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2011年5月の8件の記事

2011/05/28

【歌舞伎】藤十郎の『封印切』2011年4月新橋演舞場昼の部

 観てからだいぶ時間がたって印象が薄れてしまったので、覚え書きです。公式サイトはこちら
 『お江戸みやげ』は初めて観た演目ですが、ほろりとする人情話。三津五郎のお辻が品が良いお芝居で、未曾有の大災害のあとでは心が暖まりました。
 『一條大蔵譚』も初めてでした。常磐御前が清盛の次に嫁いだ一条大蔵卿は、NHK大河ドラマの『義経』では確か蛭子能収が演じてましたが、「一条大蔵卿=阿呆」という定型があるのでしょうか?(蛭子さん、ゴメンなさい)。Wikipediaを見ても書いてありません。常磐御前が一条大蔵卿に嫁いだという話しの出典はどこでしょう。『平家物語』をめくってみても書いてないようです。Wikipediaの常磐御前を見てみると、『尊卑分脈』『公卿補任』が出典とされておりますが、ちょっとそこまでみちくさする気にはなれないので省略!飄々とした阿呆ぶりのおかしみと、本性を現したときのカッコよさは、菊五郎の独壇場でした。
 藤十郎と三津五郎の『封印切』は、平成19年10月の歌舞伎座以来。関東者のぽん太には、封印を切るにいたるやりとりはちょっとクドく思えますが、忠兵衛と梅川のじゃらじゃらや、最後の死への旅立ちのしっとりした抒情など、とてもよかったです。
 ところで、花道での「梶原源太は私かしらん」という台詞。梶原源太は、義経の宿敵と言われている梶原景時の、息子の梶原景季(かじわらかげすえ、Wikipedia)のことだそうです。『源平盛衰記』には、一ノ谷の戦いで景季は、箙(えびら:矢を入れる容器)に梅の枝を差して戦ったという逸話が残っており、後世には色男の典型とされたそうです。


新橋演舞場
四月大歌舞伎
平成23年4月
昼の部

一、お江戸みやげ(おえどみやげ)
                  お辻  三津五郎
                 文字辰  扇 雀
                  お紺  孝太郎
               鳶頭六三郎  亀 鶴
               角兵衛獅子  巳之助
                女中お長  右之助
                市川紋吉  萬次郎
                阪東栄紫  錦之助
                 おゆう  翫 雀

二、一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)
  檜 垣
  奥 殿
              一條大蔵長成  菊五郎
                常盤御前  時 蔵
               八剣勘解由  團 蔵
                  鳴瀬  家 橘
                  お京  菊之助
               吉岡鬼次郎  團十郎

  恋飛脚大和往来
三、玩辞楼十二曲の内 封印切(ふういんきり)
               亀屋忠兵衛  藤十郎
                傾城梅川  扇 雀
             丹波屋八右衛門  三津五郎
              井筒屋おえん  秀太郎
              槌屋治右衛門  我 當

2011/05/27

【歌舞伎】菊之助再発見/2011年4月新橋演舞場夜の部

 地震だ原発だで、歌舞伎の感想がすっかり滞っておりました。だいぶ時間がたって印象も薄れてしまってますが、備忘録として書いておきます。
 東日本大震災の影響で公演が次々にキャンセルとなり、約一ヶ月ぶりの芸術鑑賞でした。被災者の方々には申し訳ないけど、あ〜やっぱり舞台はい〜な〜と思いました。こちらが公式サイトです。
 驚いたのが菊之助。う〜ん、先月も見たはずなのに、ぽん太にはまったく別人に見えました。ここのところ3階席でばかり見ていて、久々の一階席だったせいからかしら……。演技や表情に気品があり、格が一段上がったみたいでした。見た目の美しさや色っぽさ・感情表現といったレベルを超えた、内面から発する神々しさ・崇高さがあって、ぽん太は最初から最後まで、ただただ見とれておりました。
 たとえば『絵本太閤記』の初菊の最初の出。許嫁の十次郎が討ち死に覚悟で戦場に赴かんとしている状況ですから、目一杯悲しそうな表情をして、泣き叫びながら出てきそうなもの。ところが菊之助は、感情を表に出さず、能面のような、深い哀しみを秘めた表情で現れました。それ以降も感情を、近代演劇のように表情や声で表すのではなく、あくまでも歌舞伎の様式的な動きのなかで表現しておりました。
 なんか一時は父ちゃんよりも恰幅がある感じでしたけど、身体も絞ったのでしょうか。体型もすっきりとし、余分な肉のなくなった顔は、目を見張るような美しさでした。しかしその美しさは肉感的なものではなく、精神的な美しさとでもいうべきものでした。玉三郎に感じるような崇高さがありました。
 動作の決まりきまりが気持ちよく、また表情が少ないため、時おり見せるちょっとした視線の動きが、とても印象的でした。
 『男女道成寺』でも、色っぽさはあるけれども、媚を売るような下品さはなく、身体の動きの美しさが感じられました。

