【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(2)病歴のまとめ
鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回はニジンスキーの精神障害に関する部分です。
今回は、ニジンスキーの病歴を、医学レポートの形式でまとめてみました。
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【氏名】ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキー(Вацлав Фоми́ч Нижи́нский)
【性別】男性
【生没年月日】1890年3月12日〜1950年4月8日
【診断】統合失調症
【既往歴】帝室舞踊学校時代(1898〜1907)に転倒事故にて4日間の意識不明となり生死をさまよい、2ヶ月間入院(後遺症はなし)。
18歳ごろ淋病。5ヶ月ほどで改善。
【家族歴】兄、妹がいる。兄は幼少時からぼんやりしたが、精神障害を発症して入院歴もあり、第二次対戦中に病院内で自殺。また祖母がうつ病で自殺?。
【生活歴】1889年3月12日にウクライナのキエフで出生。両親はポーランド人のバレエ・ダンサー。幼少期は活発で冒険好きで机に向かうことが苦手など、多動傾向が認められた。また言語コミュニケーションが苦手だった。
1898年、帝室舞踊学校に入学。舞踊技術は優れていたが、陰湿ないじめに会う。いじめのなかで転倒し、上記のように4日間の意識不明となり生死をさまよう。
1907年、帝室舞踊学校卒業と同時にマリインスキーバレエ団に入団し、頭角をあらわす。
1909年、ディアギレフが旗揚げしたバレエ・リュスに加わって大活躍し、振付家としても革新的な振り付けにより高い評価を受ける。この頃、気に入らないことがあると興奮して大声でわめくことがしばしばあった。
1913年、ハンガリー人の女性と結婚。これが原因となりバレエ・リュスを解雇されたため、1914年、自分の一座を組んで公演を行うがうまくいかず、強いストレスを受ける。
【病歴】この頃から、ちょっとしたことで大声を出し、だだをこねるように転げ回ったり、他人に殴りかかるなどの行動が見られるようになった。その後抑うつ状態となり、不眠、思考力低下、易疲労感、情動不安定、不安・抑うつなどがみられ、稽古もできずに横になっている状態となったが、数ヶ月で軽快。1916年からはバレエ・リュスに復帰し、全米ツアーなどに参加。だがここでも癇癪を起こすことが多かった。また友人の影響でトルストイ主義に心酔し、菜食主義となり、ロシアの農民服を着用し、コール・ド・バレエに主役を踊らせるなどした。
1917年、スイスのサンモリッツに転居。当初は心身ともに回復したようだったが、1918年にはバレエへの興味を失い、マンダラのような抽象画を描きまくるようになる。精神分析に興味を持つ内科医フレンケルと知り合う。
1919年1月19日、サンモリッツのホテルにて私的なダンス・リサイタルを開くが、かなり前衛的なもので、途中で第一次大戦についての説教をするなどした。
この日から2ヶ月間、『手記』の執筆に没頭。絵に対する興味はなくなり自分のデッサンをしまい込む。『手記』は極めて混乱しており、妄想的な内容であった。この頃から言動が誰の目にも「異常」と映るようになり、家に閉じこもったり、家族に暴力を振るうなどしたため、フレンケルはオイゲン・ブロイラーにニジンスキーを紹介した。
1919年3月5日、チューリッヒのブルクヘルツリ病院でブロイラーの診察を受ける。軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症と判断し、同病院では監禁的処遇しかできないため、クロイツリンゲンにあるベルヴューという私立のサナトリウム(院長がビンスヴァンガー)への入院を勧めた。その日の夜、ホテルで騒ぎを起こし、ブルクヘルツリ病院に強制入院となり、2日後にベルヴューに転院となった(ブルクヘルツリの最終診断はカタトニー(緊張病))。
ベルヴューでは開放的な環境で治療を受けたが、症状は緊張病性の興奮と昏迷を繰り返し、指を目につっこむといった自傷行為や、幻聴も認められた。
同年7月、妻が来院し、患者の退院を執拗に要求。退院できる状態ではないことを説明したが納得せず、地元の保健所と相談の上、「サンモリッツに患者のために特別な部屋を用意すること、自殺に使えるものを一切置かないこと、経験ある看護人2名が24時間患者を監視すること、精神科医の監視下に置くこと」という条件のもと、7月29日に退院となった。
しかし約束が十分守られなかったため、12月3日にベルヴューに強制入院となる。病状はかなり悪化しており、暴力を振るったり、床に排泄するなどした。
1920年2月、妻の転居に伴いウィーンのシュタインホーフ精神病院に転院。この間、妻がフロイトに相談に行ったというが、真偽は不明。
1922年、同院を退院し、ブダペストの妻の実家に戻り、その後さらにパリに転居。フランスの高名な医師の診察を受けるが改善はみられず。
1926年、妻がアメリカに渡ったため、妻の姉と看護人が面倒をみたが、道で他人に危害を加えたり、体を出血するまで引っ掻くなどの自傷行為がみられたため、私立の精神病院に入院。退院後、自宅で劣悪な条件で監置される。
1929年4月、ベルヴューのスタッフが苦労して移送し、ベルヴューに3度目の入院。病状は進行していて、興奮は見られなかったが、外界への興味を失い、ぼうっと座って過ごすことが多かった。
1934年、妻がアドラーを伴ってベルヴューを訪問。転院を試みるが、本人の同意が得られずにあきらめる。
この年と翌年に2回の心臓発作。
1938年、ザーケル医師が自らベルヴューを訪れ、病院内でインシュリン・ショック療法を行う。2ヶ月間行うが、効果なし。
同年12月、ベルヴューの院長ビンスヴァンガーがインシュリン・ショック療法を禁じたため、効果を信じる妻の希望でミュンシンゲンの州立病院に転院し、インシュリン・ショック療法を継続。
1939年、インシュリン・ショック療法を計128回行うが、効果は見られず終了となる。ミュンシンゲン病院を退院。
1940年、ミンシュンゲン病院に再入院。夏、妻の実家のブダペストに移るが、暴力が手に負えず、1942年に私立のサナトリウムに入院。5月、膀胱炎と痔の治療のためブダペストの公立病院に入院。一度退院したが、再度入院。
1943年、ウィーンの聖ヨハネ病院に入院。
1945年3月24日、ドイツ軍から精神病患者を全員処刑するよう命令が下ったため、看護人が機転をきかせて患者を妻の疎開先に連れて行く。
妻とともにウィーンに転居。
1947年、ロンドンに転居。1948年、ロンドン郊外に居を構える。
1950年4月4日、ベッドから起き上がれなくなり、ロンドンの私立クリニックに救急搬送。4月8日に死去(死因、慢性腎炎による尿毒症)。
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