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2011年4月の7件の記事

2011/04/22

【温泉】鳩ノ湯温泉三鳩楼(★★★)、犬塚の跡碑(長野原町)

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 2泊目は鳩ノ湯温泉三鳩楼にお世話になりました。こちらは吾妻川からやや南にあり、浅間隠温泉郷のひとつです。公式サイトはなさそうなので、地図があるこちらのサイトにリンクしておきます。
Img_3153 白い壁と黒い梁が美しい、落ち着いた木造建築。武家風の格調が感じられます。
Img_3156 宿の看板は中曽根康弘元総理の手になるもの。館内にも書が飾ってありました。
Img_3173 帳場は江戸時代の旅籠の雰囲気があります。写真には写ってませんが、高い天井を支えている太い梁が見事です。
Img_3172 建物は新しいものですが、この鶴の描かれた板戸は歴史を感じさせます。改築する以前のものでしょうか。
Img_3157 こちらが浴室です。お湯は、とにかくぬるめ。半分ふたをしてありますが、それでもぬるいです。ゆっくりと入浴できます。お湯は緑灰色のうすにごりで、褐色のオリがります。なんでもお湯の色は、いろいろと変わるのだそうです。石造りの落ち着いた浴室ですが、改装前の木造の浴室は、秘湯マニアの評価が高かったようです。
Img_3161 こちらが露天風呂。といっても、冬のせいか窓が閉められております。階段を上った所にあり、展望風呂といった趣きで、見晴らしがいいです。湯船は小さめ。
Img_3167Img_3169 こちらは夕食です。なんとなく旅籠風なメニューですね。走りのウドの酢みそ和えがうれしかったです。だんだんと山菜の時期になってきますね。上州らしくうどん付き。
Img_3170 こちらは朝食でございます。
 旅籠風の格式ある雰囲気の旅館で、とても落ち着きます。温泉の泉質はいいけど、ちとぬるいのが残念。食事も旅籠風でちと質素。ということで、ぽん太の総合評価は3点。

Img_3151 スキーからの帰り道に、犬の像を発見。な、なんだこりゃ。さっそくみちくさです。場所は、吾妻川沿いの国道145号線と、草津に向かう国道292号線の交差点です(地図)。傍らに石盤に解説が書いてあるので、アップしておきます。

     建碑由来
 今を去る330年寛文3年沼田の真田藩政の時代に実施されたこの村の御検地水帳に「犬塚」の地名が記載されている。この犬塚の由来はそれ以前の物語である。この地は犬塚峠とも言われ往来する旅人が白根おろしの猛吹雪に遇い街道筋でも冬の難所として伝えられている。
 昔この村に何処からか一匹の迷い犬が来た。村の人達はこれを哀れに思って食物を与えると、犬はとうとう村に居ついてしまった。誰の犬と言うことでなく村の人達の犬となった。ある年のことこの犬は何処へ行ったのか何日過ぎても姿を見せなくなった。もはや二ヶ月余りが過ぎ村の人達も犬を忘れるようになった。ある日の朝早く犬が突然何処からか帰って来た。その吠える声は久々のことで村の人達の眠りを覚ました。村の人達が起きだしてみると犬は天照皇大神の大麻札を背負っていた。大方これは犬が伊勢参宮をしたのだと信じていた。それからこの大麻札を村の丘の上に祀って崇め拝むことを怠らなかった。
 今もそのお宮がある。その犬は村の人達にますます愛されたが何年か後に死んだ。その亡がらを葬ったのが犬塚である。その後街道が開き時代とともに道路拡張、宅地造成などによって地形はすっかり変貌してしまったが、この地は犬塚の「小字名」耕地名として永久に公図に残されている。この地名と由来を永く後世に伝える為にこの碑を建てるものである。
  平成五年九月吉日 建之
       長野原町大津老人クラブ一同
    長野原町老人クラブ連合会会長 ○○○○○撰文
                   ○○○○書

