« 【拾い読み】欲しがりません、いつまでも 松田久一『「嫌消費」世代の研究』 | トップページ | 【歌舞伎】愛之助もぽん太も体調不良 新春浅草歌舞伎2011年1月 »

2011/01/29

【大阪の歌舞伎ゆかりの地を訪ねて】合邦辻閻魔堂、四天王寺、野崎観音など

Img_2919 ぽん太とにゃん子は2011年1月、大阪の松竹座に歌舞伎を観に行ったついでに、大阪市内の歌舞伎ゆかりの地を訪ねてきました。
 まずは今月の夜の部で、坂田藤十郎が伊左衛門を演じた「廓文章 吉田屋」の遊郭「吉田屋」があったという、新町1丁目〜2丁目です(地図はこちら)。こちらの新聞記事(「【舞台はここに】大阪・新町 歌舞伎「廓文章 吉田屋」」産經新聞2011年1月15日)に詳しく書かれておりますが、それによれば新町は、かつては江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大遊廓のひとつとして栄えたそうです。寛永年間(1624〜1644年)に誕生し、当初は約70軒ほどでしたが、20年後には240軒あまりとなり、その後も増え続けたそうです。新町遊郭があったのは、現在の大阪市西区新町1丁目から2丁目あたりで、旧大阪厚生年金会館から新町北公園をふくむ南側一帯だそうです。現在は写真のように、まったく普通の街並で、遊郭の面影はありません。上の記事にはもうひとつ大変興味深い話しが書かれています。「廓文章」に出てくる夕霧を抱えていた扇屋の娘が、初代中村鴈治郎(つまり、坂田藤十郎のおじいさん、扇雀・翫雀の曾祖父)の母親なんだそうです。
 ひょっとして話しについていけなかった人のために注釈を。当時の遊郭では、遊女は「置屋」に所属しており、客から声がかかると、「茶屋」あるいは「揚屋」と呼ばれる別の施設に出向き、そこで遊んだのです。ですから「廓文章」では、夕霧の「置屋」は「扇屋」で、伊左衛門と遊んだ「茶屋・揚屋」が「吉田屋」なわけですね。残念ながらぽん太はあまり詳しい知識を持っているわけではないので、夕霧の時代に吉田屋が「茶屋」と呼ばれたのか「揚屋」と呼ばれたのかまでは知りません。
 扇屋夕霧は実在の太夫だそうで、Wikipediaに出ています。 生年は不詳ですが、延宝6年(1678年)に22歳〜27歳という若さで病気で亡くなったそうです。夕霧のお墓は大阪市天王寺区の浄國寺(地図はこちら)にあるようですが、他にも何カ所かあるようで、今回はぽん太とにゃん子は訪れませんでした。
Img_2940 おつぎは合邦辻閻魔堂です。歌舞伎の「摂州合邦辻」で、玉手御前の父親である合邦は、天王寺西門で閻魔堂建立のための勧進をしておりましたが、その閻魔堂がこれです。場所は四天王寺西門から西へ坂を下ったところ、天王寺公園の北側の大通り沿いで、地図はこちらです。こちらの新世界周辺SPOTというサイトによれば、この合邦辻閻魔堂は聖徳太子によって開かれたそうです。明治初年頃の道路拡張によって現在の地に移されましたが、昭和20年3月13日に空襲で消失し、その後信者さんたちによって再興されたそうです。
Img_2941 お堂の前には「玉手の碑」があります。
 閻魔堂の正面には、「脳の守り本尊」と書かれており、また頭痛・脳病・咳などのお守りを売っているようで、病気平癒(特に頭部?)にご利益があるようです。ここでいう「脳病」が何を挿しているのか、ぽん太の専門の精神病も含まれているのか興味深いところですが、ぽん太にはわかりません。
 ちなみに歌舞伎の「摂州合邦辻」が初演は安永2年(1773年)で、当時すでにこのお堂は病気平癒のご利益が知られていたと考えるのが自然でしょう。ちなみにちと気になって、歌舞伎の原作のひとつと言われる能の「弱法師」を読み返してみたところ、歌舞伎同様に四天王寺が舞台にはなっているものの、閻魔堂にはまったく触れておりません。ちなみに「弱法師」の作は観世十郎元雅(? - 1432年)ですので、15世紀前半には作られていたものですね。
Img_2942 閻魔堂のちょっと西側に、北に向かう路地があり、階段になっております。『摂州合邦辻』ゆかりの地を尋ねて|歌舞伎美人によると、この交差点が「合邦が辻」と呼ばれていたそうです(もっとも道路拡幅でちょっとずれてるでしょうけど)。これを二つに分けて、「合邦」と「お辻」(玉手御前の名前)という役名にしたのだそうです。
Img_2938 合法閻魔堂から四天王寺に向かって坂を登ってゆくと、右側に変なものを発見!巨人がスノボをしているぞ!なんでも一心寺というお寺の仁王門だそうで、平成9年に建立、彫刻家神戸峰男による仁王像とのこと。う〜ん、微妙。
Img_2928 四天王寺です。公式サイトはこちらです。ぽん太とにゃん子は初めて訪れました。古めかしさのない境内ですが、何度も戦火や災害に見舞われたそうで(最近は大阪大空襲)、元々は聖徳太子によって創建された由緒あるお寺なんだそうです。また平安時代には、四天王寺西門信仰という浄土信仰が盛んになり、人々は西門がすなわち極楽浄土の東門であると考え、西門から海に沈む夕日を眺めるという「日想観」という修行が行われたそうです。
Img_2930 四天王寺から少し南に行ったところにある超願寺(地図はこちら)には、竹本義太夫のお墓があります。置いてあったパンフレットによると、竹本義太夫は、超願寺からやや西の堀越神社(地図はこちら)付近の百姓家で慶安4年(1651年)に生まれたそうです。のちに大阪道頓堀に竹本座を開き、近松門左衛門と組んで、多くの人形浄瑠璃を世に送り出したことは有名です。