 さて演目に戻ると、最初は『絵本太閤記』。ぽん太は初めてみる演目で、明智光秀(劇中は武智光秀)が主人公でした。ぽん太が先日みちくさした、妻が髪を切る話しは出てきませんでした。菊之助以外にも役者がそろっていて、魁春の様式的な所作、菊五郎の明るい大きさ、團十郎の怪異さなど、迫力ある贅沢な舞台でした。節電のためなのか、舞台の照明が暗めで、よけいに凄みが感じられました。
 『男女道成寺』。筋書きには名前があがっていたものの、人間国宝の常磐津一巴太夫がいなかったのが残念。ご祝儀の手ぬぐいをゲットすることができました。
 『権三と助十』は、岡本綺堂作の明るく楽しい人情話。権三の三津五郎は、芸達者で笑いのツボも押さえているけど、バカっぽさが足りないのは仕方なし。いっぽう亀三郎の助八はバカっぽさ十分で、けんかっ早いけど純な感じがよく出てました。秀調の猿回し与助も、ほんわかした味わいに芸の力を感じました。市蔵の左官屋勘太郎はいかにも嫌なヤツ。『夏祭浪花鑑』の義平次とともに、嫌なヤツ市蔵の嫌なヤツは絶品!左團次は風格があり、梅枝の小間物屋彦三郎もよかったです。


新橋演舞場
四月大歌舞伎
平成23年4月
夜の部

一、絵本太功記(えほんたいこうき)
  尼ヶ崎閑居の場
                武智光秀  團十郎
                   操  魁 春
               武智十次郎  時 蔵
                  初菊  菊之助
                佐藤正清  三津五郎
                  皐月  秀太郎
                真柴久吉  菊五郎

二、男女道成寺(めおとどうじょうじ)
        白拍子桜子実は狂言師左近  松 緑
               白拍子花子  菊之助

三、権三と助十(ごんざとすけじゅう)
                  権三  三津五郎
                  助十  松 緑
                  助八  亀三郎
              願人坊主雲哲  亀 寿
             小間物屋彦三郎  梅 枝
              願人坊主願哲  巳之助
              左官屋勘太郎  市 蔵
                石子伴作  権十郎
               猿廻し与助  秀 調
             権三女房おかん  時 蔵
              家主六郎兵衛  左團次

2011/05/18

【登山】超軟弱!高水二山

 兜屋旅館で山の幸を満喫したぽん太とにゃん子、デブにならないために翌日は登山です。昨日の浅間尾根は新緑にはまだ早かったので、さらに低山を狙って、高水三山を選択しました。また下山地点に車を一台デポして縦走をと考えたのですが、車を停めるところがニャイ!結局イッテコイとなり、時間の関係で忽岳山まで行けず、高水山と岩茸石山の二山だけ登ることになりました。奥多摩にはハイキングコースがいっぱいあります。多摩川沿いにスペースがないのはわかりますが、対岸でも有料でもいいですから、登山客が停められる駐車場をあちこちに作って欲しいものです。
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【山域】奥多摩(高水三山)
【山名】高水山759m、岩茸石山793.0m
【日程】2011年4月14日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴れ
【ルート】高源寺11:01…高水山12:24…岩茸石山12:48…高源寺14:54