 ふむふむ、大麻札というのは麻薬ではなく、伊勢神宮のお札のことだそうな。

2011/04/21

【温泉】尻焼温泉関晴館(★★★)・笊蕎麦刻(ざるそばとき)【蕎麦】

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 地震前の3月上旬、ぽん太とにゃん子は群馬県の温泉に泊まってスキーに行ってきました。本日紹介する宿は尻焼温泉関晴館、こちらが公式ホームページです。吾妻川から山道を北に向かい、六合村を通り越した山の中にある静かな一軒宿です。ぽん太は約二十年ぶりの再訪です。
Img_3128 こちらが宿の外観です。ほどよくひなびた和風建築です。
Img_3126 猫のお尻です。「何見てんだよバーロー」って怒ってます。中に入りたいのかしら。
Img_3148 ドライフラワーが飾られた玄関ホール。日本秘湯を守る会の会員ですね。内装や客室は簡素です。
Img_3130 こちらが内湯です。源泉掛け流しで、とにかく湯量が豊富です。無色透明のやわらかいお湯で、泉質はカルシウム・ナトリウム-硫酸塩・塩化物温泉とのこと。源泉は54.8度と高いので、少量の加水をして温度を下げてます。
Img_3146 そしてこちらが露天風呂。冬枯れの木立に囲まれて野趣あふれる雰囲気があり、一軒宿ならではの開放感が魅力です。
Img_3134 貸し切りの家族風呂もございます。
Img_3150 尻焼温泉といえば川原の露天風呂。宿から数分のところにあります。川底からお湯が湧き、流れる川そのものが温泉になっております。手を入れてみると、水温(湯温?)は暖かくて入れそうな感じでしたが、とにかく気温が低いので、残念ながら今回は割愛しました。
Img_3136 夕食です。地元の素材を使った素朴でおいしいお料理の数々で、品数も豊富です。ぽん太は大満足。
Img_3139Img_3140 朝食はハート形の目玉焼きがかわいいです。ご飯はうれしい栗ごはん。
 山中の素朴な一軒宿でとても落ち着きます。川湯まであるくらいで湯量も豊富で、ぽん太の評価は4点に近い3点。

Img_3120 宿に来る途中、小諸の駅近くにある笊蕎麦刻(ざるそばとき)でおいしいお蕎麦をいただきました。公式サイトはなさそうなので、食べログにリンクしておきます。写真の奥が「ざる」で手前が「田舎」です。「田舎」はなかなかコシがあり、つゆも甘くはないですが、カツオだしが利いて濃くてしっかりした味です。
Img_3124 こじんまりとした店で、メニューも絞り込まれております。おいしそうな地酒が並んでました。なかなかお勧めです。

2011/04/18

【芭蕉】「月さびよ明智が妻の咄しせん」補遺

 前回のブログで、芭蕉の「月さびよ 明智が妻の咄しせん」という句に触れましたが、みちくさついでに『日本の古典―完訳 (54)芭蕉句集』(井本農一他校注・訳、小学館、1984年)をひもといてみました。

 その脚注によれば、芭蕉を泊めた「又玄」(「ゆうげん」と読むそうです。「またげん」かと思ってた……)さんは、伊勢神宮の御師(おし:参詣者の案内や宿泊などを担当する下級の神職)をしていた島崎味右衛門(御巫権太夫清集:みかなぎごんだゆうきよため)の俳号で、芭蕉門下の俳人なんだそうです。なんと当時15歳で、妻はおそらくさらに年下。又玄が11歳の時に父が死去し、家業が傾いていたにもかかわらず、芭蕉を泊めて世話をしたんだそうです。

 当時46歳であった芭蕉が、若いというよりまだ幼い又玄の妻に、明智光秀の妻の逸話を話し聞かせ、褒めそやし励ましている様子が目に浮かんできます。

 ということは当時、「明智が妻の咄し」は、芭蕉の句を読むような人たちは皆知ってるけど、十代前半の女性は知らないような話しだったのでしょうか。

 さらに脚注によれば、生計のために明智光秀の妻が髪を売った話しは、『太閤記』(小瀬甫庵(おぜほあん)著、寛永3年(1626年)頃)に書かれているそうです。また大田南畝(寛延2年(1749年)〜文政6年(1823年))は『一話一言』の巻15で、元禄頃の人の随筆から抄出した話しとして「○光秀の事」を記したそうです。光秀は朝倉義景に使えていましたが、感ずるところがあって辞任し、越前と美濃の境の柳が瀬の名主の元に滞在して、昔の侍仲間などを相手に連歌などをして暮らしていたそうです。あるとき自宅で会を開こうとして、そのもてなしを妻に言いつけましたが、自分たちの食べ物さえない状態だったので、髪を切ってお金に換えて支度をした、という話しだそうです。

 

