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2009年6月の13件の記事

2009/06/28

【歌舞伎】仁左衛門の「女殺油地獄」は一生の思い出です・2009年6月歌舞伎座昼の部

 歌舞伎座6月昼の部は、「歌舞伎さよなら公演」という名に恥じない充実したものでしたが、なかでも仁左衛門の「女殺油地獄」が極めつけでした。以前から仁左衛門は、与兵衛はもう演じないと言っていたのですが、今回「一世一代」と銘打っての舞台となりました。で、「一世一代」ってなんだ?普通は一生に一度という意味だけど、与兵衛はこれまで何度も演じているし。「一世一代」をgoo辞書で引くと、「(2)歌舞伎俳優や能役者などが引退前に仕納めとして得意の芸を演じること」という意味が出てますが、まさか違いますよね。すぐに引退するわけではないが、与兵衛はもう仕納めだよ、という意味でしょうか……。よくわかりません。
 実はぽん太は2年前に、仁左衛門の与兵衛を観るという幸運にあずかりました。大阪松竹座で海老蔵が与兵衛を演じていたのですが、怪我で途中降板となり、仁左衛門が代役を務めることになったと聞いて、あわてて切符を取って大阪まで観に行ったのです。かなり後ろの席でしたが、これが仁左衛門の与兵衛の見納めかと思って、必死に目に焼き付けました。今回もう一度仁左衛門の与兵衛を見ることができ、うれしい限りです。しかも今度は前の方の席だったので、細かい表情までよく見えました。
 ぽん太は仁左衛門のいいところは、カッコいいとか色気があるとか足がきれいというのを除けば、細かい心理の変化を的確に表現する点だと思っています。こんかいの「油地獄」でも、与兵衛の刻一刻と変わる心の動きが表情や仕草で見事に表現されていました。「豊嶋屋油店の場」で与兵衛がお吉に二百匁を貸してほしいと頼むと、お吉は、確かに引き出しに五百匁は入っているけど、夫の留守中に貸すわけにはいかないと諭します。お吉が引き出しを指差したところで、与兵衛はつられて引き出しに一瞬目をやりますが、「ここに金がはいっているのか」とか「奪ってやろう」などという表情はまったく浮かべずに、次の瞬間お吉の顔に視線を戻し、お吉の話に聞き入ります。お金のありかを知ることは、最後にお金を奪って逃げるためには必要な情報なのですが、仁左衛門の注意はお吉の話しに向けられており、それに対して「不義になって、貸して下され」という言葉を返します。金のありかは認知するものの意識されておらず、意識はお吉をどうやって説得して金を貸させるかに向いているわけで、極めて心理的です。このあと、お吉を殺して金を奪うまでの心理描写の的確さは言うまでもありません。ラストシーンで与兵衛は犬の鳴き声におびえますが、これは現実に犬に吠えかかられているわけではなく、与兵衛の心象風景であると思われます。殺人を犯してしまったことで、いつもは何気なく聞いている犬の鳴き声が、自分に襲いかかってくるかのように感じられます。こうしてみると、「女殺油地獄」自体が、極めて近代的な心理劇であることがわかります。
 近代的に見えるのも、それもそのはずです。この作品は近松門左衛門の原作で1721年(享保6年)に大坂竹本座で初演されましたが、その後再演されることも歌舞伎化されることもなく、長く埋もれていました。確かに油まみれの殺人シーンが、文楽の初演時にあったかどうかぽん太は知りませんが、人形でやってもおもしろくないでしょうね。さて、明治時代になって坪内逍遥がこの作品を発掘し、1909年(明治42年)に歌舞伎化されて大阪朝日座で上演されました。ですから現行の「油地獄」はそもそも近代演劇なわけです。歌舞伎化されたときに初演時の資料がどの程度あり、それをどの程度取り入れたのか、また明治の歌舞伎化以後、どのような紆余曲折を経て現在の演出が作られたのか、ぽん太はまったくわかりません。しかし1910年(明治43年)の本郷座の台本を元にしたという『名作歌舞伎全集 第1巻 近松門左衛門集 1』(東京創元新社、1969年)を見ると、ラストの犬の声におびえる部分のト書きはありませんから、けっこう新しい工夫が多いのかもしれません。明治時代の歌舞伎化以後、約100年でこれだけの演出を生み出した創造力は、驚くばかりです。
 ところで「女殺油地獄」を観てて、ぽん太はお金の単位がまったくわかりませんでした。ぐぐってみたらこちらのブログに詳しく書かれており(少し計算が違う気がしますが)、もとになっているのはこちらのクリナップのサイトのようです。それによれば、銀1貫=銀1000匁、1両=銀60匁=銭4000文だそうです。1両=10万円として現在の貨幣価値に換算すると、与兵衛が借りた200匁は3.3両で33万円。これを今日中に返さないと1貫匁=165万円の借金にふくれあがります。両親が与兵衛のために持ってきたのは銭800で2万円、油屋から奪ったお金が上銀580匁で96万円です。これだけのために人を殺したのですね。
 さて、一世一代の公演だけあって、まわりの役者もベテランぞろいですばらしかったです。孝太郎のお吉もよかったですが、ちょっとしっかりしすぎていて色気がなく、与兵衛とお吉のちとアヤシい関係が感じられませんでした。秀太郎も小菊ではいつもながら可愛らしい女性を演じていましたが、母おさわでは一転して熱演。こんなに迫真の演技をする人だとは知りませんでした。
 以前に獅童の与兵衛で観たときは、与兵衛が小憎らしい若者に見え、甘やかしている両親がダメに見えたのですが、仁左衛門の与兵衛はカッコいいしどこか憎めないところがあるので、両親の愛情に共感することができました。

 最初の演目は「草摺」。以前のブログで書いた「曽我物語」が世界になっております。若々しい松緑の曽我五郎と、落ち着きと風格のある魁春の舞鶴のコンビが絶妙のでした。
 「角力場」は、幸四郎の濡髪長五郎と吉右衛門の放駒長吉。猫駅長の対面のように二人が「フ〜ッ!」と言い始めないか心配でしたが、そんなことはなく、とてもすばらしい舞台でした。幸四郎はこのような、やたらと大きい怪異な役は迫力があります!一方で吉右衛門は明るさと素直さが生きていました。染五郎のつっころばしも、だいぶなよなよした柔らかさが出て来ましたが、まだまだ色気と可愛らしさが足りません。
 「蝶の道行」は梅玉と福助の熱演でしたが、日頃の披露と満腹から意識消失してしまいました。


歌舞伎座さよなら公演
六月大歌舞伎
平成21年6月 歌舞伎座・昼の部

一、正札附根元草摺(しょうふだつきこんげんくさずり)
           曽我五郎     松 緑
             舞鶴     魁 春

二、双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)
  角力場
          濡髪長五郎     幸四郎
         山崎屋与五郎     染五郎
         平岡郷左衛門     由次郎
         三原有右衛門     桂 三
          仲居おまつ     宗之助
          仲居おすず     歌 江
          仲居おたけ     吉之丞
           茶亭金平     錦 吾
           藤屋吾妻     芝 雀
           放駒長吉     吉右衛門

三、蝶の道行(ちょうのみちゆき)
             助国     梅 玉
             小槇     福 助

四、女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)
  片岡仁左衛門 一世一代にて相勤め申し候

         河内屋与兵衛     仁左衛門
          豊嶋屋お吉     孝太郎
         山本森右衛門     彌十郎
            娘お光     千之助
           小栗八弥     新 悟
           妹おかち     梅 枝
         刷毛の弥五郎     市 蔵
         皆朱の善兵衛     右之助
           兄太兵衛     友右衛門
           父徳兵衛     歌 六
      芸者小菊/母おさわ     秀太郎
        豊嶋屋七左衛門     梅 玉

2009/06/26

【温泉】情緒と妖しさを併せ持つ那須・北温泉旅館(★★★★★)(付:つげ義春)

