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2016年2月の6件の記事

2016/02/27

【文楽】ありがとう嶋大夫!引退披露/2016年2月国立劇場第二部

 豊竹嶋大夫の引退披露ということで行ってきました。
 昨年5月には住大夫が引退。そして今回は嶋大夫……。文楽初心者のぽん太ですが、熟練の喉を聞かせてくれた大御所が次々と引退するのは、哀しい限りです。

 まずは「桜鍔恨鮫鞘」(さくらつばうらみのさめざや)。ぽん太は歌舞伎・文楽をとおして初めて観る演目です。
 ストーリーは、愛する女が心変わりをしたと思い込んで、男は女を殺すが、実はその裏には女の男に対する深い思いがあったという、いわゆる「縁切り物」。歌舞伎では「曾我綉侠御所染」(そがもようたてしのごしょぞめ)の御所の五郎蔵や、「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)の福岡貢などが有名ですネ。
 今回の「桜鍔恨鮫鞘」では、八郎兵衛とお妻はすでに夫婦で、娘お半を授かっています。無筆だったお妻は娘お半に自分の思いを覚えさせていました。お妻を殺した八郎兵衛が、幼い娘から妻の遺言を聞くところが、この演目の眼目で、咲大夫が情感たっぷりに語ってくれました。人形遣では、和生の八郎兵衛は、お妻とその母を斬り殺す激昂よりも、お妻の真心を知っての慟哭が際立ってました。

 お次ぎはいよいよ嶋大夫引退披露狂言。たくさんの大夫さんがそれぞれの役を担当するというパターンで、嶋大夫は「おとわ」担当でした。寛太郎の曲弾きや、錦吾の胡弓も加わって、とっても華やかな舞台でしたが、ぽん太としては嶋大夫がちょっと前屈みの姿勢で、一人で切々と語るのを聴きたかったです。賑やかな引退公演を演出したのか、もはや一人で語る体力がないのか、文楽初心者のぽん太には皆目わかりません。
 それでも、嶋大夫のおとわが、夫である猪名川の髪を梳きながら切々と語るシーンは泣けました。
 ぽん太はこれもまた、歌舞伎・文楽を通じて初めて観た演目でしたが、相撲取りが、ごひいきの若旦那のために相撲にわざと負けなくてはならなくなるが、妻が身を売ったおかげで勝利を収めるというもの。
 本日の演目は二つとも、男が女の犠牲で救われるというものでしたね。
 パンフレットに載っていた山川静夫の「文楽思い出ばなし その二十三」によって、嶋大夫が激しいプレッシャーに負けて、昭和30年から13年ものあいだ文楽から遠ざかっていたことを知りました。すごい世界なんですね。
 嶋大夫さん、ぽん太との関わりはほんのわずかの間でしたが、ありがとうございました!
 


第二部  (二時半開演)

桜鍔恨鮫鞘

鰻谷の段

  中 松香大夫 喜一朗
  前 呂勢大夫 清 治
  切 咲大夫 燕 三

  香具屋弥兵衛 勘 市
  てんぽの十兵衛 簑紫郎
  お妻の母 簑一郎
  女房お妻 勘十郎
  娘お半 玉誉
  古手屋八郎兵衛 和 生
  仲仕銀八 玉 志
   
八代豊竹嶋大夫引退披露狂言
関取千両幟

猪名川内より相撲場の段

  おとわ 嶋大夫
  猪名川   英大夫
  鉄ヶ嶽 津国大夫
  北野屋 呂勢大夫
  大坂屋 始大夫
  呼遣い 睦大夫
  行司 芳穂大夫

  猪名川内 寛 治
  相撲場  宗 助
  曲弾き  寛太郎
  胡弓   錦 吾

  猪名川  玉 男
  鉄ヶ嶽  文 司
  女房おとわ 簑 助
  大坂屋  勘 介
  呼遣い  和 馬
  行司   玉 路
  北野屋 紋 寿  

2016/02/16

【自由研究】つげ義春と会津西山温泉「中の湯」

Img_8493
 ぽん太は先日、かつてつげ義春が泊まった宿、会津西山温泉の中の湯に行って来ました。その時の感想は既にブログにアップしましたが、会津西山温泉、中の湯とつげ義春との関係については宿題となっていたので、こんかいご報告申し上げます。

 ぽん太が調査したところ、会津西山温泉と中の湯に関連するつげ義春の作品は、以下の8点です。

 まずは代表作、「桃源行」のイラスト3枚。
 「桃源行」は、つげ義春のイラストに、詩人の正津勉(しょうづ べん)が詩を添えたもので、初出は1977年(昭和52年)、雑誌『ポエム』に連載。
 右のリンクの『つげ義春とぼく』(新潮文庫)などに入ってます。
 三つのイラストを[I-1][I-2][I-3]とします。画像は著作権があるのでアップできません。本を買うか、ぐぐってみてね。

 [I-1]木造2階建ての古めかしい温泉宿を描いたもの。壁に「中の湯」と書いてあります。木造の古めかしい建物で、空けられた障子から、浴衣を着てくつろぐ宿泊客が見えます。割烹着を着た宿の従業員もおり、玄関から勢いよくツバメが飛び立っています。

