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2011年3月の18件の記事

2011/03/31

【歌舞伎自由研究】「盟三五大切」(1)<佃沖新地鼻の場、深川大和町の場>

 仁左衛門の「盟三五大切」、怖かったですね〜。あの感動をもう一度ということで、原作を読み返して、わからない表現やゆかりの地を調べてみました。初演は文政8年(1825年)江戸の中村座、作はもちろん鶴屋南北です。テキストは『鶴屋南北全集 第4巻』(三一書房、1972年)です。
 この作品の舞台は、深川と四谷です。下の地図をご参照下さい。

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 序幕第一場は「佃沖新地鼻の場」。海に浮かんだ小舟の上でのやりとりが続きますが、今でいうとどのあたりでしょう。
 深川に関してはこちらの落語の舞台を歩くというサイトが非常に詳しいので、参考にさせていただきました。きっと今後も何回も参考にさせていただくと思います。お礼にこのサイトが書籍化されたものを、下にリンクしておきます。
 さてこのサイトによれば、江戸時代、深川の岡場所は仲町、新地、櫓下、裾継、石場、佃、土橋にあり、「深川七場所」と呼ばれていたそうです。「新地」は、現在の越中島公園のあたりのようです。岡場所の「佃」は、現在の牡丹2丁目から3丁目のあたりだそうですが、途中で黒い幕が切り落とされたときに背後に見えるのが、「うしろ佃沖、新地の鼻を見せたる遠見」というト書きにあるように、新地になりますから、ここでいう「佃」は岡場所の「佃」ではなく、「佃島」のことだと思われます。佃島は、現在は埋め立てられてしまいましたが、当時は住吉神社の周囲だけの島でした。つまり「佃沖新地鼻」は、「佃の近くの海上で、新地の突端が見渡せる所」となりますから、上の地図の青い印あたりと推測されます。
 序幕第一場のよくわからない台詞、その1。船頭伊之助「欞子(れんじ)の沢庵大根で、すだらけと来てゐらア」……欞子(れんじ)とは、連子窓(goo辞書)のことで、木・竹などの細い材を一定間隔で取り付けた窓のようです。「窓の外に干してある大根のように、す(洲)が多いというシャレですね。
 その2、三五郎の台詞、「あの侍ひの面からして、殺生石に似ゐらア。玉藻の前より、この物前になつて尻尾を出さねえやうに引ツかけて置きなや」……殺生石(せっしょうせき)は、栃木県は那須の硫黄の煙たちこめる谷にある岩ですね。ぽん太も見に行ったことがあります。玉藻前(たまものまえ)は、平安時代末期に出現した、白面金毛九尾の狐が化けた絶世の美女。「物前」というのは、おそらくここでは特別な遊郭用語ですね。遊郭には五節句などの「紋日」(もんび)(=物日(ものび))があり、揚げ代が値上げされました。この日は遊女は必ず客を取らねばならず、客がつかないと自分で揚げ代を負担しなければなりませんでした。「物前」は、物日の前の日という意味ですね。「うまくバレないようにして、紋日に侍に来てもらえよ」という感じでしょうか。

Img_3110 序幕第二場は、深川大和町の源五兵衛の家。江戸切絵図を見てみると、地図の赤い印のあたりの南北に細長い一角が、深川大和町のようです。左の写真は、ぽん太が訪れた時のもの。ここに源五兵衛が住んでたんですね〜。
 この場は、地口が多くて、よくわからない台詞が多いです。源五兵衛「本気も疵気(きずけ)もいらぬワ。身共の家財を身共が売るに、誰が何と申すものか」……「疵」という言葉は知ってますが、「疵気」という言葉は知りません。辞書にもないようです。ぐぐってみると、骨董の世界で、「疵気が少ない」などという言い方で使うようです。源五兵衛のこの台詞は、家財を古道具屋に売り払う場面なので、「疵気」という言葉が出てきたのかもしれませんね。しかし、「本気」と「疵気」は、字で書けばシャレになっていますが、発音ではシャレになってません。江戸時代は発音が違ったんでしょうか。それとも江戸時代の人は、耳で聞くとすぐさま文字が頭に浮かんだのか?
 ついに古道具屋に畳を上げられて、八右衛門「アヽ、万歳楽々々々」、古道具屋甚介「万歳楽には畳を上げ、とはどうだね」……「〽高砂や、この浦舟に帆を上げて」で有名な謡曲「高砂」の、オワリ近くのところに、「千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ」という詞章があります。「千秋楽」は、現在でも舞台や相撲の最終日を意味する言葉として使われており、「萬歳楽」は、「ばんざい」の語源となっております。ぽん太の語感では、「ばんざい」はもともと「おめでたい」という意味で、「両手をあげるポーズ」から「お手上げ」という意味が生じ、「おわり」を意味するようになってきたと思っていたのですが、「ばんざい」は最初から「おわり」という意味合いがあったのですね。う〜む、このあたりの因果関係はどうなっているんだろう。ぽん太にはわかりません。
 それはさておき、台詞に戻ると、畳を持って行かれそうになって八右衛門は、「もう終わりだ」という意味で「万歳楽、万歳楽」と声をあげます。対する古道具屋甚介の台詞は、元々の高砂の詞章とはちょっと違ってますが、「万歳楽には民を撫で」の地口ですね。
 やらずの彌十「イヤ、とんだ茶釜だ」、古道具屋甚介「薬鑵(やかん)と化けたか」……これはぐぐってみると、江戸時代に「とんだ茶釜がやかんに化けた」という言い方があったようです。「とんだ茶釜」に関しては、goo辞書weblioにも出ていますが、「思いがけない美人」「とんだよいもの」を意味する明和(1764年-1772年)頃の流行語で、江戸の谷中笠森の茶屋女お仙の美しさに対して言い出されたそうです。おそらく地口から、後半の「やかんに化けた」が加わったのでしょう。こちらのひえもんさんのブログには、春信がお仙を描いた浮世絵「笠森稲荷の鳥居に詩を書くお仙」や、茶釜が飛んでいる図の浮世絵がアップされております。台本に戻って彌十の台詞では、「よいこと」という意味合いはなく、「とんでもない」という意味で使っているようです。
 甚介「鍋にお前は腹立て鑵子」……何の地口か不明。「鑵子」(かんす)は、「弦(つる)のある青銅製・真鍮製などの湯釜」(Weblio)とのこと。
 源五兵衛「鍋釜の化け物とは、どうぢゃどうぢゃ」、甚介「亀山の化け物という洒落でござりまするか」……地口の元が書いてあるので楽勝かと思いましたが、なかなかジャストミートしません。京都の亀山(現在の亀岡)が妖怪と関係が深いということまではわかったのですが……。
 源五兵衛「コレコレ、まだこゝに擂鉢(すりばち)と五徳がある。持つていきやれ」、彌十「ハイハイ、ほんに余程の金目の物を取残したの。擂鉢五徳(藤八五文)奇妙」……goo辞書で楽勝です。藤八五文薬(とうはちごもんぐすり)という行商の薬売りがあり、二人一組で歩いて、一人が「藤八」と呼ぶと、もう一人が「五文」と応じ、一緒に「奇妙」と合唱したとのこと。
 八右衛門「この頃はあの仲町で、妲己(だっき)と評判する、小万という芸者に打込み」……妲己(だっき)は中国の帝辛の妃で、悪女の代名詞とのころ(Wikipedia)。
 「五大力」に関しては、以前の記事で触れました。
 幸八「巫女が熱くなれば、お湯花(ゆばな)の始まり始まり」、虎蔵「どこどんどこどん」……「湯花神事」で検索するといろいろ出てくるように、お湯を沸かして行う神事が各地にあるようです。
 富森助右衛門「又々後ほど吉左右(きっそう)を」……「吉左右」は、良い知らせ、あるいは、良いか悪いかの便り(Yahoo!辞書)。
 後藤作の千疋猿の笄に関しては、以前の記事で書きました。

2011/03/30

【温泉】レトロな建物を生かしきれず・板室温泉加登屋本館(★★)、鹿の湯(★★★★)

