« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月の12件の記事

2010/12/30

【精神医療】教職員の休職、校長がなんと1年半後までの診断書を要求

 教職員5458人、心の病で休職=17年連続増、過去最多-文科省(時事通信:2010/12/24-17:09)という記事が出ていました。教職員の方々のストレスの増大は、大変なことと思います。しかしぽん太は、以前に以下のような体験をしたので、ご報告しておきたいと思います。

 何年も前のことですが、公立高校の先生が受診なさいました。精神的な原因により、教員としての仕事をすることができないとのことでした。診察すると確かに精神疾患に該当し、現状では勤務が不可能で、休職もやむを得ない状態でした。ところが、その方が受診したのは11月だったのですが、翌々年の3月まで働けないという診断書を書いて欲しいと言うのです。「翌年」の3月ではありません。「翌々年」の3月(約一年半後)です。普通、精神疾患の診断書というのは、1ヶ月とか2ヶ月、長くても3ヶ月が普通です。医学的にも翌々年の3月(約1年半後です)までの病状は予測できないので、そんなに長期間の診断書を書くことはできないことをお伝えしましたが、代わりの教員を採用するために「翌々年」の3月までの診断書が必要で、校長からも指示されたとのことでした。そこでぽん太は直接校長先生に電話をかけたのですが、校長先生のおっしゃるにも、手続き上必要なので、どうしてもそのような診断書を出して欲しいとのことでした。どうすべきかぽん太は悩みましたが、公立高校の校長先生がそうおっしゃるのなら、理屈は通らないけど手続き上必要なのだろうと、診断書をお出しすることにしました。

 まさかというか、やっぱりというか、その先生はその後当院を受診することはありませんでした。

 公立高校の独自の制度があるのでしょうが、その業界内の制度で、周囲を振り回さないで欲しいです。精神疾患の1年半後の病状を予測しろという制度は、科学的におかしいのではないでしょうか。身内の特異な制度に従うように医師に要求するのではなく、自分の制度を、一般常識や科学に合致するように変更して欲しいものです。

 1年後、その先生が再び受診なさいました。また1年半後までの休職の診断書を書いて欲しいとのご希望でした。ぽん太が今度はお断りしたことは言うまでもありません。

 今年の最後がグチみたいな記事で申し訳ありません。ぽん太はこの休みは南フランスに行ってきます。戻ってきたらご報告もうしあげます。みなさん、よいお年を!

2010/12/26

【クラシック】現代風ドラマチックなエッティンガー・東京フィルの『第九』

 恒例の年末の『第九』。今年は東京フィルにしてみました。エッティンガーも新国立の『東京リング』で聞いたし、森麻季もジャパン・アーツのオペラで何度か聞いているので、なんとなくなじみのメンバーのような気がします。あいにく年末の疲れで風邪気味で体調がすぐれず、ベスト・コンディションで楽しめなかったのが残念でした。
 最初はモーツァルトのK.165のモテットです。モーツァルト17歳の時の作曲で、早熟さを伺わせる若々しくも明るく軽やかな曲でした。『第九』でもソロを歌う森麻季は、美人でスタイルもいいけれど、やはり声量がないのが気になります。身体が細身なので、声が共鳴する部分が少ないでしょうか。それともホールの音響が悪いのか。この曲は当時有名だったカストラートのために書かれものだそうで、技巧的なパッセージがちりばめられておりますが、そういった技の部分はとても上手で美しかったです。小さめのホールで聞いたら、きっとすばらしいだろうと思うのですが……。
 続いて『第九』。東京リングのときは聴き込んでいる曲じゃなかったので、エッティンガーの特徴はわからなかったのですが、『第九』は聞き慣れているので、多少理解できました。
 第一楽章の冒頭は、非常にゆっくりしたテンポで始まりました。その分、第一主題の反復の後半でスピードアップしてました。第四楽章の歓喜の歌の主題が低弦で現れるところも、十分に間を取ってからゆっくり演奏。ためるところはため、速いところはきびきびと速く、緩急の差が大きいダイナミックな演奏でした。かといって感情に流された重々しい演奏ではなく、ドライでクリアな印象でした。細部の表現にはあまりこだわらず、ビートやリズムをはぎれよく強調し、ときに耳新しいリズムを取り出してくれました。全体として「現代風ドラマチック」という感じでしたが、構成美や様式感には欠けたような気がします。面白い髪型と服装のエッティンガーも大奮闘で、途中で指揮棒を落とし、ヴィオラ(?)のお姉さんが拾ってあげてました。
 で、客観的にはそんなところで、問題はそれが感動を生み出したかどうかなのですが、最初に述べたように体調が悪かったので、感性が麻痺しててよくわからなかったのが残念です。


東京フィルハーモニー交響楽団
『第九』特別演奏会
2010年12月23日 Bunkamura オーチャードホール

指揮 : ダン・エッティンガー
ソプラノ : 森 麻季
アルト : 谷口 睦美
テノール : シー・イージェ
バリトン : 堀内 康雄
合唱 : 東京オペラシンガーズ
管弦楽 : 東京フィルハーモニー交響楽団

モーツァルト / モテット「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」 K.165
(ソプラノ : 森 麻季)
ベートーヴェン / 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付」

2010/12/22

【バレエ】小林十市を観れて幸せ・ベジャールの『M』東京バレエ団

 ベジャールの『M』は初めてだったんですが、なかなかよかったな〜。質の高い舞台だったんじゃないかしら。以前に観た『ザ・カブキ』は、ストーリー展開に追われて慌ただしい感じがしたのですが、『M』はすっきりしていて、象徴的で、ポエジーを感じました。こちらがNBSの公式サイトです。
 『M』は三島由紀夫をモチーフとしたバレエだそうです。最後の切腹のシーンで『トリスタンとイゾルデ』の愛の死が流れたりするのを聞くと、そんな官能的なもんじゃないし、ちょっと現実の三島由紀夫と違うんじゃないかな〜という気もしもしたが、サクラが降りそそぐなか子供が切腹するシーンには日本人のDNAが刺激され、思わずジワっときてしまいました。現実の三島に即しているかどうかは別として、バレエとしてはとても良かったんじゃないでしょうか。
 これも初めて観た小林十市もよかったです。むむむ、「十一」(本名)が「四」を踊るのか……。ぽん太的には、落語家の5代目柳家小さんの孫、柳家花緑の兄といったほうがなじみ深いのですが、ベジャールが自伝で彼の『M』の「IV-シ(死)」役を誉めていることは、以前の記事で書きました。2003年に腰を痛めてバレエを引退しておりましたが、この公演で「死」を踊るために夏から準備をしていたそうです。引退して何年もたっているとは思えない引き締まった身体で、踊りも、柔軟性やジャンプ力にはやや欠けるものの、ジャンプしての回転など、キレのあるすばらしい動きをしておりました。そういったテクニックよりも、存在感、雰囲気、表現力がすばらしいです。マスクもよく、白塗りの顔でニヤリと笑うと、口紅を塗った唇の間から白い歯が見えて、ゾクっとするくらい怪しい魅力があります。彼がバレエを引退したことが、本当に残念に思われました。ただ、祖母の役は女性っぽく見えませんでした。普段から女形の修行を積んでいる歌舞伎役者だと、品の良い老女をノスタルジックな雰囲気を漂わせて演じることができるのでしょうけど、さすがにそれは無理か……。ちなみにこちらが小林十市の公式サイトです。
 聖セバスチャンの長瀬直義も、完全性と官能美をよく表現しておりましたが、さらにもうちょっとエロスが感じられるといいのですが。パンツの股上はもう2cmくらい短くしたほうが、マラーホフのパンツみたいでいいのでは?上野水香はいつもながら独特の存在感あり(ご結婚おめでとうございます)。高岸・後藤・木村の重鎮も好演。弓を射た人は弓道家かとおもったらダンサーだったんですね。たいしたもんですね。的を外して矢が誰かに突き刺さらなくてよかったです。様式に則って弓を射るしぐさが、バレエに匹敵する美しい動きであることがよくわかりました。
 舞台上に円形の大きな鏡が下がって来て、ダンサーを映し出す演出は面白かったです。盾の会の軍服姿のダンサーの迫力ある群舞とかもあればいいのに。それから全体にもう少しエロチックで退廃的な感じが出るとよかったのですが。どうも東バの男性プリンシバル陣はおじさんっぽい気が……ゴメンナサイ。


