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2013/04/30

【フロイト「不気味なもの」を読む(7)】ドッペルゲンガーについてのフロイトの見解、「プラーグの大学生」(p27〜30)

 さて、フロイトの論文に戻りましょう。フロイトはランクの研究に言及したあと、ドッペルゲンガーという現象について次のように解説します。

 ドッペルゲンガーはもともと、一次的ナルシシズムにおいて「死後における生の継続を保証するもの」でした。つまり複製によって破壊から身を守ることであり、古代エジプトで死者の像を作って永遠に残そうとしたのがこれにあたります。精神分析の臨床では、夢において、性器の象徴を二重、多重に複製することで去勢を表現するそうです。心理的発達とともに一次的ナルシシズムは没落していきます。そして自我のなかに、自我の残余の部分と対峙する自己批判の審級が形成されるにしたがって、ドッペルゲンガーの表象のなかに新たな内容が割り振られます。それは、自己批判の対象となる、克服された古いナルシシズムに属するあらゆるものです。これによってある人物が自分の分身と同一人物とまわりから見なされたり、二人のあいだで体験や感情が共有されたり、分身と同一化したけっか自らの自我に混乱を来したり、互いに自我を交換したり……ということが起きるわけです。

 オットー・ランクの原論文とフロイトの要約を比べてみると、原論文の方は、さまざまな実例に基づいて、細かい説明を加えている反面、理論の構築が弱くて雑多な印象を与えます。フロイトの要約では、心理発達的な軸を中心に据え、生を守ろうとする一次的ナルシシズムの段階と、自我のなかに自我を批判する審級が形成された段階という、二つの段階として捉えます。しかしこの総括の仕方は、ランクの考え方には準じているものではなく、フロイトがこれから述べようとしている不気味なものに関する考えを説明しやすいように、まとめられているようです。

 一次的ナルシシズムにおいて死から身を守る物としてのドッペルゲンガーという考えは、ランクは論述の途中で触れているにすぎません。それから、夢のなかでは性器の象徴を多重化することで去勢を表現するというのは、ランクの論文には書かれておらず、フロイトの臨床経験を盛り込んだものでしょう。

 それから、自我のなかに自我を批判する審級が作られるというのは、まわりくどい言い方に感じられますが、訳注に書かれているように、フロイトが「自我とエス」で「超自我」の概念を導入したのは1923年で、この論文「不気味なもの」が書かれた1919年時点では、まだ使われていなかったのです。

 再びフロイトの本文に戻りましょう。

 さらにドッペルゲンガーの表象には、実現されなかった空想、貫徹されなかった自我追求、押さえ込まれた意思決定なども併合されます。その例として、原註に書かれているように、エーヴァースの『プラハの学生』の主人公は決闘の相手である恋敵を殺さないと約束しますが、一足先に自分の分身が恋敵を殺してしまいます。大人の事情により主人公が達成できなかった欲望を、ドッペルゲンガーが実現するわけです。

 ちなみに原註でフロイトは、「H. H. エーヴァースの作品『プラハの学生』は、ドッペルゲンガーについてのO. ランク研究がその出発点にしているものだが」(29ページ脚注)と書いておりますが、厳密に言えばランクが言及しているのは、エーヴァースのシナリオによる映画『プラハの学生』です。ランクは「ハンス・ハインツ・エーヴェルス原作による劇映画の影のようにはかない、だが心を打つ映像を書きとめてみよう」(邦訳4ページ)とか、「心の出来事を映像で具象的に示す映画技術の特殊性」(邦訳11ページ)とはっきり書いています。

 『プラハの学生』は何回かリメイクされてますが、ランクの「ドッペルゲンガー」が発表されたのが1914年であることを考えると、彼が言及しているのは1913年に公開されたオリジナル版だと思われます。この作品のデータやあらすじは、例えば こちらサイトで見ることができます。部分的にコピペさせていただくと、以下の通りです。「巨人ゴーレム」で有名なヴェーゲナーが出演してますね。