(※大きい地図や3Dグラフは「山行記録のページへ」をクリック)
【マイカー登山情報】高源寺付近にわずかに駐車スペースあり。駐車は得てして困難。

Img_3324 登山道の両側は針葉樹の植林なのが残念。暗くて単調です。
Img_3326 高水山の山頂直下には、常福院というお寺があります。写真が不動堂。正面に舟みたいなものがありますが……。
Img_3327 近づいてみると巨大な刀でした。帰ってからググってみたのですが、どうやら公式サイトはなさそうです。Wikipediaによれば、高水山は畠山重忠が深く信仰していたそうで、近年まで畠山重忠奉納の鎧や刀剣が伝えられていたらしく、それと関係しているのかも。この不動堂は文政3年(1823年)に再建されたもので、本尊は浪切白不動(なみきりしらふどう)だそうです。「浪切不動」とは、空海(弘法大師)が唐から日本に戻るとき、荒れ狂う風や波によって船が沈没しそうになりました。空海が祈ったところ不動明王が現れ、剣で波を切り開いて船を導きました。この不動明王の姿を空海自らが彫ったものが浪切不動で、各地に祀られています。しかし浪切「白」不動というのは、ここ以外では聞いたことがありません。ん〜、いわれを知りたい。高「水」山ということで、水(海)と関係があるのでしょうか?なお、ここ高水山は獅子舞でも有名なようです。
Img_3329 狛犬もかわいいです。ん?お寺に狛犬?神仏習合のなごりでしょうか?
Img_3330 不動堂の裏手の祠にある像。剣に絡み付く龍でしょうか?どこかマンガちっく。
Img_3333 高水山と岩茸石山の間は、写真のような広葉樹の明るい林で、気持ちよかったです。でも、新緑にはやはり早かったのが残念でした。岩茸石山山頂でお弁当を食べて、帰途につきました。

2011/05/17

【宿】大きな茅葺き屋根、郷土料理もおいしいよ/兜家旅館(★★★★)

 浅間尾根を歩いて、早春の奥多摩を楽しんだぽん太とにゃん子が泊まったのは、兜家旅館さんです。桧原村の数馬の里にある、大きな茅葺き屋根の宿です。公式サイトはこちらです。あれれ、こちらもありますね。ダブルホームページでしょうか。
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Img_3321 この建物は、築200年の「兜造り」とのこと。兜造り……。どっかで聞いたことがあります。昨年、福井県の板取宿で見ました(そのときの記事はこちら)。採光や通風のために、切妻屋根の妻の部分に窓が設けられた形式ですね。
Img_3292 建物は、兜造りの本館と、新館からなっています。入り口は新館にあり、内部は写真のようなレトロモダンな雰囲気となっております。
Img_3304 古い建物が好きなぽん太とにゃん子は、迷わず本館を選択。黒光りする床が見事です。
Img_3306 囲炉裏の向こうには、現在は使われていない玄関があります。ああ、美しい。
Img_3316 一番安い部屋でお願いしたのですが、宿のご好意で、ワンランク上の部屋にランクアップしてくれました。ご覧のようなレトロモダンのきれいな部屋で、畳の下には床暖房が入っています。
Img_3312 窓からの景色はご覧の通り。絶景かな、絶景かな。足元には深い谷、正面には山が見えます。
Img_3305 こちらが本来予約していたタイプのお部屋。う〜ん、こちらでも良かったかも。でも、まだまだ夜などは冷え込む季節でしたから、暖房の問題とかもあって気を使ってくれたのでしょう。
Img_3309 こちらが本館2階のお部屋。天井が低いです。なお、新館の各部屋には囲炉裏がついていて、炭火料理をいただけるようです。それもまたよさそうですね。
Img_3299 さあて夕食です。宿の周りで採れる山菜が中心のお料理で、とてもおいしかったです。
Img_3300Img_3301 さらにお蕎麦も付きます。せっかくなので、「ヤマメの背越し」と「山菜の天ぷら」を追加注文してみました。背越しというのは、写真のように生のまま胴体を輪切りにしたもので、コリコリしておいしかったです。山菜天ぷらも満足満足。
Img_3302 こちらが浴室です。残念ながら温泉ではありませんが、広々して気持ちがいいです。どうしても温泉を!という方には、近くに数馬の湯がありますが、ぽん太とにゃん子は満腹で動けず、省略いたしました。
Img_3314 朝食です。この品数!太っちゃいまんがな。
Img_3317 屋外に設けられている炊事場。なんかいいですね〜。心のふるさとという感じ。奥多摩に来たのは十年振りくらいですが、なんか適度に鄙びていて、なんだか懐かしい気持ちになりました。温泉ではないけど、建物と料理の得点が高く、ぽん太の評価は4点です。

