« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

2018年6月の26件の記事

2018/06/30

【仏像】白洲正子が愛でた黒焦げのトルソー 松尾寺(奈良県大和郡山市)

Img_6981

 

 奈良市の南西の丘陵地帯にある松尾寺。天武天皇の息子の舎人親王の創建と言われています。ここはなんと言っても、白洲正子が『十一面観音巡礼』でその美しさを褒め称えた黒焦げの仏像のトルソーが必見です。

 

 

【寺院名】真言宗醍醐派 松尾山 松尾寺
【公式サイト】http://www.matsuodera.com
【住所】奈奈良県大和郡山市山田町683
【拝観日】2017年11月2日
【拝観】常時可。拝観料:範囲によっていろいろ。
【仏像】◎重要文化財
 千手観音像トルソー 木造 総高188cm 奈良時代 写真
◎十一面観音立像 桜 一木造 漆箔 像高110.6cm 平安後期 (奈良国立博物館寄託) 写真(お顔だけ)
 如来形頭部残闕 桧 10世紀
 役行者小角像 円空作 江戸時代 写真

 

 

 黒焦げのトルソーは、真っ黒に炭化していて、首も腕も失われ、胴体と脚の外形のみ留めております。昭和い28年(1953年)、本堂の解体修理中に、屋根裏から発見されたそうです。松尾寺の旧本堂は建治3年(1277年)に消失しており、現在の本尊は鎌倉時代の作。このトルソーは、火災以前に祀られていた旧本尊ではないかと考えられています。
 長く人々の信仰を集めた美しい仏さまを見慣れた目には、このトルソーは衝撃以外のなにものでもありません。しかしそれは、きらびやかな仏像以上に訴えかけるものを持っています。それはあらゆるものを朽ち果てさせていく無常さであり、また、自らを犠牲にして衆生を救おうとする菩薩の慈悲でもあります。

 奈良国立博物館に寄託されている重文の十一面観音さまが里帰りして公開されておりました。どういう仏様だったかは忘れました。

 このお寺にはもうひとつ、ご本尊の十一面観音がありますが、こちらは見ることができませんでした。なんと訪問日の翌日の11月3日が公開日でした。

 役行者は、背面に延宝3年(1675年)円空作という墨書があるそうです。しかし円空に特徴的な豪快さや闊達さはなく、ニコニコと微笑んだ可愛らしい像です。

2018/06/29

【仏像】母性溢れる国宝十一面観音 法華寺(奈良市)

Img_6984

 

 

【寺院名】光明宗 法華寺
【公式サイト】http://www.hokkeji-nara.jp 【住所】奈良県奈良市法華寺町882
【拝観日】2017年11月2日
【拝観】常時可。拝観料:特別公開のため700円。普段は500円。
【仏像】
十一面観音菩薩立像 カヤ 一木造 素地 像高1.00m 平安初期 国宝 写真 維摩居士像 像高90.8cm 平安前期 国宝 写真 阿弥陀如来立像(横笛堂本尊) 鎌倉時代

 

 

605pxhokkeiji_nunnery_elevenheaded_  写真は、法華堂-Wikipediaからのパブリックドメインのものです。
 この写真には光背がありませんが、なんか写真で見ると矢がいっぱい刺さったみたいな光背が印象的な、国宝の十一面観音様です。
 矢に見えるのは、蓮の葉でした。蓮の葉がこんなジュンサイみたいに細長く丸まるものか、ぽん太はこれまで着目したことがありませんでしたが、ぐぐって見ると出始めは丸まっているようです(千葉公園の四季)。現在の光背は明治時代の補作ですが、古い光背を踏まえたものだそうです。
 像高は1メートルとそれほど大きくありませんが、さすが国宝、存在感があります。最初から彩色していない素木像で、木目が美しいです。唇には朱が入ってます。胸はふっくらとしておりますが、ウエストは絞られていて、腰は左(向かって右)にひねられています。腕は長く、顎の肉付きなど、全体に豊満な感じがします。
 お顔は「婦人」という感じ。光明皇后の姿を模して作られたという言い伝えがありますが、高貴さよりも、母性、慈愛が伝わって来ます。

