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2010年4月の17件の記事

2010/04/30

【バレエ】後藤晴雄、入魂の由良之助「ザ・カブキ」東京バレエ団

 ベジャールの「ザ・カブキ」は常々一度観てみたいと思っていたのですが、今回都合がついて観ることができました。なかなか面白かったです。今回の公演のNBSの公式サイトはこちらです。
 「ザ・カブキ」の原作は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」です。歌舞伎ファンのぽん太にはおなじみの演目。日本に関心の深かったベジャールがどうバレエ化したのか、とても楽しみでした。黛敏郎の音楽も、「涅槃交響曲」など、普段はあまり聴けない曲が入っております。ちなみに「ザ・カブキ」の初演は1986年、東京バレエ団によって上演されました。また「仮名手本忠臣蔵」に関しては、例えばこちらの「独立行政法人」日本芸術文化振興会のデジタルライブラリーをどうぞ。なんか、仕分けした方がいい気がするサイトですが……
 冒頭の現代の若者が過去にタイムスリップして行くという設定は、今となってはちょっと古くさく感じます。舞台上にテレビが置かれ、若者たちが遊んだり、歯を磨いいたり、一斉にロボットのように仕事をしたりという描写は常套的でした。
 その後は、兜改め、おかる・勘平の逢瀬、松の廊下の刃傷、判官切腹、城明け渡し、山崎街道と、忠臣蔵のストーリーが足早に展開して行きます。感情移入する間もなく塩冶判官が切腹。ぽん太は歌舞伎で何度も観てますが、筋を知らない一般バレエ・ファンは理解できたでしょうか?山崎街道では、おなじみのイノシシもお目見え!斧定九郎が「五十両〜」とばかりに財布を口にくわえます。
 また、定式幕(じょうしきまく:黒・緑・茶の縦縞の幕)が引かれたりし、附け打ち(つけうち:舞台上手でバタバタバッタと木で音を出すこと)もあります。もちろん黒衣(くろこ)も登場。小道具の受け渡しをしたり、衣装を見栄えのいいように持ち上げたり、ダンサーをリフトしたりします。ぽん太は以前にノイマイヤーの『人魚姫』を観たとき、能や歌舞伎が取り入れられ、黒衣も使われていることに驚いたのですが、ベジャールの先例があったのですね。あ〜無知はイヤだ。ちなみに『人魚姫』の初演は2005年、『ザ・カブキ』は先ほど書いたように1986年です。細かいことを言えば、山中であることを現す「山おろし」という太鼓の効果音(ドドンドンドンドンってやつです)が、勘平の家の場面で使われているといった間違いはありますが、は大したことじゃありません。
 バレエとしての面白さは、後半になってから出て来たように思います。一力茶屋でのしっとりとしたパ・ド・ドゥもよかったし、討ち入りの男性群舞は迫力がありました。東京バレエ団って、こんなに男性ダンサーがいるんですか?他から借りて来たのでしょうか。女性客には、赤ふん一丁の男性ダンサーによるサービスつき。ただ最後の日の丸を背景に切腹する場面は、ちょっと勘弁してほしい気持ちでした。
 踊りとしては、高橋竜太の判内が、妖しさやコミカルさを見せつつも、美しい動きがすばらしかったです。大星由良之助の後藤晴雄も気持ちが入った表現力ある踊りで、1幕の最後のソロも思わず引き込まれました。これでもう少しダンスとしての面白さがあるといいのですが。水香ちゃん、もっと見せ場があるといいのに。
 なかなか面白かったし、歴史的な作品を見れてよかったです。外人さんもたくさん観に来てました。もう一息ダンスとしての面白さがあれば……。


東京バレエ団
「ザ・カブキ」(全2幕)
2010年4月25日、Bunkamuraオーチャードホール

振付:モーリス・ベジャール
音楽:黛敏郎

大星由良之助:後藤晴雄
直義:柄本武尊
塩冶判官:平野玲
顔世御前:上野水香
力弥:井上良太
高師直:木村和夫
判内:高橋竜太
勘平:長瀬直義
おかる:小出領子
現代の勘平:梅澤紘貴
現代のおかる:高村順子
石堂:宮本祐宜
薬師寺:安田峻介
定九郎:松下裕次
遊女:西村真由美
与市兵衛:永田雄大
おかや:田中結子
お才:井脇幸江
ヴァリエーション1:松下裕次
ヴァリエーション2:長瀬直義

2010/04/29

【歌舞伎】吉右衛門の熊谷直実の慟哭 2010年4月歌舞伎座、第一部・第二部

 本日で現歌舞伎座ともお別れです。さようなら、これまでありがとう。
 第一部・第二部を通して最もよかったのは、「熊谷陣屋」でした。吉右衛門の熊谷直実は、陣屋に戻ってきて妻の相模の姿を認め、「ふん」と両太ももを叩くきまりからして立派で、たちどころに芝居に引き込まれてしまいます。表向きは「戦の陣中に女がのこのこやってくるとは何事だ」という怒りなのですが、実は「敦盛の身代わりに我が子小次郎を殺したのに、妻が来てやっかいなことになった」という困惑が含まれています。しかも観客は、もちろん身代わりの件は知っています。この込み入った状況を描き出し、かつ義太夫狂言らしい様式美を見せる吉右衛門の妙技は、こたえられません。
 藤十郎の相模も、大げさに情に訴えかけるのではなく、抑制された緊密度の高い演技で、我が子を失った悲しみを表現しておりました。ここは、真心からではありながら、子を失った藤の方にかけた「公式」的な慰めの言葉が、小次郎が身代わりになったと知った今すべて自分に返ってくるという、芝居のターニング・ポイント。相模は、以前に自分が言った言葉によって拘束され、苦しむことになります。二重から平舞台に降り、背中と、ぴらぴらさせている両手しか見えませんが、驚きと悲しみと苦しみが伝わってきます。相模が小次郎の首を抱いてのくどききも、お涙頂戴にならずに格調が高く、またエロティックでさえあって、銀の皿に載せられたヨカナーンの首にサロメが口づけをするという『サロメ』の一場面を思い出しました。
 富十郎の弥陀六の衣装は無地。前回の平成19年のときはどうだったかしらん。覚えとらん。どういう意味を込めているのでしょう?
 最後の吉右衛門の幕外の演技。「十六年は一昔、夢だ夢だ」では、最初は笑みを浮かべます。それは、主のために我が子を手にかけるという受け入れがたい現実を、「夢」と思い込むことによって距離を取ろうとして浮かべた笑いであり、また、そうせざるを得なかったし、それを立派にやり遂げたのではあるけれど、自分の行いの「夢」のような荒唐無稽さを笑ったのでありましょう。しかし笑みはすぐさま陰ってきて、哀しみが表情を支配します。残されたのは、「夢」のようにはかなく無意味な現実だけです。しかし、折しも届いた戦の物音に、思わず身体が反応して身構えます。いまや出家の身であることを思い、旅立ちの身支度を整える熊谷は、今度は物音を聞き流します。しかし最後は、深々とかぶった笠で耳を塞ぐようにして、すべてを振り切るように駆け出します。おそらく笠のなかの両目は閉じられていることでしょう。

 「御名残木挽闇爭」は、歌舞伎座さよなら記念のために作られた「曽我の対面」。若々しい役者で固め、華やかな舞台でした。歌舞伎座の紋にもなっている鳳凰が舞い降りたという霊夢に基づき、八幡社に舞台を造営することになり、一同は舞台ができる三年後に再会を約束するという趣向でした。
 「連獅子」、毛振りの息がぴたりと合ってました。
 「寺子屋」は、仁左衛門の武部源蔵。「せまじきものは、宮仕えじゃなあ」の名台詞を言わずに、義太夫が語っていましたが、なんかもったいない気がしました。どういう意味があるのでしょう?三月に「筆法伝授」を観たので、「寺子屋」の状況がようやく理解できました。幸四郎の松王丸、咳き込みすぎ。演技としての面白さは必要でしょうけど、仮病なんだし。「思い出すのは桜丸……倅が事を思うにつけ、不憫なことを致してござる」というところは、松王丸が桜丸に託つけて、息子のことを泣くところかと思っていたのですが、なんか今回の演技は、ホントに桜丸のことを泣いていたように見えました。幸四郎が平成18年に松王丸を演じたときは、前者だったうえに、泣きながら「桜丸、倅、桜丸、倅……」などとよけいなことを言っていたような記憶があるのですが。まあ最近ぽん太は、自分の記憶を信じていませんが。玉三郎は、こういう演目だと、演技が現代的なのが目について、義太夫狂言っぽさに欠ける気がしました。金太郎君の菅秀才は、さすがに美男子。
 「三人吉三」は名優三人の台詞術に酔いしれました。
 藤十郎の「藤娘」は極めつけの名人芸で言うことなし。


歌舞伎座さよなら公演
御名残四月大歌舞伎
平成22年4月・歌舞伎座

第一部
一、御名残木挽闇爭(おなごりこびきのだんまり)
          悪七兵衛景清  三津五郎
            典侍の局  芝 雀
            工藤祐経  染五郎
            曽我十郎  菊之助
            曽我五郎  海老蔵
          鬼王新左衛門  獅 童
           小林朝比奈  勘太郎
             片貝姫  七之助
            半沢民部  團 蔵
          秩父庄司重忠  松 緑
            大磯の虎  孝太郎
            小林舞鶴  時 蔵

  一谷嫩軍記
二、熊谷陣屋(くまがいじんや)
            熊谷直実  吉右衛門
           白毫弥陀六  富十郎
             藤の方  魁 春
            亀井六郎  友右衛門
            片岡八郎  錦之助
            伊勢三郎  松 江
            駿河次郎  桂 三
          梶原平次景高  由次郎
             堤軍次  歌 昇
             源義経  梅 玉
              相模  藤十郎


三、連獅子(れんじし)
      狂言師後に親獅子の精  勘三郎
      狂言師後に仔獅子の精  勘太郎
      狂言師後に仔獅子の精  七之助
             僧蓮念  橋之助
             僧遍念  扇 雀

