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2009年4月の19件の記事

2009/04/27

【演劇】寺山修司はもはや標本でしか観られないのか・美輪明宏の『毛皮のマリー』

 ぽん太の「一度は見ておきたかった」シリーズ。先日の草刈民代に続いて今回は美輪明宏です。演目は寺山修司の『毛皮のマリー』。ぽん太は初めてです。劇団天井桟敷の3作目だそうで、初演は1967年(昭和42年)。このとき毛皮のマリーを演じたのが32歳の美輪明宏だったそうです。
 さて今回の公演ですが、おん年●歳の美輪明宏が片乳だして大熱演。倒錯と退廃が入り交じる幻想的な舞台でした。セットもゴージャスで美しく、寺山独特の大正時代っぽい(?)セットもあれば、小人やほとんど全裸の若い男性のラインダンスなど、見せ物的雰囲気もいっぱい。新人の吉村卓也も美形、美少女の若松武史はとても上手でした。麿赤兒の下男もはまり役。
 せっかくなので原作も読んでみました(『戯曲/毛皮のマリー』角川文庫、1976年)。寺山自身が再演ごとにかなりテキストや演出を変えているらしく、角川文庫に収録されているのは初演時のものだそうですが、今回の舞台の台本はほとんど初演時と同じようです。違うのは、第一に初演時は、ラインダンスを踊るのが都内のゲイバーから集めた女装のゲイたちだったこと。今回の舞台は若い男性のダンスでしたが、銀座に集う奥様方の趣味、あるいは美輪明宏自身の趣味に合わせていたのでしょうか、おじさんぽん太の好みではありませんでした。そしてもうひとつ違うのは部屋を飛び出して行った欣也が戻ってからのシーン。原作では、欣也は催眠術にかかったかのような人形みたいな様子で戻って来て、それにマリーがカツラをかぶせて少女のメイキャップをしていくという、官能的で耽美的な幕切れだったようです。今回の舞台では欣也は、破れた服を着て怪我をして戻ってきます。追って来たチンピラをマリーが刀を抜いて追い払い、チンピラは「化け物だ」と言って逃げて行きます。そしてマリーが「大丈夫?痛くない?」とか言いながら赤子に接するかのように欣也の傷の手当をする場面が長く続きます。美輪明宏のマリーは、ユングのいうグレートマザーであり、子供にしがみついて放そうとせず支配する母親です。
 さて三つ目の違いですが、ぽん太にはこれが最も重要に思われるのです。寺山も美輪も社会に対して問いかけ、世間の常識に異議を申し立てるという点では共通しているのですが、寺山があくまでもアウトサイダー、弱者の立場から発言しているのに対し、美輪は高みから、全てを見通した者として教えをたれます。寺山は競馬の解説をし、ノゾキで捕まったりしましたが、美輪は真実を知る者、悟った者のとして人々に語りかけます。まさに美輪が出演している某有名番組のスタンスと同じです。今回の公演は銀座の劇場で行われ、観客も中高年の奥様方が多かったようですが、某番組の視聴者層と一致しているように思われました。幕がおりたとたんに興奮してスタンディングオベーションをしている奥様方を見て、ぽん太の頭には「信者」という言葉が思い浮かびました。
 残念ながらぽん太は、寺山修司の存命中に彼の舞台を観ることができず、映画や本を通じで触れることしかできませんでした。彼の痕跡を追い求めて2006年には演劇実験室万有引力の『草迷宮』を観に行ったのですが、俳優たちはがんばって演じているものの、寺山修司独特の叙情感がちっとも伝わって来ませんでした。「私たちは『ある』のではなくて『なる』のであって……」とかいうセリフがあったのですが、これは寺山が熟読していたフランスの哲学者ドゥルーズの生成変化(devnir)のことだと思うのですが、その時の役者の顔を見てみると、そんなことは全く知らない様子で、偉大な寺山修司のわけがわからないけどありがたいお言葉を呪文のように唱えているだけに見えました。寺山修司がこの世を去ってもうすぐ26年となり、もはや私たちは寺山修司の標本しか見れないのかもしれません。
 

毛皮のマリー
LA MARIE-VISON2009
2009年4月23日・ルテアトル銀座 by PARCO
作 寺山修司
演出・美術 美輪明宏
<キャスト>
毛皮のマリー:美輪明宏
美少年・欣也:吉村卓也(新人)
下男・醜女(しこめ)のマリー:麿 赤兒
美少女・紋白:若松武史
名もない水夫:菊池隆則
下男2:日野利彦、マメ山田
鶏姦詩人:江上真悟、倉持一裕
ほか

2009/04/26

【監獄】意外に身近な人でした・昭和の脱獄王白鳥由栄

P2190038 3月に博物館網走監獄を訪れたぽん太は、網走監獄を脱獄した白鳥由栄に興味を持ったのでした。というのも白鳥は何度も脱獄を繰り返したすえ、ぽん太が棲息する多摩地区にある府中刑務所に収監されましたが、そこでは模範囚としてすごし、ついに仮出所したことを知ったからです。なんだかぽん太と縁があるではないか。
 そこで今回、吉村昭の『破獄』と、斎藤充功の『脱獄王―白鳥由栄の証言』を読んでみました。『破獄』が書かれたのが1983年(昭和58年)、『脱獄王』は1985年(昭和60年)。後者は白鳥由栄自身に対するインタビューをもとに、主に白鳥の視点から書かれており、前者は小説ではありますが、白鳥に対する警察側の視点も含めて描かれており、また登場人物の本名は伏せられています。ちなみに白鳥が亡くなったのは1979年(昭和54年)です。
 ぽん太がまず驚いたのは、白鳥がつい最近まで生きていた人物だったということです。博物館網走監獄でマネキンを見て説明を聞いたときには、半分伝説のようなつもりで聞いていました。ところが『脱獄王』で著者が最初に白鳥に会うのは、現在もある三井記念病院ですし、その前に介護を受けていたという安立園は、おそらくここではないかと思われます。生涯に4回監獄をした男が、身近な人だとは知りませんでした。
 ひとたび白鳥をリアルに感じると、4回の脱獄というのが驚異的に思えてきます。最初の1935年(28歳)青森刑務所柳町支所、2回目は1942年(34歳)秋田刑務所、3回目が1944年(37歳)網走刑務所、最後が1947年(39歳)で札幌刑務所です。ノーマークだった最初の脱獄はいざ知らず、後半は脱獄を繰り返す凶悪犯という認識のもと、もし逃げられたら刑務所職員の処分は免れないということで、厳重な監視体制に置かれていたにもかかわらず脱獄を繰り返したことは、まことに驚異的です。
 犯した罪としては、1933年に土蔵破りを繰り返していたときに強盗殺人、1946年に網走刑務所を脱獄して逃走中に傷害致死、それに4回の逃走罪が加わっております。
 大ざっぱな脱獄の手口ですが、青森刑務所は、こっそり手に入れた針金を使って鍵を開けて難なく逃走。秋田刑務所では、脱獄を防ぐために、床はコンクリートで固め、三方の壁には銅板を張り、高さ3メートルのとのころに金網で覆った30センチ四方の明かり窓を付けた、特製の独房を用意しました。白鳥は、部屋の角のところを両手両足で突っ張ってヤモリのようによじ上る技を習得。手に入れたブリキ板を釘で交互に曲げてのこぎりを作り、10日ほどかけて天窓の木枠を切ったそうです。網走刑務所では、扉に取り付けられた鉄製の視察窓に、こっそりとみそ汁の塩汁を垂らすという作業を半年以上続けて、ボルトを浮かせて外れるようにし、逃げる際には両肩の関節を外して小さな穴をくぐり抜けたそうです。付けられていた手錠・足錠も、半年以上打ち付けたり歯で噛んだりしてボルトを緩めておいたそうです。札幌刑務所では、洗面用の桶の鉄のタガを加工して作ったノコギリで房の床板を切り、建物のコンクリート製の土台の下の土を金属製の食器で掘って逃げたそうです。これらを聞いただけで驚くかもしれませんが、さらに細かい手口などは、びっくりすることばかりです。
 4回の脱獄を可能にした白鳥由栄の能力のひとつは、まず器用さです。鍵をあける技術は土蔵破りの時代に習得していたようです。脱獄を防ぐために両手両足に錠を付けられていましたが、看守の見ていないすきに錠を外して休憩し、点呼のときはまた自分で錠を付けるなどしていたそうです。釘を使って金属の板をノコギリに加工したのもすごいです。
 白鳥の2番目の特徴は、驚異的な身体能力です。通常の手錠(もちろん金属製)は、なんなく引きちぎったそうです。府中刑務所で精米所の作業をしたときは、米俵を両手にひとつずつ持って、周囲を驚かしたそうです。床の釘などは、指を押し付けて回転させることを繰り返して抜いてしまったそうです。独房の角を手足で突っ張って登ったことは既に書きました(『脱獄王』では頭を上にして登る図が描かれていますが、『破獄』には、両手を一方の壁、両足をもうひとつの壁に押し付けて登ったと書いてあります)。高い塀も、斜めに駆け上がることによって、なんなく越えてしまったそうです。二三日寝なくても平気でした。網走脱走後2年間にわたって北海道の山中で生活したことも、彼のたぐいまれな体力を示しているといえるでしょう。
 そして何よりも脱獄を可能にしたのは、心理的な能力です。彼は見張りの看守たちを、巧みに心理的に支配しました。逃亡させたことによる懲戒処分を恐れる看守に「あなたの当直の日に逃げますよ」と言ったり、「そんなにひどい扱いをしていいんですか。いつでも私は脱獄できるんですよ。脱獄したあと、私が何をするか。家族が可愛くないんですか」などと脅すことによって、看守たちは次第に白鳥の規則違反を見逃すようになりました。札幌刑務所の床から逃げる前は、時おり天井付近の窓に視線を投げかけることで、看守たちの注意を房の上方に引きつけたそうです。脱獄方法はすべて、絶対に脱獄させまいとする刑務所側の、意表をつくものでした。
 白鳥由栄がどういう性格の人物だったのか、なぜ府中刑務所では一転して模範囚となったのかなどは、興味深いテーマですが、疲れて来たのでまたの機会にみちくさしたいと思います。