 [I-2]浴室を描いたもの。木造の浴室の、奥と手前に二つの湯船があり、手前の湯船にはおかっぱ頭の女性が腰掛けてます。

 [I-3]女の子がいる集落の風景。

 つぎは「颯爽旅日記」(さっそうたびにっき)(初出:つげ義春『つげ義春とぼく』晶文社、1977年(昭和52年))。
 これも『つげ義春とぼく』に収録されてます。
 つげ義春の旅の日記で、「会津 新潟 群馬」という節で西山温泉に触れています。これを[S-1]とします。引用すると……

 [S-1]「このメモはわりあい新しいもので、雑誌『ポエム』に連載した「桃源行」の一回目の取材に出たときのもの。
 ……中略……
 六月十六……会津若松からすぐ只見線に乗換え柳津下車。そばを食べ、タクシーで西山温泉へ。途中、八木沢集落を写真にとる。そこから歩いて一・五kmで温泉に。前に来たことのある中ノ湯に泊る。新館の立派なのができてしまったが、旧館に泊めてもらう。旧館の素朴な造りに正津さんは喜んでいた。」

 つまり、この取材旅行をもとにして、「桃源行」の3つのイラストが生まれたことになります。

 おつぎは『つげ義春の温泉』(初出:カタログハウス、2003年(平成15年))に載っている写真3枚。[P-1][P-2][P-3]とします。あとがきに、未発表の写真と書いてあるので、これが初出です。

 [P-1]「昭和46年5月」と日付が入れられた、温泉宿の玄関の内側と思われる写真。向かって右に階段があり、左には女性と男の子が座っている。

 [P-2]「昭和51年6月」の日付。手前に川が流れ、対岸に林を背景に、二階建ての建物が見える。

 [P-3]「昭和51年6月」の日付。温泉宿の部屋に浴衣を着た男性が座っている。

最後は『新版 貧困旅行記』(新潮社、1995年、新潮文庫)にある写真。もともとの晶文社の『貧困旅行記』(1991年)には存在せず、新版で初めて収録されたもの。
 ぽん太はあいにくこの本を持ち合わせてないのですが、手元にある「芸術新潮」新潮社、2014年1月号に同じ写真が載ってます。

 [P-4]「福島県柳津西山温泉付近」お面をつけた少女のいる集落。1971年(昭和46年)5月撮影。

 会津西山温泉、中の湯に関するつげ作品は、ぽん太の調べた限り、イラスト3点、文章1つ、写真4点の、計8点です。

 さて、分析を開始しましょう。

Img_8522 中の湯」の壁には、左の新聞記事が掲示してありました。笠井尚という人の「西山温泉 つげ義春 ふくしまのいで湯と作家たち」というエッセイで、2006年10月18日の福島民友です。
 つげについて書かれている部分を書き出してみます。

 つげは、柳津町の西山温泉「中の湯」に、三度ばかり訪れている。「颯爽旅日記」では二度目であった。
 ……中略……
 「中の湯」の原忠社長と妻の延子さんは、一風変わった泊まり客だったこともあり、毎回、二泊程度しか滞在しなかったが、つげのことは印象に残ったという。
 まず口数が少なく、こちらから話しかけなければ、口をひらくことがなかった。
 ぽつんと独りっ切りで、物思いに耽っているという感じだった。一番ビックリしたのは、テーブルの前にでんと坐っているのではなく、片隅の方に隠れるようにしていたことだ。
 何の商売をしている人間かも分からず、後になって売れっ子の漫画家だと聞かされたとか。
 ……中略……
 つげが、もっとも気に入ってたのは、湯殿であったようだ。原社長によると、豪雪でつぶれてしまったので、にわかづくりでこしらえたのだ。
 それでも、コンクリートの浴槽が二つあって、水でうするめるたのホースがすぐ近くにあった。

 う〜ん、いいですね。部屋の片隅に坐ってじ〜っとたたずむつげさんの様子が頭に浮かんできます。

 で、ここから、つげ義春が中の湯に3回宿泊したこと、2回目が「颯爽旅日記」の取材であったことがわかります。[S-1]の日付が正しいとすると、昭和51年6月16日に、正津勉氏と二人で一泊したことになります。
 さらに[S-1]によれば、このとき新館ができていたけど、旧館の方に泊めてもらったということです。新館はこの前ぽん太が泊まった建物だと思いますが、旧館を壊して建て替えたのではなく、旧館は新館と別の所にあったことになります。
 こちらのつげ義春の旅を行く2「西山温泉」というサイトでは、新館を出て右手にある建物の場所に、かつて旧館があったことを、宿の人に確認しているようです。
 ちなみに中の湯の新館がいつ建てられたのかは、ちょっと調べがつきませんでした。

 ということでイラスト[I-1]は、昭和51年6月16日時点での、中の湯の旧館を描いたものですね。ツバメの季節感も6月ということで合致します。

 そしてイラスト[I-2]は、新聞記事の記載通りコンクリートの浴槽が二つあるので、中の湯の温泉です。これが現在の離れのお風呂の位置にあったことも、上のサイトの人が確認しています。

 さてイラスト[I-3]ですが、場所はいったいどこでしょう……。
 実はこれも上のブログですでに調べがついております。ブログにその場所の写真が出ていますが、具体的にどこかわかりません。
 どうやら西山温泉から柳津駅へ向かう道のどこからしいので、ぽん太がグーグル・ストリートビューを眺め続けること30分、ようやく見つけました!この風景ですね。

 グーグル・マップでは下記の場所です。ここから北側を見たのが上のストリートビューです。

 住所でいうと、福島県河沼郡柳津町大字郷戸で、字居平丁か字岩下丁のどちらかか?