「M」
振付/美術・衣裳コンセプト:モーリス・ベジャール
音楽:黛敏郎、クロード・ドビュッシー、ヨハン・シュトラウスII世、
エリック・サティ、リヒャルト・ワーグナー、L.ポトラ/D.オリヴィエリ
2010年12月19日 東京文化会館

少年:肥田宏哉
I-イチ:高岸直樹
II-ニ:後藤晴雄
III-サン:木村和夫
IV-シ(死):小林十市
聖セバスチャン:長瀬直義
射手:永田雄大
船乗り:平野玲
女:上野水香
海上の月:渡辺理恵

【禁色】
オレンジ:吉川留衣
ローズ:奈良春夏
ヴァイオレット:田中結子

【鹿鳴館】           
円舞曲: 高村順子、乾友子、佐伯知香
松下裕次、氷室友、小笠原亮、梅澤紘貴
貴顕淑女:西村真由美、高木綾、松浦真理絵、浦川里紗

ソファのカップル: 川島麻実子、柄本武尊

海: 森志織、村上美香、岸本夏未、阪井麻美、矢島まい、川島麻実子、
寺嶋麻衣、河合眞里、許山麻有、加茂雅子、森彩子、小川ふみ、
ニ階堂由依、大塚怜衣、田島由佳、三浦菜々美、宮下加瑞、
中居歩美、縫谷美沙、波江野彩、石井初美、河谷まりあ、伝田陽美、
二瓶加奈子、飯田鈴実、政本絵美

男:  高橋竜太、松下裕次、氷室友、小笠原亮、宮本祐宜、梅澤紘貴、
柄本弾、谷口真幸、安田峻介、井上良太、柄本武尊、岡崎隼也、
杉山優一、永田雄大、中村祐司、野尻龍平、森川茉央、佐藤瑶、
竹下虎志、宮崎大樹

ピアニスト:三原淳子

2010/12/20

【拾い読み】いまや避けられない医療と巨大製薬会社の関係を詳細に分析 デイヴィッド・ヒーリー『抗うつ剤の功罪 SSRI論争と訴訟』

 先日、冨高辰一郎の『なぜうつ病の人が増えたのか』(幻冬舎ルネッサンス、2009年)を読んだ勢いで、デイヴィット・ヒーリーの『抗うつ剤の功罪 SSRI論争と訴訟』(田島治監修、谷垣暁美訳、みすず書房、2005年)を読んでみました。ところがこれが実にすばらしい本で、こんだけ読み応えがある本は久々に読みました。著者は自らも抗うつ剤の開発に関与してきた精神薬理学の専門家であり、幅広い知識と的確に問題点を見抜く力を持っており、そんじょそこらの「薬物療法批判」の本とは格が違います。
 ちなみに英語の原文はこちら(Googleブックス)で読むことができます。
 メイン・ストーリーは、プロザックという抗うつ剤に自殺を引き起こす副作用があるのではないかと疑った著者が、その薬を製造するイーライリリー社に戦いを挑むという話しなのですが、あの手この手の戦いの過程で、市場原理に従う巨大製薬会社の問題点が次々と明らかになっていきます。ついには製薬会社が著者の教授就任の妨害工作に出るなど、まるでサスペンス小説のような面白さがあります。また著者が、プロザックが自殺を増加させるという証拠はないという製薬会社の主張を切り崩すために、忘れ去られた論文を取り上げ、見逃された事実を見いだし、実験のデザインの問題点や統計処理の誤りやごまかし、主張の論理的矛盾を見いだして行くさまは、チェスの試合を見ているかのようです。
 ちょっとした気付きが、最初は誰も賛同しなかったのに、次第に明確な形をとるようになり、ついには大きな潮流となって行くプロセスは、ブラックホールに落ちる粒子の情報が失われるというホーキングの主張を、20年間にわたる論争の末に論破したレオナルド・サスキンドの『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』という本を思い出させます。
 著者は、単に製薬会社を悪として断罪するのではなく、市場原理に従う巨大資本が否応なく大きな位置を占めざるを得ない現代の医療において、どうすれば人々の役に立つ有効で安全な薬を提供していけるのか、という立場を取っておいます。例えば薬の効果や副作用を科学的に検証するには、多くの患者さんを対象にした疫学的な研究が不可欠です。しかしそうした研究は莫大な費用と手間がかかり、現在それが可能なのは巨大な製薬会社だけです。するとそのデータの透明性をいかに高めるかが必要になってくるわけです。また多数の症例を対象とした研究になることで、膨大な生データを集約する時に大切な情報が失われてしまう可能性もあります。実際プロザックでは、自殺につながるような焦燥が、さまざまな副作用項目に分散されることによって、集約された結果に反映されなかったのです。また、都合がいい研究に対する企業の資金援助や、論文そのもののゴーストライティングといった問題、また研究者や論文の審査員が製薬会社の資金援助を受けていたり、株主であったりするという問題も指摘されています。
 ぽん太としても、自分に与えられている情報が、製薬会社のプロモーションによって歪められていることを理解した上で、情報を取捨選択していかなければならないと感じました。

