【雑学】チャイコフスキー作曲・プーシキン原作のオペラ「スペードの女王」「エフゲニー・オネーギン」の周辺をみちくさ
6月に観たボリショイ・オペラ「スペードの女王」と「エフゲニー・オネーギン」は、どちらもプーシキンが原作のチャイコフスキーが作曲したオペラでした。せっかくの縁なので、その周辺をみちくさしてみました。いつも通り、ぽん太が気になった部分だけ指摘します。
まずは「スペードの女王」の原作(『スペードの女王・ベールキン物語 』神西清訳、岩波書店、2005年)。ロシア文学の名訳者・神西清の訳です。ネット上では青空文庫で岡本綺堂の訳が読めるようですが、「さまよえるユダヤ人」を「宿なしのユダヤ人」と訳すなど、ちょっと読みにくいです。
原作とオペラではかなりストーリーが異なるという点は、 以前の記事で書いたので省略。ぽん太が気になったのは、巻末におさめられた1948年刊、飛鳥新書版の訳者による解説です。プーシキンが晩年の1833年に発表した『スペードの女王』と『青銅の騎士』がともに狂気を扱っていることを指摘し、(狂気が)「果してどこに由来するものであり、何を本質とするものであろうか。この問いに答えることは、とりも直さずプーシキンの生活悲劇そのものの本質を解明するかなり大掛かりな仕事になる」と書いておきながら、「今は差し当たって……その時期ではない」と、話題を変えてしまいます(248-249ページ)。う、う、う、精神科医のぽん太はぜひプーシキンと狂気の関係を知りたいですが、またの機会にみちくさすることとし、宿題にしておきましょう。
次いで『フランス&ロシア・オペラ+オペレッタ (スタンダード・オペラ鑑賞ブック)』(音楽之友社、1999年)。上にリンクした以前の記事でぽん太は、「エカテリーナ2世万歳!みたいな場面が取ってつけたようにあるけれど、なぜだろう」という疑問を呈しましたが、ちゃんと書いてありました。原作はアレクサンドル1世(在位1801年〜1825年)に時代設定されていますが、オペラはエカテリーナ2世(在位1762年〜1796年)に移し替えられています。これは、台本をチャイコフスキーの弟モデストに依頼したマリインスキー劇場の意向によるもので、原作そのままだとさめたシニカルな近代劇になってしまうので、オペラ・ファン向きの華やかな時代劇に作り替えようと考えたからだそうです(159ページ)。
続いて「エフゲニー・オネーギン」の原作です(プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』木村彰一訳、講談社、1998年。この小説は、四脚強弱格という韻文形式で書かれていて、abab/ccdd/effe/ggという脚韻を踏んだ14行がひとまとまりの「連」をなし、その「連」が集まって「章」をなすという具合になっているそうです。このような形式を守りながら、この長編小説を書き上げたプーシキンの文才には驚くほかありません。木村彰一の訳は、詩の形式をとることによって、プーシキンの「韻文小説」の雰囲気を保とうとしています。
ぽん太が驚いたのは登場人物の年齢。オネーギンとタチアーナが田舎で最初に出会う場面は、1820年に設定されていますが、オネーギンは24歳、レンスキーが約18歳、タチアーナが約17歳、そして小説の語り手であるプーシキンが21歳だそうです。そんなに若かったのか……。タチアーナが17歳はわかるとして、社交界に飽き飽きしてシニカルな態度をとるオネーギンは、もっと年上かと思っていました。
次は『チャイコフスキー エウゲニ・オネーギン (名作オペラ・ブックス)』(音楽之友社、1988年)。いまやチャイコフスキーのオペラといえば「オネーギン」を思い浮かべますが、このオペラが作られた当初は、「ドラマチックでない」とか「ストーリーの起伏に乏しい」などと言われて、評判はかんばしくなかったそうです。現代のわれわれの目からすると、決闘があったり、第1幕と第3幕の対比があったりで、それなりに盛り上がりがる気がするのですが、決闘も当時の身分ある男性の間では珍しいことではなかったそうで、「アイーダ」などのグランド・オペラを好む当時の観客には退屈に感じられたようです。チャイコフスキー自身も周囲の反応は理解していたようですが、それでも彼は「オネーギン」に愛着を持ち、作曲に没頭しました。そこで彼は「オネーギン」を「オペラ」と呼ばず、「叙情的情景」と名付けました。そして初演も1879年、マールイ劇場(マールイ=ちいさな)において、主にモスクワ音楽院の学生たちによって、身近な人たちのために上演されたそうです。ちなみに「オネーギン」のドイツ初演は、1892年ハンブルク市立劇場でしたが、このとき指揮をしたのが当時31歳のグスタフ・マーラーだったそうです。