第二部
  菅原伝授手習鑑
一、寺子屋(てらこや)
             松王丸  幸四郎
              千代  玉三郎
              戸浪  勘三郎
          涎くり与太郎  高麗蔵
             菅秀才  金太郎
            百姓吾作  錦 吾
            園生の前  時 蔵
            春藤玄蕃  彦三郎
            武部源蔵  仁左衛門

二、三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)
  大川端庚申塚の場

            お嬢吉三  菊五郎
            和尚吉三  團十郎
           夜鷹おとせ  梅 枝
            お坊吉三  吉右衛門

三、藤娘(ふじむすめ)
             藤の精  藤十郎

2010/04/28

【さよなら歌舞伎座】隈研吾の建て替え案に一抹の不安(付:初めての歌舞伎座の記憶)

Img_0378 現歌舞伎座での公演は今月をもってついに終了。三年後に向けて立て替えられることになりました。歌舞伎座君、これまでいろいろありがとう。三階席はちょっと狭かったけど……。さようなら、また会おう!
Img_0372 歌舞伎座の歴史に関しては、たとえばこちらの 歌舞伎座資料館|歌舞伎座の変遷などがあります。現在の歌舞伎座の原型となる建物が出来たのは大正13年(1924年)12月。設計は岡田信一郎とのこと。 Wikipediaを見てみると、なかなかいい建物を造っているようです。嘘つきの孫を持つことで有名な旧鳩山一郎邸(現 鳩山会館)の設計もしているようです。
 ただこの歌舞伎座は、空襲で昭和20年(1945年)5月に外郭を残して焼失してしまいす。昭和25年12月、吉田五十八の設計で現在の歌舞伎座が造られましたが、外観は戦前のものを再現し、近代的な設備を取り入れたものだそうです。
Img_0385 現在の歌舞伎座は、コンクリート造りというところがちと残念ですが、華やかで、「これから歌舞伎を観る」といううきうきした気分にさせてくれるところがぽん太は好きです。ただ舞台が見にくいのは確かで、一階の一等席でも、前の人の頭が邪魔で舞台が見えなかったりします。三階席は前後の間隔も左右の幅も狭く、一度座ると身動きができません。これで4時間以上も観劇するのは苦痛です。また、やはり前の人の頭が邪魔で舞台が見えません。それからトイレが少なくて特に女性はいつも大行列だし、エレベーターがなく、お年寄りも三階まで階段で登らないといけません。こうしたところはぜひ直して欲しいです。それから歌舞伎座の特徴の横長の舞台は、ぜひとも変えないで欲しいです。
Img_0373 歌舞伎座の建替えに関しては、歌舞伎座のサイトのなかの 歌舞伎座建替え計画についてにも書かれています。設計は隈研吾とのこと。サントリー美術館や根津美術館を手がけ、いまや飛ぶ鳥落とす勢いですが、銀山温泉藤屋の件を考えると、ちと不安になります。以前の記事( こちら こちら)でもちょっと触れましたが、大正ロマンの雰囲気漂う華やかな温泉街にある旅館藤屋は、もともとは こちらのサイトにあるような建物でしたが、隈研吾氏の設計でこちらの 公式サイトにあるような建物に改築されました。隈氏がどういう依頼を経営者から受けたのかぽん太は知りませんし、すべてが隈氏の責任ではないと思いますが、外観は銀山温泉の景観を破壊しており、内部も現代的でセンスはありますが、はたして山形の温泉旅館としてふさわしいかは疑問です。おまけに宿泊料金も3万円から5万円とアップ。藤屋は、日本人以上に日本を愛する金髪の女将ジニーさんでも有名でした。そのジニーさんも、2008年3月頃から姿を見せなくなり( 日本一有名な“金髪女将”家出騒動に温泉街“困惑”(ZAKZAK))、帰国してしまったという噂が飛び交っていました。建替えとの関連性は不明ですが、ぽん太が想像するに、古い素朴な温泉旅館を愛したジニーさんが、改築とそれに伴う高級化に嫌気がさしたのがひとつの原因のような気がします。先日藤屋が民事再生を申請して倒産したというニュース( ホテル藤屋:民事再生を申請、負債5億円 金髪の女将で話題/山形(毎日新聞))がありました。
 ひょっとして隈研吾氏は「空気が読めない」のではないだろうか、歌舞伎ファンの気持ちがわかっているのだろうか、劇場建築のノウハウはあるのだろうか。新しく出来た歌舞伎座がまた座席が窮屈だったり、舞台が見にくかったりしないだろうか……。なんだか、あれこれ心配になってきます。
Img_0383 新しく造られる歌舞伎座は、 こちらのページにある外観イメージ図のように、現在の歌舞伎座を踏襲した建物の背後に、29階建てのビルが建つ格好になるようです。ぽん太は、1987年に磯崎新の設計で造られた お茶の水スクエアを思い出します。お茶の水スクエアは、1925年に造られた主婦の友社ビルの外観を残し、高層ビルを加えたもので、日本のポストモダン建築の代表作のひとつです。なんだか20年以上前のアイデアの二番煎じのような気がしますが大丈夫でしょうか……。
Img_0384 もひとつ心配なのは、たしか最初に立て替えを発表したときは、現在の歌舞伎座の建物の外観を踏襲し、さらに戦前の建物にあった中央の大屋根を復元しようというものだったはずです。 こちらのサイトに、「歌舞伎座再生検討委員会報告書」(2005年)のイメージ図が載っております。これはこれでひとつの見識だと思うのですが、これに対して石原都知事が、「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座みたいにした方がいい」といちゃもんをつけました。その結果、2009年1月に発表された建て替え予想図は、現歌舞伎座のイメージを保ちながら、壁をガラス張りにしたり立て格子にしたりという、なんとも中途半端で奇妙きてれつなものでした(「 歌舞伎座、装飾を抑え現代風に 建て替え計画案提出」2009年1月28日、朝日新聞)。な、なんか、銀山温泉藤屋を彷彿とさせます。保存あるいは復元するなら徹底的に保存・復元し、いっそのこと外部をコンクリートではなくて木造にしたりすればいいと思います。現代風にするのなら、なにも今の建物を真似しないで、平成に造られた名劇場建築と50年後に言われるような、オリジナルの建物にすればいいのに……。なんだかぽん太は不安です。

Img_0364 ぽん太が初めて歌舞伎座を訪れたのは十五年くらい前だったでしょうか、日本の伝統芸能歌舞伎を一度観ておこうと思ったのです。ただそのときは、「ああ、こんなもんね」という感じで、それほど面白いとは思はなかったし、あまり記憶にも残っておりません。
 その時『白波五人男』をやっていたのは覚えていて、これは当時そういう芝居の存在を知っていたからだと思います。また、男が楽屋落ちを交えたギャグを飛ばしながら股をくぐらされる場面も覚えていて、これは後に『助六』だということがわかりました。男が「はいはい、くぐりますよ、わたしゃあなたのお父さんの股もくぐったんだから」と言っていて、確か助六は團十郎だったような。もうひとつ、屋根の上で立ち回りをしていて、イヤホンガイドで「斜めになった屋根の上での立ち回りは技術的にとても難しい」みたいなことを言っていた記憶があります。
 いったい、あのとき観た演目は何だったのか、誰がやっていたのかが気になって来て、この際なので調べてみることにしました。手がかりは、筋書きに載っている上演記録です。『白波五人男』と『助六』の過去の記録を照らし合わせ、同月に上演していたのを探してみると、どうやら平成9年1月のようです。では、その月のその他の演目や、出演者は?「歌舞伎美人」のサイトに歌舞伎座過去の公演一覧というページがあるのですが、残念ながらこちらは2006年10月以降。そこでいろいろぐぐってみたところ、「蘭鋳郎の日常」というブログの「 歌舞伎座の思い出 平成7年 上半期」という記事に出てました。それによると、

昼の部
「曽我対面」。十七世羽左衛門の工藤、團十郎の五郎、菊五郎の十郎、九世宗十郎の舞鶴、田之助の大磯の虎、沢村藤十郎の化粧坂の少将ほか。
「勧進帳」。吉右衛門の弁慶、梅玉の富樫、雀右衛門の義経。
「白浪五人男・浜松屋・勢揃い」。菊五郎の弁天小僧、團十郎の南郷力丸、羽左衛門の駄右衛門、左団次の忠信、時蔵の赤星、三世権十郎の幸兵衛ほか。
夜の部
「毛抜」。猿之助の粂寺弾正、三世権十郎の小野春道、九世宗十郎の巻絹、歌六の秦民部、彦三郎の玄蕃、段四郎の万兵衛、菊五郎の桜町中将ほか。
「連獅子」。幸四郎の親獅子、染五郎の子獅子、彦三郎と沢村藤十郎の宗論。
「助六」。団十郎の助六、雀右衛門の揚巻、左団次の意休、幸四郎のくわんぺら、染五郎の朝顔、勘三郎の白酒売、九代目宗十郎の満江、魁春の白玉、海老蔵の福山の担ぎほか。

とのこと。むむ、ネットの力はすばらしい。蘭鋳郎さん、ありがとうございます。ずいぶん豪華な演目ですね。なんでも平成7年は、松竹創立百年を祝う記念興行が年間を通して行われたのだそうで、1月はその最初の月だったそうです。
Img_0366 しかし、ひとつ疑問が。ぽん太の記憶にある『白波五人男』は昼の部。そして『助六』は夜の部。昼夜通しで観たのかいな?『勧進帳』は観た記憶がないし……。
 記憶をたどってみると、当時はインターネットもなかった時代で情報も手に入りにくかったから、歌舞伎座に直接行って、『白波五人男』を幕見で観て、そのあと夜の部を観たのでしょう。ということは、この時みた演目は、『白波五人男』、『毛抜』、『連獅子』、『助六』か……。
 『白波五人男』は、菊五郎の弁天小僧に團十郎の南郷力丸だったのか。『毛抜』を観ていたとは知らなかった。猿之助は、一度舞台を生で観ておきたかったと思っていたのですが、このとき観ていたとは……。幸四郎親子の『連獅子』。う〜ん、記憶にない。『助六』は揚巻が雀右衛門。福山の担ぎが当時17歳のの海老蔵。ちなみに通人里暁は東蔵で、これは後に歌舞伎座で東蔵を見たとき、そうだったような気がしました。
 しかし、待てよ、屋根の上の立ち回りがないぞ!他の記憶と混ざっているのかな。それとも猿之助の『毛抜』は立ち回りがあるのかしら?DVDを観てみればわかるけど……。まあ、今回はこれくらいにしておきましょう。

