【歴史散歩】四谷駅から最高裁にかけて(尾張藩中屋敷・金鱗堂・岩城枡屋・高野長英大観堂・渡辺華山生誕地)
いつぞやのことですが、国立劇場に行くおり、江戸時代スポットを訪ねながら四谷駅から歩いてみました。参考にしたのは「江戸散歩・東京散歩 改訂版―切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図で歩く100の町と道」(成美堂出版、2008年)です。江戸切絵図と現在の地図が見開きになっていて、さまざまな史跡の解説が掲載されています。なかなか楽しい本ですが、地図上の史跡の位置が微妙にずれてたりするのでご注意を。
まずは四谷駅を出て新宿通りを東に向かいます。新宿通りは、昔の甲州街道ですね。さて、まずはご存知上智大学です(地図の赤印)。ここは、徳川御三家のひとつ、尾張藩の中屋敷があったところです。「中屋敷」という言葉は皆さんご存知ですかね。江戸藩邸は普通は複数あって、距離や用途によって上屋敷・中屋敷・下屋敷などと呼ばれておりました。複数あれば火事になってもどれかは残る、といった火事対策の意味もあったようです。詳しくはWikpediaを御覧下さい。ちなみに尾張藩の上屋敷は現在の市ヶ谷の防衛省、下屋敷は新宿区の戸山公園の周辺でした。
このあたり(地図の青印)が、切絵図の版元・金鱗堂があったところです。錦絵の版元でもあったため、5色を使った美しい地図で、人気が高かったそうです。
(地図の黄印)呉服店の大店、岩城桝屋があったところです。岩城枡屋は呉服屋の大店のひとつ。延宝5年(1677年)創業で、間口が50メートル、奉公人が200人以上いたそうです。
(緑印)このあたりが高野長英の屋敷があったところです。
白いビルの外壁にパネルがはまっていて、「麹町貝坂 高野長英 大觀堂學塾跡」と書かれています。
ぽん太は高野長英に関しては、以前にみちくさしたことがあります(→こちら)。おさらいしますと、高野長英は文政11年(1828年)のシーボルト事件をきっかけに長崎を去りました。江戸に戻った長英は天保元年(1829年)に麹町貝坂に家を借り、医者をしつつ、大観堂塾を開塾しました。天保8年(1837)年には近くの家屋を購入して移転。翌年火事で類焼したものの、ただちに再建したそうです。
こんかい訪れた場所が、最初の借家の方なのか、あとの買った家の方なのか、ぽん太にはちと判断がつきません。「貝坂」というの前者でしょうか?
さて、最後は渡辺華山生誕の地です(オレンジ印)。写真は最高裁判所の南東の角、三宅坂交差点のところです。彫刻の後ろ側の植え込みの一角に立て看板が立ってます。
ピンボケで読みにくーて申し訳ありませんが、ここに三河田原藩の上屋敷がかつてあって、渡辺家は藩士の息子として、寛政5年(1793年)に上屋敷内の長屋で生まれたそうです。また、天保10年(1839年)の蛮社の獄によって田原に蟄居を命じられるまで、ここに住んでいたと書いてあります。
だけど、華山は天保3年(1832年)から田原藩の家老職に就き、様々な藩政改革に取り組んだはず。ということは、家老の仕事を、江戸屋敷でやってたのか。へ〜そういうもんなんだ。
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