 話しは変わりますが、東京の江東区には「深川芭蕉庵跡」という史跡があります。例えばこちらのサイトが詳しいですが、深川の芭蕉庵があったところは、その後、紀伊殿の武家屋敷となり、現在では正確な位置がわかりません。しかし、大正6年(1917年)に「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土したため、大正10年(1921年)に東京府はこの地を「芭蕉翁古池の跡」に指定したそうです。現在は芭蕉稲荷神社として祀られており、また近くには平成7年(1995年)、芭蕉記念館が作られております。

 調べてみると、芭蕉庵というのは3回作られたようです。まず最初は延宝8年(1680年)の冬で、新進気鋭の宗匠として頭角を現していた芭蕉は、突然その地位を捨てて深川の草庵に移り、風狂の世界を目指します。しかしこの庵は1682年(天和2年)の大火で類焼し、芭蕉は甲斐国都留郡谷村(やむら)に赴き滞留します。焼失した草庵は、天和3年(1683年)に、もとあったところの近くに再建されたそうです。元禄2年(1689年)、芭蕉は有名な奥の細道の旅に出ますが、この折に草庵を他人に譲渡したようです。元禄5年(1692年)、杉風、枳風によって三代目の芭蕉庵が完成しました。元禄7年(1694年)にこの庵から旅に出た芭蕉は、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残してこの世を去りました。

 

 話しは変わりますが、ぽん太が大月周辺で登山をしたあとよく利用する日帰り温泉に、芭蕉月待ちの湯があります。これまで漠然と、「へ〜、このあたりに芭蕉が住んでたのか」と思ってましたが、初代芭蕉庵が焼失したあとに芭蕉が移り住んだ甲斐国谷村が、ここだったんですね。このサイトによれば、滞在先は門人であった秋元家の家老高山伝衛門宅で、芭蕉は「名月の夜やさぞかしの宝池山」という句を残したと伝えられているそうです。

 しかし、この句はなんかできがよくないし、芭蕉のすべての発句を、疑わしいものまで含めて納めているという『芭蕉俳句集』(中村俊定校注、岩波書店、1970年)にも収録されていないのが、ちと残念なところ。

 芭蕉は時期によって作風や心境が変わったそうですが、不案内なぽん太にはちっともわかりません。このあたりも理解したいものですが、それはまたの機会にみちくさを。

2011/04/11

【現存天守】丸岡城、新田義貞の墓(称念寺)

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 2月上旬、越前かにを満喫したぽん太とにゃん子は、福井県の丸岡城をみちくさしました。
 丸岡城は、日本に12しかない現存天守のひとつで、しかも現存天守のなかでは最古のものだそうです。公式サイトはなさそうなので、坂井市丸岡観光協会公式サイトのページにリンクしておきます。
Img_3080 現存天守とは、江戸時代以前に造られた天守閣が現在まで残っているものです。それ以外のものは熊本中のような復元天守であったり、テッコンキンクリート造りの大阪城のような復興天守であったり、とりあえず造ってみた模擬天守であったりします。ヨーロッパなどを旅行すると、あちこちに古城が残っていますが、うらやましいかぎりです。日本もあちこちに古城が残っていたら、なんか楽しかったのに。石造りの西洋のお城と違って日本のお城が木造であることや、徳川家康の一国一城令で多くの城が廃城になったことが影響しているのでしょう。
Img_3092 2階に登る急な階段です。丸岡城は、厳密にいうと、昭和23年(1948年)の福井地震で倒壊してしまい、昭和30年(1955年)に修復再建されました。以前は国宝でしたが、現在は重要文化財なのが残念です。
Img_3086 2階です。丸岡城の築城は、天正4年(1956年)。大河ドラマ「江」に出てきた柴田勝家は、天正3年(1575年)の北陸攻めの功績が認められ、越前之国の守護職に任ぜられ、北ノ庄に城を築きました(柴田勝家と鈴木保奈美(お市)が自害した城ですね)。同年、勝家の甥の勝豊は豊原城を築きましたが、翌天正4年(1576年)に丸岡城を築いてここに移りました。
Img_3081 最上階からの眺めです。絶景かな、絶景かな。
 一番上の写真の石垣の手前に石碑が写っておりますが、有名な「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という手紙文が刻まれております。この「お仙」が、丸岡城6代目城主の本多成重だそうです。