 監督:シュテラン・ライ Stellan Rye
 脚本:ハンス・ハインツ・エーヴァース Hanns Heinz Ewers
 カメラ:グゥイド・ゼーバー Guido Seeber
 キャスト:パウル・ヴェーゲナー Paul Wegener
      ジョン・ゴットヴト John Gottowt
      グレーテ・ベルガー Grete Berger
      ロタール・ケルナー Lothar Körner  
 制作国:ドイツ
 公開年:1913年;日本公開1914年

 実は日本語字幕つきでビデオが出てますが(邦題『プラーグの大学生』)、現在入手しようとすると非常に高価なようです。Youtubeで見ることが可能かもしれません(少なくともいまは見れます)。

 この映画を小説化(近頃はやりのノベラライズですね)したものがあり、邦訳が創元推理文庫で出ています(『プラークの大学生』前川道介訳、1985年)。解説によると底本は1930年で、小説化した人物はDr. Langheinrich-Anthosと書かれています。小説化がもっと以前から存在したのかどうかはわかりませんが、フロイトの「不気味なもの」が書かれたのが1919年ですから、脚注でフロイトが挙げている「エーヴァースの作品『プラハの学生』」は、映画を指していると考えていいでしょう。ちなみに人文書院版の『フロイト著作集』の邦訳(高橋義孝)では、誤って「小説」と訳してます。

 さてフロイトのテキストに戻りますと、フロイトは、以上の考察からドッペルゲンガーの内容は明らかになったけれど、なぜそれが不気味なのかは分からないという。幼い頃の自我と外界とがはっきり境界づけられていない状況は、当時は友好的な意味合いを持っていたはずですが、大人になってそれがドッペルゲンガーとして現れた場合には、なぜか不気味なものとなります。この理由についてはフロイトは一時保留をします。そしてハイネの『流刑地の神々』を引き合いに出し、神々だったものが、その宗教が失墜したあとには、魔物とみなされるようになったことを挙げています。

 このハイネの本は、『流刑の神々・精霊物語』というタイトルの岩波文庫に収録されています( 小澤俊夫訳、1980年)。この文庫は、以前にバレエ「ジゼル」の原作について調べたときに言及しましたネ。「ジゼル」の元となる伝説が、「精霊物語」のなかに書かれていたのでした。こんかいフロイトが言及しているのは「流刑の神々」のほうで、キリスト教が広まると同時に、これまで信仰されていたギリシャ・ローマの神々が、魔物へ変えられてしまったという内容で、要するにキリスト教的世界観・価値観を否定するものです。この本の要約をお示しする必要はないかと思いますが、一例をあげれば、アポロンは下オーストリアで牧童として暮らしておりましたが、あまりに歌声が美しいので異教の神と見破られ、教会で拷問を受けた末にアポロンであることを告白してしまいます。処刑の前に許しを得て歌った歌があまりに見事だったので、女たちは泣き崩れたり、病気になる者もいたそうな。そこで村人たちは、こいつは吸血鬼に違いないと踏んで、従ってアポロンの死体を引きずり出して、しきたりに従って胴体に丸太を通そうとしたんだそうです。

 日本の場合は、仏教が伝来してからも神道の神々は残って、神道の神々は仏教の神々の化身であるなどという本地垂迹説も生まれましたし、さまざまな民間信仰も江戸時代までは残っていましたから、キリスト教世界とはだいぶ状況が違うようです。明治時代の神仏分離において、廃仏毀釈で仏教が退けられただけでなく、実は土着の神々が打ち捨てられて、かわりに日本書紀に出てくる「公式の」の神様を信仰するように強いられたのが、ちょっと似てると言えば似ていますが、だからといって土着の神々が魔物に変貌するということはなかったと思います。

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コメント

にゃにゃにゃ!
ジプレキさん、大丈夫ですか。
ぽん太では助けることができません。
最寄りの精神科を受診して下さい。

すみません、助けてください。失調症かもしれないし、ドッペルゲンガー見たような。先生、回復よりしゅうそくを望みます。助けてください。

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