P6030111 前回北温泉旅館に泊まったのはかれこれ20年ほど前だったでしょうか、雪の積もった坂道を、足を滑らせながら降りて行った記憶があります。そのときの印象に比べ、20年たってちっとも新しくなっていないというか、20年分さらに古びているのがうれしいです。
 北温泉は、その名の通り、那須温泉郷の一番北の端にあります。こちらが公式サイトです。
P6030105 古い木造建築が立ち並ぶ様子からは、いにしえの湯治のにぎわいが感じられ、隠れ里に紛れ込んだような気になります。
P6030104 つげ義春のイラストにも描かれている名物の「温泉プール」は、いまも健在でした。
P6030107 玄関でネコがお出迎え。薄暗いのでピンぼけです。
P6040134 玄関を入ると、古くて雑然としています。ストーブで干しているゴム手袋がいい味を出しています。
P6040136 帳場も江戸時代の雰囲気で、まるでタイムスリップしたかのようです。
P6030108 建物は、昭和時代・明治時代・江戸安政期の三種類ありますが、古い建物が好きなぽん太とにゃん子は、迷わず江戸安政期を選びました。値段も一番安いです。なるほど江戸末期の温泉宿とはこういうものだったのかと、感心することしきりです。
P6030129 夜も更けて寝る態勢入っていると、なにやら戸の外側でにゃ〜にゃ〜と呼ぶ声が。戸を開けるとネコのご訪問です。玄関にいたのとは別のネコようです。しばらくくつろいで帰って行きました。ぽん太とにゃん子はすっかり癒されました。
P6040140 さて温泉ですが、冒頭の写真が名物の天狗の湯。混浴です。お湯は無色透明で、湯量がとても豊富。もちろん源泉掛け流しです。並んで打たせ湯と家族風呂もあrます。そしてこちらの写真は、男性用の露天風呂(河原の湯)です。背後には砂防堰堤があります。砂防堰堤というと、環境破壊の構造物の代表と思っていたのですが、温泉成分のせいか肌色に変色しており、キリコの世界のようなシュールな寂寥感があります。堰堤に叙情を感じたのは、生まれて初めてです。
P6040147 こちらは温水プールの横にある浴室(相の湯)です。明治時代の物だそうで、木造の浴槽が風情があります。源泉は何種類かあるようで、天狗の湯は無色透明でしたが、どれだか忘れましたが鉄分を感じるものもありました。湯量はとにかく豊富で、もちろんすべて源泉掛け流しです。
P6030123 こちらは夕食です。けっして豪華ではありませんが、湯治場風の雰囲気にあっています。
P6040131 こちらがお食事処。古い天井の高い建物で、明治チックな写真やオブジェがいっぱいあります。
P6040133 こちらが朝食。おいしゅうございました。
P6030116 天狗の湯のさらに奥に、鬼子母神が祀られています。建物は新しく作り替えられてますが……
P6030118 古い彫刻が保存してありました。極彩色に塗られており、日光東照宮のようです。
 江戸時代の湯治の雰囲気を現代に伝え、素朴でひなびた雰囲気、格安のお値段、豊富なお湯とバラエティーに富んだ浴室など、ぽん太の評価は文句無しの5つ星です。

 先ほどちらと触れましたが、北温泉は、つげ義春が好んだことでも有名です。ぽん太が知る限り、つげ義春が描いた北温泉のイラストは4枚あります。3枚は白黒のペン画で、『桃源行』という題のイラスト集のなかに入っています(ちくま文庫の『苦節十年記/旅籠の思い出―つげ義春コレクション』が値段も手頃で入手しやすいです)。『ポエム』(すばる書房)に1976年(昭和51年)9月号から半年間連載されたもので、詩人・正津勉のエッセイがついていたそうです。この年に二人は取材のために北関東・東北の温泉を巡りました。この年には「夜が摑む」や「夢日記」を発表しており、つげ義春は翌年あたりから「ノイローゼ」で苦しむようになるのですが、「桃原行」にはその予兆が感じられ、夜の温水プールに小さな人影があるイラストなどは寂しさを超えた恐怖感を感じます。『つげ義春の温泉』(カタログハウス、2003年)には、さらにこのときつげ義春が写した写真が2枚掲載されています。1枚は天狗の湯の隣にあるうたせゆです。もう1枚にも浴室が写っておりますが、この写真は胸をはだけた女性が描かれたイラストの元になっているようです。ところがこの浴室が、どこだかわかりません。湯口に特徴があるのですが、現在は残っていないようです。ぽん太の推測では、上に写真をあげた相の湯と呼ばれる浴室に、男女を分ける真ん中の壁ができる以前の写真ではないかと思うのですが、いかがでしょう?
 北温泉のイラストはもう1枚、温水プールをカラーで描いたものがあるはずなのですが、手元の資料を探したのですが見つかりませんでした。こちらのサイトで見ることができます。初出をご存知の方は教えて下さい。


2009/06/24

【猫駅長】「ばす」に駅長の気概を感じた・会津鉄道芦ノ牧温泉駅

P6180129 安達太良山から無事下山したぽん太とにゃん子は、このまままっすぐ帰るにはちと早いな〜、どこか寄るところはないかな〜と考えているうちにふと思い出し、芦ノ牧温泉駅の猫駅長に会いに行くことにしました。
 まず廣木酒造に電話して飛露喜が買えるか聞いてみたところ、ないとのことなので残念ながら断念。そこで会津酒楽館 (有)渡辺宗太商店で地酒をゲット。その後、国道118号線を南に向かいました。この道が先日の記事で触れた会津西街道ですね。ほどなく芦ノ牧温泉駅に到着。
P6180108 こちらがその芦ノ牧温泉駅です。をを、観光バスが2台乗り付けています。大混雑かと思いきや、ひとけがありません。到着待ちのようです。で、駅舎の中に入ると、いましたいました、冒頭の写真のごとく駅長さんはご休憩中です。意外と老ニャンで、名前は「ばす」ちゃん。トトロの猫バスから取ったそうです。
P6180100 こちらが駅長室。駅長の公式ブログはこちら。またこちらには動画もありますが、寝てる動画のでほとんど動きません。岡山県吉ケ原駅の猫駅長「コトラ」との対面で、駅長同士が「シャ〜」と威嚇し始めたことにびっくりしているおねえさんの写真(こちらのブログにあり)で有名な、美人女性駅員さんにも会えます。
P6180109 ばす駅長が、単に駅で飼っているマスコット猫だと思ったら大間違い。電車が到着すると突然起きだして、改札口でお客さんのお出迎えです。
P6180133 このキリッとした威厳のある表情は、さっきまでの居眠りしていた姿からは想像できません。いよう、ばす駅長!あんたはホンマもんの駅長だす。かっこええぞ!

2009/06/23

【登山】花でいっぱい・梅雨の安達太良山

P6170078くろがね小屋に泊まったついでに、安達太良山に登って来ました。ぽん太は3度目です。

【山名】安達太良山(1699.6m)
【山域】福島県
【日程】2009年6月17日〜18日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(6/17)曇りのち晴れ(6/18)雨
【コース】(6/17)奥岳(あだたら高原スキー場駐車場)(12:56)…勢至平…くろがね小屋(14:45)(泊)
(6/18)くろかね小屋(7:29)…峰ノ辻…安達太良山頂(8:23)…峰ノ辻…勢至平…奥岳(10:52)
ルート図と標高グラフ
【見た花】オノエラン、イソツツジ、タニウツギ、ウラジロヨウラク、マイヅルソウ、ツマトリソウ、レンゲツツジ、サラサドウダン、ベニサラサドウダン、イワカガミ、アカモノ、すみれの一種、ミネズオウ
【マイカー登山情報】奥岳(あだたら高原スキー場)に広い駐車場があります。

P6170036 こちらが宿泊したくろがね小屋です。 梅雨の時期で天気が心配でしたが、登り出しは今にも雨粒が落ちてきそうな曇りでしたが、次第に天候が回復してきて、くろがね小屋に付いた頃には青空となりました。温泉付きの山小屋・くろがね小屋については、 前回の記事を参照して下さい。
P6170048 天気がよかったので、くろがね小屋に荷物を置き、峰の辻まで往復してきました(山頂まで往復する時間はありませんでした)。写真は峰の辻から見た安達太良山山頂です。「乳首山」という別名がうなづけます。
 翌朝の天気は曇り。稜線付近にはガスがかかって見えません。せっかくなので山頂まで行くことにしましたが、展望はまったくなし。昨日散歩しといてよかったです。下山を始めた頃から雨が降り出しました。
P6170041 この時期の安達太良山は、とにかく花が咲き乱れていました。冒頭の写真はオノエラン。白い清楚な花です。この写真はイソツツジです。北海道ではよく出会う花ですが、安達太良山が南限だということなので、写真を載せておきます。勢至平のあたりは、レンゲツツジやサラサドウダン・ベニサラサドウダンが満開。ツマトリソウの群落も美しく、稜線付近はイワカガミがいっぱいでした。
P6170070 クロマメノキ(?)にこのようなものがあちこちありました。花でもないし、なんでしょう。ウイルス性の病気でしょうか?ご存知の方、教えてください。

