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2013年12月の20件の記事

2013/12/31

【宿】兜造りの古民家と、美味しい郷土料理が魅力。三頭山荘(★★★)

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 昨日の記事に書いたように、今宵(12月中旬)の宿は桧原村の三頭山荘です。築400年とも言われる兜造りの本館が見事です。屋根が茅葺きじゃないのがちと残念ですが、トタン張りにせずに瓦で葺いあるのが好印象です。公式サイトはこちら
20131212_082928 本館の内部はお食事処として使われております。
20131212_082903 古い柱や天井が歴史を感じさせます。
20131212_082951 う〜ん、いいですね〜。本館にも客室があるといいのに。
20131212_095734 客室がある別館は、残念ながらコンクリートの建物です。
20131211_163034 客室は普通の和室です。
20131212_084045 お風呂がいわゆる「温泉」ではないのも残念。北海道の二股ラジウム温泉の湯の花と原石を利用した人工温泉だそうですが、消毒臭が強く、温泉力は感じられませんでした。
20131212_084121 それでも屋上にある展望露天風呂はなかなか気持ちがいいです。宿のパンフレットによると、東京で一番高い所にある露天風呂だそうです。
20131211_175606 夕食は本館の雰囲気あるお部屋で頂きました。三頭山荘は「山菜22品膳」という山菜尽くし料理が有名ですが、予約したのが前日だったうえ、客がぽん太たちだけだったせいか、それを選択することができず、「山菜会席膳」の方を頂きました。こちらも美味しかったです。
20131211_180002 長方形のお皿に乗っている前菜は、左からこごみ、藤の花、キクイモ、芋茎(ずいき)です。藤の花やキクイモは初めていただきました。右下は手作りのこんにゃく、その上は岩魚のお刺身です。
20131211_181044 猪豚の鍋にはなんと梨が入ってました。梨の甘酸っぱさと、シャキシャキ感が新鮮です。桧原村の郷土料理かと思って聞いてみたとろこ、この宿独自の工夫だそうです。そのほか、芋煮、岩魚の塩焼き、なす田楽、天ぷらなどがアツアツで一つひとつ運ばれてきました。自家製三年味噌のお味噌汁もおいしかったです。
20131212_080554 こちらが朝食です。美味しゅうございました。
 兜造りの古民家と、美味しい郷土料理が高得点です。温泉でないのは仕方ないとして、宿泊棟がコンクリート造なのが減点となり、ぽん太の評価は3点。こんどは「山菜22品膳」を食べに来たいです。

20131212_095713 宿の一角に小さな神社があり、「菊姫弁財天」と書かれています。由来の書かれた案内板がありましたが、その内容を三頭山荘のブログから引用させていただきます。
 「菊姫弁財天由来
 菊姫弁財天には武田四郎勝頼の弟、高遠城主仁科五郎盛信の女、菊姫を祀る。
 天正10年3月11日、勝頼が天目山の田野で滅びた時菊姫は信玄公六女松姫な どと共に武州恩方を目指し小金沢山から西原、笛吹(うずしき)、数馬へと抜けて風張峠に落ち来った際、岩小屋で野宿して病を得、従士石黒金乃丞に付き添わ れて峠下の岡部家で養生したが叶わず、その年9月16日果敢なくなった。
 父は高遠城で討死し、母には遠く別れて旅の空に1人淋しく水車にめぐる水の音に涙しながら逝った姫哀れと岡部家と金乃丞とは残された手鏡を御神体として社を建て、生前弁財天の再来と云われた美しき姫を偲び菊姫弁財天と名付け毎年9月16日の命日を祭日としてその祭をし来った。
 其後、金乃丞は望まれて岡部家を継ぎ子孫今日に至るもので、岡部家の先祖も甲州の落人で早くから此の地に土着して居た者である。」
 なるほど、武田家滅亡のときに逃げ延びて来て、このあたりで亡くなった菊姫様を祀ったものなんですね。いろいろググっていたら、桧原村は当時は武田家が支配していたと書いてるサイトを見つけました(昔の檜原村物語)。むむむ、これはあまりに奥が深そうなので、みちくさはまたの機会としましょう。

2013/12/30

【登山】一度は歩きたい・一度でいい、笹尾根(上川乗〜九頭竜の滝)

20131211_140014_2  「山は温泉(宿)に付いてくる」がスローガンのぽん太とにゃん子。まず宿から決めるのが最近の手順ですが、近場の温泉は良い所は行き尽くした感があり、「温泉」の縛りをとって数馬の三頭山荘に予約をしました。その近くのまだ行ってないところを探した結果、車二台で出かけて笹尾根を歩くことにしました。どこまで行けるかは成り行き次第といういい加減な計画です。

【山名】笹尾根(土俵岳1005.2m、丸山1098.3m、槙寄山1188.2m)
【山域】奥多摩・高尾
【日程】2013年12月11日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】曇り
【ルート】上川乗駐車場10:08…浅間峠11:16…土俵岳12:15…丸山13:25…槙寄山14:44…数馬15:37

【マイカー登山情報】上川乗バス停の近くに数台停められる有料駐車場があります。封筒に車のナンバーを書いてお金を入れ、ポストに入れておきます。でも実は、上川乗から上野原あきる野林道を甲武トンネルの方にちょっと登った所に登山道入り口がありますが、ここに数台無料で停められるスペースがあります。数馬には駐車場はありません。一見停められそうなところも、民宿や施設の駐車場です。ぽん太は宿泊予定の宿の駐車場に停めさせていただきましたが、そのようにするか、バスを使うしかなさそうです。

Img_7531 車の一台を三頭山荘の駐車場に停めさせていただき、もう一台を上川乗の有料駐車場に停車。でも、上にも書いたように、登山口入り口に、こんな立派な駐車スペースがありました。
20131211_111604 ひと登りで笹尾根の浅間峠に到着。最近歩行速度が低下しているぽん太とにゃん子ですが、昭文社の地図のコースタイムより早めに到着することができました。
20131211_112920 笹尾根の道は、まるで高速道路のように整備されており、起伏もあまりありません。ただ、けっこう幅広い尾根で、しかも木が生えているので、展望がきかないのが難点です。富士山を眺めながら歩けると楽しいのですが。木に葉が付いている時期だと、ホントに何にも見えないでしょうね。
20131211_115819 日原峠にはお地蔵さんがありました。
20131211_132531 丸山です。どなたかも書いておられましたが、昭文社の地図だと、尾根通しに三頭山方面に向かう道が記入されておりますが、実際は存在せず、北に向かう道を下って巻き道に合流します。丸山を過ぎたあたり(だったと思うのですが)の気持ちのよい林のなかで、お弁当をいただきました。
20131211_140014 丸山峠を越えると、笹薮が目立つようになります。「笹尾根」という名前の由来でしょうか。昔はもっと全体に笹に覆われていたのでしょうか。ぽん太にはわかりません。
 丸山の先に笛吹峠がありますが、「笛吹」は「うずしき」と読むそうな。また近くの「人里」は「へんぼり」。この辺りは難読地名が多いですね。
20131211_141049 樹々が邪魔してほとんど展望がきかない笹尾根ですが、何カ所か見晴らしがいいところがあります。左(南側)に見えたのは権現岳か?その向こうは曇っていて、富士山は見えませんでした。
20131211_141252 道になにやら怪しいものが落ちているのをにゃん子が発見!
20131211_141310 見上げると、でっかい蜂の巣が!住人はいないんでしょうね。
20131211_142911 道はだんだんと踏み跡が薄くなって行きます。そういえば、途中、マウンテンバイクの人たちと2回すれ違いました。マナーが良く、ぽん太たちを見ると自転車から降りて道を譲ってくれました。登山者に迷惑をかけないように、という意識がしっかりしてるんでしょうね。確かに笹尾寝は歩くには退屈で、自転車で走りたくなる気持ちがわかります。
20131211_143532 さて、どこで下山するかですが、時間を見計らった末、槙寄山まで行って、すぐ手前の西原峠から下山することにしました。写真は笹尾根の終点の三頭山です。
20131211_151210 下山途中、「国定忠次が遠見した木」という標識がありました。多分、写真のくねっている木だと思います。いわれはググってみてもわかりませんでした。
 この道をまっすぐ降りて行くと仲ノ平バス停に行きますが、途中から左折して(標識があります)、九頭竜の滝のあたりに下山しました。今宵の宿・三頭山荘に停めておいた車に乗って、上川乗に置いてあった車を回収しました。

 

 

2013/12/29

【登山】おしろいを塗った富士山とデート。雪頭ヶ岳(せっとうがたけ)・鬼ヶ岳

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 湯之沢渓山荘で一泊したぽん太とにゃん子。翌日は冬晴れの快晴。これは富士山に近づいて行き、富士が見える山に登るしかありません。富士五湖の西湖の北側の山に登ることにしました。最初は毛無山からの縦走も考えたのですが、岩場や鎖場があるとのこと。凍える手で冷たい鎖をつかむのはいやだし、ましてや岩に雪や氷が付いていると危険なので却下。根場から鬼ヶ岳に登り、あとは時間次第でルートを決めることにしました。

【山名】雪頭ヶ岳(せっとうがたけ)・鬼ヶ岳1738m
【山域】富士・御坂
【日程】2013年12月5日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】快晴
【ルート】根場浜駐車場10:24…雪頭ヶ岳12:28…鬼ヶ岳12:51-13:11…鍵掛峠…根場浜駐車場15:06

(※大きい地図や3D地図、当日の天気図などはヤマレコの記録へ)
【マイカー登山情報】西湖沿いに根場浜駐車場あり(トイレ付き)。取り付きは川の右岸(上流に向かったら左側)を登っていくのですが、ちょっといった左にも駐車スペースがあります。さらにRV車や軽なら堰堤の手前まで入ることができますが、行って来いならいいけど、周遊には不向き。