 ところで、図柄がほとんど一致していることから、イラスト[I-3]は写真[P-4]を元に描いたと思われます。しかし[P-4]の日付は、取材旅行をした昭和51年より5年前の昭和46年(1971年)5月。
 上の新聞記事には、つげ義春は中の湯に3回泊まったと書いてあります。2回目が昭和51年6月16日であることはすでに明らかにしたので、1回目の宿泊が昭和46年5月だったということでしょうか。
 じっさい『つげ義春漫画術 下巻』(つげ義春・権藤晋著、ワイズ出版、1993年)に収録された、つげ義春の年譜を見てみると、1971年(昭和46年)5月に「会津・檜枝岐へ」と書かれています。これが第1回目の中の湯宿泊で確定ですね。
 ちなみに1976年(昭和51年)には「ポエムの取材で会津へ」と書かれており、これが2回目の中の湯泊です。
 では3回目はいつだろうかと年譜をチェックしてみましたが、残念ながらそれらしい記載は見つかりませんでした。

 というわけで、話しを元に戻すと、第2回目の中の湯宿泊のあとに描いた「桃源行」の3枚のイラストのうち[I-3]だけは、5年前の第一回目の中の湯宿泊のおりに撮った写真[P-4]を元に描いたことになります。
 「颯爽旅日記」によれば、つげと正津はタクシーで西山温泉に向かいましたが、途中の八木沢集落で車を降りて写真を撮り、そこから中の湯まで歩いていきました。おそらくつげは八木沢で思うような風景に出会えず、以前に撮ったお面の女の子が写っている写真が気になってきて、そちらをイラストに採用したのでしょう。
 それとも単につげ義春が写真の日付を間違えたという可能性は……ありませんよね。

 続いて写真[P-1]。日付が昭和46年5月ですから、最初に中の湯に泊まった時に撮ったものですね。温泉宿の玄関の中の写真と思われます。どこの旅館でしょう?
 ふ、ふ、ふ、イラスト[I-1]に描かれた中の湯旧館の、玄関部分をよく見て下さい。向かって右に急な階段があり、写真[P-1]と同じです。ということでこの写真は、中の湯の旧館に決定!
 
 お次ぎは写真[P-2]。西山温泉の風景と思われます。川があって、対岸の遠くに二階建ての建物が見えます。中の湯の旧館の可能性が高いと思われますが、昭和51年6月だと新館ができていたはずですが見当たりません。木の後ろに建物が隠れているようにも見ます。
 最近の写真(例えばこちらの冒頭の写真)と比べると、川と建物の距離が遠い気がすます。しかし、中の湯でないとすると滝の湯になりますが、滝の湯だとこちらの一番下の写真にあるように、建物が川からかなり高い位置にあるし、川が左へカーブした感じになります。写真[P-2]を良く見ると、川の水が奥から手前に向かって流れいるようなので、やはり中の湯と考えていいでしょう。川筋が少し変わったのかもしれません。赤い橋もできてますし。

 最後に写真[P-3]。昭和51年6月ということで、中の湯に2度目に泊まったときの写真ですね。人物はもちろんつげさん。口にくわえた煙草にライターで火をつけようとしているようです。畳の上にお膳が二つあります。外が明るいので朝食でしょうか。向かいの席には正津勉がいたはずで、彼が席を立ってこの写真を撮ったのでしょう。

 以上でぽん太の分析は終了です。


 まとめます。

 会津西山温泉と中の湯に関連するつげ義春の作品は下記の8点。

 つげ義春、正津勉「桃源行」(初出:1977年(昭和52年)、雑誌「ポエム」に連載)
 [I-1] イラスト。中の湯の旧館。
 [I-2] イラスト。中の湯の浴室。
 [I-3] イラスト。只見線滝谷駅近くの集落。

 つげ義春「颯爽旅日記」(初出:つげ義春『つげ義春とぼく』晶文社、1977年(昭和52年))
 [S-1] 文章。「桃源行」の取材で、正津勉とともに中の湯に泊まった時の記録。

 つげ義春『つげ義春の温泉』カタログハウス、2003年(平成15年)
 [P-1] 写真。昭和46年5月。中の湯の玄関の内側。
 [P-2] 写真。昭和51年6月。中の湯の遠望。
 [P-3] 写真。昭和51年6月。中の湯の客室にいるつげ義春。

 つげ義春『新版 貧困旅行記』新潮社、1995年(平成7年)、新潮文庫。
 [P-4] 写真。只見線滝谷駅近くの集落で撮った、お面をつけた少女のいる風景。1971年(昭和46年)5月撮影。

 つげ義春が会津西山温泉中の湯に宿泊したのは3回。1回目は1971年(昭和46年)5月、2回目は1976年(昭和51年)6月16日、3回目の時期は不明。
 1回目の宿泊時、中の湯の玄関内の写真[P-1]が撮影された。また、途中の集落でお面の女の子がいる写真[P-4]を撮影した。
 2回目は、雑誌『ポエム』の連載の取材で、詩人の正津勉氏との二人旅だった。この旅の様子が「颯爽旅日記」に記載されている[S-1]。この時撮った写真が[P-2]と[P-3]。
 そしてこの取材旅行から「桃源行」のイラスト2枚[I-1]と[I-2]が描かれた。また、1回目の宿泊時に撮影した写真[P-4]を元にしたイラスト[I-3]も加えられた。