2009/04/25

【歌舞伎】仁左衛門の八汐、玉三郎の政岡・2009年4月歌舞伎座昼の部

 4月の歌舞伎座午前の部は、『伽羅先代萩』の通し。以前にたいへん面白かった仁左衛門の八汐と、初めてみる玉三郎の政岡が楽しみです。
 まずは花水橋。橋之助の足利頼兼は美男子で華やかさはありますが、遊興にふける色っぽさがないのが残念。染五郎の谷蔵は、だいぶ大きさがでてきましたが、まだまだ今後に期待。
 「竹の間」「御殿」は、仁左衛門の八汐が、憎々しいなかにも愛嬌とユーモアを醸し出し、前回同様の好演。ぽん太は大好きです。玉三郎の政岡は凛とした雰囲気が心地よく、正面から役に取り組んだ演技が、仁左衛門のおかしみと好対照でした。「ままたき」もありましたが、ぽん太はこのところの疲れにより残念ながら意識消失。申し訳ありませんでした。「御殿」の最後、女医の小槙が実は政岡の味方であった、という下りは初めて見ました。吉右衛門の仁木弾正は、生来の人の良さが出てしまって、悪人っぽくはあっても、妖術を使う怪異さ欠けたのがちと残念です。三津五郎の荒獅子男之助は格式がありましたが、もうひとつ大きさと迫力あると良かったです。
 「刃傷」に「虎の威を借る狐」の故事が出てきましたが、ぽん太はてっきりイソップ物語かと思っていましたが(ちなみにイソップ物語は、1593年(文禄2年)に日本に伝えられ、江戸初期からさまざまに翻訳されて親しまれていたそうです)、出典は『戦国策』とのこと。ぽん太はまたひとつ賢くなりました。


歌舞伎座さよなら公演・四月大歌舞伎
平成21年4月・歌舞伎座・昼の部

通し狂言 
伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)
  花水橋
  竹の間
  御殿
  床下
  対決
  刃傷

  花水橋
            足利頼兼  橋之助
            絹川谷蔵  染五郎
  竹の間・御殿
            乳人政岡  玉三郎
             沖の井  福 助
              松島  孝太郎
           侍女澄の江  新 悟
             栄御前  歌 六
              八汐  仁左衛門
  床下
            仁木弾正  吉右衛門
          荒獅子男之助  三津五郎
  対決・刃傷
            細川勝元  仁左衛門
         渡辺外記左衛門  歌 六
            渡辺民部  染五郎
           山中鹿之助  高麗蔵
            笹野才蔵  松 江
            大江鬼貫  由次郎
            山名宗全  彦三郎
            仁木弾正  吉右衛門

2009/04/24

【バレエ】やっぱりノイマイヤーはすごいの・東京バレエ団「エチュード」「月に寄せる七つの俳句」「タムタム」

 日曜の午後の上野はたいへんな人出でした。みなさんが美術館に行くのやら、動物園に行くのやら、ぽん太はとんと知らねども、ぽん太もバレエで大満足でした。こちらがこの公演のNBSのサイトです。「エチュード」の動画もあり〼。
 今回のお目当ては、ダンスマガジン恒例のベストテン入りしたフォーゲルの踊りと、『人魚姫』で感動したノイマイヤーの振り付けです。
 「エチュード」は、チェルニーのエチュードにのせて、ダンサーたちのバーレッスンから始まるという趣向でした。フォーゲルは、昨年のシュツットガルト・バレエ団の公演は見逃したものの、以前にポリーナと『白鳥』を踊ったのを観たことがあります。マリインスキーのサラファーノフを観るのは、たぶん初めてだと思います。フォーゲルはダイナミックなジャンプや細かい足技、安定感や美しいポーズなどが見事でした。サラファーノフは、軽やかなジャンプや、連続スピンで魅せてくれました。吉岡美佳も柔らかで優しい感じがよかったです。ただ作品自体は、バレエに詳しい人が観ると、難しい技が入っていたり、技の正確さやアンサンブルがすばらしかったりするのかもしれませんが、バレエ初心者のぽん太には、ちょっと退屈でした。
 作品としてすばらしかったのは、なんといってもノイマイヤーの「月に寄せる七つの俳句」。幕開きの下手の舟に人、上手に夜空のダンサーたちという配置が、すでに幻想的です。空に大きな満月が照らし出されると、全体が水彩の童画のような美しさです。月を詠んだ七つの俳句にインスピレーションを得たダンスは、単純でも幾何学的でもなく、複雑さが心地よく、ポエジーやドラマがあります。アルヴォ・ペルト(とバッハ)の音楽も質が高いです。久々に観た上野水香はやはり独特の魅力があります。後藤晴雄の存在感もいい。長瀬直義もかっこいいですね。また先日『中国の不思議な役人』で娼婦を踊った宮本祐宜についつい目が行ってしまいました。悲しかったのは、朗読された俳句をひとつも知らなかったこと。上記のNBSのサイトに掲載されているので、コピペしておきます。

I. 赤い月 是は誰がのぢゃ 子供たち (一茶)
II. 人に似て 月夜のかがし あはれなり (子規)
III. 四五人に 月落ちかかる をどり哉 (蕪村)
IV. 寒月や 石塔の影 松の影 (子規)
V. 春もやや けしきととのふ 月と梅 (芭蕉)
VI. 小言いふ 相手もあらば 今日の月 (一茶)
VII. 我をつれて 我影かへる 月見かな (素堂)
VIII. 鐘消えて 春の香は撞く 夕べ哉 (芭蕉)
 最後の句は月と関係ない気がしますが……。
 「タムタム」は、舞台上で演奏されるパーカッションのリズムに乗せたアフリカンな楽しいダンス。ソロの木村和夫は柔軟性があって魅力的な踊りでした。


<東京バレエ団創立45周年記念公演IV>
「エチュード」「月に寄せる七つの俳句」「タムタム」
2009年04月19日・東京文化会館

「エチュード」
振付:ハラルド・ランダー
音楽:カール・チェルニー/クヌドーゲ・リーサゲル

エトワール:吉岡美佳、フリーデマン・フォーゲル、レオニード・サラファーノフ
指揮:井田勝大
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

「月に寄せる七つの俳句」
振付:ジョン・ノイマイヤー
音楽:アルヴォ・ペルト/ヨハン・セバスチャン・バッハ

月:長瀬直義
月を見る人:上野水香-後藤晴雄
西村真由美、乾友子、佐伯知香、高木綾、奈良春夏、田中結子、松下裕次、横内国弘、宮本祐宜、梅澤紘貴、柄本弾
夜空:高村順子、森志織、福田ゆかり、村上美香、吉川留衣、岸本夏未、阪井麻美、高橋竜太、氷室友、小笠原亮、谷口真幸、安田峻介、岡崎隼也、八木進
※音楽は特別録音によるテープを使用します。

