【観光】ちょっと気になるけど東京から近すぎて行きにくい観光地・吉見百穴(付:岩窟ホテル、岩室観音)、川越
7月上旬、四万温泉で一泊したぽん太とにゃん子ですが、翌日はあいにくの雨模様。登山は嫌だし、かといってこの辺りの観光地も行き尽くしたし……ということで、気にはなるけど東京から近すぎて行きにくい、埼玉県の「吉見百穴」に行ってきました。読み方は、地元では「ひゃくあな」と呼ばれているそうですが、「ひゃっけつ」という呼び方もあるようで、はっきりしていないようです。
にゃん子はなんと初めて。ぽん太は数十年ぶりかな……。公式サイトは見つからないので、吉見町のサイトにリンクしておきます(こちら)。また、Wikipediaはこちら。
岩山に四角い穴がポコポコ空いていて、なんとも奇妙というか、ちょっと気持ち悪さも感じる景観です。
岩は凝灰岩でできていて、219個の穴があるそうです。その正体は、古墳時代(6-7世紀頃)に作られた集合墳墓というのが現在における定説だそうです。
いくつか中に入れる穴もあります。入り口の高さは1メートル前後。きれいに成形されています。緑泥片岩で作られたフタがしてあったそうです。
内部は三畳くらいの広さでしょうか、天井も少し高くなってます。片側(あるいは両側)が一段高くなっていて、通路側には縁が付いてます。ここに棺桶が置かれていたと考えられております。
内部の壁には素晴らしい壁画が……というのはウソで、落書きですね。
1887年(明治20年)、坪井正五郎によって、初めて学術的な発掘が行われたそうです。坪井正五郎といっても皆さん知らないと思いますが、ぽん太も知りませんでしたが、弥生土器の発見者の一人なんだそうです。ちなみに発見したのは、吉野百穴の発掘の3年前にあたる1884年(明治17年)。場所は向ヶ岡貝塚ですが、東大の本郷キャンパスの中なんですってね(Wikipedia)。さらにちなみに、縄文式土器を発見したのはモース。場所は東京の大森にある大森貝塚で、年代は1877年(明治10年)です。
で、坪井は吉見百穴を住居と考え、でも住居にしてはサイズが小さいので、コロポックル人が住んでいたと主張しました。しかし直後から墓であるとする反論がなされ、論戦の末、現在は墓と考えられているそうです。
吉野百穴のゲートを入って右側にお土産屋さんがあります。ゲートの中にお土産屋があるというのはちょっと不思議ですが、先にお土産屋さんがあって、あとからゲートが出来たので、こうなったのかもしれません。
それはさておき、そのお土産屋さんの中には、発掘時の写真や、穴の出土品(緑泥片岩のフタもあり)などが展示されていて興味深いです。おじさんがいろいろとお話を聞かせてくれます。写真の方は、ぐぐってみたら、埼玉県立図書館のサイトに同じものがありますね(こちら)。子供たちが一緒に写っているのがほのぼのしてます。発掘前の写真は見つかってないそうです。残念ですね。
ところで、出土品は現在どこに保存されているんでしょう。それに墓だったら、遺骨が残っていそうなものですが。発掘した時点で、遺骨がほとんど残っていないほど荒らされていたということなんでしょうか。
話しは戻りますが、このお土産屋さんオススメの五家宝はきな粉たっぷりで、きな粉好きのぽん太にはかなり得点が高いです。ちなみに五家宝が埼玉の名物であることも初めて知りました。
この岩山の中には、地下軍需工場を造るための複雑なトンネルが掘られており、その一部が公開されております。空襲から逃れるために、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場(現在の富士重工ですね)をここに移転する計画だったそうですが、本格的な生産を開始する前に終戦を迎えたそうです。この工事に携わったのは例に漏れず朝鮮人労働者で、三千人以上の人たちが昼夜を通して突貫工事にあたったそうです。それがforced to workだったのかどうか、ぽん太は知りません。
内部は格子状の素掘りのトンネルになっていて、特にをゝというものはありません。
穴のひとつにはヒカリゴケが自生しており、「吉見百穴ヒカリゴケ発生地」として国の天然記念物に指定されております。
さて、吉見百穴に行ったら、近くの「岩窟ホテル」も忘れずに見学しましょう。岩壁に妖しげな窓が開いてます。昔は内部に立ち入れたそうで、周囲に子どもの遊具もありますが、現在は事故防止のためかフェンスが張られて立ち入り禁止になっております。
こちらの窓には洒落た手すりが付いてます。
こちらのサイトには、内部の写真がアップされております。それによると、現在の不気味な印象とはかなり異なり、ちょっと素敵な洋館にも見えます。高橋峯吉という人が明治37年(1904年)に掘り始めてから21年間、大正14年(1925)に他界するまでたった一人で掘り続けました。その後、養子の泰治さんが成長したのちに引き継いで、昭和40年まで掘り進めました。以後は保守・管理に時間と労を費やしましたが、泰治さんも1986年に他界されたそうです。
「岩窟ホテル」と呼ばれていますが、正式には「巌窟ホテル高荘館」。いわゆる「ホテル」として客を泊めたことはないそうです。
う〜ん、なかなか面白そうなんですね。内部を見てみたいです。
個人が自分で作った変な住宅というと、「二笑亭」とか、フランスの「シュヴァルの理想郷」などが思い浮かびます。後者は文化財に登録されて一般公開されているそうですが、「岩窟ホテル」もぜひ整備して公開し、観光資源にして欲しいです。
さてもうひとつ、岩室観音によりみちしましょう。吉見百穴と岩窟ホテルの間くらいにあります。
岩壁の割れ目にはめ込まれたように建っています。京都の清水の舞台と同じ「懸造り」の技法で建てられているそうです。
石段を登ったところは柱が並ぶ吹き抜けになっています。
向かって左にある岩窟に、石仏がたくさん納められております。
そこから急な階段を登ると、二階は舞台のようになっております。狭い角度ですが、景色を見渡すことができます。
正面から見て左側が部屋になっていて、そこに観音様が納められているようです。
案内板によると、弘法大師が自ら刻んだものだそうです。
天井を見上げてちょっとびっくり。屋根を支えている骨組みですが、自然のままに湾曲した材木が一見無秩序に組み合わされています。こういうやり方もあるんでしょうか?
再び一階に下りてくると、鉄骨で支えられた洞窟が。
洞窟のなかにはたくさんの石仏が祀られてます。
四国八十八ヶ所の本尊を模したものだそうです。このお堂ができたのが、江戸時代の寛文年間(1661年-1673年)であると書かれてますね。
お堂の奥は、岩に囲まれた谷のような地形になっております。向かって左の岩の割れ目を鎖で登っていくと……
所要時間1分のちょっとした胎内巡りになってます。
向かって右の崖の中腹に祀られている石仏。ハシゴがかかっています。手に持っているのは蓮か?そしたら観音菩薩かな〜。それにしては頭髪を高くゆってないし、化仏もない。う〜ん、わからん。
正面の谷間を登っていくと、なにかありそうな気もしましたが、雨で足元が悪いので止めました。
なお、岩室観音や岩窟ホテルのある岩山の上には、かつて松山城がありました。遺構の保存状態がかなり良いらしく、松山城跡は国指定史跡となっておりますが、今回は省略しました。
その後、にゃん子が行ったことがないという川越へ。川越の情報はたくさんあると思うので省略。外人が多かったです。6月21日に火事にあった菓子屋横町の一角が、痛々しかったです(産経ニュース)。お見舞い申し上げます。
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