« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月の9件の記事

2011/01/31

【歌舞伎】愛之助もぽん太も体調不良 新春浅草歌舞伎2011年1月

 正月だ、浅草だ、ということで行って参りました、恒例の浅草歌舞伎。ところがロビーに「本日より愛之助休演」の貼紙が。ショ……ショックです。楽しみにしてたのに。
 「三人吉三」は、愛之助が演じるはずだった和尚吉三を亀鶴が演じました。めったにない配役なので、これはこれで貴重と言えるかも。亀鶴、頑張っておりましたが、緊張しているせいか、ぱっとした明るさがありませんでした。この芝居、テンポのいい台詞の掛け合いがキモなので、突然の代役ではちょっと辛かったかも。「巣鴨吉祥院本堂の場」での和尚吉三と手代十三郎のやりとりでは、代役同士で台詞が出てこなくて大変そうでした。「本郷火の見櫓の場」の七之助と亀治郎のやりとりは、さすがにテンポがよくて引き込まれました。七之助はあいかわらず美しかったです。線が細いので、男になったときの貫禄はありませんが、するどいナイフのような任侠味がありました。まあ貫禄をつけるのは、もっと年を取ってからでいいでしょう。菊之助のようにあんまり早く貫禄をつけないで、まだまだ美しい女方でやって欲しいです。亀治郎はもう少し色っぽさが欲しいところ。
 「独楽」は、駒の曲芸を披露する亀治郎が、やがては自ら駒となって回り出すという舞踊。さすが芸達者の亀治郎、楽しかったです。
 第2部に入って「壺坂霊験記」。すごく簡単なストーリーで1時間以上引っ張るという演目で、役者の力量が問われます。代役の亀鶴の演技やいかに、というところですが、実はぽん太も風邪気味で体調がすぐれず、ほとんど寝倒してしまってよくわかりませんでした。ごめんなさい。
 「黒手組曲輪達引」は、ぽん太は初めて見ました。「助六」のパロディーで、三浦屋の前で吸い付け煙草が一本も来ないのを嘆いたりして、面白いです。亀治郎の助六は、福山雅治の歌に合わせて踊るなど大サービスでした。今回は「水入り」まで。お年玉ご挨拶で亀治郎が、「愛之助のいない分、いつもより長く水に入ってご覧にいれます」と言ってましたが、どうだったんでしょうか。ただ、助六の粋さがもうちょっとあると良かったです。七之助の揚巻は大満足。亀鶴の鳥居新左衛門、こういう色悪はかっこいいです。元々の役だったせいか、落ち着いておりました。春猿など澤瀉組が出ていたのは、海老蔵の公演がぽしゃったせいでしょうか。考えてみれば愛之助が体調を崩したのも、12月に海老蔵の代役で頑張ったせいかも。
 さあ、これを皮切りに、今年も歌舞伎を楽しむぞ!
 

新春浅草歌舞伎
浅草公会堂 平成23年1月

第1部

お年玉<年始ご挨拶>      市川 笑三郎

一、三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)

   序 幕 大川端庚申塚の場
   二幕目 巣鴨吉祥院本堂の場
       裏手墓地の場
       元の本堂の場
   大 詰 本郷火の見櫓の場
        浄瑠璃「初櫓噂高音」

              お嬢吉三  中村 七之助
              お坊吉三  市川 亀治郎
            伝吉娘おとせ  坂東 新 悟
             手代十三郎  澤村 國 久(代役)
              和尚吉三  中村 亀 鶴(代役)

二、猿翁十種の内 独楽(こま)

             独楽売萬作  市川 亀治郎


第2部(午後3時開演)

お年玉〈年始ご挨拶〉市川 亀治郎

一、壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)

              座頭沢市  中村 亀 鶴(代役)
              女房お里  中村 七之助

二、猿之助四十八撰の内 黒手組曲輪達引(くろてぐみくるわのたてひき)

   忍岡道行より
   三浦屋裏手水入りまで
    浄瑠璃「忍岡恋曲者」
   市川亀治郎三役早替りにて相勤め申し候

  番頭権九郎/牛若伝次/花川戸助六  市川 亀治郎
             三浦屋揚巻  中村 七之助
            同 新造白玉  市川 春 猿
            白酒売新兵衛  市川 寿 猿
           三浦屋女房お仲  市川 笑三郎
            鳥居新左衛門  中村 亀 鶴
          紀伊国屋文左衛門  片岡 たか志(代役)