 以上で〜す♡

2016/02/13

【歌舞伎】楽しいけどなんだかあっさり「新書太閤記」2016年2月歌舞伎座昼の部

 二月の歌舞伎座は昼の部だけ観劇。出し物は吉川英治作の「新書太閤記」で、ぽん太は初めて観ました。こちらが公式サイトです。

 で、結論からいうと、つまらなくはなかったけど、面白くもありませんでした。
 秀吉がその才覚によって次々と難題を解決して、信長に取り立てられて頭角を現し、本能寺の変ののち、中国大返しから清洲会議までを描いた通し狂言。ベテランから若手までの様々な役者が持ち味を発揮して、楽しく観ることができました。
 だけど、全体としてのクライマックスがなかく、ストーリーの絡み合いや「実ハ」のような意外な展開も乏しく、ぐっと引き込まれるようなところや、思わず涙を流す所などもありませんでした。
 なんか全体がたんたんと流れて行った感じ。
 もう少し脚本を工夫して欲しい気がしました。
 それから、ここで見得を切ったら決まるのにな〜という場面も多く、歌舞伎の様式性の大切さを改めて感じました。

二月大歌舞伎
平成28年2月11日
歌舞伎座

昼の部

   吉川英治 作
   今井豊茂 脚本・演出
通し狂言 新書太閤記(しんしょたいこうき)
  長短槍試合
  三日普請
  竹中閑居
  叡山焼討
  本能寺
  中国大返し
  清洲会議

木下藤吉郎/羽柴秀吉 菊五郎
織田信長 梅玉
寧子 時蔵
柴田勝家 又五郎
織田信孝 錦之助
上島主水 松緑
濃姫 菊之助
織田信忠 松江
小早川隆景 亀三郎
福島市松 亀寿
林佐渡守/黒田官兵衛 亀鶴
おゆう 梅枝
加藤虎之助 歌昇
森蘭丸 萬太郎
小熊 廣太郎
森力丸 種之助
下男権三 橘太郎
滝川一益 松之助
延暦寺使僧 橘三郎
佐久間信盛 宗之助
武井夕庵 由次郎
山渕右近/池田恒興 亀蔵
蜂須賀彦右衛門 市蔵
棟梁六兵衛/吉川元春 権十郎
又右衛門妻こひ 萬次郎
浅野又右衛門/安国寺恵瓊 團蔵
前田利家 歌六
母なか/丹羽長秀 東蔵
名古屋因幡守 彦三郎
竹中半兵衛 左團次
明智光秀 吉右衛門

2016/02/12

【演劇】(ネタバレ注意!)だから説教はいいってば「逆鱗」野田地図NODA・MAP

♪ピンポ〜ン。今回の記事にはネタバレがありますので、服用にご注意を!!

 NODA・MAPの「逆鱗」(げきりん)を観て来ました。こちらが公式サイトです。
 う〜ん、残念ながらぽん太の好みではなかったな〜。「エッグ」に続いておじさんの説教っぽかったです。
 例えて言えば……

 「おい、ぽん太!ちょっと飲みに行こうぜ」
 「いや〜野田先輩、前回飲んだとき説教されたから、もういいですよ」
 「なに言ってんだよ。もう説教なんかしないからさ〜。楽しい話し。た・の・し・い・は・な・し。なっ、来るだろ?」
 「じゃ〜行きましょうかね〜」
 ってな感じで飲みに行ったら、最初は確かに楽しいお話でしたが、途中でだんだん野田先輩の目が据わって来て、またしても
 「ぽん太〜このやろ〜。だいたいお前らあめ〜んだよ。第二次世界大戦中はな〜」
 「わ〜またその話しか!だからぽん太はやだったんだよ〜。だいいちあんただって第二次大戦経験してないじゃん」

 ゴ、ゴホン……野田秀樹先生をあんた呼ばわりして誠に申し訳ございませんでした。

 というわけで、前半の、潜水夫を鵜飼にして人魚を捕まえて水族館の目玉にするというあたりは、言葉遊びやスピーディーな場面展開、漂う詩情など、野田ワールド全開で面白かったです。ギャグも満載で、当日はあまり受けてなかったけど、「人魚は実在しまぁす」や「ジダン!」のギャグ、ぽん太はしっかりと受け止めました。
 偏光する不思議なスクリーンを使った演出、特にイワシの水槽など、なかなか見事でした。また、舞台上を通り過ぎる魚の群れを使っての場面転換も素晴らしかったです。この辺りは、実際の魚の群れを見たことが無いと思いつかないのでは。「ダイバー」なんて作品もあったし、野田秀樹って、ダイビングもするのかしら。泡を模した円盤を使った美術も美しかったです。
 ただ、鱗に書かれたアルファベットや、謎の暗号は、わざわざプロジェクションまで使ったわりには、謎解きが面白くありませんでした。
 そして少年兵が回天に乗って次々と出撃して行く場面。題材はシビアでしたが、ドラマとして何も起きていないのと同じで、退屈で眠くなりました。出撃シーンにこんなに長い時間を割く意味があるのかいな?