2011/05/12

【登山】軟弱浅間尾根(しかも下り)・カタクリの群落が見事でした

 ゴールデンウィークの大計画(まだ秘密)に向けての足慣らし第二弾は、奥多摩の浅間尾根(せんげんおね)です。前から一度歩いてみたいと思っていた歴史ある道です。今回は車2台で行って1台を下山地点にデポし、縦走するというパターンをとりました。ただでさえ尾根道を辿る軟弱な浅間尾根ですが、時間の関係で下り方向となり、さらに軟弱になってしまいました。新緑には微妙に早かったのですが、カタクリの群落を見れたのがごちそうでした。
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【山域】奥多摩(浅間尾根)
【山名】御林山(おばやしやま)1078.4m、一本松930.2m、浅間嶺(せんげんれい)903m、松生山(まつばえやま)933.7m
【日程】2011年4月13日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴れ
【ルート】浅間尾根駐車場9:11…御林山10:28…一本松11:54(昼食)…浅間嶺12:52…松生山14:25…時坂16:00

(※大きい地図や標高グラフは「山行記録のページへ」をクリック)
【マイカー登山情報】都民の森の先、奥多摩周遊道路の浅間尾根が交わる所に、浅間尾根駐車場があります。払沢の滝側は、滝の入り口に駐車場があるが、そこより上は、適当な所に邪魔にならないように停めるしかありません。

Img_3229 スタート地点の浅間尾根駐車場からの眺めです。右手前から左奥に向けて、これからあゆむ浅間尾根が続いています。
Img_3230 左手(北側)には御前山が見えます。こうしてみると、なかなか立派な山です。御前山はカタクリで有名ですが、ネットの情報では残念ながらまだ開花していないとのことでした。
Img_3232 浅間尾根の気持ちのよい尾根道。写真の場所では右側が針葉樹の植林で、左側がもともとの広葉樹林となっておりますが、多くは植林のなかの暗い道になってしまってます。元々の広葉樹林が残っていたら、さぞかし明るく心地よい道だったことでしょう。
Img_3233 道の傍らの石像です。浅間尾根は、単なるハイキングコースではなく、歴史のある生活道路でした。「この尾根につけられた道は、以前は南・北両秋川沿いに住む人々が本宿・五日市に通う大切な生活道路でした。また、甲州中道とよばれ江戸と甲州を結ぶ要路となっていたこともあります。昭和の初め頃までは檜原の主産物である木炭を積んだ牛馬が帰りには日用品を積んでこの道を通っていました」(時坂付近の案内板より)。そういわれてみればこの道は、尾根状のピークを通らずに巻いて、ほぼ水平になるように作られています。登山道としてはアップダウンがなくて物足りないと思いましたが、そんな理由があったのですね。
Img_3239 「サル石」です。立て看板に「サルの手形のついた大きな石。手の形は、よく探せばわかるよ→」と書いてありましたが、ぽん太とにゃん子は見つけることができませんでした。
Img_3240 花はまだあまり咲いてなかったのですが、ダンコウバイの黄色が鮮やかでした。
Img_3247 人里峠をすぎると、やがて巻き道と尾根通しの道に別れます。尾根通しの道を登ったところのピークが、昭文社の山と高原地図とその案内によれば、本当の浅間嶺で、写真の小さな祠があります。展望台のところにある立派な「浅間嶺」の表示は、間違いだそうです。
Img_3254 ぽん太が持っている昭文社の「山と高原地図」には全く記載されておりませんでしたが、松生山の標識が出ていたので、往復してきました。往復で40分くらいでしょうか。小ピークを幾つも越えて行くのでけっこう疲れますが、特に展望などはありません。
Img_3270 カタクリは、有名な御前山がまだ早いと聞いてあきらめていたのですが、登山道に「カタクリ群生地」の表示があり、脇道を少し登るといっぱい咲いてました。冒頭の写真もそこで撮ったものです。きれいですね。しかも、花びらがピンと後頭部に向かって立っていて、なんかパンクっぽい感じがします。