2011/01/29

【大阪の歌舞伎ゆかりの地を訪ねて】合邦辻閻魔堂、四天王寺、野崎観音など

Img_2919 ぽん太とにゃん子は2011年1月、大阪の松竹座に歌舞伎を観に行ったついでに、大阪市内の歌舞伎ゆかりの地を訪ねてきました。
 まずは今月の夜の部で、坂田藤十郎が伊左衛門を演じた「廓文章 吉田屋」の遊郭「吉田屋」があったという、新町1丁目〜2丁目です(地図はこちら)。こちらの新聞記事(「【舞台はここに】大阪・新町 歌舞伎「廓文章 吉田屋」」産經新聞2011年1月15日)に詳しく書かれておりますが、それによれば新町は、かつては江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大遊廓のひとつとして栄えたそうです。寛永年間(1624〜1644年)に誕生し、当初は約70軒ほどでしたが、20年後には240軒あまりとなり、その後も増え続けたそうです。新町遊郭があったのは、現在の大阪市西区新町1丁目から2丁目あたりで、旧大阪厚生年金会館から新町北公園をふくむ南側一帯だそうです。現在は写真のように、まったく普通の街並で、遊郭の面影はありません。上の記事にはもうひとつ大変興味深い話しが書かれています。「廓文章」に出てくる夕霧を抱えていた扇屋の娘が、初代中村鴈治郎(つまり、坂田藤十郎のおじいさん、扇雀・翫雀の曾祖父)の母親なんだそうです。
 ひょっとして話しについていけなかった人のために注釈を。当時の遊郭では、遊女は「置屋」に所属しており、客から声がかかると、「茶屋」あるいは「揚屋」と呼ばれる別の施設に出向き、そこで遊んだのです。ですから「廓文章」では、夕霧の「置屋」は「扇屋」で、伊左衛門と遊んだ「茶屋・揚屋」が「吉田屋」なわけですね。残念ながらぽん太はあまり詳しい知識を持っているわけではないので、夕霧の時代に吉田屋が「茶屋」と呼ばれたのか「揚屋」と呼ばれたのかまでは知りません。
 扇屋夕霧は実在の太夫だそうで、Wikipediaに出ています。 生年は不詳ですが、延宝6年(1678年)に22歳〜27歳という若さで病気で亡くなったそうです。夕霧のお墓は大阪市天王寺区の浄國寺(地図はこちら)にあるようですが、他にも何カ所かあるようで、今回はぽん太とにゃん子は訪れませんでした。
Img_2940 おつぎは合邦辻閻魔堂です。歌舞伎の「摂州合邦辻」で、玉手御前の父親である合邦は、天王寺西門で閻魔堂建立のための勧進をしておりましたが、その閻魔堂がこれです。場所は四天王寺西門から西へ坂を下ったところ、天王寺公園の北側の大通り沿いで、地図はこちらです。こちらの新世界周辺SPOTというサイトによれば、この合邦辻閻魔堂は聖徳太子によって開かれたそうです。明治初年頃の道路拡張によって現在の地に移されましたが、昭和20年3月13日に空襲で消失し、その後信者さんたちによって再興されたそうです。
Img_2941 お堂の前には「玉手の碑」があります。
 閻魔堂の正面には、「脳の守り本尊」と書かれており、また頭痛・脳病・咳などのお守りを売っているようで、病気平癒(特に頭部?)にご利益があるようです。ここでいう「脳病」が何を挿しているのか、ぽん太の専門の精神病も含まれているのか興味深いところですが、ぽん太にはわかりません。
 ちなみに歌舞伎の「摂州合邦辻」が初演は安永2年(1773年)で、当時すでにこのお堂は病気平癒のご利益が知られていたと考えるのが自然でしょう。ちなみにちと気になって、歌舞伎の原作のひとつと言われる能の「弱法師」を読み返してみたところ、歌舞伎同様に四天王寺が舞台にはなっているものの、閻魔堂にはまったく触れておりません。ちなみに「弱法師」の作は観世十郎元雅(? - 1432年)ですので、15世紀前半には作られていたものですね。
Img_2942 閻魔堂のちょっと西側に、北に向かう路地があり、階段になっております。『摂州合邦辻』ゆかりの地を尋ねて|歌舞伎美人によると、この交差点が「合邦が辻」と呼ばれていたそうです(もっとも道路拡幅でちょっとずれてるでしょうけど)。これを二つに分けて、「合邦」と「お辻」(玉手御前の名前)という役名にしたのだそうです。
Img_2938 合法閻魔堂から四天王寺に向かって坂を登ってゆくと、右側に変なものを発見!巨人がスノボをしているぞ!なんでも一心寺というお寺の仁王門だそうで、平成9年に建立、彫刻家神戸峰男による仁王像とのこと。う〜ん、微妙。
Img_2928 四天王寺です。公式サイトはこちらです。ぽん太とにゃん子は初めて訪れました。古めかしさのない境内ですが、何度も戦火や災害に見舞われたそうで(最近は大阪大空襲)、元々は聖徳太子によって創建された由緒あるお寺なんだそうです。また平安時代には、四天王寺西門信仰という浄土信仰が盛んになり、人々は西門がすなわち極楽浄土の東門であると考え、西門から海に沈む夕日を眺めるという「日想観」という修行が行われたそうです。