Img_7450 根羽浜の駐車場からの富士。ちょっと逆光になっているのが残念ですが、違った迫力があります。
Img_7453 のどかな風景のなかを登山開始。正面に見えるのが雪頭ヶ岳か。
Img_7457 少し行くと、巨大な砂防堰堤の前を横切ります。自然破戒ではありますが、それはそれで、なかなか迫力ある構造物です。
Img_7458 最初は針葉樹の植林のなかを登っていきます。
Img_7459 木の幹にビニールテープが螺旋状に巻いてありました。けっこう登山はしているつもりですが、初めて見た気がします。虫が登らないようにするためかとも思いましたが、帰って調べてみると、クマやシカが樹皮を剥がないようにするためだそうです。
Img_7460 やがて明るいカラマツ林となります。天然でしょうか植林でしょうか。
Img_7463 さらに登るとブナ原生林となります。厳しい気候のためか、細くて低いです。
Img_7473 やがて樹木が低くなって来て、富士山が見えてきます。ん、ん、ん、崇高です。雪をかぶったところに陰影があって、すごい迫力です。世界遺産として自負するに値する美しさです。
Img_7484 雪頭ヶ岳到着。富士山の眺めがいいです。
Img_7486 少し鬼ヶ岳の方向に進んだところに、眺めのいいピークがあります。写真は東北東方面にのびて行く稜線。中央やや右の奥にある山が三ツ峠山です。
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 南アルプスを端から端まで見たのは初めてかも。一番右に甲斐駒が見えて、その左が鳳凰三山と、白い仙丈。二枚目の雪を冠ったのが北岳、間ノ岳、農鳥岳。三枚目の右に塩見が顔を出し、四枚目との境が悪沢、その左四枚目には赤石と尖った聖、雪を冠ってない三角のピークを飛び越して、左のなだたらかな稜線が光でしょうか。
Img_7498 鬼ヶ岳山頂です。
Img_7500 山頂にあるツノ。鬼ヶ岳という名前の由来と言われております。
Img_7504 八ヶ岳も見えました。空気は冷たかったですが、快晴で日差しが強かったので、寒いと感じるほどではありませんでした。風が当たらず景色がいいところを探してお弁当をいただきました。時間を計算して、鍵掛峠をまわって下ることにしました。
Img_7505 鍵掛峠までの稜線歩きは、明るい雑木林のなかの道。適度なアップダウンもあります。
Img_7507 鍵掛峠から下山。巨大な露岩があちこりにあり、この山稜の中身が岩出あることがわかります。
Img_7508 その下は、雑木林の中のジグザグ道が延々と続きます。登りの道には使わない方がいいかもしれません。
Img_7510 根場の集落まで下ると、茅葺きの趣きある建物が立ち並んでしました。「西湖いやしの里根場」とう施設で、ここらあたりの古い民家が移築保存されているようです。近くで見るには入場料が必要です。
Img_7519 近くに神社がありました。薬明神社という名前のようで、十二ヶ岳の山頂に最上権現を祀っているんだそうです。
Img_7527 根羽浜の駐車場に戻って富士山をパチり。逆光で写真にはよく撮れてませんが、肉眼では雪がキラキラ輝いて見事でした。

2013/12/28

【宿】住宅街の先に…まるで隠れ里のような湯之沢渓山荘(★★)

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 12月上旬、秋山二十六夜山から下山したぽん太とにゃん子は、湯之沢 渓山荘に宿泊しました。公式サイトはこちらです。
 中央道河口湖線をくぐってすぐ近く、住宅街を抜けた所にあるのですが、そうとは思えないほどの秘境ムードにあふれております。落ち着いた和風建築のこじんまりとした一軒宿です。
 実はぽん太はこの宿は、二十〜三十年前に泊まったことがあるのです。小雨模様の日だったと記憶しているのですが、窓から見える裏庭は、崖に囲まれるような地形になっていて、その崖のあちこちから湧水が細い滝のようになって、いく筋も注いでおりました。そしてその水を集めた池があって、鯉が飼われておりました。それが隠れ里に迷い込んだような印象を与え、ぽん太はタルコフスキーの映画「ノスタルジア」を思い浮かべたのでした(movie walker)。
Img_7447 客室は、比較的新しく、小ぎれいな和室です。聞くと何年か前に宿は建て替えられ、そのときに庭の池も埋めてしまったんだそうです。ただ、宿に向かう細い道の片側の崖は、あちこちから水が滴り落ちていて、昔を彷彿とさせます。
Img_7444 お風呂は大小二つの岩風呂があり、どちらも貸し切りで使えます。こちらは大きい方の岩風呂。
Img_7433 こちらが小さい方の岩風呂。湯船は二人入るといっぱいです。
Img_7429 マジック書きの貼紙に「アルカリ単純泉」と書いてありましたが、「温泉」としての正式な認可は受けていないように思われます。公式サイトにも「温泉」とは書かれておりません。じっさいお湯は無色透明で、消毒臭が強かったです。ただ歴史的にはこのお湯は、江戸時代から鉱泉として親しまれてきたようです。
Img_7434 夕食は、周囲で採れる川魚やワサビを使った山里風のお料理。部屋食でいただきます。
Img_7435 生ワサビは鮫皮おろしですりおろして頂きます。
Img_7436 イワナ君は、塩焼きと、素揚げあんかけの二通りで登場。
Img_7439 大根の煮物もアツアツで出てきます。
Img_7442 朝食はこちらです。美味しゅうございました。
 小ぎれいな宿でお食事も美味しいですが、もう一つ特徴が欲しいところ。ぽん太の評価は「普通」の2点。ただし、近くで登山やゴルフをするときなどは便利なお宿で、じっさい当日も満室でした。

2013/12/27

【クラシック】声楽がすべてを持ってきました。読売日本交響楽団《第九》

 今年の第九は、例年どおり日程と会場の行きやすさから選んだところ、読売日本交響楽団に決定!公式サイトはこちらです。
 実は読響を生で聞くのはぽん太は初めてです。子供の頃に買った「白鳥の湖」と「くるみ割り人形」の組曲のレコードが、読響だった気がします。指揮は若杉弘だったかな?
 入り口で「プ、プログラムをくれない!」と驚いたら、小冊子のようなものがプログラムで、12月の演奏会分が全部入ってました。なるほど、こういうやり方もあるのか。

 指揮者はデニス・ラッセル・デイヴィス。これまたぽん太は初耳。プログラムを読んでみると、アメリカ人で、1944年生まれの70歳。伝統的音楽以外にもフィリップ・グラスなどの現代音楽にも熱心。読響とは初顔合わせとのこと。なになに、「熱烈な巨人ファン」ですって。さすが読売…。
 プログラムの最後の方にある楽団員の写真を見る。オリンピックのスピーチで有名になった高円宮妃久子さまが名誉顧問でした。メンバーは「男が多いね」とにゃん子。Wikipediaによれば、かつては団員を男性に限っていたんだそうな。なるほど。
 第九の前に二つの室内楽(ヴィオラ4重奏と、チェロ4重奏)がついてました。今年の読響の第九演奏家は6回ありますが、なぜか本日だけ室内楽つき。クリスマス・プレゼントかした。どちらも知らない曲でしたが、耳に優しく美しい小品で、クリスマス・ディナーの素敵なアペリティフでした。
 で、いよいよメインディッシュの「第九」です。最初の音が意外と大きいのでびっくり。テンポは速めの普通でした。デイヴィスは、指揮棒をけいれん的に鋭く振り、そこから引き出される音楽もブロック、ブロックに分割されてる感じで、ゴツゴツした印象。旋律や感情の時間的な流れはあまり感じられませんでした。強弱や速度の変化を使った劇的演出も用いられず、重厚感や崇高さもありません。昔風のロマンティックな演奏でもなく、現代的なスマートな演奏でもなく、あえて言えば、現代音楽のようなちょっと無機的で構築的な演奏でした。第二楽章で、普段なら盛り上がるところを逆にちょっと押さえたり、などのケレンも随所にありましたが、それほど効果的な感じはしませんでした。各パートを精緻にコントロールするというよりは、荒々しく激しい音楽でした。
 がぜん盛り上がったのは、声楽が入ってから。合唱は、ぽん太がオペラで普段から聴いている新国立劇場合唱団。以前からその力量は高い評価を受けており、ぽん太も何度も感動させていただきましたが、こんかいもすごかった。どちらかというと少なめの人数でしたが、大迫力でした。そこらの素人合唱団とはレベルが違います。普段からオペラを歌っているために、表現力があるのかもしれません。独唱も男性陣は新国立オペラでおなじみの人ばかり。バリトンの与那城敬は、イタリア風の明るく伸びのある声で、声量もたっぷりでした。ドイツ音楽には合わないのかもしれませんが、どちらかというと重苦しい楽器演奏が続いてきたところで、光が射してくるかのようでした。ソプラノの木下美穂子は初めて聞きましたが、ちょっと硬い声質ですが声量がありました。ほかの独唱も含め、ちょっとアンサンブルが乱れるなど粗さも感じられましたが、大変力強い歌声でした。
 そういえば、最初の合唱が終わって、静寂からマーチに入るところのデイヴィスの演奏は、現代音楽的で非常に新鮮に聴こえました。
 全体として、指揮者のデニス・ラッセル・デイヴィスがやりたかった音楽は十分にはわかりませんでしたが、最後に独唱と合唱がすべてをかっさらっていったという印象でした。読響がどうかについては、ぽん太にはよくわかりませんでしたが、低弦の厚みやティンパニ(岡田全弘氏でしょうか)が印象に残りました。
 今回の席はオペラシティの2階正面。オケはバランスよくしっかりと聴こえてきましたが、ちょっと遠くで細かい音色が聞き取りにくかったです。声楽はストレートに聴こえました。1階のもうちょっと前の方がいいのかもしれません。
 美味しいクリスマス・ディナーを満喫できました。

読響《第九》
2013年12月25日(水)
会場:東京オペラシティコンサートホール

指揮=デニス・ラッセル・デイヴィス
ソプラノ=木下美穂子
メゾ・ソプラノ=林美智子
テノール=高橋淳
バリトン=与那城敬
合唱=新国立劇場合唱団
合唱指揮=三澤洋史

【第1部】
《読響メンバーによる室内楽:ヴィオラ四重奏&チェロ四重奏》
ヴァインツィール:夜曲
(ヴィオラ:鈴木康浩、渡邉千春、長岡晶子、二宮隆行)

クレンゲル:“無言歌” “マーチ”(「4つの小品」op.33 から)
(チェロ:毛利伯郎、渡部玄一、髙木慶太、木村隆哉)

【第2部】
ベートーヴェン:交響曲 第9番 ニ短調 作品125 「合唱付き」

2013/12/26

【歌舞伎】海老蔵の高師直は憎々しいけどちょっと変「仮名手本忠臣蔵」2013年12月歌舞伎座昼の部

 夜の部に引き続き、昼の部を観劇。11月の昼の部は、間違えて仕事がある日にチケットを取ってしまい、見られなかったのは以前に書いた通りです。公式サイトはこちらです。
 三津五郎の休演に伴い、海老蔵が高師直。最初の名前を呼ばれて魂が入るところで、いきない大目玉をひんむいて失笑が漏れてました。しっかりと高齢に見え、いじめ役として本当に憎々しげなのはよかったですが、メーキャップを初めとし、なんだか一人だけ浮いているというか、アニメっぽいというか、他の出演者たちとは別の所で芝居をしている感じでした。染五郎の若狭之助、 癇が強くてキレやすい若殿様を好演。五・六段目の勘平よりもよかったです。塩冶判官の菊之助、力量を感じさせる演技でしたが、こういう白塗りの男役になると、なんか顔が向き卵みたいにツルペロンとなります。お父さんみたいにも少し皺がよってくると、風格が出るのでしょうか。巳之助の足利直義は、そられしい高雅さがありました。七之助の顔世御前は不安ない芝居。
 続いて「判官切腹の場」、年末の仕事の疲れから、不謹慎と思いながらも意識消失。
 続いて「道行」。定式幕が右から左に開いたのでびっくり。最後に鷺坂伴内が、左から右へ閉まって行く定式幕に追われるようにして、下手に掃けて行くために必要なんでしょうか。また、あらかじめ浄瑠璃を読んでみたところ(たとえばこちらでも読めます)、舞台は夜で最後に夜が明けるとの設定で、墨絵のような夜の富士が背景のはず。しかし実際の舞台では、菜の花畑に桜が咲き乱れる昼間の風景。舞台を明るくするための変更でしょうか。
 玉三郎と海老蔵の踊りは美しかったですが、踊りはよくわからないぽん太、七段目ほどには感動しませんでした。
 

