鹿股川の流れすれすれにある川岸露天風呂が有名です。赤茶色に析出した温泉成分は一朝一夕でできるものではなく、湯治の雰囲気を伝える浴槽も風情があります。
明賀屋本 この風呂に行くためには、古びた木造の階段を、延々とくだって行かなければなりません。泉質はナトリウム塩化物泉とのことで、茶色っぽく緑色っぽく白っぽく濁っております。
明賀屋本 内風呂は石造りのシックな造りです。ちなみにこちらが明賀屋本館の公式サイトです。
明賀屋本 こちらは貸切露天風呂。開放感抜群なので、あまり柵側にいかないように。
明賀屋本 夕食は部屋食でいただきます。温泉旅館風の会席料理で、おいしゅうございました。
明賀屋本 こちらは朝食です。美味しゅうございました。
明賀屋本 実はこの宿、ぽん太は20年ほど前に、牛さんと山羊さんと一緒に泊まったことがあります。そのとき、太陽風呂とかいう広い内湯があった記憶があるのですが、聞いてみると、その後建物が建て替えられているのだそうです。

 川岸露天風呂は、温泉遺産とも言うべきすばらしいもので最高級の評価です。しかし建物が鉄筋なのが減点で、ぽん太の評価は4点です。

2008/04/10

天然記念物の逆杉・おもしろうてやがて悲しき那須サファリパーク

 3月下旬、ぽん太とにゃん子は今シーズン最後のスキーをと、ハンターマウンテン塩原に向かいました。ここは何と45歳以上だとマスター9時間券というお得な券があり、さらにアンケートに答えると500円引きになります。マスター……。ふふふ、いい響きである。ぽん太もついにマスターか……。
 し、しかし、到着寸前になんと雨が降り出しました。さすがに雨の下、ハンターマウンテン塩原のカチカチに凍ったゲレンデを滑る気力は湧いてきません。とはいえ、どうやって時間をつぶすか……。

塩原八幡宮の逆杉 車でおろおろしていると、国指定天然記念物のカンバンが目に入ったので、とりあえず見てみることにしました。塩原八幡宮の逆杉です。公式サイトはなさそうですが、こちらのページが詳しいです。また、地図はこちらです。
塩原八幡宮の逆杉 2本の杉の大木が寄り添うように立っており、樹齢は約1500年だそうです。枝の形から、逆さに生えているように見えるため、逆杉と呼ばれるようになったそうです。平安時代に、八幡太郎義家が東征の途中、戦勝を祈願したという言い伝えがあるそうです。なかなか立派な杉です。

 逆杉を見終わっても、まだ時間は午後2時。そこでぽん太とにゃん子は、那須サファリパークに行くことにしました。こちらが公式サイトです。
那須サファリパーク 以前に群馬サファリパークに行ったときは、自家用車で入って行ったのですが、こちらでは、車が傷つけられる事故が多いと乗り換えを勧められ、バスを利用することにしました。かわいいライオンバスです。餌やり用のエサを買って、いざ出陣。
那須サファリパーク まずは肉食ゾーン。白いトラや、白いライオンがいます。ガイド兼運転手さんが、「洗ってやればもっと白くなるんでしょうけど、その前に食べられてしまいます」とギャクを飛ばし、バスのなかは大爆笑ですが、以前にここで飼育員がライオンに襲われた事件を知っていると、笑えません。
那須サファリパーク 草食動物ゾーンに入ると、さまざまな動物が、エサをもらいにバスにワラワラと近づいてきます。
那須サファリパーク キリンさん、はいどーぞ。
那須サファリパーク ダチョウ君だかエミュー君だかも顔をのぞかせます。利かん坊のような顔です。
那須サファリパーク ゾウは、エサを出すのに手間取っていたら、すぐにあっちに行ってしまいました。見切りが早いです。エサをふりながら一生懸命呼んだら、やっと戻ってきてくれました。いつのまにかエサを食べていただいている、という力関係にもっていかれます。さすがにゾウはかしこいです。
那須サファリパーク ジンキーという種類だそうで、お父さんがシマウマ、お母さんがロバです。自然界では棲息し得ない珍しいものだそうですが……。このような人工的なアイノコが見せ物とされていることに疑問もわいてきます。目玉となっている白い動物も、遺伝学的にはアルビノで、それを集めてウリにするのはいかがなものかと。
那須サファリパーク エサをねだりにくるエランドですが……。
那須サファリパーク エランドといえば、ぽん太は2005年のゴールデンウィークにケニア行ったときに見たことがあります。左はそのときの写真です。ねじり上げたようなかたちの立派な角を持ち、堂々とした体格のエランドは、けっして間近で観光客に姿を見せることはなく、ブッシュの中に崇高な姿を一瞬かいま見せてくれただけでした。あのエランドが、バスに近寄って観光客にエサをねだる堕落した姿はちょっとショックでした。
 しかし、4月の診療報酬改定でもうかったの損したのグチを言っている自分も、サファリパークでエサをねだる動物たちと同じなのかもしれません。野生のエランドのように崇高な生き方をしたい、とタヌキのぽん太は改めて思いました。