2010/04/24

【歴史散歩】上野不忍池弁天島・上野大仏

Img_0069 東京文化会館に行くついでに、上野不忍池をみちくさしてきました。昨年秋に琵琶湖の竹生島を訪れたとき(その時の記事はこちら)、弁天島を訪れようと思ったからです。Wikipediaにも書いてありますが、江戸幕府は1625年、京に対する比叡山延暦寺として、江戸に対する上野寛永寺を建立しました。開祖の天海僧正は、不忍池を琵琶湖に見立て、琵琶湖の竹生島に模して弁天島を築き、弁天堂を築きました。そしてそこに、竹生島の宝厳寺から勧請した弁財天を祀りました。弁天島は、初めはホントに「島」でしたが、のちに橋が架けられました。
Img_0071 東京に住んでいると、上野不忍池など何度も行っている気になってましたが、実際に行ってみると、来た記憶がまったくありません。ひょっとしたら小学校以来かもしれません。
Img_0072 不忍池には見慣れないカモが群れてました。調べてみると、キンクロハジロのようです。

Img_0075 こちらは上野大仏です。寛永寺には昔から大仏が祀られてきたそうで、現在の仏様は天保14年(1843)に新たに鋳造されたもののようです。関東大震災で頭部が落下。さらに第二次大戦時、胴体と、顔面以外の頭部は軍事用に供出されました。昭和47年(1972年)に、現在の形で展示されるようになったそうです。
Img_0076 横には写真のような仏塔があり、度重なる戦火をくぐり抜けて来た仏様をお守りしています。

2010/04/23

【温泉・歩くテレマーク】乗鞍高原温泉山水館信濃(★★★)&乗鞍高原遊歩

Img_0053 3月上旬、ぽん太とにゃん子は、歩くテレマークをしに乗鞍高原に行って来ました。当初の予定では、朝早く出かけて乗鞍に昼頃着き、午後歩こうかと思っていました。ところが前日から夜中にかけて寒波がやって来て、山梨、長野は大雪。中央道が除雪のため通行止めになってしまいました。仕方ないので長坂の翁で蕎麦を食べて時間をつぶし、通行止めの解除を待って高速に乗ったので、宿に着いたのはもう夕方でした(写真は翌朝撮ったものです)。今回の宿は、乗鞍温泉山水館信濃。こちらが公式サイトです。温泉街の一番奥にあり、隣はゲレンデです。外観は山小屋風ですが、内部は純和風となっております。
Img_0039 2種類の源泉が楽しめるのがこの宿の売りです。男女別の内湯は、「乗鞍高原温泉」の引湯。硫黄臭く乳白色に濁っており、なめると酸っぱ苦いです。循環加温はしているそうですが、加水無しの源泉掛け長し。木造の浴室は広々しています。
Img_0041 内湯から続く露天風呂は、「わさび沢温泉」の引湯。こちらは無色透明です。さすが乗鞍、温泉力は強いです。
Img_0047 夕食は、囲炉裏のあるお食事どころでいただく郷土料理です。写真はイワナの塩焼きに鴨鍋。馬刺などもあり、食器もきれいです。しかし、せっかく炭火があるのに、イワナはあらかじめ焼いたのを刺した感じだし、また鉄鍋では炭火が活きません。新鮮な食材を炭火焼きで食べる、とかがあればいいのに。
Img_0052 朝食です。地元の食材で、品数も多いです。写真左上の、刻んだ漬け物を陶板で焼いて食べるのはぽん太は初めてで、おいしかったです。
 温泉力はすばらしいですが、それは乗鞍高原温泉ならあたりまえ、というところも。食事もおいしいですが、なにかもう一つ宿としてのこだわり、自己主張があるといいのですが。ぽん太の採点は普通にいい宿で3点!

Img_0067 翌日は快晴。夜にも雪が降ったようで、新雪のなか、乗鞍高原をテレマークスキーで歩きました。写真は牛留池、向こうは乗鞍岳です。

2010/04/22

【温泉】贅沢な精進料理を満喫・武尊温泉萱の家(★★★★★)

 Img_0010 2月下旬、ぽん太とにゃん子は、群馬県にある武尊温泉萱の家(ほたかおんせん・かやのいえ)に泊まって来ました。これまで何回か車で前を通りかかり、雰囲気ある茅葺きの建物だな〜、泊まってみたいな〜と思ってました。何度か予約しよう電話したのですが、いつも「研修があるので泊まれません」と断られておりました。人気があるのかずいぶん混んでるな〜、研修ってなんだろ、などと思ってたのですが、今回念願かなってようやく予約することができました。
 泊まって聞いた話しでは、週のうち半分くらいの曜日しか営業せず、ほかは仕入れや研究を行っているそうで、ぽん太が予約を試みた曜日は休業日にあたっていたようです。な〜んだ、そうだったのか。それなら電話したときそう言ってくれればよかったのに……。
Img_0013 美しい茅葺き屋根、軒に干された大根。う〜ん、いいです。こちらが宿の公式サイトです。なんでも30年ほど前に、近くの5軒の古民家を譲り受け、移築再生したものだそうです。
Img_0020 天井が高く、広々とした玄関部分。白い壁と黒い梁が美しいです。客室はわずか6つでテレビはありません。秘湯好きのぽん太とにゃん子は、普段はテレビがないのは気にしませんが、この日はバンクーバー・オリンピック開催中だったので、ちょっとダメージを受けました。
Img_0024 客室から見た茅葺き屋根。美しいですね。
Img_0019 こちらが浴室です。檜造りで、広々として明るく開放的です。泉温は20.5度と低いため循環加温はしていますが、加水なしの掛け流しです。無色透明のお湯は肌にやさしく、湯船に十字に張られた板に頭を乗せると、とってもくつろげます。
Img_0025 で、泊まって初めて知ったのですが、この宿の売りは食事です。肉はもとより卵やカツオだしさえ一切使わない徹底した精進料理です。精進料理といっても、宿坊の食事のような簡素なものではなく、とてもおいしくてボリュームもあります。野菜や海藻、豆、キノコなどだけでふくよかな味を出すため、大変な手間ひまをかけているそうで、贅沢な精進料理といえましょう。地元の新鮮な野菜や、宿の近くで採れた山菜もおいしく、からだ全体が清められた気がしました。
Img_0032 朝食も品数が多く、とてもおいしかったです。もちろん朝食も精進料理です。なにもそこまで精進料理にこだわる必要はないような気もするのですが、ぽん太はこういう「こだわり」は大好きです。
 茅葺きのすばらしい建物、素材にこだわった徹底した精進料理、浴室の雰囲気、ぽん太の評価は満点です。
 で、今回のブログを書くためにググっていて気がついたのですが、なんと萱の家は、創造学園大学の施設のようです。創造学園大学といえば、酒●法●が入学したことで有名。し、知らなかった。ということは、ブログの冒頭に書いた「研修があるので」というのは、創造学園大学の研修のことだったのでしょうか?なんだか面白くなって来ましたが、今日のみちくさはここまで。

2010/04/21

【オペラ】初日でちょっと硬かったのかしら・新国立劇場『愛の妙薬』

 今回の新国立オペラは、ドニゼッティの『愛の妙薬』。初めてみる演目です。ドニゼッティというのも、先日バレエで「ドニゼッティ・パ・ド・ドゥ」を観たくらいのもの。 Wikipediaを見てみると、1797年生まれ、1848年死去、ロッシーニとともに19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家だそうです。『愛の妙薬』の初演は1832年。当然のことながら、ワグナーの『トリスタンとイゾルデ』は踏まえてないわけですな。ちなみにこちらが新国立劇場公式サイト、そしてこちらが『愛の妙薬』特設サイトです。
 イタリア・オペラということで、男性歌手のとろけるような美声を楽しみにしていたのですが、ネモリーノ役のジョセフ・カレヤの最初のアリアは、声量はありましたがちょっと硬かったです。声にのびというか、つやがなく、イタリア・オペラ独特の声が裏返るようなナキが入りません。公演初日ということで、少し緊張していたのでしょうか。それともちょっと間抜けな若い農夫という役だったので、抑えて歌ったのでしょうか。あるいはぽん太自身がちょっと風邪気味で体調不良だったので、感性が鈍っていたのかもしれません。第一幕は、全体に「のってない」感じでしたが、第二幕になってからは、掛け合いのテンポも出て来て、とても面白かったです。シシリアーナ風のアリア「人知れぬ涙」は心にしみました。アディーナ役のタチアナ・リスニックは、透明できれいな声なのですが、恋の手練手管に長けたアダっぽさがなく、どちらかというと気の強いお嬢様風でした。ジョセフ・カレヤの実の奥さんだそうです。与那城敬はなかなかの美男子で、声もイタリア勢にひけを取らず、色男の軍曹ベルコーレを颯爽と演じておりました。ブルーノ・デ・シモーネのインチキ医者ドゥルカマーラがいかにも滑稽でいかがわしく、隙っ歯から息をもらしながらの歌も上手で、いい仕事しておりました。愛の妙薬と偽って安ワインを高額で売り付けておいて、実際にネモリーノがモテ始めたら、ひょっとしてオレにはすごい力があるのではないかと勘違いし始めるあたりが、医者をうまく描いております。
 演出と美術は、鮮やかな色彩を使ったポップなものでしたが、ちょっと「指輪」と重なるところがあって、損してたかも。オペラの筋は、もうちょっとひねりや毒や隠し味があるといいのですが、単調に感じました。ドニゼッティの音楽もきれいで流麗だけどやはり単調。「国立」の劇場で改まって聴くのではなく、小さな劇場でくつろいで観たらもっと楽しいかも、と思いました。