「タムタム」
振付:フェリックス・ブラスカ
音楽:ジャン=ピエール・ドゥルエ/ピエール・チェリザ

ソロ:木村和夫
パ・ド・ドゥ:渡辺理恵-宮本祐宜

パーカッション:シルヴィオ・ガルダ
トムトム:アティソー・ロコ

2009/04/23

【バレエ】引退公演で初めて観た草刈民代(付:「忘れえぬロシア 国立トレチャコフ美術館展」

 バレエ鑑賞歴の短いぽん太は、草刈民代を『Shall we ダンス?』でしか見たことがなかったので、ナマで一度は見ておきたいと思い、渋谷まで出かけてきました。それにしても初めて見るのが引退公演とは……。今宵の公演は、大人のためのオシャレなショーという感じで、とてもいい気分になれました。ちなみに光藍社のサイトはこちら。早々にリンク切れになるかもしれませんが、イープラスの情報(こちら)が詳しいです。ちなみに草刈民代の公式サイトはこちらです。
 草刈民代はとてもスタイルがよくて、美人だし、雰囲気のあるダンサーでした。ただ引退公演ということで、やはり身体は動かないようで、ジャンプやスピンもほとんどなく、胴体が動かず手足だけで踊っている感じでした。う〜ん、全盛期を観てみたかった。
 タマラ・ロホも初めて観たのですが、小娘には出せないしっとりした大人の雰囲気で、それでいて柔らかく美しく、とても気に入りました。1月にレニングラード国立バレエで観たイーゴリ・コルプは、何気ない体の動きがとても魅力的ですばらしかったです。特に「切り裂きジャック」では、エキセントリックな役を鬼気迫るダンスで表現しておりました。リエンツ・チャンは、名前は中国っぽいけどキューバ出身なんでしょうか?同じくキューバ出身のホセ・カレーニョのように骨太でガタイがいいですが、若くて勢いのあるダンサーでした。特に「ノートルダム・ド・パリ」のカジモドは、美女と踊る醜いせむし男を、悲哀とかわいらしさをもって踊ってくれました。ルイジ・ボニーノは、人形と踊ったり、椅子と踊ったり、草刈民代と踊ったり、手にトウシューズをはめてバレリーナを足をまねたりと、コミカルでディナー・ショーのようなステージでしたが、よく見ると動きも素早くてテクニックがあるようです。マッシモ・ムッルは、この個性的なメンバーのなかではちょっと目立たず。しかし白鳥(雄)はよかったです。
 ローラン・プティの振付けはたぶん初めて……かと思ったら、クマテツで『若者と死』を観ているではないか。ドラマチックでショウ的な雰囲気のある振付けですね。昔はハリウッド映画に出たり、テレビやミュージックホールで活躍したこともあるそうで、そんなキャリアが影響しているのでしょうか。男も白鳥(?)の「白鳥の湖」も初めて観ましたし、「失われた時を求めて」のモレルとサン=ルー侯爵のパ・ド・ドゥも禁断の世界が美しく表現されていてよかったです。

エスプリ 〜ローラン・プティの世界〜
2009年4月22日、Bunkamura オーチャードホール

●アルルの女 「アルルの女」より
音楽:ジュルジュ・ビゼー 
草刈民代/マッシモ・ムッル
●ヴァントゥイユの小楽節
「プルースト 失われた時を求めて」より
音楽:セザール・フランク
タマラ・ロホ/イーゴリ・コルプ
● コッペリウスと人形「コッペリア」より
音楽:レオ・ドリープ
ルイジ・ボニーノ
●タイス パ・ド・ドゥ「マ・パヴロヴァ」より
音楽:ジュール・マスネ
タマラ・ロホ/リエンツ・チャン
● 「オットー・ディックス」より~切り裂きジャック~ 
音楽:アルバン・ベルク 「ルル組曲」より
草刈民代/イーゴリ・コルプ
● 「白鳥の湖」 第2幕より 男性のソロ/パ・ド・ドゥ
音楽:P.I.チャイコフスキー
草刈民代/マッシモ・ムッル
●エスメラルダとカジモドのパ・ド・ドゥ「ノートルダム・ド・パリ」より
音楽:モーリス・ジャール
タマラ・ロホ/リエンツ・チャン
● ティティナを探して「ダンシング・チャップリン」より
 小さなバレリーナ「ダンシング・チャップリン」より
音楽:チャーリー・チャップリン
ルイジ・ボニーノ
● ジムノペディ「マ・パヴロヴァ」より
音楽:エリック・サティ
草刈民代/リエンツ・チャン
● モレルとサン=ルー侯爵 パ・ド・ドゥ「プルースト 失われた時を求めて」より
音楽:ガブリエル・フォーレ
マッシモ・ムッル/イーゴリ・コルプ
● チーク・トゥ・チーク
音楽:アーヴィング・バーリン
草刈民代/ルイジ・ボニーノ

振付:ローランプティ

 バレエの前に、Bunkamuraザ・ミュージアムで「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア」を見に行きました。公式サイトはこちら。19世紀後半から20世紀初頭の、リアリズムから印象派に向かうロシア絵画を集めたもので、知っている画家が一人もいませんでしたが、チャイコフスキーなどが生きた時代の雰囲気がわかって、とてもおもしろかったです。印象に残ったのは、ロマン主義的な緊迫感のあるフョードル・ワシーリエフの「雨が振る前」、絵の具が不思議な光をたたえるアルヒープ・クインジの「エルブルース山ー月夜」、今回の展覧会のポスターにもなっているイワン・クラムスコイの「忘れえぬ女」などです。実はぽん太は、このゴールデンウィークにロシアに行ってきます。

2009/04/22

【オペラ】だんだんよくなる新国立劇場の『ワルキューレ』

 先日見た新国立の『ラインの黄金』は、荘厳さや神々しさに欠けていたのでぽん太はちと不満でした。今回の『ワルキューレ』はどうでしょう?『ワルキューレ』は、3年前にメトロポリタン歌劇場の来日公演で、ドミンゴがジークムントを歌った正統派の演出で観た演目。新国立の方はどうなのか、ちょっと不安が残ります。ちなみに今回の公演の公式サイトは こちらです。
 で、実際に観てみたら、なかなかよかったです。キース・ウォーナーの演出にぽん太も慣れてきたででしょうか、「今回もフリッカはビジネス・スーツで出てほしかったな〜」などと思ってしまいました。
 『黄金』ではヴォータンは、巨人をだまして城を建てさせたり、妻の妹を借金のかたにしたり、指輪のことを知ると欲しがり、それを手に入れるためにアルベリヒの指を切り落としたりと、やりたい放題でした。しかし『ワルキューレ』では、神の世界の将来を思ったり、掟と欲望の狭間で悩んだり、娘を神々の世界から追放して永遠の眠りにつかせながらも燃え盛る炎で包んであげたりと、「意外といい人じゃん」と思いました。ラジライネンの表情が、泣きたいのをこらえているガキ大将みたいでよかったです。ラストではじっと8ミリ映画に見入りるヴォータン。見えないスクリーンには、小さかった頃のブリュンヒルデでも映っているのでしょうか。
 とはいえキース・ウォーナーの演出に違和感がなかったわけではありません。有名な「ワルキューレの騎行」は、救急病院を舞台に、看護婦姿のワルキューレたちが、ストレッチャーで次々と勇者たちを運び込んでくるという設定で、その奇抜さにぽん太は目を奪われ、名曲の誉れ高い音楽に集中することができませんでした。またポスターにも使われている、巨大な木馬がせり上がってくるシーン。確かに視覚的には面白いですが、ヴォータンがときおり木馬の後ろに行ったり、ブリュンヒルデがしばしまたがったと思ったらまた降りてきたりするだけで、効果的に使われているとは思えません。新国立劇場の装置のすごさと、お金の掛け方には驚くものの、不況のおりだけに、「税金の無駄遣い」という言葉が頭に浮かんでくるのをどうすることもできません。
 しかし全体としてはおおいに満足。続く『ジークフリート』と『神々の黄昏』が楽しみになりました。


楽劇「ニーべルングの指環」第1日
ワルキューレ
2009年4月9日・新国立劇場オペラ劇場

【作曲/台本】リヒャルト・ワーグナー
【指揮】ダン・エッティンガー

《初演スタッフ》
  【演 出】キース・ウォーナー
  【装置・衣裳】デヴィッド・フィールディング
  【照 明】ヴォルフガング・ゲッベル

【芸術監督】若杉 弘

【ジークムント】エンドリック・ヴォトリッヒ
【フンディング】クルト・リドル
【ジークリンデ】マルティーナ・セラフィン
【ヴォータン】ユッカ・ラジライネン
【ブリュンヒルデ】ユディット・ネーメット
【フリッカ】エレナ・ツィトコーワ
【ゲルヒルデ】高橋知子
【オルトリンデ】増田のり子
【ワルトラウテ】大林智子
【シュヴェルトライテ】三輪陽子
【ヘルムヴィーゲ】平井香織
【ジークルーネ】増田弥生
【グリムゲルデ】清水華澄
【ロスヴァイセ】山下牧子

