鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回でラストです。
今回は、ニジンスキーと当時の精神医療についての拾い読みです。
ニジンスキーの性的初体験は娼婦が相手であり、彼はその後も娼婦を買うという習慣を捨てませんでした。しかも初体験の相手から淋病を移されたらしい。そのときニジンスキーは18歳ですから、1908年のことか。世界初の抗生物質のペニシリンが発見されたのが1928年ですから、まだろくな治療法もなかった時代で、治すのに苦労したようです。
性病といえば、ニジンスキーが晩年に精神病になったことと関連して、梅毒にはかからなかったのかという疑問がわいてきます。
梅毒の原因である梅毒トレポネーマは、1905年シャウディンとホフマンによって発見されました。翌年1906年にはワッセルマンが、梅毒の感染を検出するワッセルマン反応を発明。梅毒は症状も独特ですが、この時点で診断もかなり精度があがりました。梅毒の治療に関しては、1910年にサルバルサンが発明されました。1928年には抗生物質第一号のペニシリンがフレミングにより発見され、1940年代には広く使われるようになりました。
ということは、ニジンスキーの時代には梅毒は診断も治療も可能だったことになりますから、ニジンスキーが梅毒で精神障害を起こしたという可能性はなさそうですね。
1917年にサンモリッツに移ったニジンスキーは、初めこそ精神状態が改善したように見えましたが、次第に舞踊に対する関心を失い、かわりにパステルや木炭による抽象画に熱中するようになりました。これらのデッサンとユングのマンダラの関連性を、鈴木晶氏は指摘しております。
ちなみにユングは、1875年、スイスの生まれ。チューリヒ大学のオイゲン・ブロイラーの元で学んだあと、フロイトに接近し、1911年には国際精神分析協会の初代会長となりました。しかし1914年にはフロイトと決別し、「心理学クラブ」を設立して分析心理学の確立に集中するようになりました。
フロイトから次第に離れていく1912年から1916年ごろ、ユング自身がかなり精神的に不安定な状況になったのですが、この時彼は自分の深層心理に導かれて、重なり合った円のような図形を書き続けました。また自分以外にも、回復期の患者がしばしば同様な図形を描くことに気づきました。1928年に中国の錬金術の本を読んでマンダラを知るとそれに夢中になり、1929年に『黄金の華の秘密』という本を出版します。ユングにとってマンダラは、集合的無意識の現われとしてたいへん重要な概念になっていきます。
ユングが直接ニジンスキーを診察したことはなかったようですが、なんかふたりの間にシンクロニシティーを感じますね。
ニジンスキーが、1919年の「最後の踊り」の日から一ヶ月半にわたって書き記した『手記』は、鈴木晶氏の訳で完全版が出版されております(『ニジンスキーの手記 完全版』(新書館、1998年)。読んでみると、完全に統合失調症の幻覚妄想状態ですな。この本のみちくさはまたの機会に。
サンモリッツには、リゾート客を相手にしていたフレンケルという内科医がいましたが、若いころチューリヒ大学でオイゲン・ブロイラーの講義を聴いて以来、精神分析に興味を持っていたこともあり、ニジンスキーの主治医となって素人精神分析を施し、またニジンスキーの妻ロモラと不倫関係になっていたらしいです。『手記』の混乱したように見える記述には、フレンケルの影響があるのかもしれません。
ブロイラーに関しては、ドイツ語のウィキペディアが詳しいです(Eugene Bleuler-Wikipedia)。1857年にチューリヒの近くで出生。チューリヒ大学の医学部を卒業し、精神医学を志す。博士号を取得し、留学などを経て、1884年から1885年頃にチューリヒ大学医学部の精神科病院ブルクヘルツリの医員となり、1886年からライナウの精神科病院の院長、そして1898年にはブルクヘルツリ院長、チューリヒ大学医学部精神科の教授となりました。1900年から1909年まで、ブルクヘルツリにユングが勤務していたことは知られております。
ということで、フレンケルがブロイラーの講義を聞いたのは1898年以降と推定されますが、それ以前にブロイラーがチューリヒ大学の講義を受け持っていた可能性もあります。
ブルクヘルツリは現在も、チューリッヒ大学医学部の精神科病院として機能しております(Burghölzli-Wikipedia英語版)。場所はここです(google map 3D写真)。美しい建物ですね。
1919年3月、ニジンスキーは妻に伴われてブルクヘルツリを訪れ、ブロイラーの診察を受けます。ブロイラーのカルテには次のように書かれていたそうです。