 

 
 国宝の維摩居士像は、見たはずだけど覚えてません。
 

 

2018/06/28

【仏像】精緻で高貴な十一面観音菩薩 海龍王寺(奈良)

20171102_144823

 

 2017年11月上旬に訪問。

 

 ううう、スマホを機種変更したら、拝観した時の感想のメモが全部消えてしまいました。記憶も薄れてしまってますが、備忘録としてアップしておきます。

 

 

 

【寺院名】真言律宗 海龍王寺
【公式サイト】http://www.kairyuouji.jp 【住所】奈良県奈良市法華寺北町897
【拝観日】2017年11月2日
【拝観】常時可。拝観料:特別公開のため600円。普段は500円。
【仏像】
十一面観音菩薩立像 桧 金泥 像高94.9cm 鎌倉時代 重文 写真1写真2 文殊菩薩立像 鎌倉時代 重文
愛染明王像 室町時代 市指定
不動明王像
毘沙門天像 平安末期〜鎌倉初期

 

 

 

 海龍王寺の十一面観音菩薩像は、金色に輝き、放射光型の光背を負い、精緻を極めた装身具を身にまとった、気品に溢れ高貴なお姿の仏様です。截金を駆使した装飾も見事。プロポーションも美しく、腰のひねりも控えめです。光明皇后が自ら刻んだ十一面観音像をモデルにして、鎌倉時代に慶派の仏師が作ったものだそうですが、快慶に近い美しさを感じます。

2018/06/27

【仏像】宝冠の十一面観音と巨大な地蔵菩薩坐像 福智院(奈良市)

Img_6986

 

 2017年11月、秋の特別ご開帳で、奈良の福智院を訪れました。

 

 

【寺院名】真言律宗 清冷山 福智院
【公式サイト】http://www.fukuchiin-nanto.com/index.html 【住所】奈良県奈良市福智院町46
【拝観日】2017年11月2日
【拝観】常時可。拝観料:特別公開のため600円。普段は500円?
【仏像】
本尊 木造地蔵菩薩坐像 桧 寄木造 像高2.73m 鎌倉時代 重要文化財 写真 興正菩薩 南北朝 写真 宝冠の十一面観音菩薩立像 室町時代 写真

 

 

 大きな地蔵菩薩というと、江戸時代に作られた観光用(?)みたいなのを思い浮かべますが、この仏様は鎌倉時代の立派な仏様です。
 像高2.73メートルの丈六の坐像ですが、高い台座に座り、大きな光背を背負い、いっそう大きく見えます。座り方は半跏趺坐に見えますが、実は安座(いわゆるあぐら)だそうです。身体は肉付きよく、どっしりゆったり座っておられます。お顔は気迫が感じられます。衣が台座に垂れ下がっております。
 光背がまた珍しく、大小の化仏によって埋め尽くされた千体仏光背で、その迫力は圧巻です。

 

 興正菩薩さまは、このおじさんどっかでみたぞ!? あゝ、西大寺の中興の祖ですね。ここ福智院は真言律宗ですが、その総本山は西大寺。福智院も興正菩薩(叡尊)によって現在地に移され、創建されたと言われています。

 

 特別公開の十一面観音さまは、「宝冠の」(ほうかんむりの)という形容詞がついていますが、確かにせっかくの頭上面を冠で隠しているのはちょっと珍しいです。元は伊勢で祀られておりましたが、廃仏毀釈後に福智院にお迎えされたそうです。1m程度の小さな仏様ですが、表情やお姿など、したしみが感じられます。紆余曲折を経て福智院に落ち着き、ほっとしているかのようです。

2018/06/26

【山菜・旅館】久々来たけどやっぱり別格だね。出羽屋(山形県西川町)(★★★★★)

Img_9407

  6月中旬、今年最後の山菜を食べに、山形県は月山の麓まで行って来ました。出羽屋さんに泊まるのは7年ぶり4回目です。公式サイトはこちらです。
 言わずと知れた山菜料理の名店。こんかい久々に訪れましたが、やはりそんじょそこらの山菜旅館とは異なり、食べたことがない山菜が出て来ます。それも新鮮。これはやっぱりちょくちょく来たいですね〜。少し時期を変えて、別の山菜も食べてみたいです。温泉ではありませんが、山菜料理の素晴らしさは群を抜いていて、ぽん太の評価は文句なしの5点満点!