【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

2009/04/21

【歌舞伎】仁左衛門の伊左衛門がまた見れて幸せ・2009年4月夜の部

 今回のぽん太のお目当ては、仁左衛門の「廓文章」。昨年の3月に歌舞伎座で見て虜になりましたが、また見れるとはうれしいかぎり。しかも今回は玉三郎の夕霧。なにもかも「歌舞伎座さよなら公演」のおかげです。
 仁左衛門演ずる伊左衛門は、最初の出で花道に立つ姿からして、なよなよした感じと愛嬌と大店の若旦那の鷹揚さがにじみ出ます。このように立ち姿だけで人物を表現し、美しさを醸し出す芸術を、ぽん太は歌舞伎以外に知りません。一方玉三郎の夕霧は小芝居をせずに、凛としたなかにも楚々とした味わい。う〜ん、ごちそうさまでした。
 近松門左衛門といえば『曾根崎心中』、『曾根崎心中』といえば近松門左衛門という有名な作品ですが、ぽん太は生まれて初めて観ました。藤十郎のお初。小太りのおじいさんが、はしゃいで少女っぽく手をぱちぱちと叩いているところなど、「なんじゃこれは」という感じがするのですが、観ているうちに愛らしい女性に見えてくるから不思議です。さすが人間国宝。いよう、山城屋!
 しかし、近松門左衛門というと古風な芝居を想像しておりましたが、なんか現代っぽいというか、月の法善寺横町ではありませんが、大衆演劇っぽさがあるのが気になりました。筋も以外と単純。近松門左衛門の傑作といえるのかちと疑問。
 Wikipediaによれば、人形浄瑠璃の『曾根崎心中』の初演は1703年(元禄16年)、一ヶ月前に起きた現実の心中騒ぎを題材にしたものだそうです。大変な人気を博したそうですが、世の中に心中ブームが起きてしい、1723年(享保8年)に幕府は心中ものの上演を禁じるとともに、心中で生き残った男女をさらし者にするなどの措置を講じたそうです。その後ながらく上演されることはありませんでしたが、1953年(昭和28年)に宇野信夫の脚色で復活上演されました。このときのお初は、当時二代目扇雀だった現・藤十郎で、以後56年にわたって1300回の上演を重ねているそうです。
 ということは現在演じられている版は昭和に作られたのか。現代調なのもうなづけます。でも、復活上演の際、江戸時代の演出をどの程度取り入れたのでしょうか?当初の演出は、どのような形でどのくらい伝わっていたのでしょうか?ぽん太にはさっぱりわかりません。『曾根崎心中』の歴史的な価値としては、「世話物」というジャンルを打ち立てたことにあるそうです。
 ちなみにモデルとなった心中事件の現場は大阪曽根崎の露天神社(つゆのてんじんしゃ)だそうで、公式サイトはこちらです。
 「毛谷村」は、吉右衛門はこういう人のよい善人を演じると、明るくて華があっていいですね。福助のお園も、あいかわらず「やりすぎ」の感じはありましたが、許嫁と知って突然しおらしくなるところなど、おもしろかったです。


歌舞伎座さよなら公演・四月大歌舞伎
歌舞伎座・平成21年4月・夜の部

一、彦山権現誓助剱(ひこさんごんげんちかいのすけだち)
    毛谷村
           毛谷村六助    吉右衛門
              お園    福 助
              お幸    吉之丞
      微塵弾正実は京極内匠    歌 昇
           杣斧右衛門    東 蔵

二、夕霧 伊左衛門 廓文章(くるわぶんしょう)
    吉田屋
          藤屋伊左衛門    仁左衛門
            扇屋夕霧    玉三郎
           太鼓持豊作    巳之助
            番頭清七    桂 三
           阿波の大尽    由次郎
        吉田屋女房おきさ    秀太郎
         吉田屋喜左衛門    我 當

三、曽根崎心中(そねざきしんじゅう)
           天満屋お初    藤十郎
          平野屋徳兵衛    翫 雀
          天満屋惣兵衛    竹三郎
          田舎客儀兵衛    錦 吾
           手代茂兵衛    亀 鶴
           油屋九平次    橋之助
         平野屋久右衛門    我 當

2009/04/20

【クラシック】若さ爆発!小沢征爾音楽塾のベト七

 一度座ってみたかった、サントリーホールのステージ側の席を取ることができました。音のバランスという点では良くないのでしょうけれど、オーケストラを見下ろす形になるので、それぞれの楽器の音をよく聞き分けることができました。また、正面からはよく見えない管楽器や打楽器の演奏がよく見えました。そしてなによりも、小澤征爾の指揮を前からつぶさに見ることができたのがよかったです。いつもは背中しか見えませんでしたが、指で泡がはじけるような仕草をするなど、微妙なニュアンスを両手で細かく表現しているのが初めてわかりました。
 小澤征爾音楽塾(公式サイトはこちら)は、世界の小澤が日本の若手音楽家の育成のために行っている催しです。精神科医として後輩を指導する資格もなければ能力もないぽん太は、まことに頭が下がる思いです。ステージにオーケストラの団員と一緒に登場し、挨拶のときも決して指揮台に上がらず、終始オケを立てようとする姿勢に感動しました。
 一曲目の「マ・メール・ロワ」は、珍しいバレエ版とのこと。もともと聞き込んでいない曲でしたが、知らない曲も多かったです。絶妙で緊迫した音のバランスを保ち、色鮮やかな音楽を奏でていました。
 ところでマ・メール・ロワ(Ma Mère l'Oye)ってなに。oyeはoieの古い形で、ガチョウやガンのことだそうです。ということはマ・メール・ロワはガチョウの母さん。にゃにゃにゃ、それはマザー・グース(Mother Goose)ではないか。なんだかよけいにわからなくなってきたぞ。
 Wikipediaで引いてみると、フランスの詩人シャルル・ペロー(1628-1703)が1697年に発表した、民間伝承をもとにした散文の童話集が、『寓意のある昔話、またはコント集~がちょうおばさんの話』(Histoires ou contes du temps passé.Avec de moralités : Contes de ma mère l'Oye)という題名だったようです。このなかには「赤ずきん」「長靴をはいた猫」「青ひげ」「眠れる森の美女」「シンデレラ」などの有名な話が入っているそうです。こんど読んでみようっと。
 一方マザー・グースは、イギリスで伝承されてきたわらべ歌の総称だとのこと。マザー・グースはそのなかに出てくるキャラクターのひとりで、それがわらべ歌の総称として使われているが、それは主に日本でしか通じないと書いてあるけどホントでしょうか?マザー・グース(マ・メール・ロワ)は伝説上の童謡作家として扱われることもある、とも書いてあります。う〜む、わかったような、わからないような……。
 さて、二曲目のベートーヴェンの第七交響曲は、「のだめ」でも有名になった曲。若さが持つエネルギーに、中高年のぽん太は圧倒されました。ちょっとしたアンサンブルの乱れは勢いのうち。たっぷりとした最初の和音から引き込まれました。何度も聞いた曲なのに、初めて聞くような細部が聞こえてくるのは、小澤の指揮のなすわざか、それとも座席の位置のせいなのか、ぽん太にはわかりません。


ラヴェル:マ・メール・ロワ
Maurice Ravel: Ma Mère l'Oye
ベートーヴェン:交響曲 第7番 イ長調 作品92
Ludwig van Beethoven: Symphony No. 7 in A major, Op. 92

出演
音楽監督・指揮:小澤征爾
管弦楽:小澤征爾音楽塾オーケストラ

2009年4月9日(木)
サントリーホール 大ホール

2009/04/19

【東京考古学】浅野家と勝海舟にゆかりの赤坂の南部坂(付:千鳥ヶ淵の桜)

P4090054 今年は桜が長く楽しめましたね。さくらが咲き始めてから気温の低い日が続きましたから。千鳥ヶ淵の桜は散り始めていましたが、まだまだ幻想的な美しさをたたえておりました。
P4090050 桜の花びらがお堀の水面を多い、ピンクの絨毯となっていました。

P4090060 さて、ぽん太とにゃん子はサントリーホールに行くついでに、南部坂を訪れました。3月の歌舞伎座で見た『元禄忠臣蔵』に、「南部坂雪の別れ」という段があり、みちくさをしたくなったのです。南部坂には浅野内匠頭の未亡人が住んでおり、大内蔵之介が討ち入りの直前に別れを告げに行くという名場面です。ここ(Yahoo!地図)が南部坂で、ちょうどアークヒルズの向かい側あたりになります。なぜ南部坂と呼ばれるかというと、氷川神社(Yahoo!地図氷川神社公式サイト)のあたりに南部藩の中屋敷があったからだそうです。1656年(明暦2年)に南部と浅野は屋敷を交換し、南部屋敷は現代の有栖川公園あたりに移転したそうです。そのためここにも南部坂という名前が残っています(Yahoo!地図)。
P4090062 さて、氷川神社のあたりにあった浅野家の屋敷ですが、実際は、1701年(元禄14年)の浅野内匠頭切腹の数日後に幕府に接収されてしまったそうで、討ち入りの前日に未亡人が住んでいたというのはフィクションのようです。
P4090064 さて、この地に住んでいた有名人がもうひとりいます。それは勝海舟です。ここ(Yahooo!地図)にあるバーの敷地の片隅に、勝海舟邸跡の碑が立っています。勝海舟は1859年(安政6年)から1868年(明治元年)までここに住んでいました。この間に、1860年(安政7年)、勝は咸臨丸でアメリカを訪れました。また1862年(文久2年)に坂本龍馬が千葉重太郎とともに、あわよくば斬るつもりで勝海舟に面会したものの、話を聞くうちにすっかり感服して勝に弟子入りを申し出たのも、この屋敷です。