Img_2930 四天王寺から少し南に行ったところにある超願寺(地図はこちら)には、竹本義太夫のお墓があります。置いてあったパンフレットによると、竹本義太夫は、超願寺からやや西の堀越神社(地図はこちら)付近の百姓家で慶安4年(1651年)に生まれたそうです。のちに大阪道頓堀に竹本座を開き、近松門左衛門と組んで、多くの人形浄瑠璃を世に送り出したことは有名です。
Img_2933 歌舞伎とは関係ありませんが、超願寺のすぐ南にある庚申堂を見学。庚申尊が初めて出現した地なんだそうです。案内板によれば、大宝元年(701年)正月7日庚申の日、豪範僧都(ごうはんそうず)が疫病に苦しみ人々を救おうとして祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現したのだそうです。
 庚申といえば、庚申待ちとか庚申講とか言って、一晩寝ないで夜を明かすあれですな。あれって童子なの?川口謙二『日本の神様読み解き事典』(柏書房、1999年)によれば、庚申待ちは中国の道教に由来する習慣だそうです。道教では、身体のなかにいる 三尸(さんし)の虫が、寝ているあいだに抜け出して、天帝にその人の罪悪を報告すると考えたそうです。そこで庚申の日は畏れかしこんで、眠らずに修行をしたのだそうです。『栄華物語』の正編(後一条天皇の万寿(1024年 - 1028年)頃に成立)のなかの982年の条に、庚申をしたという記載があるそうです。著者は、道教の「天帝」が日本で「帝釈天」に変えられたのではないかと言います。また庚申信仰は、青面金剛や三猿が結びつけられていることがあります。ちなみにこの庚申堂の本尊は「青面金剛童子」で、境内には「三猿堂」があります。これは、青面金剛法が伝尸病(でんしびょう)(肺結核)を除くと言われているため三尸と結びつけられたり、また帝釈天の神使(みさきがみ)が猿であり、庚申の申を「さる」と読むことから、結びついたのではないかといいます。この庚申堂が、庚申信仰が広まっていくなかで成立したものなのか、あるいは後になって遡って作られた伝説なのか、ぽん太にはわかりません。
Img_2950 さて、最後は野崎観音です。正確には福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)というお寺で、場所はこちらです。市内から結構離れたところにあります。はるばる出かけたのですが、けっこう地味でした。スピーカーから流れる陽気な音楽がかえって哀れをさそう寂れた商店街を抜け、長い石段を上ると、ちっちゃな境内があります。
Img_2952 野崎観音といえば、お染久松で有名な「新版歌祭文」の野崎村ですね。こちらがお染久松のお墓です。祝言があげられるとうれしくてたまらない田舎娘お光、久作の説得に従うと見せながら心中を決意するお染久松、髪を切って尼となり身を引こうとするお光の自己犠牲、目が見えない母親お常が、娘お光がさぞかし美しい花嫁姿であろうと誉め讃える場面、最後にお染と久松が別れ別れの道で大阪に戻り、笑顔で見送っていたお光が号泣。うううう、ぐぐぐ、思い出しただけで涙が出てきます。
 ところで「野崎村」に「野崎観音」は出てきたっけ。ううう、覚えてない。こんどよく見てみます。それにもともと宝永7年(1710年)に起きたという実在のお染久松の油屋における心中事件は、野崎村と関係があったのかしら。野崎村と結びつけたのは浄瑠璃の創作でしょうか。だとしたら野崎観音にあるお染久松の墓って……。これもよくわからん。
 ちなみに油屋があった場所は、大坂東掘瓦屋橋となっており、ネット上に大阪市立中央会館(地図)の裏手と書いているものがありましたが、信じるも信じないもあなた次第です。
Img_2948 「女殺油地獄」では、与兵衛は、なじみの遊女小菊がほかの客と野崎参りにでかけたのを恨み、徳庵堤で待ち伏せするところから始まります。このあたり(地図)の寝屋川の堤が、徳庵堤のようです。
 東海林太郎の「野崎小唄」(Youtubeはこちら)でも「野崎参りは屋形船でまいろ」というし、お染も船で帰っていくし、昔は寝屋川を遡って船で野崎参りをする方法があったようです。しかし、今回行ってみたけど、近くにそんな川なんかあったっけ。なんかちっちゃな川があったけど。
 調べてみると、大昔はこちらのページにあるように、大和川は北に流れて淀川に合流しており、野崎観音の西側には深野池と呼ばれる大きな池があり、大坂までつながっており、船が行き来していたようです。しかし江戸幕府は元禄16年(1703年)に大和川付替えを決定し、翌年にわずか8ヶ月で工事は完成し、大和川は西に流れて直接大阪湾にそそぐようになりました。付け替え工事以後は、天満橋の八軒家船着場などから、寝屋川を遡って谷田川に入るルートが一般的になったそうです。「女殺油地獄」の初演は享保6年(1721年)、「新版歌祭文」は安永9年(1780年)ですから、ともに大和川の付け替えが終わってからですね。