 で、以下はいつものように、ぽん太が興味深く思ったことの覚え書きです。
 序章のプロザック以前の歴史の部分が、知らないことばかりで面白かったです。現在の医療で用いられている概念が、どのような経緯でいつ頃生じ、どう変遷して来たかということは、とても大切なことだと思うのですが、自分にそういう知識が欠けていることがよくわかりました。
 19世紀にはアヘンとアルコールが鎮静薬の定番でしたが、20世紀前半にブロム化合物とバルビツール剤にとってかわり、1930年代にはデキストロアンフェタミンなどの中枢刺激薬が売り出され、1950年代にはデキストロアンフェタミンとアモバルビタールを組み合わせたデキサミル®が売り出され、大いに売れたそうです。1955年にはメプロバメート(ミルタウン®)が「トランキライザー」として売り出され、さかんにもてはやされたそうです。どんな薬だったのか興味がわきますが、ぽん太にはわかりません。そして1960年代前半、リブリウム®(一般名クロルジアゼポキシド、日本の商品名はコントール®、バランス®)、ヴァリウム®(一般名ジアゼパム、日本の商品名セルシン®)といったベンゾジアゼピン系の薬が登場します。これらを製造したロシュ社は非常にうまく売り込み、高血圧や喘息の背後に不安が隠れているかもしれないという考え方を医者に与え、1970年代には多くの人がヴァリウムを服用するようになりました。しかし1970年代からベンゾジアゼピンの依存性の問題が持ち上がってきて、1980年代には新聞やテレビなどのマスコミで盛んに取り上げられるようになりました。臨床医たちは、ヘロインやコカインなどのような濫用傾向がみられないこと、高値で闇取引されるようなことがないこと、治療薬として有効であること、多くの患者が問題にならず服用を中止していることなどを指摘して擁護しましたが、マルコム・レーダーの常用量依存の概念によって、とどめを刺されたそうです。
 ぽん太がヴァリウムと聞くと思い出すのは『スター・ウォーズ』をパロったメル・ブルックスの映画の『スペースボール』(goo映画)です。ジム・J・ブロックの演ずる王子は「アクビ王子」と訳されておりましたが、もともとの役名はPrince Valium(ヴァリウム王子)で、何かあるとヴァリウムを飲んで居眠りばかりしている人を当てこすっているわけです。この映画の制作は1987年ですから、ベンゾジアゼピン批判の風潮の中で作られたわけですね。
 ここで著者が指摘している面白い点は、依存性がないというセロトニン作動性の薬を臨床試験中だったスクイブ社が、キャンペーンの一環として、シンポジウムや論文でベンゾジアゼピンの危険性を強調するという戦略をとったのだそうです。
 アカシジア(akathisia)という語は、1955年にハンス・シュテック(H. Steck)やハンス・ハーゼ(H-J. Haase)らによって命名されたそうです。
 1952年に使われるようになったレセルピンは、自殺を誘発するという問題が認識されるようになりました。なぜプロザックではそういう認識が作られなかったかというと、1960年代に行われた特許法の改正が関係していると著者はいいます。それまでは製造法や用途に関して特許が与えられていたので、多くの企業がレセルピンを含む化合物の特許を持っていました。特許法の改正によって化学物質そのものに特許が与えられることになったので、プロザックを製造しているのはリリー社だけであり、プロザックが問題点を認めることは、リリー社の死活問題となったのです。
 初のSSRIはプロザックではなく、スウェーデンのアストラ社から1971年に売り出され、1972年に特許が承認されたジメリジン(zimelidine)(ツェルミドzelmid®)だそうです。この薬はギランバレ症候群を引き起こす副作用が明らかになって、市場から消えたそうです。
 1970年代から、エコロジストやサイエントロジー教会(トム・クルーズの抗うつ剤批判で有名ですね)などの、精神医学の身体療法に反対するファーマコビジランス(薬剤監視)グループが力を持つようになったそうです。彼らはインダルピン、ノミフェンシンを市場から排除し、さらにミアンセリンに打撃を与えたそうです。
 フルボキサミン(ルボックス®、デプロメール®)の歴史も面白かったです。自殺の誘発や吐き気の問題で、抗うつ剤市場での評価は低かったそうです。ところがラポポート(J.L.Rapoport)が1980年代に強迫性障害をの概念を広め、セロトニン系に作用するクロミプラミン(アナフラニール®)の有効性を指摘したことから、強迫性障害の治療薬としてアメリカ市場に参入しました。ところが1999年に起きたコロンバイン高校銃乱射事件の犯人の一人がフルボキサミンを服用していたことから、アメリカでは2002年に販売中止に到りました。ちなみに被害者遺族がソルベイ社を相手に起こした裁判の結果は、因果関係証明されないとされました。日本ではフルボキサミンは今でも使われております。
 サートラリン(ゾロフト®、日本ではジェイゾロフト®)は、半減期が短く、代謝経路が単純で、相互作用が少ないという特徴を持っていたため、ファイザー社はプロザックやパキシルよりもクリーンで副作用が少ないというイメージを与えるような論文を後押ししたそうです。CRAM(Central Research Assists Marketting)というプログラムを用い、プライマリケアでみられるうつ病の研究によって、プライマリケア医にサートラリンの使用を促したり、患者の教育と服薬コンプライアンスの研究によって、抗うつ剤のコンプライアンスを高めようとしたそうです。
 パロキセチン(パキシル®)を開発したグラクソスミスクライン社は、初めてSSRIという用語を作りましたが、この言葉の浸透力が強かったため、逆にプロザックやゾロフトなどがSSRIと呼ばれるようになったそうです。パキシルは、パニック障害・全般性不安障害、さらに社会恐怖などの「不安」に焦点をあてることによって大いに売れました。ただ社会恐怖(social phobia)という名は聞こえがよくなかったので、社会不安障害(social anxiety disorder)という名前に変わったそうです。パキシルに関しては、1990年代から、依存性・習慣性の問題が指摘されるようになりました。プロザックを販売していたリリー社にとっても、SSRIの依存性は認められないものでしたから(そもそも依存性のあるベンゾジアゼピンに取って代わるものとしてSSRIが開発されたのでしたね)、リリー社は「抗うつ剤中断症候群」という問題を提起し、半減期が短いために中断症候群が起きやすいと考えられるパキシルやゾロフトと、プロザックの差異化を図ったのだそうです。
 う〜ん、序章だけの覚え書きで、こんなになってしまった。疲れたのでこのへんで止めておきます。それにしてもこの本を読むと、製薬会社のMRさんたちがぽん太に言ってたことが、一つひとつ思いあたって、身につまされます。

2010/12/19

【遷都1300年の奈良・近江の旅(6)】近江八幡・ヴォーリズ建築・長寿寺・常楽寺

Img_2499_2 今回の旅もいよいよ最終日。まず、前から一度行ってみたいと思っていた近江八幡を訪れました。
Img_2479 近江八幡は、言わずと知れた近江商人発祥の地です。写真のような古い街並が残っていて、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
Img_2482 八幡掘近くのポン菓子屋の親父さん。愛想良く話しかけながら試食を勧めておりました。
Img_2484 八幡掘の紅葉が見事でした。豊臣秀次は城の防御のための掘りを、琵琶湖へ通じる運河として利用することを思い立ち、近江八幡の発展の基礎を築きました。
Img_2491 白雲橋付近です。この八幡掘も、高度成長期にはどぶ川同然となり、埋め立ても計画されたそうですが、市民の力によって美しい景観が取り戻され、最近は時代劇のロケにもしばしば使われているそうです。
Img_2488 ヴォーリズ像です。ぽん太は「建築家」ヴォーリズのことは小耳に挟んだことがあったのですが、彼が近江八幡の英語教師として来日したことや、メンソレータムの近江兄弟社の設立者であることは、初めて知りました。さらにキリスト教の布教にも務め、病院も創ったりしたんですね。
Img_2501 こちらがその近江兄弟社です。近江兄弟社って、近江にあったんですね……。こちらが近江兄弟社のホームページですが、あれれ、「メンソレータム」じゃやなくて「メンターム」になってる。入れ物の絵も、確か看護婦さんだと思ってたら、いつの間にか子供の顔になっている。Wikipediaを見てみると、メンソレータムはもともとアメリカのメンソレータム社の製品で、近江兄弟社が日本での販売権を獲得して製造販売しておりましたが、1974年の近江兄弟社倒産に伴ってメンソレータムの販売権を返上。メンソレータムの販売権は翌年ロート製薬が取得し、さらに1988年には、メンソレータム社そのものもロート製薬に買収されました。その後近江兄弟社は再興したものの、もはやメンソレータムの商標は使えず、自社ブランド「メンターム」を製造販売することになったんだそうです。確かにロート製薬のサイトを見ると、メンソレータムを売ってるし、絵も例の看護婦さんだ。
Img_2494 近江八幡にはヴォーリズの建物がいくつもあります。こちらはヴォーリズ記念館。昭和6年に建てられたもので、ヴォーリズの住宅だったそうです。
Img_2496 こちらは旧八幡郵便局。和洋折衷のかわいらしい建物ですね。
Img_2498 アンドリュース記念館です。明治40年(1907年)年の竣工で、ヴォーリズ建築第一号だそうです。
Img_2493シブい銭湯を発見。八幡温泉という名前のようです。また、冒頭の写真も近江八幡の風景です。大きな瓦屋根が幾重にも重なって、エキゾチックな雰囲気があります。