Img_2973
 今年(2011年)の1月下旬の話しですが、木造3階建ての建物があると聞き、栃木県は板室温泉の加登屋本館に泊まってきました。ホームページはこちらです。近くに「別館」もあり、いまはそちらがメインで使われているようですが、ぽん太とにゃん子は迷わず本館に宿泊。
 温泉はあちこち行っているぽん太ですが、近くにこのような旅館があったとは知りませんでした。
Img_2978 こちらが玄関です。木製の引き戸がいい感じです。
Img_2970 館内のディティールも、なかなか細かく造り込まれています。
Img_2966 レトロな鏡。お得意様から寄贈されたもののようです。
 ここまで見ると、かなりいい感じの旅館で、なんでこれまで雑誌などに紹介されてこなかったんだろうと思うのですが、ここから問題が出てきます。
Img_2963 こちらが浴室です。タイル製で新しくてこぎれいなんですが、歴史ある建物に比較して、ちょっと残念な気がします。大きさも、3〜4人でいっぱいという感じで、あまり大きくないです。お湯は、板室温泉の名湯で源泉掛け流し。無色透明のやわらかい肌触りのお湯で、泉質はアルカリ性単純温泉です。別館のお風呂も使うことができるのですが、寒いなか歩いて入りに行く元気がなかったので割愛しました。
Img_2962 そしてこちらが夕食です。別館から配膳されるお弁当形式で、ご飯のおかわりもなく、かなり寂しい感じがしますが、宿泊料金(8,800円)を考えると文句は言えません。
Img_2972 こちらが朝食です。
 ということで、レトロ感あふれるいい雰囲気の建物なのですが、もっぱら湯治用、あるいは安価な宿として使われているようです。館内を少し改装して、食事なども良くして、レトロな宿として売り出せばいいように思うのですが。4点を狙える建物ですが、浴室や食事が減点となって、ぽん太の評価は2点。とはいえ、宿のターゲットとぽん太の好みが合ってないというだけで、あくまでもぽん太の個人的な感想ですので、誤解のないように。

Img_2980 翌日はスキーを楽しんで、帰りに「元湯 鹿の湯」に入浴しました。ホームページはこちらかな。那須では有名な立寄湯ですが、ぽん太は初めて入浴しました。内部は新しく改装されており、温度別のいくつかの浴槽があります。常連のおっちゃんみたいな人たちが、ペットボトル持参で、出たり入ったり湯治をしていました。白く濁って硫黄の臭いがする温泉らしい温泉です。温泉力は満点ですが、ただ体を洗うことはできないので、スキー帰りには適していないかも。
Img_2982 入浴後、那須茶寮でおいしいお蕎麦をいただきました。いつもながら、味といい雰囲気といい最高です。

2011/03/29

【歌舞伎自由研究】「水天宮利生深川」幸兵衛の家は?

 3月新橋歌舞伎夜の部で観た「水天宮利生深川」について、ゆかりの地やわからない表現を調べてみました。。テキストは『明治文学全集〈第9〉河竹黙阿弥集』(筑摩書房、1966年)です。

 巻末の河竹登志夫の解題によれば、この狂言は、河竹黙阿弥の家に、落ちぶれて筆を売りにきた浪人の哀れな姿と、黙阿弥の隣り裏に住んでいた一家の女房の気が違って子供を投げ出したという出来事からヒントを得て、創作したものだそうです。

 初演は明治18年(1885年)2月で千歳座。千歳座はいまの明治座です。Wikipediaによれば、明治6年(1873年)に久松町に喜昇座が開場。明治12年(1879)年に改修して久松座と改称しますが、翌年火災で焼失。明治18年(1885年)に千歳座と改称して新築開業されたとのこと。ということは、「水天宮利生深川」が初演されたのは、千歳座が開業した年だったんですね。場所ですが、現在の明治座は、平成5年(1993年)に現在の位置に移ったようです。goo地図を見るとこちら(「明治」をクリックしてください)に明治座があります。goo地図では、現在の地図にすると位置が微妙にずれるようで、実際は現在の日本橋浜町2-10あたりでしょうか(地図の青いフキダシ)。

 明治座の歴史に関しては、こちらの東京都印刷工業組合日本橋支部のサイトも詳しいです。明治30年代の『新撰東京名所図会』の文書を引いて、「旧幕府時代、両国広小路にありて、薦張の芝居なりを、明治5年に及びて、取締を命ぜられしより、同6年4月28日、久松町37番地へ、劇場建設の許可を得て、喜昇座と称して開場せり。同12年6月久松座と改め、建築を改良せし故、同年8月23日を以て大劇場の部に入る。同13年火災に類焼し、浜町2丁目に仮小屋を造り、同16年5月迄興行したるが、同年12月24日元地へ建築の許可を得たるが、工事中暴風雨の為に吹倒され、17年12月落成して千歳座と改称し、翌年1月4日開場式を行ふ」としておりますから、「久松町37番地」に千歳座はあったようですが、上のgoo地図で明治座があるところは久松町38と書いてありますから、だいたい同じ場所と考えてよいのかもしれません。

 千歳座があった場所は、水天宮(図の赤いフキダシ)のほど近くです。以前の記事でも書いたように、水天宮がこの地に移ったのは明治5年(1872年)ですから、「水天宮利生深川」初演の13年前にできたニュー・スポットだったわけですね。

 さて、作品の中に入って行くと、筆屋幸兵衛の自宅は深川浄心寺裏となっております。ぐぐってみると、現在も江東区深川に浄心寺というお寺があるようです(地図の緑のフキダシ)。goo地図(「明治」をクリックしてください)を見ると、同じ所に浄心寺があるようです。浄心寺「裏」というのが、どのあたりかはわかりません。

 長屋のおつぎさんとお百さんの会話で、お弔いが出たけどせんべい10枚しか配らないので行っても仕方ない、と言っていたのが、運光院(地図の水色のフキダシ)。ホームページがあるようで、「由来・沿革」を見ると、天和二年(1682年)に現在の地に移ったと書いてありますので、黙阿弥の時代もここにあったと思われます。

 隣りの家が清元連中を呼び寄せたのが、「浜町」から(図の黄色のフキダシ)。隅田川の反対側になりますね。今回の舞台では「高輪」と言ってた気がするんですけど、ぽん太の勘違いか?

 幸兵衛に一円と赤子の着物をくれた荻原良作が住んでいたのが「油堀」。地図の紫色の印のところの高速道路の下を流れ、隅田川につながっておりました。本当は十五間川という名ですが、通称油堀とよばれ、この周囲も同じ名で呼ばれていたそうです。萩原邸がどこにあったのかは不明。

 目の不自由なお雪が一円もらったのが万年橋(地図のピンクのフキダシ)。東西一直線に走る細い川が「小名木川」(おなきがわ)です。北斎の「富岳三十六景」の「深川万年橋下」は有名で、美しいアーチ型の橋ですが、水運の船の通行を妨げないためだったそうです。また、広重も「江戸百景」にも「深川万年橋」があります。欄干に亀が吊るされ、その向こうにやはり富士山が見えます。この亀は売り物ですが、家で飼うわけではなく、買いとって川に放すのです(放し亀)。功徳を積むための宗教儀式ですね。

 お百の台詞「然も今日も茶粥腹で、おなかゞ余程北山だ」。なんだこりゃ。Yahoo!辞書によると、「お腹が空いた」ことを「腹が来た」といい、「来た」にかけて「腹が北山」などというそうです。

 金貸し金兵衛とともにやってきた代言人茂栗安蔵が、幸兵衛を「勧解に訴える」と脅します。Wikipediaによれば、勧解とは、和解を目的とする民事裁判の制度で、日本では明治8年(1875年)に導入され、明治23年(1890年)に廃止されたとのこと。

 幸兵衛に変わってお金と着物を取り戻しに行く差配人与兵衛。「差配人」って……大家のことか(→こちら)。

 隣りの家から聞こえて来る清元「風狂川辺の芽柳」(かぜくるうかわべのめやなぎ)のなかの詞章、「〽通し矢数に名の高き三間堂も墓所(むしょ)となり」。Wikipediaによれば、元禄14年(1701年)、深川の富岡八幡宮の東側に三十三間堂が移設されました。京都の三十三間堂を模して作られ、通し矢も行われました。明治5年(1872年)に廃されて壊されたそうです。図の青いピンの位置に、南北に長く建っていたようです。お堂が壊された跡が、お墓になっていたのでしょうか?

 「〽親子は一世いつの世に、大智稲荷の逢うことも」。大智稲荷は、「砂村疝気稲荷」として江戸時代から信仰を集めていたようです(地図の赤いピン)。東京大空襲により消失し、その後昭和42年(1967年)に千葉県習志野市谷津に移転したようです。

 船弁慶との関係については、以前の記事に書いたので省略。

 幸兵衛が、訪ねてきた萩原妻おむらが子供を奪いにきたと思い込んで、「この頃子供を取られると、世間でいうのはこの鬼だな、いでや渡辺源次綱が、子供を取る鬼を退治してくれん」。渡辺源次綱は源頼光に使えた四天王の一人で、平安中期の武将。京都の一条戻り橋の上で、鬼女の腕を切り落とした逸話が伝わっております。しかしこの鬼女は、子供を奪ったりはしません。子供を誘拐したのは酒呑童子の一味ですから、大江山の酒呑童子退治の話しを引いているのかもしれません。

 「水天宮利生深川」の最後の場は、筋書きでは「海辺河岸身投げの場」となっております。原作を読むと「海辺橋辺河岸」というト書きがありますから、この「海辺」というのは海の近くという意味ではな、海辺橋のことのようです。海辺橋は仙台堀川にかかる橋の名前です(地図の緑のピン)。