歌舞伎座新開場柿葺落
十二月大歌舞伎
仮名手本忠臣蔵
平成25年12月23日 昼の部

通し狂言 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)

 大 序 鶴ヶ岡社頭兜改めの場
 三段目 足利館門前進物の場
     同  松の間刃傷の場
   
   塩冶判官 菊之助
   桃井若狭之助 染五郎
   足利直義 巳之助
   顔世御前 七之助
   高師直 海老蔵

 四段目 扇ヶ谷塩冶判官切腹の場
     同  表門城明渡しの場
   
   大星由良之助 幸四郎
   塩冶判官 菊之助
   顔世御前 七之助
   赤垣源蔵 亀三郎
   竹森喜多八 松 也
   矢間重太郎 竹 松
   富森助右衛門 廣太郎
   奥田定右衛門 宗之助
   大星力弥 尾上右近
   斧九太夫 錦 吾
   薬師寺次郎左衛門 亀 蔵
   原郷右衛門 友右衛門
   石堂右馬之丞 染五郎

 浄瑠璃 道行旅路の花聟
   
   腰元おかる 玉三郎
   鷺坂伴内 権十郎
   早野勘平 海老蔵

2013/12/25

【歌舞伎】おかるの玉三郎の芸に見とれる「仮名手本忠臣蔵」2013年12月歌舞伎座夜の部

 12月の歌舞伎座の演目は、先月と同じく「仮名手本忠臣蔵」。公式サイトはこちらです。
 先月と上演する段もまったく同じで、俳優が違うだけ。たしかに名作には違いませんが、ちょっと飽きてきます。「忠臣蔵」が客が呼べるからなのか、それとも新歌舞伎座の杮葺落で「忠臣蔵」を演じたいという役者の要望なのか、まさか同じ舞台装置を使い回して経費節減というわけじゃないですよね。
 おまけに先月がベテラン勢で、今月が若手中心の配役。う〜ん、逆の方が良かったのに。ついつい先月の熟練した芸と比べてしまいます。
 そんななか群を抜いていたのが、当たり前といえば当たり前ですが、七段目の玉三郎のおかる。二階の障子が開いて登場となりますが、扇の動きを見ているだけでうっとりとしてため息が出て来てしまいます。背をそらして鏡越しに手紙を見る姿が美しく決まっているのはもちろんのこと、なにげない姿勢、一つひとつの仕草、細かな指の動きが全て素晴らしいです。二階から梯子で下りる時の「船に乗った様で恐いわいな」では、小刻みに体を動かしながら揺れる仕草をしますが、そういう細部が一つひとつきっちりと演じられており、かつそれぞれ美しいのです。体全体が常に芝居を演じており、コントロールされていない動きは、一瞬たりとも、体の一部であっても、ありません。本舞台の兄・寺岡平右衛門との花道でのやりとりも、ブリッコぶりが馬鹿馬鹿しくて見てられないものの、決して下品にはならず、思わずニコニコ微笑んでしまいました。刀を拾う時、黒衣さんに回収されずに落ちていた懐紙を一緒に拾って懐にしまった手際もお見事。
 寺岡平右衛門の海老蔵、素晴らしいとまではいきませんが、玉三郎の相手を十分に務めてました。最初の花道の出で、必要以上に身を小さくしていたのが面白かったです。幸四郎の大星由良之助、なんで笑いを取るような演技をするのでしょうか。児太郎が大星力弥でした。錦吾の斧九太夫は手慣れた芸。

 五・六段目、染五郎の早野勘平を見るは初めてだったので、どんな勘平になるか楽しみにしてたのですが、ちょっと期待はずれでした。花道の出で駕篭に乗ったおかると出くわすときの表情が、座席の位置関係で見えなかったのは残念でした。「与市兵衛内」に移ってから、畳の上につっぶしているシーンが多いわけですが、泣いているのか、悔やんでいるのか、恥じているのか、嘆いているのか、背中にまったく現れておりませんでした。母が目に留めた縞の財布をさっと奪う動作も、速すぎて現代っぽいというか、チンピラ風の動きに見えました。また、売られて行くおかるが最後の別れとばかりに勘平の傍らに身を伏したとき勘平は背を向けるのですが、これもタイミングが早すぎて、勘平の後ろめたさ、やるせなさが感じられませんでした。その他も動きに様式的な美しさが見られないのは、玉三郎と比べると一目瞭然。一つひとつの感情の表現もきっちりしてませんでした。その結果、全体として盛り上がりに欠ける芝居となりました。
 獅童の斧定九郎、爬虫類のようないやらしさに色気もあって良し。数日前に母親を失ったばかり。観客が暖かい拍手で応援。七之助のおかる、綺麗だし、腰元らしい格式がありましたが、もう少し可愛らしいさがある方がぽん太の好みです。吉弥の母おかやは健闘。萬次郎の一文字屋お才はやり手ババア風でした。
 五・六段目の型に関してはぽん太はよく知らないのですが(わかりやすく解説していあるサイトはないでしょうか?)、先月と続けて観たので、いくつか違いに気がつきました。母おかやが勘平を血だらけの財布で何度も叩く演出は、先月はなかったように思います。また染五郎は、最後に陥る前に首を切りませんでした。


歌舞伎座新開場柿葺落
十二月大歌舞伎
仮名手本忠臣蔵

平成25年12月22日 夜の部

通し狂言 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)

 五段目 山崎街道鉄砲渡しの場
     同   二つ玉の場
 六段目 与市兵衛内勘平腹切の場
   
   早野勘平 染五郎
   斧定九郎 獅 童
   女房おかる 七之助
   母おかや 吉 弥
   判人源六 亀 蔵
   千崎弥五郎 高麗蔵
   一文字屋お才 萬次郎
   不破数右衛門 彌十郎

 七段目 祇園一力茶屋の場
   
   大星由良之助 幸四郎
   寺岡平右衛門 海老蔵
   竹森喜多八 松 也
   富森助右衛門 廣太郎
   大星力弥 児太郎
   斧九太夫 錦 吾
   赤垣源蔵 亀三郎
   遊女おかる 玉三郎

十一段目 高家表門討入りの場
     同 奥庭泉水の場
     同 炭部屋本懐の場
   
   大星由良之助 幸四郎
   原郷右衛門 友右衛門
   奥田定右衛門 宗之助
   矢間重太郎 竹 松
   富森助右衛門 廣太郎
   大星力弥 児太郎
   竹森喜多八 松 也
   小林平八郎 獅 童

2013/12/23

【登山】玉の入饅頭を食べに行こう♪秋山二十六夜山

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 年末で疲れきって登山意欲が減退。家を出るのが昼前となってしまい、2時間で往復できる山ということで、二十六夜山(秋山)に登りました。「二十六夜山」という名前の山は、南西の都留市のあたりにもう一つあり、そちらを道志二十六夜山、こちらを秋山二十六夜山と呼んで、区別することがあります。
 「二十六夜山」というのは変わった名前ですが、江戸時代には、「二十六夜待ち」という風習がありました。旧暦1月と7月の26日の夜に月の出るのを待って拝むと、弥陀・観音・勢至の三尊が現れるという口実のもと、夜宴が行われたようで、二十六夜山はこの行事の会場だったと思われます。

【山名】秋山二十六夜山971.8m
【山域】奥多摩・高尾
【日程】2013年12月4日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】快晴
【ルート】13:53浜沢登山口…15:08二十六夜山…16:07浜沢登山口

(※大きい地図や3D地図、当日の天気図などはヤマレコの記録へ)
【マイカー登山情報】県道35号線の浜沢から案内板に従って南に入ると、給食センターがあります。そこから一度切り返すような急カーブで左折して細い道を上がって行くと、右カーブの左側に車を数台停められるスペースがあります。そのスペースの奥から登山道があります。
 なおコンビニは、上野原市内を出てしまうと登山口までありません。小さな個人商店があるくらいなので、買い物はお早めに。

Img_7416 二十六夜山の登山口には、饅頭屋さんがあるという噂がネットと流れてました。休みだと困るのでいちおう弁当も買っておいたのですが、やってました、やってました。「元祖玉の入まんじゅう」というお店です。
Img_7413 お店の片隅で、饅頭を蒸かしております。
Img_7417 駐車スペースに車を停め、奥のところから登山開始。ちょっと登ると一度別荘地の舗装道路に出ますが、やがて道が細くなって登山道となります。
Img_7419 ちょっと登ると東屋がありました。登り初めが2時だったので、ここで昼食。
Img_7421 先ほど買ったお饅頭、こんなにおっきいです。
Img_7422 皮は厚くて蒸しパンのような感じ。お酒の香りがして、酒まんじゅうです。あんこは素朴で小豆の味がして甘すぎず、なかなか美味しいです。二十六夜山登山の際は、ぜひお食べになるようお勧めします。
Img_7424 冬枯れの雑木林を、落ち葉を踏みしめながら登っていきます。登山道が尾根を直登しているので、けっこうな急坂で、ふくらはぎのストレッチができました。
Img_7428 残念ながら紅葉はあまりきれいではありませんでした。
Img_7427 急登を登り詰めると、やがてなだらかな稜線歩きとなります。そこから右に折れてちょっと行くと山頂です。残念ながら曇っていてい展望はありませんでした。地図を見ると、右に折れる曲がり角あたりに二十六夜塔があるようですが、見るのを忘れました。

【観光】蓮台寺温泉から下田を観光、途中美味しい金目鯛をいただいた後、伊東温泉の北里柴三郎別荘千人風呂跡を訪ねる

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Img_7367 11月下旬、金谷旅館に泊まったぽん太は、伊豆を観光しつつ家路を辿ることにいたしました。金谷旅館から稲生沢川を少し北に遡ったところに、「お吉ヶ淵」という場所があります。ハリスの妾となったばかりに波瀾万丈の障害を送った唐人お吉が、身を投げて自殺したのがこの場所です。明治23年(1890年)、お吉が48歳の時でした。
Img_7363 案内板によると、ここに置かれている「お吉地蔵」は、新渡戸稲造が作ったものなんだそうです。
Img_7365 傍らには、小さな祠があります。
Img_7366 公園として整備され、人工の池に鯉が泳いでました。