2008/04/07

いま「ひまわり」(東京都医療機関案内サービス)がおもしろい!

 2008年4月1日から、東京都医療機関案内サービス「ひまわり」がリニューアルされました。これは、同日に開始された医療機能情報提供制度とも連動しているもので、以前よりもきめ細かい情報を得ることができ、患者さんが病院を選択するときの助けとなると思います。

 しかし、情報が細かいだけに、なかなか興味深い情報もあります。病院を検索すると、まず基本情報が現れますが、画面右上の「医療の実績、結果に関する事項」というリンクをクリックして表示すると、ページの一番下に、1日当たりの平均外来患者数が書かれています。これと診療日数を勘案すると、おおまかな売り上げがわかってしまいます。知り合いの先生のクリニックを覗いてみると、「をを、あの先生、こんなに繁盛してたのか」とか、「へ〜、意外と細々やってるんだな〜」とか、興味津々です。今日の午前中は閑だったので、あちこち見てまわって楽しみました。
 税務署にも筒抜けなので、悪事を働いている先生はご注意を。

2008/04/05

【蕎麦】細打ちなのに濃厚な香りの粗挽き十割蕎麦(那須塩原・胡桃亭★★★★★)

那須塩原の蕎麦・胡桃亭 栃木県の矢板インターから車で15分ほどのところにある、胡桃亭に行ってきました。こちらが胡桃亭の公式サイトです。お店の外観はそんなに凝った造りではないのですが……。
那須塩原の蕎麦・胡桃亭 注文は「せいろ」。二段重ねになっています。まず見てびっくり。細打ちなのに、目で見ても粒子がわかるような粗挽きで、しかも十割蕎麦とのこと。普通は細切れになってしまいそうなものですが。店主のそば打ちの技術の高さが感じられます。
那須塩原の蕎麦・胡桃亭 そして食べてびっくり。味と香りがとっても濃厚で、蕎麦の旨味が口中に広がります。つゆはすっきりした辛口の薄味で、蕎麦の強い味を支えるには少し力不足かも。つゆをつけずに蕎麦だけでいただいていても、飽きることがありません。
 こんなに味の濃いお蕎麦はぽん太は生まれて初めて頂きました。しかもそれが細打ちというのですから満点以外にありません。

2008/04/03

【温泉】往時のにぎわいを思わせる木造二階建ての宿(温湯温泉佐藤旅館★★★★★)

