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2009年5月の15件の記事

2009/05/31

【ロシア旅行(7)】モスクワ観光(芸術編)

 旅程の最後の2日間はモスクワ観光でした。クレムリンや赤の広場などを見学しましたが、こうした観光スポットの情報はいくらでもあると思うので省略いたします。ぽん太が興味深かったものだけご紹介いたします。
P5040209 まず、モスクワと言えばボリショイ劇場(地図)。改装中のため、一部が絵に描いた餅ならぬ絵に描いた建物なのが残念です。
P5040010 ノヴォデヴィチ修道院です(地図)。チャイコフスキーがこの風景を眺めながらバレエ『白鳥の湖』の構想を練ったそうですが、本日いたのは鴨だけでした。チャイコフスキー(1840年-1893年)が『白鳥』を作曲したのは1875から76年にかけてで、初演は1877年3月4日に上の写真のボリショイ劇場で行われました。彼はは1865年にペテルブルク音楽院を優秀な成績で卒業し、翌1866年にモスクワに移ってモスクワ音楽院の講師となります。1876年には有名なフォン・メック夫人と出会います。1877年7月、チャイコフスキーはアントニーナ・イヴァーノヴァと電撃的な結婚をしますが、わずか2ヶ月後の9月に彼はモスクワ川に入水自殺を試み、9月23日にはペテルブルクに逃げ出します。なんかいろいろありそうで、当時の彼がこの風景をどのような気持ちで眺めていたのか、そのうちみちくさしてみたい気がします。
P5040009 湖では女の子がワンちゃんを水浴びさせていました。
 この修道院に隣接する墓地には、チェーホフ、ゴーゴリ、マヤコフスキー、スクリャービン、ショスタコービチ、ロストロポーヴィチ、スタニスラフスキー、エイゼンシュテインなど多くの著名人が埋葬されているそうです。
P5040212 この豪華な建物は、芸術家アパートと呼ばれます(地図)。ソ連時代、亡命を防ぐためもあり、高名な芸術家には一般庶民とは異なる優雅な生活が保証されたという話を聞いた覚えがありますが、これがそのひとつだったのですね。スターリン時代に建てられたというこような威圧的で品のない建築様式は、スターリン様式と呼ばれるそうです。
P5040014 このホテル・ウクライナも、スターリン様式ですね(地図)。
P5050038 トレチャコフ美術館です。手前の銅像がトレチャコフさん。アンドレイ・ルブリョフの傑作『聖三位一体』がありました。6月7日までBunkamuraザ・ミュージアムで「国立トレチャコフ美術館展 忘れ得ぬロシア」が開催されております。ぽん太も旅行前に見て来ました。
P5050036 美術館の前で開館を待っていた子供たちです。学校の授業で訪れたようです。子供たちの笑顔は世界共通ですね。
P5050026 宿泊したイズマイロヴォ・ホテルの窓から見た夕暮れです。ロシア旅行も残すところあと一日。

2009/05/30

【登山】編笠山登るも、雷・ヒョウ・暴風雪で権現岳敗退

P5280023 梅雨入り前の山行ということで、八ヶ岳に行って来ました。天気はそれほど悪くないはずだったのですが……。
【山名】編笠山(2523.7m)、西岳(2398m)
【山域】八ヶ岳
【日程】2009年5月27日〜28日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(5/27)晴れのち雷・ヒョウ(5/28)暴風・雪のち雨
【コース】(5/27)富士見高原スキー場(10:51)…編笠山(15:25)…青年小屋(15:50)(泊)
(5/28)青年小屋(6:51)…西岳…富士見高原スキー場(10:40)
※ルート図と標高グラフはこちら
【見た花】シロバナイカリソウ(初!)、イカリソウ、ツバメオモト、エンレイソウ、クサボケ、マメザクラ(フジザクラ)など
【マイカー登山情報】混んでる時はわかりませんが、富士見高原スキー場(ゴルフ場)の駐車場に駐車できます。
P5270005 はじめは日も照っていて、イカリソウなどを見ながらのんびりと登って行ったのですが、時おり遠くから雷鳴が響いて来ます。そういえば天気予報で、関東地方は大気が不安定で雷雨の可能性もあると言っていました。とはいえ体力的に、これ以上早くは登れません。と、やがて空から降るものが……雨か?……地面に当たってパラパラ跳ねてます。ヒョウです。森林限界を越えた岩場のあたりで風を伴って激しく振り出し、顔が痛くて歩けません。しかも雷鳴が間近でとどろき始めました。この状態で編笠山の山頂を越えて行くのは危険です。岩の間にうずくまり、ヒョウに打たれながら雷をやり過ごすことにしました。
P5270012 ヒョウに打たれること20~30分、う〜さぶ。ようやく雷雲は通過し、薄日もさして来たので行動再開。地面にはヒョウが降り積もっております。
P5270011 山頂からは、権現岳、阿弥陀岳、赤岳、そしてはるか向こうには蓼科山も見えました。これまで見たことがない方角からの眺めでした。
P5280015 こんかいは青年小屋にお世話になりました。外側はかなりくたびれておりますが……
P5280019P5280014 内部は想像できないくらい快適です。部屋は個室になっており、こたつまであります。小屋番のひとたちの対応もとても親切で気持ちがよかったです。
P5270016P5280017 食事も山小屋とは思えないほど手が込んでいて豪華でした。夕食は冷や奴やメロンもついています。朝食のシュウマイは、小屋主の奥さんの手作りとのこと。おいしゅうございました。食器もプラスチックじゃなく陶器です。
P5280018 27日の夜の天気予報では、強い低気圧が近づいていて28日は強い風や雷雨が予想され、その後も数日荒天が続くとのこと。明日の天気を案じながら布団に潜り込みましたが、一晩中小屋が飛ばされるのではないかと思うほどの強い風が吹き続けました。28日朝も強風が続いており、やがて雪が降り出しました。山小屋の玄関の内側の温度計は3℃。何組かいた登山客は、これから縦走を予定していた人たちも含め、全員下山を決意しました。ぽん太とにゃん子も。権現岳のピストンはあきらめ、西岳経由で下山することにしました。泣く子と天気には勝てません。
 こんかいの目玉は、冒頭の写真の、シロバナイカリソウです。写真はちょっと青っぽく移っていますが、桃色の普通のイカリソウに比べると、ほぼ真っ白です。西岳からの下山途中ににゃん子が見つけました。見るのは初めてです。

2009/05/29

【バレエ】どにがぐずごい!デンマーク・ロイヤル・バレエ団のノイマイヤー版『ロミオとジュリエット』

 先週観た『ナポリ』は「う〜ん、まあよかったんじゃない?」という感じでしたが、『ロミオとジュリエット』はホントにすばらしかったです。とはいえバレエ初心者のぽん太、ノイマイヤーがすごいのか、プロコフィエフがすごいのか、ダンサーがすごいのか、ちっとも判断がつきません。おそらくすべてすごいのでしょう。NBSの『ロミオとジュリエット』の公式サイトはこちらです(ハイライト動画もあり〼)。
 幕開きのキャピュレット家とモンタギュー家の争いのあたりは、なんだかバタバタして舞台上がすっきりしていない印象がありましたが、だんだんと引き込まれ、バルコニーのパ・ド・ドゥではうっとり放心状態、ラストシーンでは涙が止まりませんでした。
 バルコニーのシーンは、テレビのルグリ先生でやったヌレエフ版の表現力と超絶技巧が頭に焼き付いていたので、「あれに比べれば大したことないだろうな〜」と高をくくって観ていたのですが、勝るとも劣らぬすばらしさでした。初恋に胸をときめかす若い男女の初々しい情愛を余すところなく表現し、「わしも昔はこんな時期があったの〜なつかしいの〜」という感じでした。
 ジュリエットのスザンネ・グリンデルは見目麗しく、かつ役者的な表現力が豊かでした。ロミオのセバスティアン・クロボーは、難しそうなリフトを見事にこなしておりました。上の公式サイトには、「コール・ドながらソリスト役を任されている」と書いてありますが、彼がコール・ド・バレエってほんと?デンマーク・ロイヤル・バレエの公式サイトを見てみたら、ちゃんとソリストのようです。あゝびっくりした。
 ノイマイヤーは、以前に観た『人魚姫』もそうでしたが、バレエを演劇的に表現するのがうまいです。また音楽の細かいニュアンスを大切にして振付けており、例えば3幕の幕開きで、悲しげな葬送の音楽が不協和音を奏でた瞬間に、葬列の女性のひとりが思わずしゃがみ込みます。音楽の不協和音化と感情の爆発とが、見事に呼応しておりました。僧ローレンスがジュリエットに眠り薬を使ったトリックを説明する時も、古典バレエだと長々とマイムが入るところですが、二人のストップモーションのシルエットと、人形劇(?)を使った演出が鮮やかでした。ラストで自分のお腹をナイフで刺したジュリエットが、がっくりと死ぬでもなく、ロミオと天国で一緒になる喜びにひたるのでもなく、傷の痛みと、これから訪れる死に対する不安な表情を浮かべながら、ロミオの亡がらに身を寄せるという演出も驚きました。また普通「ロミオとジュリエット」は、両家の対立と愛とが対比されるのですが、ノイマイヤーの演出では、ロボットのような動きで表されたキャピュレット家の因習的な世界と、ロミオとジュリエットの自由な愛の世界が対比されていました。これがノイマイヤー29歳のときの振付けというから驚きです。
 プロコフィエフの音楽も初めて全曲聞きましたがすばらしかったです。ソフトバンク・モバイルのCMの曲が『ロミオとジュリエット』だったとは知りませんでした。また途中で古典交響曲の第3楽章が使われているのも初めて知りました。グラハム・ボンド指揮、東京シティ・フィルの演奏も叙情的で厚みがあり、とてもよかった気がします。