2009/04/18

【温泉】立派な高級旅館です・白骨温泉斎藤旅館(★★★★)

P4080034 白骨温泉を最初に訪れたのはかれこれ20年ほど前でしょうか。いわゆる温泉ブームは始まっていたものの、まだ秘湯の面影を色濃く残していて、宿の女将に「以前は冬になると温泉ごと宿を閉めて、麓に降りたものです」などという話を聞いたものでした。温泉街の一番奥のやや高台になったところに、美しく立派な木造建築の宿があり、いつか泊まってみたいと思っていたのですが、それが斎藤旅館でした。その斎藤旅館も平成15年12月にリニューアルされ、快適な和風モダンの宿に生まれ変わりました。斎藤旅館の公式サイトはこちらです。
P4080037 なんといっても独特の乳白色のお湯が、白骨温泉のごちそうです。豊富な源泉を有しているため、加温はしているようですが、源泉掛け流しです。
P4080040 男女別の内湯と露天風呂、さらに鬼ケ城と呼ばれる露天風呂があり、時間で男女が入れ替わるので、六つのお風呂を楽しめます。
P4080043 夕食は、とても手の込んだおいしいお料理でした。ひとつひとつ持って来てくれるので、全体写真はありません。写真は「太刀魚のなたね焼き あんず はじかみ」。竹の上に乗っていて、見た目もとても美しいです。
P4090046 朝食も品数が多く、とても美しいです。
P4090047 サービスもよく、とってもくつろぐことができました。でも、古い建物好きのぽん太は、リニューアル前に泊まっておきたかったな……。

2009/04/17

【登山】伝説の岩殿山で桜と新緑を楽しむ

P4080004 中央道を東に向かい、大月の手前で右手を見上げると、大きな岩壁が目に止まります。これが岩殿山の鏡岩です。雑木林の新緑が大好きなぽん太とにゃん子は、岩殿山に登りに行ってきました。日差しが強くて初夏のようでしたが、桜も満開で見事な景色でした。

【山名】岩殿山(634m)
【日程】2009年4月8日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】快晴
【コース】岩殿山駐車場(10:51)…岩殿山山頂…稚児落とし…浅利集落(13:56)
ルート図(Yahoo!地図)ルート図(国土地理院)標高グラフ
【マイカー登山情報】高月橋の北側に十台ほどの停められる無料駐車場あり(Yahoo!地図)。ここが一杯の場合は、少し南の市民会館に300台ほど停められます(Yahoo!地図)。また、稚児落としから浅利集落に降りて来たところ(Yahoo!地図)にも数台停められるスペースがあります。ここから岩殿山駐車場までは、一般道を一時間近く歩かないといけないので、車2台で来て1台を降り口に置いておくと便利です。

P4080033 遠目には「鏡岩」という名前の通りスベスベしているように見えますが、近くで見るとまるでコンクリートのように砂利を含んでいます。礫岩(レキガン)と呼ばれる石だそうです。
P4080013 頂上まではひとのぼり。桜が満開ということで、多くの人たちが弁当を広げていました。戦国時代の岩殿山は狼煙台(のろしだい)として使われていました。武田軍は、狼煙による情報網を確立しておりましたが、例えば1561年(永禄4年)の上杉謙信の進撃の情報は、150km離れた甲府にわずか2時間で伝わったそうです(長野市「信州・風林火山」特設サイト)。現在は、現代の狼煙にあたるNTTのアンテナが立っています。
 戦国時代この山には、小山田氏の岩殿城と呼ばれる城がありました。鏡岩の上に本丸がそびえ立つさまは、さぞかし美しかったことでしょう。現在でも遺構が残っていて、岩の割れ目を利用した門の跡や、山頂付近にありながら今でも水をたたえた井戸などがあります。岩殿城については、たとえばこちらの埋もれた古城をご覧ください。
 岩殿城はあまり知られてないと思いますが、武田家滅亡と深い関わりがあります。信玄の跡を継いだ武田勝頼は、1582年(天正10年)、織田軍が甲州へと攻め入るのを見て、自ら新府城に火をかけて退却をはかります。真田昌幸(有名な真田幸村のお父さんですね)は岩櫃城へ勝頼を迎えようとしましたが(ぽん太の岩櫃山登山記はこちら)、勝頼は小山田信茂を頼って岩殿城へ落ち延びることを選びました。ところが途中の笹子峠で小山田信茂の裏切りによって行く手を阻まれ、やむなく日川を遡って逃げていきました。そうして天目山の田野というところで自害したと言われています。天目山という地名は現在は残っておりませんが、田野という地名はあります( Yahoo!地図)。天目山はもともと木賊山と呼ばれていましたが、禅僧業海本浄が1348年に臨済宗の棲雲寺(せいうんじ)を開いたおり、自らが中国で学んだ天目山をその山号としたため、天目山と呼ばれるようになったそうです。このお寺は現在も 栖雲寺として残っております。
 徳川家康はこの地に勝頼の菩提所を建立することにし、1588年(天正16年)に完成したのが 景徳院です。ここには勝頼の墓があります。
P4080017 さて、岩殿山の山頂付近にはヒトリシズカが咲いていました。
 ちなみに勝頼を裏切った小山田信茂は、織田信長によって「不忠者」ととがめられ、 甲斐善光寺で処刑されました。
P4080027 岩殿山に残された小山田氏の婦女子は、稜線を北西へと落ち延びました。絶壁にさしかかると急に子供たちが泣き出し、その声が反響して追っ手に見つかってしまいました。やむなく夫人たちは子供を谷底に投げ落とし、さらに落ち延びていったそうです。それ以来この絶壁は「稚児落とし」と呼ばれるそうです。
 岩殿山はハイカーで大混雑でしたが、こちらまで足を伸ばす人は少なかったようで、静かな山旅が楽しめました。

2009/04/11

イプセンの素顔は?『ペール・ギュント』と『人形の家』

 先日野田秀樹の『パイパー』を見たとき、宮沢りえちゃんを残して放浪の旅に出た登場人物(舞台には出てこないので不登場人物か?)の名がペール・ギュントだったので、ぽん太はみちくさをしてみたくなたのでした。
 『ペール・ギュント』というと、まずグリーグの組曲が思い浮かびます?ぽん太が通っていた小学校では、毎朝「朝」(Youtubeはこちら)が流れていましたし、中学校の音楽の時間でもとりあげられていた気がします。「ソルベーグの歌」(Youtubeはこちら)など、叙情的・民話的な印象を記憶しております。で、『ペール・ギュント』の原作はいったい誰だろう。
 Wikipediaで調べてみると、なんと原作はイプセン。イプセンといえば、昔『人形の家』を読んだことがありますが、たしか「人形のようにかわいがられていた世間知らずの奥さんが、社会に目覚めて夫と子供を捨てて家を出る」みたいな説教くさい話で、「近代自我」とか「女性の自立」みたいな言葉が思い浮かぶ、ぽん太が嫌いなタイプの戯曲だったはず。
 ところがイプセンの戯曲『ペール・ギュント』をWikipediaで引いて、あらすじを読んでみると、グリーグのように「叙情的・民話的」でもなければ、『人形の家』のように説教くさくもない、荒唐無稽な物語ではありませんか。な、なんじゃこりゃ。ぽん太にはわけがわからんぞ!
 せっかくなので原作を読んでみました(イプセン『原典による イプセン戯曲全集〈第2巻〉』原千代海訳、未来社、1989年。に収録)。ハチャメチャどたばたな芝居で、ときにグロテスクであったり不条理であったりして、めまぐるしい場面転換や首尾一貫生のなさなど、まるで野田秀樹の世界です。主人公ペール・ギュントは、社会秩序やまわりの迷惑も顧みず、欲望のままに生きる人間です。
 イプセンは1828年に生まれて1906年に死去しました。日本でいえば幕末から明治にかけての人ですな。『ペール・ギュント』が書かれたのは1867年。韻文で書かれた戯曲あるいは劇詩で、当初は舞台上演を意図していなかったそうです。1876年に劇場で上演されましたが、その際にイプセンの依頼でグリーグが音楽を付けたそうです(1875年に完成)。グリーグはこれを元に2つの組曲を作り、さらにいくつかの編曲を発表したそうです。上演当初から、戯曲と音楽があわないという批判があったそうです。なるほど、戯曲と音楽のズレは当時から言われていたのか。で、でも、イプセンの『ペールギュント』と『人形の家』とのズレは?
 そこでさらに『人形の家』も読み直してみました(イプセン『人形の家 』矢崎源九郎訳、新潮社、1953年)。こちらの青空文庫ならネット上で読むこともできます。さて、うん十年ぶりに読み返して見て、「これは本当に女性の自立を描いた戯曲なんかいな?」と思いました。前半のノラはあまりにもアホすぎます。偽署したことが次第に明らかになっていき、ついにそれを知った夫が怒りを爆発させ、それが登場人物の人間関係によって解決するというドラマ展開は見事です。しかし、そこで突然ノラは女性の自立に目覚めて家を出て行くのは、なんだかとって唐突で、とってつけたような印象があります。偽署のいざこざから、家を捨てて出て行くにいたる、心理的な変化がよくわかりません。前半と後半のこの断絶感は、ぽん太には『ペール・ギュント』を思い出させます。
 また最後のノラと夫のやり取りも、心理的なドラマというよりは、論理の破綻したドタバタに思えてしまいます。ノラが「女の自立を求めて家庭を捨てる」という部分が一般には重視されていますが、実は「既存の社会秩序に違和感を感じて飛び出していく」というところがイプセンの描きたかったことで、「女の社会的自立」というのはたいして重要ではなかったので?既存の社会秩序にとけ込めずに飛び出していく、という点では、ノラはペール・ギュントと重なってきます。
 あるいは『人形の家』が一般的に言われているように社会派の作品だとしたら、『ペール・ギュント』と『人形の家』のあいだで、イプセンに何が起こったのでしょうか?無知なるぽん太にはちっともわかりません。
 もっとも幕末から明治にかけての時代の戯曲ですから、そんなに心理的・論理的でないのが普通なのかもしれません。ぽん太には、戯曲から舞台を思い描く能力はないので、機会があったら『人形の家』の舞台を一度見てみたいです。