 戦争の悲惨さを伝えたいのだったら、第二次大戦を再現するのではなく、もっと違ったやり方があるんじゃないでしょうか。イスラム国にしろ、ヘイト・スピーチにしろ、現代の戦争の問題は、第二次大戦時代とは大きく異なっているように思えます。そこを掘り下げて行くのならわかるけど、戦争はいかんよ〜、なぜなら昔の戦争ではこんな悲惨なことがあったんだぜ〜と言われても、なんだかな〜という気がしました。

 俳優陣は、それぞれに活躍。阿部サダヲ、生では初めて見ましたけど面白かった。

 
 

NODA・MAP第20回公演 『逆鱗』
2016年2月10日
東京芸術劇場プレイハウス

<CAST>
NINGYO:松たか子
モガリ・サマヨウ:瑛太
鵜飼ザコ:井上真央
サキモリ・オモウ:阿部サダヲ
鵜飼綱元:池田成志
イルカ・モノノウ:満島真之介
鰯ババア(逆八百比丘尼):銀粉蝶
柿本魚麻呂:野田秀樹

秋草瑠衣子 秋山遊楽 石川朝日 石川詩織 石橋静河 伊藤壮太郎 大石貴也 大西ユースケ 織田圭祐 川原田樹 菊沢将憲 黒瀧保士 近藤彩香 指出瑞貴 末冨真由 竹川絵美夏 手代木花野 中村梨那 那海 野口卓磨 的場祐太 柳生拓哉 吉田朋弘

<STAFF>
作・演出 野田秀樹 
美術 堀尾幸男 
照明 小川幾雄 
衣裳 ひびのこづえ 
選曲・効果 高都幸男
振付 井手茂太 
映像 奥秀太郎 
美粧 柘植伊佐夫 
舞台監督 瀬﨑将孝 
プロデューサー 鈴木弘之

2016/02/11

【バレエ】ブルメイステル版を生で観るのは初めてです。「白鳥の湖」東京バレエ団

 〈バレエの祭典〉プレミアム・シーズン会員券でチケットが来たので、東京バレエ団の「白鳥の湖」を観に行ってきました。東京バレエ団の「白鳥」は、これまでゴールスキー版でしたが、こんかいはブルメイステル版とのこと。ちと楽しみです。こちらが公式サイトです。

 実はぽん太、生でブルメイステル版を観るのは初めてです。昨年の国立モスクワ音楽劇場バレエ団来日公演は日程が合わず観れませんでした。ザハーロワとボッレによるミラノ・スカラ座バレエ団のDVDは持ってます。

 で、まずブルメイステルについて調べてみようという手順になりますが、なぜかネット上にあまり情報がない。日・英・仏のWikipediaには項目がありません。ロシア語のWikipediaにはさすがにありますが(こちら)残念ながら読めません。しかも記述がかなり少ないです。なぜなんだろ〜。
 で、少ない情報をまとめてみると、ウラジーミル・ブルメイステル(Владимир Павлович Бурмейстер, Vladimir Pavlovich Burmeister)は1904年に生まれ、1971年(1970年?)に死去したソ連の振付家。チャイコフスキーの従兄の孫にあたるらしい(ナタリヤ・ブルメイステル メッセージ)。1930年からモスクワ芸術バレエ(いまのモスクワ国立音楽劇場バレエの前身ですね)で踊った後、1938年に振付家としてデビュー。1941年にモスクワ芸術バレエが、スタニスラフスキーが率いていたオペラ劇団と合併して「スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念・モスクワ州立音楽劇場」になると、その主席芸術監督となり、1941年から1960年までと、1963年から亡くなるまで、その職を務めました。「白鳥の湖」を振り付けたのは1953年のようです。

 で、こんかいの東京バレエ団の演出を、ミラノ・スカラ座バレエのDVDとも比べながら検討してみましょう。なお、ぽん太の席はかなり前の方だったので、右を見てると左が見えないという感じなので、見逃している部分もあるかと思いますが、ご容赦をお願いします。

 まず序曲の部分で、お姫様がロットバルトによって白鳥に変えられるというプロローグがありました。ABTのマッケンジー版(1993年、2000年改訂)や熊川哲也版(2003年)と同じですね。ただ今回の演出では、白鳥に変えられた姿を、白鳥チュチュを着たダンサーではなく、湖面移動型白鳥人形で表現してました。しかも人形が出て来たと思ったら幕がさっと閉じてしまったので、ちょっと見にくかったかも。

 第一幕の設定は、王子と友人たちが村の娘と踊っていたら、王妃が貴族の女性たちを連れてやってくるというもの。並んだ友人たちが、サッカーのフリーキック顔負けの壁を作って、娘たちをかくまってました。

 お妃が王子に「明日の成人式でお嫁さんを決めなさい」という言うマイムや、王妃が王子に弓矢を渡す下りが無かった気がしましたが、ぽん太が見落としただけか?スカラ座のDVDでは、ちゃんとあるようですが。

 黒鳥のパ・ド・ドゥとして知られた音楽が1幕に来てました。アップテンポのところは王子のソロで、サビの遅い部分は王子と貴族の娘のパ・ド・ドゥになってました。もっともこの音楽は、チャイコフスキーの原曲では第1幕にあるので(第1幕第5曲「パ・ド・ドゥ」a)導入部、b)ヴァリアシオン1)、オリジナルに戻したと言えるでしょう。
 でも、王子がこんなに楽しそうに女性と踊ってていいのでしょうか?ひょっとして王子ってゲス?