 最後に幸兵衛が巡査に、自分の住所を伝えておりました。「深川山本町364番地」です。深川山本町は地図の水色のピンのあたり、縦長にあった町です。こちらのgoo地図の「明治」をクリックしてみてください。今回の舞台では、なぜか「千歳町360番地」と言っていたような気がします。

2011/03/28

【フランス大周遊(5)】パリ市内(ルーブルのフェルメール、パリオペラ座、凱旋門、ムーランルージュ)

Img_2856 最終日はパリ市内観光でした。ルーブル美術館のモナリザの前は世界各国の観光客で大混雑。今後は一切外部への貸し出しはしないそうなので、ここに来て見るしかありません。
Img_2863 ガイドさんにフェルメールをリクエストしたところ、短い見学時間を工面して連れて行ってくれました。人、人、人のモナリザやミロのヴィーナスと一転して、観光客もまばらでした。おまけに写真も撮り放題。こちらは「天文学者」(1668年)ですね。
Img_2864 ルーブルには2点のフェルメールがありますが、こちらは「レースを編む女」(1669〜1670年頃)です。造形的な人物の描き方と、細かく光り輝くように描き込まれた糸の表現が見事でした。

Img_2888 ぽん太のあこがれのパリ・オペラ座。ちょうどバレエ団の「白鳥の湖」を上演しており、出発前に日本からチケットを取ろうとしましたが、すでに完売でした。
Img_2899 夕暮れの凱旋門です。
Img_2915 夜は、パリ発のツアーでムーラン・ルージュを見学。ぽん太は二十数年振りで、とてもなつかしかったです。ひとつひとつをとれば、歌はオペラに劣るし、踊りはバレエにかなわないということになるのですが、全体としてはこれはこれで、最高級のエンターテイメントでした。
 バスで長距離移動しながらニースからモン・サン・ミッシェルも見てパリまで行くという、フランス全体を駆け足で観るという感じのツアーでした。ちょっとあわただしい面もありましたが、フランスの全体像がつかめました。またフランスに来る機会があったら、今度はポイントをしぼってじっくりと観光し、地元の人たちとも触れ合ってみたいと思います。

2011/03/27

【フランス大周遊(4)】サンテティエンヌ大聖堂(ブールジュ)、シュノンソー城(ロワール)、モン・サン・ミッシェル

Img_2704 リヨンのホテルを出発し、一路バスで300キロ、ブールジュのサンテティエンヌ大聖堂を見学しました。世界遺産です。1195年に創建され、100年近くかけて完成した、壮大なゴシック建築です。写真は裏側になりますが、傾斜地に建てられているため、こちらから見ると3階建てですが、正面から見ると2階建てです。
Img_2713 地盤が悪いため、向かって右の鐘楼が傾いてしまい、補強してあります(写真右手の低い部分が補強部分です)。
Img_2714 左側の鐘楼は崩れてしまって新しく造り直したため、建築様式が若干異なっております。
Img_2718 美しいステンドグラスで有名だそうです。

Img_2738 さらにバスで移動してロワールへ。ロワールといえば古城!シュノンソー城を見学いたしました。夕暮れの曇り空、淡い色彩のなか佇むシュノンソー城は、とても美しいです。
Img_2735 この城は、ロワーヌ川の支流のシェール川をまたぐように造られています。16世紀に造られたものだそうです。
Img_2733 シュノンソー城の内部はあちこちで紹介されていると思うので省略し、ルイーズ・ド・ロレーヌの居室だけご紹介しておきます。ルイーズ・ド・ロレーヌ(1553年〜1601年)は、夫のアンリ3世が暗殺されたあと、この城にこもって瞑想と祈りの生活を続けました。天井も壁紙も暗い色彩で、陰鬱で哀しみに満ちた部屋です。彼女はうつ病だったとも言われているそうです。抗うつ剤がなかった時代ですから、無理矢理元気を出させるのではなく、哀しみに沈んだ彼女にふさわしい環境を整えて、上手に引きこもらせてあげるという考え方も、ひとつの達見かもしれません。

Img_2758 ロワール近郊の街ツールで一泊したのち、バスで移動してモン・サン・ミッシェルへ。この超有名な世界遺産も、既に数多くの情報があると思うので、大幅に省略します。現在は島の入り口まで道路が通っておりますが、そのために砂が堆積し、かつてのような海にぽっかりと浮かぶ姿がみられなくなってきてしまいました。現在工事が進められており、道を壊して橋をかけ、観光客は本土側の駐車場に車を停めて、シャトルバスで島に渡るかたちになるそうです。
Img_2821 これが島の周囲の砂ですが、非常に粒が細かく、泥のような感じです。
Img_2774 西側テラスの床の石には、ひとつひとつ、切り出した人を識別するための番号が刻まれています。8番(だったかな?)の石がやけに目につき、「8番は勤勉ですからきっと日本人ですね」というのが、ガイドさんの定番のギャグになっているようです。
Img_2793 当時のトイレのドアです。穴からはるか下方に落ちて行くしくみになっており、それを肥料として使ったそうです。
Img_2812 お土産屋さんのポストカード。こ、こ、こ、これはどっかで見たような構図ですね。
Img_2750 モン・サン・ミッシェル名物のふわふわオムレツです。表面にナイフをいれると、なかからメレンゲのようになめらかでジューシーなオムレツが出てきます。おいしゅうございました。

2011/03/26

【フランス大周遊(3)】法王様も橋の上で踊ったの? アヴィニョン、リヨン

Img_2621 アヴィニョンといえば、「♪アヴィニョンの橋で、踊ろよ踊ろよ」という歌が有名ですが、これがその歌に歌われたサン・ベネゼ橋、下を流れるのはローヌ川です。この橋は12世紀に完成いたしましたが、戦争で壊されたり洪水で流されたりし、現在は途中までしか残っておりません。
Img_2623 ローヌ川の対岸にはサン・タンドレ要塞が見えます。ヴィルヌーヴ・レザヴィニョンという街ですが、ジャン・アレジと後藤久美子が住む別荘があることでも有名です。
Img_2616 こちらがアヴィニョンの中心的な建築である法王庁宮殿です。な、なんでフランスに法王庁が。法王庁といえばバチカンじゃないの?アヴィニョン捕囚(古代のバビロン捕囚になぞらえて、教皇のバビロン捕囚ともいうそうです)というのがあって、1309年から1377年までの約70年のあいだ法王庁はアヴィニョンに移され、その間7人が教皇を務めたそうです。
Img_2618 なんだこりゃ?像の逆立ち!?なんでも法王庁宮殿で現代美術展が行われていて、その作品のひとつだそうです。
Img_2645 法王庁はフランス革命のときに破壊し尽くされ、内部はがらんどうで、装飾や美術品、家具・調度類は残っておりません。写真は食堂ですが、木造かまぼこ型の天井が美しいです。オリジナルもこんな感じだったんでしょうか?
Img_2671 アヴィニョンのやや西に、ローマ時代の水道橋が残っており、観光名所となっております。その名もポン・デュ・ガール。ボンドガールじゃないよ。
Img_2677 バスで北上してリヨンへ。街を見下ろすフルヴィエールの丘の上に建つ、ノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂です。もともとここには小さな教会がありましたが、普仏戦争(1870 - 1871年)の勝利を祝して、個人の献金をもとに1872年に建築が開始され、1884年に完成しました。ロマネスク様式とビアンチン様式が用いられており、装飾的で美しい外観です。
Img_2682 内部も装飾的で絢爛豪華です。内装の完成には1964年までかかったそうで、どことなく現代的な感じがします。
Img_2693 でも、外部の一部の装飾などは、やけに簡素な気がします。まさか手抜きではないでしょうけど……。
Img_2690 フルヴィエールの丘から眺めたリヨンの市街地です。リヨンといえば、サン=テグジュペリ誕生の地であり(1900年です)、また永井荷風(1879年(明治12年)〜1959年(昭和34年))は横浜正金銀行社員として1907年から1908年にかけて滞在しておりました。
Img_2696 ふもとのベルクール広場から眺めたノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂の夜景です。馬上の銅像はルイ14世です。