2009/06/22

【歩かないと行けない温泉(1)】くろがね小屋@福島県安達太良山(歩行時間2時間)

P6170029 百名山も完登して登山の目標を失ったぽん太とにゃん子ですが、先日泊まった那須の三斗小屋温泉大黒屋で気をよくして、「歩かないと行けない温泉」という新たな目標を見つけました。
 もちろんこれまでも、歩かないと行けない温泉はいくつか泊まったことがあり、すでにご紹介したものでは黒部の阿曽原温泉小屋八ヶ岳の本沢温泉などがあり、紹介していないものでは白馬鑓温泉、北アルプスの高天原温泉などがあります。
 今回のぽん太とにゃん子のターゲットは安達太良山のくろがね小屋です。公式サイトはおそらくこちら。奥岳登山口から約2時間ほどで山小屋に到着。「馬車道」と呼ばれている林道を歩けば運動靴でも大丈夫ですが、登山靴で旧道を歩けば若干ショートカットできます。もちろん「山小屋」ですから登山の装備でどうぞ。
P6170054 木造の小屋は、ちょっとモダンな雰囲気です。山小屋の開業は1953年、現在の建物ができたのは1963年だそうです。
P6170033 内部は思ったより明るくきれいで、しゃれた雰囲気で、とても清潔です。
P6170056 部屋はこのような感じ。個室はありません。梅雨の時期で空いていたので、ゆったりと寝ることができましたが、紅葉シーズンの週末などは混雑するそうです。
P6170037 小屋の上部に源泉の湧出地帯があります。こちらにも昔は登山道がありましたが、現在は硫化水素が噴出しているため、立ち入り禁止となっております。ちなみにここは、ふもとの岳温泉の源泉でもあります。
 岳温泉の歴史については、こちらの岳温泉の公式サイトをどうぞ。この写真の先に古くから温泉小屋がありましたが、江戸時代には二本松藩によって歓楽温泉街として整備され、おおいににぎわったそうです(湯日(元岳)温泉)。ところが1824年(文政7年)、台風による土石流で温泉街は壊滅します。二本松藩は現在の不動平に温泉街を再建しましたが(十文字岳温泉)、戊辰戦争のおり、西に位置する幕府軍の拠点となることを恐れ、二本松藩によって焼き払われます。1870年(明治3年)には、現在の岳温泉の南西部に深堀温泉として復興されましたが、1903年(明治36年)に火災により全勝します。そして1906年(明治39年)に現在の岳温泉が造られ、現在に至るそうです。お湯は源泉から松木の湯樋管で引かれていたそうですが、現在の湯樋管の上に一部置かれている木が、その名残なのだと思います。
P6170058 さて、お目当てのお風呂ですが、ちゃんと男女別になっています。雰囲気ある木の浴室で、硫黄の香りがする白濁したお湯です。酸性でとても酸っぱいですが、肌はガサガサにならず、意外にしっとりします。もちろん源泉掛け流し。湯船は4~5人で満員くらいの大きさです。山ですからシャンプーや石けんは使えません。ちょっと熱めのお湯で、窓を開けると緑が眼前に広がり、とても気持ちよかったです。
P6170064 夕食はカレーと聞いて、山小屋だからてっきりレトルトかと思ったのですが、さにあらず、じっくりコトコト煮込んだ本格的なカレーです。この山小屋の名物だそうで、これを目当てに泊まりにくる人も多いそうです。おいしゅうございました。
P6180091 朝食は、山では貴重品のタマゴつき。小屋番のおにいさんが、自ら背負って運んで来たものだからです。おいしゅうございました。
 清潔な小屋、おいしい食事、値段も手頃なのは県営(正確には県の外郭団体の福島県観光開発公社の経営)だからだそうです。そして小屋番のおにいさんがとってもフレンドリーで、会話も楽しかったです。ホントにお世話になりました。ただし泊まろうと思った方は、くれぐれも山小屋だということを忘れずに。

2009/06/19

【バレエ】フォーゲルと上野水香の「ジゼル」東京バレエ団

 だいぶ間があいてしまいましが、東京バレエ団の「ジゼル」を観てきました。NBSの公式サイトはこちら
 今回のお目当てはやはりフォーゲル。すらりと背が高く、くったくのない表情は、よく言えば純真無垢、悪く言えば世間知らずの、いいとこのおぼっちゃまという感じです。自分の犯している罪にも気づかず、無邪気にジゼルに恋してしまったようでした。大きく美しい踊りが見事でした。上野水香は、彼女独特のキャラというか個性というか存在感があって、とっても可愛らしいジゼルでした。でも彼女の小悪魔的な雰囲気のため、第一幕でははかなさが、第二幕ではウィリの静謐さが少し欠けたように思いました。ウィリがリフトで浮遊する場面は少しやり過ぎのようで、ふわふわ漂うというよりも、ぐんにゃりして見えました。ヒラリオンは無骨な森番と相場が決まっているのかと思ってましたが、後藤晴雄が踊っていたのでびっくり。とってもオシャレな森番でした。田中結子のミルタもよかったですが、もう少し冷徹さがあるとよかったです。また2幕のコール・ド・バレエはとてもきれいでした。
 先日のKバレエの「ジゼル」を観たあとでは、東京バレエ団の「ジゼル」がドラマチックな盛り上がりには欠ける気がするのは仕方ないかもしれません。また第一幕の群舞は、視覚効果を狙った派手はでしいものではなく、けっこう地味で古風な感じがします。その割にセットはやけに写実的で、ちょっとアンバランスな気がしました。もっと抽象的なセットの方がいいのでは。
 指揮はKバレエでおなじみの井田勝大。Kバレエのジゼルに続いてでした。
 会場に新国立オペラの「チェネレントラ」を振った指揮者のデイヴィッド・サイラスが観に来てました。


東京バレエ団創立45周年記念公演V
東京バレエ団「ジゼル」 

ジゼル:上野水香
アルブレヒト:フリーデマン・フォーゲル
ヒラリオン:後藤晴雄

【第1幕】
バチルド姫:坂井直子
公爵:木村和夫
ウィルフリード:野辺誠治
ジゼルの母:橘静子
ベサントの踊り(パ・ド・ユイット):
高村順子-宮本祐宜、乾友子-長瀬直義
佐伯知香-松下裕次、吉川留衣-横内国弘
ジゼルの友人(パ・ド・シス):
西村真由美、高木綾、奈良春夏、田中結子、矢島まい、渡辺理恵
【第2幕】
ミルタ:田中結子
ドゥ・ウィリ:西村真由美、吉川留衣

指揮:井田勝大
演奏:東京ニューシティ管弦楽団

2009/06/16

【バレエ】「第九」はちょっとどうかな〜・Kバレエ「ベートーヴェン 第九 & シンフォニー・イン・C」

 最初の演目はバランシンの「シンフォニー・イン・C」。バランシンの、古典的なコスチュームで踊られる、ストーリーのない純粋バレエは、すでに「セレナーデ」で体験済みなので驚きません。てっきりこのバレエも、スクール・オブ・アメリカン・バレエのために振り付けられたのかとおもったら、公演プログラムによれば、バランシンが1947年にパリ・オペラ座の客員バレエ・マスターとして招かれたときに初演されたものだとのこと。曲はビゼーの「交響曲ハ長調」。作曲されたのは1855年で、現代ではそれなりに知られた曲ですが、実は演奏されることなく長く埋もれていて1935年2月にようやく初演されたということは、ぽん太は初めて知りました。ですからバランシンの時代には、この曲は古くて新しい曲だったわけですね。
 幕が開いた瞬間、青い背景の前で白いチュチュをきたダンサーたちが光り輝いて見えて、とてもきれいでした。振付けもリズミカルでスピーディーで、変化に富んでいました。SHOKOの踊りの大きさと存在感はさすがでした。長身の宮尾俊太郎が位負けせずに奮闘。浅田・清水ペアもよかったです。今回の目玉の浅田良和は荒井祐子と登場。ジャンプ力もあり、動きも軽々としており、柔らかさ、とくに両手の動きの美しさがすばらしかったです。あと少し背が伸びれば……。今後の活躍が期待されます。松岡・遅沢ペアは貫禄を見せつけました。どのダンサーも満面の笑みを浮かべ、キラキラと輝きながらのびのびと踊っておりました。感動しました。

