水沢の高野長英記念館、佐藤昌介著『高野長英』
ぽん太とにゃん子は、先日岩手県水沢市(現在は奥州市水沢区)にたちよったとき、高野長英記念館でみちくさしてきました。こちらが高野長英記念館の公式サイトです。歴史紙芝居もありますが、音が出るので要注意。
水沢市(現在は奥州市水沢区)には、ほかにも後藤新平記念館や斎藤實記念館もありますが、そのなかで一番興味深い高野長英を選びました。ちなみに水沢市(現在の奥州市水沢区)出身の有名人は、ほかに小沢一郎や吉田戦車がいます。
無学なぽん太は、高野長英と聞いても、蛮社の獄で捕まった蘭学者というぐらいの知識しかありません。また群馬県吾妻郡の六合村(くにむら)に赤岩温泉「長英の隠れ湯」というところがあり、高野長英が付近に隠れていたという言い伝えがあることは、以前から気になっていました。
ちなみに、同じく蛮社の獄で捕まった渡辺崋山はぽん太はすでにみちくさ済みです。
記念館には、椿椿山筆「高野長英画像」や自筆の手紙などの重要文化財があり、興味深かったです。高野長英が蛮社の獄で永牢(無期懲役)を申し付けられたことや、牢屋に火を放って脱出したこと、薬品で顔を焼いてわからないようにして江戸に戻って医療を行ったことなどを初めて知りました(無学ですみません)。明治初期には歌舞伎にもなっていたようです。また、高野長英の生涯を描いた紙芝居も展示してありました。明治以降の価値観からすれば、蘭学を学んで開国を訴え、幕府から迫害されても不屈の精神で真実を訴え続け、医師として患者を救った長英は、「日本人の鑑」なのでしょう。
で、高野さんともせっかくの縁なので、多摩の巣穴に戻ってから、佐藤昌介著『高野長英 』(岩波新書、1997年)を読んでみました。知らないことばかりで(無学でごめんね)おもしろかったです。興味を持たれた方は勝手に自分で読んでいただくことにして、ぽん太が面白かった点だけをピックアップいたします。
まず、現在一般に知られている高野長英の生涯は、高野長運の『高野長英伝』(1928、昭和3年)によるのだそうです。高野長運は、血のつながりはないものの、長英の曽孫さんだそうです。しかしこの伝記は、長英をあまりに神格化しているうえに、単なる伝聞に多く基づいていて、科学的な信憑性に欠ける傾向があるのだそうです。佐藤昌介は本書で、できるだけ資料に基づいて、史実と伝説を区別しようと試みています。
長英はかなり強烈な個性の持ち主だったようです。こうと思ったことを貫き通す強い意志を持つ反面、厚かましく、他人への思いやりや共感性が乏しく、周囲に配慮したり状況に合わせたりすることが苦手だったようです。例えば、これは伝説ですが、養父の代理で出席した無尽講で当たった15両を持ち逃げして、江戸に遊学しようとしたそうです(p.11)。世間知らずでお人好しの面もあったようで、知り合った男に人足の仕事を世話してやったところ、その男は金品17両余りを持ち逃げして姿をくらましてしまい、身元引き受け人だった長英は中間(ちゅうげん:武家の奉公人)にまで身を落として返済にあてたそうです(p.20)。長崎留学中にはたびたび養父に借金を懇願する手紙を出し、やがて養父も腹に据えかねて手紙に返事を書かなくなり、事実上の絶縁となってしまいました(p.34)。しかし長英自身は、その事実に長らく気がつきませんでした。そしてついには養父が死去し、高野家の家督相続人であり婚約者も決まっていた長英は、当然帰郷してあとを継がなければならなかったのですが、なんだかんだ理由をつけては帰郷を先延ばししました。ついには自分が隠居し、婚約者を娘として養子縁組し、娘が婿をもらうことでお家断絶を免れるという秘策を考え出し、武士の身分を捨てて町医者になりました。長崎から江戸にもどってからの蘭学者仲間での評判も芳しくなく、長崎時代の同輩を平気で呼び捨てにし、金に困ると知人宅におしかけては強奪同然に金を借りたそうです。また彼の酒好き・女好きは有名で、脱獄後に幕府が配布した人相書きに「大酒のよし」と書かれていたそうです(p.64)。本書の著者の佐藤昌介は、「封建的諸制約から解放された自我の貫徹であり、個人の自立であって、当時の社会的通年からはみだしていた」(p.56)と述べていますが、ぽん太の印象では、長英の言動は近代的な自我の先取りなどではなく、現代社会に生きていたとしても、迷惑で困ったちゃんでヤなやつだったように思えます。