温湯温泉佐藤旅館 宮城・秋田・岩手にまたがってそびえる栗駒山は、3月下旬とはいえまだ豊富な雪を頂いておりました。その栗駒山の南麓に、温湯温泉があります。国道398号線を北西へと登って行くと、やがて道路は冬期閉鎖となりますが、そかから脇道を少し入ったところが、目指す佐藤旅館です(地図)。
温湯温泉佐藤旅館 明治から昭和にかけて作られたという木造の旧館が残っており、古い建物好きのぽん太とにゃん子は、今回もあらかじめ旧館の部屋を指定しました。二棟の建物が渡り廊下でつながれておりますが、玄関が中庭に面しているのがちと奇妙です。最初は写真の左側の建物だけだったのが、右側の建物を増築すると同時に玄関を別のところに変えたのかな、などと想像していたのですが、ホントはこの中庭が昔の街道だったのだそうです。街道の両側に建物があり、街道をまたぐ渡り廊下で結ばれていたわけですね。往時の華やかな湯治場の風景が頭に浮かんできます。
温湯温泉佐藤旅館 黒光りする廊下、ずらりとならんだ障子とガラス窓が織りなす繊細なリズム。古い温泉旅館特有の景観です。
温湯温泉佐藤旅館 古めかしい和室は、なぜか心が落ち着きます。カメムシが2、3匹どこからともなくはい出してきました。今頃カメムシがいるはずはないので、部屋で越冬していたものが、ストーブの熱で目を覚まして這い出してきたものでしょうか。この旧館の部屋に客が泊まるのは、今年初めてなのかもしれません。カメムシといえばガムテープで退治するのが基本で、知らない方は覚えておくといいでしょう。
温湯温泉佐藤旅館 裏側から見た旧館です。一番右の奥が明治時代の建築なのでしょうか?建て増し建て増しで床面の微妙なずれがあり、チベットのポタラ宮を思わせます。
温湯温泉佐藤旅館 お風呂は、写真の混浴の内湯と、女性専用の内湯、そして一番上の写真のような男女別の露天風呂があります。お湯は無色透明の弱食塩泉です。「温湯」というので泉温が低いのかと思ったら、源泉は60度以上あります。昔は泉温が低かったのかもしれないということでした。
温湯温泉佐藤旅館温湯温泉佐藤旅館 お食事も地元の食材を使ったお料理で、大満足でした。左の写真が夕食、右が朝食です。
 古い建物と鄙びた雰囲気が高得点で、ぽん太の評価は満点です。

2008/04/01

【温泉】思わず立っちゃう混浴露天風呂(鉛温泉藤三旅館★★★★★)

鉛温泉藤三旅館 宮沢賢治で有名な岩手県花巻の西側にはいくつもの温泉があり、花巻温泉郷と呼ばれています。畑山博の『教師 宮沢賢治のしごと』の第十章「参照 温泉学大演習」には、花巻農学校の教師時代の宮沢賢治が、寄宿舎の生徒を誘って、夜中に温泉巡りをしたエピソードが書かれています。志戸平温泉につかった一行は、さらに大沢温泉まで足を伸ばしますが、夜遅くで既に閉まっていました。しかし一行は裏から入って温泉に入り、湯代はあした郵便で送りますと書いた紙を柱に貼付けたそうです。一行は月に誘われて、さらに「鉛温泉、西鉛温泉と、どんどん山の上の方まで行ってしまった」そうです(p.120~122)。
 鉛温泉藤三旅館は木造3階建ての古い建物が残っており、湯治場の雰囲気が感じられるというか、今でも湯治場として使われています。そして、「入ると思わず立っちゃう混浴温泉」と以前に某テレビ番組で紹介された「白猿の湯」が有名です。
鉛温泉藤三旅館 ぽん太は20年以上前にここに泊まったことがありますが、今回はにゃん子を連れて再訪してきました。こちらが藤三旅館の公式サイトです。インターネットで平日格安のプランがありましたので、それを利用いたしました。お部屋は古い本館を指定。歴史ある建物が好きなぽん太とにゃん子の好みです。
鉛温泉藤三旅館 川を臨む露天風呂がついた内湯(桂の湯)です。さらに、川の間近に小さな露天風呂も付いています。お湯は無色透明で、温度は熱めですが、肌に軟らかいお湯です。
鉛温泉藤三旅館 こちらは「河鹿の湯」。平凡なタイル貼りの浴槽ですが、注がれたお湯が滔々と流れ出し、源泉掛け流しを実感できます。
 それから有名な白猿の湯。混浴なので写真は禁止です。深さが1.25mと深く、座ると潜ってしまうので、思わず立ってしまいます。石貼りの浴室、小判型の浴槽、天然石の底から湧いてくるお湯、高い天井、どれをとってもすばらしい芸術品です。ふだんは混浴ですが、女性専用タイムもあります。
鉛温泉藤三旅館 自炊部の廊下です。2食つきで格安で泊まれるプランもあるようです。
鉛温泉藤三旅館 夕食は普通の旅館風の会席料理ですが、おいしくて十分満足できます。
鉛温泉藤三旅館 朝食もおいしゅうございました。
 古い建物、すばらしい風呂、湯治場の風情、どれをとっても最高で、満点以外ありません。

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