Img_7371 お次ぎは、蓮台寺温泉の一角にある「吉田松陰寓寄処」です。藁葺き屋根の古い建物です。
Img_7368 案内板によると、嘉永7年(1854年)3月18日に密航の目的で下田に到着した吉田松陰は、皮膚病を患っていたために温泉療養のために蓮台寺を訪れ、偶然知り合ったこの家の主・村山行馬郎医師の家に身を寄せました。3月27日に小舟で米艦に漕ぎ着けて乗船を願いましたが断られてしまいました。内部も有料で見学できるようですが、ぽん太とにゃん子は省略。

Img_7372 下田に移動して、宝福寺です(公式サイト)。唐人お吉のお墓があるところとして有名ですが、坂本龍馬とも関連があるようです。文久3年(1863年)1月15日、第15代土佐藩主山内容堂がこのお寺に泊まっておりました。同じ時に勝海舟と坂本龍馬も下田に泊まっておりました(角谷という船宿だそうで、安直楼の近くに看板があるそうですが、今回は見逃しました)。容堂は海舟を宴席に招きましたが、そこで海舟は龍馬の脱藩の罪の赦免を求めて直談判したんだそうです。下田は、幕末の様々なエピソードの舞台になっているんですね。
Img_7375 古い街並をあてどなく散策していたところ、「三島由紀夫の愛したマドレーヌ」という貼紙を発見!
Img_7376 こちらの日新堂さんです。ホームページによれば、三島由紀夫は昭和39年(1964年)の夏から、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した昭和45年(1970年)まで、毎年下田東急ホテルに宿泊して夏のバカンスを過ごしたそうです。その間三島は、毎週のようにこの店を訪れ、マドレーヌを購入したんだそうです。牛乳とバターを使用していないそうで、素朴な味わいですが、卵の香りがして美味しかったです。
Img_7382 古民家ギャラリー兼喫茶室「草画房」。築100年近い古民家を改装したものだそうです。
Img_7387 安直楼です。安政4年(1857年)の5月から8月ハリスの妾として使えたお吉は(たった3ヶ月だったんですね)、酒に溺れて荒んだ生活をするようになりましたが、明治15年に(1882年)小料理屋安直楼を開きました。しかしあいかわらずお吉は酒に溺れ、わずか2年で廃業したそうです。
Img_7393 了仙寺です。ペリー一行の応接所として使われ、日米和親条約の細則を定めた下田条約が締結された場所だそうです(日米和親条約そのものは横浜で締結)。
Img_7395 この駕篭は、お吉がハリスのところに通う時に使ったものだそうです。
Img_7396 「吉田松陰拘禁の跡」です。下田市立中央公民館の一角にあります。
Img_7397 1854年(嘉永7年)3月27日に密航を試みるも断られた吉田松陰はいさぎよく自首し、ここにあった宝光院長命寺で拘禁されたそうです。

Img_7401 伊豆に来たからには昼食は美味しいお魚をいただきたいところ。ある町でガイドブックに載っていた店が大混雑だったため、近くの店を適当に探した所、素晴らしい店に行き当たりました。混むと嫌なので秘密です。写真は金目鯛のにぎり。肉厚で旨味があって本当に美味しかったです。
Img_7403 こちらは金目鯛の煮付けです。こちらも味がしみてて美味しゅうございました。満足満足。もう体重はどうなってもイイ!
Img_7407 車窓からは間近に伊豆大島が見えました。台風の被害、お見舞い申し上げます。
Img_7408 帰りがけに伊東温泉に寄り、湯川沿いの木下杢太郎の句碑を探しまわりました。目的は、「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」。河口から遡って行き、野間自由幼稚園のあたりでようやく見つけたので、けっこう歩いてしまいました(地図)。
Img_7409 なぜこの句碑を探したかというと、この場所(ということは、今の野間自由幼稚園の場所ですね)には北里柴三郎の別荘があって、以前の記事に書いたように、大正2年(1913年)に「千人風呂」が作られたからです。ぜひこの場所は「温泉遺産」に指定して欲しいです。

2013/12/22

【温泉】有名な「千人風呂」はさすがです・伊豆下田河内温泉金谷旅館(★★★★★)

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 「千人風呂」で有名な金谷旅館に行ってきました。公式サイトはこちらです。
 場所は伊豆半島は下田のやや北側。ぽん太は蓮台寺温泉に属するのかと思ってましたが、それとは別の河内温泉(こうちおんせん)の一軒宿という位置づけだそうです。
Img_7360 広々とした敷地、丁寧に刈り込まれた庭木に囲まれ、のんびりとした趣きです。
Img_7297 建物もなかなか年季が入っていていい感じ。ぽん太の好みです。
Img_7294 正面の本館は昭和4年に建てられたものだそうです。
Img_7299 玄関です。伊豆の旅館らしい風情です。
Img_7298 木造の円形の建物が面白いです。女性用の大浴場「万葉の湯」の端っこだそうです。
Img_7352 帳場です。重厚な北国の温泉旅館とは異なり、明るくて軽快な感じです。
Img_7350 帳場から続く廊下。奥の右手が名物の千人風呂です。
Img_7346 客室は、昭和4年に造られた本館、昭和31年の客室、そして鉄筋二階建ての別館があります。古い建物が好きなぽん太とにゃん子は、本館を部屋をお願いしました。玄関の2階にあるちょっと良い部屋も空いてたのですが、隣りに宴会目的の団体が入るとのことなのでお断りし、奥まった所にある角部屋をお願いしました。あまり広くはありませんが、静かで落ち着くお部屋です。
Img_7310 洗面所の傍らにあったコイン式のヘアドライヤー。
Img_7319 玄関の横にある休憩室。丸窓がいいですね。
Img_7305 さてお風呂です。千人風呂は混浴でもあることもあって撮影禁止です。噂に違わず広いです。浴室は木製で、天井はカマボコ型になってます。浴槽も木製で、プールのような長方形で、幅5メートル、長さ15メートル。手前はやや浅くなっていて、ところどころに彫刻がお湯の中から突き出ています。奥は1mぐらいの深さがあり、まさしくプールです。ぽん太も他のお客さんがいないときに、ちょっと泳いでみました。泉質は単純温泉で無色透明、無味無臭です。加水・加温・循環なしの源泉掛け流しです。千人風呂の一番奥には露天風呂があり、まあまあの広さなのですが、千人風呂のインパクトにはかないません。
 もともとは大正4年に建てられましたが、平成14年に改装されたそうです。以前の記事で書いたように、千人風呂の先駆けとなったのが北里柴三郎が伊東の別荘に造った千人風呂で、これが大正2年(1913年)ですから、その2年後に造られたことになります。
Img_7303 こちらは「一銭湯」。現在は家族風呂として使われていますが、元々は明治時代の末期に作られたもので、箱に一銭を入れて利用したので、一銭湯と呼ばれているそうです。いわゆる「銭湯」ってやつですかね。シンプルでアルカイックでぽん太的にはかなり得点が高いです。
Img_7323 夕食は、お食事どころの個室で頂きました。先付けには大女将手製の干し柿です。
Img_7324 紙鍋はキンメ入りの海鮮鍋、煮物もキンメです。
Img_7326 お造りはなんと舟盛りで登場。しかも伊勢エビが先頭を飾っております。
Img_7328 焼き物と、白身魚湯葉あんかけ。
Img_7330 炊く寸前に精米した新潟産コシヒカリのご飯、手製の赤だし味噌を使ったお味噌汁もおいしかったです。
Img_7334 朝食も品数が多く、見た目も華やかです。昨日の舟盛りの伊勢エビ君が、赤くなって再登場。おかえりなさい
Img_7318 旅館のあちこちに若女将の絵が架けられています。また廊下には、自分を撮った写真がはってあったり。ご趣味が高じてダンスホールも造ったそうです。ぽん太自身も趣味に走っている方ですが、見ていてちょっと手前味噌っぽくて引いてしまいます。
Img_7356 こちらはご主人のご趣味の天体望遠鏡。
Img_7353 広くてゆったり。どこかのんびりした感じの金谷旅館。なんと言っても千人風呂が、アイディアといい、造形といい、歴史的価値といいすばらしく、F難度認定で、一回ぐらいジャンプで転倒しても優勝間違いありません。温泉ファンなら一度は入るべし。建物も古くて鄙び感もあり、まさしくぽん太の好み。料理も伊豆らしく魚が美味しく、手が込んでいます。ぽん太の評価は5点満点です。

2013/12/21

【登山】軟弱にゃんにゃん・仁科峠から猫越岳(ねっこだけ)(付:道の駅 花の三聖苑伊豆松崎)

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 猫という字が付くので登ってきました

【山名】猫越岳1034.7m
【山域】伊豆・愛宕
【日程】2013年11月22日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】快晴
【ルート】10:57仁科峠…11:23後藤山…11:59猫越岳…猫越峠…12:27猫越峠のちょっと先で折り返し…13:05猫越岳近くの展望台13:21…13:56仁科峠

(※大きい地図や3D地図、当日の天気図などはヤマレコの記録へ)
【マイカー登山情報】仁科峠に数台停められる駐車場あり。

Img_7255 天気は今日も快晴!西伊豆スカイラインの仁科峠の駐車場に車と停め、登り始めます。ってゆ〜か、昨日に引き続き、今日もほぼ水平移動です。伊豆特有の笹山の中を登ります。深い所では背丈ほどもある笹薮です。
Img_7259 振り向くと、富士山がこちらを見て笑ってました。移っている道が西伊豆スカイライン。その左手ののびやかな山並みが、伊豆山稜線歩道です。
Img_7258 少し左に目を転じると、南アルプスが北の端から南の端まで一望できます。
Img_7261 さらに左を向くと、西伊豆の港町が見えます。宇久須かしら?そういえば最近はダイビングに行ってないな〜。
Img_7263 ちょっと歩くと後藤山の小ピーク。
Img_7264 その先はアセビのトンネルです。春の花の頃はさぞ綺麗でしょうね。
Img_7266 なぜ伊豆の山は笹団子なんだろうと前から不思議に思っておりましたが、風が強いのが原因の一つかもしれません。写真からわかるように、わずかに生えている木々は東側に向かって押し倒されております。折れてしまっている木もいっぱいありました。わずかに生えて来た木もどんどん風で折られてしまうのでしょうか?アセビは風に強いのかもしれません。しかしホントのところは不明です。
Img_7267 猫越岳山頂の手前に展望台があります。天気は快晴ですが、富士山には少し雲がかかってきました。写真は猫越岳山頂方面です(どれが山頂?)。
Img_7271 山頂手前には小さな池があります。植物でびっしり埋まっています。
Img_7273 案内板です。ぽん太の持っている昭文社の地図(1996年版)には「火口湖」と書いてありますが、この看板によるといわゆる火口湖ではないようです。
Img_7275 庭園のような風景のなかを進んで行くと…
Img_7279 猫越岳山頂に到着。おめでとうございます。ここまで約1時間。これで帰るのでは旅館で摂取したカロリーを消費できないので、あと30分、行ける所まで歩くことにしました。
Img_7281 そこから先は、ブナが目立つようになります。地面から少し立ち上がったところで、複数に分岐するという不思議な枝振りをしております。強風や地質などの環境要因によるのか、こういうブナの品種なのか、ぽん太にはわかりません。
Img_7287 猫越岳近くの展望台まで戻り、富士山を見ながらお弁当を頂きました。