 次の演目は、熊川哲也の振付けによる「ベートーヴェン 第九」。赤坂サカスのこけら落としには行かなかったので、ぽん太は初見でした。会場全体がスタンディング・オベーションで興奮のるつぼと化し、熱狂的な拍手がいつまでも鳴り止みませんでした……が、実はぽん太はあまり気に入りませんでした。
 「第九」に踊りを付ける、という発想にそもそも問題があったのではないでしょうか?というのは、たとえばビゼーの「交響曲ハ長調」はビゼー17歳の時の作品で、音楽としては未完成な部分があり、その隙間をダンスが補完するということが可能だったわけですが、「第九」はベートーヴェンが渾身の力を振り絞って創った、それ自体が完成された傑作であり、しかも交響曲に合唱を取り入れるという当時としてはアクロバティックな技巧をこらした複雑な作品だったわけです。それにさらにダンスを付け加えて、原曲以上の感動を造り上げるというのは、非常に困難な課題に思えるのです。しかもベートーヴェンの音楽はメロディックではなく、建築のように理論的に構築さていますから、なおさらダンスには向かないような気がするのです。
 当日、第一楽章から第三楽章までは、おそらく踊りやすくするためだと思いますが、早めの速度でインテンポで演奏されていまました。また何カ所か省略されている部分もありました。この時点で、ベートヴェンの「第九」の演奏としてはかなり劣化しているわけですが、ダンスが加わることでその劣化を補って余りある効果が生み出されていたかというと、ちと疑問です。振付けも、やたらと舞台上を走り回ったり、両手を振ったりするのが目立ち、身体の動きのおもしろさに欠け、雑然とした印象を受けました。ただ今回は席がかなり前だったので、少し離れて全体を見わたすと、また印象が違ったのかもしれませんが……。モジモジ君のようなコスチュームも美しいとは思いませんでした。第四楽章は、一転して遅めの重々しいテンポでスタート。嵐のようなファンファーレのあと、チェロとコントラバスがレシタティーボを奏で、第一楽章から第三楽章までのメロディーを振り返るのですが、ここは音楽としては聞かせどころなので、いったいどのような振付けがされるのか期待していたのですが、ダンスはまったくなしで拍子抜けしました。そのかわりに照明を変えることでこれまでの楽章を振り返っていましたが、これはぽん太には中途半端で俗っぽく感じられました。それならいっそのこと幕を閉めたまま音楽だけ聞かせたらいいのに。「喜びの歌」の動機がレシタティーボに現れ、次いでチェロとコントラバスによって呈示されるところもダンスがなし。二回目の繰り返しからダンスが加わりましたが、このすばらしい旋律が最初に現れる感動の瞬間を、ダンスで表現して欲しかったです。そして合唱団がヘンテコな衣装で登場。なんだこりゃ?アラブのペンキ屋か?。合唱団にこのような衣装を選んだ理由はなんなのでしょうか?ただなんとなくでは、ぽん太は納得いたしません。そのように考えて行くと、火・海・生命・星というテーマがそもそも大きすぎる気がします。地球の歴史や人類に関して、熊川がこのバレエで伝えたかった、なにか新しいメッセージがあったのでしょうか?このあたりで、例えばノイマイヤーの「人魚姫」のメッセージ性に比べて、一歩劣るように感じられてしまいます。また、行進曲の歌にあわせてダンサーが行進したり、フィナーレをピルエットで終えるのは、「まんまやねん」と思いました。
 もちろん熊川哲也のパフォーマンスはすばらしかったです。ジャンプやピルエットといったテクニックは言うまでもなく、立ってポーズをとっているだけ観客を魅了する表現力・存在感は、卓越していると思いました。先日の「ジゼル」がとても感動的だったのも、クマテツのこの表現力があったからだと、改めて感じました。

 ベジャールも第九に振付けをしたそうですが、機会があったら見てみたいです。
 オマケ:「第九」の第一楽章第二主題の4音目(81小節のフルート・オーボエの第2音)はニ音で、ベーレンライター版や新ブライトコプフ版に従った演奏でした。


Tetsuya Kumakawa K-BALLET COMPANY
ベートーヴェン 第九 & シンフォニー・イン・C
Beethoven Symphony No.9 & Symphony in C
2009年6月14日(日) 14:00 Bunkamuraオーチャードホール

第一部 シンフォニー・イン・C Symphony in C
【第一楽章 1st Movement】 ショウコ SHOKO /宮尾俊太郎 Shuntaro Miyao
白石あゆ美 Ayumi Shiraishi / 中村春奈 Haruna Nakamura / 伊坂文月 Fuzuki Isaka / 西野隼人 Hayato Nishino
【第二楽章 2nd Movement】 浅川紫織 Shiori Asakawa / 清水健太 Kenta Shimizu
樋口ゆり Yuri Higuchi / 浅野真由香 Mayuka Asano / ビャンバ・バットボルト Byambaa Batold / ニコライ・ヴィユウジャーニン Nikolay Vyuzhanin
【第三楽章 3rd Movement】 荒井祐子 Yuko Arai / 浅田良和 Yoshikazu Asada
副智美 Satomi Soi / 中島郁美 Ikumi Nakajima / 奥山真之介 Shinnosuke Okuyama / 内村和真 Kazuma Uchimura
【第四楽章 4th Movement】 松岡梨絵 Rie Matsuoka / 遅沢佑介 Yusuke Osozawa
神戸里奈 Rina Kambe / 渡部萌子 Moeko Watanabe / 荒井英之 Hideyuki Arai / 小山憲 Ken Koyama
Artists of K-BALLET COMPANY
●振付 Choreography ジョージ・バランシン George Balanchine & cThe School of American Ballet
●音楽 Music ジョルジュ・ビゼー Georges Bizet (「交響曲ハ長調」 Symphony in C Major)
●振付指導 Staging コリーン・ニアリー Colleen Neary
イヴ・ローソン Eve Lawson

第二部 ベートーヴェン 第九 Beethoven Symphony No.9
【第一楽章 1st Movement】 大地の叫び Cry of the Earth
清水健太 Kenta Shimizu
橋本直樹 Naoki Hashimoto / ビャンバ・バットボルト Byambaa Batbold
伊坂文月 Fuzuki Isaka / 荒井英之 Hideyuki Arai
【第二楽章 2nd Movement】 海からの創世 The Creation of World from Ocean
荒井祐子 Yuko Arai / 松岡梨絵 Rie Matsuoka / 東野泰子 Yasuko Higashino
神戸里奈 Rina Kambe / 副智美 Satomi Soi / 白石あゆ美 Ayumi Shiraishi / 渡辺萌子 Moeko Watanabe
【第三楽章 3rd Movement】 生命の誕生 The Birth of Life
浅川紫織 Shiori Asakawa / 宮尾俊太郎 Shuntaro Miyao
樋口ゆり Yuri Higuchi / 西野隼人 Hayato Nishino
木島彩矢花 Sayaka Kijima / ニコライ・ヴィユジャーニン Nikolay Vyuzhanin
【第四楽章 4th Movement】 母なる星 The Mother Planet
熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
荒井祐子 Yuko Arai / 清水健太 Kenta Shimizu
東野泰子 Yasuko Higashino / ビャンバ・バットボルト Byambaa Batbold
遅沢佑介 Yusuke Osozawa / 宮尾俊太郎 Shuntaro Miyao
佐藤美枝子 Mieko Satoi 笛田博昭 Hiroaki Fueda
谷口むつみ Mutsumi Taniguchi 折江忠道 Tadamichi Orie
合唱 Chorus 藤原歌劇団合唱部 The Fujiwara Opera Chorus Group
Artists of K-BALLET COMPANY
K-BALLET SCHOOL
●演出・振付 Production / Coreography 熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
●音楽 Music ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン Ludwig van Beethoven
●舞台美術・衣裳 Set and Costume Design ヨランダ・ソナベンド Yolanda Sonnabend
●照明 Lighting Design 足立恒 Hisashi Adachi