Img_3096 丸岡町の観光案内を見ていてたら、新田義貞の墓があると知り、訪れてみました。場所は称念寺、こちらが公式サイトです。
Img_3098 こちらが称念寺のなかにある、新田義貞の墓所です。新田義貞といえば、群馬県で生まれ、ぽん太の棲息する多摩の分倍河原で鎌倉軍と戦ったはずですが、福井県で死んだとは知りませんでした。なんか最後は北陸方面に逃げて行き、延元3年/建武5年(1338年)に戦死したらしいです。このあたりの歴史はぽん太はよくわからん。NHK様、大河ドラマで幕末と戦国時代ばかりでなく、ぜひ室町も取り上げてください。
Img_3099 こちらがお墓ですね。そういえば歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」は、舞台を室町時代に設定しておりますが、大序は「兜改めの場」と呼ばれ、戦利品の兜のなかから新田義貞の兜を探し出すという話しです。この兜は福井市の藤島神社にあるそうで、重要文化財に指定されているとのこと。ところがこの兜、明暦2年(1656年)にお百姓さんが水田から掘り出したものだとのこと。これはなんだか面白そうですが、今回はみちくさはやめておきましょう。
Img_3100 お寺の案内板です。これによれば、明智光秀が永禄5年(1562年)にこの寺を訪れ、門前に寺子屋を開いたそうです。そして後にこの寺を訪れた松尾芭蕉は、「月さびよ 明智が妻の咄せむ」と詠んだそうです。
 ぽん太は、芭蕉といえば『奥の細道』ぐらいしか知らないのですが、この句は出てないようです。ぐぐってみると、こちらの明智が妻の話|芭蕉文集というサイトに出てました。引用させていただくと

将軍明智が貧のむかし、連歌会いとなみかねて、侘びはべれば、その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ。明智いみじくあはれがりて、「いで君、五十日のうちに輿にものせん」と言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。
                  ばせを
    月さびよ明智が妻の話せむ
又玄子妻に参らす
(真蹟懐紙)
 ぽん太が自由にタヌキ語約すれば、「明智光秀が以前に貧しかった頃、連歌会を主宰するためのお金がなくて困っていたところ、妻が密かに自分髪を切って売り、会の費用に充てた。光秀はたいへん感激して「ああお前、俺は出世して50日以内にお前を輿に乗せてやる」と言ったが、やがてその通りになった。『月よ、しみじみと照らしてくれ。明智光秀の妻の話しをしようと思うのだ』 又玄の妻に送る」。
 「真蹟懐紙」というのは、何でしょう。そういう名前の句集があるのか、芭蕉が懐紙に自ら書いて送ったものをいうのか、そういうものを後に集めたものなのか、さっぱりわかりません。
 芭蕉の弟子の路通がまとめた句集「俳諧勧進牒」では、次のように書かれています。
伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻、髪を切りて席をまうけられし心ばせ、今更申し出でて、
    月さびよ明智が妻の咄しせむ
       (俳諧勧進牒)
 タヌキ語訳、「伊勢の国の又幻さんの家に泊まったとき、奥さんも又幻さんと同じ気持ちで細かく気を使ってくれたので、旅の不安がやわらいだ。あの明智光秀の妻が、髪を切って人をもてなした気持ちが今更ながら思い出されたので」。元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は伊勢に参拝の折に又幻さんの家に泊まり、そのときに詠んだ句だそうです。
 振り返って称念寺の案内を考えてみると、芭蕉が称念寺を訪れた時にこの句を詠んだと書いてありますが、なんか根拠はあるのでしょうか?明智光秀が門前で寺子屋を開いたというのもホントかどうかわからないし、また奥さんが髪を切ったという逸話それ自体がホントかどうか、その逸話が寺子屋を開いていた時期なのかなど、さまざまな疑問が湧いてきます。結局このあたりは、信じるも信じないもあなた次第です、といったところでしょうか。いずれにせよ元禄時代には、光秀の妻の逸話は多く人の口に上っていたようです。
 光秀の妻が髪を切った話しといえば、歌舞伎の『時今也桔梗旗揚』(ときはいまききょうのはたあげ)が頭に浮かびます。四世鶴屋南北が文化5年(1808年)に作ったこの歌舞伎は、武智光秀(明智光秀)が小田春長(織田信長)を本能寺で討つまでを描いた狂言です。「馬盥の場」は、春長が光秀に馬盥(ばだらい。馬を洗うための大きなたらい)で酒を飲ませるという場面ですが、さらに光秀の妻皐月の切髪を、満座のなかで光秀に与えて、屈辱を加えます。ぽん太はこの意味がよくわからなかったのですが、この逸話を踏まえていたんですね。