「愛の妙薬」
[New Production]
ガエターノ・ドニゼッティ/全2幕
【イタリア語上演/字幕付】
2010年4月18日・新国立劇場オペラ劇場

【指 揮】パオロ・オルミ
【演 出】チェーザレ・リエヴィ
【美 術】ルイジ・ペーレゴ
【衣 裳】マリーナ・ルクサルド

【企 画】若杉 弘
【芸術監督代行】尾高忠明
【主 催】新国立劇場

【アディーナ】タチアナ・リスニック
【ネモリーノ】ジョセフ・カレヤ
【ベルコーレ】与那城 敬
【ドゥルカマーラ】ブルーノ・デ・シモーネ
【ジャンネッタ】九嶋香奈枝

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

2010/04/20

【温泉】のらくろの宿、野沢温泉住吉屋(★★★★)(付:庄平そば)

P2100022 2月上旬、野沢温泉の住吉屋に泊まって来ました。こちらが公式サイトです。麻釜(おがま)の向かいに位置し、スキー場につながる動く歩道「遊ロード」にもほど近く、ウィンター・スポーツにも便利です。外観は、黒い梁と白い壁のシックな和風旅館です。
P2100005 客室は、大正〜昭和初期といった感じのノスタルジックな雰囲気の和室で、とても落ち着きます。
P2100006 温泉は、男女入れ換え制の大浴場があり、片方に露天風呂がついています。壁や天井は木製、床や浴槽はタイル張りの和洋折衷で、細かいところまでデザインされ、プロポーション感覚もよく、なかなかいい感じです。窓にはめ込まれた色ガラスは、一つ間違うと俗っぽくなってしまいますが、この場合はレトロな印象を与えています。お湯は無色透明で、わずかに硫黄の匂いがします。泉温は88.6度と高温ですが、弱アルカリ性で肌触りは柔らかです。泉質はナトリウム・カルシウム硫酸塩泉とのこと。
P2100024 夕食は、土蔵を改造したクラシックなお食事処でいただきます。奥に写っているのが「取り回し鉢」と呼ばれる郷土料理だそうで、向かって左が「いもなます」、右が「しょうにいも」です。野沢に江戸時代から伝わる祝い膳料理だそうです。
P2100046 作り立てのお料理が一つひとつ運ばれてくるので、全体写真が撮れません。山菜天ぷらの写真をあげておきます。派手さはありませんが、地元の素材がおいしい郷土料理です。もちろん野沢菜もおいしゅうございました。
P2110065 こちらは朝食です。普通のメニューですが、ひとつひとつの素材がおいしかったです。
P2110072 この住吉屋は、「のらくろ」で有名な田河水泡の定宿だったそうで、館内に田河水泡や友人の漫画家の手になる絵がたくさんかざってあります。のらくろが温泉に入っていたり、スキーをしていたり、味のあるイラストばかりです。
P2100012 野沢温泉には、十三もの外湯があります。外湯の案内は、こちらの野沢温泉観光協会のサイトをどうぞ。心付けをお払いして入ることができますが、地元の人たちが管理してくれている温泉、感謝の気持ちを忘れずにお借りしましょう。今回は、宿の近くにある2カ所の外湯に入りました。こちらは滝の湯です。
P2100013 透明ですがちょっと緑がかったお湯で、硫黄の香りがします。
P2100019 こちらは麻釜の湯(あさがまのゆ)。ほかに入浴していた人がいたので、内部の写真はございません。
P2100002 最後に野沢温泉にあるお蕎麦屋さんをご紹介。それは「庄平そば」です。公式サイトはなさそうなので、Yahoo!グルメにリンクしておきます。オヤマボクチの葉の繊維をつなぎにしているそうで、独特のコシがあります。ただ、そば粉100%とのことですが、蕎麦の香りが強くないのが残念です。
P8260030 ちなみにこれがオヤマボクチ。以前にぽん太が群馬県の吾妻にある丸岩に登った時に撮った写真です。漢字では雄山火口。火口(ほくち)とは、火打石の火をうつしとるもので、葉の裏の毛を火口として利用したのが、名前の由来だそうです。オヤマボクチをつなぎに使った蕎麦は、近くの飯山市富倉の富倉そばが有名ですね。
 ググっていて気になるのは、「ヤマゴボウ」について。オヤマボクチは「ヤマボゴウ」と呼ばれますが、これはオヤマボクチの葉っぱがゴボウに似ているから。一方、モリアザミなどのアザミ類は、根がゴボウのようなので「ヤマゴボウ」と呼ばれ、その根は食用にされ、お土産やで漬け物として売っていたりします。またオヤマボクチもモリアザミもキク科ですが、前者はヤマボクチ属、後者はアザミ属です。ですからオヤマボクチが「アザミの一種」だというのは間違いです。形は似てますが、先ほど書いたように、オヤマボクチの葉にはアザミのような鋭い刺はありません。このあたりを混同しているサイトが多いような気がします。
 さらに複雑なことに、ほかに「ヤマゴボウ」という植物があります(Wikipedia)。全く別の植物で、こちらは毒があるのでご注意を。
 ところで皆さんは、普段食べているゴボウの花を知ってますか。たとえばこちらをどうぞ。アザミみたいですね。ちなみにゴボウもキク科の植物です。

2010/04/18

【歌舞伎】盛りだくさんなのに単調「四谷怪談忠臣蔵」(2010年4月新橋演舞場)

 鶴屋南北の「東海道四谷怪談」が、「仮名手本忠臣蔵」の外伝というかたちで書かれ、初演時には二つの芝居が交互に組み合わされて、二日がかりで演じられたことはよく知られています(こちらの Wikipediaにも書かれています)。近年「東海道四谷怪談」は単独で上演されるのが普通ですが、そうすると「忠臣蔵」を知らないお客さんは楽しめないし、両者の筋が入り交じることで生じる面白さも失われてしまいます。そんなら両方まとめてひとつの芝居にしてしまえ!という発想で、「四谷怪談忠臣蔵」は作られているようです。
 猿之助歌舞伎の例によって物語はスピーディーに展開し、花火などの仕掛けや、宙乗り・本水などのけれんも満載です。ただ、猿之助歌舞伎を何回か見てしまうと、ああ宙乗りね、また本水ね、と驚きが薄れてしまうのも確かです。またテンポの良い筋の運びも、裏をかえせば底の浅さや軽みにつながります。忠臣蔵の仇討ちの物語も、深い共感や感動を与えるものではないし、四谷怪談の方も、おぞましく不気味な感じに欠ける気がします。
 ここでスーパースターがいて、その人の芸に観客が魅了されるようだと芝居が締まるのですが、残念ながら右近はまだその域には達しておりません。そのため、テンポよくあれこれ盛りだくさんな割には、単調に感じてしまいます。右近が観るものをうならせる芸を身につけるのでなければ、新作の出し物やさらに奇抜な趣向をこらさなければ、リピーターには飽きられてしまうような気がします。
 とはいえ、両国橋の花火を背景にした立ち回りなどは、江戸情緒が感じられてよかったですし、新田義貞が高師直に乗り移るという設定や、義貞の息子の大盗賊・暁星五郎を絡ませるなどのアイディアも悪くなかったです。「仮名手本忠臣蔵」では、斧定九郎はお軽が身請けした50両を奪い取る悪役ですが、「四谷怪談忠臣蔵」では塩冶判官の家臣であり、お軽に50両を渡す、というパロディも面白かったです。定九郎の春猿は、堂々とした立派な立役でした。


新橋演舞場 陽春花形歌舞伎
通し狂言 四谷怪談忠臣蔵
仮名鑑双繪草紙(かなでほんにまいえぞうし)
市川右近宙乗り相勤め申し候
平成22年4月

       新田義貞の霊/直助権兵衛
              天川屋義平  市川 右 近
        暁星五郎実は新田鬼龍丸

      佐藤与茂七/義平女房おその  市川 門之助
           高師直/按摩宅悦  市川 猿 弥
               斧定九郎  市川 春 猿
       猪熊局後に伊右衛門母お熊  市川 寿 猿
             小汐田又之丞  市川 弘太郎
             民谷伊右衛門  市川 段治郎
     お岩/小仏小平/一文字屋お軽  市川 笑三郎
            塩冶判官/お袖  市川 笑 也
             大星由良之助  坂東 彌十郎