2011/03/25

【フランス大周遊(2)】ニースからアルルへ

 震災の影響で舞台公演の中止が相次ぎ、旅行に行くこともできないので、ブログ書きばかりしておりました。延びのびになっていた、正月のフランス旅行のご報告の続きです。
Img_2539 飛行機の遅延によってパリで一泊することになったぽん太とにゃん子は、早朝の便でようやくニースに入ることができました。左の写真が高級リゾートとして有名なコート・ダジュールの海岸ですが、真冬ということで、空はどんよりと曇っております。ご覧のように砂浜ではなく砂利で、かつ水深が急に深くなっているので、実は海水浴には向いていないそうです。
Pc300048 サレヤ広場には市が立っていて、花や野菜が売られていました。色彩豊かでとても美しかったです。写真は、雨細工だか砂糖菓子だかを売っている店の商品です。かわいいですね。
Img_2552 シャガール美術館です。旧約聖書を題材にした大きな作品が展示されておりました。
Img_2560 この美術館があるあたりは、シミエ地区と呼ばれる高台になっており、高級住宅街となっております。ベル・エポック(19世紀末〜20世紀初頭)の時代には、上流階級の人々が明るい日差しをもとめてニースを訪れたたため、高台に高級ホテルが作られました。最近は海沿いに人気が移ったため、かつての高級ホテルは高級住宅として使われるようになったのだそうです。写真のホテル・レジーナも、かつてはイギリスのヴィクトリア女王も滞在したホテルでしたが、現在は住宅になっているそうです。
Img_2555 車窓からの写真でちょっと見づらいですが、ローマ時代の闘技場の跡です。え〜、フランスにローマ時代の遺跡!?考えてみればニースは、地中海に面しているし、イタリアにも近いので、ローマ時代の遺跡があって当然なのですが、ぽん太はちょっと不意打ちをくらいました。
Img_2559 フランシスコ修道院の庭園から見たニースの街です。美しい街並の向こうに、ブルーの地中海、抜けるような青空が、天気がよければ見えるはずです。
Img_2566 さて、ニースからバスでアルルを目指します。セザンヌの故郷エクス・アン・プロヴァンス付近の高速道路から、サント・ヴィクトワール山が見えました。セザンヌの絵は、もっと左から眺めているので、少し形が違います。
Img_2570 アルビーユ山地です。1888年2月、アルルの地を訪れたゴッホはこの山の印象を、弟のテオドール宛の手紙にこうつづりました。「雪とおなじように明るい空へ聳える白い峰の雪景色は、まるで日本人が描く冬景色のようだった」(テオドール宛の手紙第464信、『ゴッホの手紙 中 テオドル宛』(岩波書店、1961年)に収録)。
Img_2575 さて、ゴッホの絵で有名なアルルの跳ね橋です。後ろの雰囲気ある家は、現在は空き家になっておりますが、ガイドさんの話しでは、数年前までおじいさんが住んでていて、観光客とみると家から出てきて、「おれが小さかった頃、ゴッホが毎日ここに来て、絵を描いてたんじゃ〜」などと話しかけてきたそうです。もちろんこれは大嘘で、ゴッホが描いた跳ね橋は別のところにありましたが戦災で破壊され、写真の跳ね橋は復元されたものです。それにゴッホが「アルルの跳ね橋」を書いたのは1888年頃ですから、おじいさんがいくら長生きでも、出会ったはずはありませんね。
Img_2579 公園にあるゴッホの像です。こ、これは……、怖すぎます。ゴッホ(1853年 - 1890年)は1888年2月にアルルに移り住み、「黄色い家」(これも戦火で失われました)で10月からゴーギャンとの共同生活を始めます。しかしわずか2ヶ月後の12月23日に自分の耳を切り取り、精神病院に運ばれます。
Img_2604 その精神病院がこちら。すでに真っ暗ですが、現在はエスパス・ヴァン・ゴッホと呼ばれる文化施設になっております。ゴッホは一度退院したものの、病状の悪化やアルル市民の要請で、再び病院内の鍵付きの個室に収容されました。そして1889年5月にサン・レミの療養所に移りました。「アルルの病院の中庭」という有名な絵は、この病院で書かれたもので、現在その庭が復元されております。
Img_2589 こちらはカフェ・ヴァン・ゴッホ。ゴッホの「夜のカフェテラス」(1888年)のモデルとされております、というか、このお店はそう主張しているそうです。なんかゴッホの絵に、店の方を似せている感じです。料金は非常に高いので、店には入らず眺めるだけにしたほうがよいそうです。
Img_2580 紀元前1世紀に建設されたという古代劇場です。ローマ時代、カエサルがポンペイウスと戦ったとき(前49年?)、マルセイユ(当時はマッシリア)がポンペイウスに付いたのに対し、アルル(当時はアレラーテ)はカエサルの側についたため、それ以後重要な都市として繁栄したそうです。
Img_2586 こちらは円形闘技場です。正面のアーチの上に四角い塔のようなものがありますが、後の時代に物見の塔として付け加えてしまったものだそうです。
Img_2595 ローマ時代の遺跡が、建物の壁の一部となっております。

2011/03/24

【歌舞伎自由研究】「女殺油地獄」徳庵堤、野崎観音、天満、北新地

 2月にルテアトル銀座で観た「女殺油地獄」、大阪が舞台のようですが、関東育ちのぽん太は大阪の地理には不案内なので、ゆかりの地を調べてみました。

 まずは序幕の舞台の徳庵堤。大阪を東から西に流れる寝屋川の、青い印のあたりが徳庵堤ですね。当時は野崎観音(赤い印)にお参りするのに、寝屋川を船で遡っていく方法がありました。船の客と、土手を歩く参拝客が口喧嘩をし、勝つとその年は運がいいと言われておりました。歌舞伎の「徳庵堤」で繰り広げられている口喧嘩がそれで、上方落語の「野崎参り」でも描かれています。ぽん太が野崎観音を訪れた話しは、以前の記事で書きました。

 与兵衛の河内屋とお吉の豊島屋は、ともに天満の油屋という設定です。天満は地図の緑の印のあたりです。豊島屋や油屋が実在した店かどうかはぽん太にはわかりません。

 こちらの文化デジタルライブラリーによれば、「女殺油地獄」は享保6年(1721年)5月4日の夜に起きた殺人事件が元になっており、わずか約2ヶ月後の7月15日に、竹本座で初演されたそうです。その元の事件の詳細も、ぽん太はわかりません。天満で起きた事件だったんでしょうか?

 天満といえば、近松門左衛門が息を引き取った地と言われております。享保9年(1724年)3月21日から22日にかけて、大阪は大火に見舞われ、竹本座や豊竹座も焼失しました。おそらくこの大火をきっかけに、近松門左衛門は天満に移り住んだようです。同じ年の11月22日、近松はこの世を去りました(『近松全集 第17巻』岩波書店、1994年、512ページ)。

 お吉を殺してお金を奪った河内屋与兵衛が遊興にふけるのが「北の新地」。言わずと知れた曾根崎新地(地図の水色の印)で、今でも高級飲食街として有名ですね。Wikipediaによれば(北新地#沿革堂島#沿革)、貞享2年(1685年)に河村瑞賢が曽根崎川を改修して堂島に新地を開発。江戸幕府は振興策として茶屋の設営を許可したため、北の遊里・北の色里などと呼ばれる繁華街になったそうです。その後、堂島に米市場が移転してきたのに伴い、遊里のほとんどは、宝永5年(1708年)に曽根崎川の北対岸に拓かれた曽根崎新地に移ったのだそうです。上に書いたように「女殺油地獄」の初演は1721年ですから、できてからわずか十数年の新しいプレイ・スポットだったんですね。曽根崎川は別名蜆川とも呼ばれましたが、明治42年(1909年)の北の大火(天満焼け)をきっかけに徐々に埋め立てられ、現在はなくなってしまいました。このあたりの事情は、こちらのサイト(消えた北の新地・蜆川1 - 十三のいま昔を歩こう)が詳しく、明治時代の写真なども多数アップされております。

 ちょっと気になるのは、ルテアトル銀座の公演の筋書きに、「新町の花屋の抱えの芸者である小菊」と書いてあること。「新町」というと、大阪市西区新町の新町遊郭のこと?なんかの間違いかしら。

 『近松全集 第12巻』(岩波書店、1990年)によると、「北の新地の料理茶屋。主なけれど咲く花屋」(129ページ)となっておりますから、やはり「北新地」のようです。ところが別の所を見ると、「小菊に逢瀬の田の面の雁よ新町の」(193ページ)と「新町」になってます。あれれ?しかしその続きの文句は、「花を見捨てて蜆川ふしの花屋にたどりよる」ですから、蜆川ということはやはり「北新地」?「新地」のことを「新町」とも言ったのでしょうか?ここから先はもうぽん太にはわかりません。

2011/03/23

【バレエ・絵画】キレのある熊川哲也のパック「ピーターラビット®と仲間たち & 真夏の夜の夢」 付「フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展」