デンマーク・ロイヤル・バレエ団「ロミオとジュリエット」
2009年5月24日(日) 東京文化会館

キャピュレット家
キャピュレット夫人:ギッテ・リンストロム
キャピュレット公:モーエンス・ボーセン
ジュリエット:スザンネ・グリンデル
ロザライン:エイミー・ワトソン
ヘレナ:セシリー・ラーセン
エミーリア:ディアナ・クニ
ティボルト:マス・ブランストルップ
乳母:イェッテ・ブックワルド
ピーター:イェンス・ヨアキム・パレセン

モンタギュー家
モンタギュー夫人:ルイーズ・ミヨール
モンタギュー公:フレミング・リベア
ロミオ:セバスティアン・クロボー
ベンヴォーリオ:アレクサンダー・ステーゲル
バルタザール: オリヴィエ・スタロポフ

キャピュレット家の使用人
サンプソン:アルバン・レンドルフ
グレゴリー:クリスティアン・ハメケン
ポットパン:バイロン・マイルドウォーター
ルチェッタ:エレン・グリーン
グラティアーナ:ブリジット・ローレンス
カミーラ:ヒラリー・ガスウィラー
ウルスラ: ホリー・ジーン・ドジャー
ネル:マティルデ・ソーエ
スーザン:エリザベット・ダム

モンタギュー家の使用人
アブラハム:ジェイムズ・クラーク
アンジェロ:グレゴリー・ディーン
マルコ:エリアベ・ダバディア
シルヴィア:エスター・リー・ウィルキンソン
フランシス:レベッカ・ラッベ
マルガレータ:サラ・デュプイ
ポーリーナ:レナ=マリア・グルベール
リヴィア:アマリー・アドリアン
マリア:ジュリー・ヴァランタン

ほか、ロザラインの召使い、キャピュレット家の護衛、キャピュレット家の舞踏会の客、モンタギュー家の護衛

僧ローレンス:コンスタンティン・ベケル
エスカラス(ヴェローナ大公):エルリング・エリアソン
マキューシオ:モーテン・エガト
パリス伯爵:マルチン・クピンスキー

娼婦
イモーガン:キジー・ハワード
ヴィオレンタ:マリア・ベルンホルト

旅芸人の一座
イザベラ: ティナ・ホイルンド
ヴァレンティン:ジャン=リュシアン・マソ
ルシアーナ:アナスタシア・パスカリ
ラヴィニア:ジョルジア・ミネッラ
アントーニオ:クリストファー・リッケル
ビアンカ:キジー・ハワード
セバスティアン:セバスティアン・へインズ

ほか、ヴェローナの市民、花娘、元老議員、商人、守衛、会葬者、司祭、修道士、修道女
デンマーク・ロイヤル・バレエ学校の生徒   協力:東京バレエ学校

指揮:グラハム・ボンド
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

2009/05/23

【バレエ】ザハロワの踊りに牧阿佐美の演出・新国立劇場『白鳥』

 ザハロワの『白鳥』は昨年ボリショイ・バレエの来日公演で観ましたが(その時の記事はこちら)、何度観てもいいと思い観に行ったところ、やはり何度観てもよかったです。新国立劇場の公式サイトはこちらです。今回は前の方の席がとれたので、ザハロワの動きが細かいところまで見れたのですが、ぽん太は特に彼女の手の動きに魅せられました。どんなに素早い動きでも、手は常に柔らかく滑らかに動き、瞬発的な動きをすることはありません。指の先にいたるまで、常に神経が行き届いている感じです。オデットと王子のグラン・パ・ド・ドゥで、オデットがエビ反って倒れるのを王子が支える動きでも(すみません、ぽん太はバレエ用語がわかりません)、バンザイしたオデットの両腕は羽毛のようにゆっくりと柔らかく下がって行きます。ときにオディールが空に向かって勢いよく突き上げる手の指が、指鉄砲の形になっていたのも初めてわかりました(常識か?)。
 ウヴァーロフは、前述のボリショイ・バレエの『白鳥』と、昨年のポリーナとの『ドンキ』(そのときの記事はこちら)で観たことがありますが、今回近くで観たせいか、柔らかくて大きくて安定した踊りにこれまた感動いたしました。
 新国立組では、道化の八幡顕光のジャンプや回転がすばらしかったです。また湯川麻美子のルースカヤも雰囲気がありました。
 気になったことは、まず会場で配られたキャストに書かれた曜日が間違っていたこと。それから、道化がグラスを持って踊ると、衣装とグラスがぶつかってカチカチ音がすること。また端っこの席だったせいかもしれませんが、オケがいまいち合ってない気がしました。
 現在の新国立の『白鳥』は牧阿佐美改訂版とのこと。基本的に牧阿佐美は、ロマンチック・バレエ風に物語を具象的に表現することよりも、踊りの抽象的な美しさを目指しているようです。プロローグがあって、オデットがロッドバルトによって白鳥に変えられますが、セットもモダンな感じで、針仕事をしていたりして、お姫様じゃなくて普通の家のお嬢さんみたいです。第一幕は、舞台奥にアーチを支える柱があり、城の内部かと思いましたが、よく見ると手前に樹々があるので、お城の庭のようです。してみるとアーチは庭にあるなにかの構造物か?集っている人たちは貴族と村人でしょうか、衣装が抽象的でよくわかりません。マイムも少なく、王妃が王子に「明日はお嫁さんを決めなくては行けませんよ」というマイムもなかったような気がします。今回は道化が登場しましたが、道化ありのパターンがぽん太は好きです。第一幕の最後には「マザコン王子の憂うつ踊り」が入ってました。第三幕と第四幕の間に幕の手前で王子がソロを踊るのは初めて見た気がするのですが、第一幕の終わりの「ママが言う通り好きでもない人と結婚するのはいやだなあ」という踊りと、愛に目覚め過ちも犯して成長した王子の踊りとの対比が面白かったです。第三幕では、ボリショイのグレゴリーヴィチ版やABTのマッケンジー版のように、お妃候補がそれぞれの民族舞踊団を伴って入場して来ます。ところが民族舞踊は、スペイン、ナポリ、ロシア、ハンガリー、ポーランドの5つなのに(ロシアが入ってるのも珍しいですね)、お妃候補はゾロゾロと6人出て来ます。数が合わんがな。あとでにゃん子に聞いたら、ひとりだけお妃候補が舞踊団を連れずに入場して来たとのこと。民族舞踊団を雇えない貧しいお妃候補なんでしょうか?まずお妃候補の踊りがあり、王子が全員を拒否し、次にオディールとロットバルトが入場して来て、そのあと民族舞踊が踊られるのですが、この流れはなんか不自然な気がします。突然オディールとロットバルトが入場して来て、王子がオディールを気に入っているということがわからない段階で、ロットバルトが図々しくも王妃の横に座った状態で、結婚を断られたお妃候補が連れて来た舞踊団をみんなで仲良く鑑賞するという意味がわかりません。また普通は、オディールと王子が踊る途中でオデットが苦しんでいる姿が現れ、王子が不審に思い、ロットバルトがオデットの姿をかき消し、オディールが白鳥のような仕草をして「なに勘違いしてるの?ほら、私があの時の白鳥じゃない」とばかりに踊るのですが、そのあたりの流れが牧阿佐美演出では曖昧でした。第四幕では、湖に駆けつけて来た王子とオデットとのパ・ド・ドゥの振付けが、リフトやピルエットやエビ反りを繰り返すばかりで、ちょっと退屈な気がしました。オデットが、王子との再会を喜んでいるのか、王子に裏切られたことを悲しんでいるのか、ちっともわかりませんでした。そこがはっきりしないために、ラストの感動が少し薄れた気がします。
 というようなわけで物語の流れは少し混乱しているように思えましたが、踊りや衣装の美しさはとてもすばらしかったです。


白鳥の湖
2009年5月21日・新国立劇場オペラ劇場
【振 付】マリウス・プティパ/レフ・イワーノフ
【演出・改訂振付】牧 阿佐美
【作 曲】ピョートル・チャイコフスキー
【装置・衣裳】ピーター・カザレット
【指 揮】アレクセイ・バクラン
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

【オデット/オディール】スヴェトラーナ・ザハロワ
【ジークフリード王子】アンドレイ・ウヴァーロフ)
【ルースカヤ】川村真樹
ロートバルト: 貝川鐵夫
王妃:西川貴子
道化:八幡顕光
王子の友人(パ・ド・トロワ):
 さいとう美帆 小野絢子 芳賀 望
 江本 拓
小さい4羽の白鳥:さいとう美帆、本島美和、寺島まゆみ、小野絢子
大きい4羽の白鳥:川村真樹、丸尾孝子、堀口 純、小村美沙
スペインの踊り:寺島まゆみ、楠元郁子
 芳賀 望、中村 誠
ナポリの踊り:伊東真央、井倉真未、福田圭吾
ハンガリーの踊り: 西山裕子、マイレン・トレウバエフ
2羽の白鳥:川村真樹、大湊由美