Img_2933 歌舞伎とは関係ありませんが、超願寺のすぐ南にある庚申堂を見学。庚申尊が初めて出現した地なんだそうです。案内板によれば、大宝元年(701年)正月7日庚申の日、豪範僧都(ごうはんそうず)が疫病に苦しみ人々を救おうとして祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現したのだそうです。
 庚申といえば、庚申待ちとか庚申講とか言って、一晩寝ないで夜を明かすあれですな。あれって童子なの?川口謙二『日本の神様読み解き事典』(柏書房、1999年)によれば、庚申待ちは中国の道教に由来する習慣だそうです。道教では、身体のなかにいる 三尸(さんし)の虫が、寝ているあいだに抜け出して、天帝にその人の罪悪を報告すると考えたそうです。そこで庚申の日は畏れかしこんで、眠らずに修行をしたのだそうです。『栄華物語』の正編(後一条天皇の万寿(1024年 - 1028年)頃に成立)のなかの982年の条に、庚申をしたという記載があるそうです。著者は、道教の「天帝」が日本で「帝釈天」に変えられたのではないかと言います。また庚申信仰は、青面金剛や三猿が結びつけられていることがあります。ちなみにこの庚申堂の本尊は「青面金剛童子」で、境内には「三猿堂」があります。これは、青面金剛法が伝尸病(でんしびょう)(肺結核)を除くと言われているため三尸と結びつけられたり、また帝釈天の神使(みさきがみ)が猿であり、庚申の申を「さる」と読むことから、結びついたのではないかといいます。この庚申堂が、庚申信仰が広まっていくなかで成立したものなのか、あるいは後になって遡って作られた伝説なのか、ぽん太にはわかりません。
Img_2950 さて、最後は野崎観音です。正確には福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)というお寺で、場所はこちらです。市内から結構離れたところにあります。はるばる出かけたのですが、けっこう地味でした。スピーカーから流れる陽気な音楽がかえって哀れをさそう寂れた商店街を抜け、長い石段を上ると、ちっちゃな境内があります。
Img_2952 野崎観音といえば、お染久松で有名な「新版歌祭文」の野崎村ですね。こちらがお染久松のお墓です。祝言があげられるとうれしくてたまらない田舎娘お光、久作の説得に従うと見せながら心中を決意するお染久松、髪を切って尼となり身を引こうとするお光の自己犠牲、目が見えない母親お常が、娘お光がさぞかし美しい花嫁姿であろうと誉め讃える場面、最後にお染と久松が別れ別れの道で大阪に戻り、笑顔で見送っていたお光が号泣。うううう、ぐぐぐ、思い出しただけで涙が出てきます。
 ところで「野崎村」に「野崎観音」は出てきたっけ。ううう、覚えてない。こんどよく見てみます。それにもともと宝永7年(1710年)に起きたという実在のお染久松の油屋における心中事件は、野崎村と関係があったのかしら。野崎村と結びつけたのは浄瑠璃の創作でしょうか。だとしたら野崎観音にあるお染久松の墓って……。これもよくわからん。
 ちなみに油屋があった場所は、大坂東掘瓦屋橋となっており、ネット上に大阪市立中央会館(地図)の裏手と書いているものがありましたが、信じるも信じないもあなた次第です。
Img_2948 「女殺油地獄」では、与兵衛は、なじみの遊女小菊がほかの客と野崎参りにでかけたのを恨み、徳庵堤で待ち伏せするところから始まります。このあたり(地図)の寝屋川の堤が、徳庵堤のようです。
 東海林太郎の「野崎小唄」(Youtubeはこちら)でも「野崎参りは屋形船でまいろ」というし、お染も船で帰っていくし、昔は寝屋川を遡って船で野崎参りをする方法があったようです。しかし、今回行ってみたけど、近くにそんな川なんかあったっけ。なんかちっちゃな川があったけど。
 調べてみると、大昔はこちらのページにあるように、大和川は北に流れて淀川に合流しており、野崎観音の西側には深野池と呼ばれる大きな池があり、大坂までつながっており、船が行き来していたようです。しかし江戸幕府は元禄16年(1703年)に大和川付替えを決定し、翌年にわずか8ヶ月で工事は完成し、大和川は西に流れて直接大阪湾にそそぐようになりました。付け替え工事以後は、天満橋の八軒家船着場などから、寝屋川を遡って谷田川に入るルートが一般的になったそうです。「女殺油地獄」の初演は享保6年(1721年)、「新版歌祭文」は安永9年(1780年)ですから、ともに大和川の付け替えが終わってからですね。

« 【拾い読み】欲しがりません、いつまでも 松田久一『「嫌消費」世代の研究』 | トップページ | 【歌舞伎】愛之助もぽん太も体調不良 新春浅草歌舞伎2011年1月 »

旅・宿・温泉」カテゴリの記事

雑学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

» ケノーベルからリンクのご案内(2011/01/30 09:15) [ケノーベル エージェント]
大阪市天王寺区エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。 [続きを読む]

« 【拾い読み】欲しがりません、いつまでも 松田久一『「嫌消費」世代の研究』 | トップページ | 【歌舞伎】愛之助もぽん太も体調不良 新春浅草歌舞伎2011年1月 »

無料ブログはココログ
フォト
2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31