【歌舞伎自由研究】「盟三五大切」(2)<二軒茶屋の場〜大詰>
「盟三五大切」を読みながら、出て来る表現やゆかりの地名を調べております。テキストは引き続き『鶴屋南北全集 第4巻』(三一書房、1972年)。
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まず「二軒茶屋の場」。前回も参照した「落語の舞台を歩く」というサイトによれば、富岡八幡宮の周辺の「仲町」は、深川七場所のうちで最も賑わっていたところだそうです。
富岡八幡宮の境内に伊勢屋と松本という二軒の有名な茶屋があり、「二軒茶屋」と呼ばれていたそうです。「盟三五大切」で源五兵衛がお金をだまし取られた舞台が、まさにこの「伊勢屋」ですね。八幡宮の敷地内の北東にある、横綱力士碑のあたり(地図の緑色の印あたり)が伊勢屋があったところです。左の写真はぽん太が訪れたときのものですが、撮っている位置あたりが伊勢屋。向こう(北側)に見える小学校のあたりが「松本」があったところだそうです。
伴右衛門「当時は浪人、編笠に高砂やアの口では、なアに身共に歯が立つものか」……「編笠に高砂や」というのは、ぽん太にはわかりません。
続いて「五人切の場」。内びん虎造の家のようですが、ここはいったいどこでしょう。ヒントとなるのは、「四谷鬼横町の場」で、三五郎の引っ越し先を訪ねてきた源五兵衛に対して、三五郎が「この間十二軒での」と、五人切事件に言及している点。また、『鶴屋南北全集』での虎造の役名は、「十二軒の内びん虎造」となっております。
こちらの有峰書店新社|歴史散歩道のページを見ると、深川の櫓下(やぐらした)に十二軒ほどの芸者の置屋が軒を並べていたと書いてあります。ところがこのサイトでは、その場所は「江東区富岡一丁目の一部」と書いてあります。しかし「落語の舞台を歩く」のサイトによれば、火の見櫓があったのは、門前仲町2丁目あたりです。「歴史散歩道」の記載は、深川の岡場所全体を指しているようにも思えます。どうも「十二軒」が何を指しているのかはっきりしません。
『鶴屋南北全集』では、「二軒茶屋の場」の最後で、三五郎が虎造の家のことを「自身番横町の松虎の内」と読んでます。「自身番横町」というのがどこにあるのが、ググっても古地図を見てもわからないのですが、自身番の多くに梯子や小さな火の見やぐらが付けられていた(Wikipedia)ということを考えると、やはり「櫓下」から「裾継」あたり(図の紫の印)だったのかもしれません。左の写真は、そのあたりの現在の風景です。ところでこの台詞、「松虎」と言ってますが、役名は先ほど書いたように「十二軒の内びん虎蔵」。『全集』によれば、初演時の役者が「松本虎蔵」だったようです。
判人長八「おいらもその一件では、友達のよしみに判人の真似をして、築地丸むきでやらかしたワ」……「築地丸むき」というのはぽん太には意味不明です。
虎造に染五郎に似ていると言われて、伴右衛門「あんな奴に似て、おたまりこぼしがあるものか」……「おたまり」(御溜まり)=我慢すること、耐えること。「起き上がり小法師」に語呂をあわせて、「おたまりこぼし」(御溜まり小法師)と言うそうな(goo辞書)。
皆々「イヨイヨ、三五大切さま、大切さま」、虎蔵「モシモシ、大切さまは、葛飾の柴又ではねえか」……「大切さま」は「帝釈さま」の洒落でしょうか。
長八「コレ、よまぬ同士かゝぬ同士で、鶩でも追ひに行こうか」……「同士」は「どし」と読むようです。「読まぬ同士書かぬ同士」で検索すると、魯文の「安愚楽鍋」用例がひっかかりますが、意味は不明。「文盲の仲間、就学前の幼い子ども仲間」と書いてあるサイトあり(exibition)。「鶩でも追いに行く」は、文脈から考えて「女郎を買いに行く」ことだと思います。先にリンクした「落語の舞台を歩く」のページによれば、牡丹2丁目から3丁目あたりの「佃」と呼ばれた岡場所は、俗に「あひる」と呼ばれたとのことで、関係あるかも。
続いて「四谷鬼横町の場」。「東海道四谷怪談」で伊右衛門とお岩さんが住んでた家という設定です。こちらの東京商工会議所新宿支部発行四谷探訪マップによると、東京都新宿区左門町の四谷警察署のやや南を左右に走る路地が「鬼横町」となっております(上の地図の水色の印)。こちらの住宅情報館寿屋のページでは、「鬼横町」の所在地は同じですが、「鬼横町」=「左門殿横町」と書いてあります。江戸切絵図を見てみると、「於岩イナリ」のある南北の通りのひとつ西の通りが、「左門ドノヨコ丁」となっており、「於岩イナリ」のやや北の東西の路地に「ヲニヨコ丁」と書かれています。そこでぽん太の意見としては、「鬼横町」≠「左門殿横町」=「外苑東通り」であるとしたいと思います。