新国立劇場バレエ団

2009/05/21

【歌舞伎】Mr.ビーン写しの海老蔵の『神田ばやし』・2009年5月夜の部

 『神田ばやし』が笑いました。こんなにおかしい芝居は、亀蔵の「らくだ」以来です。5秒に1回笑えます。ちょっと知恵が足りなくておどおどしているが、実は純真で心根の美しい若者、桶屋の留吉を海老蔵が演じているのですが、ひとつひとつの仕草、表情、台詞がすべておかしいです。お酒を一口飲んで歯を見せてニャッと笑い、また一口飲んで今度はウッシッシと笑ったりします。いつもなら目玉ひんむきド迫力の海老蔵が、とろんとした表情でなよなよと演じているのを見ると、荒れ球の豪速球投手が投げた超スローボールのような異様な迫力を感じます。この作品は昭和45年以来の上演で、三津五郎がこんかい偶然見つけて取り上げたのだそうです。覚えている役者さんがほとんどおらず、一から芝居を作っていったそうですが、海老蔵はMr.ビーンの演技を写したとぽん太は確信しております。ホントはほろりとして心温まる人情芝居だと思うのですが、海老蔵がひとり別世界を造り上げ、全編笑いっぱなしの芝居となっておりました。ネコもかわいかったです。障子の隙間から飛び出す時、おもいっきり頭をぶつけていましたが。道具方さんに拍手です。
 『神田ばやし』を含め、今回はすべて初めて観る演目でした。
 「毛剃」は、ストーリーとしてはたわいない馬鹿ばかしい話です。しかし見所が多く、飽きずに観ることができました。序幕の毛剃九右衛門のパンチパーマと南蛮風の衣装にまずびっくり。團十郎の台詞がちっとも聞き取れないと思ったら、長崎なまりを取り入れた台詞とのこと。七世市川團十郎が1834年(天保5年)に工夫したものだそうで、江戸時代にすでにこのような演出だったというのが意外に感じられます。舞台上にしつらえられた大きな舟のセットは立派で、回転すると舳先の團十郎が客席にのしかかるかのようで、「汐見の見得」も迫力がありました。江戸の荒事の團十郎と、関西世話物の藤十郎の対比もよかったです。うらぶれた宗七の髪を小女郎が梳く場面もしっとりしており、事情を知らない小女郎の前で宗七が海賊の仲間入りすることを決意する場面も面白かったです。
 「夕立」は、ストーリーとしては際どい話でした。奥女中が中間に手込めにされてしまい、拒みながらもいい雰囲気になっていくというものです。菊五郎と時蔵が大人の男女の細かい機微を色っぽく表現しておりました。
 「おしどり」は、曽我兄弟のお父さん(工藤祐経に殺された人)として有名な河津三郎祐安を題材にした舞踊。菊之助・海老蔵・松緑の三人が若々しくあでやかにつとめました。前半は『曽我物語』に出てくる河津三郎祐安と股野五郎景久の相撲で、後半が変わってオシドリの精となる趣向がよかったです。一巴太夫の常磐津も聞き惚れました。
 曽我物語はこちらのj-textのサイトで(読みにくいけど)読むことが出来ます。鷹狩りの帰り、武者たちは相撲をとって遊びました。相撲といっても関東の荒武者たちのこと、拳で殴り合ったりし、現代の相撲とはだいぶ違うようです。何人かが相撲をとったあと、俣野五郎景久が登場します。俣野五郎は京都で3年間相撲の大番勤め(なんじゃそれ?)をし、日本一の名を得ていたそうで、連勝に連勝を重ねます。次に河津三郎祐重(ちょっと名前が違いますが)が対戦相手となります。俣野五郎の方が技巧派、河津三郎の方が怪力だったようで、勝負は河津が勝ちましたが、俣野は「木の根につまずいて転んだだけだ」と言い張ります。河津は今度は片手で俣野を投げ飛ばし、「さっきも勝っていたのにあれこれ言われたから、今度は真ん中で片手で勝ってみせたまでよ。文句あっか」と言い放ちます。一同二手に分かれてあわや乱闘となりかけますが、頼朝の言葉でとりあえず収まります。しかし遺恨は残り、工藤祐経は河津五郎を射殺そうと企みます。
 決まり手ですが、一番目は「二度目には差し寄り、左右の腕をつかむで、左手・右手に御座します、雑人の上に掛け、膝をつかせて、入りにけり」、二番目は「暫く有て、むずと引き寄せ、目より高く差し上げ、半時ばかり有りて、横様に片手をはなちて、しとと打つ」となっており、いわゆる「河津掛け」ではないような気がします。河津三郎と河津掛けがどこで結びついたのか、ググってみましたがちとわかりません。


歌舞伎座さよなら公演・五月大歌舞伎
平成21年5月・歌舞伎・夜の部

一、恋湊博多諷(こいみなとはかたのひとふし)
  毛剃
          毛剃九右衛門    團十郎
           傾城小女郎    菊之助
           中国弥平次    権十郎
          小倉伝右衛門    市 蔵
          徳島平左衛門    亀 蔵
           加田市五郎    松 江
         じゃがたら三蔵    男女蔵
           浪花屋仁三    亀 鶴
            座頭盛市    彌十郎
           奥田屋お松    秀太郎
           小松屋宗七    藤十郎

二、小猿七之助 御守殿お滝
  夕立(ゆうだち)
           小猿七之助    菊五郎
           御守殿滝川    時 蔵

三、神田ばやし(かんだばやし)
           家主彦兵衛    三津五郎
            桶屋留吉    海老蔵
            娘おみつ    梅 枝
           女房おかね    右之助
           隠居おらく    市 蔵
            行者陽山    亀 蔵
           若い者正太    亀 寿
           若い者新七    巳之助
            店子重吉    亀三郎
            店子源太    男女蔵
           店子清兵衛    権十郎
            店子加蔵    秀 調
            店子惣助    團 蔵

四、鴛鴦襖恋睦(おしのふすまこいのむつごと)
  おしどり
     遊女喜瀬川/雌鴛鴦の精    菊之助
      河津三郎/雄鴛鴦の精    海老蔵
            股野五郎    松 緑

2009/05/20

【バレエ】陽気で楽しいロマンディック・バレエ「ナポリ」デンマーク・ロイヤル・バレエ団

 デンマーク・ロイヤル・バレエ団も、「ナポリ」という演目も、どちらもぽん太は初めてでした。NBSの公式サイトはこちらで、ハイライト動画もございます。
 幕が開くと太陽が降り注ぐ色鮮やかなナポリの街が広がります。ナポリと言えば窓から窓へ渡された洗濯物を連想するのは、デンマーク人も同じか。背景にはヴェスヴィオ火山。なかなかよくできています。舞台上はエキストラみたいな種々雑多な人々でごった返しています。そのなかで延々とマイムが続けられて行き、ぽん太の意識はだんだん薄らいでいきます。こ、これがロマンティック・バレエのスタイルなんでしょうか?ちなみに振付けはオーギュスト・ブルノンヴィル(1805-1879)。江戸時代後半に活躍し、明治維新を迎えて亡くなった方ですね(日本なら)。上記の公式サイトによればこの振付けは、ロシア・バレエの影響を受けずに、古いロマンティック・バレエのスタイルを保存しているのだそうです。
 テレシーナ役のティナ・ホイルンドは、けっこうなお年のマッダームで、ウェストも太いです。ジェンナロのトマス・ルンドも、短パンのコスチュームもいまいちです。
Pc290035 第2幕はカプリ島の青の洞窟が舞台です。ぽん太が2007年のお正月に青の洞窟に行った時の写真をご覧ください。直径1mあまりの狭い入り口を入ると、内部は広々としているのですが、水面下で外部とつながっていてそこから光が入るため、水面が青く光ってとっても美しいです。少しでも波が高くなると狭い入り口から入れなくなるので、冬の時期に内部に入れたのは幸運だったそうです。実際の洞窟内部は海水で満たされており、バレエのような陸地はありません。第2幕の海の精たちの群舞は、先日見た「ジゼル」などに比べると、ちょっとものたりなかったです。
 第3幕になると、さまざまなダンスが次々と踊られ、がぜん面白くなって来ます。名前がわからないのですが、若い男性で、高い跳躍と切れのいい踊りが目立つダンサーがいました。「ゴム鞠が弾むような」連続した跳躍は、ブルノンヴィル・スタイルと呼ばれる独特のステップだそうですが、独特で古風な雰囲気が面白かったです。最後はタンバリンのリズムに乗せて、ナポリの民族舞踊タランテラで盛り上がります。陽気で明るく楽しいバレエでした。

 ところで公式サイトによれば、テレシーナとジェンナロを救ったメダルは、ナポリの「守護聖であり昼の象徴でもあるマドンナ・デルコラの御守り」だそうですが、よくわかりません。ナポリの守護聖人といえば聖ジェンナーロのはずで、このバレエの主人公と同じ名前ですね。いずれにせよ、マドンナ(聖母)に象徴されるキリスト教が、古来の神々を打ち破るという形式の物語のようです。


デンマーク・ロイヤル・バレエ団「ナポリ」
2009年5月17日(日) 東京文化会館

振付:オーギュスト・ブルノンヴィル
第2幕振付:ディナ・ビョルン
音楽:ニールス・W.ガーデ、エドヴァルド・ヘルステッド、
   ホルガー・シモン・パウリ、H.C.ランビュ、ほか
装置:ソーレン・フランセン、オーヴ・クリスティアン・ベダーセン

【第1幕】
ジェンナロ(若い漁師):トマス・ルンド
ヴェロニカ(未亡人):エヴァ・クロボー
テレシーナ(その娘):ティナ・ホイルンド
フラ・アンブロシオ(修道士):ポール=エリック・ヘセルキル
ジャコモ(マカロニ売り):ケン・ハーゲ
ペポ(レモネード売り):フレミング・リベア
ジョヴァニーナ:ルイーズ・ミヨール
パスカリロ(大道芸人):モーエンス・ボーセン
ドラマー:アレクサンダー・サックニック
カルリーノ(人形師):トーマス・フリント・イェッペセン
バラビル:マリア・ベルンホルト、エリザベット・ダム、キジー・ハワード、
アルバ・ナダル、ジュリー・ヴァランタン、ルイーズ・エステルゴール
チャールズ・アナセン、ウルリック・ビヤケァー、セバスティアン・クロボー、
マルチン・クピンスキー、クリストファー・リッケル、アレクサンダー・ステーゲル
ほか漁師、ナポリの人々、旅人、浮浪者

