【歌舞伎自由研究】「盟三五大切」(1)<佃沖新地鼻の場、深川大和町の場>
仁左衛門の「盟三五大切」、怖かったですね〜。あの感動をもう一度ということで、原作を読み返して、わからない表現やゆかりの地を調べてみました。初演は文政8年(1825年)江戸の中村座、作はもちろん鶴屋南北です。テキストは『鶴屋南北全集 第4巻』(三一書房、1972年)です。
この作品の舞台は、深川と四谷です。下の地図をご参照下さい。
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序幕第一場は「佃沖新地鼻の場」。海に浮かんだ小舟の上でのやりとりが続きますが、今でいうとどのあたりでしょう。
深川に関してはこちらの落語の舞台を歩くというサイトが非常に詳しいので、参考にさせていただきました。きっと今後も何回も参考にさせていただくと思います。お礼にこのサイトが書籍化されたものを、下にリンクしておきます。
さてこのサイトによれば、江戸時代、深川の岡場所は仲町、新地、櫓下、裾継、石場、佃、土橋にあり、「深川七場所」と呼ばれていたそうです。「新地」は、現在の越中島公園のあたりのようです。岡場所の「佃」は、現在の牡丹2丁目から3丁目のあたりだそうですが、途中で黒い幕が切り落とされたときに背後に見えるのが、「うしろ佃沖、新地の鼻を見せたる遠見」というト書きにあるように、新地になりますから、ここでいう「佃」は岡場所の「佃」ではなく、「佃島」のことだと思われます。佃島は、現在は埋め立てられてしまいましたが、当時は住吉神社の周囲だけの島でした。つまり「佃沖新地鼻」は、「佃の近くの海上で、新地の突端が見渡せる所」となりますから、上の地図の青い印あたりと推測されます。
序幕第一場のよくわからない台詞、その1。船頭伊之助「欞子(れんじ)の沢庵大根で、すだらけと来てゐらア」……欞子(れんじ)とは、連子窓(goo辞書)のことで、木・竹などの細い材を一定間隔で取り付けた窓のようです。「窓の外に干してある大根のように、す(洲)が多いというシャレですね。
その2、三五郎の台詞、「あの侍ひの面からして、殺生石に似ゐらア。玉藻の前より、この物前になつて尻尾を出さねえやうに引ツかけて置きなや」……殺生石(せっしょうせき)は、栃木県は那須の硫黄の煙たちこめる谷にある岩ですね。ぽん太も見に行ったことがあります。玉藻前(たまものまえ)は、平安時代末期に出現した、白面金毛九尾の狐が化けた絶世の美女。「物前」というのは、おそらくここでは特別な遊郭用語ですね。遊郭には五節句などの「紋日」(もんび)(=物日(ものび))があり、揚げ代が値上げされました。この日は遊女は必ず客を取らねばならず、客がつかないと自分で揚げ代を負担しなければなりませんでした。「物前」は、物日の前の日という意味ですね。「うまくバレないようにして、紋日に侍に来てもらえよ」という感じでしょうか。
序幕第二場は、深川大和町の源五兵衛の家。江戸切絵図を見てみると、地図の赤い印のあたりの南北に細長い一角が、深川大和町のようです。左の写真は、ぽん太が訪れた時のもの。ここに源五兵衛が住んでたんですね〜。
この場は、地口が多くて、よくわからない台詞が多いです。源五兵衛「本気も疵気(きずけ)もいらぬワ。身共の家財を身共が売るに、誰が何と申すものか」……「疵」という言葉は知ってますが、「疵気」という言葉は知りません。辞書にもないようです。ぐぐってみると、骨董の世界で、「疵気が少ない」などという言い方で使うようです。源五兵衛のこの台詞は、家財を古道具屋に売り払う場面なので、「疵気」という言葉が出てきたのかもしれませんね。しかし、「本気」と「疵気」は、字で書けばシャレになっていますが、発音ではシャレになってません。江戸時代は発音が違ったんでしょうか。それとも江戸時代の人は、耳で聞くとすぐさま文字が頭に浮かんだのか?