2009/04/10

【登山】4月というのにまだ冬枯れの物語山

P4020031 物語山は、群馬県は下仁田町、妙義山の南に位置する低山です。「物語山」という名前はなんだか叙情的な感じがし、女性的な山を思い浮かべますが、写真のようにこの地域独特の奇岩を持つ男性的な山です。この山に伝わる物語もやはり荒々しいもので、『群馬県の山 分県登山ガイド9』(山と渓谷社、1994年)には、下仁田町史を引用して、次のような伝説が紹介されています。
 1590年(天正18年)、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を攻めたおり、北条方の多目周防守長定(ためすおうのかみながさだ)の幽崖城(読み方がわからん)は、豊臣方の前田勢の攻撃を受けました。戦いに敗れ、闇に紛れて山中に逃げ延びた多目長定と武将たちは、厳しい追撃を逃れて山の奥へ奥へと進んでいきます。やがて切り立った岩壁に突き当たり、フジヅルを頼りに絶壁をよじ上り、追っ手が登れぬようそのフジヅルを断ち切りました。こうして敵をやり過ごしたものの、翌朝になって彼らは、自分たちがそそりたつ岩の上におり、降りる手だてを自ら断ってしまったことに気づいたのでした。彼らは座して死を待つよりはと、小田原の方角を向いて自害したのでした。
 この伝説に出てくる岩が、写真のメンバ岩(メンベ岩とも呼ばれる)です。ちなみにメンバ(メンベ)とはうどんを打つときに使う板で、それを立てかけたような格好をしているため、そのような名がついたそうです。
 また一説には、メンバ岩には財宝が隠されているとも言われています。

【山名】物語山(1019.1m)
【日程】2009年4月2日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】快晴だけどとても寒い
【コース】サン・スポーツランド(11:32)…物語山山頂(13:05)…サン・スポーツランド(14:40)
【マイカー登山情報】サン・スポーツランドに車を停めます。この時期は開園していなかったので、入口の十数台分の駐車場だけが使えました。
 古いガイドブックやブログには、林道終点まで車で行けるようなことが書いてありますが、台風の影響などで道が荒れ、倒木があったり崩落したりしているので、車で入るのは絶対に不可能です。入り口の立て札に「台風で道が荒れているので、なるべく登山しないように」と書かれていますが、歩行には問題なく、道標や踏み跡もはっきりしています。
【参考リンク】
下仁田町公式サイトの、物語山ハイキングマップ

P4020024 林道をしばらく歩き、途中で左の登山道に入ります。写真のようなガレ場の林の中をジグザグに登っていきます。東京はもう桜が咲いていますが、ここはまだまだ冬枯れの風景です。天気は快晴で青空が気持ちよかったですが、風がとても冷たかったです。
P4020027 物語山は、「山頂」以外に西峰と南峰があります。北西の方向に展望が開けていて、写真の妙義山や、雪を抱いた浅間山、物見山と八風山、そして独特の形の荒船山がよく見えました。山頂でお弁当を食べ、寒かったので早々に下山いたしました。他の登山客とはまったく出会いませんでした。もう少しするとアカヤシオがきれいなのだそうです。

2009/04/08

エイプリルフール?季節外れの大雪の万座温泉豊国館(★★★★)

P4020013 桜もほころぶ4月1日、のどかな春を味わうべく、ぽん太とにゃん子は万座温泉に行ってきました。渋川から吾妻川沿いに西に車を走らせると、途中から雨が降り出しましたが、万座ハイウェイに入ると次第に雪に変わりました。一晩中吹雪が続き、翌朝には20cmほどの新雪が積もっておりました。露天風呂に続く階段も、雪で埋まっておりました。
P4010001 今回お世話になったのは、万座温泉豊国館です。こちらが豊国館の公式サイトです。建物はスキーロッジ風でちょっと簡素で古びております。
P4010007 しかしお風呂はすごい。3m×9mの大露天風呂です。湯量が豊富なので、源泉掛け流しで雪が降ってもぬるくなりません。硫黄臭の強い白濁したお湯で、pH2.3と強酸性で、なめると酸っぱいです。開放感抜群ですが、あいにく吹雪で景色が見えませんでした。
P4010002 内湯も年期の入った木造で、湯治風の風情があります。カランもしょぼしょぼとぬるいお湯が出るのがひとつあるだけです。湯船のお湯を汲んで体を洗い、酸性が強いので、頭と顔は真水で流しました。
P4010010 食堂でいただく夕食はスキーロッジ風。メンチカツの歯触りがシャキシャキしておいしかったです。長野の定番のお蕎麦もなかなかいけます。
P4020011 朝食もおいしゅうございました。
宿のおじさんは無口で朴訥としております。建物と食事はスキーロッジ風ですが、温泉がとにかくすばらしい。値段も考えるとコストパフォーマンスは高く、ぽん太の評価は4点です。この温泉は試してみる価値あり。

P4020021 翌朝も雪でしたが、里に下りると快晴。車で軽井沢に向かいましたが、途中で浅間山が新雪で化粧してとてもきれいでした。浅間山は2009年2月2日に噴火したので、噴煙が上がっておりました。こちらが噴火時の動画です。

2009/04/07

江戸から明治への監獄の歴史・安丸良夫『一揆・監獄・コスモロジー 周縁性の歴史学』

 博物館網走監獄を見学して明治時代の監獄建築に興味を持ったぽん太は、安丸良夫の『一揆・監獄・コスモロジー―周縁性の歴史学』(朝日新聞社、1999年)を読んでみました。安丸良夫の本に関しては、以前に『神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈』について書いたことがあります。

 本書では、一揆、監獄の誕生、大本教という三つのテーマについて論じられていますが、こんかい取り上げるのは監獄についてだけ。しかもいつものように、ぽん太が興味深かった点だけをピックアップいたします。興味がわいた方はご自身でお読み下さい。

 安丸は、最終的には1754年(宝暦4年)に成立した「公事方御定書」まで遡って論を起こします。歌舞伎が好きなぽん太は、江戸時代の刑罰制度にも興味があります。江戸時代の裁判は「出入筋」(でいりすじ)と「吟味筋」(ぎんみすじ)に大別されるそうです。出入筋は現在の民事訴訟にあたりますが、現在の和解にあたる内済(ないさい)が重んじられたそうです。一方で刑事訴訟にあたる吟味筋では、内済は禁止されていました(p.67)。

 吟味筋の取り調べでは、自白をさせて自白調書にあたる「吟味詰り之口書」(ぎんみづまりのくちがき)を作成することが中心で、自白が得られれば、それで事実認定がされたと見なされました。この自白を引き出すために拷問が使われたことは言うまでもありません。

 自白によって認定された犯罪事実に対しては、これまでの膨大な判例に基づいて、刑罰が決められたそうです。この点では、どういう犯罪にどういう刑罰が対応するかが厳密に決められており、現在のような情状酌量などはなかったそうです。そこで例えば十両以上の盗みは死罪と決まっているので、被害額の認定の段階で「九両三分二朱」とするなどの取扱が行われたそうです。