【第2幕】
海王ゴルフォ:フェルナンド・モラ
コラーラ(海の精):セシリー・ラーセン
アルゼンチーナ(海の精):スザンネ・グリンデル
16人の海の精:アマリー・アドリアン、マリア・ベルンホルト、ジェイミー・クランダール、エリザベット・ダム、
サラ・デュプイ、エレン・グリーン、レナ=マリア・グルベール、レベッカ・ラッベ、
ブリジット・ローレンス、ヒラリー・ガスウィラー、アルバ・ナダル、
アナスタシア・パスカリ、マティルデ・ソーエ、ジュリー・ヴァランタン、
エスター・リー・ウィルキンソン、ルイーズ・エステルゴール

【第3幕】
パ・ド・シス:キジー・ハワード、ギッテ・リンストロム、クリスティーナ・ミシャネック、ヤオ・ウェイ
ニコライ・ハンセン、ネーミア・キッシュ
ソロ:アレクサンダー・ステーゲル、キジー・ハワード、ニコライ・ハンセン、
トマス・ルンド、ティナ・ホイルンド、ジェイミー・クランダール、ヤオ・ウェイ
スリー・レディース:
アマリー・アドリアン、エスター・リー・ウィルキンソン、アナスタシア・パスカリ
タランテラ:ジュリー・ヴァランタン、モーテン・エガト
フィナーレ:全員

指揮:ヘンリク・ヴァウン・クリステンセン
演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

2009/05/18

【歌舞伎】海老蔵の『こども暫』は可愛いけどド迫力(2009年5月歌舞伎座昼の部)

 海老蔵の『暫』が今回のお目当て。よろしく段取りがあって、海老蔵の「しばら〜く」の声がかかります。例のちょっとオペラ調の声ですが、そんなに変ではありません。花道に登場すると、その迫力はものすごく、超人的な印象さえ受けます。しかし「ナマズ」だか「照葉」だかにどくように言われ、「いやだ、いやだ」と首を左右に振ってだだをこねる姿は、まるで子役です。その後も武衡の手下に「ぷう」と息を吹きかけて蹴散らす仕草など、ほとんど子供です。主人公は十八歳の若者で、また「荒事は子供の心で演じよ」という口伝もあるそうですが、「子供の心で」演じるのと「子供っぽく」演じるのは違うような気がするのですが……。ぽん太は『女暫』は見たことがありますが、『こども暫』を見るのは初めてで、珍しい演目が見れてよかったです。
 「寿猩々」と「手習子」は、風邪による体調不良で意識消失。申し訳ありませんでした。
 「加賀鳶」は初めて観る演目。菊五郎は、勢いのある加賀鳶の勢揃いでさっそうとした梅吉の姿を見せておいて、その後は悪人ながら愛嬌もある道玄。見事な対比ですが、全体のストーリーとしては序幕の意味はありません。時蔵のお兼も、強欲でおかしくてよかったです。
 「戻駕色相肩」は、いなせで気っ風のいい松緑と美しく色気のある菊之助の若々しいコンビがよかったです。右近の禿は、近くで見たせいかやけにクネクネしていたけれど、遠くから見るとかわいらしく見えるのでしょうか。

 さて、『暫』の登場人物は、清原武衡、鎌倉権五郎景政、加茂次郎義綱といった面々です。江戸時代には顔見世狂言の一番目三建目には必ず『暫』の場面を入れる約束があり、したがって演目によって登場人物の設定は様々だったそうです。九代目市川團十郎が『暫』を独立させて一幕ものとして上演したのは1878年(明治11年)ですが、現行の台本のもととなっているのは1895年(明治28年)のもので、登場人物は鎌倉権五郎景政と清原武衡だったそうです。ところでこの人たちは、いったいいつの時代の誰でしょうか?無知なぽん太はちと調べてみることにしました。時は後三年の役(1083-1087年)にさかのぼります。後三年の役は、奥州を支配していた清原氏の内紛で、異母兄弟の家衡と清衡が争ったのですが、源義家の助けを借りた清衡が勝利しました。「雁行の乱れ」の逸話の舞台となった秋田県横手市の「平安の風わたる公園」をぽん太が訪れた時の記事はこちらをどうぞ。武衡は家衡の叔父で、家衡の味方をして戦いましたが、いくさに破れて家衡とともに処刑されました。ですから『暫』の、後三年の役の功績で関白に任命されるというのは変ですね。鎌倉権五郎景政は、源義家に従って後三年の役に出陣しましたが、右目を射られながらも敵を倒したことで有名です。また義綱は源義家の弟ですが、後に義家に疎んじられ、最後は佐渡流罪のうえ自害いたそうです。また舞台となっている鶴岡八幡宮は鎌倉にあるので、平安後期の後三年の役とは時代が合わないとぽん太は思ったのですが、こちらの鶴岡八幡宮の公式サイトを見てみると、1063年(康平6年)に源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰ってきたとき、源氏の氏神であった京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に祀ったのが始まりなのだそうです。またひとつ賢くなりました。

 さて次に「加賀鳶」は、本郷周辺が舞台となっています。この芝居の初演は1886年(明治19年)ですが、題材となっているのは文化年間(1804-1818年)に起きた加賀鳶と町火消しの大喧嘩だそうです。加賀鳶とは、加賀藩お抱えの火消しのことですね。加賀藩(前田家)上屋敷は、現在の東京大学の敷地の中央から南部分(工学部から南側くらい?)にありました。東大の「赤門」は加賀屋敷の表門で、今回の演目の大詰めにでてきました。また東大にある有名な三四郎池も、加賀屋敷の庭園の池です。1871年(明治4年)、加賀屋敷の敷地の大半は文部省の用地となり、東京大学が造られていきます。こちらの 東京大学の歴史・沿革を見てみると、黙阿弥がこの狂言を創った1886年(明治19年)頃には、すでに東京大学としての形が整っていたように思われます。加賀藩上屋敷に関しては、こちらの「東京大学コレクションX 加賀殿再訪 東京大学本郷キャンパスの遺跡」が詳しくてとてもおもしろいです。屋敷の南側(春日通り側)には(このあたりか? Googleストリートビュー)、「表長屋」と呼ばれる全長150メートルの建物がありましたが、窓がひとつもなかったため「盲長屋」と呼ばれ、人々に知られていたそうです。三幕目第一場の盲長屋は、それを踏まえていると思われます。ただし本郷菊坂はこちら( Googleストリートビュー)です。三幕目第二場、道玄が言いがかりをつけにいく質店伊勢屋の場所は、本郷竹町となっておりますが、古地図などを見てみると、順天堂大学周辺( Googleストリートビュー)のようです。

歌舞伎座さよなら公演
五月大歌舞伎
平成21年5月、歌舞伎座、昼の部

一、歌舞伎十八番の内 暫(しばらく)
           鎌倉権五郎    海老蔵
          鹿島入道震斎    翫 雀
         那須九郎妹照葉    扇 雀
            成田五郎    権十郎
            東金太郎    市 蔵
           足柄左衛門    亀 蔵
            荏原八郎    男女蔵
            埴生五郎    亀三郎
             小金丸    巳之助
            大江正広    萬太郎
            加茂三郎    亀 寿
            局常盤木    右之助
          家老宝木蔵人    家 橘
         月岡息女桂の前    門之助
            加茂次郎    友右衛門
            清原武衡    左團次

二、寿猩々(ことぶきしょうじょう)
              猩々    富十郎
             酒売り    魁 春
  手習子(てならいこ)
             娘お駒    芝 翫

三、盲長屋梅加賀鳶
  加賀鳶(かがとび)

  本郷木戸前勢揃いより赤門捕物まで

      天神町梅吉/竹垣道玄    菊五郎
           女按摩お兼    時 蔵
          春木町巳之助    三津五郎
             魁勇次    松 緑
          昼ッ子尾之吉    菊之助
           虎屋竹五郎    海老蔵
              お朝    梅 枝
          御神輿弥太郎    團 蔵
         道玄女房おせつ    東 蔵
          伊勢屋与兵衛    彦三郎
            雷五郎次    左團次
           日蔭町松蔵    梅 玉

四、戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)
          浪花の次郎作    松 緑
            禿たより  尾上右 近
          吾妻の与四郎    菊之助

2009/05/16

【バレエ】代役の東野泰子が健闘・ドラマチックなKバレエの「ジゼル」

 ジゼル役のヴィヴィアナ・デュランテが怪我で降板とのこと。ううう、残念です。でも、クマツテ降板よりはいいか、と気を取り直して渋谷のオーチャードホールに行ってきました。
 ジゼルの代役は東野泰子。1幕は笑顔が可愛らしく、とてもチャーミングでした。また2幕ではとても軽くて柔らかく、重さがないかのように踊っておりました。ただ1幕では「はかなさ」に欠ける気がしたのと、アルブレヒトに裏切られたことを知ってからの演技が、いきなり壊れちゃったみたいで、花占いなどの幸福な場面を繰り返す演技も、ロボットみたいでした。ぽん太は発狂していくジゼルよりも、ジゼルを死なせなことを嘆く熊川のアルブレヒトの方に感動してしまいました。また2幕では、「裏切った男を許す女」という、思わずひれ伏したくなるような気高さがありませんでした。でも全体としては代役とは思えないすばらしさで、今後にますます期待。
 熊川哲也は、膝の故障を感じさせない高いジャンプと安定した回転で、2幕のソロはすっかり魅了されました。また、演技力もすばらしかったです。浅川紫織のミルタは、長い手足が美しく、神秘的で冷酷でもあるミルタを見事に表現しておりました。2幕でウィリたちがアラベスク(?)で交差していく見所は、なんだか足が下がっていた気がしたのですが、あんなものでしょうか?
 Kバレエ版の『ジゼル』は、美しい舞台装置と、物語性を重視した演出はいつも通り。ストーリーを伝えるためにマイムが多くなりますが、1幕で母親がジゼルに対し長々と行っていたマイムは、「若い娘が踊ってばかりいるとウィリになっちゃいますよ」みたいなことを語っているのでしょうか?バチルドがとってもタカビーな嫌な女に描かれていて、ジゼルが手の甲に口づけしょうとすると、「汚らしいわね」とばかりに手を引っ込めたりします。ということでアルブレヒトは、バチルドと仕方なしに結婚するのであり、ジゼルのことを本当に愛していた、という設定のようです。とはいえ、結婚できるはずのないジゼルに愛を誓ったあたりは、アルブレヒトの若さなのか、弱さなのか。1幕の最後でアルブレヒトは、ヒラリオンだけでなく、ジゼルの母や村人たちからも「おまえのせいだ」と非難され、自分の浅はかな行為が引き起こした不幸を前に泣き叫びます。普通だとアルブレヒトは従者に促されてどさくさまぎれにちゃっかり姿を消したりするのですが、クマテツは去りかけてもう一度戻ってきて、泣き叫ぶところで幕となります。2幕では、「ここにいれば安心です」とジゼルがアルブレヒトを十字架に誘う仕草はありませんでした。ラストでは、アルブレヒトはジゼルの墓にうつぶした状態で目を覚まします。すべては夢だったのでしょうか?ジゼルが落としていった百合の花を目にしたとき、アルブレヒトは何を思ったのか。余韻を残して幕となります。
 とてもドラマチックな『ジゼル』で、なかなかよかったです。