2010/04/17

【バレエ】踊りはいいけど気分がどっぷり暗くなる「エスメラルダ」国立モスクワ音楽劇場バレエ

 国立モスクワ音楽劇場バレエの「エスメラルダ」を観てきました。なかなか全幕を観る機会がない珍しい演目だそうですが、バレエにしては珍しく、見終わって気分がどっぷり暗くなりました。
 このバレエ団を観るのはぽん太は初めてです。昨年「マラーホフの贈り物」で観たボリショイ・バレエ団のフィーリンが、2008年から芸術監督となったそうです。こちらが 国立モスクワ音楽劇場の公式サイト(英語版)。場所は こちら(googleマップ)で、クレムリンの北側に位置するようです。
 なんでも、スタニスラフスキー・システムに基づく舞台で有名だそうで、劇場名にも「スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念」と冠されています。タヌキのぽん太は、スタニスラフスキー・システムと聞いても、リアリズム演劇の方法論というぐらいしか知りません。あと、ダンチェンコって誰?
 ぐぐってみたところ、スタニスラフスキーは1863年モスクワ生まれ、1938年に死去。1898年にネミロヴィチ=ダンチェンコとともにモスクワ芸術座を創設したとのこと。ああ、ダンチェンコってこの人か……。モスクワ芸術座は、初演がさんざんな結果に終わったチェーホフの『かもめ』を再演して大成功に導き、また『三人姉妹』や『桜の園』を初演したのだそうな。ちなみにこちらが モスクワ芸術座の公式サイト(英語)です。
 スタニスラフスキーとモスクワ芸術座との関係はわかりましたが、国立モスクワ音楽劇場との関係はどうなっているのでしょう。上記の日本公演公式サイトによれば、1929年にボリジョイ劇場の名バレリーナ、ヴィクトリーナ・クリーゲル(ヴィクトリア?)によって創設されたモスクワ芸術バレエ団が、国立モスクワ音楽劇場の前身だそうです。クリーゲルの試みはネミロヴィチ=ダンチェンコやスタニスラフスキーを魅了したそうです。 Wikipedia(英語版)によれば、このバレエ団は1941年にスタニスラフスキーが率いていたオペラ劇団と合併して「スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念・モスクワ州立音楽劇場」となりました。戦時体制下で、いくつかあった劇団が合併してひとつになった、という事情のようです。ちなみにウラジーミル・ブルメイステル(1904-1970年)は、もともとモスクワ芸術バレエ団のダンサーでしたが、1938年に芸術監督としてデビューし、1941年から1970年まで国立モスクワ音楽劇場の主席芸術監督を務めたそうです。
 ということで素人のぽん太にも、国立モスクワ音楽劇場はスタニスラフスキーと関係があり、スタニスラフスキー・システムを取り入れたバレエを上演して来た、ということだけはわかりました。
 そういわれてみれば今回の「エスメラルダ」は、登場人物の心理的や、その表現が重視されていたように思います。冒頭のエスメラルのお母さんなどは、バレエというより演劇みたいで、ちょっと鼻につく感じさえしました。バレエなら、踊りで感情を表現して欲しいです。確かに登場人物たちの心理の流れを想定することによって、ドラマ性が強まることは事実でしょう。このドラマ性は、「ジゼル」などのロマンティック・バレエのメルヘンチックなドラマ性ではなく、近代的な心理劇が持つドラマ性です。日本でこうしたドラマ性を追求したのは新劇ですから、ぽん太には、なんだか逆に古くさく感じてしまいました。しかしエスメラルダ役のナターリヤ・レドフスカヤは、踊りとして完璧でありながら、同時にそれが自然に心理表現となっていて、とてもすばらしかったです。彼女の踊りが、このバレエ団が目指す理想を体現しているのかもしれません。
 で、脚本ですが、話しが暗すぎます。フロロは聖職者のくせにエスメラルダに愛欲をいだき、嫉妬してフェビュスを殺し、愛しているはずのエスメラルダを冷徹に見殺しにします。聖職者である自分がジプシーに愛欲を抱くことに悩む、などということはありません。そのフェビュスも婚約者(?)がいるくせに平気でエスメラルダと逢い引き。エスメラルダはエスメラルダで、カジモドの好意に気づかず、女ったらしのフェビュスに熱をあげます。ガジモドも、最後にフロロを殺すくらいだったら、証拠のナイフも持っているんだし、エスメラルだが処刑されそうになっているときになんとか言えよ!結局エスメラルダもフロロも死に、嫌なフェビュスはちゃっかり生き残り、カジモドの思いも届かないという結末。ちっとも救いがありません。いわゆる「悲劇」は、悲しい結末ながらも、それはそれで運命の過酷さを感じたり、登場人物に共感できたりするのですが、「エスメラルダ」の結末は「悲しい」のではなく、「いやな」感じを受けます。最後の観客の拍手も、アンコールが繰り返されて長くは続きましたが、どっぷりと暗く重い感じでした。
 また処刑される前に、エスメラルダと貧しい老女が実の母子であることが判明するのですが、それによって劇が新たな展開を見せるといったこともなく、母子とわかってそれで終わしまい。「だからどうしたの」と思いました。
 例えば醜いカジモドのエスメラルダへの愛をテーマにするのなら、夢のシーンでもいいですから、カジモドとエスメラルダのせつないパ・ド・ドゥでも入れて欲しかったです。

 踊りに関しては、上に書いたように、ナターリヤ・レドフスカヤのエスメラルダは見事でした。アップで見ると目がぎょろっとして口が大きくてちと怖いですが、踊りは可憐で軽やか、嬉しくて思わずくるくる回ったり、恋に落ちた少女そのものでした。またジプシーの踊りなどの群舞は、パワフルで迫力満点でした。道化はもうひとつ動きにキレが欲しかったです。
 今回の公演は専属のオケが同伴。演奏はお手のもので息があっていました。しかしプーニ作曲の音楽そのものは、まあまあ普通。舞台装置は豪華で美しかったです。
 席はなんと最前列。間近では見えるのですが、ダンサーの足先が見えないというオーチャード・ホールの構造は、有名ですネ。


スタニフラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念 
国立モスクワ音楽劇場バレエ
2010年4月14日 オーチャードホール

指揮:アントン・グリシャン
管弦楽:国立モスクワ音楽劇場管弦楽団

音楽:チェーザレ・プーニ/レイゴリト・グリエール/セルゲイ・ワシレンコ
台本:ワシリー・チホミーロフ/ウラジーミル・ブルメイステル
原作:ビクトル・ユゴー「ノートル・ダム・ド・パリ」
振付・演出:ウラジーミル・ブルメイステル(1950年)
美術:アレクサンダー・ルーシン
リバイバル演出:セルゲイ・フィーリン(2009年)

エスメラルダ:ナターリア・レドフスカヤ
フェビュス:セミョーン・チュージン
クロード・フロロ:ウラジミール・キリーロフ
カジモド:アントン・ドマショーフ
グドゥラ:インナ・ギンケーヴィチ
フルール・ド・リス:マリーヤ・セメニャチェンコ
ジプシー:イリーナ・ベラヴィナ
将校:セルゲイ・クジミン、ロマン・マレンコ
道化:デニス・アキンフェーエフ、デニス・ペルコフスキー、アレクセイ・ポポーフ
王:ドミトリー・ロマネンコ、セルゲイ・マヌイロフ、イリーヤ・ウルーソフ
シェンシェリ:アンナ・ヴォロンコーワ
ヴァリエーション:マリア・クラマレンコ、エリカ・ミキルチチェワ、アンナ・アルナウートワ

2010/04/16

【温泉】沢渡温泉まるほん旅館(★★★★)(付:中之条そば処吾妻路、伊勢崎旧時報鐘楼、太田焼きそば・大光院

 1月末、ぽん太とにゃん子は、群馬県は沢渡温泉のまるほん旅館に泊まって来ました。
P1270007 中之条のそば処吾妻路で早めのお昼。公式サイトはなさそうなので、食べログにリンクしておきます(こちらです)。以前は道路側に入り口があったのですが、今回行ったら、隣の立派な門をくぐり、奥から入るかたちになってました。不況の時代に着実に進化してますね〜。
P1270005 田舎そばともりそばが味わえる「吾妻路そば」を注文。香りがたかくてとてもおいしいです。また田舎そばは粒子が粗く、ぶつぶつとした食感が素朴な印象を受けます。
P1280029 草津国際スキー場で軽くスキーを楽しんだ後、若山牧水で有名な暮坂峠を通り、沢渡温泉へ。こじんまりとした落ち着いた温泉街です。こちらが沢渡温泉の公式ホームページです。
P1270001 まるほん旅館です。落ち着いた和風旅館で、日本秘湯を守る会の会員です。まるほん旅館の公式サイトはこちら
P1270003 ぽん太は20年ほど前に、ウシ先生とまるほん旅館に泊まったことがあります。いまでは中之条から沢渡温泉まで、片側一車線の立派な舗装道路がありますが、当時は狭い山道を車でうねうね登って来た記憶があります。内部は改装されたようで、客室も新しくこざっばりとしておりますが、この宿の売りの大浴場は昔のままのようです。写真は大浴場へと続く渡り廊下です。首に手ぬぐい、浴衣姿で廊下を渡って行くと、温泉気分が盛り上がります。
P1280020 ドアを開けると浴室中央のテラスのようなところに出て、そこから階段を下りるという仕組みになっております。なかなか面白い趣向です。浴槽の底には青い石が敷かれており、また浴室の床は、檜の板が放射状に貼られています。このような意匠の浴場は、ぽん太は他では見たことがありません。独創性に拍手、拍手。
P1280023 もちろん源泉掛け流し。循環濾過はしているようですが、加水・加温はしておりません。泉温は54.9度とのことですが、真冬のせいかちょっとぬるめで、ゆっくりとつかることができました。泉質はカルシウム・ナトリウムー硫酸塩・塩化物泉で、無色透明ですが湯の花が舞います。
P1280026 大浴場は混浴ですが、女性専用タイムもあります。そのほかに婦人風呂と、貸し切り露天風呂がありますが、露天風呂はあまり開放感がなく、大浴場の圧倒的な存在感にはかないません。
P1280028 また、隣には共同浴場があります。以前に来た時には、まるほん旅館と同じように、床が放射状の檜で、浴室の底が青い石だったと記憶しているのですが、床は石ばりに改装されておりました。
P1270015 夕食は、おいしい山のお食事。豪華さはありませんが地元の素材をいかした手の込んだ料理で、もてなしの心が伝わって来ます。
P1270017 こちらはリンゴのグラタン。味はもちろん、工夫が面白く、見た目の美しさまで、心遣いが行き渡っております。
P1280019 こちらは朝食です。定番のメニューですが、おいしゅうございました。
 なんといっても大浴場が群を抜いてすばらしいです。食事もおいしく、ぽん太の評価は4点です。
P1280027 まるほん旅館の道を挟んで向かい側に、このような案内板が……。ここには福田宗禎という人の家があり、湯宿をしながら医者も兼ねていたそうで、高野長英の弟子となって蘭方医学を学んだそうです。高野長英と吾妻地方の縁が深いことはよく知られています。
P1280031 帰りは、あまり行ったことがない伊勢崎、太田方面をみちくさしてみました。写真は伊勢崎の旧時報鐘楼です。場所はこちら(goo地図)、解説は例えばこちらをどうぞ。なかなか味のある塔です。しかしそれよりもぽん太は、隣にある小学校の建物が立派なのに驚きました。
P1280037 続いて太田市に行き、太田焼きそばをいただきました。生まれて初めてです。訪れたのは岩崎屋さん。公式サイトはこちらです。
P1280036 焼きそば(小)(210円)と焼きまんじゅう(150円)を注文。値段が大変安いです。出て来た焼きそばは、噂には聞いておりましたが、真っ黒。もちもちした感触の麺でした。具はキャベツのみ。少し肉が入っている方が、おいしい気がしたのですが……。上州名物焼きまんじゅうも、なかはふかふか、まわりは適度に焦げて香ばしく、おいしゅうございました。
 太田焼きそばの由来に関しては、こちらのサイトに書かれています。太田市は中島飛行機の工場があり、戦時中は「隼」などの名機を生み出しました。戦後解体され、そのひとつが現在の富士重工となりました。先のサイトによれば、焼きそばは東北から働きにきた人たちによって持ち込まれたと考えられているそうです。現在のブラジル人労働者の評判はいかがなのでしょうか?
P1280040 こちらは太田市にある大光院です。1613年に創建されたお寺ですが、初代住職の呑龍上人(どんりゅうしょうにん。呑竜とも書くようです)は、貧しい子供たちを引き取って弟子として育てたため、「子育て呑龍」と呼ばれたそうです。ちなみに大日本帝国陸軍の百式重爆撃機は「呑龍」と呼ばれますが、中島飛行機で製造されておりました。上人も、自分の名が爆撃機に使われるとは思っていなかったことでしょう。

