【歴史散歩】芝居の街猿若町とその周辺
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隅田川沿いの仮設小屋で一昨年から昨年にかけて行われた平成中村座の公演には、ぽん太も何度も足を運びました。そこからちょっと西に行った所、浅草寺とのあいだにある一角が、江戸時代に猿若町と呼ばれ、芝居小屋が立ち並んだ場所でした。
地図の青印のところに、台東区による案内板があります。老中水野忠邦は、天保12年(1841年)、天保の改革に着手します。これは幕府の財政再建を目指したもので、その一環として庶民にも贅沢の禁止、娯楽の制限が加えられました。
おりしもその年の10月、堺町(現在の人形町付近)にあった中村座が失火で全焼。類焼によって近くの葺屋町の市村座や、さらに浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も燃えました。この機を捉えた水野忠邦は、その場所での再建を許さず、丹波国園部藩の下屋敷を公収し、天保13年(1842年)2月、その跡地への移転を命じました。同年4月、江戸の芝居の草分けである猿若勘三郎の名前をとって、猿若町と名付けられました。また天保14年(1843年)には木挽町(現在の銀座6丁目)にあった河原崎座も猿若町に移転させられました。
この措置は、人気の娯楽であった芝居小屋を、辺鄙なところにひとまとめにしてしまおうというものでした。しかし一カ所に集中したことでかえって芝居が充実し、浅草詣でを兼ねて芝居を観るということで、反対に賑わいを見せたそうです(参考:Wikipedia)。
地図の赤印のところにある「中村座跡」の案内板です。
地図の緑印。「浅草猿若町碑」です。
地図の水色印。「市村座跡」です。石碑と案内板があります。
黄色印が「守田座跡」です。石碑があります。
地図の紫印が、白岩稲荷です。御由緒はぽん太にはまったくわかりません。
さて、猿若町を離れて少し隅田川の方に行くと、待乳山聖天(まつちやましょうでん)があります。公式サイトはこちらです。
聖天は歓喜天(かんぎてん)ともいい、仏教の天部に属する守護神です(Wikipedia)。元々はヒンズー教のガネーシャに由来します。ガネーシャは、片方の牙が折れた象の頭を持ち、四本の手を持つ姿で現されます。障害を除き、財産をもたらすとして、商業・学問の神とされているようです(Wikipedia)。聖天の像は秘仏とされていることが多いようですが、その理由は、像が人には見せられない恥ずかしい形をしているからかもしれません。象の頭をした二人の人が抱き合っている形が多いようですが、男女が向かい合って抱き合ってる形も多いようです。
待乳山聖天の正式名称は本龍院。宗派は聖観音宗(しょうかんのんしゅう)だそうです。聖観音宗〜?知らね〜な〜、と思って調べてみたら、なんと浅草寺が総本山じゃないの。しかも浅草寺は、もともと天台宗のお寺でしたが、昭和25年(1950年)に聖観音宗になったんだそうです。う〜ん、何かありそうですが、浅草寺に関するみちくさはまたの機会に。
ちと調べてみると、聖天を祀るもう一つの有名なお寺である奈良県生駒市の宝山寺は真言律宗、ぽん太も行ったことがある埼玉県は妻沼の歓喜院(妻沼聖天)は真言宗とのこと。天部の神を祀るということは、もともとは密教系なのかもしれません。待乳山聖天は、浅草寺に関わりが深いということで、聖観音宗になったのでしょうか?
待乳山聖天では、「浴油祈祷」といって、上質のごま油で聖天様を洗い浄める(詳細不明)という供養が行われているようです。胡麻油をかけるというと、ぽん太は、インド伝統医学のアーユルヴェーダを思い浮かべますが、ガネーシャということでインドつながりがあるのかどうか、ぽん太にはわかりません。
境内にはなぜか大根のお供えが(写真はピンぼけです)。公式サイトによれば、大根は体内の毒素を中和して消化を助ける働きがあることから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれているんだそうです。
門前には「池波正太郎生誕の地」の碑がありました。待乳山聖天の南側が生家だそうです。
待乳山聖天の北側には、山谷堀公園があります。現在は埋め立てられてしまいましたが、昔は堀になっていて、船が行き交いました。また、堀の両側の土手道を、日本堤(二本堤)と呼びました。これらは、吉原に行くための交通手段として使われました。地図をみると、山谷堀公園を左上に辿って行くと、吉原大門に到ることがわかります。ここからS字状の道を通って南西のところが、吉原の跡です。
山谷堀から少し北に行った所に、今戸神社があります(地図の緑ピン)。公式サイトはこちらです。御由緒を見ると、もともとは京都の石清水八幡宮を勧請して作られたそうで、八幡様ですね。従って御祭神は応神天皇です。
「沖田総司終焉の地」という看板がありました。和泉橋(秋葉原駅の南東)にあった松本旅順の医学所で治療を受けていましたが、薩長軍の江戸入りに伴って今戸八幡(=今戸神社)に収容され、そこで死去したとのことです。しかしググってみると、沖田総司終焉の地としては、もうひとつ千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅という説もあるようで、どっちが正しいのかぽん太にはわかりません。
拝殿にはニャンが居ります。ここは招き猫発祥の地とされているそうで、16世紀から今戸焼きとして作られていたそうです。招き猫発祥の地というと、ぽん太は世田谷の豪徳寺を思い浮かべますが、Wikipediaによれば、17世紀に井伊直孝が猫の招きで雷雨を避けることができたことから、招き猫が作られるようになったそうです。井伊直弼の墓も豪徳寺にあり、井伊家ゆかりの彦根城のゆるキャラひこにゃんは、この直孝を招いた猫なんだそうです(Wikipedia)(へ〜え、へ〜え)。
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