『ジゼル』GISELLE
2009年5月13日(水) Bunkamuraオーチャードホール
●芸術監督 Artistic Director  熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
Spring Tour 2009
●演出・再振付 Production/Additional Choreography 熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
●原振付 Original Choreography マリウス・プティパ(ジャン・コラーリ/ジュール・ペロー版による)
●音楽 Music アドルフ・アダン Adolphe Adam

ジゼル Giselle 東野泰子 Yasuko Higashino
アルブレヒト Albrecht 熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
ヒラリオン Hilarion スチュアート・キャシディ Stuart Cassidy
【第1幕 Act 1】
6人の村人達の踊り Peasant Pas de Six
副智美 Satomi Soi / 遅沢佑介 Yusuke Osozawa
白石あゆ美 Ayumi Shiraishi / 中村春奈 Haruna Nakamura
伊坂文月 Fuzuki Isaka / 西野隼人 Hayato Nishino
ジゼルの母親ベルト Berthe,Giselle's Mother ニコラ・ターナ Nicola Tranah
クールランド公爵 The Duke of Courland ショーン・ガンリー Sean Ganley
公爵の娘バチルド Bathilda,Duke's Daughter 松根花子 Hanako Matsune
アルブレヒトの従者ウィルフリード Wilfred,Albrecht's Squire
デイビッド・スケルトン David Skelton
【第2幕 Act 2】
ウィリーの女王ミルタ Myrhta,Queen of the Wilis 浅川紫織 Shiori Asakawa
モイナ Moyna 木島彩矢花 Sayaka Kijima
ズルマ Zulme 樋口ゆり Yuri Higuchi
 Marius Petipa(after Jean Coralli,Jales Perrot)
●舞台美術・衣裳 Set and Costume Design ピーター・ファーマー Peter Farmer
Tetsuya Kumakawa K-BALLET COMPANY
●照明 Lighting Design  足立恒 Hisashi Adachi  ●指揮 Conductor 井田勝大 Katsuhiro Ida
●演奏 シアターオーケストラトーキョー THEATER ORCHESTRA TOKYO
村人達、狩りの一行、ウィリー達 Peasants,Hunt Peaple,Wilis
Artists of K-BALLET COMPANY

2009/05/15

【クラシック】さるやんごとなきお方がヴィオラを!・俊友会管弦楽団「第九」

 知人が出るので、俊友会管弦楽団の演奏会に行って来ました。この管弦楽団は、指揮者の堤俊作が指導した各地の学生オーケストラなどの出身者を集めて結成したアマチュアオーケストラだそうです。こちらが公式サイトです。
 会場の池袋の東京芸術劇場に向かう途中の小道に、やけにパトカーや白バイがいたのが、あとから思い出されました。
 最初の曲はベルリオーズ(1803-1869年)の序曲「海賊」。初めて聴く曲でした。「海賊」というとバイロンの『海賊』(1814年)を思い出しますが、演奏会のプログラムによれば、もとは序曲「ニースの塔」というタイトルで1845年に作られた曲を、のちに改作したものだそうです。初めて聴いた曲なので、曲の善し悪し、演奏のうまい下手は、ぽん太にはよくわかりませんでした。
 休憩を挟んでいよいよ「第九」です。楽団員が舞台に出てくると、なぜか盛んな拍手が……。よくみると、さるやんごとなきお方がヴィオラを持って登場です。
 ぽん太は、さるやんごとなきお方とは4度目の出会いです。山ですれ違ったときの話は、 以前の記事に書きました。その他、コンサートを聴きに来られていたことが一回、それから道路を車で走っていたら、反対車線を車で通っていかれたことがあります。むむむ、偶然にしては多すぎる、ひょっとしてぽん太は天皇家にゆかりの人物なのだろうか……などという妄想を発展させることは、ぽん太はありません。
 パンフレットをみると、さるやんごとなきお方は俊友会管弦楽団の「名誉団員」だそうで、堤俊作が学習院大学の管弦楽団を指導したのがご縁となったそうです。ちなみに上にリンクした俊友会の公式サイトに、ニュースの動画がアップしてあるようなので、ご覧になりたい方はど〜ぞ。
 さて、今回の第九はかなりテンポが速かったです。 以前に聴いたハインリヒ・シフの指揮ほどではありませんが。最近は速いのが流行なんでしょうか。
 パンフレットによれば、今回の解釈は、新しいブライトコプフの原典版の楽譜を使って、ベートーヴェンの意図を忠実に演奏するもので、それは「ワインガルトナーの呪縛」からの解放と言えるのだそうです。
 なんのこっちゃ。クラシックに暗いぽん太にはちっともわからんぞ。困ったときのグーグルでぐぐってみると、 ブライトコプフは歴史あるドイツの楽譜出版社で、ベートーヴェンの楽譜をリアルタイムで出版していたこともあるそうです。もともと第九はブライトコプフ版による演奏が主流だったのが、1996年に ベーレンライター出版社が批判的改訂を加えた版を出し、ベートーヴェンの交響曲の演奏に問題を投げかけたようです。「新しいブライトコプフ版」というのは、さらに新しい版をブライトコプフ社が出したもののようです。旧ブライトコプフ版とベーレンライター版の違いに関しては、こちらの藤本一子「 《第9交響曲》の楽譜とベーレンライター版が提起する問題」が詳しいです。また、新ブライトコプフ版との異同に関しては、こちらのサイト( Beethoven 第9交響曲の新校訂版(新ブライトコプフ版 vs ベーレンライター版))が参考になります。ぽん太のような素人には、楽譜の細かい違いは理解できませんので、全体としての思想の違いを誰かが解説してくれるとありがたいのですが。
 ワインガルトナーは、20世紀前半に活躍した指揮者で、録音を聴いたことがあるかどうかぽん太は覚えていませんが、名前だけは知っております。第九のいわゆるワインガルトナー版というのは、ベートーヴェンの時代の楽器の制約にとらわれず、一部を1オクターブを上げたりしたものらしいですが、スタイルとしては精神性を重視した、デモーニッシュなものだったようです。今回の堤俊作の指揮は、ベートーヴェンの時代の古典的な演奏に近づけようとしたものだと思うのですが、フルトヴェングラーを聴き込んだぽん太の耳にはやけにあっさりと聴こえ、こうした演奏の「聴き所」がまだよくわかりません。


俊友会管弦楽団 第43回定期演奏会
2009年5月10日/東京芸術劇場

出 演: 指揮/堤 俊作
     ソプラノ/野田ヒロ
     メゾソプラノ/向野由美子
     テノール/水口 聡
     バス/東原貞彦
     俊友会管弦楽団 府中アカデミー合唱団ほか
曲 目: ベルリオーズ/序曲「海賊」
     ベートーヴェン/交響曲 第9番「合唱付き」

2009/05/14

【ロシア旅行(6)】歴史ある古都を巡る(スズダリ、ウラジーミル)

P5030153 黄金の環のひとつスズダリは、中世の雰囲気を残したいなか町です。湾曲したカーメンカ川を天然のお堀として築かれています。カーメンカ川は直訳すると「石川」だそうで、川底に石が多いことことからそう呼ばれているそうです。真新しい木造の橋がかかっておりますが、夏用の橋が架けられたばかりだそうで、冬の間は川が凍っていますから、そのままそりが通るのだそうです。
P5030145 スズダリの南には「木造建築博物館」があり、周辺の村から移築された木造建築を見ることができます。写真は一般的な農家の建物です。窓の周辺に美しい装飾がありますが、魔除けの意味もあるそうです。このあたり(?)では、家を新築すると、最初にネコを中に入れるのだそうです。というのは、新築の家に最初に入った生き物は死んでしまうという言い伝えがあるのだそうです。じゃ、ネコは死んでいいの、ということになりますが、ネコは7たび生まれ変わると言われているのだそうです。
P5030144 ドアを入ると、ダイニングキッチンとなります。写真には写っていませんが、正面の角のあたりにイコンが飾ってあります。椅子は伝統的にはベンチで、チェアーはヨーロッパから入って来たものだそうです。
P5030143 白く大きいものがペチカです。右の開口部が火を入れるところで、調理にも使われます。大きなペチカの中を熱い空気が巡るようになっていて、ペチカ自体が熱を溜め込むので、燃やし続ける必要はなく、気温に応じて何日かおきに火を焚けばいいのだそうです。奥のペチカの上のスペースは、病人やお年寄りが寝る場所でした。写真左側の天井が少し低くなっていると思いますが、その上の高さ数十センチのスペースが、熱が高いところに行くことを利用して、子供たちの寝床になっていたそうです。
P5030139 ちなみにこれがスズダリの現代の農家。とてもカラフルできれいで、窓の装飾も美しいです。別に観光用の建物というわけではなく、普通に住んでいる建物で、ハイウェイ沿いにある普通の村の農家も(これほどではありませんが)同じようにカラフルで可愛らしいです。
P5030163 スズダリのもうひとつの見所は、スパソ・エフフィミエフ修道院です。写真はスパソ・プレオブラジェーンスキー聖堂で、7つのドームを持つ、16世紀に建てられた美しい建物です。先ほどの農家や、こういう教会の建物を見ると、ロシア人というのは本当は可愛らしいものが好きな素朴な人たちではないかと思えて来ます。