2010/04/15

【歌舞伎】最後を飾るにふさわしい祝祭劇「助六由縁江戸桜」(歌舞伎座2010年4月第三部)

 長々と続いた歌舞伎座さよなら公演もいよいよ今月で終わり。歌舞伎座は新しく生まれ変わることになります。今月は切符をとるのが大変だったそうですが、なんとか確保することができました。まずは第三部を観てきました。
 「実録先代萩」は、「先代萩」というくらいで伊達騒動を世界としており、藩主亀千代の乳人浅岡が、はるばる会いにきた我が子千代松を、泣くなく国に追い返すという話し。「伽羅先代萩」に比べると、筋立てはかなり地味です。その分聞かせどころがいろいろとあるようですが、歌舞伎初心者のぽん太にその芸がわかるはずもなく、ちと退屈しました。でも芝翫の円熟の芸はよかったです。
 一方「助六由縁江戸桜」は、とにかく派手で威勢がよくって楽しくて、祝祭的な雰囲気もあり、さようなら公演の最後を飾るにふさわしい演目。悪口雑言や啖呵のオンパレードは、お祭りの神事を思わせます。しかも幹部役者総出演で盛り上げます。ベテラン役者たちの、言葉の掛け合いのリズムと間を聞いているだけで、なんだか心地よくなります。團十郎のからっと明るく、どこかお馬鹿な感じが助六にぴったり。玉三郎の揚巻はきれいでしたが、ちょっと高貴すぎて、この猥雑な芝居には逆に浮いてる気がしました。仁左衛門は上方ながら、江戸っ子の芝居もばっちりでした。勘三郎の通人が、巧みな話術と楽屋落ちで会場をわかせ、白酒売りの菊五郎が笑いっぱなしでした。

歌舞伎座さよなら公演
御名残四月大歌舞伎
平成22年4月 歌舞伎座・第三部

一、実録先代萩(じつろくせんだいはぎ)
            乳人浅岡  芝 翫
           松前鉄之助  橋之助
             局錦木  萬次郎
             局松島  孝太郎
            腰元梅香  児太郎
             亀千代  千之助
             千代松  宜 生
             局呉竹  扇 雀
             局沢田  芝 雀
           片倉小十郎  幸四郎

  歌舞伎十八番の内
二、助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)
           花川戸助六  團十郎
           三浦屋揚巻  玉三郎
            通人里暁  勘三郎
         福山かつぎ寿吉  三津五郎
           三浦屋白玉  福 助
        男伊達 山谷弥吉  権十郎
        同   田甫富松  松 江
        同   竹門虎蔵  男女蔵
        同  砂利場石造  亀三郎
        同   石浜浪七  亀 寿
           傾城八重衣  松 也
           同  浮橋  梅 枝
           同  胡蝶  巳之助
           同  愛染  新 悟
             金棒引  種太郎
               同  萬太郎
               同  廣太郎
               同  廣 松
            禿たより  玉太郎
        白玉付番新梅ヶ香  歌 江
            奴奈良平  亀 蔵
           国侍利金太  市 蔵
            遣手お辰  右之助
          番頭新造白菊  家 橘
            朝顔仙平  歌 六
            曽我満江  東 蔵
         三浦屋女房お松  秀太郎
            髭の意休  左團次
        くわんぺら門兵衛  仁左衛門
          白酒売新兵衛  菊五郎

              口上  海老蔵

2010/04/14

【エベレスト街道トレッキング(8)】パシュパティナート・ボダナート・スワヤンブナート(カトマンズ市内観光)

 さあ、年末年始のエベレスト街道トレッキングのご報告、いよいよ最終回です。最終日はカトマンズ市内を観光いたしました。駆け足でご紹介、ご紹介。
P1020082 まずはパシュパティナート。ヒンズー教の寺院です。立ち上る煙は、ご遺体を火葬しているところです。このバクマティ川は、ガンジス川につながっているのだそうです。ぽん太はインドのバナレスを訪れたときガンジス川で沐浴をしたことはあるのですが、このバクマティ川の水はまったりと淀んでいて、ちょっと沐浴する気にはなれません。
P1020089 参道の途中にある建物のテラスのような部分に、女性たちが座っていて、お参りに来た人々から施しを受けておりました。ガイドさんの説明では、なんらかの事情で生活に困った女性が暮らしているそうです。日本で言えば一種の福祉施設のようなもののようですね。
P1020093 次に訪れたのはボダナート。こちらはチベット密教の寺院です。この「目」は独特ですね。本拠地のチベットの寺院には、このような目は描かれていませんでした。ネパール独特のものなのでしょうか?
P1020098 竹で輿のようなものを作っている人たちがいました。お葬式の準備だそうです。
P1020101 こちらは道ばたでなにやら売ってますが、売り物は……お、お金!? 両替屋さんですね。道ばたで札束を広げて、よく強盗にあいませんね。
P1020104 お次ぎはスワヤンブナート。小高い丘の上にあり、カトマンズ盆地を見晴らすことができます。ここは、ぽん太の前回のネパール旅行では訪れなかったところで、今回が初めてでした。急な階段が、トレッキングで筋肉痛の足にはきつかったです。地元の子供たちが、先生に言われてしっかり手すりを握りながら、一列になって降りて来ました。かわいいですね。
P1020105 ストゥーパは残念ながら工事中。手前の台の上にいる猿は本物です。
P1020110 ガイドさんの話しでは、ここスワヤンブナートは、仏陀が生まれる前からある聖地で、仏陀も参拝に来たことがあるというのですが、ホントでしょうか?
P1020113 参道の果物売りのおじさんです。
P1020114 こちらは刺繍を売っているおにいさん。刺繍屋はもう一軒ありましたが、そちらも男性が刺繍をしておりました。ネパールでは刺繍は男の仕事なんでしょうか。
P1020641 昼食は、ガイドさんにお願いして、観光客向けのレストランではなく、地元ネパール人も行くような店に連れて行ってもらいました。タメル地区にあるMustang Thakali Chuloという店ですが、場所はどこかと聞かれてもわかりません。ググれば出て来るみたいですよ。ネパール・ランチセットみないなのを頼みましたが、とてもおいしかったです。
P1020116 さて、次はカトマンズの人々で賑わうダルバール広場へ。由緒ありそうな建物が並んでいます。
P1020007 どこだか忘れたけどどっかの寺院。細かいところまで作り込まれた、とても美しい木製の装飾です。
P1020014 香辛料売りのおじさんです。色とりどりでとてもきれいです。
P1020017 カトマンズ最後の晩餐は、ネパール民族舞踊つき王宮風料理のお店。店名は忘れました。おにいさんが、高いところから狙いをはずさずお酒を注いでくれます。
P1020675 こちらがお料理。肉厚の金属製のお皿が、「王宮」という感じがします。
P1020019 お姉さんの踊りですね。
P1020018_3 そのお店にあったストーブ。裏側に巨大なガスボンベがはめ込まれております。カセットコンロならぬカセットストーブか?それにしても大きすぎます。
 さて、年末年始のネパール・トレッキングのご報告もようやく終わりました……って、もうGW前やがな。GWはぽん太とにゃん子はドイツに行く予定です。またご報告いたしますので、お楽しみに。

2010/04/12

【映画】「女優フランシス」を精神科医が見る

 「女優フランシス」をビデオで見ました。ジャック・エル=ハイの『ロボトミスト』(岩波彰訳、ランダムハウス講談社、2009年)を読んで、この映画のなかに、ロボトミー手術を世に広めたフリーマンに似た医師が、フランシスに手術を行うシーンがあると知ったからです。この本は、ぽん太にとってとても興味深かったのですが、これについては日を改めてご紹介することにしましょう(たぶん、だけど……)。

 「女優フランシス」(原題:Frances)は1982年に製作されたアメリカ映画、監督はグレイム・クリフォードです。こちらの映画.comで、あらすじや細かい情報を見ることができます。

 この映画については既にさまざまに論じられていると思うので、一般的な感想は割愛し、精神医学的に見てどうかということだけ書こうと思います。おそらく一般の人がこの映画を見ると、主人公のフランシスに感情移入して、フランシス可哀想に〜という感じで見ると思うのですが、精神科医のぽん太が見る場合は、「そう描かれているけどフランシスにもほんとは問題があったんじゃないの?」などとついつい考えてしまうので、ちと複雑です。

 映画のモデルとなった実在の女優フランシス・ファーマーに関しては、ネット上にあまり情報がないのですが、英語のWikipediaに出ていたので、そのページにリンクしておきます。1913年に生まれ、1970年に死去。

 出演作のいくつかは、Movie Walkerで「フランセス・ファーマー」で検索すると出て来ます(→こちら)。amazonでは「大自然の凱歌」(1938年)を購入できるようです。25歳の頃の、まだ入院したりする前の作品ですね。

 彼女は、躁うつ病や妄想型統合失調症と診断されたそうですが、実際にどのような病状だったのか、現代ならどのような診断に当てはまるかについては、ぽん太には情報不足でわかりません。診察したこともない有名人に対して、あ〜だこ〜だと病名を付けるというよくやられているゲームには、ぽん太は関心がありません。

 彼女はインシュリン・ショックや電気ショック療法(ECT)などさまざまな治療を受けたようですが、何よりもロボトミー手術が施されたという噂で有名です。こちらのサイトにある こちら写真は、フリーマン医師がフランシス・ファーマーそのひとにロボトミー手術を施す瞬間だと言われておりますが、信じるも信じないもあなた次第です。