●芸術監督 Artistic Director 熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
●指揮 Conductor 福田一雄 Kazuo Fukuda ●演奏 シアターオーケストラトーキョー Theater Orchestra Tokyo

2009/06/15

【雑学】『曽我物語』をみちくさする(河津掛け、「寿曽我対面」)

 先月の歌舞伎座の「おしどり」を観たあと、原作となる「曽我物語」の原文を参照してみましたが、そのとき読んだweb上のテキストは読みにくかったので、あらためて『曾我物語』 (新編 日本古典文学全集53、小学館、2002年)を読んでみました。現代語訳はもちろん、各巻の要約、丁寧な注釈にさまざまな地図や系図まで入って、とても読みやすいです。ただし「曽我物語」にはさまざまな版があるようで、細かい部分はweb版とはだいぶ異なっております。

 「曽我物語」は江戸時代にはとても人気があり、誰でも知っている物語でした。それをもとに多くの歌舞伎などの芸能が創られ、それらは「曽我物」と呼ばれました。歌舞伎の曽我物には、他にも「寿曽我対面」や「助六由縁江戸桜」、「矢の根」、「外郎売」などがあります。

 「曽我物語」のあらすじは、例えばこちらに出ておりますので、ぽん太は繰り返しません。例によってぽん太が面白かった部分だけつまみ食いをしたいと思います。

 

【曽我兄弟と工藤祐経、そもそも悪いのはどっち?】まず興味深いのは、仇討ちに至る遺恨のそもそもの発端です。「曽我物語」は、曽我十郎祐成(すけなり)と五郎時宗の兄弟が、父・河津三郎祐通(すけみち)の敵である工藤祐経(すけつね)を討つという話ですが、ではなぜ工藤祐経が河津三郎祐通を殺したかというと、祐通の父親・伊東祐親(すけちか)、工藤祐経とその父・伊東祐継(すけつぐ)をだまして領地を奪ったからです。つまりそもそもは、曽我十郎・五郎の祖父が、工藤祐経が継ぐはずだった領地を横領したのです。ということは、悪いのは曽我兄弟(の祖父)の方?それとも当時は領地をだまし取るくらいは当たり前だったのでしょうか?

 

【河津三郎は河津掛けをしたのか?】前回も触れましたが、「おしどり」の原作となっている河津三郎祐通(すけみち)と俣野五郎景久(かげひさ)が相撲を取る話は、巻第一に書いてあります。河津三郎は、相撲の決まり手「河津掛け」を編み出した人として有名です。こちらの伊東観光協会のサイトを見ると、河津三郎は「相撲中興の祖」とされ、伊東の東林寺には、昭和34年に作られた日本相撲協会の石碑(相撲塚)もあるそうです。

 さて、河津三郎は俣野景久に2番続けて勝つのですが、最初の取り口はこうでした。

……河津、俣野が上頸を左右の手にて、てうど打つ。俣野は打たれて左右の手をもつて河津が上頸を打たんとするところに、河津、掻い違へてつつと入る。俣野が右の前ほろを、片手をもつて取るままに、わざと人の上に押し懸けてぞ打ったりける。

 「前ほろ」というのは、ふんどしの前の縦の部分とのこと。はたしてこれは河津掛けだったのでしょうか?「わざと人の上に乗っかるようにして放り投げた」というところがそれっぽい気がしますが、足を絡めたかどうかかいてないので、よくわかりません。2番目は、右手でふんどしの後ろの部分をつかんで高く持ち上げ、しばらくそのままにしてから、くるくると2回まわして投げ捨てたそうなので、これはどうみても河津掛けではありません。

 実は河津三郎はこれらの試合以外で「河津掛け」を披露したのではないか、とも考えられますが、「曽我物語」によれば、河津三郎は、自分の力を自慢することもなく、軽薄に話すこともなく、遊びもせず、考え方のしっかりした慎み深い人間だったので、相撲をとっている人たちを見ても「無作法な振る舞いをするものだ」といった表情で見ていたので、誰も「一番取ってみては」と勧める人もいなかったそうです。また父親の伊東祐親は河津三郎に対して、「おまえが相撲を取るなどと聞いたことがない」と言っています。この記述からすると、これ以前に相撲で画期的な新技を披露した人には思えません。またこの試合の帰り道に河津三郎は射殺されてしまうのですから、この後に河津掛けを編み出すこともできません。やはり最初の取り組みの決まり手が河津掛けだったのでしょうか?巻第四では、ある僧が思い出語りに、むかし河津三郎が怪力の俣野景久を片手で2番続けて放り投げ、相撲の名誉・力持と名を挙げた、と言います。してみると河津三郎は、この2番だけで相撲の名手として名を挙げたようです。しかし結局のところ、「河津三郎が河津掛けを編み出した」という物語がどのようにして生まれ、人々に広まって行ったのかは、よくわかりません。

 

【「寿曽我対面」の原作は?】歌舞伎で曽我物の代表といえば「寿曽我対面」です。あらすじなどはこちらをどうぞ。この「対面」に該当する出来事は、「曽我物語」のなかにあるのでしょうか?どうも、ぴったり一致するような出来事はなかったように思えます。ただ曽我兄弟は工藤祐経を付けねらい、何度も顔をあわせますから、似たような場面はあるようです。

 まず最初は巻第四で、まだ11歳で箱王と呼ばれていた曽我五郎が、工藤祐経に初めて出会う場面です。箱王は箱根権現の稚児をしておりましたが、そこに工藤祐経が、頼朝の参詣のお供でやってきます。箱王は祐経に忍び寄ろうとしますが、その面影から河津三郎の息子であることを見抜かれ、いいようにあしらわれてしまいます。祐経が河津三郎の面影を見いだすという点が、「対面」と似ているように思えます。

 次は大磯の宿でニアミスする場面。和田左衛門尉義盛と朝比奈三郎義秀が、曽我十郎と、すでに十郎と契っていた遊女虎とを呼んで酒宴を開いていると、おりよく五郎が現れます。そこで兄弟は、たったいま工藤祐経が、鎌倉へ向かう途中、大磯の宿で酒宴を開いていたことを知ります。二人は目配せして祐経を追い、戸上が原で追いつきますが、五十騎ほどでまっすぐ進んでいたので矢を射るチャンスがなく、あきらめます。このときは曽我兄弟は工藤祐経と言葉をかわしたわけではなく、またこの時点では富士の裾野での巻狩りの計画なども立っておりませんが、大磯の虎や朝比奈三郎といった登場人物が共通するように思われます。

 三つ目は巻第八で、富士の裾野の巻狩りの最中に、仇討ちの最後の機会を狙う十郎が屋形の様子を探りにいきます。ところが工藤祐経に見つけられて呼び入れられます。祐経は、河津祐通を殺したというのは濡れ衣だ、二人の力になろうと言いますが、十郎は怒りを押しこらえます。しかも十郎が屋形を出てから盗み聞きすると、実は自分が殺したが、兄弟には何もできないだろうと嘲るのを耳にしますが、仇討ちは五郎と共に、という思いから我慢します。この下りは、巻狩りの華やかな雰囲気に包まれている点、祐経が河津祐通を殺していないと弁解する点、曽我十郎が怒りを押さえる点などが共通しております。

 おそらく「寿曽我対面」は、こうした場面を結び合わせ、創作を加えて作られたと思われます。

 オマケですが、「対面」に出てくる登場人物について。小林妹舞鶴は「曽我物語」には出て来ませんが、その兄の朝比奈三郎義秀は、曽我兄弟に好意的な人物として登場します。近江小藤太成家は大見小藤太として、八幡三郎行氏は八幡三郎として登場しますが、奥野の狩りの帰りに工藤祐経の命令で河津三郎祐通を襲って殺した人物です。彼らはすぐさま伊東祐親に襲われ、大見は逃げ失せますが、八幡は自害します。ですから十郎・五郎と名乗るようになった曽我兄弟や、大磯の虎と座を同じくするはずはありません。また化粧坂少将というのは「曽我物語」には登場しません。手越の少将という遊女が、三つ目の工藤祐経と曽我十郎が合う場面に出て来ます。手越は駿河国安倍川の西岸にあった宿場だそうです。また化粧坂は鎌倉の出入り口のひとつです。梶原平三景時は有名なので省略。その次男景高は「曽我物語」には出て来ませんし、歴史上もあまり有名でないので、なぜここに登場するのかは不明。鬼王新左衛門は、鬼王丸という名で登場し、曽我兄弟の従者です。大磯の虎は、十郎と契りを結んだ大磯の遊女です。仇討ちに反対した母親が結婚すればそのような無謀なことは言わないだろうと結婚を勧めたため、五郎が遊女なら仇討ちをしても罪が及ばないだろうし、東海道の偵察にも役立つだろうと結婚を勧め、十郎は虎と結婚しました。仇討ちののち虎は出家して念仏三昧の日々を送りますが、ある夕暮れに庭の桜を十郎と錯覚して抱きつこうとして倒れたまま床に着き、64歳で大往生します。彼女の貞節を讃えて、「曽我物語」は終わります。