2011/01/27

【拾い読み】欲しがりません、いつまでも 松田久一『「嫌消費」世代の研究』

 ちまたの噂で近頃は、車も欲しくなければ海外旅行にも行きたくないという、物欲のない若者が増えてきたと聞いて、気になって読んでみました。いわゆるマーケティング系の本でした。
 ぽん太の浅はかな知恵では、収入が低いからお金を使わないのかな〜などと思っていたのですが、著者によれば、彼らは収入が増えたとしても消費を増やさないんだそうで、まさに「嫌消費」なんだとか。
 いわゆる嫌消費は、1979年から1983年の間に生まれた「バブル後世代」の特徴だとのこと。現在は25〜29歳。小学校時代はバブルの最盛期で、ベルリンの壁崩壊や昭和天皇崩御を体験。中学校でバブルが崩壊し、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、いじめによる自殺などが話題に。高校では橋本内閣の金融ビッグバンを目撃し、終身雇用・年功序列制から実力主義賃金体系への移行が行われました。そして就職では「氷河期」にあたるそうです。
 統計的に彼らの価値意識の特徴を探ってみると、「ワンランク上の生活がしたい」という「上昇志向」、「人間関係を広げたい」「他人のために役立ちたい」という「他者志向」、「競争より強調が大切」と思う率が少ないという「競争志向」、「劣等感が強いほうだ」「妥協することが多い」という「劣等感」の4つが挙げられるといいます。
 著者はこれら4つの要因は、つまるところ「劣等感」に集約されると言います。さらにE. H. エリクソンの発達段階理論を利用して、学童期におけるバブル崩壊とゆとり教育による勤勉性の獲得の失敗が、劣等感の原因であると主張しますが、このあたりはぽん太からみても、ちょっと説得力に欠けるところ。
 消費をしたがらない要因としては、将来の収入の見通しがたたないことや、不安感などが大きいそうです。
 ここで著者は突然「世代論」の概説を行うのですが、ディルタイ、マンハイム、オルテガなどが世代理論の代表であることを、ぽん太は初めて知りました。
 マーケティングの本なので、最後は彼らにどうやって消費をさせるかという戦略が呈示されて終わります。

 嫌消費世代の概略はわかったのですが、その原因・実像・意義といったものの分析はいまいちでした。論の建て方として、都合のいい理論をひとつだけ引っ張ってきて著者の主張を説明してみせるというもので、ぽん太には説得力不足に感じられましたが、いわゆる企業で行われているプレゼンテーションは、こんなもんなんでしょうか。
 しかし、経済学に不案内なぽん太にとって理解しがたいのは、消費とは、結局は使えるものを捨てて買い替えるという「無駄遣い」のことだと思うのですが、無駄遣いをしていかないと成り立たない資本主義経済というのは、なんか根本的に間違っているのではないでしょうか。嫌消費世代はむしろ新しく、正しい価値観である可能性もあります。消費しないバブル後世代の若者たちは、どのような生き方を求め、何を喜びとしているのか、そのあたりをぽん太はもう少し知りたい気がしました。
(松田久一『「嫌消費」世代の研究――経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち』東洋経済新報社、2009年)

2011/01/25

【拾い読み】共感覚に基づく驚異的な記憶力 ルリヤ『偉大な記憶力の物語』

 A.R.ルリヤの『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活』(天野清訳、岩波書店、2010年、岩波現代文庫)を読んでみました。
 ルリヤ(Алексндр Ромнович Лрия、1902年 – 1977年) はソ連の神経心理学者・発達心理学者として有名です。日本語のWikipediaには項目がないようですが、英語版Wikipediaには出ています。それによれば彼はユダヤ人で、差別的な待遇を受けたこともあるようです。ちょっと面白かったのは、カザン州立大学の学生だった頃(1921年卒業)、彼はカザン精神分析協会を設立し、フロイトと手紙のやり取りをしていたのだそうです。へ〜え、ということで、エレンベルガーの『無意識の発見 下 — 力動精神医学発達史』(木村敏、中井久夫監訳、弘文堂、1980年)を読んでみたら、しっかり出てました。「ロシアのすぐれた心理学者アレクサンドル・ルリヤ(Алексндр Лрия)は、精神分析を熱烈に支持する著書と論文を発表し、精神分析を『一元的心理学体系』で、『真のマルクス主義心理学を構成するための基本的な唯物論的原理』であると考えた」(502ページ)。これは1925年の『心理学とマルクシズム』に掲載された「一元論的心理学体系としての精神分析学」という論文だそうです。
 ルリヤを含む20世紀初頭のロシアと、精神分析との関係については、国分充「20世紀初めのロシアにおける精神分析の運命 ─覚え書─」東京学芸大学紀要1部門 56 pp . 309 ~320, 2005(https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/2085/1/03878910_56_24.pdf)、国分 充・牛山 道雄「ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派 ──ルリヤのZeitschrift 誌の活動報告──」東京学芸大学紀要 総合教育科学系 57 pp.199~215,2006(https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1467/1/18804306_57_20.pdf)という面白そうな論文がネット上に見つかりましたが、みちくさは別の機会にいたしましょう。
 