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!

Img_9435
 昔ながらの出羽屋さんの門構え。向唐破風の入口がいい感じです。

Img_9399
 玄関の囲炉裏端でウェルカムドリンクをいただきます。

Img_9400
 お部屋は落ち着く和室ですね。

Img_9405
 さあて夕食です。スタートアップ・セッティング・オーケー。年取って少食となったぽん太とにゃん子は、今回はスタンダード・プランです。
 冒頭の写真は山菜のおひたし。真ん中のコゴミ、6時の方向のワラビは定番、3時がミズで、9時のアイコと12時のドホイナは記憶にございません(前回食べたかもしれないけど)。新鮮な山菜をさっとゆでてあり、微妙な甘さと山菜独特のえぐみが口に広がります。

Img_9408
 このアスパラガスみたいなのはシオデ。山菜の王様と呼ばれているそうで、味と香りが濃いです。

Img_9409
 右から行者ニンニク、ニリンソウ、ウドです。ニリンソウは山でよく花を見かけますが、葉っぱの形は有毒なトリカブトと間違えやすいので有名です。もちろん出羽屋さんでは間違えはありませんよ。

Img_9412
 山形県は酒どころ。利き酒セットをいただきました。右からくどき上手、銀嶺月山、出羽桜です。

Img_9414
 山菜たっぷりの鍋。月山筍(ガッサンダケ、根曲がり竹)はちょうど旬ですね。登山の途中に道端で採ったりしますが、こんなに太いのはありません。葉っぱはシドケ(モミジガサ)です。

Img_9417
 山菜天ぷらは、ゼンマイ、コゴミ、ウド、タケノコ、ドホイナ、ウルイの花芽です。

Img_9418
 天つゆじゃなくってお塩でいただきます。お塩にはベニバナがはいってます。

Img_9422
 鮎の塩焼きがついて、〆はタケノコの炊き込みご飯とお味噌汁です。
 スタンダードプランでも食べきれない量でした。おいしゅうございました。

Img_9402
 浴室です。温泉ではありませんが、水道水ではなく月山の自然水を沸かしているそうで、単純温泉と同等の気持ち良さです。ただ、なぜか温度が熱く設定されており、水でがんがんうめて入りました。

Img_9427
 朝食も山菜がいっぱい。あゝ、うれしや、うれしや。

Img_9431
 茹で上げたうどんを納豆にまぶして食べるそうで、「ひっぱりうどん」という郷土料理なんだそうです。食べ方は珍しいですが、お味は、うどんを納豆にまぶした味で、想像通りです。

Img_9432
 2012年、若い4代目が出羽屋さんの後を継いだというニュースを耳にしました(Professions of food and ***)。こんかいお世話になる前、変わってしまってるんじゃないかという不安がありましたが、いい意味で変わっていないというか、より洗練された気がしました。山菜の通販をやったりしてるみたいですね。ぜひ伝統を守りつつ、新しいものにチャレンジしていただきたいと思います。

2018/06/25

【ジェラート】リコリスの衝撃的な味! カフェeジェラート モアレ(山形県酒田市)

Img_9451

 酒田市のジェラートのお店、「カフェeジェラート モアレ」に生きました。公式facebookはこちらです。

Img_9450
 明るくて広い店内。ジェラートはかなりの品揃えで十数種類あったと思います。特にこの日は、シングルの値段でダブルがいただけるという特売日。

 リコリスという聞いたことがない味があったので聞いたところ、外国人のお客さんに「リコリスはないのか」と言われて導入したそうで、スペインカンゾウの根を使ってものだそうで、ちょっと苦いんだそうです。カンゾウといえば、漢方薬に使われている甘草ではないか。タヌキ界の医者の端くれであるぽん太としては、チャレンジせねばなりません。
 上の写真の茶色いのがリコリス。最初は黒砂糖のような甘みがあるのですが、後味はかなり苦いです。漢方薬でいうと、鼻水の時に飲む小青竜湯の味が近いような気がします。
 う〜ん、いいもの食べました。