彼は精神病と診断されることを怖がっていて、私の質問に対して、ほとんど洪水のような言葉で答えるのだが、あまり内容はなく、言い抜けやはぐらかしが見られた。彼は私に、精神病の人をどうやって見分けるのかといったことをしつこく尋ね、自分は妻がどう反応するかを試すために、妻の前では精神病のふりそしているのだ、それで時どきじっと部屋の隅を見つめたりするのだ、と説明した。妄想に関してはいっさい情報を提供するまいと防衛していた。明らかに以前は知能が非常に高かったと思われるが、いまは軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症である。
このあたりの記述は、アメリカの精神科医オストウォルドの『ヴァーツラフ・ニジンスキー 狂気への跳躍』(Peter Ostwald, Vaslav Nijinsk: A Leap into Maddness, A Lyle Stuart Book, 1991)に基づいているようです。邦訳はありませんが、アマゾンで原書を購入できます。ぽん太も一応購入手続きをしてみましたが、読む元気があるかどうかはわからないです。Ostwaldってどっかで聞いたと思ったら、『グレン・グールド伝―天才の悲劇とエクスタシー』の著者ですね(こちらは邦訳あり)。
上記の引用の中で、「軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症」という表現に関し、鈴木晶氏はオストウォルドの見解どおり、「躁鬱病である可能性も否定できないが、おそらく統合失調症だろう」という意味にとっています。しかしぽん太には、ちょっと陽気で多弁な状態の統合失調症だったように読めます。このあたりは原書を読んで見ないとなんとも言えないですね。
ブロイラーは、ニジンスキーの妻ロモラに、環境のよい高級私立病院のベルヴューへの入院をすすめました。また離婚も勧めたそうで、鈴木氏はロモラを「結婚の義務から解放してやるべきだと考えた」と書いておりますが、「ロモラと一緒にいることがニジンスキーにとってよくない」と考えたからかもしれず、ぽん太には判断がつきません。
ニジンスキーとロモラはホテルに戻りましたが、その晩にホテルでトラブルを起こし、ブルクヘルツリに緊急入院させられました。そして2日後にベルヴューに転院になりました。ブルクヘルツリでの診断は(そしてベルヴューでも)カタトニー(緊張病)だったそうです。オストウォルドは現在ならば「自己愛性人格における統合失調感情障害」と診断されるだろうと書いているそうですが、緊張病の興奮と昏迷と、統合失調感情障害の躁状態とうつ状態は、全然異なるものなので、混同されるとは思えません。もっともぽん太はブロイラーの時代の診断体系には詳しくないので偉そうなことは言えませんが、ここもちょっと疑問に思えるところです。
というか、書いたばかりのニジンスキーの『手記』を読めば、躁鬱病ではなく統合失調症であることは一目瞭然のはずですが、『手記』はロシア語で書かれておりましたし、ロモラとしては他人の目に触れさせたくないことも書いてありましたから、この時はブロイラーが読む機会はなかったのでしょう。
1919年にニジンスキーはベルヴューに入院しました。ベルヴュー(Sanatorium Bellevue )は、ビンスワンガー家が4代にわたって運営した個人精神科病院で、ニジンスキー入院時の院長は、現存在分析の創始者のルートヴィヒ・ビンスヴァンガーでした。もっとも彼が現存在分析を確立したのは1930年代から40年代のことですから、もっとあとの話です。というか、ビンスヴァンガーはちょうどニジンスキーとの関わっている時期に、現存在分析を確立していったことになります。
ベルヴューは、ルートヴィヒのあと、息子のウォルフガング・ビンスヴァンガーが後を継ぎましたが、財政の事情から1980年に閉院しました。場所はたぶんこの辺ですね(googe map 3D写真)。建物の多くは現在は建て替えられてしまっているようです。
ビンスヴァンガーは病院のなかで、外部からの客も集めて、ニジンスキーのダンス・リサイタルを開いたそうです。またビンスヴァンガーは、妻との再会が良い効果をもたらすだろうと考え、妻と外泊させたりしました(ブロイラーの考えとはちょっと違うのが面白いですね)。
その後、ニジンスキーの病状はいろいろと変化し、様々な症状が出たようですが、精神科医からみて統合失調として普通の経過、普通の症状なので、バッサリと省略。
1920年2月、ロモラはニジンスキーを、ウィーンのシュタインホーフ精神病院に入院させました。
この病院はウィーンの西部にあり、建築家オットー・ワーグナーの計画に基づいて作られたもので、広大な敷地を擁し60もの建物からなっておりました。現在もオットー・ワーグナー病院として診療を続けているようです。付属施設のひとつであるシュタインホーフ教会は、オットー・ワーグナー自身の設計によるユーゲント・シュティールの建物で、現在でも人気観光スポットとなっております。こちらがgoogle map 3D写真です。