 ところで、チャイコフスキーの全曲版(原典版)の音楽CDはいろいろ出てますが、例えば右のリンクのシャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団のCDもオススメです。オリジナルの曲以外に、後から補足された曲も収録されています。また、右のリンクのamazonのページは、現在すべての曲を試聴できるので、音楽の確認にとても便利です。
 またネットでは、英語版のWikipedia(Swan Lake - Wikipedia)にも、オリジナル(と補足曲)の曲順が出てます。

 道化の踊りが多かったのも目につきました。家庭教師は出て来ません。

 パ・ド・トロワがパ・ド・カトルになってました。一曲目が終わった所で、王子がリュートをひきながら「マザコン王子のゆううつ踊り」を踊ってましたが、これも実はオリジナルの順序(第1幕第4曲「パ・ド・トロワ」 b)ヴァリアシオン1)。

 第二幕はだいたいいつものヴァージョンと同じ。ただ、白鳥が最後に去る時に、白い羽根をひとつ落としてゆき、王子がそれをひろいます。
 それから、王子が白鳥に愛を誓うというマイムがありませんでした。

 第三幕の舞踏会では、第一幕の道化にさらに4人の道化が加わり、なんだか道化だらけ。これはスカラ座版にはありません。こんなにいっぱい道化を雇ってるなんて、王妃は実はお笑い好きか?。道化の群舞の音楽は、ぽん太には聞き覚えのない曲でした。

 お妃候補は4人で、それぞれお母さんに伴われて、三幕が始まってすぐに舞台に現れます。
 ということで、ファンファーレで入って来るのは王子です。そのあとは民族舞踊にならず、すぐお妃候補の踊りとなります。

 王子が4人との結婚を拒絶した所で2回目のファンファーレとなり、ロットバルトと黒鳥が、舞踏団を伴って乱入。舞踏団はすべてロットバルトの手先という設定です。
 ロットバルトは舞踏団にこそこそ耳打ちしたりしますが、これはスカラ座版にはない演出。
 スペインとマズルカでは途中で黒鳥が紛れ込み、王子が追いかけようとすると消えてしまいます。王子は頭がクルクルしてきたようです。

 王子をたぶらかす準備が整ったところで黒鳥と王子のグラン・パ・ド・ドゥですが、いつもの曲は第一幕で使ってしまったので、どうするんだろう思ってたら、何か聞いたことのある曲が……。こ、これはバランシンの「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」の曲ですね。

 これに関しては、チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ - Wikipediaが詳しいです。
 要約すると、1877年の「白鳥の湖」の初演時(このときの振り付けはライジンガーです)、途中でオデット役のダンサーの交替がありました。引き継いだソベシチャンスカヤはライジンガーの振り付けに満足できず、3幕でパ・ド・ドゥを踊りたいと考え、プティパに振り付けを依頼しました。プティパは作曲家ミンクス(「ドン・キホーテ」や「ラ・バヤデール」が有名ですね)が作った曲に振り付けをしました。しかしチャイコフスキーは自分のバレエにミンクスの曲を入れるのを拒否。最終的に両者は歩み寄り、プティパの振り付けを変えないですむように、チャイコフスキーが新たに作曲したのが「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」の曲だそうです。これに喜んだソベシチャンスカヤの依頼でチャイコフスキーがさらに作曲したのが、「ロシアの踊り」の音楽だそうです。
 ただこの「伝説」の真偽は疑問だそうです。この「伝説」の出典は何なのかまで道草するのはちょっとおっくうなので、やめておきます。
 しかしこの曲は楽譜として出版されず、さらに1895年のプティパ/イワノフの蘇演版にも使われなかったため、忘れされれてしまいました。
 ところが1953年にチャイコフスキー博物館でこの曲が発見されました。一部を除くとピアノ譜の状態で、踊りに関する注意書きが書き込まれていたそうです(それで第三幕のパ・ド・ドゥだとわかったんですかね?)。そこでブルメイステル(やっとこさ登場!)が作曲家シェバリーンにオーケストレーションを依頼。そのうち2曲を「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ」のアダージョと王子のヴァリアシオンに使いました。
 そしてこの曲の存在をしったバランシンが振り付けて1960年に初演したのが、「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」といわけです。

 つまりぽん太は、バランシンの「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」の曲をブルメイステルが使ったのかと思いましたが、実はブルメイステルがこの曲を復活させ、それをバランシンが使ったんですね。またひとつ賢くなりました。
 そしてこの曲を取り入れたことが、ブルメイステイル版の初演時の「目玉」の一つだったわけですね。

 ということでみちくさを終えて、ブルメイステル版「白鳥の湖」に戻ると、「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ」の1曲目のアダージョと2曲目の男性ヴァリアシオンは、「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」と同じ曲。そして3曲目の女性ヴァリアシオンは例の蛇使い風のやつ(原曲の第3幕第19曲「パ・ド・シス」 f)ヴァリアシオン5)、コーダはパ〜パ〜パ〜ラパパパの方(第3幕第19曲「パ・ド・シス」 g)コーダ)です。ただ、コーダの前半は舞踏団が入り乱れて踊ります。このあたりはスカラ座版も同じです。

