【歌舞伎】三津五郎の玉の井に感心、宮藤官九郎の『大江戸りびんぐでっど』はいまいち(2009年12月歌舞伎座昼の部)
『身替座禅』は、これまで見たものとは全く別の芝居に見えました。玉の井は、概して男っぽく演じて笑いを取るというふうになりがちですが、三津五郎はそのあたりを抑えて、夫である右京を好きで好きでたまらないけれど、夫からすると迷惑で頭が上がらないという様子を、品良く芸でみせてくれました。『身替座禅』が立派な歌舞伎狂言であることが初めてわかりました。勘三郎の右京もよかったです。
その三津五郎が『大江戸りびんぐでっど』でもはじけ飛び、「きざったらしい浪人→ぞんび」という役柄を熱演。三津五郎って古典的な芸風の真面目なひとかと思ってたら、夜の部の『野田版 鼠小僧』の大岡越前といい、実は変な人だったんですかね〜。
『大江戸りびんぐでっど』は宮藤官九郎の新作とのこと。ぽん太は官九郎の芝居は初めてだったので期待していたのですが、部分部分でおもしろいところはあったものの、全体の構成力では夜の部の野田秀樹に一歩二歩及ばないようです。歌舞伎座の舞台をゾンビが埋め尽くすというアイディアは悪くなく、「くさや」と絡ませたりするあたりもいいですが、ゾンビを使って「はけん屋」をやるというのはいかにも「時事ネタを入れてみました」という感じです。半助が実は最初のゾンビだったというのも、映画『シックス・センス』でも使われた「ありふれたパターン」です。そもそも歌舞伎というのは以前の作品をパクりまくる「ないまぜ」の世界ですから、「ありふれたパターン」も悪くないですが、それなら「ありふれたパターン」が芝居のなかでこれまでの作品とは違ったうまい使われ方をされてなくてはならないわけで、そういう意味ではちと物足りなかったです。ラストシーンも、結局は「はけん」が人間の踏み台になっていて、身につまされて寒々しい気分になりました。そうした現実は十分わかっているから、宮藤らしい「演劇的な」ラストを提示してほしかったです。
いっそのこと馬鹿ばかしさに徹して、例えば、「暫」の鎌倉権五郎景政や弁慶や弁天小僧など、歌舞伎のヒーローが次々と出て来て、みなゾンビにされてしまうなどどうでしょうか?
『野崎村』は初めて観ました。有名な演目で、話しとしてはとてもよくできているけど、『引窓』のような演出がなく、ほとんど語りで話しが進んで行くので、ちと眠くなってしまいました。部分的には、孝太郎のお染が投げ捨てられた芥子人形を一生懸命片付けている仕草がかわいらしかったです。福助はちとやりすぎでは?ラストシーンは、前半で目立った演出がない分、両花道でドラマチックに終わるのでしょうけれど、今回は両花道ではなかったのがちと残念でした。
ところでこの狂言の題名は『新版歌祭文』ですが、「歌祭文」(うたざいもん)ってなに?kotobankによれば、 祭文(さいもん)とは、もともとは宗教的な儀式で神仏に対して読み上げる言葉だそうで、山伏が節を付けて唱え歩いたりしたのだそうです。後になってこれが芸能化され、芸人が三味線などを伴奏に、死刑や情死などの事件や風俗を歌うようになり、これが 歌祭文と呼ばれるものだそうです。
それから、「お夏清十郎」とはどういう話しなのでしょうか?ググってみると、江戸時代に大元となる事件があったそうですが、井原西鶴が『好色五人女』で取り上げ(う、う、う、先日読んだのに記憶がない)、近松門左衛門が浄瑠璃にし、坪内逍遥、真山青果などが脚本を書き、映画化もされているようで、いったい元々がどういう話しだったのかよくわかりません。大ざっぱに言うと、豪商の娘お夏と、使用人の清十郎が駆け落ちするもののとらえられ、清十郎は大金を奪ったという濡れ衣まで着せられて死刑になり、それを知ったお夏は狂乱する、というようなあらすじのようです。
『操り三番叟』は勘太郎の技が見事でしたが、獅童の翁はさすがに若すぎ。
歌舞伎座さよなら公演
十二月大歌舞伎
平成21年12月・歌舞伎座昼の部
一、操り三番叟(あやつりさんばそう)
三番叟 勘太郎
後見 松 也
千歳 鶴 松
翁 獅 童
二、新版歌祭文
野崎村(のざきむら)
お光 福 助
お染 孝太郎
後家お常 秀 調
久作 彌十郎
久松 橋之助
三、新古演劇十種の内 身替座禅(みがわりざぜん )
山蔭右京 勘三郎
太郎冠者 染五郎
侍女千枝 巳之助
侍女小枝 新 悟
奥方玉の井 三津五郎
四、大江戸りびんぐでっど(おおえどりびんぐでっど)
半助 染五郎
お葉 七之助
大工の辰 勘太郎
根岸肥前守 彌十郎
遣手お菊 萬次郎
丁兵衛 市 蔵
与兵衛 亀 蔵
佐平次 井之上隆志
紙屑屋久六 猿 弥
和尚実は死神 獅 童
石坂段右衛門 橋之助
女郎お染 扇 雀
女郎喜瀬川 福 助
四十郎 三津五郎
新吉 勘三郎
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