 さて本書は、驚異的な記憶力を持つひとりの人物について書かれています。その記憶力たるや、50のランダムな数字が書かれた表を3分ほどで覚えてしまい、それを数十秒で再現することができたそうです。その記憶は数ヶ月たっても完全に保たれており、記憶の再生にかかる時間は、記憶直後に再生した場合とほとんど変わりませんでした。それどころか彼は、一度覚えたことは決して忘れることがなく、時間とともに記憶が薄れてくるということもありません。数ヶ月どころか10年経っても20年経っても、完全に思い出すことができたそうです。
 彼は単に記憶力がいいというだけでなく、実は「共感覚」の持ち主であって、それが記憶力と関連していたのです。普通は感覚は、五感というように、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の5つに別れており、それらが混じり合うことはありません。「共感覚」とは、音を聞くと形や色が見えたり、形や色を見ると匂いがしたりする現象です。
 彼は、言葉や数字を見たときに生じる形やイメージを、風景の中に配列することによって、言葉や記号を記憶しました。そしてそれを思い出す時は、風景の中に配置されている「もの」を読み取っていくだけでよかったのです。と、書いても分かりにくいと思いますが、例えば「緑の」という言葉を聞くと、色のついた緑色のツボがあらわれ、「赤い」という語を聞くと、似合った赤い服を着た人が現れる。そうしたツボや人を、見慣れた通り沿いに配置していくのだそうです。思い出す時はその通りの風景を再現し、置かれている物を読み取っていくのだそうです(よけいわからないですか?あとは自分で読んで下され)。
 こうした共感覚に裏付けられた記憶は、彼の思考や人格にさまざまな影響を与えており、そこらの記述が、この本の面白さであります。普通の人なら忘れているような、1歳以前の記憶が残っていたりします。また、言葉によって浮かぶイメージが思考の邪魔をすることもあり、言葉の意味と、言葉から生じるイメージがずれていると、その言葉がうまく使えなかったりするそうです。また、「誰々が一本の木によりかかっていた」という文章を読むと、森の中で男が菩提樹によりかかっている風景が浮かんできますが、次の文章が「彼はショーウィンドウを覗き込んだ」だったりすると、今度は街の中の風景に、一から作り直さないといけないという苦労もあったそうです。

 いや〜、記憶力の弱いぽん太はうらやましい限りです。ぽん太がブログを書いているのも、「あのバレエ誰が踊ってたっけ」とか、忘れそうなことを記録しておく意味もあり、自分の記憶をグーグルで検索できるのでとっても重宝しております。便利な世の中になったものですね。
 本書に書かれている人の場合は極端な例ですが、ものごとの捉え方は人によってさまざまなんだな〜と、改めて思いました。他人も自分と同じように、感じたり考えたりしていると思うと、大間違いということですね。
 共感覚といえば、有名な精神医学者の中井久夫先生も共感覚があったことはよく知られており、そのことは例えば『私の日本語雑記』(中井久夫著、岩波書店、2010年)にも書かれております。「私には共通感覚があって、語の記憶は色彩と結びついている。これは記憶の助けにもなるが、『色合わせ』がよくないと、その部分は異質なものとして放り出したくなる。……ただ、色として認識されるのは十八歳ごろに覚えたギリシャ文字までであって、大学に入ってからのロシア文字は全体として黒っぽく、ハングルは白っぽい。」氏は「共通感覚」という言葉を使われておりますが、文脈から「共感覚」のことでしょう。また氏は、本の背表紙を見ると内容が頭に浮かんできて苦しいので、背表紙を向こう側にして本箱に入れておく、とどこかで書いていた気がします。著作から推察するに、氏も卓越した記憶力をお持ちなようで、微分的認知と積分的認知という図式は、「かすかな予兆、徴候的なものが、時間とともにやがて積分的な知識となっていく」という氏の時間体験に基づいていると思われます。ぽん太のように予測力も記憶力もない者にとっては、未来の出来事は突然目の前に現れて行く手を妨げ、過去に遠ざかるとともにやがて記憶が薄れたり混乱したりして、ぐちょぐちょになっていきます。ぽん太は自分の記憶を信じておりません。
 ぽん太の患者さんで、共感覚の持ち主にはお目にかかったことがありませんが、共感覚の有無をわざわざ聞いたりすることはないので、実は隠れているかもしれません。記憶力に関しては、統合失調症の患者さんで、前回血液検査をした日とか、数年前にある薬を初めて投与した年月日とかを、正確に記憶している人が2〜3人います。でも、その患者さんの記憶力一般についてチェックしたことはありません。記憶力とは若干異なりますが、統合失調症の妄想型で家に閉じこもっている患者さんに、息抜きは何をしているのか尋ねたところ、頭のなかで敵味方それぞれ100隻くらいの戦艦を思い浮かべ、それらを(頭の中で)戦わせて遊んでいる、と答えた人がおりました。

2011/01/23

【歌舞伎】海老蔵よありがとう! 坂東玉三郎特別公演 2011年1月ルテアトル銀座

 海老蔵の例の事件で中止となった初春花形歌舞伎の代わりに行われた、坂東玉三郎の特別公演です。海老蔵の時よりチケット代が高くなったにも関わらず、話題性も加わって、あっという間に完売となり、元日に追加公演まで行われたそうです。ルテアトル銀座で行われる玉三郎の公演ということで、いつもの歌舞伎とは異なるセレブな御婦人方で賑わっておりました。
 最初の演目は「阿古屋」。豪華な衣装をまとった阿古屋が、琴・三味線・胡弓の演奏をしつつ、傾城としての気品や、景清を思う心情を表現しなくてはいけないという難役で、六世歌右衛門亡きあと、演じられるのは玉三郎ただ一人なのだそうです。
 玉三郎の「阿古屋」は、2007年9月に歌舞伎座で見たことがありますが、悲しいことにあんまり覚えてません。
 数年ぶりに観た玉三郎の「阿古屋」は凛として美しく、密度の濃い集中した舞台でした。三曲の演奏も見事でした。この演目が見れたことを、海老蔵に感謝しないといけませんね。
 ただこの演目、ちょっと疑問もあって、いくら玉三郎の演奏がうまいからといって、プロの演奏にはかないません。それだったら、実際の演奏はプロがやった方がいいのではないかという気もします。まあしかし、「玉三郎が」琴・三味線・胡弓を演奏するというところがいいのでしょう。
 ところでぽん太は、胡弓と言えば中国の楽器で、弦の間を通した弓で演奏するものだと思っていたのですが、やけにフサフサした緩い弓で、チェロのように弦の外側から弾いておりました。Wikipediaを見てみると、胡弓というのはまさに玉三郎が弾いていた和楽器であり、中国のものは二胡とか高胡というのが正式名称で、それらを胡弓と呼ぶのは誤用なんだそうです。
 獅童の秩父庄司重忠は、意外にも美男子で姿がよかったです。猿弥の人形振りも上手でした。
 玉三郎、続く「女伊達」では、気っ風のいい姉御風。正月らしい明るく華やかな踊りでした。途中に口上も入りましたが、「なにぶん急に決まった公演で……」というところで、会場から笑いが起きてました。