Img_2504 近江八幡の観光を終えたぽん太とにゃん子は、車を南に走らせ、長寿寺を訪れました。近くにある常楽寺、善水寺とともに、湖南三山として観光売り出し中のようです。ここも紅葉が見事でした。
Img_2516 天平時代に良弁によって建立されたお寺だそうです。写真の本堂は国宝です。また内部にある春日厨子も国宝に指定されております。ご本尊の「子安地蔵尊」は秘仏のため参拝できませんでしたが、重文の「丈六阿弥陀如来坐像」は拝観することができました。
Img_2510 今回の奈良旅行の最中、樹々は紅葉の時期だというのに、美しい大きな花をところどころで見かけました。皇帝ダリアというはなだそうです。
Pb250446 昼食は、寺の前のテント村で販売していた鯖すしと穴子すしをいただきました。「こまや」さんの製造販売で、特に鯖すしは、東海道の石部宿で昔から伝わるものだそうで、商品名「石部金吉すし」だそうです。
Img_2521 湖南三山のもうひとつのお寺、常楽寺です。こちらも紅葉真っ盛りでした。昭和56年(1981年)に重文の風神・雷神・二十八部衆のうち三体が盗難に遭うなどして、以後一般公開をしていなかったそうですが、平成17年(2005年)から公開を再開したそうです。たった一人の住職が、庭の手入れから建物の掃除まで、すべて行っているそうです。盗難防止のため、あちこちに警報装置が張り巡らせれているのが、ちと哀しゅうございました。
Img_2530 国宝の三重塔です。室町時代の応永7年(1400年)建立。屋根の下の部分の木組みが、特に見事な気がしました。

2010/12/18

【遷都1300年の奈良・近江の旅(5)】石上神宮・美好湯(奈良)、石山寺・武佐宿・料理旅館中村屋(近江)

Img_2436 本日は奈良から近江へと向かいます。高速入り口への道すがら、石上神宮(いそのかみじんぐう)に寄りました。なぜか参道には鶏がいっぱい放し飼いになっております。なんでなんだろう。何かいわれがありそうな……。帰ってからぐぐってみたら、神鶏(しんけい)といって、神宮にはニワトリがつきものなんだそうです。伊勢神宮の内宮(ないくう)の御祭神は天照大神ですが、天照大神というと天岩戸のエピソードが有名です。天岩戸に隠れてしまった天照大神を呼び出そうとして、八百万の神の一人が常世之長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて長く泣かせるという儀式を行ったことが『古事記』や『日本書紀』に書かれていることから、伊勢神宮ではニワトリが大切にされているのだそうです。伊勢神宮は昔行ったけど、ニワトリなんかいたかな?う〜ん、覚えてない。石上神宮の御祭神には天照大神は入ってないようですが、神宮つながりで鶏を飼っているのでしょうか?
Img_2438 摂社出雲建雄神社(せっしゃいずもたけおじんじゃ)の拝殿で、国宝です。正安2年(1300年)頃に建立されたものだそうです。非常に地味ですが、古さを感じさせる素朴な建物です。国宝でありながら、なんの案内板もなく、ちょっと可哀想な気がします。石上神宮そのものの拝殿も国宝に指定されているのですが、なんとぽん太とにゃん子は見忘れました。石上神社さん、案内板を充実させてください。お願いします。
 それはそうと、石上神宮の近くにある、天理教教会総本部や、天理大学の建物群もすごかったです。見学しようかと思いましたが、一般人が入っていいのかどうかわからなかったので、遠慮しておきました。あとからググったところ、信者以外も参拝できるようです。機会があったら石上神宮拝殿とともに、訪れてみたいです。
Img_2442 昼飯を求めて奈良町周辺を歩き回っていたら、しぶ〜い銭湯があったので、思わずパチり。その筋(何の筋?)では有名な銭湯だそうです。場所はこちら(地図)。向かいには「春鹿」の酒蔵もありました。
Pb240343 お昼ご飯は、うめもり奈良町本店で、わさび葉すし、あなら寿司をいただきました。わさび葉すしは、わさびの葉でくるんだ酢飯の上に、しゃけ・さば・あなご・えびなどが乗っています。またあなら寿司は、古代米の上に奈良漬けと穴子を乗せたお寿司で、大胆な組み合わせが絶妙のハーモニーを奏で、おいしゅうございました。

Img_2454 さて、高速に乗って一路滋賀県へ。ぽん太とにゃん子の次のみちくさは石山寺です。聖武天皇が発願し、良弁が開祖となった古刹で、紫式部が『源氏物語』の着想を得たところとも伝えられています。写真の硅灰石(けいかいせき)の岩は天然記念物に指定されており、「石山寺」という名の由来になっております。
Img_2458写真の多宝塔は源頼朝の寄進で建久5年(1194年)に建てられたもので、国宝に指定されております。
Img_2455 本堂も国宝に指定されておりますが、どこから見ても外観がよく見えないという不思議な配置になっております。本堂の一角は「源氏の間」と呼ばれ、紫式部のロボットが歓迎してくれます。

Img_2462 今宵の宿は、中山道は武佐宿(むさしゅく)にある料理旅館中村屋さんです。場所はこちら(地図)で、近江八幡の近くです。武佐宿は中山道66番目の宿場で、かつては大いに賑わったそうですが、今はすっかり寂れています。所々に古い建物は残っているものの、観光客はほとんどいないようです。中村屋の公式サイトはこちら。創業は江戸時代まで遡り、旅籠の雰囲気を今に伝えます。
Pb240372 こちらが客室。こざっぱりとした和室です。
Img_2465 こちらが夕食の「びわこ会席」です。近江牛のせいろ蒸しに、もろこやコイなどの地元の川魚もいろいろ味わえ、とてもおいしゅうございました。
Img_2469 こちらが朝食です。近江名物赤こんにゃくに、シジミのお味噌汁が美味でした。
 今回の記事を書くためにググっていたら、とても残念なニュースを目にしました「「中村屋」全焼 「近江八幡の財産失った」」(YOMIULI ONLINE 2010年12月11日)。12月10日の早朝に出火し、全焼してしまったようです。再建を応援したいと思いますが、焼けてしまった歴史はもう戻りません。

2010/12/17

【遷都1300年の奈良・近江の旅(4)】江戸時代にタイムスリップ!今井町の嘉雲亭に泊まる(★★★★)