P5030176 スズダリの次に訪れたのは、ウラジーミルです。ここは歴史ある古都で、左の写真の、キエフ・ルーシ王朝のウラジーミル・モノマフ公が1108年にここに要塞を築いたのが、この町の始まりです。モノマフ公は、ロシアにキリスト教を伝えたひとでもあるそうです。やがてここはウラジーミル・スズダリ公国の首都となり、さらに南から遊牧民の侵入が始まると南にあるキエフは衰退し、1169年ウラジーミルがルーシ王朝の首都になりました。こうしてウラジーミルは黄金時代を迎えましたが、1238年にモンゴル軍の侵入を受けて町は破壊され、約50年後に町を取り戻しはしたもののかつての勢いは戻らず、政治の中心はモスクワに移って行きました。
P5030175 1185年に建設が開始されたウスペンスキー大聖堂は、14世紀はじめまではロシアの最高位にあった教会だそうです。有名なイコン画家アンドレイ・ルブリョフが内部の装飾に関わり、『最後の審判』のフレスコ画は、彼の作と言われています。聖堂の内部には歴代の公の廟があり、ウソかホントか、アレクサンドル・ネフスキーの指が保存されており、ガラス越しに見ることができます。指以外の遺骸は1724年に、以前の記事で書いたサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院に移されました。
P5030180 ウスペンスキー大聖堂は高台にあり、南にはクリャージマ川が流れ、その向こうには大平原がひろがります。ここをモンゴル人が攻め上って来たのですね。川の手前に見える鉄道はシベリア鉄道で、これを写真左の方向に延々と行くと、ウラジオストクに至ります。
P5030182 ウラジーミルのもうひとつの有名な建物は、ドミトリーエフスキー聖堂です。ロシアには珍しく、外壁一面に美しいレリーフが刻まれております。

P5040185 さて、ウラジーミルの観光を終えて、一路バスでモスクワへ。ところがこの日は4連休の最終日。行楽から帰るロシア人の車で大渋滞です。みなさん、写真を見て、この道路は何車線だと思いますか。正解は2車線です。バスが走っているのが右側の車線で、バスの右の車列は路肩、そしてさらに右を走っているの車は路肩の路肩です。路肩の路肩を走る車が巻き上げる土煙で、視界はすっかり霞んでしまっております。ホテルに着いたのは夜の10時頃。みんな腹ぺこでくたくたです。明日はいよいよモスクワの観光です。

2009/05/13

【ロシア旅行(5)】セルギエフ・パサード(トロイツェ・セルギエフ大修道院、アンドレイ・ルブリョフのイコン、ボリス・ゴドゥノフの墓、クヴァス)

P5020343_2 本日は朝早く起きて国内線の飛行機でモスクワへ。そしてバスで「黄金の環」の観光に繰り出します。黄金の環というのは、モスクワの北東部に環状に位置する古い都市群です。ロシア(当時はソ連ですが)が外貨獲得のために観光事業に乗り出したのは1960年代になってからだそうで、黄金の環もそのひとつとして観光地としての整備が進められたそうです。現在では外国人だけでなく、多くのロシア人も自分たちの歴史を尋ねて、このルートを訪れるそうです。ちなみに日本では1930年代に、外貨獲得のための国際リゾート開発が行われたことは、以前の記事に書きました
 まず訪れたのが、モスクワの北東約70キロのところにあるセルギエフ・パサードです。この街の中心はトロイツェ・セルギエフ大修道院ですが、ラドネジの聖セルギイによって14世紀に創建されたものだそうで、現在では14世紀から18世紀にかけて造られた建造物を見ることができます。
 聖セルギイ(1321,22年頃-1392年)は、ロシア正教における偉大な聖人のひとりで、森に覆われていたこの地に小さな教会堂を建て、自ら働いて生計をたてながら、隠者生活を送りました。次第に彼のまわりに、修道士たちや信者が集まるようになり、19世紀になると、ロシア正教で最も重要な修道院となりました。
 以前の記事でも書いたように、1230年代後半にモンゴル軍がキエフに侵入し、以後ロシア(当時はルーシ)はモンゴルの支配に屈することになります。この支配から脱するには、2世紀半後の1480年、イヴァン3世の時代まで待たなければなりませんでした。聖セルギイが生きたのは、まさにこのタタールのくびきの時代だったのです。聖セルギイは、モンゴルと戦うためにロシア諸公をまとめる役割を果たし、その結果ドミトリイ・ドンスコイは1830年にクリコヴォの戦いでモンゴルを破り、これがルーシのモンゴルに対する最初の勝利となったのだそうです。ここにリンクしたミハイル・ネステロフの「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」(1890)は、若き聖セルギイの前に聖者(?)が現れ、「お前はのちにルーシをモンゴルから解放するだろう」と予言するシーンで、ぽん太はモスクワのトレチャコフ美術館で見ることができました。
P5020322 1423年に完成したトロツキー聖堂です。トロツキーといっても革命家のことではなく、三位一体のことです。もともとここには聖セルギイを土葬したお墓がありました。後に遺骸を掘り出したところまったく腐っていなかったため、奇跡として彼の遺体はトロツキー聖堂のなかに安置され、現在はガラス越しに見ることができます。ロシア人が長蛇の列を作って遺骸を拝んでおりましたが、ぽん太たちは時間がかかるのでパスしました。内部には見事なイコンが並んでいますが、有名なイコン画家アンドレイ・ルブリョフによって描かれたものが多いそうです。なかでも最も有名なのは「聖三位一体」のイコンですが(画像はこちら)、これもトレチャコフ美術館で実物を見ることができました。
 三位一体とは、父なる神、子イエス・キリスト、聖霊が、同一の実体であるという考え方で、キリスト教では大変重要な概念で、これを否定するとたちまち異端として断罪されるというものだそうですが、仏教徒のぽん太にはよくわかりません。このイコンに描かれているのは、旧約聖書の『創世記』18章に書かれているエピソードです。原文はたとえばこちらなどをご覧ください。アブラハムのテントの前に、三人の旅人が通りかかります。アブラハムは妻のサラと協力して、この三人に食事を振る舞います。実はこの三人は神とキリストと聖霊で、神は、アブラハムとサラの間に男の子が生まれるだろうと予言します。アンドレイ・ルブリョフは、アブラハムやサラ、もてなしの様子などを画面から排して、聖なる三人に焦点を絞って表現しております。
P5020341 ウスペンスキー大聖堂は、青いタマネギがかわいいです。イワン雷帝の命令で1585年に造られたものだそうです。手前にある赤い小さな塔は、万病を癒すという聖なる泉が湧いているところで、人々が水を汲むために並んでいました。むかし目の見えない人がこの泉で顔を洗ったところ、目が見えるようになったという逸話があるそうです。最近では中曽根元総理がロシアを訪れた時、食べ物があわなくてお腹を壊したのですが、この泉を飲んだらよくなったそうで、中曽根元総理のお礼状が残っているそうです。ちょっとググってみたのですが、いつの話なのかわかりませんでした。
P5020344 ウスペンスキー大聖堂の片隅に、観光客に見向きもされずひっそりとある建物は、皇帝ボリス・ゴドゥノフと家族の墓所です。ボリス・ゴドゥノフ(1551年-1605年、在位1598-1605年)はロシア皇帝ですが、彼の治世下では災害が頻発し、農奴の反乱が相次いで国家が混乱したため、死後も邪険に扱われているそうです。ボリス・ゴドゥノフは、プーシキンの小説や、ムソルグスキーの歌劇でも有名ですね。
P5020347P5020348 境内(?)にはお土産やも多く、人々でにぎわっていました。なにやら黄色いタンクで怪しい飲み物を売っています。ライ麦を発酵させてつくったクヴァスという飲み物です。黒パンっぽいニオイに一瞬「!?」と来ますが、飲んでみると酸味があっておいしいです。