Img_7291 今宵の宿に向かう途中、松崎町の大沢温泉にある「道の駅 花の三聖苑伊豆松崎」に偶然立ち寄りました。なにやら古い建物が保存してありました。
Img_7290 明治6年に依田佐二平が私財を投じて作った学校の建物を、移築保存したものだそうです。この道の駅の公式サイトによれば、この依田佐二平に加え、土屋三余、依田勉三が、幕末から明治にかけて活躍した偉人として、松崎の三聖人と呼ばれているんだそうです。
Img_7292 こちらは三聖会堂。内部には、三人の業績が展示されております。

2013/12/20

【温泉】巨石風呂にじぇじぇじぇ!料理もうまい・湯ヶ島温泉白壁館(★★★★)(付:天城湯ヶ島金山跡)

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 運慶のありがたい仏像を拝観してすっかり気持ちが安らぎ、俗世間の欲望を超越したぽん太は、湯ヶ島温泉白壁荘に泊まりました。
 事前に宿泊プランを見ていたら、わずかの値段の追加で、「露天風呂付き客室+貸し切り温泉利用+夕食伊勢エビ付き」というプランがあったので、それをお願いしました。
 実はぽん太はこれまで露天風呂付き客室というものに泊まったことがありません。あゝ、セレブの世界、一度は泊まりたい露天風呂付き客室。ついにそれが実現するのです。それから夕食の伊勢エビ。食品偽装が社会的問題になっている今、絶対に本物がいただけます。あゝ、うれしや楽しや俗世間。公式サイトはこちら。宿泊日は11月下旬です。
Img_7247 こちらが玄関の写真。茶色い瓦屋根でけっこう普通の建物ですが…
Pb220210 内部は民芸調・旅籠調となっております。
Img_7245 宿はけっこう広くて部屋数も多く、コンクリート造の部分もあったりしますが、古風な感じが保たれています。井上靖や木下順二が泊まった宿でもあるそうです。
Img_7243 お部屋は落ち着いた和室で、けっこう広いです。
Img_7240 中庭に面していて、庭に出て散策することもできます。
Img_7242 じゅうたん敷の広縁の端が畳敷きになっており、ちっちゃなコタツが置かれています。一見とって付けたように見えますが、ちゃんと掘りごたつになってます。
Img_7239 部屋の名前は「茜」でしたが、室内に「あかね」という草の押し花に、歌が添えてあります。なかなかの心遣いです。
Img_7221 さて、温泉です。まずは生まれて初めての部屋付きの露天風呂から。木製の樽風で、展望はありませんが、狭苦しい感じもしません。貸し切りであることはもちろんのこと、部屋からすぐに入れるのがいいです。
Img_7238 お湯は無色透明。なめると少し塩っぱいです。泉質はカルシウム・ナトリウムー硫酸塩温泉。泉温は46度。もちろん源泉掛け流しです。
Pb220177 こちらは部屋付きの内湯。金属製の浴槽ですが、蛇口から出て来るのは源泉だそうです。ぽん太はわざわざ入りませんでした。
Img_7213 さて、大浴場の方に移り、こちらは「巨石露天風呂」。おもわず「じぇじぇじぇ!」と叫んでしまいました。写真ではわかりませんが、かなり巨大で、重量感に圧倒されます。長さは5メートルくらいあるでしょうか。重さは53トンだそうです。
Img_7216 普通に考えると、お湯の熱がすべて岩に奪われてしまうような気がしますが。湯量が豊富だからこそ可能なのかもしれません。
Img_7234 こちらは「巨木風呂」。時間制で巨石風呂と男女入れ換えになります。ガボン共和国の樹齢1200年くらいのブビンガという木を繰り抜いて作ったものだそうです。
Img_7229 まだまだお風呂があります。こちらが男性用の大浴場「瑠璃の湯」。窓の外は美しい紅葉。湯気が朝日で輝いてきれです。これぞ朝風呂の醍醐味。
Img_7209 最後に貸し切り露天風呂。露天といっても目の前は崖で、上の方に少し空が見えるだけです。それでも、これでもかというほどたくさんの温泉に、ぽん太とにゃん子は大満足。
Img_7194 夕食は、お食事処のなかの個室でいただきました。彩りも鮮やかで、ちょっと華やいだ感じがするお料理です。
Img_7199 前に書いたように、今回の宿泊プランは「伊勢エビ」つきです。もちろん偽装なし。ありがたや、ありがたや。拝んでから頂きました。ちょっと小さめでしたが、美味しかったです。
Img_7196 湯ヶ島といえばワサビの産地。生ワサビが付いてきます。ここで生まれて初めていただいたのが「ワサビ酒」。すり下ろしたワサビをけっこう大量に冷酒に混ぜます。すると不思議ふしぎ。お味はなんと柑橘系。しかし後味は辛いです。ちなみにワサビを置いてある木製の台はイノシシの形ですが、この宿はイノシシがマスコットになっているようです。
Img_7198 ということで猪鍋です。以前に泊まった近くの吉奈温泉さか屋でもイノシシ料理が名物でした。この辺りはイノシシが多いのでしょうか。そういえば最近は全国的に鹿が増えすぎて困っているとのこと。ぜひとも美味しく頂いてあげたいです。
Pb210146 箸置きもイノシシです。
Img_7205 器もイノシシです。
Img_7203 定番の岩魚の塩焼きですが、笹を使った盛りつけがお見事。
Img_7206 このほかにも色々なお料理が出ました。〆はワサビご飯。炊きたてのご飯の上に下ろしたての生ワサビを乗せ、醤油を少々。口の中がすっきりして美味しゅうございました。
Img_7224 こちらが朝食です。伊豆の干物や、ワサビの小鉢。今が旬の桜えびもついて、なかなか凝ってました。
 「伊豆の山中のひなびた宿」という雰囲気ではなく、規模も大きいし、風呂やお食事なども「けれん」が感じられます。でもそれが嫌みったらしくならず、旅の雰囲気を華やかに盛り上げ、ウキウキした気分にさせてくれます。豊富な湯量で温泉力もなかなか。ぽん太の評価は4点です。

Img_7249 翌日、西伊豆スカイラインに出るべく、湯ヶ島から西へ向かう山道を車で登って行くと、「工場萌え」系の建物がありました。天城湯ヶ島金山の跡です。
Img_7251 古びた建物も残っております。
Img_7252 斜面にはいろいろと鉱山の遺跡が残っているようです。
Img_7253 廃坑となった鉱山を訪ねることを趣味としている人々がいるようです(例えばこちらこちら)。これも楽しそうですが、ぽん太はまだ深入りする気にはならず、車窓からの見学だけでパスしました。

2013/12/19

【登山】ロープウェイのお気軽散歩で富士山を見る!箱根山(駒ヶ岳、神山)、付:願成就院・国宝の運慶作仏像が5つもあり

Img_7168  以前は百名山目指してピークハントに明け暮れたぽん太ですが、完登を成し遂げてからはややモチベーションがさがり、さらに体力も低下。最近はまず温泉を決めてから、登る山を探すという始末です。
 さて、湯河原温泉宿泊の翌日、天気は快晴!これは富士山を見ない手はありません。ということで、箱根に行くことにしました。前日の夜、宿で地図を眺めながら考えたルートで、駒ヶ岳ロープウェイで上がって、箱根最高峰の神山まで往復するという軟弱コース。箱根の最高峰が神山であることも、このとき初めて知りました。


【山名】箱根山(駒ヶ岳1327.0m、神山1437.9m)
【山域】箱根・湯河原
【日程】2013年11月21日
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】快晴
【ルート】11:55こまがたけさんちょう駅…12:01駒ヶ岳山頂…12:52神山山頂13:14…13:56こまがたけさんちょう駅

【マイカー登山情報】箱根駒ヶ岳ロープウェイ乗り場に大きな無料駐車場あり。


Img_7161 観光バスのおじさん・おばさんに混ざって、ロープウェイで一気に山頂へ。自分たちの気合いの入った登山姿が恥ずかしいです。さすがにストックは車に置いてきました。ロープウェイの駅を出ると、すぐ目の前が駒ヶ岳山頂。頂上の神社が見えます。植生は伊豆独特の笹山。柔らかくていい感じです。
Img_7162 頂上に鎮座ましますのは箱根元宮(はこねもとつみや)。公式サイトによれば、御祭神は箱根大神(はこねのおおかみ)。古くから、神山を天津神籬(あまつひもろぎ)、駒ヶ岳を天津磐境(あまついわさか)として祭祀が行われておりましたが、この社殿が再建されたのは昭和39年だそうです。本拠地の里宮は、芦ノ湖畔にある箱根神社ですね。公式サイトはこちら
Img_7164 山頂から見た小田原方面。
Img_7165 やや左に目を転ずると、三角形の大山から始まる丹沢の山々。
Img_7167 そして、ふじさん
Img_7171 ここから鞍部まで下り、ふたたび神山に登り返します。写真は鞍部から見た神山。
Img_7174 山頂には石碑がありました。「天照王大御神」と書かれており、いわゆるアマテラスのことだと思いますが、信仰上のいわれはよくわかりません。
Img_7177 神山山頂からは展望がありませんが、早雲山方向にちょっと下ると、富士山を眺めながら弁当を食べられるスポットがあります。仙石原(のゴルフ場)の向こうに見える富士山です。
Img_7181 こまがたけさんちょう駅に戻って、逆光の芦ノ湖。その向こうは西伊豆で、大瀬崎が見えてます。


 