 上記の『ロボトミスト』によれば、映画「女優フランシス」は、映画評論家ウィリアム・アーノルドが執筆した『シャドウランド』(1978年)という本に基づいて作られているそうです。アーノルドは手術から数十年もたってから病院の看護師にインタビューをして、フランシスがロボトミー手術を受けたという情報を得たと主張ました。また同じ頃フリーマン医師の息子のフランクリンも、精神外科史家のデイヴィッド・シュッツのインタビューに答えて、上記の写真はフランシスだと明言したといいます。しかし後になてフランクリンは、その情報は又聞きだったことを認めたそうです。実際のところは彼女がロボトミー手術を受けたという証拠はなく、むしろそれを否定的な情報の方が多いそうです。

 それはさておき、この映画のなかで医師が手軽で簡単な精神病の治療法としてロボトミー手術を売り込むシーンは、脳を傷つけるという行為がこんな安易にやられていいのかという疑問を抱かせます。しかし考えてみれば、「うつ病だったら抗うつ剤を飲みなさい」という現代の医療だって、似たり寄ったりなのかもしれません。

 映画に描かれているのは、ロボトミー手術の中でも経眼窩ロボトミーと呼ばれるもので、上まぶたと眼球のあいだにアイスピック状の器具を挿し、ハンマーで叩くことによって眼窩(目のくぼみ)の上側の骨を突き破って脳に到達。孔を支点にしてアイスピックをワイパーのように動かすことで、前頭葉につながる神経繊維を切断するというものです。映画では、アイスピック状の器具を持った医師がフランシスの上まぶたをめくるところまでが描かれています(あ〜恐ろしい)。しかし、手術前に器具をフランシスのおでこに当てて動かして見せるのは変です。確かに現実のフリーマンは過剰な消毒や感染対策を馬鹿にしたことで知られていますが、これから脳に突き刺す器具に雑菌を付けるような行為をしたとはちょっと考えられません。

 映画を見ていてもひとつぽん太が変に思ったのは、インシュリン・ショック療法のシーンです。ビタミン剤などと言われてインシュリンを打たれた彼女は、口にはさまれた布を噛み締めながらけいれんを起こします。しかしこれは間違いで、インシュリン・ショック療法は、「ショック」と名がつくものの、けいれんを引き起こすものではありません。患者を低血糖状態に置くことで、一定時間意識を喪失させるという治療法です。まれにけいれんが起きることはあったそうですが、それは治療上望ましくない副作用であると考えられていました。注射によってけいれんを引き起こすのは、カルジアゾール・ショック療法と呼ばれる別の治療法です。カルジアゾールを射たれた患者は、けいれんを起こす前に激しい恐怖や不安に襲われたと言われています。映画では、薬物はフランシスの太ももに皮下注射か筋肉注射されたように見えます。しかしカルジアゾールは静脈注射されるのが普通で、皮下注射や筋肉注射(そして静脈注射)で用いられるのはインシュリンです。映画はカルジアゾール・ショック療法とインシュリン・ショック療法を混同しているのではないでしょうか。

 ついでに言えば、電気けいれん療法のシーンも、通電後の間代性けいれんの周期が、実際よりもゆっくり過ぎると感じました。

 ぽん太が研修医だった二十数年前は、まだ入院病棟にロボトミー手術を受けた患者さんが入院しておられました。入院患者さんのCT写真を見ていたら、脳の両側に低吸収領域(つまり損傷の痕)がある患者さんがいたのです。指導医に訪ねたところ、それはロボトミー手術の痕で、その証拠に頭蓋骨のこめかみ部分に開けられた穴が映っていると指摘されました。もちろんロボトミー手術は、現在は行われておらず、精神医療の歴史における重大な過ちとされています。

2010/04/11

【バレエの原作を読む(7)】「シルヴィア」←トルクァート・タッソ『アミンタ』

 ここで久々に、「バレエの原作を読む」シリーズのお時間です。
 今回は「シルヴィア」。先日のポリーナちゃんの溌剌とした踊りが頭に浮かんできます。「シルヴィア」は、1876年にパリ・オペラ座で初演されました。台本はジュール・バルビエ、振付けはルイ・メラント、音楽は「コッペリア」で有名なレオ・ドリーブです。現在おもに踊られるのは、1952年にアシュトンが振り付けたものです。「シルヴィア」のあらすじを知りたい方は、たとえば こちらのサイトをご覧下さい。
 で、原作はというとトルクァート・タッソの牧歌劇『アミンタ』とのこと。岩波文庫で『愛神の戯れ――牧神劇『アミンタ』』(鷲平京子訳、岩波書店、1987年)というタイトルで翻訳が出ています。
 で、『アミンタ』のあらすじですが、ちょっとググってみましたが見つかりません。よろしい、それならぽん太が皆様のために一肌脱ぎ、ひじょ〜にめんどくさくて嫌で嫌でたまりませんが、あらすじをご紹介することにいたしましょう。

 まずは舞台に愛神アモーレが現れます。彼の矢に射抜かれると、愛で心が疼きます。アモーレは神でありながら、牧人の身なりをしています。母親の美神ヴェーネレが、宮廷の高貴な人々ばかりに自分を遣わすのに嫌気がさし、粗野な民衆たちの心に愛を芽生えさせようとしているのです。彼は数年前に、牧人アミンタに愛の矢を射ました。そして今日は、非情なニンフであるシルヴィアの胸を射抜こうとしています。
 シルヴィアは、獣を追い回して狩りをすることにばかりに熱中し、恋にはまったく無頓着なニンフです。友達のダーフネが愛の喜びを語り聞かせ、牧人アミンタがシルヴィアに恋していることを伝えても、シルヴィアは何の関心も示しません。一方、牧人アミンタは、自分の思いがシルヴィアに届かないことを悲しんで、自殺まで考える始末。そこでアミンタの友人のティルシは、シルヴィアの友達のダーフネと語り合って、一計を案じます。ダーフネがシルヴィアを水浴びに連れ出し、そこにティルシが牧人アミンタを誘い出すのです。うら若きシルヴィアが裸で水浴びしているところに、愛に身を焦がす牧人アミンタが出くわせば、あとは……ふ、ふ、ふ、という計画です。
 ところが泉で水浴びをしているシルヴィアに、醜い獣神サテュロスが襲いかかったのです。サテュロスは、自分の愛に応えようとしないシルヴィアを、暴力で奪おうと考えたのです。泉を訪れたアミンタが見たのは、無惨にも全裸のまま樹に縛り付けられたシルヴィアの姿で、その横には獣神サテュロスが荒々しく立ちはだかっていました。シルヴィアを恋するアミンタは、手にした槍でサテュロスに襲いかかり、格闘のすえ追い払います。ところが縛めを解かれたシルヴィアは、お礼も言わずにその場から走り去ってしまいます。
 絶望にうちひしがれたアミンタは、恐ろしい話しを聞かされます。泉から逃げ出したシルヴィアに、オオカミが襲いかかったのです。オオカミの群れが肉片を食い散らかし、地面にはシルヴィアの槍とヴェールが残されていたというのです。それを聞いたアミンタは、ああ、もうだめ、ボクも死んじゃう、と走り去ります。
 ところがどっこいシルヴィアは生きていた!槍を捨てヴェールを置き去りにしながら、からくもオオカミの群れから逃げおおせたのです。シルヴィアは、自分が死んだと勘違いしたアミンタが死を決意し、崖の上から身を投げたことを知らされます。非情な心を持つシルヴィアでしたが、それを聞いた彼女の目に涙が流れ落ちます。そう、それこそ愛の涙だったのです。シルヴィアは、これまで自分が石のような心を持ち、自分のためだけに生きて来たことを悔やみます。そしてアミンタを弔って自らも命を断とうと決心します。
 ところがどっこいアミンタは生きていた!イバラや蔓草が衝撃を和らげ、哀れな牧人は一命を取り留めたのです。いまや二人はお互いの安否を確かめ合い、永遠の愛に結ばれます。
 最後に舞台上に美神ヴェーネレが登場。劇の冒頭に登場した息子の愛神アモーレを追って、天界をすみずみまで探したものの見つからず、この宮廷にやって来たのです。彼女はアモーレが(つまり愛が)いかに移り気で移ろいやすいかを詠いあげます。そしてこの宮廷にアモーレは見当たらないと言い、別のところを探しに出かけるのです。
 ちと長めのあらすじになってしまいましたが、ご容赦ください。またぽん太がいつも言っていることではありますが、原作は韻律を踏んだ美文で、コロスや幕間劇も備えた演劇用の脚本なので、その面白さをあらすじで伝えることはできません。興味を持った方は、ぜひ原作をお読みください。
 で、ぽん太が読んだ感想ですが、「死んだと思ってたら実は生きていた」というパターンの繰り返しがちょっとくどい。また、コロスなどギリシア悲劇的な形式を備えてはいるものの、ギリシャ悲劇のような運命に突き動かされて悲劇に至る緻密な構成には欠けています。一方で愛の様々な様相を詠い上げるという点では優れていて、偽古典的な二流作品という印象でした。
 しかし岩波文庫の訳者の鷲平京子による解説はとても優れていて、『アミンタ』を当時のイタリアの社会状況と芸術史の流れのなかに的確に位置づけて評価しております。無学なぽん太にも、それを読んで、ようやくこの作品がいかに優れていて面白いか理解することができました。
 著者のタッソも無学なぽん太には初耳。1544年にソレントに生まれ、1595年に没したイタリアの叙事詩人で、『アミンタ』が執筆されたのは1573年だそうです。日本でいえば、足利義昭が織田信長に追放されて室町幕府が滅んだ年ですね。
 『アミンタ』は「牧歌劇」と冠されています。そのもととなる「牧歌」は、ギリシア時代に端を発するジャンルで、2,3人の牧人の対話という形式をとっておりました。ルネッサンスになって宮廷で行われた演劇の幕間劇として復活しましたが、16世紀半ば頃から、牧歌は次第に複雑な文学・演劇の形式として発展しました。それを「牧歌劇」という新しいジャンルとして確立したのが、この『アミンタ』なのだそうです。この時期は、ルネッサンスの原動力となったギリシア・ラテン文化が、権威として機能し始めた時代であり、古典的な形式をデフォルメし、宮廷ではなく一般民衆を主人公として愛を描いたという点で、『アミンタ』はマニエリスムという当時の革新的な芸術思潮に属しており、当時の芸術に大きな影響を与えたのだそうです。劇の最後でヴェーネレが、宮廷にはアモーレが見つからないので他を探しに行くという台詞は、当時としてはショッキングなものだったのですね。
 イタリアの社会情勢としては、タッソが身を寄せていたエステ家の宮廷文化が次第に力を失い、メディチ家が栄華を極めて行く時代であり、またスペインとイタリアの関係、カトリックとプロテスタントの対立や異端審問、ハプスブルグ家なども絡んできて大変興味深いのですが、無知なるぽん太はまったくわからないので、そのうちまたみちくさすべく宿題としてとっておきたいと思います。
 で、精神科医ぽん太にとって興味深いのは、作者のタッソが精神に異常をきたしたということ。1575年(31歳)に、十数年の構想を経た長編叙事詩『エルサレム解放』を完成させたのち、タッソは錯乱の兆しを見せはじめたそうです。緊張と疲労と発熱に苦しみながら、妄想や疑いに苛まれて『エルサレム解放』の修正を繰り返し、必要以上に人々の批判を求め、あげくのはてに異端審問所に出頭したのだそうです。審問所では問題なしとされたものの、病的な不安はつもる一方で、1577年6月、短刀で従僕に襲いかかり、修道院に幽閉されます。しかしそこを脱出し、2年ほどイタリア各地をさまよったあげく、エステ家のアルフォンソ公の結婚式に現れて公を罵倒し、再び捕えられて聖女アンナ病院の地下牢に監禁されます。ここに7年間幽閉されたあいだも、タッソは詩作にはげんだそうです。1586年、マントヴァ公国のゴンザーガ家のとりなしでようやく自由の身となりましたが、翌年には忽然とその地を去って放浪の旅にで、あちこちで歓迎されながらもいずこにも安住することなく、1595年、放浪の果てにローマ近くの聖オノーフリオ修道院で息を引き取ったそうです。
 う、う、う、とても興味がありますが、これも今日のところはここまでにして、またのみちくさの機会を待つことにしましょう。
 最後に、エピローグの美神ヴェーネレの台詞のなかに、愛神アモーレが、絵に描かれた運命の女神と同じように、前髪は長く豊かなのに、頭の後ろには毛が生えていない、というのがあります。ぽん太は高校生の時に、数学の桑原先生に、「チャンスの神様というのは、頭の前には毛が生えているけど、後ろは禿げている。だから通り過ぎてからやっとあれがチャンスの神様だったと気づくけど、捕まえようとしても髪の毛がないからつかめないんだ」という教訓話を教わりました。う〜ん、そのネタはこれだったのでしょうか。元ネタはいったいどこまで遡れるのでしょう。このみちくさも、宿題にとっておきたいと思います。