また長英は、世界情勢に目を向け、日本の政治状況を批判した「憂国の士」というイメージがありますが、実は卓越した語学力を持った学究肌のひとで、政治や大局観には欠けていたようです。渡辺華山は長英の語学力を評価し、華山自身は外国語を習得する暇がなかったため、さまざまな洋書の翻訳を長英に依頼しました。その華山も、長英の見識は伍長程度だと手紙に書いていたそうです(p.94)。 しかし一方で『西洋学師ノ説』と佐藤が呼ぶメモは、西洋自然哲学史と呼びうる内容で、アリストテレスからガリレイ、デカルト、ベーコン、ライプニッツ、ロックなどを論じているのだそうです。
本筋とは関係ありませんが、オランダ語文法の全容を日本に紹介したのは、オランダ通詞馬場佐十郎貞由(さだよし)(1787-1822)で、オランダ語文法に基づいてオランダ語を読むことを「新読法」といい、杉田玄白や大槻玄沢のように、経験だけをたよりに読む方法を「古読法」と読んだことを初めて知りました(p.17)。
さて、ぽん太恒例の江戸考古学。高野長英にまつわる場所を調べてみましょう。シーボルト事件をきっかけに長崎を去り、広島、京都などを経て江戸に戻った長英は、1829年(天保元年)頃、麹町貝坂に居を構えて開業・開塾しますが、その名も大観堂といいました。1837年(天保8年)には貝坂近くの家屋を購入しましたが、翌年の火災で類焼。ただちに再建したものの、「俗に『医者の玄関構え』というように、職業柄、客寄せのために外構には見得を張らねばならず、そこだけは年内に無理して再建したものの宅内の再建はおくれ、天井板は張れず、瓦はふけずという状態で、年を越した」そうです(p.60)。江戸時代の医者は大変だったんですね〜。そういえば落語の「ちしゃ医者」でも、ヤブ医者が見得をはって、底が抜けた籠に乗って往診にいくシーンがあります。
ググってみると、東京都平河町1-6-13(地図)に高野長英大観堂学塾跡という石盤があるようですが、上記のうちどれなのかは、ちとわかりません。貝坂なので、おそらくは最初に住んだ借家のことでしょうか。ちなみに落語や歌舞伎の文七元結(ぶんしちもっとい)で、最後にお久と結ばれた文七が元結いの店を開いたのも、麹町貝坂だそうです。こんど最高裁判所じゃなくて国立劇場にでも行ったときによってみたいと思います。
大観堂の門人には上州の吾妻川流域のひとが多かったそうで、1836年(天保7年)には長英自身が上州に旅行もしており、「長英の隠れ湯」の言い伝えと関係がありそうです。
町営が永牢となったのは小伝馬町の牢屋敷ですが、地図ではこのへんです。1841年(天保12年)に牢名主となります。「牢名主になる」というのが年譜にある人は珍しい気がします。ちなみにこの年、渡辺華山が自刃しております。
放火に乗じて脱獄した長英が、六合村に隠れていた事実があるかどうか。佐藤昌介の考えは否定的で、比較的早く江戸に戻り、潜伏していたのではないかと想像しています(p.174)。
その後は多くの兵学書を翻訳。一時は密かに宇和島藩で翻訳に携わります。再び江戸に戻った長英は麻布本村町に身を潜めますが、生活のためか青山百人町に転居し、医業を行います。薬品を使って顔を焼き人相を変えたという逸話にかんしては、証拠が見当たらないそうです。その場所は港区南青山5-6-23(地図)で、スパイラルホールの入口横に、高野長英終焉の地の碑があるそうです。そのうちみちくさしてみます。
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