Img_7190 ロープウェイに戻ったのが午後2時前。軟弱なぽん太とは言え、なんでこんなに速く降りて来たかというと、もう一カ所行きたい所があったからです。それは韮山にある願成就院(がんじょうじゅいん)です。ここには、国宝の運慶作の仏像があるのです。
Img_7188 運慶作と「伝えられる」仏像は数多くありますが、運慶の「真作」と断定されたものは多くありません。ここには阿弥陀如来坐像、不動明王、二童子立像、毘沙門天立像の5体の仏像があり、平成25年(2013年)に国宝に指定されております。
 しかも、仏像をすぐ近くで拝観することができます。普通は国宝の仏像ならば、ガラスケースかなにかに入っていて、遠くから拝むことしかできませんが、ここでは、仏像の間近まで近寄ることができます。お参りにきた人たちと仏様との間に隔たりのないように、という御住職のお考えによるそうですが、国からの指導もあるらしく、いつガラスケースに納められてしまうかわかりません。いつ見るの?今でしょ!の仏像です。
 個々の仏像についてうんちくを言う知識と能力はぽん太にはないのですが、印象を垂れ流させていただければ、木造阿弥陀如来坐像は肉付きもよく力強さが感じられます。説法印を結んだ阿弥陀如来像は珍しいとのこと。衣紋の流れも美しかったです。木造毘沙門天立像も重量感があり堂々としており、ポーズは派手ではないのに、ゆらりとした躍動感が感じられます。不動明王も水晶をはめ込んだ「玉眼」が恐ろしく、制吒迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)の二童子立像もなかなか立派で、特に矜羯羅童子は子供のような身体をして穏やかな表情を浮かべながら、超越的な力強さが感じられました。
Img_7191 境内には、「北條時政公御墓」があります。時政といえば北条政子の父。NHK大河ドラマの「平清盛」では遠藤憲一が演じてた人といえばわかるでしょう(ぽん太だけ?)。
Img_7185 こちらは「足利茶々丸公方御墓」。大河ドラマの「平清盛」では……出てませんネ。室町時代ですから。NHKさん、幕末と戦国ばかりやらないで、たまには室町もお願いします。

2013/12/18

【温泉】藤村も愛したレトロな宿/湯河原温泉伊藤屋(★★★★)/付:小梅堂・福泉寺の首大仏

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Img_7087 高級温泉街湯河原は、とてもぽん太の手の届くところではなく、しょっちゅう通過はしていたものの、宿泊するのは二十数年振り2回目。まるで弱小高校の甲子園出場のようなありさまでした。しかしこの間ぽん太の収入は徐々に増え、一方で不況によって伊豆の旅館のお値段は徐々に低下。ようやくぽん太と湯河原の接点ができました。ということで今回お世話になったのは伊藤屋さん。公式サイトはこちら。時期は11月下旬です。
Img_7137 伊藤屋さんは歴史ある建物が魅力で、大正15年に造られた本館、大正前期に造られた奥館、そして昭和初期の門柱・石垣が、国登録有形文化財に指定されております。
Img_7133 ということで、当然のことながら、古い建物の本館の部屋を指定です。客室17番。二間続きの角部屋です。
Img_7114 縁側の窓からは、紅葉した庭を眺めることができます。
Img_7124 障子に映る樹々の影。いつもながらの和室の美です。
Img_7091 さて、温泉です。男女別の内湯と、二つの貸し切り露天風呂があります。こちらは貸し切り露天風呂のひとつ。料金は無料で、空いていれば何度でも入ることができます。展望がないのは、湯河原の温泉街では仕方ないところ。
Img_7112 こちらがもう一つの貸し切り風呂。お湯は無色透明で、少し塩っぱいです。
Img_7094 こちらが内風呂。岩風呂風になってますが、ちょっと地味。やはり貸し切り露天がいいですネ。
Img_7096 泉質は、ナトリウム・カルシウムー塩化物・硫酸塩泉。pH: 8.6と弱アルカリ性です。泉温は60.1度と高温です。
Img_7097 加水・循環が行われておりますが、源泉が高温なので温度調整のためということで、さすが湯河原の湯、温泉力はなかなかです。
Img_7099 さて、温泉のあとは夕食です。老舗旅館ならではの、見た目も美しい会席料理です。
Img_7100大山地鶏の鍋は、当旅館を定宿とした島崎藤村が好んだことから、「藤村鍋」と呼ばれているそうです。
Pb200041 こちらは「小町和え」。オレンジ色のはニンジンではなく柿で、かかっているのは酢みそではなくピーナッツバターです。美味しゅうございました。
Pb200052 西京焼の素材はなんと「アラ」だそうです。
Pb200060 こちらはしめサバならぬしめサンマ。珍しいですね。
Pb200066 デザートはサツマイモプリン。美味しゅうございました。このほかに天ぷらや煮物などもあります。
Img_7121 こちらが朝食です。
Img_7122 今回の宿泊プランは、朝食にアジタタキがつくコース。朝から伊豆の海の幸を満喫し、よきかな、よきかな♪
Img_7098 伊藤屋は、多くの文人・墨客が定宿としてきたそうで、特に島崎藤村は何度も訪れたといいます。『夜明け前』の原案は、この旅館で練られたそうです。宿帳などがロビィの一角に展示されておりました。
 また、二・二六事件の際、政治家の牧野伸顕がこの宿の別館に泊まっており、麻布第一聯隊の兵士によって襲撃されましたが、危うく難を逃れたそうです。
 湯河原にある歴史ある温泉。古い建物も美しく、貸し切り風呂が嬉しいです。温泉力は言うまでもなし。食事も凝っており申し分のない宿ですが、値段もそれなりなので、ぽん太の評価は5点に近い4点!

Img_7140 こちらは、伊藤屋さんの隣りにある和菓子の小梅堂さん。なかなか素晴らしい建物です。伊藤屋さんの近所には、歴史を感じさせる味のある建物が多く残っています。
Img_7142 写真を一目見てぽん太の脳裏から離れなくなった、湯河原の福泉寺の首大仏を見に行きました。陶器製の大仏の首で、元は名古屋城内にあり、名古屋城主徳川光友公が亡き母を弔うために造ったものと言われており、戦後に福泉寺に奉納されたのだそうです。なかなかキッチュな味を出しております。
Img_7149 大きさは、このぐらいです。
Img_7144 本堂も茅葺きでいいかんじ〜です。

2013/12/17

【拾い読み】ガラメキ温泉の情報を入手。池内紀「ガラメキ温泉探検記」

 先日、榛名山麓にあるガラメキ温泉に入って来たぽん太ですが、「ガラメキ温泉探検記」(池内紀著、廣済堂、1990年)という本があることを知り、読んでみました。
 著者の池内紀は言わずと知れたドイツ文学者。カフカの翻訳で有名ですね。1940年生まれですから、この本を出版したのが50歳。なかなかの物好き温泉ファンですね。
 上記のようなタイトルですが、まるまる一冊ガラメキ温泉のことが書かれているわけではなく、様々な温泉が取り上げられております。「ガラメキ温泉探検記」は、そのうちの一章のタイトルですが、これを署名にするということは、池内先生にもよっぽど印象に残ったのでしょう。
 さて、いつもならここで本書全体の拾い読みに入るところですが、今回はガラメキ温泉に関することだけ。
 池内氏がいつガラメキ温泉を訪れたのかは、本文中にはありませんが、この章の初出が日本交通公社の『旅』の1989年10月号であり、また本文の書き出しが「台風が近づいていた」というところから察すると、1989年の夏〜秋と思われます。
 ガラメキは、「がら女き」あるいは「我楽目嬉」などとも書いたそうです。
 明治35年発行の『伊香保温泉場名所案内』には、「住古人皇十四代仲哀天皇の御宇発見し遠近の老若入浴し効験の著しき事を知れり」、「鉱泉旅舎は阿蘇山や方、富士見館、扇屋等にして夏季に至れば都鄙の浴客多し」と書かれているとのこと。
 榛東村の村役場にある「温泉源泉台帳」によると、所有者は大蔵省となっているので、国有林のなかにあることになる。群馬県衛生研究所によれば、泉温30.5度、無色透明、クロールソーダ、硫酸、塩水などを含む。明治31年に相馬温泉組合が設立され、御料地だったところを借地して開発したそうです。源泉のすぐ下に大黒天の碑があり、「明治二十一年・湯元・松本福次郎」とあり、また石垣の上方に小さなほこらがまつってあって、明治二十一年の年号と、「ガラメキ温泉」という名前が刻まれているそうです。
 この温泉地周辺には、明治43年に陸軍の演習場が置かれ、高崎のだい15連隊が使用したそうです。さらに昭和21年4月、この演習場はアメリカ軍によって接収され、ガラメキ温泉は強制立ち退きが命じられたそうです。
 ここが有名なジラード事件の舞台となったそうですが、無知なるぽん太は知らず。Wikipediaを見てみると、1957年(昭和32年)1月30日に、薬莢を盗むために演習地内へ不法侵入していた日本人主婦を、アメリカ兵のウィリアム・S・ジラード特務二等兵が射殺。裁判を日本でやるか、アメリカでやるかなどでもめて、大きな社会問題となったそうです。
 さて、本書のなかでも源泉は沢にあり、「うす暗がり中に石柱が一つ。その下にまん丸いコンクリートの穴があって、鉄の蓋がのっている。駆けよって蓋の把っ手に両手をかけて横にずらし、すきまから手を差し入れた。あたたかい!」と書いてありますから、現在と状況はあまり変わらないようです。例の鉄製の蓋も、当時のままなのでしょう。入っている分にはあたたかいが、外に出ると寒いので、三人で入浴したと買い照りますから、さぞかし窮屈だったことでしょう。

 本書から得た情報はこれぐらいですが、以前には見つけられなかったガラメキ温泉の画像が、いくつかみつかりました。まず「我楽目嬉」で画像検索をかけたところ、「やまだくんのせかい」というブログに当時の阿蘇山館の絵が載ってました(こちら)。また「富士見館」でぐぐると、「ハレルヤ美容院」のブログに、「上毛 我樂目嬉温泉 全景」と「富士見館 全景」という2枚の絵はがき(写真)がアップされておりました(こちら)。昭和8年4月6日の消印があります。当時の温泉場らしい鄙びた雰囲気がいいです。