2010/04/10

【エベレスト街道トレッキング(7)】なつかしき再会(シャンボチェ→カトマンズ)

P1010020 2010年の元日です。初日の出を待ちます。徐々に空が白んできて、エベレストに朝日が当たり始めます。
P1010033 周囲の山が高いので、とっくに空は明るくなっているのに、なかなか太陽が姿を見せてくれません。やがてタムセルクの肩から太陽が現れました。今年も平和な一年でありますように……。
P1010052 このスキー場のような雪の斜面が、シャンボチェの飛行場です。ほんとに誰かがスキーで滑った跡がありました。ルクラの飛行場と同じく、滑走路が斜面になっております。ここはまだ舗装されていません。
 カトマンズに帰る手段ですが、滑走路がこのような状態のため、飛行機は運休となってしまいました。ルクラまで下って飛行機に乗る方法もありますが、ルクラ便が飛ぶのかどうかもわかりません。飛行機を使わずに、車が入れる村まで歩くと、数日かかるとのこと……。
P1010054 けっきょくヘリコプターをチャーターすることになりました。追加料金が一人●万円かかってしまいますが、帰れないと仕事に差し支えるので背に腹はかえられません。ぽん太はヘリコプターに乗るのは初めてだったので、とても面白い体験ができました。パイロットを入れて5人乗りというほんとに小さなヘリコプターです。飛行機と違って標高の低いところを飛んで行くので、地上の様子がよく見えました。
P1010548 久々に戻ったカトマンズは、大都会に見えました。文明社会という感じです。遅めのお昼ご飯は、日本料理店「古都」でいただきました。写真はお寿司。ほかにも様々なメニューがありますが、味は日本と全く変わりなく、久々の日本食はとてもおいしかったです。古都のホームページはよくわからないのですが、こちらの露天風呂と日本料理「」と関係がありそうですが、詳しくはわかりません。
P1010553 実はぽん太がネパールを訪れるたのは、初めてではありません。以前に、チベット密教の僧侶の講話を聞くというマニアックなツアーで訪れたことがあるのです。アルバムをめくって調べてみると、1995年(平成7年)秋のことでした。その僧侶というのは、ケツン・サンポ・リンポチェで、宗教学者の中沢新一のお師匠さんとしても有名ですね。リンポチェはダライ・ラマに従ってインドに亡命しましたが、当時はネパールでチベット仏教を世界中に広める仕事をしておられたのです。言っていることが十分に理解できたわけではありませんが、勤務医としての人生に疑問を持ち、開業したばかりの迷えるぽん太にとって、とても大切な出来事だったことは確かです。帰国後にぐぐってみたところ、なんと昨年(2009年)の12月6日に入滅されたとのこと(ケツン・サンポ・リンポチェ師の入滅 ダライ・ラマ法皇日本代表部事務所)。ということは、ぽん太がネパールを訪れたのは、おりしも師が49日間の死の世界を旅しておられた時だったのか……。なんという奇遇でしょう。
 そのときのツアーは、風の旅行社の創始者のひとりである比田井博さんが私的に企画したものでした。学校の先生をやっていた比田井さんは、ネパールに魅せられて、教員を退職して旅行社を立ち上げたと言っておりました。こちらの 原優二「風物語 歴史編」(風の旅行社公式サイト)を見ると、風の旅行社の創成期の話しが書かれています。会社ができたのが1991年ということは、あのときはわずか4年目だったんですね。その比田井さんも、数年前に亡くなったと聞きました。ご冥福をお祈りするとともに、楽しい旅を体験でき、すばらしい思い出ができたことを感謝いたします。
 そのときに案内して下さったネパール人のガイドさん、顔は覚えているんですが名前はすっかり忘れておりました。ところが不思議なことに、ネパールに滞在しているうちに、ふと「スレシュ」という名前を思い出しました。ガイドさんに聞いてみたところ、現在は風の旅行社ネパール支店の(トレッキング部門でない)一般ツアー部門の長だとのこと。支社に立ち寄らせていただいて、15年ぶりに再会することができました。スレシュさんもぽん太のことを(たぶん)覚えていてくれたようです。いろいろなことが思い出されて、とてもなつかしかったです。

2010/04/02

【歌舞伎】出演者一同渾身の名演・仁左衛門の「道明寺」 歌舞伎座2010年3月第三部

 千穐楽に観て来ました。「道明寺」はぽん太が歌舞伎初心者だったころに観て、なんだか動きがなくてつまらなかった記憶があったので、今回は3階席を選んだのですが、1階で観ればよかったと後悔いたしました。出演者一人ひとりが、冬季オリンピックのキム・ヨナに勝るとも劣らない集中力と気迫で演じた、重厚で格調高い名舞台でした。
 孝太郎(苅屋姫)と秀太郎(立田の前)の出からして、なんかいつもと違うオーラが漂います。そこに玉三郎の覚寿が登場すると、観客もすっかり舞台に引き込まれた様子。玉三郎は2月に「ぢいさんばあさん」で老け役をやりました。その時は、軽い演目だったし、さよなら歌舞伎座の「ごちそう」みたいなものかと思っておりましたが、今後は本格的に老け役を演じていくのでしょうか?あの絶世の美女の玉三郎が老け役をやっているということに、ぽん太は感慨を覚えました。苅屋姫を棒で打つシーンでは、理では厳しく叱責しながら、情では我が娘を叩かなくてはならぬことの哀しみが心を打ちました。仁左衛門は、菅丞相の人間を超越した「格」といい、木像の演技といい、天下一品。養女の苅屋姫を思う心の表現も、一つひとつのきまりがどれも絶品でした。自分の存在が、周囲の人を巻き込んで不幸を引き起こして行くことを嘆く様子は、まさに「天神」にふさわしく思われました。
 孝太郎は、まるで文楽人形のような古風で抑制した演技で、養父が追放される口実を与えてしまった苅屋姫の苦悶を余すところなく表現しておりました。秀太郎も世話物っぽくならず、悪者に翻弄される堅気な女性を情愛深く演じておりました。我當の判官代輝国も、幕外の引っ込みでは、少し眉間にしわを寄せた表情が阿修羅像そっくりで、この世の無常を憂える気持ちが伝わって来ました。錦之助の宅内も、おかしみのある役ながら、力を抜かずきっちりと演じていてよかったです。
 こんなすばらしい芝居を、動きがなくてつまらないと感じたとは、つくづくぽん太は歌舞伎を見る目がなかったんだな〜と思いました。

 「石橋」は、富十郎・鷹之資親子の舞踊。重い芝居の後、媚びもけれんもない明るく素直な舞台で、気持ちが晴れました。さすがに毛振りはないんですね。コール・ド・歌舞伎(からみ)の動きが幾何学的でバレエみたいなのが、3階から見ていておもしろかったです。
 来月で今の歌舞伎座ともお別れです。


歌舞伎座さよなら公演
御名残三月大歌舞伎
平成22年3月
第三部

一、菅原伝授手習鑑
  道明寺(どうみょうじ)
             菅丞相  仁左衛門
              覚寿  玉三郎
             奴宅内  錦之助
             苅屋姫  孝太郎
          贋迎い弥藤次  市 蔵
            宿禰太郎  彌十郎
            土師兵衛  歌 六
            立田の前  秀太郎
           判官代輝国  我 當

二、文珠菩薩花石橋
  石橋(しゃっきょう)
        樵人実は獅子の精  富十郎
        童子実は文珠菩薩  鷹之資
              男某  松 緑
             修験者  錦之助
            寂昭法師  幸四郎

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