 もうひとつオマケを。ぽん太は以前の記事で、檀特山で悉陀太子を見送る車匿童子の悲しみ、という物語について書きましたが、「曽我物語」にもそれが出て来ます。巻第九で、仇討ちに赴く直前に十郎・五郎は、幼い頃から現在に至るまでの思いを二巻の巻物にしたため、従者の丹三郎・鬼王丸に母親に届けるように命じます。両者の別れの悲しみを描く下りで、檀特山の話が出てきます。

2009/06/13

【歌舞伎】金太郎くん初舞台・2009年6月歌舞伎座夜の部(付:花畑牧場カフェ)

090610_160929 歌舞伎座に行く前に、最近話題の花畑牧場カフェ銀座店に行ってみました。行列の待ち時間は30分ぐらいだったでしょうか?ホットキャラメル・アイスクリームをいただきましたが、ホットキャラメルの甘みが口に広がり、アイスのすっきりとした爽やかな後味が残り、とてもおいしかったです。
 さて、歌舞伎の方はなんといっても金太郎君の初舞台がお目当て。4歳とのこと。まだあんまり人間になっていないみたいで無表情です。一生懸命足を踏み鳴らしたり、見得を切ろうとして天井を向いてしまったりしているのがかわいいです。幸四郎・染五郎・金太郎の三代そろっての毛振りも見事でした。口上で魁春が「早く金太郎丈の娘役をやりたい」などと言って笑いをとっていましたが、金太郎君の成長ぶり、ぽん太はいつまで見届けることができるのでしょうか?
 続いて吉右衛門の「幡随長兵衛」。以前見た團十郎では、殺されるとわかってみすみす適地に乗り込むスーパーヒーロー風でしたが、吉右衛門は、そうせざるを得ない「情」と「義」をきっちりと演じていました。仁左衛門が務めた水野十郎左衛門は、幡随長兵衛を見えすいた罠にかけて殺してしまうという単なる悪役ではなく、早桶を持って迎えにこさせたとことを知って、その心意気をあっぱれと認める対等の風格・大きさがありました。芝翫の女房お時がきっちりと演じて、死地へ夫を送り出す悲しみを伝えてくれました。
 最後の「髪結新三」は、幸四郎の新三に彌十郎の家主長兵衛という以前に観たコンビでしたが、今回もやりとりが面白かったです。歌六の源七親分が話を付けられなかったところを、強欲な家主が新三を手玉にとって話をつける、というところが筋立てのミソか。福助が若い手代の忠七を演じていましたが、これまでこうした役はあまり多くないような気がするのですが、アクがなくてとても自然で美しく、ちょっとびっくりしました。高麗蔵のお熊は娘むすめした感じがちと欠けるか?染五郎の下剃勝奴も人が良さそうで悪人の手下っぽくない。歌六の源七もツヤのある親分さんでしたが、少し若く見えました。

歌舞伎座さよなら公演
六月大歌舞伎
平成21年6月・歌舞伎座

夜の部
一、門出祝寿連獅子(かどんでいおうことぶきれんじし)
  四代目 松本金太郎 初舞台

       童後に孫獅子の精 初舞台 金太郎
      右近後に仔獅子の精     染五郎
      左近後に親獅子の精     幸四郎

            里の女     芝 雀
           右近の妻     福 助
            里の男     松 緑
             樵人     高麗蔵
            修行僧     友右衛門
           左近の妻     魁 春
            大名某     梅 玉
            村の長     吉右衛門

二、極付幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)
  「公平法問諍」
         幡随院長兵衛     吉右衛門
        水野十郎左衛門     仁左衛門
           坂田公平     歌 昇
          御台柏の前     福 助
         子分極楽十三     染五郎
         子分雷重五郎     松 緑
         子分神田弥吉     松 江
         子分小仏小平     男女蔵
         子分閻魔大助     亀 寿
         子分瘡森団六     亀 鶴
         子分地蔵三吉     種太郎
            倅長松     玉太郎
          伊予守頼義     児太郎
         坂田金左衛門     由次郎
           慢容上人     家 橘
          渡辺綱九郎     友右衛門
          出尻清兵衛     歌 六
          近藤登之助     東 蔵
          唐犬権兵衛     梅 玉
           女房お時     芝 翫

三、梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)
  髪結新三
           髪結新三     幸四郎
         弥太五郎源七     歌 六
           手代忠七     福 助
           下剃勝奴     染五郎
            娘お熊     高麗蔵
           下女お菊     宗之助
           車力善八     錦 吾
           後家お常     家 橘
        家主女房おかく     萬次郎
          家主長兵衛     彌十郎
         加賀屋藤兵衛     彦三郎

2009/06/12

【登山】那須三本槍岳(付:会津中街道・三斗小屋宿跡・三斗小屋温泉大黒屋)

 三本槍岳に登らないといけない事情があったので行って来ました。前回はロープウェイ利用でしたが、今回は東側からアプローチしてみました。以前から訪れてみたかった三斗小屋宿跡を訪ね、また初めて三斗小屋温泉に泊まることができました。ハイカーの少ない静かな山旅を楽しむことができ、那須にもこんなところがあるのかと驚かされました。
【山名】三本槍岳(1916.9m)、朝日岳(1896m)
【山域】那須岳
【日程】2009年6月2日〜3日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】(6/2)快晴(6/3)曇り
【コース】(6/2)沼原池駐車場(14:10)…三斗小屋宿跡…三斗小屋温泉大黒屋(16:20)(泊)
(6/3)三斗小屋温泉大黒屋(7:39)…熊見曽根…三本槍岳(10:10)…朝日岳(11:38)…牛ヶ首…ウバヶ平…沼原池駐車場(14:57)