2011/04/03

【温泉】野沢温泉「民宿いけしょう」(★★★★)、外湯(真湯・上寺湯・熊の手洗湯)

Img_3066 野沢温泉も何回か来ているところですが、温泉もスキー場も何度来てもいいです。今回は、「民宿いけしょう」さんにお世話になりました。
Img_3068 築130年以上の古民家を改築した宿だそうです。写真は裏手から見た図です。屋根が茅葺きでないのが残念ですが、葺き替えの費用と維持する手間を考えると、いたしかたありません。
Img_3036 こちらは、今回泊まった1階の部屋。内装は古材を生かしてきれいに改装されております。細かく造り込まれた、格調高い部屋です。
Img_3061 2階の廊下です。高い天井、曲がりくねった梁がおもしろく、民芸調な雰囲気がします。翌日お客さんがチェックアウトしたあと、2階の客室も見せていただきましたが、やはり曲がりくねった梁がむき出しになっていて、まるで現代芸術を見ているかのようでした。
 改築を手がけたのは、こちらの降幡建築設計事務所のようです。
Img_3052 夕食は、囲炉裏のあるお部屋でいただきます。太い梁、漆が塗ってあるのか黒光りする板戸に風格を感じます。
Img_3049 夕食は、ほうれん草の肉巻きなど、洋も入ったお料理です。豪華ではありませんが、素朴で心温まります。とてもおいしかったので、料理の解説などもあるとうれしいのですが。
Img_3054 朝食です。メインは豆腐ハンバーグ(?)。ヘルシーでおいしゅうございました。

Img_3040 さて、民宿いけしょうさんは、厳密に言うと「温泉」ではありません。というか、客用の内湯はありません。でも、野沢温泉に行ったことがある人ならご存知のように、あちこちに外湯があるので大丈夫。「温泉街は浴衣で歩くものだ」という信念のぽん太とにゃん子は、浴衣にどてらをまとい、首手ぬぐいで雪の中を外湯へ。途中で完全武装のボーダーとすれ違ったりすると、シュールな絵柄です。
Img_3038 緑灰色のお湯に、まるでヒジキのような黒くて細長い湯の花が舞う不思議なお湯です。
Img_3046 こちらは上寺湯。宿のすぐ前です。
Img_3043 こちらは透明なお湯に、白い湯の花です。いろいろな泉質が楽しめるのも、野沢温泉の魅力のひとつですね。
Img_3060 こちらは熊の手洗湯です。
Img_3058 透明なお湯に微かな白い湯の花。湯船がふたつあり、ひなびた雰囲気が心地よいです。
 民宿いけしょうさんは、古民家を改築した建物がすばらしく、野沢温泉の温泉力も加わって、お値段は1泊8,700円から。ぽん太の評価はかなり高く、5点に近い4点です。

2011/04/02

【温泉・蕎麦】渋温泉湯本旅館(★★★★)・外湯(竹の湯、大湯)・蕎麦にしむら(富士見)

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 2月上旬のことですが、ぽん太とにゃん子は、長野でスキーをして、北陸で越前がにを食すという旅行をしてきました。
 1日目のお宿は、長野県の渋温泉湯本旅館です。古い木造旅館が建ち並ぶ、どこかなつかしい温泉街が魅力の渋温泉。ぽん太は3回目の宿泊となりますが、今回は湯本旅館を選びました。大正ロマンあふれる木造3階建ての宿です。こちらが公式サイトです。
Img_3002 内装も、一部に古びたところや、新しくしてしまったところもあるものの、古風で趣きがあります。
Img_3020 客室は、落ち着いた雰囲気の和室です。
Img_3018 お風呂は、男女別の内湯と、貸し切り露天風呂があります。写真は男湯です。木を使用して暖かみが感じられますが、浴室の真ん中に構造上の太い柱があったりして、ちょっと圧迫感があります。お湯は無色透明で、褐色の湯の花が舞います。泉質は単純泉。もちろん源泉掛け流しで、湯量は豊富です。
Img_3000 こちらが貸し切りの露天風呂。貸し切りにしてはかなり広いです。周囲が建物に囲まれているのは、密集した温泉街ではいたしかたないところ。内湯と泉質が違うようで、薄褐色ににごっており、なめると甘塩っぱいです。泉質は硫酸塩泉とのこと。こちらも源泉掛け流しで、どちらも宿の敷地内に源泉があるんだそうです。
Img_3026 二種類の泉質の温泉を楽しんだあとは、いよいよ夕食。部屋食でいただきます。なかなか豪華で、手の込んだお料理です。中央のカップの上にお饅頭がのっかってるみたいなのは、和風のパイ包みスープで、とてもおいしかったです。お蕎麦をブロック状に固めた前菜は、「松代よせ」というものだそうです。どちらも生まれて初めていただきました。
Img_3025 こちらはお鍋の具材の信州牛と地元の野菜、茶碗蒸し、そしてフグの唐揚げです。フグ唐がなかなかおいしかったです。
Img_3027 じゃがいも饅頭とお吸い物、デザートです。暖かい状態で次々と出てきます。お食事は焼きおにぎりのお茶漬けで、香ばしくておいしかったです。
Img_3029 こちらは朝食です。そば切り、そばがき、そばの実をお鍋の出汁で雑炊風にいただくお料理は、まさに蕎麦三昧。おいしゅうございました。
 レトロな雰囲気がある渋温泉の大正ロマンあふれる宿。食事も魅力で、ぽん太の評価は4点です。