ついに古道具屋に畳を上げられて、八右衛門「アヽ、万歳楽々々々」、古道具屋甚介「万歳楽には畳を上げ、とはどうだね」……「〽高砂や、この浦舟に帆を上げて」で有名な謡曲「高砂」の、オワリ近くのところに、「千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ」という詞章があります。「千秋楽」は、現在でも舞台や相撲の最終日を意味する言葉として使われており、「萬歳楽」は、「ばんざい」の語源となっております。ぽん太の語感では、「ばんざい」はもともと「おめでたい」という意味で、「両手をあげるポーズ」から「お手上げ」という意味が生じ、「おわり」を意味するようになってきたと思っていたのですが、「ばんざい」は最初から「おわり」という意味合いがあったのですね。う〜む、このあたりの因果関係はどうなっているんだろう。ぽん太にはわかりません。
それはさておき、台詞に戻ると、畳を持って行かれそうになって八右衛門は、「もう終わりだ」という意味で「万歳楽、万歳楽」と声をあげます。対する古道具屋甚介の台詞は、元々の高砂の詞章とはちょっと違ってますが、「万歳楽には民を撫で」の地口ですね。
やらずの彌十「イヤ、とんだ茶釜だ」、古道具屋甚介「薬鑵(やかん)と化けたか」……これはぐぐってみると、江戸時代に「とんだ茶釜がやかんに化けた」という言い方があったようです。「とんだ茶釜」に関しては、goo辞書やweblioにも出ていますが、「思いがけない美人」「とんだよいもの」を意味する明和(1764年-1772年)頃の流行語で、江戸の谷中笠森の茶屋女お仙の美しさに対して言い出されたそうです。おそらく地口から、後半の「やかんに化けた」が加わったのでしょう。こちらのひえもんさんのブログには、春信がお仙を描いた浮世絵「笠森稲荷の鳥居に詩を書くお仙」や、茶釜が飛んでいる図の浮世絵がアップされております。台本に戻って彌十の台詞では、「よいこと」という意味合いはなく、「とんでもない」という意味で使っているようです。
甚介「鍋にお前は腹立て鑵子」……何の地口か不明。「鑵子」(かんす)は、「弦(つる)のある青銅製・真鍮製などの湯釜」(Weblio)とのこと。
源五兵衛「鍋釜の化け物とは、どうぢゃどうぢゃ」、甚介「亀山の化け物という洒落でござりまするか」……地口の元が書いてあるので楽勝かと思いましたが、なかなかジャストミートしません。京都の亀山(現在の亀岡)が妖怪と関係が深いということまではわかったのですが……。
源五兵衛「コレコレ、まだこゝに擂鉢(すりばち)と五徳がある。持つていきやれ」、彌十「ハイハイ、ほんに余程の金目の物を取残したの。擂鉢五徳(藤八五文)奇妙」……goo辞書で楽勝です。藤八五文薬(とうはちごもんぐすり)という行商の薬売りがあり、二人一組で歩いて、一人が「藤八」と呼ぶと、もう一人が「五文」と応じ、一緒に「奇妙」と合唱したとのこと。
八右衛門「この頃はあの仲町で、妲己(だっき)と評判する、小万という芸者に打込み」……妲己(だっき)は中国の帝辛の妃で、悪女の代名詞とのころ(Wikipedia)。
「五大力」に関しては、以前の記事で触れました。
幸八「巫女が熱くなれば、お湯花(ゆばな)の始まり始まり」、虎蔵「どこどんどこどん」……「湯花神事」で検索するといろいろ出てくるように、お湯を沸かして行う神事が各地にあるようです。
富森助右衛門「又々後ほど吉左右(きっそう)を」……「吉左右」は、良い知らせ、あるいは、良いか悪いかの便り(Yahoo!辞書)。
後藤作の千疋猿の笄に関しては、以前の記事で書きました。
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