2009/05/09

【ロシア旅行(4)】ピョートル大帝の夏の宮殿、血の上の救世主教会、エルミタージュ美術館、バレエ鑑賞など

 翌日はサンクトペテルブルク観光の2日目です。午前中はピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴーフ)の見学ですが、まず車窓から見えた風景からどうぞ。
P5010073 ワガノワ・バレエ・アカデミーです。車窓からの写真なので見づらくてもうしわけありません。右側のクリーム色の建物だそうです。場所はこのへんです。
P5010086 フォンタンカ川に架かるこの橋は、カリンキン橋と呼ばれております。場所は多分ここだと思います。この橋がなんで有名かというと、ゴーゴリ(1809-1852年)の短編小説『外套』(1842年)に出てくるからです。主人公の下級官吏アカーキイ・アカーキエウィッチは、やっとのことで新調した外套を奪われ、あげくの果てに死んでしまいます。それ以来彼は幽霊となり、行きずりの人の外套を奪うようになったのですが、その幽霊が現れたのがこのカリンキン橋のほとりです。外套は青空文庫で読めますので、興味のある方はどうぞ。
P5010084 さて、ナポレオンに対する戦勝を記念したナルヴァ凱旋門や、革命家キーロフの像の前を通ると、両側にコンクリートの素っ気ないアパートが目立つようになり、労働者が多く住む地帯となります。そこに大きな工場が見えてきますが、これがキーロフ工場です。ここはトラクター工場として有名ですが、かつては戦車の工場としても有名でした。「キーロフ工場」でググるとわかるように、軍事オタクには超有名のようです。でも戦車オタクのみなさん、工場に行ったことはないでしょう?ははは、うらやましいでしょう。どうぞ、写真だけでもお楽しみください。戦車オタクとは180度異なるバレエ・オタクには、キーロフというと、マリインスキー・バレエが以前はキーロフ・バレエと呼ばれていたことで有名ですよね。
P5010078 さらに行くと、だんだんと広々としてきますが、かわいらしい電車が走っていました。
P5010082 写真のコンスタンチン宮殿は、2006年に行われたサミットの会場として有名です。日本からは(日本の医療制度を破壊した)小泉純一郎が参加いたしました。その後プーチンお気に入りの場所となりプーチン宮殿などと呼ばれていましたが、現在はメドヴェージェフが利用しているそうです。ちなみにプーチンもメドヴェージェフもサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)出身です。
P5010081 ピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴーフ)は庭園の噴水で有名ですが、冬は凍ってしまうので止まっています。放水開始は5月9日だそうで、ぎりぎりアウトでした。代わりに大宮殿の内部を見学いたしました。
P4300066P5010089 サンクトペテルブルク市内に戻って来て、マリインスキー・劇場の前をバスで通りました。滅多に見れない裏側(西側)の写真もご覧ください。バレエ、オペラ・ファンのぽん太とにゃん子は大感激です。
P5010090 午後の見学の最初は「血の上の救世主教会」です。なんとも生々しい名前ですが、その名の通り、1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に立っています。従って造られたのも1907年と新しいです。アレクサンドル2世(1818年-1881年、在位1855年-1881年)はロシアの漸進的な改革を進めましたが徐々に保守化し、急進的テロリストによって暗殺されました。
P5010092 その場所には廟が造られており、それを内部に含むように教会が建てられています。暗殺された場所が川沿いだったため、教会は川ぎりぎりに建てられました。こちらの地図を見ると、教会を建てたために道が迂回しているのがわかります。また、原則的に正面入り口があるはずの東側に、入り口が設けられていません。また、川沿いの軟弱地盤の上にあるため、薄い大理石を敷き詰めているので、割れないように絨毯が敷いてあるのも特徴です。内部のモザイクは天然の石ではなく、スマルタと呼ばれる人工石を使ったロシア独特の技巧で造られているそうです。
P5010276 次はいよいよエルミタージュ美術館の見学です。世界各国からの観光客で混雑しておりました。びっくりするのはお金を払えば写真が撮り放題のこと。とうぜんフラッシュは禁止ですが、あちこちでパシパシとフラッシュを焚いておりました。絵は大丈夫なのでしょうか?レンブラントの「放蕩息子の帰還」(1666-1668年頃)の前で記念写真。ぽん太が以前のブログでこの作品に触れたときは画像にリンクしただけでしたが、こんかい生で見ることができてとても感激いたしました。そのほかも見切れないほどの名画の数々でしたが、特に感動したのは、ダ・ヴィンチの『ベヌアの聖母』(1475-1478年頃)や『リッタの聖母』(1490-1491年頃)、ラファエロ、カラヴァッジオなど、日本では滅多に見られない作品です。1985年に硫酸をかけられたレンブラントの『ダナエ』(1636-1640年頃)は痛々しかったです。
 エルミタージュ美術館は、1721年にピョートル大帝が冬宮を造ったのが始まりで、エリザヴェータ女帝の時代に現在の冬宮の建設が始まりました。美術品の収集を開始したのはエカテリーナ2世で、さらにニコライ1世の時代に新エルミタージュが建てられたそうです。
P5020098 夕食後はバレエ鑑賞。場所はエルミタージュ美術館のつながりにあるエルミタージュ劇場です。とても小さな劇場で、オーケストラも第一バイオリンが4人、コントラバスは1人という編成。演目は『白鳥の湖』です。いったい誰が踊るのだろう。サンクトペテルブルクだからマリインスキーのロパートキナ?それはなくともレニングラードのシェスタコワか?しかし、ソリストはそれなりだったものの、コールドはかなりアラが目立ちました。ダンスもかなり省略されていました。ロシアだからいいってもんじゃないんだね。日本のバレエ団のすばらしさがあらためてわかりました。観光客向けの公演という感じで、外国人が日本に観光に来て「伝統演劇鑑賞」とあったので、当然歌舞伎か能と思っていたら、大衆演劇の「名月赤城山」に連れて行かれた感じでした。
P5020104 バレエが終わって外に出ると、それはそれは美しいネヴァ川の夕焼けでした。緯度が高いので、これで夜の10時です。

2009/05/08

【ロシア旅行(3)】エカテリーナ宮殿、聖イサク聖堂、ニコライ聖堂など

P4300013 旅行2日目。まずはエカテリーナ宮殿の観光。とはいえぽん太の狸脳では、エカテリーナという人がいつ頃のどういう人なのか、お会いしたこともないのでまったくわかりません。ということで、まず、サンクトペテルブルグの歴史を少々おさらいしてみました。
 前回のブログで、アレクサンドル・ネフスキーがネヴァ川の戦い(1240年)でスウェーデン軍を打ち破った話を書きましたが、ネフスキーはサンクトペテルブルクを守ったわけではありません。というのも当時はまだこの都市は存在せず、このあたりはノブゴロド公国の北の偏狭だったのです。
 サンクトペテルブルクは、ピョートル1世(1671年-1725年、在位1682年-1725年)が作った人工都市でした。彼はいわば「変人」で残虐でもありましたが、外国文化を移入し、北の辺境の遅れた国だったロシアを近代化して、ヨーロッパ列強のひとつにまで発展させました。子供の頃は不遇でモスクワ郊外で過ごしていましたが、近くのドイツ人村に入りびたっては、ドイツの生活や文化・学問を吸収していたそうです。そのドイツ人村があったのは、このあたりだったようです。実権を握ってからも、自らヨーロッパ使節団の一員として参加し、自ら船大工として働いたりもしながら、ヨーロッパの新しい技術をロシアに伝えました。そして、こうしてつけた国力を背景に、ロシアの領土を拡張しました。ピョートル1世は、ヨーロッパに向かった港湾都市に首都を移すことを計画します。地図で位置関係を見てみると、なるほどモスクワが内陸に位置するのに対し、サンクトペテルブルクは海沿いにあり、海路でヨーロッパへとつながっております。彼がその町にサンクトペテルブルクというドイツ語風の名前を付けたことからも、彼の気持ちがヨーロッパに向かっていたことがわかります。ちなみにサンクトペテルは「聖ペテロ」で、ブルクはザルグプルクやハンブルクと同じように「街」という意味ですね。またペテロのロシア語読みはピョートルですから、彼は聖ペテロにかこつけて自分の名を街につけたことになります。この地はネヴァ川のデルタ地帯であり、湿地帯が広がるうえに洪水の被害もあって、街の建設は困難を極めたそうです。とはいえピョートル1世によって、1712年、サンクトペテルブルクがロシアの首都となりました。
 狸脳でも理解できるように細かいことは省略し、エカテリーナ2世(1729年-1796年、在位1762-1796年)に話を移します。彼女はドイツ人で、のちのピョートル3世の皇太子妃となりました。このあたりは、こちらの系図を見るとわかりやすいです。才気活発、乗馬をするなど男勝りだった彼女は、無能な夫の統治を見ておられず、クーデターで夫を倒して自ら皇帝となります。この18世紀後半のヨーロッパは、フランス革命へと向かう啓蒙思想の時代で、エカテリーナ2世は新しい思想を取り入れながら、美術品の収集などロシアの文化の発展に努めました。
 そしてまた細かいことは省略し、ロシア革命の時代となります。1914年、第一次世界大戦でドイツと敵国となったため、サンクトペテルブルクはペトログラードというロシア語風の名前に変えます。グラードはロシア語で「街」、ペトロは……わかりますよね。1917年にはロシア革命。1924年、この年に死去したレーニンの名にちなんで、レニングラードと改名します。第二次世界大戦では、ヒトラー率いるドイツ軍によるレニングラード攻防戦が有名です。そしてソ連崩壊後の1991年、住民投票に基づいて再びサンクトペテルブルクという名称に戻りましたとさ……。

 ということでエカテリーナ宮殿に話を戻しますと、この宮殿は、ピョートル1世の(2度目の)妻エカテリーナによって1724年に建設されました。その後女帝エリザヴェータ(在位1741-1762)が1752年からバロック様式に改築しましたが、彼女自身はここに住まず、ペテルゴーフの大宮殿を使っていたそうです。そして男勝りのエカテリーナ2世が、狩りの途中にこの宮殿を目にします。彼女はクラシック様式による改装を行い、夏の宮殿として利用しました。
P4300011 駐車場から宮殿に向かうと、まず、宮殿に併設する形で立てられた肌色の建物が目に入ります。これが「学習院」と呼ばれる学校で、プーシキンが第一期生だったそうです。
P4300023 エカテリーナ宮殿内部の写真はあちこちにあるのでなるべく省略。この写真には、豪華なバロック風の部屋の中にテーブルがしつらえてありますが、食器は古いものではありません。これはなにかというと、ロシアのお金持ちのひとたちが、この部屋でパーティーを開いたりするそうです。文化財の保護を行っている人たちは当然反対しているそうですが、資本主義となったロシアの「格差」を示す一コマです。
 「琥珀の間」は圧巻でした。ただ琥珀が壁に貼られているので透過光がなく、意外と地味な印象でした。もともとの琥珀は第二次世界大戦中にドイツ軍によって持ち去られたきり、行方不明になってしまい、2003年に復元されました。ロシア人はドイツの酷さばかりを強調しますが、シュリーマンがトロイの発掘時に持ち出した金銀財宝が第二次世界大戦時にベルリン博物館から消え去り、ながらく行方不明になっていましたが、最近ひょっこりとモスクワのプーシキン美術館にあることが判明し、いまだトルコの返還要求には応じていないとのことでから、どっちもどっちですね。