 ちなみに、みちくさついでですが、女性(黒鳥)のヴァリアシオンによく使われる可愛らしい音楽の方は、「白鳥の湖」の曲ではなく、1895年のプティパ/イワノフの蘇演版において、チャイコフスキーのピアノ曲「18の小品」(Op.72, 1893年)の12曲目「いたずらっ子」をドリゴがオーケストレーションしたものです。原曲を聞きたい方は、例えばこちらのYouTube(チャイコフスキー: 18の小品,Op.72 12. いたずら女の子 Pf.ミハイル・カンディンスキー)をどうぞ。

 さらにみちくさついでに、プティパ/イワノフ蘇演版において、「18 の小品」からドリゴがオーケストレーションして加えられたものには、他に第11曲「ヴァルス・ブルエッテ」(チャイコフスキー: 18の小品,Op.72 11. ヴァルス・ブルエッテ Pf.ミハイル・カンディンスキー)と、第15曲「少しショパン風に 」(チャイコフスキー: 18の小品,Op.72 15. 少しショパン風に Pf.ミハイル・カンディンスキー)がありますが、これらはブルメイステル版では使われておりません。

 パ・ド・ドゥの途中で、王子は黒鳥に、2幕でひろった白い羽根を渡し、黒鳥はその羽根を高らかに掲げて踊ります。
 「あなたはあの白鳥ですね」「そうよ!」という感じです。「王子は黒鳥を、湖で出会った白鳥だと思った」という設定でしょうか。

 王子が黒鳥に結婚を申し出ると、黒鳥たちはゲラゲラ笑いながら去って行きますが、ここでも2幕同様、王子は「誓う」のマイムはしませんでした。理由は不明です。マイムはなるべく廃して、演技で表現しようということでしょうか。

 さて4幕に入ります。「子どもの白鳥の踊りの練習」の曲(第4幕 第25曲:間奏曲)の前半が長めに序曲として使われてました。また「小さな白鳥たちの踊り」のなかで、4羽の白鳥が2幕と同じように4人腕を組んだフォーメーションで踊ってたのが目につきました。

 こんかいの演出では、ロットバルトの踊りがほとんどありませんね。しかも第2幕と第4幕では、岩の上から大きな羽根をバサバサさせて、あとは二つの羽根を閉じて、ムール貝のように岩に張り付いてじっとしているだけ。中の人はそのあいだ休憩してるんでしょうか。

 さあ、そしてエンディングです。王子が駆けつけて来て、ロットバルトと戦うのかと思ったらいきなりダウン!白鳥たちはガックシうなだれて、しずしずと立ち去っていきます。さらに水が溢れて来て、王子は溺れそう。そして白鳥ちゃんは湖に身を投げます。
 こ、これは、悲劇的なエンディングかと思ったら、王子が、お姫様に戻った白鳥ちゃんを抱きかかえて現れます。あれれ、ハッピーエンドだったのか〜。白鳥ちゃんが命を捧げたからかしら。ロットバルトは死んだのかな〜?なんだかスッキリしません。
 スカラ座版では、王子がロットバルトと戦って倒してます。東京バレエ版は、王子の「力」よりも、白鳥ちゃんの「自己犠牲の愛」を強調したかったのでしょうか?

 ということで細かく見てきましたが、ブルメイステル版の特徴をまとめると、①チャイコフスキーの初演版への回帰、②演劇性を重視した演出、の二つを挙げることができるでしょう。
 ①初演版への回帰に関しては、1895年のプティパ/イワノフ蘇演版で加えられたドリゴ編曲の曲を廃し、いわゆる「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ」の曲を1幕に戻すなど、原点版に近づけました。そして初演で使われた、当時再発見されたばかりの「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」の曲を導入しました。
 ②に関しては、様式的な美しさのある蘇演版に対し、ストーリーを重視しました。例えば第一幕のワルツの最後で王妃の到着を迎える演技を入れたり、第二幕で白鳥が落とした羽根を効果的に使ったり、第三幕の民族舞踊をロットバルトの手下としたりしました。また、お姫様が白鳥に変えられるプロローグや、白鳥がお姫様に戻るエピローグがありました。
 演劇性に関しては、ブルメイステルが、スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念・モスクワ州立音楽劇場において、20世紀の演劇に大きな影響を与えた演劇理論家であったスタニスラフスキーと一緒に働いていたことが多いに関係ありそうですが、そのみちくさはまた今度に。

 2015年8月に東京バレエ団の芸術監督になった斎藤友佳理が、なぜブルメイステル版にこだわったのかはよくわかりませんが、「東京バレエ団新芸術監督・斎藤友佳理、「白鳥の湖」に臨む」(YOMIURI ONLINE, 2016年2月2日)のインタビューを見ると、ただブルメイステル版をやりたかったというだけでなく、実力主義を掲げてオーディションを行なったり、指導教育体制を変えたりといった大きな変革のなかの一つであることがわかります。

 今回の「白鳥の湖」を観た感じでは、まだ「演技力」という点では不十分のような気もしますが、変革の一方を踏み出したことは感じられました。

 オデット/オディールの川島麻実子は、日本人離れした美しいプロポーションで、気品のある踊りでした。ジークフリートの岸本秀雄は、とても安定しておりましたが、童顔なのと、背がちょっと低いのが残念。
 道化の入戸野伊織が大活躍。ジャンプはすばらしかったですが、もうちょっと回転速度が欲しかったです。パ・ド・カトルの男性陣がなかなか迫力ありました。背の高い方の人(松野乃知かな?)が大きな踊りで思わず目が行きました。ダンスール・ノーブル目指して頑張って下さい。スペインの奈良春夏は、さすがの存在感で観客を魅了しました。
 あと、東京バレエ団のコールドは、ピシッとそろってていつもながら素晴らしいですね。背の高さまでそろってます。オーディションの時に身長の規定があるのかしら?