2011/05/06

【拾い読み】神社に鶏がいる理由/速水融『歴史のなかの江戸時代』

 ぽん太は以前に奈良の石上神宮を訪れた時、境内に鶏がいっぱいいるのに驚きました(そのときの記事はこちら)。そこでは伊勢神宮で鶏が「神鶏」として大切にされていることを指摘し、「神宮」つながりでニワトリを大切にしているのではないか、とぽん太は推理しました。しかし今回、速水融の『歴史のなかの江戸時代』(ぽん太が読んだのは、東洋経済新聞社の1977年版ですが、2011年に藤原書店から増補版が出ております)を読んでいたら、次のように書かれていました。

 宮本 ニワトリは、とにかく時間を知るために、みんな飼いましたからね。小型の日本系のチャボみたいなものですと、必ず啼いてくれたですから、必ず一番鳥、二番鳥と啼いてくれましょう。ところが、啼くのが一年か二年の間はちゃんと啼いてくれているんですが、三年ぐらい経つと、時を告げなくなる。そうすると、それを大抵、お宮の森へ持っていって捨てたものなんです。
 速水 食べないんですか。
 宮本 食べないんです。ですから明治の中頃までは、少し大きい森を持ったお宮さんだったら、ニワトリがすごいほどおったんですね。
 う、う、う、全然知らんかった。ちなみに引用した「宮本」とは、民俗学者の宮本常一ですね(→Wikipedia)。石上神宮にいたニワトリは、近所の人たちが捨てたものとは思えませんが、神社と鶏にはこのような関係もあったんですね。
 本書は昭和51年(1976年)に速水が様々な分野の人と行った対談によって構成されており、「封建社会で農民は生かさず殺さずの状態に置かれていた」という紋切り型の江戸観を批判し、多角的な視点からの理解を追求しております。伊藤和明(→Wikipedia)との対談では、大地震による津波が話題になっていて、身につまされます。また江戸後期には寒流が南下していたのか、アシカが銚子をはじめかなり南まで来ていたということも書かれていて、読み物としても面白い本です。

2011/05/04

【登山】本社ヶ丸・清八山/阿弥陀海道宿・笹子スイッチバック駅・黒野田宿【歴史散歩】

 ゴールデンウィークの大計画に向けて(ふふふ、まだ秘密だよ)、ぽん太とにゃん子は近場の山に足慣らしに出かけました。
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【山域】大月周辺
【山名】清八山(せいはちやま)1593m、本社ヶ丸(ほんじゃがまる)1630.8m
【日程】2011年4月7日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】晴れ
【ルート】追分8:31…清八山11:13…本社ヶ丸11:55(昼食)…ヤグラ…笹子駅…追分15:30

(※大きい地図や標高グラフは、「山行記録のページへ」をクリック)
【マイカー登山情報】国道20号線沿いや笹子駅には、駐車スペースなし。追分〜東山梨変電所〜登山口の途中のどこかに、邪魔にならないように停めるしかありません。ただし途中でトンネル工事をしており、ダンプが絶えず往復しています。周遊コースをとらず行って来いなら、変電所のさらに先の登山口まで車で入ることができ、歩行時間を往復2時間節約できます。