ところで、チャイコフスキーが「エフゲニー・オネーギン」の作曲を完成したのは1877年、バレエ「白鳥の湖」の初演も同じ年です。この年、チャイコフスキーはモスクワでアントニーナ・イヴァーノヴァと電撃的な結婚をしますが、その後モスクワ川に入水自殺を試みたりし、約3ヶ月後にはペテルブルクに逃げ出したことは、以前の記事で軽くみちくさいたしました。本日はもう少し深入りしてみましょう。チャイコフスキーは1876年、誰とでもいいから結婚に踏み切ろうと決意します。その理由は明らかではありませんが、彼の同性愛的な傾向と関係していたと推測されます。1877年7月18日(註:日付は西洋暦。ロシアでは1918年までユリウス暦が使われておりました。ユリウス暦については以前にちょっとみちくさしたことがあります)、チャイコフスキーは、彼に何通かの熱烈なラブレターを寄せていた女性と、電撃的に結婚します。チャイコフスキーはその手紙を、真剣でまごころにあふれていると感じたようです。しかし結婚の3日前にフォン・メック夫人に送った手紙では、結婚に嫌悪感を抱いていながら、愛してもいない女性と無理にでも結婚しないといけないことは辛いことだ、と書き送っています。しかし結婚して数日で、彼は妻に嫌悪感を感じるようになり、自分のとった無分別な行動を後悔するようになります。8月7日には「あと2,3日ここにいたら……気が狂ってしまうことでしょう」とフォン・メック夫人に書き送ってカメンカに逃れ、そこで4週間過ごしたのち、再びやり直そうと意を決して妻の元に戻ります。しかしやはり妻との生活はチャイコフスキーにとって堪え難いものであり、モスクワ川に胸まで浸かって歩き回ったりもしたそうです。9月に彼は発狂寸前の状態でモスクワを離れました。ペテルブルクで彼を診察した精神科医は、重症と判断したそうです。別の本にはチャイコフスキーを診察したのは「有名な精神科医И・M・バリンスキー」と書いてありましたが(クーニン『チャイコフスキー―その作品と生涯』川岸貞一郎訳、新読書社、2002年)、ググってみたところ、 久野康彦「19世紀後半のロシアの精神医学とその発想 ――精神医学者ウラジーミル・チシ(1855-1922?)による文豪の生涯と作品の分析を手掛かりに―― 」(21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集10、2005年12月)に、ペテルブルクの外科医学大学の精神医学者イヴァン・ バリンスキー(1838-1908)の名前があがっていますので、当たりかもしれません。さて、話しを戻してチャイコフスキーとアントニーナ・イヴァーノヴァは法的には離婚することはありませんでしたが、二人は生涯にわたって2度と会うことはありませんでした。
チャイコフスキーの妻であるアントニーナ・イヴァーノヴァがどのような女性だったのか、精神科医のぽん太には興味深いところです。チャイコフスキーがモスクワを立ち去った後、彼女はカメンカのダビドフ家に赴きましたが、最初こそ一家は彼女に同情的でしたが、彼女の性格がわかるにつれて嫌悪するようになったそうです。チャイコフスキーは、優しい小鳩だった彼女は突然厚かましい嘘つき女に変わり、自分をさんざん非難した、病的な自己愛が目を覚ました、と書いたそうです。彼女は早くから常軌を逸したところがあり、多くの男性と関係を持ち、そのことを平気で他人に話しました。また親類縁者全員と仲違いをしていました。彼女は精神病院のなかで生涯を終えたそうです。
彼女の精神障害の詳細、またチャイコフスキーの「神経症」がどんな症状だったのか、チャイコフスキーと彼女の関係が、「エフゲニー・オネーギン」にどのような影響を与えたのかは、いまだぽん太には謎のままです。
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