Img_2431 奈良旅行の2日目の宿は、今井町に宿を取りました。今井町って、知らないでしょ。実はぽん太も全く知らなかったのですが、とってもすごいところなんですよ!奈良県は橿原市、国道からちょっと入ったところに、突如江戸時代の街並が現れます。しかも良くある街道に沿って一筋だけというのではなく、何筋にもわたって古い街並が広がっており、飛騨高山にも匹敵します。
Img_2371 到着したのは夕方5時頃でしたが、真っ暗で人気がありません。今井町は、飛騨高山のように観光化されておらず、ほとんどの家に今も人が住んで生活しているのです。
 お世話になった宿は、嘉雲亭(かうんてい)さんです。外観は冒頭の写真をご覧下さい。江戸時代の古民家を改築した、B&B形式の民宿です。公式サイトはこちらです。
Img_2391 こちらが玄関です。鄙びた雰囲気が漂います。
Img_2389 一階は、日中はギャラリーなどとして貸し出しているそうです。
Img_2386 年代物の階段箪笥ですが、単なる飾りではなく、この階段を使って2階の客室に上がります。
Img_2385 こちらが泊まった部屋です。内部はきれいに改装されております。クーラーはわざと入れてないそうで、夏は蚊帳を吊って、窓を開け放って寝るのだそうです。
Img_2378 こちら側の窓は虫籠窓になっております。
Img_2374 もともとは竃などがあった土間の上に当たる、屋根の木組みです。非常に天井が高く、長いあいだ煤で燻されて、独特の光沢があります。
Pb230245 夕食は付いていないので、お弁当を買っておいて持ち込むか、外に食べに行かなければなりません。今井町のなかにお蕎麦屋さんもありますが、ぽん太とにゃん子は、歩いて15分ほどの近鉄大和八木駅周辺の飲屋街に繰り出しました。歩き回った末に入ったお店は「魚菜笑 ごちそう屋 まる」。大正解でした。こちらが公式ブログのようですが、ちと見にくいので、ぐるなびにもリンクしておきます。奈良の地酒を飲みながら、新鮮な魚をいただけます。
Pb230250 が、メニューを見てもどんな魚かわかりません。地域によって魚も変わるし、同じ魚でも呼び方が変わりますからね。帰宅してからぐぐってみたところ、「よこわ」はクロマグロの若魚の近畿・四国での呼び名だそうで、関東で言う「メジマグロ」ですね。「セルがき」というのは殻付きの牡蠣のことだそうで、セルはシェルがなまったものだそうです。
Pb230251 続いて裏面。「クチ」は関東の「イシモチ」。「サゴシ」はサワラの若魚で、関東でも「サゴチ」と呼ぶのだそうですが、知りませんでした。「とびあら海老」は、正式名称は「サルエビ」。西日本、特に四国・瀬戸内で見かけるものだそうで、関東のぽん太は知らないわけです。
Img_2395 こちらは河合家です。清酒「出世男」の造り酒屋さんです。18世紀中頃の建物だそうです。
Img_2398 中町筋の家並みです。電線が地下に埋め込まれているので空が広々として、江戸時代にタイムスリップしたような感じがします。
Img_2399 重要文化財の旧米谷家は、内部を無料で見学することができます。写真はかまどですが、扇状の配置は、調理をしやすくするための工夫だそうです。
Img_2402 普通の茶室に見えますが、背後(向かって左側)に土蔵があるのに注目。土蔵の扉の部分に座敷が造られており、「蔵前座敷」と呼ばれるものだそうです。ぽん太は初めて見ました。何の目的でこういう造りになっているのでしょう。ご隠居さんが、蔵の見張りもかねてここで生活するのでしょうか?帰ってからググってみましたが、あまりよくわかりませんでした。群馬県の桐生・太田あたりにも、蔵前座敷があるみたいですね。
Img_2413 復元された環濠です。今井町の歴史をひもとくと、称念寺という一向宗のお寺を中心に造られた町なのだそうです。お寺を中心に造られた町というと、お坊さんたちや参拝客を相手にする商工業者が寄り集まった「門前町」を思い出しますが、今井町は称念寺の信者さんたちによってできた町で、「寺内町」と言うのだそうです。一向宗は時の支配者と対立する傾向があったため、周囲を環濠や土塁で固めるなど防衛的な色彩を持ち、また自治の力も強かったそうです。さらに信長の時代には、環濠を深くしたり、道を筋違いにして見通しを悪くするなど、要塞化をすすめたそうです。ぽん太はスペインのトレドをふと思い出しました。明智光秀による兵糧攻めにも耐え抜き、最後は降伏したものの、堺と並ぶ自治都市として承認され、おおいに発展したのだそうです。
 古い街並が残っているのも、こうした住民の結束力によるのかもしれません。
Img_2419 こちらがその称念寺。現在の建物は、江戸時代初期の建立と考えられているそうです。明治10年1877年の天皇行幸の際には宿舎として使われたそうで、明治天皇はまさにこのお寺で、西南戦争勃発の一報を受け取ったのだそうです。

2010/12/16

【遷都1300年の奈良・近江の旅(3)】義経ゆかりの吉野めぐり・栄山寺・當麻寺

Img_2345 本日は、山鳩湯から再び北上し、まず吉野を見学。吉野は昔ちらっと通り過ぎたことはありますが、じっくり観るのは今回が初めてです。桜の時期じゃないから空いているかと思ったら、あにはからんや、紅葉の時期で大混雑でした。
 吉野は源義経ゆかりの地で、歌舞伎の『義経千本桜』にも、静御前と佐藤忠信が満開の桜のなか吉野を行く「道行初音旅」(みちゆきはつねのたび)があります。義経ゆかりの地を訪れるのも楽しみです。
Img_2308 まずは一番奥にある金峯神社(きんぷじんじゃ)から。この時期、吉野の中心の参道は車が入れません。近鉄吉野駅の横を通るバイパスを通って行く必要がありますのでご注意を。ここまで来るとさすがに観光客もまばらで、静かな山奥の雰囲気が感じられます。写真は隠れ堂です。なかに入って戸を閉めると真っ暗になり、暗闇の中で修行を行うのだそうです。文治元年(285年)11月、この堂のなかに隠れていた義経が屋根を蹴破って追っ手から逃れたことから、「義経の隠れ塔」「蹴抜けの塔」とも呼ばれているそうです。う〜ん、いったい出典はなんだろう。『義経記』を読み返して見ると(こちらのサイトで岩波文庫版を読むことができます)、巻第五が義経が吉野に隠れていた時にあたるようですが、屋根を蹴破って逃げた話しは出てきません。『義経記』とは別の伝承があるようです。ちなみに巻第五のあらすじは以下の通りです。

 吉野に潜伏する義経は、連れ添ってきた静御前とここで別れ、静を都に返す決心をします。義経は静に、初音の鼓などの財宝を与え、供の者を付けて都に送り出しますが、供の者たちは我が身を案じて、静御前を山中に置き去りにし、財宝を持って逃げ去ります。冬の山中をさまよった静御前は、ようやく吉野の寺にたどり着きますが、追っ手に正体を見破られ、ついに義経の居所を明かしてしまいます。追っ手が迫りつつあることを察知した義経一行は、道なき道を東へと落ち延びて行きますが、佐藤忠信がただ一人残って戦いをいどみます。