Img_3006 渋温泉といえば、外湯巡りは外せません。こちらは竹の湯。
Img_3005 木製のこじんまりした浴槽。お湯は無色透明でした。
Img_3034 こちらは大湯です。こちらは灰白色のお湯でした。大湯の隣りが湯本旅館です。

Img_2999 こんかい渋温泉に来る道すがら、中央道の小淵沢I.C.と南諏訪I.C.の間あたりの、長野の富士見にある「蕎麦にしむら」でおいしいお蕎麦をいただきました。お店のホームページはなさそうなので、富士見町のサイトにリンクしておきます(→こちら)。場所は富士見郵便局の裏手あたりになりますが、細い道沿いでわかりにくいので、地図をよく拡大して確認して行ってください。
Img_2994 店内にはジャズがながれ、片隅には薪ストーブがあり、オシャレな雰囲気です。
Img_2995 麺はほどよいそば粉の香りがし、やや弾力のある歯ごたえです。蕎麦つゆはカツオ出汁のしっかりとした味ですが、甘くはありません。おいしゅうございました。

2011/04/01

【歌舞伎自由研究】「盟三五大切」(2)<二軒茶屋の場〜大詰>

 「盟三五大切」を読みながら、出て来る表現やゆかりの地名を調べております。テキストは引き続き『鶴屋南北全集 第4巻』(三一書房、1972年)。

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 まず「二軒茶屋の場」。前回も参照した「落語の舞台を歩く」というサイトによれば、富岡八幡宮の周辺の「仲町」は、深川七場所のうちで最も賑わっていたところだそうです。
Img_3108 富岡八幡宮の境内に伊勢屋と松本という二軒の有名な茶屋があり、「二軒茶屋」と呼ばれていたそうです。「盟三五大切」で源五兵衛がお金をだまし取られた舞台が、まさにこの「伊勢屋」ですね。八幡宮の敷地内の北東にある、横綱力士碑のあたり(地図の緑色の印あたり)が伊勢屋があったところです。左の写真はぽん太が訪れたときのものですが、撮っている位置あたりが伊勢屋。向こう(北側)に見える小学校のあたりが「松本」があったところだそうです。
  伴右衛門「当時は浪人、編笠に高砂やアの口では、なアに身共に歯が立つものか」……「編笠に高砂や」というのは、ぽん太にはわかりません。