2013/12/16

【観光】レトロな街・桐生を散策

Img_7058_2
Img_6970 10月末の話ですが、秋の味覚と言えばキノコ。どこかおいしいキノコが食べられるところがないかとネットで検索し、群馬県は桐生市の「きのこ茶屋」に行って来ました。公式サイトはこちらです。
 桐生市周辺のビジネスホテルからなら、2名から送迎していただけるので便利です。しかし、運転手さんとの会話で気がついたのですが、ここでいただけるキノコは山で自生するものではなく、栽培したものだとのこと。桐生には「森産業」という有名なキノコ栽培の会社があり、「きのこ茶屋」はその敷地内にあって(経営は別)、森産業で栽培したキノコを食べさせてくれるところらしいです。
 キノコの製造販売というと、コマーシャルでよく目にする「ホクト」などが有名ですが、実は森産業はキノコの人工栽培の草分け的存在なんだそうです。創業者の森喜作は、椎茸栽培で、くさび状の種駒を原木に打ち込む方法を始めて開発したんだそうです。ちなみに、関越道の沼田IC付近に昔「Dr.モリ」という看板がありましたが(Yahoo!画像検索)、あれが森喜作さんなんだそうです。ちなみに森産業の公式サイトはこちらです。
 もともとここには森産業が造った「国際きのこ会館」というホテルがありました。昭和49年第9回国際食用きのこ会議を日本で開催するために建てられたものだそうです。このホテルはその後、「ホテルきのこの森」、「きのこの森 桐生国際ホテル」と名称や経営者を変更しつつ営業しておりましたが、2007年8月末に閉館。その跡地に建てられたのが「きのこ茶屋」だそうです(参考サイト)。「ホテルきのこの森」のかなりキッチュな様子はこちらで見ることができます。こういったものに興味を引かれるぽん太には、現在はなくなってしまったのが残念です。
Img_6971 ということで、「きのこ茶屋」に話を戻すと、出て来るキノコは、椎茸やエリンギ、ヒラタケといったも、スーパーで買えるものばかりで、ちょと思惑が外れました。でも、そこは産地直売!みずみずしくてジューシーでとても美味しかったです。
 ぽん太とにゃん子が頼んだのは鳴神山コース。店員さんが一つひとつ炭火で焼いてくれるので、焼き加減も絶妙です。とっても美味しかったですが、地物のきのこを食べたいというぽん太の当初のコンセプトとは違ってしまいました。
 翌日は桐生市内を観光いたしました。観光ガイドやマップは、「桐生WALKER」というサイトでダウンロードできる、るるぶ特別編集 桐生市出没!アド街ック天国桐生市ベスト30マップ、そしてアド街のサイトが参考になります。
Img_6990 まずは「ベーカリーカフェ レンガ」でモーニングをいただきました(ホームページはこちら)。「西の西陣、東の桐生」という言葉が示すとおり桐生市は、高級絹織物の産地として名を馳せてきました。しかし化学繊維の普及や和装の減少によって産業は衰退し、街も過疎化がすすみました。最近は歴史的建造物を利用しての観光に力を入れているようです。
Img_6987 この「ベーカリーカフェ レンガ」も、大正時代に建てられ、国の登録有形文化財に指定されたレンガ造りの織物工場を改装したものです。内部の明るさを確保するため、天井がノコギリ状になっているのが特徴です。
Img_6988 コーヒーはコーヒーメーカーで入れてて普通でしたが、出来立てのパンはなかなか美味しかったです。
Img_6991 上のレンガ造りの建物に続く部分。やや新しい建物のようで、和洋折衷な感じですが、なかなかいい味を出してます。
Img_6993 続いて桐生天満宮です。公式サイトはこちらです。
Img_7013 社殿は群馬県指定の重要文化財ですが、寛政五年(一七九三年)に開帳した本殿の彫刻は見事で、強迫的とも言えるほど執拗に壁を埋め尽くしています。
Img_7002 お次ぎは群馬大学工学部同窓記念会館(旧桐生高等染色学校本館・講堂)です。旧正門、守衛所とともに、国指定登録有形文化財です。どことなくゴシック教会風で、正面のドアの上には十字架らしきものまであります。
Img_7005 内部も教会風のところが面白いです。
Img_7015 こちらは銭湯「一の湯」。
Img_7017 板に手書きされた「いやしいっぱい 一の湯」のキャッチコピーがいい感じです。
Img_7018 ノスタルジックな古い街並です。
Img_7020 郵便局でしょうか。なかなかいい味です。
Img_7024 花屋さんです。
Img_7022 この建物の向かって右には、「坂口安吾 千日往還の碑」というものがありました。安吾が晩年桐生に住んでいたことは知っておりましたが、詳しいことは知らないので、帰宅してから調べてみました。Wikipediaによれば、安吾は1952年2月(45歳)のときに桐生の書上家の離れに移住。知人の小説家・南川潤の紹介で、桐生は南川の妻の郷里でした。ところが1953年、ブロバリンの大量服用で錯乱した安吾が南川の妻を暴行したために絶交。1955年2月17日朝に倒れ、脳出血により死去とのこと(享年48歳)。やれやれ、無頼派の異名を取っておりますが、壮絶な最後ですね(参考:Wikipediaの坂口安吾南川潤)。
 こちらのサイト(蜜蜂的写真日記)によると、碑の裏側には、次のような碑文が書かれているそうです。
 「坂口安吾 千日往還の碑
 『堕落論』『白痴』で戦後文学の旗手となった坂口安吾は、1952年2月ウルウ日、旧友南川潤の世話でここ書上邸に居を構えた。『夜長姫と耳男』を生み、人の子の親となり、『新日本風土記』を執筆の最中、取材旅行から戻った直後に急逝、55年2月17日早朝、48歳4ヵ月だった。通夜には小林秀雄、尾崎士郎、石川淳、檀一雄らも駈けつけた。」
 この花屋さんが、旧書上家のようです。
 それでも「千日往還」という意味はわからないのですが、安吾が桐生に住んでいたのが約3年間ですから、約千日にわたって安吾が行き交ったということなのかもしれません。
Img_7025 続いて「有鄰館」(ゆうりんかん)。味噌醤油の醸造所の赤レンガの倉庫群が残っています。
Img_7026 一角で喫茶店なども入った矢野本店が営業しております。看板が渋いです。
Img_7031 現在は展示場やホールとして使われている倉庫内部。居合わせたおじさんに、いろいろと桐生のお話をお伺いすることができました。関ヶ原の合戦のとき徳川家康方の軍旗を提供したことで、家康は桐生を重視し、都市計画のもとに町づくりが行われました。その後、絹織物の産地として栄えましたが、時代の流れに従って衰退したのは良く知られた通り。しかし「ものづくり」を誇りとしていた桐生人の気質にとって、「観光」に乗り出すことは困難でした。最近になってようやく古い街並を利用した観光開発が行われるようになりましたが、ここ十年ほどでも多くの貴重な建物が失われてしまっており、もう少し早く保存事業が行われていたら、だいぶ違っていたのではないかとのことでした。
Img_7033 何の蔵だか忘れましたが、おそらく一番古い時代に属する倉庫。
Img_7037 こちらはやや新しめ。屋根を支える柱の構造が見事です。
Img_7038 桐生三越です。先ほどのおじさんの話では、「建て替えて新しくなってしまった」そうです。創業はなんと享保7年(1722年)。昨日今日にできたものではありません。当時の「越後屋」が、絹の買い付けのために開いたものだそうです。
Img_7043 こちらは旧曽我織物工場。大正11年(1922)に建築された大谷石造りの建物。いわゆるノコギリ屋根の外観がよくわかります。
Img_7044 こちらは大正5年(1916年)建てられた旧北川織物工場で、現在は「無鄰館」と呼ばれており、国登録有形文化財です。だ、誰だ〜、文化財に落書きしたやつは!
Img_7046 落書きをよく見ると、世界の偉人がいっぱい書かれています。「自然に帰れ」と言ってるのはジャン・ジャック・ルソーですな。住人が書いたもののようです。現在はアーチストの工房として用いられているそうです。
Img_7051 桐生の有名店「芭蕉」です。カレーやランチのお店ですが、コーヒーだけでもオーケー。古民家風・民芸調の外観です。
Img_7062 内部は立体迷路のようで、民具などが置かれております。
 お目当てはこちら!棟方志功の壁画です。初代の店主が頼んで描いてもらいながら、出来上がってみたらやっぱり雰囲気に合わないと、完成の翌日に漆喰で塗りつぶしてしまったんだそうです。その後55年間封印されておりましたが、2008年に再公開されたそうです。
Img_7056 床の石やレンガの配置もこだわりが感じられます。
Img_7060 「ミルクコーヒー」とケーキセットをいただきました。

2013/12/11

【オペラ】コミカルで楽しいけど最後はほろり「ホフマン物語」新国立劇場オペラ

 オッフェンバックというと、♪カステラ一番電話は二番の「天国と地獄」しか知らないぽん太、「ホフマン物語」を観るのはもちろん初めてでした。公式サイトはこちらです。
 オッフェンバック(Jacques Offenbach、1819年〜1880年)は、ドイツで生まれ、フランスで活躍した作曲家・チェリストだそうです。オペレッタ作家として名を馳せましたが、「地獄のオルフェ(天国と地獄)」(1858年)がとっても有名ですね。
 脚本はジュール・バルビエ。バレエファンには「シルヴィア」の脚本を書いた人と言えばわかるでしょう。
 当時のフランスは第二帝政 (1852年〜1870年)と呼ばれ、ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が皇帝の地位についていました。当初は権威的・弾圧的な政策を取りましたが、次第に自由主義的な政策に転換しました。産業革命が行われてブルジョワ社会が形成され、オスマン男爵のパリ改造も行われ、バブリーで浮かれた雰囲気がありました。1970年の普仏戦争の敗北によりナポレオン三世は失脚し、パリコミューンを経て第三共和制となります。政情が不安定ななか、享楽的な消費文化がますます栄え、ベル・エポックと呼ばれる時代が訪れます。しかし世界はやがて、第一次世界大戦へと突き進んでいきます。オッフェンバックが活躍したのは、このような時代でした。
 「ホフマン物語」は、オッフェンバックの唯一のオペラ作品ですが、完成を待たず、未完のままオッフェンバックは死去したんだそうです。
 ホフマンの三つの小説(「砂男」、「顧問官クレスペル」、「大晦日の夜の冒険」)を取り上げ、ホフマン自身を主人公として脚色し、ホフマンが次々と恋に破れた果てに自殺を図るが、ミューズによって詩人として甦るという物語になっております。
 コミカルで楽しく時には馬鹿馬鹿しいオペラですが、主人公のホフマンが女性の愛を求めながら(しかも人形と病人と娼婦ですから、最初から悲劇的結末になることはわかってます)、恋に破れて絶望して行くさまは、ちょっと感動を誘います。
 オッフェンバックの音楽は流麗で、重唱などなかなかよかったですが、とってもすごいというほどではなかったです。
 演出のフィリップ・アルローは、新国立で「アラベッラ」と「アンドレア・シェニエ」を観たことがあります。今回の舞台もなかなかオシャレで幻想的で、蛍光色も使った色彩が美しく、ポップで楽しい演出でした。
 タイトルロールはアルトゥーロ・チャコン=クルス。メキシコ人だそうですが、新国立得意の見た目からの人選でしょうか、細身でなかなかかっこよかったです。明るい声のテノールでしたが、ちょっと乾いた声で、艶やかさや色っぽさには欠けておりました。リンドルフなど4役を歌ったマーク・S・ドスが長身の黒人で、名前どおりドスがきいた歌声で迫力があり(たぶんこのダジャレはネット上にあふれまくってると思いますが)、悪役にふさわしい存在感がありました。ニクラウスとミューズ役のアンジェラ・ブラウアーは、あまりアリアがなかったのでよくわかりませんでした。
 オランピアの幸田浩子は、<生け垣に鳥たちが>のコロラトゥーラはなかなかのものでしたが、演出のためだと思いますが「けったいな人形」という感じで、可愛らしさや切なさがみられませんでした。浜田理恵は声量があり、死んだしまうと知りながら歌を歌ってしまうアントニアを切々と歌い上げました。横山恵子のジュリエッタも貫禄がありました。高橋淳も4役をこなして健闘。
 全編でバレエが活躍。新国立のダンサーだったのでしょうか?また、いつもながら新国立劇場合唱団に拍手。特に一番最後の合唱は感動しました。


