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2011/03/29

【歌舞伎自由研究】「水天宮利生深川」幸兵衛の家は?

 3月新橋歌舞伎夜の部で観た「水天宮利生深川」について、ゆかりの地やわからない表現を調べてみました。。テキストは『明治文学全集〈第9〉河竹黙阿弥集』(筑摩書房、1966年)です。

 巻末の河竹登志夫の解題によれば、この狂言は、河竹黙阿弥の家に、落ちぶれて筆を売りにきた浪人の哀れな姿と、黙阿弥の隣り裏に住んでいた一家の女房の気が違って子供を投げ出したという出来事からヒントを得て、創作したものだそうです。

 初演は明治18年(1885年)2月で千歳座。千歳座はいまの明治座です。Wikipediaによれば、明治6年(1873年)に久松町に喜昇座が開場。明治12年(1879)年に改修して久松座と改称しますが、翌年火災で焼失。明治18年(1885年)に千歳座と改称して新築開業されたとのこと。ということは、「水天宮利生深川」が初演されたのは、千歳座が開業した年だったんですね。場所ですが、現在の明治座は、平成5年(1993年)に現在の位置に移ったようです。goo地図を見るとこちら(「明治」をクリックしてください)に明治座があります。goo地図では、現在の地図にすると位置が微妙にずれるようで、実際は現在の日本橋浜町2-10あたりでしょうか(地図の青いフキダシ)。

 明治座の歴史に関しては、こちらの東京都印刷工業組合日本橋支部のサイトも詳しいです。明治30年代の『新撰東京名所図会』の文書を引いて、「旧幕府時代、両国広小路にありて、薦張の芝居なりを、明治5年に及びて、取締を命ぜられしより、同6年4月28日、久松町37番地へ、劇場建設の許可を得て、喜昇座と称して開場せり。同12年6月久松座と改め、建築を改良せし故、同年8月23日を以て大劇場の部に入る。同13年火災に類焼し、浜町2丁目に仮小屋を造り、同16年5月迄興行したるが、同年12月24日元地へ建築の許可を得たるが、工事中暴風雨の為に吹倒され、17年12月落成して千歳座と改称し、翌年1月4日開場式を行ふ」としておりますから、「久松町37番地」に千歳座はあったようですが、上のgoo地図で明治座があるところは久松町38と書いてありますから、だいたい同じ場所と考えてよいのかもしれません。

 千歳座があった場所は、水天宮(図の赤いフキダシ)のほど近くです。以前の記事でも書いたように、水天宮がこの地に移ったのは明治5年(1872年)ですから、「水天宮利生深川」初演の13年前にできたニュー・スポットだったわけですね。

 さて、作品の中に入って行くと、筆屋幸兵衛の自宅は深川浄心寺裏となっております。ぐぐってみると、現在も江東区深川に浄心寺というお寺があるようです(地図の緑のフキダシ)。goo地図(「明治」をクリックしてください)を見ると、同じ所に浄心寺があるようです。浄心寺「裏」というのが、どのあたりかはわかりません。

 長屋のおつぎさんとお百さんの会話で、お弔いが出たけどせんべい10枚しか配らないので行っても仕方ない、と言っていたのが、運光院(地図の水色のフキダシ)。ホームページがあるようで、「由来・沿革」を見ると、天和二年(1682年)に現在の地に移ったと書いてありますので、黙阿弥の時代もここにあったと思われます。

 隣りの家が清元連中を呼び寄せたのが、「浜町」から(図の黄色のフキダシ)。隅田川の反対側になりますね。今回の舞台では「高輪」と言ってた気がするんですけど、ぽん太の勘違いか?

 幸兵衛に一円と赤子の着物をくれた荻原良作が住んでいたのが「油堀」。地図の紫色の印のところの高速道路の下を流れ、隅田川につながっておりました。本当は十五間川という名ですが、通称油堀とよばれ、この周囲も同じ名で呼ばれていたそうです。萩原邸がどこにあったのかは不明。

 目の不自由なお雪が一円もらったのが万年橋(地図のピンクのフキダシ)。東西一直線に走る細い川が「小名木川」(おなきがわ)です。北斎の「富岳三十六景」の「深川万年橋下」は有名で、美しいアーチ型の橋ですが、水運の船の通行を妨げないためだったそうです。また、広重も「江戸百景」にも「深川万年橋」があります。欄干に亀が吊るされ、その向こうにやはり富士山が見えます。この亀は売り物ですが、家で飼うわけではなく、買いとって川に放すのです(放し亀)。功徳を積むための宗教儀式ですね。

 お百の台詞「然も今日も茶粥腹で、おなかゞ余程北山だ」。なんだこりゃ。Yahoo!辞書によると、「お腹が空いた」ことを「腹が来た」といい、「来た」にかけて「腹が北山」などというそうです。

 金貸し金兵衛とともにやってきた代言人茂栗安蔵が、幸兵衛を「勧解に訴える」と脅します。Wikipediaによれば、勧解とは、和解を目的とする民事裁判の制度で、日本では明治8年(1875年)に導入され、明治23年(1890年)に廃止されたとのこと。

 幸兵衛に変わってお金と着物を取り戻しに行く差配人与兵衛。「差配人」って……大家のことか(→こちら)。

 隣りの家から聞こえて来る清元「風狂川辺の芽柳」(かぜくるうかわべのめやなぎ)のなかの詞章、「〽通し矢数に名の高き三間堂も墓所(むしょ)となり」。Wikipediaによれば、元禄14年(1701年)、深川の富岡八幡宮の東側に三十三間堂が移設されました。京都の三十三間堂を模して作られ、通し矢も行われました。明治5年(1872年)に廃されて壊されたそうです。図の青いピンの位置に、南北に長く建っていたようです。お堂が壊された跡が、お墓になっていたのでしょうか?

 「〽親子は一世いつの世に、大智稲荷の逢うことも」。大智稲荷は、「砂村疝気稲荷」として江戸時代から信仰を集めていたようです(地図の赤いピン)。東京大空襲により消失し、その後昭和42年(1967年)に千葉県習志野市谷津に移転したようです。

 船弁慶との関係については、以前の記事に書いたので省略。

 幸兵衛が、訪ねてきた萩原妻おむらが子供を奪いにきたと思い込んで、「この頃子供を取られると、世間でいうのはこの鬼だな、いでや渡辺源次綱が、子供を取る鬼を退治してくれん」。渡辺源次綱は源頼光に使えた四天王の一人で、平安中期の武将。京都の一条戻り橋の上で、鬼女の腕を切り落とした逸話が伝わっております。しかしこの鬼女は、子供を奪ったりはしません。子供を誘拐したのは酒呑童子の一味ですから、大江山の酒呑童子退治の話しを引いているのかもしれません。

 「水天宮利生深川」の最後の場は、筋書きでは「海辺河岸身投げの場」となっております。原作を読むと「海辺橋辺河岸」というト書きがありますから、この「海辺」というのは海の近くという意味ではな、海辺橋のことのようです。海辺橋は仙台堀川にかかる橋の名前です(地図の緑のピン)。

 最後に幸兵衛が巡査に、自分の住所を伝えておりました。「深川山本町364番地」です。深川山本町は地図の水色のピンのあたり、縦長にあった町です。こちらのgoo地図の「明治」をクリックしてみてください。今回の舞台では、なぜか「千歳町360番地」と言っていたような気がします。

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