【歴史散歩】伊東近辺の曽我兄弟ゆかりの地を訪ねる
2月末、ぽん太とにゃん子は、伊豆の伊東の周辺にある曽我兄弟ゆかりの地を訪ねて来ました。
曽我兄弟と聞いても知らない人がほとんどじゃないかと思いますが、歌舞伎が好きな人なら誰でも知っています。曽我兄弟の仇討ちを題材にした演目は、「曽我対面」をはじめ「助六」や「外郎売」など多数あり、「曽我物」と呼ばれています。江戸時代には「曽我物」は人気を集め、享保年間(1716年〜1736年)以降の江戸歌舞伎では、正月公演では必ず曽我物を上演するという風習ができました。明治以降、いつまでこの風習が続いたのかは、ちょっと調べてみたのですがわかりませんでした。また、いつ頃から「曽我物語」が誰も知らない話しになったのかも、わかりませんでした。
江戸時代に有名だった三大仇討ちというのがあり、曽我兄弟の仇討ち、荒木又右衛門の仇討ち、赤穂浪士の仇討ちでした。赤穂浪士の仇討ちは現在でも皆知ってますが、曽我兄弟は歌舞伎の中だけ、荒木又右衛門に至っては歌舞伎でも取り上げられることがないですね。何でこのような差がついたのか、ぽん太の狸脳ではまったくわかりません。
曽我兄弟の系図に関しては、例えばこちらの富士宮市のサイトが見やすいです。曽我兄弟は、やんちゃな方が五郎で弟、温厚な方が十郎で兄ですね。普通は長男から順番に、一郎、二郎、三郎……とつけていくので、五郎が兄のような気がしますが。芥川龍之介が小学校に上がったばかりの頃、大人たちがどちらが兄かわからないなかで、「十郎が兄さんですよ」と答えたという話しが『素描三題』に載っています(青空文庫でテキスト化されてます)。
で、曽我兄弟のお父さんが河津三郎。相撲の名人で「河津掛け」という相撲や柔道の技の創始者とされております。この河津三郎が、工藤祐経(くどうすけつね)の策略によって、鷹狩りの帰りに矢で射抜かれて殺されてしまったわけです。
で、曽我兄弟のおじいさん、河津三郎のお父さんが、伊東祐親(いとうすけちか)です。大河ドラマの「平清盛」で峰竜太が演じていた人です。伊豆に流された源頼朝の監視役をしておりましたが、娘の八重姫が頼朝とできてしまって作った子供(千鶴丸)を、祐親が殺してしまう場面が衝撃的でした。
で、何で工藤祐経が河津三郎を恨んだかについては、「伊東家の歴史館」というサイトの「曽我事件の真相」というページに詳しく書かれています。興味のある方は読んでいただくことにして、ここでは概略を書くに留めておきます。系図を見ながらお読み下さい。
家次(=伊東祐隆=狩野祐隆)の所領のうち、伊東、宇佐見、河津はいまだ相続が決まっておりませんでした。正室とのあいだの長男である祐家が相続すべきでしたが、祐家はそれをまたずに死んでしまいます。その息子祐親はまだ幼かったため、領地は祐継に与えられ、祐親は河津に住まわせられました。やがて家次は亡くなり、祐継も死んでしまいます。残されたのはまだ幼い工藤祐経。すでに成人していた祐親が後見人となりますが、チャ〜ンス到来とばかりに、祐経が15歳になると祐親は、自分の娘万劫を祐経に嫁がせたうえで、祐経を京都に連れて行って平重盛に使えさせます。そうして留守になったところで領地を横領してしまいます。それを知った工藤祐経は、訴訟を起こして領地を取り戻そうとしますが、うまくいきません。最終的には「伊東祐親・工藤祐経両人の所有」みたいな裁定が降りたそうですが、実質は祐親が支配し続けたのかもしれません。
それを恨みに思った工藤祐経は、安元2年(1176年)に伊東祐親・河津三郎親子の殺害を企てますが、けっきょく河津三郎の命しか奪うことはできませんでした。先ほど述べた、伊東祐親が千鶴丸を殺したのが安元元年(1175年)ですから、その事件のすぐ後に、祐親は息子を殺されたことになりますね。