 3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生。翌々日の13日(日)、電車も動いていたし、まだ事態の重大性がよくわかってなかったぽん太は、渋谷のオーチャードホールまでKバレエ・カンパニーを観に行ってきました。空席もありましたが、7割りぐらいは埋まってる感じでした。本公演の公式サイトはこちらです。
 まずは『真夏の夜の夢』。言わずと知れたシェイクスピアが原作ですが、タヌキのぽん太は読んだことなし。地震でやっぱり動転していたらしく、あらすじの予習も忘れ、ストーリーがよくわからないまま観てしまったのが残念です。松岡梨絵や遅沢佑介など、いつものことながらKバレエのダンサーたちは、表現力というか、観客にアピールする力があります。熊川哲也のパックはコミカルな役でしたが、身体のキレがすばらしく、動きや回転の速さなど、他のダンサーとはクロック周波数が2割くらい違う感じです。Kバレエではダンスール・ノーブルもこなす熊川ですが、こういった役が本役なんでしょうか?「4人の妖精」のなかにも、一人速いピルエットを見せてくれた女性ダンサーがいましたが、誰だったのかぽん太にはわかりませんでした。美術も縄文杉のような大木が美しく、深い森の雰囲気がよく出てました。メンデルスゾーンの音楽も、聞いたのはたぶん初めてですが、流麗ですばらしかったです。
 『ピーターラビット®と仲間たち』は今回が2回目なので、最初に観た時ほどのインパクトはありませんでしたが、あいかわらずとっても楽しいバレエでした。やっぱりキツネのしっぽがぶんぶん回るのがかわいかったです。デパートの子供ショーのイメージの着ぐるみの動物たちが、すばらしいダンスを踊るのは、いい意味の違和感というか、不思議な感じがします。ひこにゃんがアイススケートでトリプルアクセルを決めるような感じでしょうか?子供たちの観客も多かったのですが、地震のため心から楽しむことができなかったのが残念。被災者の方々への思いからか、カーテンコールも自粛されてました。

 講演終了後、地下のザ・ミュージアムで開催していた「フェルメール 《地理学者》 と オランダ・フランドル絵画展」に寄りました(こちらが公式サイトです)。「地理学者」(1669年)は東京では初公開とのこと。普通なら大混雑となるところですが、地震の影響か、ゆっくりと見ることができました。ブリューゲルも何点かありました。正月にルーブルで見た《天文学者》と似た絵でした。
 

Tetsuya Kumakawa K-BALLET COMPANY
「バレエ ピーターラビット®と仲間たち & 真夏の夜の夢」
Tales of Beatrix Potter & The Dream
2011年3月13日(日) 14:00 Bunkamuraオーチャードホール

≪ 真夏の夜の夢 The Dream ≫

タタイターニア Titania:松岡梨絵 Rie Matsuoka
オベロン Oberon:遅沢佑介 Yusuke Osozawa
パック Puck:熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
ボトム Bottom:ニコライ・ヴィユウジャーニン Nikolay Vyuzhanin
ハーミア Hermia:浅川紫織 Shiori Asakawa
ライサンダー Lysander:スチュアート・キャシディ Stuart Cassidy
ヘレナ Helena:松根花子 Hanako Matsune
デミトリアス Demetrius:宮尾俊太郎 Shuntaro Miyao
4人の妖精 4 Fairies
 クモの巣 Cobweb:中村春奈 Haruna Nakamura
 マメの花 Peaseblossom:副智美 Satomi Soi
 蛾 Moth神戸里奈 Rina Kambe
 カラシの種 Mustardseed:日向智子Satoko Hinat
妖精 Fairies / 田舎者 Rustics:Artists of K-BALLET COMPANY
男の子 Changeling Boy:K-BALLET SCHOOL
合唱 Chorus :藤原歌劇団 The Fujiwara Opera
 伊藤晴 Hare Ito / 関真理子 Mariko Seki
 岩本留美 Rumi Iwamoto / 神田さやか Sayaka Kanda / 古澤真紀子 Makiko Furusawa /吉村恵 Megumi Yoshimura

●振付 Choreography by サー・フレデリック・アシュトン Sir Frederick Ashton
●原作 Original ウィリアム・シェイクスピア「真夏の夜の夢」 Based on "A Midsummer Night's Dream" by William Shakespeare
●音楽 Music フェリックス・メンデルスゾーン Felix Mendelssohn
●編曲 Arranged by ジョン・ランチベリー John Lanchbery
●舞台美術・衣裳デザイン Sets and Costumes by デヴィッド・ウォーカー David Walker
●照明 Lighting Design ジョン・B・リード John・B・Read
●振付指導 Staged by サー・アンソニー・ダウエル Sir Anthony Dowell / クリストファー・カー Christopher Carr

≪ バレエ ピーターラビット®と仲間たち Tales of Beatrix Potter ≫

まちねずみジョニー Johnny Town-Mouse:ヒビャンバ・バットボルト Byambaa Batbold
のねずみチュウチュウおくさん Mrs.Tittlemouse:副智美 Satomi Soi
ねずみくんたち 2 Mouse Boys:長島裕輔 Yusuke Nagashima / 池本祥真 Shoma Ikemoto
ねずみちゃんたち 2 Mouse Girls:渡部萌子 Moeko Watanabe/ 松岡恵美 Emi Matsuoka
ティギーおばさん Mrs.Tiggy-Winkle:小林由明 Yoshiaki Kobayashi
あひるのジマイマ Jemima Puddle-Duck:松根花子 Hanako Matsune
きつねの紳士 The Fox:宮尾俊太郎 Shuntaro Miyao
こぶたのピグリン・ブランド Pigling Bland:ニコライ・ヴィユウジャーニン Nikolay Vyuzhanin
ピグウィグ Pig-wig:東野泰子 Yasuko Higashino
ぶたくんたち 2 Pig Boys:愛澤佑樹 Yuki Aizawa / 合屋辰美 Tatsumi Goya
ぶたちゃんたち 3 Pig Girls:浅野真由香 Mayuka Asano / 井上とも美 Tomomi Inoue / 岩渕もも Momo Iwabuchi
ペティトーおばさん Mrs.Pettitoes:スチュアート・キャシディ Stuart Cassidy
ジェレミー・フィッシャーどん Mr.Jeremy Fisher:秋元康臣 Yasuomi Akimoto
2ひきのわるいねずみ Two Bad Mice
 トム・サム Tom Thumb:小山憲 Ken Koyama
 ハンカ・マンカ Hunca Munca:神戸里奈 Rina Kambe
ピーターラビット Peter Rabbit:西野隼人 Hayato Nishino
りすのナトキン Squirrel Nutkin:橋本直樹 Naoki Hashimoto
4ひきのりすたち 4 Squirrels:星野姫 Hiromi Hoshino / 梶川莉絵 Rie Kajikawa / 和田紗永子 Saeko Wada / 山口愛 Ai Yamaguchi
8ひきの小さなねずみたち 8 Small Country Mice:K-BALLET SCHOOL

●振付 Choreography by サー・フレデリック・アシュトン Sir Frederick Ashton
●演出 Production サー・アンソニー・ダウエル Sir Anthony Dowell
●編曲 Music ジョン・ランチベリー John Lanchbery
●舞台美術・衣裳デザイン Set and Costume Design クリスティン・エドザード Christine Edzard
●マスク Masks ロスティスラフ・ドボジンスキー Rostislav Doboujinsky
●照明デザイン Lighting Design マーク・ジョナサン Mark Jonathan

●芸術監督 Artistic Director 熊川哲也 Tetsuya Kumakawa
●指揮 Conductor 井田勝大 Katsuhiro Ida
●演奏 シアターオーケストラトーキョー Theater Orchestra Tokyo

2011/03/22

【歌舞伎】仁左衛門の崇高な悪 国立劇場「絵本合法衢」

 震災以前のことですが、仁左衛門を観に国立劇場に行ってきました。先日大阪松竹座で見た「盟三五大切」に続いて、仁左衛門が悪役を演じるとのこと。左枝大学之助と立場の太平次の二役ですが、これが両方ともめっぽう悪い奴らで、しかも大学之助は大名格の巨悪、太平次は市井の悪党と、対照的なキャラクターです。国立劇場の公式サイトはこちら
 「絵本合法衢」は初めてみる演目。鶴屋南北の作だそうで、文政7年(1810年)に江戸・市村座で初演されたそうです。善人たちが悪人にいいように騙されて、ばったばったと殺されていきます。悪人とて油断ならず、用済みになるとあっという間に殺されていき、太平次さえ大学之助によって始末されます。最後に大学之助が仇討ちされますが、取って付けたようなオチはという感じで、決してカタルシスは得られません。今回の上演を監修した奈河彰輔氏がパンフレットにが書いていた「敵討ち物というより、むしろ返り討ち物」という表現が、言い得て妙です。さらに複雑な人間関係、時代物と世話物の融合、蛇使いのうんざりお松といった妖しいキャラクター、幽霊など、鶴屋南北の面目躍如たる作品です。
 ひとつ間違うとすっごく暗く救いのない話しになってしまいそうですが、仁左衛門が演じると悪の魅力が感じられます。人を人と思わず、自分の欲望のみに従う非人道さ、その圧倒的な強さは、想像を超えているという点で、崇高でさえあります。今回の大地震のように、巨大な力の前になすすべのない人間の悲しさ、くやしさが心に浮かびます。
 孝太郎の演じるお亀は、我が身を犠牲にして仇の大学之助の妾になりながら、返り討ちにあって殺されて、幽霊となります。自己犠牲と哀しみを、感情過多にならずに芸によって見事に表現しておりました。時蔵のうんざりお松は、蛇使いの妖しさ満点で、道具屋のゆすりも見事。段四郎の高橋瀬左衛門、左團次の高橋弥十郎は普通に実力発揮。愛之助の田代屋与兵衛は目立ちすぎず、劇の一登場人物として収まってました。
Img_2940 今回の舞台は「絵本合法衢」(えほんがっぽうがつじ)という題名ですが、「合邦辻」というのは大阪の四天王寺の西にある十字路で、そこにあるお堂が合邦辻閻魔堂(写真)です。プログラムの解説によれば、何でもこの狂言の題材は、明暦2年(1656年)に加賀前田家の前田大学之助が、高橋清左衛門という武士を殺し、弟の作右衛門によって合法ヶ辻(=合邦辻?)で仇討ちされたという事件だそうです。合邦辻では、そんな出来事もあったんですね。知らんかった。合邦辻といえば、同じく歌舞伎の「摂州合邦辻」を思い浮かべますが、こちらの初演は安永2年(1773年)。ですから文化7年(1810年)初演の「絵本合法衢」は、当然この狂言を踏まえており、大詰めで高橋弥十郎が突如合法となり、与兵衛が足に傷を負って弱っていたりと、「摂州」のパロディも入っております。ちなみにぽん太が合邦辻と閻魔堂を訪れた時の記事はこちらです。
 