 なるほど、義経と静が別れる歌舞伎の「鳥居前」は、京都の伏見稲荷が舞台になっているけど、『義経記』では吉野の出来事だったんですね。義経が静かに与える初音の鼓は、「紫壇の胴に羊の革にて張りたりける啄木の調の鼓」と書かれており、歌舞伎のように狐の皮ではありません。また義経は忠信に、歌舞伎と同じように「緋威の鎧」(ひおどしのよろい)を与えたと書いてあります。また追っ手の代官として「川つら(川蓮)法眼」の名前が出てきます。
Img_2314 金峯神社から少し下って、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)です。写真の本殿は重要文化財で、豊臣秀吉が再建したものだそうです。
Pb230171 吉野水分神社から少し下ったところに、花矢倉と呼ばれる見晴らしのいいところがあります。佐藤忠信は、ここから追っ手に向かって矢を射たのだそうです。近くには、忠信が討ち取った横川覚範(かくはん)の首を埋めたと言われる、横川覚範の首塚もあります。
Img_2317 如意輪寺です。裏手の山に、後醍醐天皇の御陵があるそうです。
Img_2318 バイパスを通っていったん吉野川近くまで下り、再び吉野に向かって登り返して観光客用の駐車場に車を停め、そこから歩いて観光です。まずはロープウェイの吉野山駅。おもちゃみたいなかわいらしい車両ですね。
Img_2319 銅鳥居(重要文化財)は、もともと東大寺の大仏を造る時に余った銅で造られたのだとか。現在のものは、室阿智時代の再建だそうです。
Img_2321 金峯山寺(きんぷせんじ)の仁王門は国宝です。
Img_2322 金峯山寺の本堂である蔵王堂です。天正20年(1592年)頃に再建されたものですが、桧皮葺屋根の木造建築としては最大で、国宝に指定されております。秘仏の金剛蔵王権現像(重要文化財)が、遷都1300年祭で特別開帳されておりました。蔵王堂の再建と同じ頃に造られたと考えられているそうですが、青い色に塗られ、例の片足を上げたポーズの巨大な像が3体並んでおり、なかなか迫力がありました。
Img_2327 次いで吉水神社へ。ここはスゴイですよ。まず最初の写真は、「源義経潜居之間」です。義経はこの寺に5日間かくまわれていたのだそうです。
Img_2328_2 座敷の一角には「弁慶思案の間」もあります。
Img_2330 こちらは後醍醐天皇玉座。後醍醐天皇は、まずここを居所として、南朝を立ち上げたのだそうな。また豊臣秀吉は文禄3年(1594年)に、吉水神社を本陣として花見を行ったのだそうです。さらに奥に行くと、「義経の鎧」とか「静御前の衣装」とか百人一首で有名な「蝉丸の琵琶」とかが陳列してるんですけど、ホンモノでしょうか?なんかアヤシイ気もするけど、世界遺産に登録されている神社が嘘はつかないだろうし、「ひょっとしたら本物?」と思わせるところが、奈良の奥深さですね。信じるも信じないもあなた次第です。
Pb230204 吉野といえば柿の葉ずし。吉水神社への分岐点にある醍予の柿の葉ずしをいただきました。奥にちっちゃな小上がりがあり、店内でいただくこともできます。おいしゅうございました。
Img_2336 吉野といえば吉野葛。どこで食べようか迷った末、八十吉(やそきち)さんでいただきました(公式サイトはこちら)。レトロモダン風の真新しいオシャレなお店です。おいしゅうございました。

Img_2339 さて、吉野を離れて次は栄山寺。写真の梵鐘は国宝に指定されているそうですが、ぽん太には鐘の優劣はまったくわかりません。また、本日の記事の冒頭の写真が、ここ栄山寺の八角円堂です。天平宝字年間(757年〜765年)に造られたものだそうで、国宝に指定されております。確かに天平らしく延びのびとしてリズム感のある、美しい建物ですね。

Img_2348 本日最後の見学は當麻寺(たいまでら)です。もともとは真言宗のお寺でしたが、平安末期から浄土霊場として信仰を集めたのだそうです。写真は国宝の本堂です。内部には国宝の當麻曼荼羅のレプリカが、これまた国宝の厨子に納められております。この當麻曼荼羅は、天平時代に中将姫という女性が一夜にして織あげたという伝説があり、厚い信仰を集めたそうです。
Img_2350 隣接する小高い丘の上に、天平時代に造られた二つの三重塔が建っており、どちらも国宝に指定されております。こちらは東塔です。
Img_2361 そしてこちらが西塔です。奈良時代に多かった双塔形式の、現存唯一の遺構なのだそうです。そういえば興福寺も二つの塔がありますが、片方は近年の再建ですね。

2010/12/15

【遷都1300年の奈良・近江の旅(2)】浴槽の分厚い結晶がすごい! 入之波温泉山鳩湯(★★★★)

Img_2281 初日の宿は入之波(しおのは)温泉山鳩湯(やまばとゆ)です。吉野からさらに南下して、熊野へと続く道を辿ること1時間、大迫ダムが見えてきます。そのダム湖のほとりの道をさらに入って行くと小さな村があり、そこに山鳩湯があります。公式サイトはこちらです。この温泉の売りは、何といっても温泉成分が厚く結晶化した湯船です。前から一度泊まってみたいと思っていたのですが、今回ついに夢が叶いました。
Img_2279 小さな駐車場に車を停め、急な階段を下りて行ったところに玄関があります。
Img_2303 玄関を入ると、大量の下駄箱が並んでおります。日帰り湯としてかなり賑わっていると推測いたしました。しかしこの温泉を満喫するには、ぜひとも宿泊して、何度も入浴したいところです。
Img_2290 客室は、こざっぱりとした和室です。屋根が邪魔して、部屋の窓からダム湖を眺めることができないのが残念です。
Img_2286 いよいよお風呂です。冒頭の写真が内湯。左の写真が露天風呂です。温泉成分が浴槽に分厚く結晶化して、まるで黄土色のコンクリートみたいになってます。これは見事ですね〜。温泉好きのぽん太ですが、こんなのは初めて見ました。露天風呂の浴槽はうねうねとくねっていて、どうやって造ったんだろう、コンクリート製かななどと思っていたら、ケヤキの丸太をくりぬいて造ったものだそうです。温泉成分が付着する前の浴槽の写真は、上にリンクした宿の公式サイトで見ることができます。お湯は褐色に濁っており、ちょっとぬるめで(泉温39.6度)いつまでも入っていられる感じです。湯量が豊富で、天井近くのパイプからどぼどぼと注がれています。自噴で毎分380リットル!これもすごい。
Img_2295 泉質は「ナトリウム・カルシウムー塩化物・炭酸水素塩泉」とのこと。陰イオンでは炭酸水素イオン(HCO3-)が2127mg/kgと非常に多く、陽イオンはどれかがずば抜けて多いということはありませんが、ナトリウムイオン、カリウムイオン、カルシウムイオンがまんべんなく多いようです。なんでこんな結晶ができるのか、化学に強い人、ぜひ教えてください。あと、リチウムイオンが5.5mg/kgと多いです。飲むと躁うつ病に効くかも?
Img_2291 夕食はお食事処でいただきます。地元の山菜を使ったお料理や、秘伝の味噌がおいしい鴨鍋、それから川魚の塩焼きなどがつき、ヘルシーでおいしゅうございました。
Img_2294 温泉で炊いたご飯は、ちょっと黄金色で、とてもおいしかったです。
Img_2300 朝食です。こちらも山菜中心でヘルシー。温泉粥が胃に優しいです。
 木の浴槽を石の浴槽に変えてしまった温泉力が見事で、5つ星の価値があります。奈良の山奥の素朴な味わいがあり、料理もヘルシーでおいしいです。建物は普通なので、総合評価は4つ星となります。

