【歌舞伎】『ひらかな盛衰記』に出てくる「武士道」という言葉
ぽん太は以前の記事で、歌舞伎で『ひらかな盛衰記』の「逆櫓」を観たことを書きました。その記事なかで、「武士道」という台詞が気になったと書きました。
というのも、一般には「武士道」というと、日本古来の生き方・考え方みたいに思われておりますが、実のところいわゆる「武士道」は、五千円札でおなじみの新渡戸稲造が、1900年(明治33年)に書いた『武士道』が元になっております。この本は、当初は外人向きに英語で書かれた本でしたが、日本語に翻訳されて逆輸入され、武士道ブームを引き起こしたのでした。明治も30年代になると、西洋にかぶれて日本の伝統が見失われがちになってきました。そのような風潮のなかで、「日本にも、西洋の騎士道に勝るとも劣らない倫理があったのだ」という新渡戸の主張は、おおいにもてはやされたのでした。
とすると、「武士道なんてものは、明治時代になってから作られた虚像であり、そんなものは過去の日本の歴史のなかには存在しなかったか、少なくとも傍流にすぎなかったのだ」という考え方と、「いやいや、過去の日本には武士道に通じる考え方が立派に存在したのであって、それを明確に言い表したのが新渡戸稲造なのだ」という考え方ができますが、どっちがホントなのか、ぽん太は今のところ「わからない」と判断を保留しております。
武士道という「考え方」がどこまで遡れるかはさておき、武士道という「言葉」が使われるようになったのは、戦国時代後半から末期とされているようです。「武士道」という言葉の初期の用法を知るためには『甲陽軍鑑』が大切な資料となるそうで、ここでは「武士道」は「荒々しく、猛々しい」といった意味に使われたことが多いようです。ちなみに『甲陽軍鑑』は、高坂昌信(1527-76)が記したものを春日惣次郎らが書き継ぎ、小幡景憲(1572-1662)が編纂したものとされております。
武士道といえば、「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」で有名な『葉隠』ですが、これは佐賀の鍋島藩に仕えていた山本常朝(1659-1719)の出家後(1710年以降)の談話を田代陣基が筆録したものとされております。しかし『葉隠』は当時としては異端の書で、全国的に読まれることはなかったようです。
さて、歌舞伎の『ひらかな盛衰記』に戻りますが、「逆櫓」と呼ばれている部分では、武士と庶民が対比されて描かれています。猟師の権四郎は娘婿の船頭松右衛門に、取り違えた子どもを殺して、孫の槌松の仇をとるように迫ります。ここで松右衛門が自らの正体(木曽義仲の四天王のひとり樋口次郎兼光)と、その子どもの正体(義仲の息子・駒若丸)を明かすことで、これまでの立場がいろいろと変化するところが、この芝居の見所のひとつです。松右衛門「権四郎、頭が高い」、権四郎「なにをぬかすぞい」、松右衛門「イヤサ、頭(かしら)が高い」という名ゼリフで、これまでの父と子という関係が、庶民と武士という関係に変化したことを劇的に表現しております。
「孫の槌松の仇をとるために子ども(駒若丸)を殺してくれ」という権四郎の庶民の倫理に対して、兼光(松右衛門)は、「槌松は、主君義仲の若君である駒若丸の身代わりとなったのだから、あきらめるように」と権四郎を説得します。ここで「私の武士道をたてさせて下さりませ」というセリフが出てきます。
納得した権四郎は庶民の倫理を捨て、「侍を子に持てば、おれも侍。わが子の主人はおれがためにも御主人」と、「武士の父親」として振る舞い始めます。孫の死を恨んだり嘆いたりするのを止めるばかりか、先ほどまでなじっていたお筆を、「さてさて、武家に育ったお女中は又格別。コレ、およしよ、今からあれを見習え、見習え」と誉めたたえるしまつ。さらには孫の形見の笈摺(おいずる:衣の一種)を目にとめ、「ここに七面倒な笈摺がある。とっとと捨ててしまえ」と言い出します。さすがに兼光が「それはあまりにむごい、せめて仏壇に供えてあげなさい」という言うと、権四郎は「侍の親のくせに未練がましいと、人が笑いませんか」と尋ね、兼光の「いったい誰が笑いましょうか」という答えを聞くや否や、「本当はそうしたかったのじゃ」と泣き出します。
ここでは、主君への忠義を第一とし、親と子の情といった私的な感情を押し殺す、という振る舞いや心理的態度を、「武士道」と読んでいるようです。
人形浄瑠璃『ひらかな盛衰記』の初演は1739年(元文4年)。『葉隠』が一般には読まれていなかったことは先ほど述べましたし、『甲陽軍鑑』に代表される「武士道」は、荒々しさ・猛々しさを意味するものであったことも既に書きました。すると『ひらかな盛衰記』に出てくる「武士道」という言葉は、なんだか、その時代にから浮き上がった、納まりの悪い言葉に見えてきます。
『ひらかな盛衰記』は1739年に初演されたといいましたが、現在にいたるまで連綿と上演し続けられてきたわけで、その間にセリフが書き換えられている可能性も否定できません。しかし残念ながら、初演当時のセリフを調べる手段とエネルギーは、ぽん太にはありません。ここらでみちくさを終えることにしましょう。
【参考文献】
(1)織田紘二編著『新版歌祭文?摂州合邦辻・ひらかな盛衰記 (歌舞伎オン・ステージ)』、白水社、2001年。
(2)佐伯真一『戦場の精神史 ~武士道という幻影 (NHK出版)』、日本放送出版協会、2004年。
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