通し狂言「絵本合法衢」(えほんがっぽうがつじ) 四幕十二場
2011年3月 国立劇場

四世鶴屋南北=作
奈河彰輔=監修
国立劇場文芸課=補綴
国立劇場美術係=美術
       
   序 幕  第一場    多賀家水門口の場
        第二場    多賀領鷹野の場
        第三場    多賀家陣屋の場
   二幕目  第一場    四条河原の場
        第二場    今出川道具屋の場
        第三場    妙覚寺裏手の場
   三幕目  第一場    和州倉狩峠の場
        第二場    倉狩峠一つ家の場
        第三場    倉狩峠古宮の場
        第四場    元の一つ家の場
   大 詰  第一場    合法庵室の場
        第二場    閻魔堂の場

(出演) 
左枝大学之助/立場の太平次 片岡 仁左衛門
うんざりお松/弥十郎妻皐月 中村 時 蔵
田代屋娘お亀 片岡 孝太郎
田代屋与兵衛 片岡 愛之助
お米     中村 梅枝
太平次女房お道 上村 吉弥
松浦玄蕃   市川 男女蔵
佐五右衛門  片岡 市蔵
孫七     市川 高麗蔵
田代屋後家おりよ 坂東 秀調
高橋瀬左衛門 市川 段四郎
高橋弥十郎  市川 左團次

2011/03/20

【東日本大震災】世界一長い(?)宛名

 東北関東大震災の影響で、さまざまな舞台公演が中止になっております。前々から楽しみにしていたので残念ですが、被災者や復旧にあたっている方々の苦労を思えば仕方ありません。
 中止になった理由として、計画停電や交通手段の問題が大きいかと思いますが、原発の件で海外アーティストが来日を嫌がっていることもあるかもしれません。

 3月末に予定されていた新国立劇場のオペラ「マノン・レスコー」と、バレエ「ダイナミック・ダンス!」も中止となり、チケットの払い戻しの書類が送られてきました。
 ところがその宛先が……

新国立劇場ボックスオフィス「マノン・レスコー 又は ダイナミックダンス! 又は ダイナミックダンス!公開舞台リハーサル」払い戻し係
 こんなに長い宛先は生まれて初めてです。封筒の表側が文字でぎっしりになりました。ひょっとして世界最長か?ギネスブックを狙っているのかしら。
 まあこれも、広い意味のお役所仕事と言うのでしょうか……。

2011/03/17

【東日本大震災】患者さんが意外と動揺してないのはなぜ?

 東日本大震災の被災者の方々が、どれだけ不安な毎日を過ごしておられるかを考えると、胸が塞がる重いです。一日でも早い復興をお祈りいたします。また、救助や支援、原発の危機的状況に懸命の対応をなさっている方々に対しては、頭が下がる思いです。そして不幸にしてお亡くなりになった方々には、心からお悔やみを申し上げます。
 今回の地震を通じて、ぽん太も多くのことを考え、多くのことを学びましたが、その内容は誰もが思っていることだと思うので、書くことはいたしません。
 東京の多摩地区にあるぽん太のクリニックも、本棚の本が一部落ちた以外は特に被害もなく、通常の診療を行うことができております。でも地震のときは、これまで体験したことがない揺れに、「ひょとしたらビルが崩れて死ぬかな〜」と本気で思いました。
 地震からまだ数日ですが、ぽん太が意外に感じたのは、患者さんたちが地震であんまり動揺していないことです。地震のショックで病状が悪化したひとはほとんどいなくて、多くのひとは落ち着いてらっしゃいました。些細なことをきっかけにパニック発作を起こしてしまう患者さんが、新宿から7時間かけて歩いて帰ってきたと笑っておりました。また被害妄想で外出することもできない統合失調症の患者さんも、地震で恐怖に襲われることはなかったようでした。てっきりぽん太は、みんなが動揺して病状を悪化させていると思ってたのですが。むしろぽん太の方が、停電への対応やらなんやらでテンパっておりました。
 その理由を考えてみるに、まず思い浮かぶのが、統合失調症などでみられる、現実への無関心・鈍感さです。統合失調症の陰性症状により、外界の認知能力が低下したり、感情の起伏がなくなったりします。その結果、地震の恐怖や影響を正しく認識できなかったり、感情的な反応が小さかったりすると考えることができます。しかし、過敏で不安感が強いタイプの患者さんでも地震で症状が悪化していないことや、統合失調症以外の神経症やうつ病の患者さんも動揺していないことを考えると、この説明で納得することはできません。
 次に考えられる理由は、薬を服薬しているため、不安や恐怖が生じなかったというものですが、病気によって使われている薬の種類は抗精神病薬・抗うつ剤・抗不安薬など多種多様だし、量も多い人から少ない人、そして飲んでいない人まで様々なので、この説明も十分とは言えません。
 で、今回ぽん太が思いついたのは、患者さんたちは、それぞれの病気を克服するために、不安や恐怖などの感情をコントロールする力を、健康なひと以上に身につけているからである、という考えです。例えば普段から統合失調症の患者さんは、恐ろしい幻聴を聞き流したり、被害妄想の恐怖に打ち勝つ訓練を積んでいるわけです。「世界没落体験」と呼ばれている症状などは、読んで字の通り、まるで世界が崩壊するような体験であって、「最終戦争が起こる直前」のような緊迫感と不安感があると言われています。これはまさに大地震や大津波の恐怖、余震や原発の不安と重なります。「世界没落体験」を乗り越えた患者さんにとっては、地震のショックは「すでに乗り越えたもの」なのかもしれません。
 またパニック障害の患者さんにしても、「このまま死ぬかもしれない」という恐怖と混乱を繰り返し体験しており、それをコントロールする術を身につけているわけです。うつ病の患者さんも、場合によっては自殺をしたくなるほどの気分の落ち込みや焦りを体験しているわけで、そういった病的体験に比べれば、地震に関する不安や恐怖は大したことないのかもしれません。
 これはあくまでも推測でか、確かめるためにどのような方法があるかぽん太にはわからないので、信じるも信じないもあなたしだいというところなのですが、「これまで症状に耐えて乗り越える努力をしてきたからこそ、普通のひとより落ち着いていられるのかもしれませんね」という言葉は、患者さんにとってプラスになるように思います。

2011/03/12

【歌舞伎】魁春の政岡の格調と様式美 新橋演舞場2011年3月昼の部

 昼の部です。公式サイトはこちら

 まずは『恩讐の彼方に』。有名な菊池寛の原作はとてもよくできた話しで、思い出しただけでも涙がでそうになるのですが、こんかい歌舞伎として見て、それ以上の感動はありませんでした。ちなみに原作は「青空文庫」で読むことができます(→こちら)。
 まず、さまざまな「悪」が描かれる歌舞伎を見慣れた目からは、前半で市九郎(松緑)が犯した悪は大したことないように思われてしまいます。そのため、改心した後の、20年以上も洞門を掘り続けるという強い意思とのバランスがとれません。「その程度の悪の罪滅ぼしだったら、何もそこまでしなくても」という気がします。旅人の夫婦を殺したあと、恐怖に襲われるところなどを演じて欲しかったです。お弓(菊之助)が、死体から髪飾りを剥ぐために花道を引っ込むときのニヤリと笑った表情は、鬼女のような不気味さでよかったですが、市九郎がそれに嫌気をさすあたりはあまり表現されておりませんでした。脚本のせいなのか、松緑の演技のせいなのか、ぽん太にはわかりません。
 また原作では、了海を敵と狙う市九郎は、一心不乱にノミを振るう了海を目の当たりにして憎しみを失います。しかし仇討ちを果たして家名を再興するという打算から、やはり了海を殺そうと考え、一刻でも早く敵を討つために穴堀を手伝います。しかしついに穴が貫通した瞬間、「打算から人を殺す」という考えが、偉業を成し遂げた感激の前に消え去るのです。こうした心理の変化が、うまく表現されてなかった気がするのですが、それは脚本の問題なのかもしれません。菊池寛自身が劇化したそうですが、小説はうまいけど、脚本は苦手なのかしら。あんまり読んだことがないので、ぽん太にはよくわかりません。
 上に書いたように、菊之助の毒婦ぶりがよかったです。松緑、染五郎の演技はともに歌舞伎らしさがなく、現代劇っぽかったです。