坂東玉三郎 特別公演
中村獅童 出演
ル テアトル銀座 平成23年1月

一、壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)
  阿古屋
             遊君阿古屋  坂東 玉三郎
             岩永左衛門  市川 猿 弥
            秩父庄司重忠  中村 獅 童

二、女伊達(おんなだて)
                    坂東 玉三郎

2011/01/22

【拾い読み】読むべきか読まざるべきか アーネスト・ジョーンズ『ハムレットとオイディプス』

 アーネスト・ジョーンズの『ハムレットとオイディプス』(栗原裕訳、大修館書店、1988年)を読みました。Ernest Jones, Hamlet and Oedipus (London: Victor Gollancz Ltd.,1949)の全訳。精神分析的なハムレット論の古典ですが、恥ずかしながらぽん太は今回初めて読みました。

>

 フロイト自身は、『夢判断』の「第五章、夢の素材と夢の源泉」において『ハムレット』に言及しております。いわく、「ハムレットが、父を殺して母をめとった叔父を殺すことができないのは、ハムレット自身の抑圧された幼年期願望を、叔父が体現しているからである。シェイクスピアは、父の死の直後に『ハムレット』を書いた。従って『ハムレット』は、シェイクスピア自身の父に対する心理が反映されている」。ジョーンズの本書は、このフロイトのハムレット解釈を、幅広い文献にあたったうえで解説・詳述したものといえましょう。第7章のハムレット伝承と神話との関係について論じた部分は、ジョーンズのオリジナルと言えるのかもしりません。

 何事につき感化されやすいぽん太は、こういう本を読むと、「なるほど、その通りだな〜」という気になってしまいます。ジョーンズの解釈を検討して問題点を見いだすなどという作業は、ちょっとする元気と能力がありません。

 精神分析によるハムレット論は、ラカンの『セミネールVI』(1958年 - 1959年)も有名です。残念ながらこのセミネールは、邦訳はもとよりSeuil社のフランス語版も出版されていませんが、雑誌「Ornicar?」にハムレット論の部分のみ掲載されたことがあります。海賊版ならば、例えばこちらのサイト(http://gaogoa.free.fr/SeminaireS.htm)で読むことができます。
 精神分析以外のハムレット論としては、政治学者カール・シュミットの『ハムレットもしくはヘカベ 』(1956年)や、デリダの『マルクスの亡霊たち』(1993年)などがあります。
 どれも興味を引きますが、今のところぽん太は、そこまでみちくさする元気と能力はございません。

 ということで、拾い読みにすらなっておりませんが、ぽん太自身の読書メモとしてアップしておきます。あしからず。

2011/01/19

【バレエの原作を読む(8) 】ベジャール『3人のソナタ』←サルトル『出口なし』

 昨年モーリス・ベジャール・バレエ団で「3人のソナタ」を観たぽん太は、てっきり不倫相手と奥さんが鉢合わせした話しだと理解して、「なんかナマナマし〜な〜」と思って観てたのですが、帰って調べてみたら何とサルトルの『出口なし』という戯曲が原作とのこと。しかも「地獄とは他人だ」という有名な言葉の出典なんだそうです。へ〜え、ということで、読んでみました。テキストは『サルトル全集〈第8巻〉恭々しき娼婦 』(伊吹武彦他訳、人文書院、1957年)に収録されているもので、『出口なし』の訳は伊吹武彦さんです。
 原題はHuis Clos。直訳すると「閉ざされた扉」ですが、フランス語の熟語としては「傍聴禁止」という意味だそうです。英訳の題名がNo Exitだったことから、日本語訳では『出口なし』とされたそうです。初演は1994年5月、フランスはパリのヴュー・コロンビエ座。おりしも第二次世界大戦中で、パリはドイツ軍の支配化におかれていたそうです。
 ストーリーらしいストーリーがないので、あらすじは書きにくいのですが、ぽん太が力技でまとめてみます。

