【フロイト「不気味なもの」を読む(2)】イェンチュ「不気味なものの心理学のために」の要約(p4)
今回は、エルンスト・イェンチュ「不気味なものの心理学のために」Ernst Jentsch, On the Psychology of the Uncanny(1906), Translated by Roy Sellarsの要約です。
原文はこちらです(pdfファイル)。
・http://theuncannything.files.wordpress.com/2012/09/jentsch_uncanny.pdf
「不気味なもの」とは、unheimlichというドイツ語からわかるように、くつろいでいない、安心していないということを意味する。「定位の欠如」が不気味さと関係している。
ある物や事柄を不気味と感じるかどうかは人によって違うし、また同じ人でもいつも同一の不気味さを感じるわけではない。従って不気味なものという概念を規定しようとしても意味がない。むしろ、不気味な感覚が起きるにはどのような心理学的条件が必要か考えてみるべきである。
伝統的でありふれたものは、多くの人にとってなじみ深く、また新しくて異常なものは疑惑や厄介さを生み出す。これは、概念の連合によって新しいものごとを個人のこれまでの観念作用の領域の中に同化し、知的に習熟するのが難しいからである。若い人や知性の高い人は、こうした知的な習熟が素早く起きるので、不気味な感覚がおきにくい。昔からなじみのあるものは、たとえそれが不可解なものであっても、自明なものに思われる。日の出という注目すべき光景も、子供の頃から見ているので誰も驚かない。
こうして、「新しい/なじみのない/敵対的な」という心理的結合と、「古い/なじみのある/友好的な」という結合が対応しており、前者が不気味な感じを引き起こしやすいと考えることができる。
無知であればあるほど、不確かさの感覚が起きやすい。従って子供は大人に比べて怖がりである。また強い感情、麻薬、疲弊などによって、自分の知的能力の状態を評価する機能が低下した場合も、不確かさが生じてくる。こうした条件が明確でなくても不確かさが生じることはあり、たとえば普通の人でも、仮面舞踏会に参加するのは嫌な気分がする。こうした異常な感受性は、神経質に見られるものである。浅い睡眠、抑うつ、恐怖、重度の疲弊なども、不確かさの感覚を引き起こす。これらの不確かさの大きなグループは、精神疾患に類似し、移行していくことがわかるだろう。
謎めいた出来事も、文化的な価値がはっきりあれば、楽しく愉快な賞賛の感覚を引き起こす。名音楽や外科医の優れた技術は、不気味な感覚を引き起こすことはない。
一般的に強い不気味な感覚を引き起こす特別なものがある。それは、生きているように見えるものが本当に生きているのかという疑い、あるいは反対に、生命のない物体が実は生きているのではないかという疑いである。
森のなかで木の幹に腰を下ろしていたら、突然その幹が動き出し、巨大な蛇が出現する話しなどは、その例である。未開人が蒸気機関車を見たら、それが生き物だと思うかもしれない。動物の場合も同様で、それが動物の臆病さの原因かもしれない。蝋人形館で不愉快な印象を受けるのは、薄暗がりのなかで蝋人形と生きた人間を区別することが難しいからである。真の芸術が、生き物の徹底的な模倣を避けるの、こうした理由である。
人間の形態だけでなく、身体的・心的な機能にも関わる場合は、さらに不気味である。自動人形がそれであり、仕掛けが精巧で複製が真に迫っていればいるほど、不気味な効果が強まる。特定の登場人物が、人間なのか自動人形なのかわからないままにしておくという手法は、文学においてよく用いられる。ホフマンはこのトリックを何度も上手に使っている。
反対に、無生物を擬人的に、生き物のように扱う時も、同様の効果が現れる。ひっそりとした湖を怪物の巨大な目になぞらえるのがそのひとつの例である。
絵に描かれた人物など、有機体の模造品そのものが与えられた場合、この効果は大きくなる。酔っぱらいや迷信的な人がそれらに話しかけたりするのは、詩や物語でよく利用される。最も身の毛のよだつものを提示しておき、最後にすべては全部夢だったというのも、しばしば使われる凡庸な技巧である。
不気味なものを生み出すもうひとつの重要な要因は、自分の生命ある状態から類推をして、外界にあるものも生きていると推論することである。子供は自分のまわりに悪魔が棲んでいると考えたり、椅子や古布に話しかけたりする。その自分で作り出したものによって、反対に自分が脅かされると感じることもある。しかし心理的過程においてその十分な定位が行われ、確実性が優勢になれば、こうした状態はおこらなくなる。
生きものが、通常思っているのとは異なった状態を示した時に不気味さを引き起こす別の証拠は、精神疾患や神経疾患の一部が一般の人に生じさせる反応である。われわれは人間の心理的調和が当然であると考えているが、その調和が著しく乱されている場合、人間のなかに機械的な過程が生じたように思えてしまう。てんかんが聖なる病と考えられたことも、不合理とは言い切れない。一方ヒステリーのけいれん発作は、転がり落ちても怪我をしないなど隠れた心理的過程が想定されるので、疎外効果は限定的である。ただし医学の専門家の場合は、不気味さの情動はまれにしかおこらない。
病人を見た人には、そこに見いだされた機械的なものをなんとか連合しようとするが、それが心理的な自由という通常の考えに反するため、生きものであるという確信が崩れ始める。しかし、ひとたび明晰さが確立すれば、奇妙さは消え去る。
死体に関しても、潜在的に生きている状態が思い浮かぶため、同じような心理的葛藤が生じて、不気味な感じがすると考えられる。こうした感情を連合的に徹底操作することは、情動の消去に重要な役割を演じる。この際その知的理解が正しいかどうかは問題ではない。
状況を知的に習熟しようという願望は、人間と有機的世界との生存競争における防御要塞であり、そのためにわれわれは科学という難攻不落の要塞を作り上げたのだ。(以上)
イェンチュの論文を読んで気がつくことをあげておきましょう。
フロイトが執拗に議論しているドイツ語のunheimlichの語源論は、わが家の(heimlich)でない(un)
ということであっさり済ませております。
「不気味なもの」に心理学的にアプローチする必要性は、すでにイェンチュが指摘しています。
新しくなじみのないものが、「不確かさ」をもたらすことで、不気味な効果を生じやすいというのがイェンチュの基本的な主張。その背後には、次のような考え方があると思えます。つまり、人間がなんらかの状況に直面したとき、それを、これまで経験から作られた自分のなかにある思考領域との連合(association)を作り上げることで、状況に習熟(master)しようとします。これが人間の知性の働きであり、それがうまくいかないときに不気味な感覚が生み出されることがある、という考え方です。こうした考え方が、当時の心理学のなかでどういう位置にあったのかは、ぽん太にはわかりません。しかし少なくともイェンチュは、理性の下に広大な無意識の領域を見いだしたフロイトと違って、理性主義、合理主義の陣営に位置しているようです。
このように考えると、連合を行う知性の働きが衰えると不気味さが生じやすくなるわけで、イェンチュは健康なひとの不気味な感覚と、精神疾患における混乱との連続性を想定しているようです。
後半では不気味なものの重要なケースとして「生物か無生物かはっきりしないもの」を取り上げて、議論をしております。ここでホフマンの名前を挙げていますが、具体的な作品名には触れていません。
てんかん発作が普通の人に何か神聖なものと感じられるのも、人間のなかにとつぜん無生物的なメカニズムが現れるからだと言っております。
イェンチュも、真正のてんかんと、ヒステリー性のけいれん発作をしっかり区別しているようです。この区別は19世紀末の重要な問題でしたから、イェンチュもそれを踏まえているのでしょう。
最近のコメント