 次は魁春が政岡を初役で務める『伽羅先代萩』。これが非常に良かったです。学芸会のような『恩讐の彼方に』を見た後のせいか、格調の高さ、歌舞伎らしい様式的な動きの美しさに見とれました。栄御前が立ち去ってからのクドキの場面など、例えば菊之助の政岡が泣き叫ぶ姿は生身の人間を感じさせますが、魁春の場合はまるで文楽人形のように情を内に秘めていて、それがいっそう悲しさを強めます。「飯炊き」も久々に見れました。ぽん太も少し眠くなりましたが、3階席に陣取っていた歌舞伎教室(?)の女子高生たちは、9割かた寝てました。梅玉の八汐、憎々しげにならずに品がいいところが、今回の舞台には合っており、福助の癖のある台詞回しがちょっと浮いてる感じがしました。芝翫の栄御前が舞台をしめ、幸四郎の仁木弾正は怪しさがあってよかったです。

 菊五郎と吉右衛門の『御所五郎蔵』。明るく粋な台詞の応酬を楽しむ予定でしたが、日頃の疲れで爆睡。昼の部のプログラム、3本立ての演目のどれもが1時間30近く休憩なしだったのも、疲れた原因かも。プログラム構成を少し考えて下さると有り難いのですが。


新橋演舞場
三月大歌舞伎
平成23年3月

昼の部

一、恩讐の彼方に(おんしゅうのかなたに)
          中間市九郎後に僧了海    松 緑
               中川実之助    染五郎
                  お弓    菊之助
                馬士権作    亀三郎
                 若き夫    亀 寿
               浪々の武士    亀 鶴
              中川三郎兵衛    團 蔵
              石工頭岩五郎    歌 六

  六世中村歌右衛門十年祭追善狂言
二、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)
    御 殿
    床 下
                乳人政岡    魁 春
                  八汐    梅 玉
                 沖の井    福 助
                 澄の江    松 江
                一子千松    玉太郎
              荒獅子男之助    歌 昇
                  松島    東 蔵
                仁木弾正    幸四郎
                 栄御前    芝 翫

三、曽我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)
  御所五郎蔵
               御所五郎蔵    菊五郎
                傾城皐月    福 助
                傾城逢州    菊之助
                新貝荒蔵    亀三郎
                秩父重介    亀 寿
               二宮太郎次  尾上右 近
             番頭新造千代菊    歌 江
                梶原平蔵    権十郎
              甲屋女房お京    芝 雀
              星影土右衛門    吉右衛門

2011/03/10

【歌舞伎】幸四郎の悲哀感あふれる「筆屋幸兵衛」 新橋演舞場2011年3月夜の部

 新橋演舞場夜の部。公式サイトはこちら

 「浮舟」は初めて見る演目。てっきり『源氏物語』の雅やかな世界が展開するのかと思っていたら、精神と肉体の葛藤に引き裂かれる自我、みたいな話しで、いまいちぽん太の好みではありませんでした。この作品は北條秀司が、『源氏物語』の「宇治十帖」を下敷きにして創作し、明治28年(1953年)に初演されたものとのこと。近代自我の問題を上乗せしたのが北條秀司の工夫だったのでしょうけれど、ぽん太にはかえって古くさくありきたりに感じられました。
 薫大将は観念的な若者で、精神的な愛を追い求め、結婚まで契りを結ぼうとしません。いっぽう匂宮は、心の趣くままに女性を追い求めます。浮舟は、心では薫を愛しながらも肉体は匂宮を求め、その葛藤に引き裂かれます。さらに浮舟が匂宮に引かれるのは、母親から受け継いだ多情な血のなせるわざ、という話しになってくると、なんだかドロドロで、「横溝正史かい!」とツッコミたくなります。終幕で、「なぜ匂宮の要求を死をもって拒まなかったのか」と浮舟を責める薫に、弁の尼が、薫にも「責任」の一端があると言うやりとりなども、近代的な責任論であって、『源氏物語』の感性とはまったく異なるように思えます。
 染五郎の薫大将は、精神的に未熟な観念的青年という感じ。紫式部の『源氏物語』では、薫大将も色気がある雅やかな美男子だと思うのですが、北條秀司の脚本がそうなっているのか、染五郎の演技によるのか、ぽん太にはわかりません。また演技が現代劇っぽいのが気になりました。菊之助の浮舟は、第一幕では若さを強調するためか、高い声を張りあげすぎてキンキンして聞きづらかったですが、後半になるにつれて演技に引き込まれました。吉右衛門の匂宮はさすがに上手で、色気や雅やかさがありました。浮舟に恋いこがれて我を忘れる様子が、生々しくならずに軽妙に演じておりました。吉右衛門と菊五郎が出て来ると舞台が引き締まります。なにげないセリフ回しや身のこなしなど、やはり染五郎・菊之助と一段レベルが違うな〜と思いました。魁春の中将は腹黒さがあっていいが、多情な血を持つという色っぽさに欠けるのは仕方がないか。福助の方があってたかも。で、薫大将が梅玉なら、だいぶ印象が違ったかな〜などとも思いました。
 紫式部の原作では、匂宮は薫大将よりも2、3歳年下だったと思うのですが、今回の配役では、薫大将は世間知らずの若者で、匂宮は恋の手練手管を知りつくした経験豊かな男性という印象。これも北條秀司の考えだったのか、たまたま今回の配役だったのか、ぽん太にはわかりません。

 幸四郎の「筆屋幸兵衛」は、2006年3月に歌舞伎座で観ました。そのときは滑稽さが印象に残ったのですが、今回は深い悲哀が感じられました。幸四郎の演技が変わったのか、ぽん太の感じ方が変わったのか、わからないところが素人の悲しいところ。落ちぶれたとはいえ元武士らしい厳しさのある表情もいいし、かどかどでのキマリも美しかったです。ただこれも、特に「身投げの場」など黙阿弥流の古風なセリフのやり取りが削られ、水天宮のご利益でお雪の目が見えるようになるとか(原作は目薬のおかげ)、「士農工商の身分がなくなった平等の世の中で助け合って生きて行こう」とか、オチをつけて近代的にまとめてあるところが残念です。

 最後は『吉原雀』。梅玉と福助の華やかな踊りで幕となりました。


新橋演舞場
三月大歌舞伎
平成23年3月

夜の部

  源氏物語
一、浮舟(うきふね)
   第一幕 二条院の庭苑
   第二幕 宇治の山荘
   第三幕 二条院の庭苑
   第四幕 宇治の山荘
       浮舟の寝所
   第五幕 宇治の山荘
       宇治川のほとり
                  匂宮    吉右衛門
                 薫大将    染五郎
                  浮舟    菊之助
                  侍従  尾上右 近
                  右近    萬次郎
                 中の君    芝 雀
                 弁の尼    東 蔵
                  中将    魁 春
                  時方    菊五郎

二、水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)
  筆屋幸兵衛

  浄瑠璃「風狂川辺の芽柳」
               船津幸兵衛    幸四郎
              萩原妻おむら    魁 春
               車夫三五郎    松 緑
              差配人与兵衛    錦 吾
             代言人茂栗安蔵    権十郎
              巡査民尾保守    友右衛門
             金貸因業金兵衛    彦三郎

  六世中村歌右衛門十年祭追善狂言
三、吉原雀(よしわらすずめ)
               鳥売りの男    梅 玉
               鳥売りの女    福 助