2010/12/14

【遷都1300年の奈良・近江の旅(1)】橋本屋山菜料理・室生寺・聖林寺・談山神社

Img_2272 ぽん太とにゃん子は11月下旬、遷都1300年祭で賑わう奈良に行って参りました。ところが時期的にすっかり出遅れたようで、正倉院展もすでに終了、さまざまなお寺の特別御開帳も多くは終わってました。むむむ、何をやってもどこかずれてるな〜。でも、紅葉はとてもきれいでしたよ。上の写真は談山神社の紅葉です。
 多摩の巣穴を車で出発し、前夜は名古屋市内のビジネスホテルで一泊。居酒屋で地元の酒と肴をいただきました。翌朝ふたたび高速に乗り、奈良を目指しました。最初の目的地はにゃん子お気に入りの室生寺です。
Img_2243 室生寺に到着したのはお昼頃で、まずは腹ごしらえ。橋本屋さんの山菜料理をいただきました。公式サイトがなさそうなので、Mapple観光ガイドのページにリンクしておきます(こちら)。室生寺入り口の橋のたもとにあり、建物も歴史を感じさせます。旅館もやっており、写真家の土門拳の定宿としても有名です。
Img_2242 こちらが山菜定食です。人気のお店なのでひっきりなしにお客さんが訪れ、次々と料理が配膳されていくという流れ作業的な雰囲気なのですが、とてもおいしかったです。特にとろろ汁は、シャクシャクしていながらとろみがあって、変わった食感でした。とろろ芋と言っても、ぽん太が知っているような細長いのや銀杏みたいなのではなく、ゲンコツのような形をした芋だそうです。
Img_2263 室生寺といえば国宝の五重塔。こじんまりとして可愛らしく、室生寺が女性に人気のある理由がわかります。
Img_2269 次に向かったのは聖林寺(しょうりんじ)。公式サイトはこちらです。国宝の十一面観音立像は、均整が取れていて、柔らかく流麗。威圧的なところはまったくなく、天を舞う神々のごとく美しきお姿ですが、まぶしいような神々しさを兼ね備えています。観光客でごったがえす奈良ですが、このお寺を訪れる人は少なく、静かで落ち着いた気持ちで仏様と向き合うことができます。フェノロサも絶賛し、和辻哲郎も『古寺巡礼』で誉めたたえているとのこと。『古寺巡礼』を読み返してみると、大正7年(1918年)5月、奈良国立博物館でこの仏像を見たようです。和辻の鋭い感性と幅広い知識、文章力には頭が下がります。この本が出版されたとき、和辻は30歳だったとのこと。大したもんですね〜。
Img_2278 お次ぎは談山神社(たんざんじんじゃ)。公式サイトはこちらです。予備知識もなく、世にも珍しい十三重塔があるということで寄ったのですが、紅葉の名所なんだそうですね。観光バスが次々と到着し、観光客でにぎわっていました。十分の十三重塔は、面白いけどやはりちょっとアンバランスで、なんだかムカデを見てるみたいな気がします。談山神社は大化の改新のさい、藤原鎌足と中大兄皇子(天智天皇)が蘇我入鹿を討つための密議をしたところだそうです。

2010/12/13

【バレエ】ゴージャスだけど感情移入しにくい『ロミオとジュリエット』レニングラード国立バレエ

 ぽん太は、レニングラード国立バレエときくと、伝統的で地味(でちょっとチープ)な印象を持っていたのですが、今回の『ロミオとジュリエット』は演出も凝っていて、セットや衣裳もゴージャスでした。いや、ホント、お見それしました。光藍社の今回の公演の公式サイトはこちら、また光藍社作成のレニングラード国立バレエの日本語サイトはこちらです。
 ヴィノグラードフ版の『ロミオとジュリエット』を見るのはぽん太は初めて。というか、ヴィノグラードフが振り付けた作品を見るの自体が初めてだと思います。ヴィノグラードフの名前は、以前の記事で書きましたが、『海賊』の冒頭に難破シーンを持って来た人として聞いたことがあります(同一人物だよね)。
 ただしレニングラード国立バレエは、今年の7月からスペイン人のナチョ・ドゥアトが芸術監督として就任しております。ドゥアト自身も1997年には『ロミオとジュリエット』の振付けをしているようですが、今回の舞台のどこがヴィノグラードフの演出で、どこがドゥアトのアイディアなのか、浅学のぽん太にはまったくわかりませんでした。冒頭に流れた『アルハンブラ宮殿の思い出』は、明らかにドゥアトのアイディアだと思うのですが……。でも何で『アルハンブラ』?他にスペインっぽいところはないし。就任の挨拶みたいなものか?
 セットは、赤い大理石みたいな質感の天井まで届くアーチが、幾層にもなって舞台を埋め、それらを動かしたり上げ下げすることで、場面転換をしておりました。なかなか斬新で豪華です。舞踏会のシーンなども、平場で繰り広げられる踊りに合わせ、背景2階のアーチ状の窓のなかでもダンサーが踊り、まるで歌舞伎みたいな何とも不思議な光景でした。ラストシーンでは、横たわるジュリエットの背後に巨大な月が出ており、「をひをひ、墓地が屋外にあるのかい」と、つっこみたくなりました。しかも見慣れているはずの月ですが、なんか違和感があります。よく見ると、裏焼きのようです。わざとか間違いなのか……。衣裳も、時代や場所の設定は全く無視して、メタリック系が多用されたゴージャスなコスチュームでした。場面も結構省略されていて、話しがびゅんびゅん進んでいきます。「生」と「死」という役柄も、あまり効果的でないし、話しが寓話的に感じられてしまいます。全体として、様式的・象徴的で、異化された(ふふふ、懐かしい言葉)感じの舞台でした。その分、ストーリーに感情移入しにくい面があり、思わず共感してウルウルするような演出ではありませんでした。
 振付けは、テクニックとしては古典的。バルコニーシーンは、アーチでできたバルコニーの上には星がまたたき、なかなかいい雰囲気ですが、バルコニーの上にいたジュリエットが、いったん舞台袖にはけてから地面に降りて再登場して来るので、その間ロミオだけが舞台上で踊ることになるのが欠点。それも含めて、恋する二人のドキドキが、あまり伝わってきませんでした。
 ジュリエットのイリーナ・ペレンは、美人でスタイルも抜群。2年前のシーズンに『白鳥の湖』を観た(見えなかった?)時は、ちょっと肉感的な印象を受けたのですが、今回はジュリエットはかわいらしいお嬢さんという感じで、こどもこどもした感じはありませんでした。そういう面も含め「ロミオとジュリエットが恋を通じて成長する」という物語にはなっていませんでした。ロミオのニコライ・コリパエフは、その『白鳥』ではマズルカの一員でしたが、出世したのでしょうか。すらりとした若者のロミオで、悪くなかったです。マキューシオのアルジャエフ、もっと飛んだり回ったりしてほしかったです。
 指揮のパーヴェル・ブベルニコフ(ブベリニコフ?)は、昨年のマリインスキーの来日公演の『白鳥の湖』で、東京ニューシティー管弦楽団を振ってました。今回はレニングラード国立歌劇場管弦楽団。演奏は悪くありませんでしたが、先日の「奇跡の響宴」がまだ耳に残っているので、ちと物足りない気がするのはやむを得ないか。
 毎年恒例のレニングラード国立バレエ団、『白鳥』や『ジゼル』は見飽きたところもあったので、珍しい版の『ロミジュリ』が見れてよかったです。