 ぽん太が持っている2005年版の昭文社の地図と、若干登山道が変わっていました。追分から道標に従って登って行くと、ダンプの行き交う対面通行の舗装道路に出ます。この道を稲村神社を左手に見ながら登って行くと、トンネルがありますが、躊躇なくこれをくぐって登っていきます。とちゅう林道を左に分け、東山梨変電所を通り過ぎ、ようやく登山口にたどり着くと、新たに植林された一帯に登山道が造られています。稜線近くなると、北斜面のせいか残雪が現れ、特に登山道の上は踏み固められて滑りやすいため、登山道の端の新雪の部分を選んで登りました。
Img_3210 清八峠からひと登りで清八山山頂。ここは展望がすばらしかったです。まずは冒頭の写真の松くぐりの富士。北には八ヶ岳。そして南アルプスの大パノラマ。左の写真は、甲斐駒・仙丈・北岳・間ノ岳・農鳥岳のあたりです。
Img_3218 しばし展望を楽しんだら、来た道を清八峠まで引き返し、本社ヶ丸に向かいます。ホンジャマカじゃないよ、ホンジャガマルだよ。本社ヶ丸からは、稜線の肩越しに富士山が見えました。ここでお弁当です。
Img_3220 この日に本社ヶ丸に登っていたのは10人程度でしたが、みな来た道を戻ったようでした。しかしぽん太とにゃん子は、鶴ヶ鳥谷屋山に向かって稜線を辿ります。残念ながら新緑にはちょっと早かったのですが、落葉樹の明るい林の稜線歩きは、とても気持ちがよかったです。
 下山路は、ヤグラの少し東から船橋沢に降りる道を選びました。稜線直下はやはり雪が踏み固められていて、滑らないように細心の注意が必要でした。林の中のつづら折りを延々と下って行くと、やがて船橋沢沿いの道となります。途中に何回か渡渉がありますが、足を濡らすことはありませんし、対岸の取り付きを注意して確認すれば、ルートを見失う心配もありません。ぽん太の地図ではこのルートの一部が点線となっておりますが、登山初心者のハイカーはいざ知らず、ある程度の山登りの経験がある人なら、まったく問題はありません。
Img_3221  写真は、登山路が林道と交わるところ。山梨の林道って、本当に過剰に整備されてますよね。めったに車が通らないのに、対面通行の舗装路になっております。山梨出身の某政治家のせいでしょうか?
 登山道は笹一酒造酒遊館の裏手に降りて来ます。地図を見ると、このあたりは「阿弥陀海」(あみだがい)という由緒ありそうな地名がついています。ぐぐってみると、かつては阿弥陀海道宿(あみだかいどうしゅく)と呼ばれる、甲州街道の宿場だったんだそうです。地名の由来については、こちらの阿弥陀海道|ささのこ通信というサイトが詳しいです。昔このあたりに行基作と伝えられる阿弥陀仏を祀ったお堂があったので、「阿弥陀が谷」(あみだがやつ)と呼ばれていたそうですが、いつの頃からか「阿弥陀海道」という字があてられるようになったのだそうです。この阿弥陀仏は後に普明院の本尊となったと書いてありますが、国道20号を少し西に行った所にある普明院でしょうか?ぽん太はこのお寺はみちくさしたのですが、阿弥陀仏は意識してませんでした。
 街並を眺めてもかつての宿場の面影はありませんが、阿弥陀海道宿|甲州海道物語というサイトによれば、明治40年の大水害で、阿弥陀海道宿は壊滅的な打撃を受けたそうです。
 さて、登山に話しを戻すと、笹一酒造の裏手の道を西に向かい、大月市役所笹子出張所を越えた所で右に曲がると、笹子駅前に出ます。笹子駅は、現在は無人の小さな駅ですが、駅の南側にけっこう立派なヤードがありました。見てみると、「笹子設備トレーニングセンター」という垂れ幕がかかっており、JRの設備部門の訓練施設として使われているそうです。こちらの岩鉄日記 -麺と電車とダイエットというブログに、このトレーニングセンターの見学記があります。
 ぽん太は「昔は大きな駅だったんだな〜」などと思って見てたのですが、帰宅後ぐぐってみると、ここはむかし笹子駅のスイッチバック駅があったところなのだそうです。こちらの笹子|I love Switch Backというサイトに、線路の配置図といにしえの写真が出ております。
 本線が急勾配なため、昔の非力な列車では、本線上にひとたび停車してしまうと発車するのが困難でした。このため、本線から分岐した所に勾配のゆるやかな駅を造り、列車は切り返しをして駅に入りました。googleマップなどを眺めてみると、笹一酒造のあるあたりまで、線路が延びていたのかもしれません。
Img_3224 さて、再び登山に話しを戻すと、笹子駅からは交通量の多い国道20号線をてくてく歩いていくことになるのですが、そこにヘンテコな石像が!案内板によると「黒埜宿笠懸地蔵」といい、安政2年(1855年)の刻印があるそうです。このあたりは甲州街道の黒野田宿があったところだそうです。先ほどの阿弥陀海道宿からずいぶん近い気がしますが、東側の白野宿とあわせて三つでひとつとして運用されていたようです。山間に位置しており、まとまった広いスペースが取れないため、このような方法をとったのかもしれません。
Img_3225 あらためて見回してみると、宿場の名残を残す建物が目に入ります。
Img_3227 こちらは立派な建物で、傍らには「明治天皇行在所」という石碑が建っております。あとでぐぐったところ、宿場時代の本陣跡だそうです。
 天気にも恵まれ、富士山も見えて、気持ちよく今年の登山のスタートを切ることができました。また、甲州街道の歴史にも触れることができました。そういえばこれまで、東海道や中山道の宿場は訪ねたことがあるけれど、甲州街道の宿場は意識したことがありませんでした。今後もみちくさしたいところです。