で、当時この病院の院長だったのがヴァグナー=ヤウレックで、梅毒による進行麻痺に対するマラリア療法を1917年に発明して、1927年にノーベル賞を受賞した人ですね。ほんとにニジンスキーは当時の一流の医師の治療を受けてますよね。
ウィーン滞在中に、ロモラはフロイトに相談に行ったと書いているそうですが、真偽は不明です。
その後、1922年か23年ごろ、フランスの高名な医師たちに診てもらったそうですが、具体的な名前はわかりません。
次はまたまた有名人、深層心理学者、アルフレート・アドラーです。最近は、アドラー心理学を踏まえた『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』などという本が売れてますね。
ロモラは、1936年に出版されることになる『ニジンスキーの手記』の序文をアドラーに依頼したのだそうです。しかし、出来上がった序文をロモラは気に入らず、今度はユングに依頼しましたが、診察したことがないからと、丁重に断られたそうです。
スゴイですね。三大深層心理学者コンプリートです。
で、1934年、ロモラはそのアドラーをつれて、再びベルヴューに入院していたニジンスキーを訪ねます。アドラーはニジンスキーを引き取るつもりでしたが、ニジンスキー本人の同意が得られず、転院はかないませんでした。
オーストリア生まれの医師アドラーは、フロイトの精神分析学派に加わりますがやがて決別。次第にその名声は世界に知れ渡り、アメリカとヨーロッパで半々過ごしながら、世界各地を飛び回る生活でした。しかしアドラーはユダヤ人だったので、ナチスの台頭により、1935年にアメリカに移住をしております。
ロモラは何かよい治療がないかと、あちこちの病院や大学を訪れ、手紙を書いたそうですが、インシュリン・ショック療法を選びました。アメリカの医師、マンフレート・ザーケルが始めた治療法で、患者にインシュリンを注射し、一定時間、低血糖の昏睡状態に置くというもので、事故死の可能性も否定できませんでした。
1937年8月、ロモラはザーケル自身を連れてベルヴューへ乗り込みました。しかし精神病を人間的現象として捉えるビンスヴァンガーはこの治療法を拒否。それでも翌1938年7月、ロモラの強い要望の結果インシュリン・ショック療法が開始されました。
2ヶ月後、目覚ましい改善が見られた、とロモラとザーゲルは思ったのですが、実際はなんの変化もなく、ビンスヴァンガーはこれ以上インシュリン療法を行うことを禁止。そこで12月、ニジンスキーは、ビンスヴァンガーの親友マックス・ミューラーが院長をつとめるミュンシンゲンの州立病院に転院し、そこでインシュリン療法を続けることになりました。
ミュンシンゲンの州立病院とはこちらでしょうか(Psychiatriezentrum Münsingen - E
Wikipediaドイツ語版, google map 3D写真)。マックス・ミューラー(Max Müller)はぽん太は聞いたことありませんが、ドイツ語のWikipediaを見ると、のちにベルン大学の教授になったようです。
ニジンスキーのインシュリン療法は翌1938年6月まで続けられ、ベルヴューと通算228回施行されましたが、莫大な医療費とは裏腹に、さしたる効果はありませんでした。
何回か入退院を繰り返したのち、ミュンシンゲン病院に入院していたニジンスキーを、1945年3月12日、看護人がロモラのところに連れてきました。敗走するドイツ兵が、精神病院の患者を全員処刑するように命令したというのです。やがてソ連軍が進駐してくると、そこにロシアの英雄ニジンスキーがいることを知って驚いたそうです。
ところが、気さくなロシア兵と接するうちに、ニジンスキーの病状がみるみる改善し、感情が戻ってきて、自分から話しかけたりするようになったそうです。
それを見たロモラは、精神科医の指示があったとはいえ、これまで自分たちがニジンスキーにしてきたことは間違っていたのではないかと思ったそうです。何十年間にわたって行ってきた治療よりも、数週間の粗野なロシア兵の扱いの方が、ニジンスキーの病気にはるかに良い効果を与えた。私たちはニジンスキーを外界から引き離し、独房に閉じ込めきただけだった。このことに関して、いまでも決して自分を許すことはできない。
1950年4月8日、ニジンスキーは「慢性腎炎による尿毒症」により死去。
その2年後の1952年、最初の抗精神病薬クロルプロマジンが発見され、以後、精神医療は薬物療法の時代に入ります。それによって精神病患者は、これまでとはまったく異なる良好な経過を辿ることが可能になりました。
しかし上のロモラの告白は、現在であっても、精神障害に関わる者が決して忘れてはいけない真実を含んでいるとぽん太は思います。
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