ジャック・オッフェンバック
ホフマン物語
Jacqus Offenbach : Les Contes d'Hoffmann
新国立劇場
2013年12月1日

スタッフ

指揮:フレデリック・シャスラン
演出・美術・照明:フィリップ・アルロー
衣裳:アンドレア・ウーマン
振付:上田 遙

キャスト

ホフマン:アルトゥーロ・チャコン=クルス
ニクラウス/ミューズ:アンジェラ・ブラウアー
オランピア:幸田浩子
アントニア:浜田理恵
ジュリエッタ:横山恵子
リンドルフ/コッペリウス/ミラクル博士/ダペルトゥット:マーク・S・ドス
アンドレ/コシュニーユ/フランツ/ピティキナッチョ:高橋 淳
ルーテル/クレスペル:大澤 建
ヘルマン:塩入功司
ナタナエル:渡辺文智
スパランツァーニ:柴山昌宣
シュレーミル:青山 貴
アントニアの母の声/ステッラ:山下牧子

合 唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

2013/12/10

【バレエ】子供時代に戻ろう/シルヴィ・ギエム&アクラム・カーン・カンパニー 「聖なる怪物たち」

 「聖なる怪物たち」は、4年前に観た演目。もちろんぽん太には「前回と比べて…」などと言うほどの審美眼はなく、観ながら「そういえば、こんなんだったな〜」と思い出す程度。 その4年間、ギエムの活躍は言うまでもありませんが、カーンも2012年のロンドンオリンピックの開会式で振付けを担当したとのこと。まさに聖なる怪物(=ビッグ・スター)の共演といえるでしょう。公式サイトはこちら
 ひとことで言えば、クラシック・バレエ出身のギエムと、伝統舞踊カタック・ダンス出身のカーンによるジャンルを越えたコラボですが、二人が子供時代を振り返っての会話があったり、コミカルな振付けもあったりします。音楽や振付けにも、西洋と東洋の融合が感じられます。
 回転するときに、ギエムは爪先で立って上に伸び上がるのに対し、カーンはむしろ腰を落とすようにして重心を下げるのが面白かったです。また、プロレスの「手四つ」みたいに両手をつかみあって、二人が共鳴するように腕を振る踊りも良かったです。
 ギエムが両足をカーンの腰に絡ませて、まるでヒンズーの神のように見える踊りでは、「よく腹筋が持つな」と思いました。
 コンテンポラリーとはいえ理屈っぽいところがなく、ギエムが直前インタビューで語っていたように、「子ども時代に戻っていく」みたいに心地よくなれる舞台でした。


シルヴィ・ギエム&アクラム・カーン・カンパニー
「聖なる怪物たち」
2013年11月28日 ゆうぽうと

芸術監督・振付:アクラム・カーン

ダンサー:シルヴィ・ギエム、アクラム・カーン

振付(ギエムのソロ):林懐民
振付(カーンのソロ):ガウリ・シャルマ・トリパティ

音楽:フィリップ・シェパード
   およびイヴァ・ビトヴァー、ナンド・アクアヴィヴァ、トニー・カサロンガの歌より

照明:ミッキ・クントゥ
装置:針生康
衣裳:伊藤景
構成:ギィ・クールズ

演奏:アリーズ・スルイター(ヴァイオリン)
   ラウラ・アンスティ(チェロ)
   コールド・リンケ(パーカッション)
   ファヘーム・マザール(ヴォーカル)
   ジュリエット・ファン・ペテゲム(ヴォーカル)

技術主任:ファビアナ・ピッチョーリ
音響技術:ニコラ・フォール
ツアー・マネージャー: マシータ・オマー

2013/12/09

【クラシック】サイモン・ラトルの顔を見てました/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 先日ウィーンフィルを聴いたと思ったら、今度はベルリンフィル。う〜ん、今年の秋はスゴイ!公式サイトはこちらです。
 日程の都合で、ブーレーズとブルックナーの7番という渋いプログラムの日になってしまいました。
 ブーレーズの「ノタシオン」は、ピアノやさまざまな見たこともないパーカッションも加わっての大編成で、現代音楽にしては楽しかったですが、こんな曲(暴言申し訳ございません)のためにこんなに大勢の楽団員を動員する必要があるのかと思いました。ベルリンフィルの良さはよくわかりませんでしたが、普通の楽団だったらぐだぐだになってたのかもしれません。
 ブルックナーの7番もぽん太は殆ど聴いたことがなく、例によってあまりに長大で、まるで次々と移り変わる風景を車窓から眺めているような気分でした。
 ただ今回の席はP席で、サイモン・ラトルの指揮ぶりや表情がよく見えたのが、面白かったです。1,2,3,4とテンポに合わせて指揮棒を振ったり、アインザッツを指示したりはあまりせず、曲想やニュアンスを両腕や表情で見事に伝えておりました。
 ウィーンフィルはプログラムをくれましたが、ベルリンフィルははんぺらの紙もなし。おかげで曲名すらよくわかりませんでした。欲しい人だけお金を出して買えばいい、というドイツ式の合理主義なのでしょうか。いい音楽を楽しむウィーンフィルと、理屈っぽくて壮大なベルリンフィル、対照的なオケを楽しむことが出来ました。
 演奏の感想がなくてごめんなさい。


ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 来日公演
2013年11月19日
会場 サントリーホール

演奏
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(管弦楽)
サイモン・ラトル(指揮)

曲目
ブーレーズ:ノタシオン
Boulez : Notations
ブルックナー:交響曲 第7番 ホ長調 WAB. 107(ハース版)
Bruckner : Symphony No.7 in E major WAB. 107

2013/12/08

【歌舞伎】梅玉の高貴な寺岡平右衛門/2013年11月歌舞伎座夜の部

 11月の歌舞伎座は、あまりの忙しさに混乱して仕事のある日に昼の部の切符をとってしまい、夜の部だけの観劇。公式サイトはこちらです。
 まずは菊五郎の勘平で五・六段目。精神医学的にいえば勘平は、性格的に欠点を抱えた人物です。常に真面目に一生懸命生きようとしているのですが、どこか思慮の浅いところ、軽率なところがあり、思いもよらない不幸へと彼を導きます。すでに三段目で勘平は、おかるとの逢い引きにうつつを抜かしたために、主君塩冶判官の一大事に立ち会えなかったという失態をおかしております。
 五段目でも勘平は、猪を間違えて人を撃ち殺すというミスを犯し、さらにその人が持っていたお金をくすねるという行動をとります。花道を家路に向かう勘平は、そうしたことも忘れて、これで仇討ちの一味に加われるとご機嫌な様子です。菊五郎の勘平は、人の良さと軽率さを併せ持っていて、「勘平、それじゃだめだろ」と叱りつけたいような、あるいは幼子のように抱きしめてあげたいような、不思議な気分にさせてくれます。
 五・六段目は何度も観てるし、そのうち何回かは菊五郎でしたが、例の縞の財布を観る場面は、けっこう写実的にじっくりと見るんだなと、初めて気がつきました。仁左衛門とかは、もっと様式的に大きい動きでやってた気がします。腹を切ってからの「如何なればこそ勘平は…」というセリフで、「百五十石(せき)」と言ってて、まさか菊五郎が間違えるわけないけど、「百五十石(こく)」だよな〜と思いましたが、家に帰ってから調べたら、ここでは伝統的に「せき」と発音する決まりになっているそうです。また、最後の落ち入るときに、自分の首をかっ切っていることも初めて知りました。何度見てても、見逃していることが多いんだな〜。ラストはやはり、「魂魄この土に止まって…」のセリフのあとに血判という順序でした。
 時蔵のおかるは、腰元あがりという格を感じさせつつ可愛らしかったです。東蔵の母おかやはけっこう押しが強く、勘平につめよるところなど迫力がありました。松緑の斧定九郎が期待していたせいかちょっと拍子抜け。あんまり気魄と色気が感じられませんでした。魁春と團蔵のおさい・源六は手慣れた芸。
 七段目は、吉右衛門の大星の鷹揚な明るさや、芝雀のおかるの可愛さはもちろんのことながら、梅玉の寺岡平右衛門が見物でした。こんな高貴な足軽は初めてです。梅玉がなだめる相手の三人侍が歌昇や松江ですから、どうみても奴の方が格が上です。最初はなんか違和感がありましたが、見ているうちにだんだん慣れて来ました。でも、水を汲みに行ったときの「いけない、俺が飲んじまった」とかいうセリフ、小声でぶつぶつ言わずに、もっとはっきり言って下さい(笑)。
 最後に討ち入りのチャンバラつき。


歌舞伎座新開場柿葺落
吉例顔見世大歌舞伎
仮名手本忠臣蔵
歌舞伎座
平成25年11月17日昼の部

通し狂言 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)

 五段目 山崎街道鉄砲渡しの場
     同   二つ玉の場
 六段目 与市兵衛内勘平腹切の場  
    早野勘平 菊五郎
    女房おかる 時 蔵
    母おかや 東 蔵
    斧定九郎 松 緑
    判人源六 團 蔵
    千崎弥五郎 又五郎
    一文字屋お才 魁 春
    不破数右衛門 左團次

 七段目 祇園一力茶屋の場  
    大星由良之助 吉右衛門
    遊女おかる 芝 雀 
    富森助右衛門 松 江
    大星力弥 鷹之資
    鷺坂伴内 松之助
    斧九太夫 橘三郎
    竹森喜多八 歌 昇
    赤垣源蔵 権十郎
    寺岡平右衛門 梅 玉

十一段目 高家表門討入りの場
     同 奥庭泉水の場
     同 炭部屋本懐の場   
    大星由良之助 吉右衛門
    小林平八郎 錦之助
    竹森喜多八 歌 昇
    小汐田又之丞 種之助
    大鷲文吾 米 吉
    倉橋伝助 廣 松
    磯貝十郎左衛門 隼 人
    大星力弥 鷹之資
    勝田新左衛門 桂 三
    村松三太夫 由次郎
    原郷右衛門 歌 六

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