2011/05/03

【温泉】熊の湯ホテル(★★★)、須賀川そば「栄忠」【蕎麦】

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 いつまでも自粛じしゅくでは景気が悪くなってしまうと、3月の終わり、ぽん太とにゃん子は長野にスキーに行ってきました。そのとき泊まったのが、志賀高原の熊の湯スキー場の入り口にある熊の湯ホテルです。なんといっても緑色のお湯で有名。こちらが公式サイトです。ぽん太はかなり以前に日帰り入浴をしたことがありますが、泊まったのは初めてでした。
 上の写真は露天風呂です。バスクリンのような緑色をしており、透明で、少量の白い湯の花が舞います。露天のお湯はややぬるめでしたが、源泉の温度は48.2度と高いはずなので、時ならぬ大雪で温度が下がってしまったのかもしれません。泉質は含硫黄ーカルシウム・ナトリウムー炭酸水素塩・硫酸塩温泉(弱アルカリ性低張性高温泉)です。硫化水素の匂いが強く、なめると非常に苦いです。温泉分析書を見ると、硫化水素イオン(HS-)が53.9mg/kgと非常に多く、遊離硫化水素(H2S)も19.3mg/kgと多いです。源泉温度が高いので少量の加水をしておりますが、源泉掛け流しです。
Img_3193 こちらが内湯です。檜造りだそうですが、黒ずんだ木の質感がいい味を出しています。この温泉は、蘭学者・佐久間象山が発見したとされているそうです。
 グリーンの湯というと、以前に訪れたことがある(そのときの記事はこちら)鳴子温泉の「ゆさや」がありますが、こちらは緑色といっても濁っていて、条件によって様々に色が変わります。また国見温泉もグリーンのお湯で有名ですが、残念ながらぽん太は入浴したことがありません。
Img_3190 こちらが夕食です。品数も多く、彩りも美しく、おいしかったですが、いわゆる普通のホテルの和食という感じです。
Img_3191 こちらが朝食です。なかなかボリュームがあります。
 こんかいは、震災後でまだ気持ちが落ち着いていなかったり、夜中に結構な雪が降ったりしたため、建物の外観や客室の写真は撮り忘れました。客室は、落ち着く普通の和室でした。従業員の応対も丁寧できめ細かいです。
 全体としては普通にいいスキー場のホテルという感じですが、なんといっても緑色のお湯が珍しく、ぽん太の総合評価は3点ですけれど、一度は入浴する価値があるでしょう。

Img_3184 行きにみちくさして、栄忠(えいちゅう)さんで須賀川そばをいただきました。竜王スキーパーク近くの山ノ内町須賀川は、そばどころとして有名で、何軒かの蕎麦屋さんが点在しております。なかでも栄忠さんは、昭和43年創業の元祖・須賀川そばの店で、店主はがんこ親父で有名とのこと((財)山ノ内総合開発公社の「須賀川そばガイドマップによる)。ホームページはなさそうなので、とりあえず信濃毎日新聞社のページにリンクしておきます。門構えは狭いですが、内部は奥が深くて広いです。
Img_3182 こちらが「盛りそば」です。細切りでとても歯ごたえがあります。つゆはちょっと薄いです。それから量がとても多いので、女性の方などは注文の時にご注意を。須賀川蕎麦は、オヤマボクチをつなぎに使うのが特徴だそうです。オヤマボクチをつなぎに用いたそばは、ぽん太は以前に野沢温泉の「庄平そば」でいただいたことがあります。また、飯山市富倉の富倉そばもオヤマボクチを用いることで有名で、オヤマボクチとは何かも含め、以前の記事に書いたことがあります。
Img_3180 こちらが郷土料理の「はやそば」をいただけるはやそば御膳です。左下に写っているクリームシチューみたいなのがそれで、いわゆるそばがきの一種ですが、形をなしてなくてペースト状です。千切り大根などを茹でた鍋に溶いたそば粉を入れて手早くかき回したものです。これをさじですくい、さらに薄めの温かいつゆをすくい取って、一緒にいただきます。この地域独特の郷土料理で、平成13年に長野無形民俗文化財に指定されたそうです。もちろんぽん太は生まれて初めていただきましたが、珍味、珍味。これも量が多いのでご注意を。

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