 主催にテレビ東京が入っていることに、時代の波を感じました。

 国立モスクワ音楽劇場バレエ団の「白鳥の湖」はどうなのか観てみたくなりました。今度来日した時は行ってみようっと。

 終了後に吉岡美佳さんの退団セレモニーが行われました。4月からはベジャール・バレエ・ローザンヌに加わるとのこと。いままでありがとう、そしてお疲れさまでした。ますますのご活躍をお祈り致します。

ブルメイステル版「白鳥の湖」(全4幕)
─ 東京バレエ団初演 ─

2016年2月7日
東京文化会館

◆主な配役◆
オデット/オディール:川島麻実子
ジークフリート:岸本秀雄
ロットバルト:森川茉央

【第1幕】
道化:入戸野伊織
王妃:山岸ゆかり
パ・ド・カトル:河谷まりあ、二瓶加奈子、宮川新大、松野乃知
アダージオ:三雲友里加

【第2幕/第4幕】
四羽の白鳥:金子仁美、中川美雪、上田実歩、髙浦由美子
三羽の白鳥:二瓶加奈子、政本絵美、川淵瞳

【第3幕】
花嫁候補:小川ふみ、三雲友里加、榊優美枝、川淵瞳
四人の道化:海田一成、高橋慈生、中村瑛人、井福俊太郎
スペイン(ソリスト):奈良春夏
スペイン:宮崎大樹、松野乃知、原田祥博、樋口祐輝
ナポリ(ソリスト):沖香菜子
チャルダッシュ(ソリスト):岸本夏未 河合眞里、岡崎隼也、杉山優一
マズルカ(ソリスト):伝田陽美、梅澤紘貴

指揮: アントン・グリシャニン
演奏: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

2016/02/07

【仏像】福島の仏像(3)珈琲館蔵の観音様(会津若松)、白水阿弥陀堂の阿弥陀三尊像(重文)、いわき・ら・らミュウの生牡蠣

Img_8607_2  ぽん太とにゃん子の福島の仏像をめぐる旅、ほとんどお目当ての仏像が見れません(:_;)。京都や奈良みたいに、行けばいつでも見れると思ってたぽん太とにゃん子が間違ってました。

 

Img_8610 ということで、気を取り直して、まずは番外編。会津若松の「珈琲館 蔵」で一服(食べログ)。観光スポットの中心街にあり、明治12年築の蔵を利用した店内には、上の写真にある十二尺の観音様がおられます。
Img_8609 寒い雪の中、仏像は見れず、冷えた心と体がおいしいカフェラテで暖まりました。
Img_8630  磐越自動車道でいわき市に向かい、白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)に参拝。建物は「国宝」に指定されてます。1160年(永暦元年)、藤原清衡の娘である徳姫によって造られました。
 ぽん太も以前に訪れたことがありますが、入場料を節約して遠くから見ただけでした。今回はなかに入って仏様にご対面。
Img_8631 なかには阿弥陀三尊像と二天像があり、すべて国指定の重要文化財です。撮影禁止なので、写真は例えばこちらこちらをどうぞ。
 阿弥陀如来はいわゆる定朝様式で、阿弥陀堂と同じように優美なお姿です。親指と中指をつけ右手を上げて左手を下げる、下品中生の来迎印を結んでらっしゃいます。光背の細かな浮き彫りも美しいです。
 阿弥陀さまの左右には、阿弥陀三尊像のお約束の勢至菩薩(右脇侍、向かって左)と観世音菩薩(左脇侍、向かって右)。「無量寿経」「観無量寿経」を根拠とするフォーメーションですね。阿弥陀さまと同じく派手さのない入念な造りです。それぞれのオデコにあるはずのシンボル(勢至菩薩の水瓶、観世音菩薩の化仏)はありませんね。
 周りを囲むのは二天像。普通は四天王像ですね。仏像初心者のぽん太にはちょっと珍しく感じられます。
 四天王像では、向かって右手前が持国天、左手前が増長天、左奥が広目天、右奥が多聞天です。覚え方は「じぞうこうた」(地蔵買うた)ですね。
 白水阿弥陀堂の二天像は、向かって右が持国天、向かって左は多聞天(一説には増長天)です。多聞天なら宝塔を持ってそうですが、持物は失われてしまってわからないそうです。どちらの像も、外側の腕を振り上げ、内側の手をお腹のあたりに置いて、左右対称の姿をしております。「じぞうこうた」の最初と最後ということで、持国天と多聞天を選んだと考えられているそうです。
 実は中尊寺金色堂の阿弥陀三尊像も、二天像を従えているそうで、こちらは持国天と増長天です。これは後ろの二人を省略し、前の二人だけを表現したということでしょうか。白水阿弥陀堂で多聞天が一説には増長天と考えられているのは、金色堂との類比かもしれません。
 「四天」ではなく「二天」である意味はぽん太にはわかりませんが、どちらも同じ奥州藤原文化圏にあることがわかります。

 

Img_8636 いわき・ら・らミュウ(公式サイト)によって、美味しい生牡蠣をいただきました。

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