【見た花】ハルリンドウ、ミツバツチグリ、オオタチツボスミレ、ササバギンラン、オオバキスミレ、ショウジョウバカマ、ハクサンシャクナゲ、イワカガミ、サンカヨウ、ツクバネソウ、ミネザクラ、トウゴクミツバツツジ、チゴユリ、クロウスゴ、ツマトリソウなど
【マイカー登山情報】沼原池に広い駐車場あり。そこまでの道は、一部ダートがありますが、ほぼ舗装されております。
P6030100 今回の出発点の沼原池(ぬまっぱらいけ)です。深山湖とのあいだで揚水発電を行っており、夜間のあまった電力で深山湖の水を沼原池に揚げ、昼間は沼原池から深山湖に水を落とすことで発電を行っているそうです。
P6020005 歩き始めるとすぐ沼原湿原に出ます。まだ花は咲き初めでしたが、ハルリンドウが満開でした。
P6020010 湿原を抜けると、美しい原生林が広がります。とても気持ちいいです。
P6020011 道沿いには石仏が点在しています。というのもこの道は、かつて会津中街道と呼ばれた歴史ある道なのです。東北を南北につなぐ街道としては、五街道のひとつの奥州街道が有名で、那須付近では国道294号線にあたり、大田原市から芦野、寄居を通って福島県の白河市に至ります。(ルート図)。もうひとつの主要街道が会津西街道で、これは会津若松市と日光市今市を結ぶ山間の道で、現在ではほぼ国道121号線にあたります(ルート図)。
P6020013 ところが、参勤交代などでも栄えたこの街道は、1683年(天和3年)の日光大地震によって男鹿川が堰き止められて五十里湖(いかりこ)ができたために湖の底に沈み、通行不能となります。ちなみに現在でいえば湯西川温泉のあたりで、五十里湖はダム湖となっております。さて、通行不能となった会津西街道の代替路として、1695年(元禄8年)に那須岳西側の大峠を越える、会津中街道が整備されました。ルート図はこちらをご覧ください(福島県野際〜大峠湯川〜乙女の滝乙女の滝〜木綿畑)。しかしこの道は、標高1500メートル以上の大峠を越えねばならず、雪で閉ざされる期間も多いうえ、那須特有の強風にも苦しめられ、しばしば通行禁止となりました。そのため、会津西街道が整備されるに従って、この道は次第に使われなくなったそうです。
P6020020 さて、歩みをすすめると、やがて山懐に抱かれたちょとした平地にでます。ここが三斗小屋宿跡です。この宿場は、会津中街道の開通に当たり、人工的に作られた宿場だそうです。
P6020024 今では建物はあと方もなく、用水の石の遺構や、復元された灯籠、石仏などが残っているだけです。
P6020029 復元された石の鳥居があったので近づいてみると、鳥居は川に面していて、向こうは断崖絶壁です。三斗小屋宿は白湯山信仰(はくゆさん・はくとうさん)でも有名だそうで、特に江戸時代後半になって信仰が盛んになると、三斗小屋宿は門前町として栄えたそうです。
P6020019 宿場の外れにはお墓がありました。一角に戊辰戦争で亡くなった人たちの慰霊碑があり、ぽん太は写真も撮らずに通り過ぎてしまったのですが、あとから調べてみて、撮っておけば良かったと後悔しました。というのも、歴史の中で三斗小屋宿がクローズアップされたもうひとつの事件が、戊辰戦争だったからです。1868年(慶応4年)、三斗小屋宿に駐屯していた旧幕府群に対して官軍が攻撃をしかけ、激しい戦闘が行われました。この戦いで建物は焼き払われ、とてもここでは書けないような、住民に対する残虐行為が行われたそうです。これに関しては、次のサイトが詳しいですが(戊辰戦争の恨み 三斗小屋宿の惨劇(1)(2)(3))、真相は薮の中です。
P6020033 会津中街道のうち三斗小屋宿跡から大峠に至る道は、現在は登山地図にも書かれていないので、おそらく廃道になっていると思われます。登山道に沿って歩みを進め、湯川の上流を渡るところに、那珂川源流の碑がありました。へ〜、那珂川って、こんなところから流れていたのか……。
P6020036 やがて三斗小屋温泉に到着。大黒屋と煙草屋の2軒の旅館があります。煙草屋は露天風呂があるのが魅力ですが、こんかいは個室で泊まれる大黒屋さんにお世話になりました。戊辰戦争のあと明治2年に建てられたという歴史ある建物です。
P6020041 古めかしい部屋にも、昔の宿場の雰囲気が感じられます。もちろんアルミサッシなどはなく、障子の外側は雨戸となります。
P6030053 浴室は二つあり、写真の大湯と、小ぶりの岩風呂があります。1時間ごとの男女交代制となっております。なんといっても大湯がすばらしく、古い木の質感、窓越しの樹々がお湯に写って、まるで新緑に包まれたような気分です。
P6020050 夕食はナント部屋食で、お膳でいただきます。おいしゅうございました。
P6030055 朝食です。おいしゅうございました。
P6030063 三斗小屋温泉にある温泉神社です。外側は真新しく素っ気ない建物ですが、内部は古めかしく、かなり手が込んでいます。
P6030091 さて、那須岳の稜線の写真は省略です。三本槍岳も平日なのにけっこう登山者が多かったですが、峰の茶屋付近は生徒さんたちも加わってすごい人出でした。ぽん太とにゃん子は、牛ヶ首から西側に下って行きましたが、こちらはほとんど人がおらず、とても静かでした。ウバヶ平から見た茶臼岳です。まるで日本庭園のような美しさです。紅葉の時季もすばらしいそうです。

2009/06/10

【オペラ】ロッシーニの溢れる才能と古典的様式美・新国立劇場『チェネレントラ』

 今月の新国立オペラは『チェネレントラ』。なにそれ?知らね〜な〜。作曲はロッシーニやて。『セビリアの理髪師』や『ウィリアム・テル』の序曲ぐらいしか知らんがな。とりあえず観に行ったろか……という感じであまり期待しないで行ったのですが、とてもすばらしくて感動いたしました。新国立劇場の『チェネレントラ』の公式サイトはこちら
 まず「チェネレントラ」という題名ですが、イタリア語の「シンデレラ」とのこと。それなら知っとるがね。以前の記事でシンデレラは、フランスではサンドリヨン(Cendrillon)、ドイツではアッシェンプッテル(Aschenputtel)、日本ではハイカブリヒメ(灰かぶり姫)であることを書きましたが、イタリア語までは調べなかった。ううう、勉強になりました。
 ただしシンデレラと言っても仙女の魔法やカボチャの馬車は登場せず、ガラスの靴は腕輪となり、人物の入れ替わりが鍵となります。あらすじは上でリンクした公式サイトをどうぞ。
 ロッシーニのオペラ全幕はホントに初体験だったのですが、まず驚いたのは、コロラトゥーラというのでしょうか、全編を通して聴かれる声をコロコロころがす独特の歌い方です。モーツアルトの『魔笛』の夜の女王のコロラトゥーラが有名なので、ソプラノが高音で歌うものだと思い込んでいましたが、今回のオペラでは低い声でも、そして男性歌手もコロコロと歌ってました。
 イタリアのオペラということで、ぽん太は『トゥーランドット』のような浪々と歌うカンツォーネを想像していたので、はじめは軽く軽くころころと歌う歌い方に戸惑ったのですが、聞き慣れてくると古典的・様式的な美しさがわかってきて、とても心地よかったです。
 ロッシーニのオペラはとてもスマートで洗練されており、完成度が高かったです。華麗にして流麗でよどみなく、遊び心もあり、すばらしい才能の持ち主だと思いましたが、俗っぽさがあることは否定できません。翻って考えると、たとえばモーツァルトのオペラには、なんと言っていいのかわからないアンバランスというか、欠落があるように感じるのですが(ラカンなら「裂け目」と言うのでしょうか)、逆にそれがモーツァルトの魅力というか、芸術性のようにも思えます。
 驚いたのは、普通シンデレラというと純情で可愛らしいキャラなので、当然ソプラノがキャピキャピ歌うのかと思ったら、メゾソプラノがドスをきかせながらこってりと歌い、なんか迫力があって、ちょっと怖いです。顔をしかめ、首を振りながら歌う様子は、まるでコブシのきいた演歌のようでした。
 『オペラ鑑賞ブック 1 イタリア・オペラ(上) (スタンダード・オペラ鑑賞ブック)』(音楽之友社、1998年)によれば、18世紀後半のイタリアオペラでは、主役は女性歌手とカストラートが歌うのが普通だったそうです。カストラートとは、去勢された男性歌手です。19世紀に入るとカストラートは衰退し、その代わりを女性低声歌手(コントラルト)が務めるようになったそうです。ロッシーニ(1792年-1868年)の時代にはこのようなコントラルトの名歌手が数多く存在し、ロッシーニも彼女らの声を愛したのだそうです。ちなみに『チェネレントラ』の初演は1817年です。ちなみにこの頃の日本は江戸時代の文化・文政期(1804年-1830年)で、歌舞伎でいえば鶴屋南北の『東海道四谷怪談』などのちょっとおどろおどろしい芝居や、踊り手が次々と衣装を変えて踊る変化舞踊などが人気をはくした時代です。
 アンジェリーナ(シンデレラ)のヴェッセリーナ・カサロヴァは、何度も述べたようにコブシのきいた低音(メゾソプラノ)がすばらしく、王子様のドン・ラミーロを歌ったアントニーノ・シラグーザは、軽く明るい声とコブシが見事でした。日本人勢の幸田浩子と清水華澄は、歌も演技も大健闘。幸田浩子はバレエの素養もあるのかしら?踊ってくるくる回ってました。
 舞台美術もペン画風でしゃれていました。オケも軽快で流麗。いわゆるロッシーニ・クレッシェンドも堪能いたしました。ロッシーニのあふれる才能と、古典的な様式美に出会えた、すばらしい一日でした。
 
『チェネレントラ』
G.ロッシーニ/全2幕【イタリア語上演/字幕付】
G.Rossini:LA CENERENTOLA
2009年6月7日、新国立劇場オペラ劇場

【作 曲】ジョアキーノ・ロッシーニ
【台 本】ジャコモ・フェレッティ

【指 揮】デイヴィッド・サイラス
【演出・美術・衣裳】ジャン=ピエール・ポネル
【再演演出】グリシャ・アサガロフ
【演技指導】グリシャ・アサガロフ/グレゴリー・A.フォートナー
【芸術監督】若杉 弘

【ドン・ラミーロ】アントニーノ・シラグーザ
【ダンディーニ】ロベルト・デ・カンディア
【ドン・マニフィコ】ブルーノ・デ・シモーネ
【アンジェリーナ】ヴェッセリーナ・カサロヴァ
【アリドーロ】ギュンター・グロイスベック
【クロリンダ】幸田 浩子
【ティーズベ】清水 華澄

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団


2009/06/06

山本純美『江戸の火事と火消』で加賀鳶のお勉強(付:へ・ら・ひ組はあったのか?)