レニングラード国立バレエ ―ミハイロフスキー劇場―
「ロミオとジュリエット」 ―全3幕―
2010年12月8日 東京文化会館
演出・振付:ヴィノグラードフ

ジュリエット:イリーナ・ペレン
ロミオ:ニコライ・コリパエフ
パリス:リシャート・ユルバリソフ
ティボルト:アレクサンドル・オマール
マキューシオ:ニコライ・アルジャエフ
生:ユリア・バラグロワ
死:エレーナ・イヴォルギナ
キャピュレット:ウラジミール・ツァル
キャピュレット夫人:アンナ・ノヴォショーロワ
モンタギュー:イリヤ・アルヒプツォフ
ヴェローナの領主:アレクセイ・マラーホフ
ロレンス神父:キリル・ミャスニコフ
ジュリエットの友人:ダリア・エリマコワ、マリア・グルホワ、ユリア・カミロワ、ヴィクトリア・ザリポワ
ロミオの友人:アンドレイ・マスロボエフ、マクシム・ポドショーノフ、ニキータ・クリギン、パーヴェル・ヴィノグラードフ
隊長:アレクセイ・クズネツォフ、デニス・トルマチョフ
タランテラ:オリガ・セミョーノワ

指揮:パーヴェル・ブベルニコフ
管弦楽:レニングラード国立歌劇場管弦楽団

2010/12/02

【拾い読み】とりあえずベジャール入門『モーリス・ベジャール回想録―誰の人生か? 自伝2』

 こことのところベジャールが振付けたバレエを立て続けに見たのですが、よく考えてみるとベジャールのことはほとんど知らないことに気がつき、この本を読んでみました(モーリス・ベジャール『モーリス・ベジャール回想録―誰の人生か? 自伝2』 前田允訳、劇書房、1999年)。
 本書の「誰の人生か?」(La vie de qui?)というタイトルが示すとおり、ベジャールがいかに多くのダンサーやその他の人々、あるいは音楽、書物、映画などに接し、関わり、それらに触発されて生きてきたかがよくわかりました。ベジャールは「主体の複数性」といったポスト・モダンの概念をもてあそんでいるわけではなく、実際に世界中を飛び回り、さまざまな人々との出会いの中で振付けをし、そして生きてきたわけです。先日観た「80分間世界一周」は、単なる世界の音楽とダンスを巡るショーではなくて、まさにベジャールの人生そのものだったんですね。で、あとはいつものように拾い読み。

 私のものというよりは、ドンのバレエであるもののうちでも、『アダージェト』は特別だ。それは、ドン自身がジル・ロマンに伝授したのだ。日本ツアー中にドンが私に言った。「ジルに踊らせてみてくれ。彼ならうまくいくよ」(35ページ)
 2008年6月10日、ベジャール亡き後初めてのベジャール・バレエ団来日公演の初日、ジル・ロマンがプログラムになかった『アダージェット』を踊るというサプライズがありました。残念ながらぽん太はこの日は観に行ってなかったんだけど……。引用にあるように、『アダージェット』はベジャールにとっては、ジョルジュ・ドンのために振り付けたものであり、彼以外が踊るということは考えていませんでした。しかしドン自身が、ジル・ロマンが踊ることを提案したわけです、しかも日本公演の最中に!ベジャール亡き後、ベジャールの遺産を引き継いでく立場となったロマンが、日本公演で『アダージェット』を踊ったのには、深い思いがあったのかもしれません。
 次の質問。「不眠症対策に薬を飲んでますか」
 フェリーには、私もそう言っただろうと同じことを答えている。「ありとあらゆるものを試してみました。あらゆる睡眠薬、ハーブ、催眠術。精神安定剤の科学的な講演ができるくらい」
 私が人生でやりそびれたことは、フェリーニと一緒に薬局に行くことである!(65ページ)
 ベジャールは不眠症で睡眠薬を常用していたのか。フェリーニも……。ただそれだけですけど。
 マニュエル・ルグリをパリ・オペラ座のエトワールに指名する件で、この劇場で『アレポ』の初演を行っていたベジャールと、当時の舞踊監督だったヌレエフとの間にいざこざがあったことも、初めてしりました。エトワールの指名は上演後の舞台で行われるそうで、誰かの悪意に基づく情報からヌレエフの許可がおりていると思い込んだベジャールが、『アレポ』上演後にルグリとエリック・ブ=アンをエトワールに指名したところ、ヌレエフの逆鱗にふれ、激しい言葉で罵倒されたそうです。本には1986年の2月にあったと書かれていますが、ルグリのエトワール昇進は、1986年7月のニューヨーク公演で 『ライモンダ』を踊ったあと、ヌレエフによって行われたそうですから、ベジャールによる指名は取り消されてしまったのでしょうか。
 フリッツ・ラングの映画『M』に触れているところがありました。もうすぐベジャールが三島由紀夫を題材にして振り付けたバレエ『M』の公演があり、ぽん太も観に行く予定ですが、そう言われてみれば『M』といえばフリッツ・ラングでした。関係があるのでしょうか。公演前に映画を見直しておいた方がいいかな?
 ベジャールは別のところで、小林十市のことを「彼はパリ・オペラ座ではあまり見られないようなすばらしいテクニックの持ち主で、輝きとユーモアに恵まれている。これまでで最も良かった役柄は『M』(三島のM)の中で演じたものであり、その役は「死」だった」(154ページ)と書いている。12月の東京バレ団の公演では、持病でダンサーを引退してた小林十市が今回だけ舞台に復帰して、この「死」を踊るそうで、大変楽しみです。
 さて、いつぞやのブログでも触れた、ベジャールの祖先に黒人がいる問題。書いてありました。ベジャールの父の祖母であるファトゥ・ディアニュがセネガルのゴレ島の黒人女性だと書いてありました(266ページ)。ベジャールの父方の曾祖母が黒人ということで間違いなさそうです。ということは、曾祖父と書いてるNBSの公式サイトの方が間違っているということか……。さらに同書に収録されている写真を見ると、父方の祖父(エチエンヌ・ベルジェ)には黒人の血が入っており、父方の祖母に(アメリー)は白人のように見えますので、父の父の母が黒人だと思われます。
 東京にて、1996年2月4日
 1880年に出来た、ちょっとモーパッサン風のメロドラマ調歌舞伎に出演中の玉三郎に会いにいく。(303ページ)
 いったい何の演目でしょう。こちらの玉三郎の公式サイトを見ると、1996年2月は新橋演舞場で『一本刀土俵入』と『新書太閤記』に出たと書いてありますが、どちらも「モーパッサン風のメロドラマ」ではないし、1880年の作でもありません。1月の「女人哀詞」は唐人お吉の話しだからそれっぽいけど、場所は大阪梅田のドラマシティだし。3月歌舞伎座の「梅ごよみ」かもしれないけど、1880年って……。意外と本書に書かれている内容の細部はいいかげんなのかも。ベジャールは玉三郎を絶賛しております。歌舞伎もバレエも初心者のぽん太には、二人一緒の舞台を観る機会がなかったのが残念です。

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

無料ブログはココログ
フォト
2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31