2011/03/08

【演劇】三谷幸喜のシリアス・サスペンス!?「ろくでなし啄木」

 三谷幸喜ということで行ってきました。公式サイトはこちらです。三谷と俳優3人のコメント動画付き!
 今回の舞台はお笑い満載のドタバタではなく、シリアス・サスペンス風。もちろん随所にギャグもちりばめられており、期待を裏切りません。藤原竜也(啄木)、中村勘太郎(啄木ファンのテキヤのにいちゃん)、吹石一恵(啄木の愛人の女給)の3人が温泉宿に泊まっているという設定で、まず、吹石一恵の視点から一夜の出来事が演じられます。そして休憩をはさんで第二部になると、同じ出来事が、今度は勘太郎の視点から演じられるという趣向。
 舞台装置は、左右に延びる廊下があって、その手前と向こう側に対称的に客室がある構造。第1幕では、手前側が藤原竜也と吹石一恵の部屋、向こう側が勘太郎の部屋になっておりますが、第2幕では反対側から見ている設定となり、手前が勘太郎、向こう側が藤原と吹石の部屋です。
 同一の出来事の表と裏を見て、「ここではホントはこう思ってたのか」とか、「陰でこんなことが行われてたのか」とかいうあたりの面白さは、三谷幸喜の真骨頂。非常によくできていて、よく考えつくなと思います。
 これで終わりかと思ったら、最後に既に死んでいる啄木が現れて、第3の真相を語ります。芥川龍之介の『薮の中』を思わせます。しかし残念ながら、この3番目の部分が、いまいちインパクトがありませんでした。あっと驚く意外な真相が欲しかったです。また、あの一夜の体験によって、啄木の心境が変化し、田舎から出て来た妻子と暮らす決意をするというあたりに、心理的な説得力がありませんでした。
 藤原竜也、女たらし・男たらしのろくでなしぶりがよく出てました。こちらのasahi.comのサイトにインタビューが出てますが、「三谷さんの演劇作品も演出を受けるのも初めて」とのこと。あれれ、大河ドラマの『新撰組!』は?そうか、作は三谷幸喜だけど演出は違ったのか……。吹石は、舞台は初めてとのことですが、純な感じでありながらフェロモンが出ていてなかなかよかったです。勘太郎、汗をかきながらの大熱演ですが、ちょっと力を入れすぎか。ふっと力を抜いて笑わせる、父ちゃんの芸を盗め!でも、くれぐれも歌舞伎の道を踏み外さないようにお願いします。
 サスペンスあり、笑いあり、感動ありで、とても楽しめました。


「ろくでなし啄木」
天王洲銀河劇場 2011年2月24日

作・演出 三谷幸喜
出 演 藤原竜也 ・ 中村勘太郎
With 吹石一恵

音楽 藤原道山
美 術 堀尾幸男
照 明 服部 基
音響 井上正弘
衣裳 黒須はな子
ヘアメイク 河村陽子
舞台監督 松坂哲生

2011/03/07

【拾い読み】通常と違う認知の世界 最相葉月『絶対音感』、テンプル・グランディン『動物感覚』

 なんかここのところ忙しいので、こんかいは「拾い読み」未満の「読書メモ」。
 以前に読んだルリヤの『偉大な記憶力の物語』の流れで読みました。

 最相葉月『絶対音感 』(ぽん太が読んだのは、小学館、1998年。現在は新潮文庫で手に入ります)。
 以前にベストセラーになった本ですが、ぽん太は読んでませんでした。ひとくちで絶対音感といっても、共感覚に近いものから、訓練によって修得したものまで、いろいろとあるようです。絶対音感はすぐれた能力ではありますが、一方でピッチのずれが気になったり、音楽を「音」としてしか聞けないなどの悩みもあるようで、ルリヤの症例を思い起こさせます。話しは幼児教育に移っていきますが、そこはぽん太は興味なし。さまざまな音楽家の絶対音感にまつわるエピソードは、面白く読めました。

 テンプル・グランディン『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』(日本放送出版協会、2006年)。
 こちらも2005年に発刊されて、全米ベストセラーとなった本。著者は、自らが自閉症の動物学者。自閉症であるからこその視点から、動物の「心」の世界を解き明かします。ふつうの人から見ると「この動物はなんでこんな行動をとるんだ!」ということが、著者からすると「あたりまえよ。なんでみんな気がつかないの」ということになります。その結果、動物や自閉症のひとに比べ、一般人の感覚や思考が「いかに制限されているか」が分かってきます。邦題は『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』となっておりますが、原題は《Animals in Translation Using the Mysteries of Autism to Decode Animal Behavior》 で、決して「感覚」だけを扱っているのではなく、認知行動の全般にわたっております。暴力、恐怖、問題行動などの原因や対処が論じられており、精神科の臨床へのヒントがちりばめられています。

2011/03/02

【拾い読み】初鰹が24万円!・竹内誠『江戸社会史の研究』

 歌舞伎を観ることで少しは江戸時代の雰囲気がわかったものの、まだまだ知らないことばかり。竹内誠著『江戸社会史の研究』(弘文堂、2010年)を読んでみました。江戸東京博物館館長の著者が書きためた論考をまとめたものだそうですが、学術論文的な固い文章ではなく、江戸時代の人々の暮らしぶりがよく理解できます。
 とにかく知らないことばかりなので、興味深かったことを全部書くことはできませんが、そのうちいくつかだけ。

 大屋あるいは家主と呼ばれる人は、長屋の所有者ではなく、所有者の代理人なのだとか。
 食べ物屋では、武士も町人も差別はなく、順番を待って食事を取ったとのこと。
 19世紀になると、吉原の風俗は「野暮」となり、深川の方が流行の先端を行っていて「いき」と感じられるようになったのだそうです。(ぽん太:深川には岡場所が多く、そこの芸者は羽織を着て座敷にあがり、男言葉を使いました。江戸から辰巳の方角にあるので「辰巳芸者」とも呼ばれ、意気で気っ風が良いという特徴がありました。深川については、近々書く予定)。
 初鰹をありがたがる風潮は江戸初期からあったが、それが極端に加熱したのは18世紀後半になってからとのこと。大田南畝の『壬申掌記』(じんしんしょうき)によると、文化9年(1812年)3月25日に、日本橋の魚河岸に初鰹17本が入荷し、6本は幕府に上納され、残りは二両一分で売られた。また歌舞伎役者の中村歌右衛門は(時代からいうと3代目か?)、新場の魚屋から1本を3両で買ったとのこと。仮に1両=8万円とすると、初鰹一本24万円!ちなみに文献上に残っている初鰹の最高値は、1本4両だそうです。もちろん最盛期になると値段は下がり、1本250文(約3,000円)となったそうです。

2011/03/01

【オペラ】パトリツィア・チョーフィの大吟醸のコロラトゥーラ/新国立オペラ『椿姫』

 コンヴィチュニーの『サロメ』のあとハシゴしてきました。上質の舞台でしたが、コンヴィチュニーを観て頭が「???」になったあとでは、山廃純米古酒の後に大吟醸を飲んだ感じでした(わかるかな〜?)。先日の『トゥーランドット』と比べても、古風な感じがしますね。公式サイトはこちら、特設サイトはこちらです。
 ヴィオレッタのパトリツィア・チョーフ、「乾杯の歌」ではあまり声が出ていなくてアレレと思いましたが、「花から花へ」では声量・音程ともにすばらしいコロラトゥーラを聴かせてくれました。スタイルもスリムで、結核じゃなくて糖尿病じゃないかと思う椿姫が多いなか、楚々とした雰囲気がありました。アルフレードのウーキュン・キムは韓国人のようですが、のびやかで明るいテノールで声量もありました。しかし東洋人のさがなのか、感情表現というか演技が地味で表情に乏しく、オナベっぽい雰囲気なのが残念。ルチオ・ガッロは、サミー・デイヴィス・ジュニアのような風貌、柔らかさのある声が心地よかったですが、ジェルモンの超自我的な迫力には少し欠けた気がします。
 演出は、なんか地味。セットもなんだかスナックみたいで、舞台装置がワイヤーで引っ張られて左右に動くのですが、セットごとに動きがずれているのがちゃっちくて、なんだか気になりました。新国立の装置を使って全体を動かせばすっきりするのに。なんか蓮舫の仕分け以来、この装置が動いたのを見たことがない気がしますが、現場の予算を削る前に、仕事をしていない重役を数人辞めさせてください。新国立バレエも、外人ダンサーのフィーチャーリングが減った気がします。オペラも外人フィーチャーがなくなったら、ぽん太は観に行きませんから。
 パタリロ・広上淳一の指揮、東京交響楽団の演奏は、重厚さには欠けましたが、スマートな切れ味があってよかったです。
 話しは変わりますが、新国立劇場3階のL席、R席、前の人の頭が邪魔で舞台が見えません。どうせ階段状になっているのなら、1列につきもう2〜3センチでいいですから、傾斜を付けてくれたらよかったのに。設計は柳澤孝彦とのこと。竹中工務店に勤務していたけれど、新国立劇場のコンペで最優秀賞を取って独立したらしい。むむむ、この見えにくい劇場で最優秀賞か……。たしかに傾斜以外は悪くないけど。その他柳澤孝彦設計でぽん太が知ってる建築は、MOA美術館、身延山久遠寺大本堂、有楽町マリオン、真鶴町立中川一政美術館、オペラシティなど。


『椿姫』
Giuseppe Verdi:La Traviata
ジュゼッペ・ヴェルディ
2011年2月23日 新国立劇場オペラ劇場

【指 揮】広上淳一
【演 出】ルーカ・ロンコーニ
【装 置】マルゲリータ・パッリ
【衣 裳】カルロ・マリア・ディアッピ
【照 明】セルジオ・ロッシ

【ヴィオレッタ】パトリツィア・チョーフィ
【アルフレード】ウーキュン・キム
【ジェルモン】ルチオ・ガッロ
【フローラ】小野和歌子
【ガストン子爵】樋口達哉
【ドゥフォール男爵】小林由樹
【ドビニー侯爵】東原貞彦
【医師グランヴィル】鹿野由之
【アンニーナ】渡辺敦子

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

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