ますます坊主「ふざけるふざける、ふざけの虫や赤蛙」……Yahoo!辞書に、洒落本・辰巳婦言(1789年)宵立の部の「ああ、ふさいだふさいだ、ふさきの虫や赤蛙だおれも」という用例が載っております。こちらの読売新聞のyomiDr.には、「地方によっては、疳の虫を抑えるために、孫太郎虫や赤蛙を用いるところがありました。孫太郎虫は、ヘビトンボの幼虫をゆでて串刺しにして乾燥させたものです。赤蛙は、江戸(東京)では生きたまま、関西では内臓を抜いて串刺しにして干したものを、行商人が売り歩いていました」と書いてあります。上の用例は、商人の売り声かもしれません。
ますます坊主「イヤア、掃溜めへ入って犬と一座は、恐れ久松、ますます、ますます」……もちろん「お染久松」と「恐れ入った」の洒落ですね。
三人「そうサそうサ、幽霊を買うには湯灌場を借りねばなりますまい」……「湯灌場」(ゆかんば)=遺体を洗い浄める場所(goo辞書)。
夜番太郎七「それだといって、川はこざりやせんよ」、小万「氷川という川があるぢやアねえかえ」、三五郎「鮫ヶ橋という素的な橋もあらう。それでも川は無いか」、太郎七「川はござりやせぬ」、三五郎「洗垢離はどこでとる」、太郎七「井戸端でサ」……四谷で船宿をやるという三五郎が、近くに川はないと言われ、「川」や「橋」のつく地名を言い返す場面。「氷川」は、赤坂の「氷川神社」の「氷川」でしょうか。鮫ヶ橋というのは、地図の桃色の印のあたりで、goo地図の江戸切絵図にも出ています。ちなみにこのあたりは後に「鮫河橋」という地名になりましたが、明治から昭和初期にかけてスラムがあったそうです(鮫河橋と呼ばれるスラムがあった|東京街歩き)。「洗垢離」(せんごり)とは、いわゆる水垢離のことで、水で体を洗い浄めることですが、こちらのサイト(落語「大山詣り」の舞台を歩く)によれば、洗垢離は江戸の名物のひとつで、隅田川には両国水垢離場があったそうです(地図の青いピン)。深川の三五郎は、川で水垢離もできないことを、馬鹿にしているのでしょう。
小万「アヽモシ、そのような化け物の出る内へ、引移つてもようござんすかえ」、三五郎「よくなくつて、そこは又、「鎌わ奴」を始めたおれだワ」……「鎌輪奴」は元禄(1688~1704)のころに町奴(まちやっこ)の間で流行した着物の柄。七代目市川團十郎(寛政3年(1791年) - 安政6年(1859年))が好んで着用して人気を博しました。「盟三五大切」の初演時に三五郎を演じたのが、七代目市川團十郎のので、「「鎌わ奴」を始めたおれだワ」と言っています。
三五郎と小万は食事にしようということになるけれど、引っ越しの最中に割ってしまって茶碗がひとつしかありません。それを聞いた三五郎「さうか。そんなら茶をかけて食ひ廻しにしよう。茶漬茶碗は廻しを取ったな」……「廻しを取る」と言っても、相撲を取るわけではありません。遊郭で花魁が一晩に複数の客を取ることを「廻しを取る」と言ったそうです。こちらに詳しく書いてあります(落語「五人廻し」の舞台を歩く)。
源五兵衛が立ち去ったあと、三五郎が塩をまきながら「七里けっぱい、七里けっぱい」……「七里結界」のなまった言い方だそうです。
小万「その時のぼく除けには、幽霊がいゝの」……「ぼく除け」=犯罪者や後ろ暗い過去を持つ者が、官憲や世間の目をくらますために営む堅気の稼業や、善隣的行為をいう(Yahoo!辞書)。
幽霊に化けた彌助が正体を現したのを、三五郎が長屋の衆に対してごまかそうとして「モシモシ、ご近所のお方、そりやア間違ひでありやせう。わしが今夜お富士様へ、焚上げをするから、見なさい、このやうに白い衣を来た」……富士山を信仰する富士講では、「お焚き上げ」という火を使った宗教儀式があるのだそうです(山梨県公式観光情報)。
彌助「大星はその気か知らぬが、この頃は稲星が出るはめでたいの」……「稲星」(いなぼし)とは彗星のことで、稲の穂のように見えるのでそう呼ばれたとのこと(Yahoo!辞書)。Wikipediaを見ると、1823年の大彗星に続き、「盟三五大切」が初演された1825年には、ポン彗星が現れました。これが観測されたのは7月18日で、「盟三五大切」の初演は9月ですから、つじつまがあっています。当時は彗星の出現は、めでたいこととされていたんですね。
三五郎「こりやア兄貴の腕には、酒呑童子も及ばざる、その彫り物は渡辺の、アヽ綱ものねえ三ツ星に、一の文字は、古風な下絵サ」……その前の彌助の「酒呑童子」という言葉を引き取ったもの。「三つ星に一文字」は渡辺氏の家紋。渡辺綱(わたなべのつな)は平安中期の武将で、源頼光の四天王のひとりとして、酒呑童子の退治に加わりました。鶴屋南北がなぜここで渡辺紋を使ったのかは、ぽん太はわかりません。
ようやく最後の場の「愛染門院前の場」。四谷にある愛染門院といえば、愛染院のことでしょう(地図の黄色い印)。江戸切絵図にも、現在と同じ位置に愛染院があります。現在は江戸時代の国学者、塙保己一(はなわほきいち)の墓があるそうですが、鶴屋南北の時代は、塙保己一の墓は近くの安楽寺にありました。
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