 第二帝政式のサロン(第二帝政式ってなに?参考動画はこちら)に、ボーイに連れらた一人の男性(ガルサン)が入ってきます。ガルサンは室内を見回し、「どこにあるんだ、焼き串や焼き網に革のジョウゴは?」とボーイに尋ねます。「ご冗談でしょう」とボーイ。しばらくして、今度は一人の女性(イネス)がボーイに案内されて部屋に入ってきます。イネスはガルサンを見ておびえます。ガルサンが「あなたは僕を誰だとおもっているのですか」と聞くと、「あんたは地獄の鬼よ」とイネス。そう、この部屋は「地獄」で、二人は地獄に送られた死者だったのです。さらにもう一人イネスという女性が加わって、「地獄」での三人の人間模様が繰り広げられます。
 扉には錠がかけられており、部屋から出ることはできません。鏡がないので彼らは自分の姿を見ることはできませんが、電灯が消せないため、互いの視線を避けるすべはありません。彼らは、三人が一緒にされたのが偶然なのか、それとも何か意図があるのかと悩みます。いさかいになりそうになって、会話を止めようと申し合わせますが、沈黙を守ることはできません。鏡がないことに苦しむエステルに対して、イネスは自分が鏡になることを申し出ますが、頬のところに赤い痣があると言ってエステルを脅かしたりします。次に三人は、おのおのがなぜ地獄に堕ちたかを打ち明けて理解し合おうとしますが、それも何の解決にもなりません。イネスはエステルを籠絡しようとしますが、ガルサンの邪魔によってうまくいきません。今度はエステルがガルサンを誘惑し始めますが、理屈っぽいガルサンは、自分が卑怯者でないということをエステルに承認してもらおうとします。三人の緊張が極限まで高まった瞬間、これまで固く閉ざされていたドアが突然開きます。けれど三人は、誰ひとり部屋から出ようとしません。ガルサンは今度はイネスを説得しようとしますが、それもうまくいきません。ガルサンはイネスへの面当てにエステルを抱こうとしますが、イネスが見つめている前では不可能です。「地獄とは他人のことだ」とうめくガルサン。疲れきっておのおの椅子に腰掛ける三人。しばしの沈黙の後、ガルサンが立ち上がって、こう言います。「よし、続けるんだ」。
 にゃ〜。なんかほとんどあらすじになっておりませんが。ごめんなさい。
 要するに、人間の存在というものが、限りなく他人(現代思想の用語では「他者」でしょうか)に依拠しており、われわれは好むと好まざると、他人の眼差しから逃れられないことが描かれております。「他者」という概念は、ラカンの精神分析理論において極めて重要な概念であり、また「眼差し」も、ラカンが乳房、糞便、声とともに、「対象a」のひとつとして挙げているものです。サルトルの「他者」や「眼差し」が、ラカンのそれらとどういう関係にあるのかは、とっても大切な問題ですが、ぽん太には論ずる能力がないのが残念です。また、狭い部屋で一緒にいなくてはならない我慢ならない他人とは、ナチスドイツでもあるでしょう。

2011/01/12

【フランス大周遊(1)】アメリカの寒波でフランス行きの航空機が遅延?まずは日程のご案内

Img_2910 ぽん太とにゃん子は、今年の年末年始はフランスに行ってまいりました。以前にパリは行ったことがあるので、今回は南仏を選びました。でも、モンサンミッシェルも観たい、ということで、ニースから入ってバスで移動しては観光し、最後はパリまでという、トータルバス移動が約1700km(!)というツアーを選択いたしました。今回利用した旅行会社はJTB、ツアー名は「添乗員がご案内する 季刊 憧れの南仏プロバンスとモンサンミッシェル・ロワール古城」(案内ページはこちら)です。やはりちょっと駆け足でしたが、短期間でフランス全体を回れたのでよかったです。じっくり観たいところは機会があったらまた来れば……。ホテルがいまいちでしたが、これもお値段がリーゾナブルなので仕方ないところ。全体としては大満足でした。JTBさん、お世話になりました。
 さて、以下、旅のご報告でございます。フランスの旅行記のブログは、おそらく万とあるでしょうから、一般的なところはなるべく省略し、ぽん太がおもしろかったところ、気になったところを選んでご紹介していきたいと思います。

 昨年末は大寒波でヨーロッパ方面の航空便が乱れまくり、どうなるかとヒヤヒヤしました。しかし出発日が近づくにつれて、ヨーロッパ方面の寒波は収まり、かわってアメリカを大寒波が襲って空の便が混乱いたしました。不謹慎にもぽん太は、「しめしめ、アメリカに移ってよかった」などと思っていたら、人を呪わば穴二つ、ぽん太とにゃん子が乗る予定の飛行機が、なんとニューヨークから来る便だとのこと。到着の遅れに伴って、出発も6時間遅れたため、集合時間の朝の10時から夜の6時まで、8時間も成田空港で過ごすことになりました。その結果、当初はパリで飛行機を乗り継いでニースまで移動する予定だったのが、急遽パリに一泊することとなりました。エールフランスがパリの宿を提供したそうですが、われわれはJTBが独自に手配した宿に泊まることになりました。さすが大手のJTBは太っ腹!