こうして見ると、曽我兄弟の仇討ちでは工藤祐経は敵役ですが、伊東祐親も工藤祐経にさんざんひどいことをしていたことがわかります。
ちなみに工藤祐経は音曲にもすぐれておりました。静御前が捉えられて鎌倉に送られ、頼朝の前で舞を踊らされたとき、伴奏の鼓を叩いていたのが工藤祐経と言われております。
さて、以上を踏まえた上で、まずは「河津三郎祐泰の血塚」です。地図の青印になります。車で東伊豆道路を下って来た場合、伊豆急行線の陸橋の手前を右に入ります。しばらく進んでから左折して住宅街に入り、さらに右折するのですが、ここらは小さな看板が出ています。左の写真の風景が見えたら、邪魔にならないように車を停め、石畳の道を歩いていきます。1分も歩かずに目的地に到着します。
こちらが「河津三郎祐泰の血塚」。安元2年(1176年)、流罪になっていた源頼朝を慰めるために行われた巻狩りの帰り、工藤祐経の指図で河津三郎祐泰が矢で射殺された現場です。
当時は近くに三本の椎の木があり、そこに隠れていた大見小藤太と八幡三郎が矢を放ったそうです。その椎の木は、残念ながら今はありません。現在ある供養のための宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、南北朝ごろのものと推測されているそうです。
血塚があるのは、このような道沿いですが
案内板によれば、かつて江戸時代には、伊豆の東海岸を通る下田街道がここを通っていたそうで、それを一部復元したものだそうです。下田街道というと、先日ぽん太が訪れた旧天城峠も下田街道でしたが、どちらも下田街道と呼ばれていたそうです。この案内板には、「吉田松陰は下田を目指してここを駆け抜け」たと書かれています。先日訪れた旧天城峠には、捕まった吉田松陰が籠に入れられたこの道を通ったと書いてありました。してみると吉田松陰は、行きは東海岸の下田街道を下り、帰りは旧天城峠を通る下田街道を上ったのか。このあたりの道草はやめておきましょう。
ついで伊東祐親の墓。地図の赤印で、伊東にあります。
こちらが墓石(?)です。
案内板には、「五輪塔の水輪にみられる納骨孔は希少な例証であり」と書いてありますが、何のことなのかぽん太にはわかりませんでした。
次は東林寺。地図の緑印です。
こちらの案内板に書いてあるように、息子河津三郎を亡くした伊東祐親は仏門に入り、このお寺の名を東林寺と改めました。祐親の自刃後、このお寺は伊東家の菩提寺となりました。
本堂の隣りの小山の上です。一番奥が河津三郎の墓、真ん中が曽我十郎の首塚、右手前が曽我五郎の首塚です。また本堂のなかには、伊東祐親や河津三郎の位牌、伊東祐親と千鶴丸の木造などがあるそうですが、日が落ちかかって暗くてよく見えませんでした。
東林寺の境内のタヌキの置物(?)。か、か〜わゆいで〜すね〜(;;;´Д`)。
東林寺の近くにある葛見神社。地図の黄色印です。こちらは伊東家の守護神だそうです。
境内にある巨大な楠は、国の天然記念物に指定されております。
こちらは河津にある河津八幡神社。地図の紫色です。この辺りに河津三郎の屋敷があったと言われています。
境内には河津三郎の像があります。手前には、河津三郎が身体を鍛えるために使ったという力石もあります。
こちらは曽我兄弟の像です。
関連する記事です。
・【富士宮】白糸の滝・曽我物語史跡・富士山本宮浅間大社・さの食堂の焼きそば
・【雑学】『曽我物語』をみちくさする(河津掛け、「寿曽我対面」)
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