 続いて「五人切の場」。内びん虎造の家のようですが、ここはいったいどこでしょう。ヒントとなるのは、「四谷鬼横町の場」で、三五郎の引っ越し先を訪ねてきた源五兵衛に対して、三五郎が「この間十二軒での」と、五人切事件に言及している点。また、『鶴屋南北全集』での虎造の役名は、「十二軒の内びん虎造」となっております。
 こちらの有峰書店新社|歴史散歩道のページを見ると、深川の櫓下(やぐらした)に十二軒ほどの芸者の置屋が軒を並べていたと書いてあります。ところがこのサイトでは、その場所は「江東区富岡一丁目の一部」と書いてあります。しかし「落語の舞台を歩く」のサイトによれば、火の見櫓があったのは、門前仲町2丁目あたりです。「歴史散歩道」の記載は、深川の岡場所全体を指しているようにも思えます。どうも「十二軒」が何を指しているのかはっきりしません。
Img_3115 『鶴屋南北全集』では、「二軒茶屋の場」の最後で、三五郎が虎造の家のことを「自身番横町の松虎の内」と読んでます。「自身番横町」というのがどこにあるのが、ググっても古地図を見てもわからないのですが、自身番の多くに梯子や小さな火の見やぐらが付けられていた(Wikipedia)ということを考えると、やはり「櫓下」から「裾継」あたり(図の紫の印)だったのかもしれません。左の写真は、そのあたりの現在の風景です。ところでこの台詞、「松虎」と言ってますが、役名は先ほど書いたように「十二軒の内びん虎蔵」。『全集』によれば、初演時の役者が「松本虎蔵」だったようです。
 判人長八「おいらもその一件では、友達のよしみに判人の真似をして、築地丸むきでやらかしたワ」……「築地丸むき」というのはぽん太には意味不明です。
 虎造に染五郎に似ていると言われて、伴右衛門「あんな奴に似て、おたまりこぼしがあるものか」……「おたまり」(御溜まり)=我慢すること、耐えること。「起き上がり小法師」に語呂をあわせて、「おたまりこぼし」(御溜まり小法師)と言うそうな(goo辞書)。
 皆々「イヨイヨ、三五大切さま、大切さま」、虎蔵「モシモシ、大切さまは、葛飾の柴又ではねえか」……「大切さま」は「帝釈さま」の洒落でしょうか。
 長八「コレ、よまぬ同士かゝぬ同士で、鶩でも追ひに行こうか」……「同士」は「どし」と読むようです。「読まぬ同士書かぬ同士」で検索すると、魯文の「安愚楽鍋」用例がひっかかりますが、意味は不明。「文盲の仲間、就学前の幼い子ども仲間」と書いてあるサイトあり(exibition)。「鶩でも追いに行く」は、文脈から考えて「女郎を買いに行く」ことだと思います。先にリンクした「落語の舞台を歩く」のページによれば、牡丹2丁目から3丁目あたりの「佃」と呼ばれた岡場所は、俗に「あひる」と呼ばれたとのことで、関係あるかも。