P4300047 さて、午後はサンクトペテルブルク市内の観光です。まずは車窓から見えた、チャイコフスキーが最後に住んだ家。写真の左下に記念のパネルが写っています。場所はたぶんこのへんだと思うのですが、違ってたらごめんね。う〜む、チャイコフスキーって、サンクトペテルブルクに住んでいたのか。1893年、交響曲「悲愴」の初演から数日後、チャイコフスキーはここで息を引き取ったわけです。死因についてはコレラとも言われていますが、はっきりとはわからないようです。
P4300049 で、こちらはドストエフスキーが住んでいた家。3階のバルコニーのある部屋だそうです。場所はここらあたりです。いつ頃住んでいたのかはわかりません。
P4300055P4300057 聖イサク広場でニコライ1世の騎馬像を見た後、聖イサク聖堂を見学。もともとは、ピョートル大帝が自分の誕生日にちなんだ聖イサクを祀って、1710年に造った木造教会。現在の建物は4台目で、フランス人建築家オーギュスト・モンフェランが40年の歳月をかけて建設し、1858年に完成しました。軟弱な地盤だったために、1万本以上の杭を打ち込んで土台を造ったものの、さらにもともとあった古い壁と新しい壁の間に地盤の沈降率の差が生じたりして、工事は困難を極めたそうです。右の写真は、天井のドームに書かれたカルル・ブリュロフ作の『聖母マリアの栄誉』です。この教会は湿気が多いので、壁画はフレスコ画ではなく、モザイクで造られているそうです。
 今後の旅程でもわかるように、ロシアには多くのロシア正教の教会があり、多くの敬虔な信者たちが熱心に礼拝しております。こうしたことは聞き知っていましたが、ぽん太の狸脳では納得できません。というのも、社会主義では宗教を禁止し、弾圧していたと理解していたからです。「宗教はアヘンだ」というスローガンが頭に浮かびます。誰が言ったんだったかな、マルクスだっけ、レーニンだっけ。ググってみると、マルクスの『ヘーゲル法哲学批判序論』に書いてあるらしいが……。マルクス主義の本も、読み直してみたいものです。
 で、社会主義時代の宗教はどうだったのか、ガイドさんに聞いてみました。ちなみにガイドさんは60歳くらいの女性でした。その方の話では、社会主義時代でも、建前は宗教は自由ということになっていたそうです。ただし教会の数は制限され、一部は破壊されたり、倉庫や会議室として使用されたりしていたそうです。また非公式な圧力はあり、信仰をしている人が、信仰とは別の理由で出世できなかったり不利益を被ったりすることがあったそうです。もう年金の受給を受けている高齢の人たちは、信仰を隠さない人も多かったそうですが、若い人は隠れて信仰していた人もいたそうです。教会では一流の歌手が歌っていたりして(コンサートなのか賛美歌なのかよくわかりませんでした)、ガイドさんも学生時代はよく聴きに行ったそうですが、ある日教会で、担当の大学教授とばったり顔をあわせ、お互いにとっても気まずい雰囲気になったそうです。
 今回の旅で出会ったロシア人は、宗教に限らず、他の国のひとたちとちっとも変わりません。この普通の人たちが、社会主義下でどのように暮らし、どのように考え、感じていたのかが、ぽん太の新たな疑問となりました。
P4300117 エカテリーナ2世が造ったピョートル大帝像の「青銅の騎士像」を見学してからバスで移動です。通りかかった宮殿広場では、5月1日のメーデーか、5月9日の戦勝記念日(第二次大戦でナチスドイツに勝利した日)のために、パレードの予行練習が行われていました。
P4300061ヴァシリエフスキー島の東のストリェールカに行きました。ネヴァ川を挟んで右手にエルミタージュ美術館、左手にペトロパヴロフスク要塞が見えます。先日渋谷の「国立トレチャコフ美術館展」で見たアレクセイ・ボゴリューボフの「ネヴァ河でのそり遊び」(1854)に近い構図です。その絵には、冬の凍ったネヴァ川のうえで、人々がそり遊びをしている姿でした。
 左手のペトロパヴロフスク要塞は、ピョートル大帝が1703年に築いたもので、まさにここからサンクトペテルブルクの歴史が始まったのです。しかし実際にはここは要塞としては使われず、監獄として利用されました。最初の囚人は、なんとピョートル大帝自身の息子アレクセイです。ピョートル大帝は、最初エウドキアという女性と結婚し、3人の子供をもうけましたが、アレクセイだけが成長しました。ピョートル大帝は、エカテリーナ1世と再婚したのですが、当時ギリシア正教では離婚は認められていませんでした。例外のひとつが、妻が自らの意志で修道女となった場合だったので、ピョートル大帝は(もちろん無理矢理に)エウドキアを修道院に入れてしまいました。保守的なアレクセイの周囲には反対派が集結したため、ピョートル大帝はアレクセイの皇位継承権を奪って死刑を宣告し、ペトロパヴロフスク要塞に監禁しましたが、彼はまもなくここで獄死しました。そのほかドストエフスキーや、『何をなすべきか』などで有名なチェルヌイシェフスキーもここに監禁されていたことがあるそうです。
P4300122 祭日のためか、風光明媚なストリエールカでは、たくさんの新婚カップルが記念写真を撮っていました。友達を連れてリムジンでやって来て、記念写真を撮るというのがロシア式のようです。
 最後にニコライ聖堂(地図)でミサを見学しました。ロシア正教では教会内の楽器は禁止されており、歌だけによるコーラスが司祭さんの言葉の間あいだに入るのですが、その雰囲気がすばらしかったです。

2009/05/07

【ロシア旅行(2)】成田〜サンクトペテルブルク、アレクサンドル・ネフスキー修道院

 1日目。成田からアエロフロートで出発。アエロフロートというとボロくてサービスが悪い印象があり、「パイロットは軍人なので操縦は乱暴だが技術はすごい」とか「飛行機の最後尾に機関銃の台座があり、戦争になると軍用機として使われる」とか様々な都市伝説がありましたが、あにはからんや、全席にモニター付きで、キャビンアテンダントのサービスもとてもよかったです。ただしアルコールは有料で、ワインのミニボトルが3ユーロあるいは4ドルです。
 モスクワのトランジットでは、意外に気温が高くて生あったかいくらいでびっくり。サンクト・ペテルブルクに着くと、少し肌寒かったです。
P5010070 泊まったホテルはサンクトペテルブルクにあるのに名前は「モスクワ・ホテル」。向かい側がアレクサンドル・ネフスキー修道院です。手前にあるお墓には、ドストエフスキー、チャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフなどが眠っているそうで、ぜひお参りしたかったのですが、残念ながら行く機会はありませんでした。
 アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)といえば、エイゼンシュタインの映画がありましたよね。こんど観てみたいと思います。中世ロシアの英雄だそうで、サンクトペテルブルクのやや南にあるノヴゴロド公でしたが、1240年、北方から侵入して来たスウェーデン軍を、ネヴァ川の戦いで打ち負かしたそうです。このころロシアはルーシと呼ばれ、いくつかの公国から成り立っていましたが、南からはモンゴル帝国の進攻に悩まされていました。そして13世紀前半から15世紀後半まで約250年にわたってモンゴル帝国の支配を受けるのですが、これがいわゆる「タタールのくびき」と呼ばれる時代です。

2009/05/06

【ロシア旅行(1)】まずは日程のご案内

P5040214 ぽん太とにゃん子は、ゴールデンウィークを利用して、ロシア旅行に行って来ました。ロシアは二人とも初めてです。「ロシアは暗くて怖いから行きたくない」と嫌がっていたにゃん子ですが、行ってみてだいぶ印象が良くなったようです。かくいうぽん太も、社会主義時代のイメージが残っていたので、その変貌ぶりにはびっくりいたしました。
 さて、これまで海外旅行に関するブログは、地理、宗教などテーマごとにまとめて書いていたのですが、そうすると次第に面倒になり、結局途中で放棄してしまうことが多かったので、今回から日程に従って書いていくことにします。(少数の)読者の方々には冗長で退屈かもしれませんが、ぽん太自身の備忘録も兼ねているので悪しからず。
 今回利用した旅行会社はユーラシア旅行社さんです。参加したツアーは「ロシア二大帝都と黄金の環スズダリを訪ねる 8日間」です。ユーラシア旅行社を利用したのは初めてですが、いたれりつくせりで行き届いていて、とても良かったです。中高年の一人参加も多く、とても楽しかったです。
 まずは日程のご案内です。

【1日目】成田からアエロフロートで出発。モスクワで乗り継いでサンクトペテルブルクまで行きます。(サンクトペテルブルク)
【2日目】サンクト・ペテルブルク観光です。「エカテリーナ宮殿」、「聖イサク寺院」、「ニコライ聖堂」など。(サンクトペテルブルク泊)
【3日目】サンクトペテルブルク観光です。「ペトロドヴォレツの夏の宮殿」、「血の上の救世主協会」、「エルミタージュ美術館」を見学し、夜はバレエ鑑賞です。(サンクトペテルブルク泊)
【4日目】空路モスクワへ行き、バスでセルギエフパサードに向かい「トロイツェ・セルギエフ大修道院」を見学。さらにバスでスズダリまで行きます。(スズダリ泊)
【5日目】午前中はスズダリ観光です。「木造建築博物館」、「スパソ・エフフィミエフ修道院」などを見学。午後はバスで移動して、ウラージミルの「ウスペンスキー修道院」を見学したのち、モスクワに戻ります。(モスクワ泊)。
【6日目】モスクワ観光です。「クレムリン」、「赤の広場」、「聖ワシリー寺院」などを訪れます。(モスクワ泊)
【7日目】「トレチャコフ美術館」、「トルストイの家博物館」を見学し、夜、空路日本へ。(機中泊)
【8日目】午前中に成田空港到着。おつかれさまでした。家に着くまでが遠足です。気をつけて帰りましょう。

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