 近世初頭にはさまざまな残虐な身体刑が行われたそうですが、人々の面前で見せしめとして行われるものには磔・獄門・火焙(ひあぶり)の三つがありました。このうち磔と火焙は西洋のキリスト教における迫害法をまねたものだということは、ぽん太は初めて知りました(p.72)。

 さて、江戸で逮捕された者が収容されたが、小伝馬町の牢です。現代でいうと、日本橋の小伝馬町駅の北西で、こちらがそのYahoo!地図です。基本的には未決囚が入れられていたそうです。暑さがひとく、過密で、一番多かったときには15坪の大牢に200人が入れられていたそうですから、一坪に13人強となります。ちなみにぽん太が山小屋で最も過密だったのは、妙高山の黒沢池ヒュッテに体育の日に泊まったときで、畳4枚で15人寝ましたが、それでも一坪7.5人ですから、江戸時代とは比べ物になりません。また通常でも、牢名主を初めとする牢役人が広いスペースを使ったため、平囚人は畳一枚に数人から十人以上になってしまったそうです(p.84)。

 このような過酷な条件だったために死ぬ者も多く、一時小伝馬町の牢屋敷に収容されていた吉田松陰は、死ぬ者が「日々三人ニ下ラズ」と書いていたそうですが、それがホントなら、当時の入牢者数は300人ほどだったので、毎日100人に一人が死んでいたことになります。

 江戸時代の収容施設でもうひとつ有名なのは、石川島の人足寄場です。1790年(寛政2年)に寛政の改革の一環として、火付盗賊改の長谷川平蔵が責任者となって作られました。犯罪者以外に、無罪の無宿人も収容されたそうで、また油絞りなどの労働が課されたそうです(p.100)。場所は現代でいえばこのへん(Yahoo!地図)ですね。明治時代になると東京府の所属となり、石川徒場と呼ばれるようになりました。これが1895年(明治28年)に巣鴨に移転し、のちの巣鴨刑務所となりましたが関東大震災で全壊し、場所を変えて1935年(昭和10年)に府中刑務所となりました。

 さて、明治時代になると、刑罰制度も改革が行われました。追放・所払いは廃止され、かわりに徒刑が課されました。現在の刑罰制度とは異なり、明治初頭の刑罰は、苦役が特徴でした。また、これまで死刑に該当した犯罪が終身刑に回されるようになり、刑期の長期化や囚人の増加が生じたため、監獄の必要性が高まりました(p.110)。

 本書の112,113ページには、明治5年に小原重哉が提出した「監獄則」におさめられた、新様式の監獄平面図が載っておりますが、十字形の建物の交差する部分に監視所があるもので、獄舎全体を「一目洞視」(いちもくどうし)できるようになっていました。これは明らかにベンサムのパノプティコンに他なりません。現代では「一望監視」と呼ばれているこの概念が、明治初頭に日本に入っていたとは知りませんでした。

 1882年(明治15年)に施行された旧刑法は、明治政府の顧問であり、法政大学の開祖でもあったボワソナードが、母国フランスの刑法をもとに起草したものだそうで、明治の法制度はフランスとのつながりが大きかったようですが、その理由はぽん太にはわかりません(p.129)。

 監獄の整備は、明治20年代までの日本にとって重要課題のひとつであり、監獄はしばしば近代日本の洋風建築の代表作となったそうです(p.174)。

 ぽん太自身が興味を持った点の抜き書きで申し訳ありません。ぽん太も少しだけ、江戸時代から明治にかけての監獄・刑罰制度を知ることができました。

2009/04/04

【歌舞伎】仁左衛門と染五郎の『御浜御殿綱豊卿』は見事な心理劇・2009年3月歌舞伎座昼の部

 『元禄忠臣蔵』が嫌いであるということは、すでに書きました。でも「御浜御殿綱豊卿」は面白かったです。2006年11月の国立劇場、2007年6月の歌舞伎座に続き3回目ですが、ようやくぽん太も『元禄忠臣蔵』の楽しみ方がわかってきたのかもしれません。
 徳川綱豊卿を演じるぽん太ごひいきの仁左衛門は、例によってきっちりとした心理表現が魅力。染五郎の富森助右衛門も、真面目で一本気な性格が好ましく、二人の言葉のやり取りにおける論理的な駆け引きや、細かい心理の変化が見事に表現されており、ようやく意味がわかりました。これまでの2回はいったい何を見ていたのでしょう。しかも前回も、仁左衛門と染五郎のコンビだったというのに。
  「江戸城の刃傷」では、彌十郎の多門伝八郎が、武士の情けと正義とを体現して好演。「最後の大評定」では、魁春のいつもながらの格式ある演技と、ぽん太が好きな東蔵の奥野将監がよかったです。

歌舞伎座さよなら公演・三月大歌舞伎
平成21年3月・歌舞伎座
元禄忠臣蔵(げんろくちゅうしんぐら)
昼の部

江戸城の刃傷(えどじょうのにんじょう)
           浅野内匠頭  梅 玉
           多門伝八郎  彌十郎
           戸沢下野守  進之介
         片岡源五右衛門  松 江
           稲垣対馬守  男女蔵
           平川録太郎  亀 鶴
         大久保権右衛門  桂 三
           庄田下総守  由次郎
           加藤越中守  萬次郎
          田村右京太夫  我 當

最後の大評定(さいごのだいひょうじょう)
           大石内蔵助  幸四郎
           井関徳兵衛  歌 六
         岡島八十右衛門  家 橘
         磯貝十郎左衛門  高麗蔵
         片岡源五右衛門  松 江
          井関紋左衛門  種太郎
         大石長男松之丞  巳之助
          戸田権左衛門  錦 吾
           堀部安兵衛  市 蔵
            武林唯七  右之助
            奥野将監  東 蔵
          大石妻おりく  魁 春

御浜御殿綱豊卿(おはまごてんつなとよきょう)
           徳川綱豊卿  仁左衛門
           中臈お喜世  芝 雀
          富森助右衛門  染五郎
           中臈お古宇  宗之助
            上臈浦尾  萬次郎
           御祐筆江島  秀太郎
           新井勘解由  富十郎

2009/04/03

【歌舞伎】『元禄忠臣蔵』は理屈っぽくて嫌い!2009年3月歌舞伎座夜の部

 『元禄忠臣蔵』は、2006年に国立劇場で観ましたが、ぽん太はあまり好きになれませんでした。なんか台詞が理屈っぽいし、どことなく全体主義的な圧迫感があります。行くのを止めようかと思いましたが、ごひいきの仁左衛門が出るので、思い直して行ってきました。
 真山青果の作になる『元禄忠臣蔵』は、1934年(昭和9年)に『大石最後の一日』が初演されたのを皮切りに、その後次々と書き継がれ、十年後の1941年(昭和19年)の『泉岳寺の一日』で完結にいたりました。まさに日本が第二次世界大戦に突き進んでいく時期に書かれたことがわかります。また昭和の時代に書かれたということから、『元禄忠臣蔵』の登場人物の行動や心理が、われわれ現代人に近いことも納得できます。
 『元禄忠臣蔵』の特色のひとつは、アクションに欠けることです。忠臣蔵を描きながら、討ち入りの場面がなく、浪士たちの証言によって間接的に描かれます。浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切り掛かる場面も、内匠頭切腹の場面も舞台上では演じられません。アクションが少ないことは、劇に「格調」や「真面目さ」を与えますが、見方によっては「時代がかった」印象を与えます。
 この劇で重視されるのはアクション(行動)そのものではなく、「なぜ」そのような行動をとったかという理屈や心理です。例えば浅野内匠頭が吉良上野介に松の廊下で切り掛かった行動が、「刃傷」か「けんか」かということが問題となります。また四十七士が「徒党」であるかどうかとか、浅野内匠頭はお上の裁きで切腹したのに吉良上野介を敵とするのは間違いではないか、といったことが議論されます。
 もう一つの特色は、大石内蔵助動が常に「お上に刃向かうつもりはない」、「天下の秩序を乱すつもりはない」ということを言動によって示していることです。彼は、「支配的政治体制に刃向かおうとしている」と思われることを極度に恐れています。「体制のなかで欲望を実現すること」が彼に与えられた課題なのです。
 体制に背く意思がないことを示すためにも、集団は理念に従って一糸乱れず行動しなければなりません。自らの感情の赴くままに行動することは、固く戒められます。四十七という集団が、仇討ちという行為を目標にしながらも、常に体制への恭順をアピールしながら、行動していかなくてはなりません。
 さらに、蔵之介は自らの恨みをはらすためだけに仇討ちをすることはできません。仇討ちをすることが、同時代に人々にどのような影響を与えるか、社会にどういった効果をもたらすかを意識して行動しなければなりません。義士たちも、自分が社会によって注目されていることを意識しています。「社会の一員としての個人」という考え方が、『元禄忠臣蔵』には見られます。