 続いて「四谷鬼横町の場」。「東海道四谷怪談」で伊右衛門とお岩さんが住んでた家という設定です。こちらの東京商工会議所新宿支部発行四谷探訪マップによると、東京都新宿区左門町の四谷警察署のやや南を左右に走る路地が「鬼横町」となっております(上の地図の水色の印)。こちらの住宅情報館寿屋のページでは、「鬼横町」の所在地は同じですが、「鬼横町」=「左門殿横町」と書いてあります。江戸切絵図を見てみると、「於岩イナリ」のある南北の通りのひとつ西の通りが、「左門ドノヨコ丁」となっており、「於岩イナリ」のやや北の東西の路地に「ヲニヨコ丁」と書かれています。そこでぽん太の意見としては、「鬼横町」≠「左門殿横町」=「外苑東通り」であるとしたいと思います。
 ますます坊主「ふざけるふざける、ふざけの虫や赤蛙」……Yahoo!辞書に、洒落本・辰巳婦言(1789年)宵立の部の「ああ、ふさいだふさいだ、ふさきの虫や赤蛙だおれも」という用例が載っております。こちらの読売新聞のyomiDr.には、「地方によっては、疳の虫を抑えるために、孫太郎虫や赤蛙を用いるところがありました。孫太郎虫は、ヘビトンボの幼虫をゆでて串刺しにして乾燥させたものです。赤蛙は、江戸(東京)では生きたまま、関西では内臓を抜いて串刺しにして干したものを、行商人が売り歩いていました」と書いてあります。上の用例は、商人の売り声かもしれません。
 ますます坊主「イヤア、掃溜めへ入って犬と一座は、恐れ久松、ますます、ますます」……もちろん「お染久松」と「恐れ入った」の洒落ですね。
 三人「そうサそうサ、幽霊を買うには湯灌場を借りねばなりますまい」……「湯灌場」(ゆかんば)=遺体を洗い浄める場所(goo辞書)。
 夜番太郎七「それだといって、川はこざりやせんよ」、小万「氷川という川があるぢやアねえかえ」、三五郎「鮫ヶ橋という素的な橋もあらう。それでも川は無いか」、太郎七「川はござりやせぬ」、三五郎「洗垢離はどこでとる」、太郎七「井戸端でサ」……四谷で船宿をやるという三五郎が、近くに川はないと言われ、「川」や「橋」のつく地名を言い返す場面。「氷川」は、赤坂の「氷川神社」の「氷川」でしょうか。鮫ヶ橋というのは、地図の桃色の印のあたりで、goo地図の江戸切絵図にも出ています。ちなみにこのあたりは後に「鮫河橋」という地名になりましたが、明治から昭和初期にかけてスラムがあったそうです(鮫河橋と呼ばれるスラムがあった|東京街歩き)。「洗垢離」(せんごり)とは、いわゆる水垢離のことで、水で体を洗い浄めることですが、こちらのサイト(落語「大山詣り」の舞台を歩く)によれば、洗垢離は江戸の名物のひとつで、隅田川には両国水垢離場があったそうです(地図の青いピン)。深川の三五郎は、川で水垢離もできないことを、馬鹿にしているのでしょう。
 小万「アヽモシ、そのような化け物の出る内へ、引移つてもようござんすかえ」、三五郎「よくなくつて、そこは又、「鎌わ奴」を始めたおれだワ」……「鎌輪奴」は元禄(1688~1704)のころに町奴(まちやっこ)の間で流行した着物の柄。七代目市川團十郎(寛政3年(1791年) - 安政6年(1859年))が好んで着用して人気を博しました。「盟三五大切」の初演時に三五郎を演じたのが、七代目市川團十郎のので、「「鎌わ奴」を始めたおれだワ」と言っています。
 三五郎と小万は食事にしようということになるけれど、引っ越しの最中に割ってしまって茶碗がひとつしかありません。それを聞いた三五郎「さうか。そんなら茶をかけて食ひ廻しにしよう。茶漬茶碗は廻しを取ったな」……「廻しを取る」と言っても、相撲を取るわけではありません。遊郭で花魁が一晩に複数の客を取ることを「廻しを取る」と言ったそうです。こちらに詳しく書いてあります(落語「五人廻し」の舞台を歩く)。
 源五兵衛が立ち去ったあと、三五郎が塩をまきながら「七里けっぱい、七里けっぱい」……「七里結界」のなまった言い方だそうです。
 小万「その時のぼく除けには、幽霊がいゝの」……「ぼく除け」=犯罪者や後ろ暗い過去を持つ者が、官憲や世間の目をくらますために営む堅気の稼業や、善隣的行為をいう(Yahoo!辞書)。
 幽霊に化けた彌助が正体を現したのを、三五郎が長屋の衆に対してごまかそうとして「モシモシ、ご近所のお方、そりやア間違ひでありやせう。わしが今夜お富士様へ、焚上げをするから、見なさい、このやうに白い衣を来た」……富士山を信仰する富士講では、「お焚き上げ」という火を使った宗教儀式があるのだそうです(山梨県公式観光情報)。
 彌助「大星はその気か知らぬが、この頃は稲星が出るはめでたいの」……「稲星」(いなぼし)とは彗星のことで、稲の穂のように見えるのでそう呼ばれたとのこと(Yahoo!辞書)。Wikipediaを見ると、1823年の大彗星に続き、「盟三五大切」が初演された1825年には、ポン彗星が現れました。これが観測されたのは7月18日で、「盟三五大切」の初演は9月ですから、つじつまがあっています。当時は彗星の出現は、めでたいこととされていたんですね。
 三五郎「こりやア兄貴の腕には、酒呑童子も及ばざる、その彫り物は渡辺の、アヽ綱ものねえ三ツ星に、一の文字は、古風な下絵サ」……その前の彌助の「酒呑童子」という言葉を引き取ったもの。「三つ星に一文字」は渡辺氏の家紋。渡辺綱(わたなべのつな)は平安中期の武将で、源頼光の四天王のひとりとして、酒呑童子の退治に加わりました。鶴屋南北がなぜここで渡辺紋を使ったのかは、ぽん太はわかりません。

 ようやく最後の場の「愛染門院前の場」。四谷にある愛染門院といえば、愛染院のことでしょう(地図の黄色い印)。江戸切絵図にも、現在と同じ位置に愛染院があります。現在は江戸時代の国学者、塙保己一(はなわほきいち)の墓があるそうですが、鶴屋南北の時代は、塙保己一の墓は近くの安楽寺にありました。


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