 先月、歌舞座で「加賀鳶」を見て江戸時代の「火消」に興味を持ったぽん太は、山本純美の『江戸の火事と火消』(河出書房新社、1993年)を再読してみました。いつものとおり、ぽん太が面白かった点の抜き書きです。
 まず江戸の消防組織には、定火消(じょうびけし)、大名火消、町火消の三つの系統がありました。定火消は幕府直轄で江戸城周辺を受け持ちました。また大名火消は大名の自営消防組織で、加賀鳶はこれに属します。町火消は町人地を受け持ち、「いろは組」で有名です。
 大名屋敷は、上屋敷・中屋敷・下屋敷など、数カ所に分散しているのが常で、ぽん太もなんでだろ〜と思っていたのですが、火事のさいに全焼を免れるためというのが一つの理由だったそうです。
 大名火消は、派手な衣装を着て華美を争う傾向があったようで、なんども簡素化のおふれを出したにもかかわらず、なかなか改まらなかったそうです。天保年間には、火災現場の指揮中に、火事そっちのけで三度も装束を着替えた者もいて、それを見るために大勢の見物人が集まったそうです。
 なかでも加賀鳶は華美を極めたそうです。まず頭の武士は馬に乗り、両側に四人の馬脇侍を従え、錏頭巾(しころずきん)をかぶき、火事羽織には赤地に一寸ほどの金角継をつけ、これが光り輝いていたそうです。
 なんのこっちゃ、全然ぽん太にはわからんぞ。錏(しころ)というのは兜の下側に垂れている首筋を守る部分ですから、錏頭巾というのは首を覆うような頭巾だと思いますが、金角継というのはググってもわかりません。
 さて、鳶の頭の服装は、大きく染め出された雲に稲妻が交差するという派手な長半纏(ながばんてん)に、背中に斧を交差させた紋を白抜きで染めたネズミ色の革羽織を着て、ネズミ色の股引に白紐の脚絆を、青縞の足袋を履いていたそうです。手には手鍵という小型の鳶口を持っていたそうですが、これは実践用というよりは指揮用だったようです。
 また、平鳶は、そろいの半纏に青縞股引、白紐の脚絆、青縞の足袋、茶色の革羽織を着ていたといいますから、鳶頭とほぼ同じ服装でしょうか?股引がネズミ色じゃなくて青縞なのは、ホントか誤植か?髪型は半締という海老の腰のような形で刷毛先を散らしていたといいますが、これもよくわかりません。鳶口の長さは五尺(1.5m)と鳶頭よりも長いようでした。
 ぽん太が歌舞伎で見たときは、雲に稲妻の派手な長半纏は記憶しておりますが、革羽織ではなく普通の布の羽織だったような……。股引や脚絆、足袋、髪型などは覚えておりません。平鳶が長い鳶口を抱え、退場のときに花道の七三でくるりとまわしていましたが、鳶頭の菊五郎の鳶口の長さはどうだったかな、覚えてません。次に見るときには注意してみたいと思います。
 こちらの消防防災博物館のサイトで、二代目歌川豊国による「加賀鳶繰出之図」(「加賀鳶行列の図」などとも呼ばれるようです)を見ることができます(小さいですが)。う〜ん、どこかで加賀鳶を描いた浮世絵の実物を見てみたいものだわい。上の絵は、一部は早稲田大学の演劇博物館にあるらしいけど……。

 ところで町火消といえば「いろは組」で有名ですが、「へ・ら・ひ・ん」はなくて、代わりに「百・千・万・本」が加えられたという豆知識が有名です。ちなみにそれらが除かれた理由(とくに「ら」)を知りたい方は、各自ググってみて下さい。
 ところがこちらのサイトを見てみると、「へ・ら・ひ組」は存在したと書かれています。むむむ、どちらが正しいんじゃ。
 今回読んだ本に書いてありました。それによれば、町火消が作られたのが1718年(享保3年)。これが1720年(享保5年)に再編成されていわゆる「いろは組」が誕生しました。このときは「へ・ら・ひ」はあったようで、「ん」は(この本からは)不明です。そして1728年(享保13年)に「へ・ら・ひ」が廃されて「百・千・本」が作られたと書いてあります。「万」については書かれていません。ひょっとして「ん」→「万」?
 なんか細かいところがはっきりしませんが、「『へ・ら・ひ』組は初めはあったが、後に廃止された。最終的には『へ・ら・ひ・ん』はなく『百・千・万・本』が存在した」というあたりまでは正しそうです。


2009/06/01

【ロシア旅行(8)最終回!】モスクワ観光(政治その他編)

P5050029 イズマイロヴォ・ホテルの窓から見た朝の風景です。ありきたりな風景に見えるかもしれませんが、このような空の明るい水色、街のシックな色合いは日本では見たことがありません。
 さて8回にわたって書いて来たぽん太のロシア旅行記、そろそろ書くのもあきてきたし、他にやらないといけないこともいっぱいあるので、今回で終了です。この旅行をきっかけに、ロシアの小説や、学生時代以来読んでいないマルクス・レーニンの著作などを読んでみたいと思っています。
P5040208 まず最初は、ロシアの国会議事堂(地図)です。
P5040211 続いて旧KGB本部。場所はこちらとなっております。以前は手前の広場に初代KGB長官フェリックス・ジェルジンスキーの銅像があったそうですが、現在は撤去されております。
P5040016 ベールイ・ドームです(地図)。見覚えがありませんか?1991年の8月、ゴルバチョフ書記長の改革に反対する守旧派はクーデターを起こし、ゴルバチョフを別荘に軟禁しました。改革派のエリツィン大統領はここに立てこもり、自ら戦車兵を説得して寝返らせ、戦車の上で演説を行いました(そのときの写真)。ビルの前には10万人のロシア市民が集結し、クーデターは失敗に終わりました(ソ連8月クーデター)。1993年には攻守を替えて、今度はこのビルに保守派がたてこもり、それをエリツィンが戦車部隊を使って鎮圧しました(モスクワ騒乱)。いまや改修されて、争乱の傷跡は残っていません。
P5050031 この工事現場はホテル・ロシアの跡地です。フルシチョフの命令で作られ、ヨーローッパ最大の規模を誇った歴史あるホテルですが、2006年に営業を終了し、解体されました。跡地には娯楽施設の建設が予定されていますが、ガイドさんによれば、複数の企業が金と賄賂と政治力を駆使して、開発の利権を奪い合っている状態だそうです。
P5040024 高級ブランド店が多く入っているグム百貨店です。赤の広場の、クレムリンやレーニン廟の反対側にあります。かつては社会主義の代名詞であった赤の広場に、いまや資本主義の代名詞の高級ブランド店があるというのは、まことに象徴的な気がします。周辺には世界各国の高級車がずらりと駐車していました。ガイドさんの話では、モスクワ市民の平均月収は10万円程度。しかし大金持ちが平均を引き上げているので、多くのモスクワ市民の月収は10万円以下とのことです。ということは、そのひとたちはこのデパートを訪れることはできないはずです。とはいえこの百貨店は、資本主義になってからできたのではなく、歴史は1893年にまで遡るそうです。ソ連時代はどうなっていたのか、興味があるところです。
 また、レーニン廟に片山潜が葬られていることも、初めて知りました。
P5040018 ボリショイ劇場の向かいの革命広場には、マルクスの像があります。頭の上にはお決まりのハト付きです。社会主義が崩壊したときに多くの像が破壊されましたが、マルクスの像は壊されなかったのですね。なぜでしょう。
 

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