【1日目】成田… …パリ
パリ泊
【2日目】パリ… …ニース
ニース市内観光(プロムナード・デ・ザングレ、シャガール美術館)
昼食:ニース風サラダ
…アルル
アルル観光( ゴッホの跳ね橋(外観)、≪世界遺産≫ローマ円形闘技場(外観)、≪世界遺産≫サン・トロフィーム教会(外観)
… アビニヨン
アビニヨン泊
【3日目】≪世界遺産≫アビニヨン観光(法王庁(入場)、サンベネゼ橋(下車)、ポン・デュ・ガール(下車)
昼食:プロバンス風魚料理
アビニヨン …… リヨン
フルビエールの丘(下車)
リヨン泊
【4日目】リヨン…… ブールジュ
≪世界遺産≫サンテティエンヌ大聖堂(下車)
… ロワール
≪世界遺産≫ロワールの古城見学( シュノンソー城(入場)、ワインの試飲)
ロワール泊
【5日目】ロワール…… モンサンミッシェル
オムレット・モンサンミッシェル
≪世界遺産≫モンサンミッシェル観光(入場)
… パリ
パリ泊
【6日目】パリ市内車窓観光(エッフェル塔、凱旋門、シャンゼリゼ通りなど)、ルーブル美術館(入場)
午後、自由行動
夜、ムーランルージュ(オプション)
【7日目】パリ… …成田

2011/01/10

【拾い読み】「エス」はフロイトだけのものではない 互盛央『エスの系譜』

 「エス」といえば言わずと知れたフロイトの精神分析に措ける重要な概念です。「エス」という言葉はフロイトのオリジナルではなく、ゲオルク・グロデックの着想を借りたものでした。しかしフロイトは、グロデックの着想のもとにはニーチェがあると主張することによってグロデックの独創性を否定したため、オリジナリティを主張するグロデックとのあいだに対立が生じたことは有名です。
 しかし「エスが考える」(Es denkt)という表現を使ったのは彼らだけではありません。その表現を辿っていくと、シェリング、ハイネ、フォイエルバッハ、マッハ、ジェイムズ、シュタイナー、ヴィトゲンシュタインといった名立たる思想家が連なっており、その源流にはゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクという人物がいます。彼らが「エスが考える」という言葉をどのような意味で使ったのかを考察することによって、脈々と連なる「エスの系譜」を浮かび上がらせたのが本書です。
 著者は、リヒテンベルクから始まってフォイエルバッハ・ニーチェ・フロイトへと続く第一の系譜と、そこから枝分かれした、フィヒテ・シェリング・ビスマルクに通じる第二の系譜があるといいます。前者は、デカルトの「我思う、故に我あり」以降の近代的な自我の概念を問い直すものですが、後者は「我」の変わりに「自然」や「人種」、「国民」を持ち込み、ナチスにもつながっていくものです。
 実に多くの人物が論じられており、読み物としても面白いですが、総論的になった分、個々の人物の掘り下げが物足りない気がします。おのおのの人物が、「エスが考える」という表現をたまたま使っただけなのか、それともその人の思想の中心的な概念なのか、いまいちよくわかりません。そのせいか、多くの思想家が取り上げられている割には、いまひとつ同時代の思想の全体像が浮かび上がってこないようにも思えます。著者は一見博学であるように思えますが、ひょっとしたら検索サイトで「es denkt」を検索して引っかかった文章を調べていったのではないか、という気もします。また、残念ながらラカンについてはほとんど論じられておりません。
 それにしても「エス」という考え方が、フロイトとグロテックの間でオリジナル争いをするようなものではなく、同時代的にさまざまな人が用いていた概念であることがよくわかりませいた。
 エスに関しては、最近始まったばかりの財津理のブログ(財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー)において、本職の「哲学屋」による綿密な読解が今後展開されそうな気配で、ぽん太はとっても楽しみにしております。

 以下は例によって、ぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。
 フロイトは、グロデックがエスの概念をニーチェから持ってきたと言いながら、具体的にどこでニーチェがエスに言及したかを挙げておりませんが、例えば『善悪の彼岸』のなかで、「主語『私』は述語『考える』の前提である、と述べるのは事態の捏造である。それが考える[Es denkt]。」と書いているようです。
 「エスが考える」という言葉の源流と言える、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクという人物の名は、ぽん太は初めて聞きました。Wikipediaを見てみると、リヒテンベルク(Georg Christoph Lichtenberg、1742年 - 1799年)はドイツの物理学者、風刺家だそうです。一流の物理学者として尊敬を集め、ゲーテやカントなど多くの著名人と親交があったそうです。また、樹木状の放電パターンを示す「リヒテンベルク図形」という言葉に、名を留めているそうです。さまざまなリヒテンベルク図形の美しい写真はこちらをどうぞ。リヒテンベルクは、彼が「控え帳」(Sudelbücher)と読んだノートに(互の訳では「雑記帳」)、学生時代から死の直前までメモを書き続けました。そのノートは彼の死後に発見されて出版されましたが、その本は大変な話題となって多くの人に読まれ、さまざまな思想家に影響を与えたそうです。邦訳は平凡社ライブラリーで出版されていたようです(『リヒテンベルク先生の控え帖 』、池内紀訳、平凡社、1996年)。で、その『控え帳』のなかに、「私が考える[ich denke]と言ってはならず、稲妻が走る[es blitzt]と言うのと同じように、それが考える[es denkt]と言わねばならない」という言葉が書かれているそうです。
互盛央『エスの系譜  沈黙の西洋思想史』講談社、2010年。

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

無料ブログはココログ
フォト
2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31