 しかしぽん太は、体制に過剰なまでに気を使う四十七士を見ていると、気が重くなってきます。むしろぽん太は、『仮名手本忠臣蔵』で描かれているような、内匠頭の刃傷沙汰のときに逢い引きしていて立ち会えなかったり、これで義士に加われると喜んだ五十両が、父親を殺して奪ったものだと知って途方にくれるような、情けない人間の方が好きです。
 観客席ではあちこちで涙をすする音が聞こえておりましたが、ぽん太は悲しくもなんともありませんでした。その理由は、そもそもぽん太だけが社会体制を顧みない社会不適応の一匹狸であり、世間一般の人は自分の気持ちと社会体制のはざまで悩んでいるからでしょうか。それとも戦前的な国家イデオロギーが、ご高齢の観客の心の琴線に触れたからでしょうか?ぽん太にはわかりません。
 また真山青果も、体制イデオロギーを積極的にアピールした人なのか、それとも体制から距離をとりながらも、こうした時代のなかで作劇を続けた人なのか、無知なぽん太は知りません。

 好き嫌いの話しはさておき、そうそうたる役者がそろった今回の舞台は、とてもよかったです。ただ『大石最後の一日』の福助が、声の質が野田秀樹調で、重厚な芝居の中でひとりだけ別世界を作っていたのが気になりました。

 ところで浅野藩の屋敷があったという南部坂、ここ(Googleマップ)みたいですね。今度サントリーホールに行ったときに寄ってみます。


歌舞伎座さよなら公演・三月大歌舞伎
平成21年3月夜の部・歌舞伎座
元禄忠臣蔵(げんろくちゅうしんぐら)

南部坂雪の別れ(なんぶざかゆきのわかれ)
           大石内蔵助  團十郎
            羽倉斎宮  我 當
           腰元おうめ  芝 雀
            同 夜雨  高麗蔵
           同 みゆき  宗之助
          寺坂吉右衛門  松 江
           堀部弥兵衛  家 橘
          落合与右衛門  東 蔵
             瑤泉院  芝 翫
仙石屋敷(せんごくやしき)
           大石内蔵助  仁左衛門
          吉田忠左衛門  彌十郎
         磯貝十郎左衛門  染五郎
            間十次郎  高麗蔵
          富森助右衛門  男女蔵
            大高源吾  亀 鶴
            大石主税  巳之助
          桑名武右衛門  錦 吾
         鈴木源五右衛門  由次郎
           堀部安兵衛  市 蔵
            武林唯七  右之助
           堀部弥兵衛  家 橘
           仙石伯耆守  梅 玉
大石最後の一日(おおいしさいごのいちにち)
           大石内蔵助  幸四郎
             おみの  福 助
         磯貝十郎左衛門  染五郎
          富森助右衛門  男女蔵
            細川内記  米 吉
            久永内記  桂 三
          吉田忠左衛門  彌十郎
           堀部弥兵衛  家 橘
          堀内伝右衛門  歌 六
          荒木十左衛門  東 蔵

2009/04/02

【歌舞伎】見せ場満載・猿之助一座の『獨道中五十三驛』新橋演舞場2009年3月

 第1幕は宙乗り、第2幕は本水、第3幕は早変わりの舞踊と、見せ場満載の舞台でした。
 四世鶴屋南北の作で、1827年(文政10年)に江戸河原崎座で初演されたそうです。『獨道中五十三驛』という題名の通り、舞台が京都から江戸へと次々と移っていきます。一幕に何場も詰め込まれて次々と変わるので、ロードムービー的なさすらい感というよりは、場面の早変わりというか、鶴屋南北らしいキッチュな印象です。
 一幕目の最後には化け猫が登場。どっかで見たな〜これ。調べてみると、2007年1月に国立劇場で観た『梅初春五十三驛』(うめのはるごじゅうさんつぎ)で見たようです。こちらは「五世」鶴屋南北の作で、1835年(天保6年作)とのこと。ということは、こちらの方が後から書かれたのですね。『梅初春』のチラシの解説によれば、江戸後期から明治にかけて、このような「五十三次もの」が次々と作られたとのこと。「岡崎の猫」はこの五十三次ものにつきものの趣向だったそうです。ちなみに十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされ、ま続編の『続膝栗毛』は1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行されたそうです。
 歌舞伎のイヤホンガイドをやっている会社のイヤホン解説余話によれば、「岡崎の猫」の物語は、愛知県豊田市の大鷲院(だいしゅういん)に伝わる話がベースであると言われているそうです。こちらがじゃらんnetの大鷲院のページですが、怪猫の足跡がある八丈岩というものがあるそうです。
 で、歌舞伎の舞台となっている岡崎の無量寺というのはどこなのか?愛知県岡崎に無量寺というお寺がありますが(こちらがGoogleマップです)、化け猫と関係があるのかどうかは不明です。

 ところで、医者の端くれのぽん太が気になったのが、第二幕で与八郎が「破傷風」になったたという下り。歌舞伎で「破傷風」という病名を聞いたのは初めてです。破傷風と言えば、ぽん太の知る限り、北里柴三郎が1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養法に成功し、翌年には破傷風菌抗毒素を発見したことは知っていますが、「破傷風」という言葉が日本でいつ頃から使われるようになって、どのように理解されていたのかは知りません。筋書きを見ると、二幕は鶴屋南北が書いたものではなく、1996年に石川耕士が『宇和島騒動』を書き換えて作ったものだそうです。では『宇和島騒動』に破傷風が出てくるのか?ぽん太には調べる気力がありません。

 猿之助一座のスピーディーで迫力ある演技はいつものとおり。右近はこの大舞台を演じきる実力はつけたようですが、さらに芸で観客を魅了するには、もう一段の精進が必要なようです。
 

新橋演舞場 弥生花形歌舞伎
猿之助十八番の内
獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)
市川右近十五役早替りならびに宙乗り相勤め申し候
平成21年3月、新橋演舞場

       お三実は猫の怪/江戸兵衛
    丁稚長吉/信濃屋お半/芸者雪野
  帯屋長右衛門/弁天小僧/土手の道哲  市川右 近
  女房お絹/鳶頭右之吉/雷/船頭澤七
鬼門の喜兵衛/土手のお六/由留木調之助

              丹波与八郎  市川段治郎
           重の井姫/荵の方  市川笑 也
         弥次郎兵衛女房おやえ  市川笑三郎
           喜多八女房おきち  市川春 猿
              石井半次郎  市川弘太郎
       赤羽屋次郎作/赤星十三郎  市川寿 猿
        赤堀水右衛門/雲助逸平  市川猿 弥
     由井民部之助/十文字屋おもん  市川門之助

2009/04/01

【歩くテレマーク】乗鞍高原の春の訪れ

P3180015 乗鞍高原は、歩くテレマークスキーの格好のフィールドです。ぽん太はこれで3回目。今年も乗鞍の春の訪れを楽しんできました。とても暖かい天気でしたが、直前に降雪があったらしくて雪の表面は真っ白で、とても気持ちがよかったです。

【フィールド】乗鞍高原
【日程】2009年3月18日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴れ
【コース】三本滝…子リスの径…女小屋の森…一の瀬キャンプ場…あざみ池…観光センター
【参考リンク】
乗鞍観光協会の公式サイト:ページの右上に、パッフレットのpdfファイルの目立たないリンクがあり、6、7ページにはわかりやすい地図などが載っています。

P3180001 乗鞍高原温泉スキー場のリフトを二つ乗り継いで、三本滝に降り立ちます。ここからは自動車道路が林間コースになっておりますが、さらに南よりに進路をとり、美しい針葉樹林の森のなかを、スキーの赴くままゆっくりと下っていきます。夏には子リスの径と呼ばれているあたりを進むことになります。
 問題は、最後に一の瀬園地へと降りていくときに、急坂があること。毎回いろいろなコースをとってみるのですが、うまくいきません。今回は東大ヒュッテのあたりから、比較的なだらかそうに思えた尾根を下ったのですが、雪が少なくて、けっきょく途中でスキーを脱いで歩くことになってしまいました。にゃん子は「もういや」と泣いておりました。牛留池や善五郎滝付近から下った方がなだらかなのかもしれませんが、今回は雪がついていませんでした。
P3180010 なんとか急坂を降りると、広々とした一の瀬園地が広がります。雪解け水の流れが、春の訪れを感じさせます。
P3180013 ネコヤナギの花穂がふっくらとふくらんで、春に向けてスタンバイ・オーケーです。
P3180021 手前の建物は、ネイチャープラザ一の瀬です。建築家が乗鞍岳のシルエットを意識していたのがよくわかります。
P3180024 ここからは自動車道路をたどって観光センターに向かいましたが、ペンション街が始まるあたりで雪がなくなるので、あとはスキーを担いで歩かなくてはなりません。結構距離があるので疲れます。この歩行と、途中の急坂とを、なんとかクリアできるといいのですが。来年はまた研究してみたいと思います。

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