Img_9449
 酒田の観光名所・山居倉庫に寄りました。

2018/06/24

【仏像】仏像の宝庫 慈恩寺再訪(山形県寒河江市)

 2年前に訪れた慈恩寺ですが、また観仏初心者の頃だったこともあり、印象がすっかり薄れてしまっていたので、こんかい再び訪ねてみました。

【寺院名】慈恩宗本山 瑞宝山 慈恩寺
【公式サイト】http://www.honzan-jionji.jp 【住所】山形県寒河江市大字慈恩寺地籍31
【拝観日】2018年6月13日
【拝観】毎日可能。拝観料500円。丁寧に解説をして下さいます。
【仏像】
●正門所蔵
金剛力士像
●本堂所蔵
弥勒菩薩坐像(前立ち) 像高44.1cm 鎌倉中期 県指定 写真 多聞天像 平安時代
持国天像 鎌倉時代
木造虚空藏菩薩坐像 像高32.0cm 割り矧ぎ造 玉眼 鎌倉後期 県指定 写真 婆羅門僧正像
木造阿弥陀坐像 室町時代
木造阿弥陀如来立像(歯吹きの弥陀) 割矧造 像高98.9cm 鎌倉時代 県指定 写真
木造聖観音立像 カツラ一木造  彫眼 像高108.3cm 鎌倉時代 県指定 写真
木造聖徳太子立像 像高95.0cm 鎌倉末期 2018年3月国重要文化財指定写真 ●薬師堂所蔵
木造薬師如来及両脇侍像 鎌倉末期 国重文 写真  薬師如来像 ヒノキ 寄木造 像高69.4cm
 日光菩薩像・月光菩薩像 割矧造 像高ともに109.1cm
木造十二神将立像 鎌倉時代 辰・午・未・申は後補 国重文

 

Img_9437Img_9438
 まずは山門(慈恩寺の公式サイトでは「正門」となってます)の金剛力士像から。これは素朴な像ですね。この寺が有する文化財の仏像とはちょっと路線が違ってます。

Img_9446  本堂です。元和4年(1618年)の築造で、重要文化財に指定されております。茅葺き屋根と、立ち並ぶ円柱が美しいです。

 ご本尊の弥勒菩薩さまは非公開で、拝観できるのはお前立ちのみ。丸々とした大きめのお顔、引き締まった表情、胸や腹の肉付きがよく、衣紋の彫りも深く鮮やか。まるで相撲取りみたいな気迫のこもった像です。後世のものと思われる金属製の透かし彫りの宝冠をかぶっております。

 向かって右には多聞天。平安時代の作だそうで、ちょっとお顔が珍しいです。右手から腰、足にかけてのポーズがなかなか見事で、迫力があります。

 向かって左には持国天。こちらは鎌倉時代だそうですが、ポーズに動きがなく不自然。厚みがなく前のめりで、ちょっと劣る感じ。

 増長天や広目天はありませんが、欠けているわけではなく、東北では二体のみの例が多いそうです。
 実際、中尊寺金色堂では向かって右に持国天、左に増長天、福島県の白水阿弥陀堂では向かって右に持国天(寺伝広目天)、左に多聞天でした。

 宮殿を左に回り込んだところには、木造虚空蔵菩薩坐像。像高約30cmの小さな仏様ですが、なかなかの美仏。やや丸顔ながら、若々しく、真剣な表情。プロポーションもよく、衣紋も深く力強く彫られています。透かし彫りの円筒状の宝冠を被っておられます。

 その左には婆羅門僧正像。かなり傷んでおりますが、婆羅門僧正は、インドに生まれ唐を経て日本に迎えられた僧侶で、東大寺盧舎那仏像の開眼供養のときの導師をつとめたそうです。この婆羅門僧正が、天武天皇の勅によって慈恩寺を開いたという伝説があるそうです。

 宮殿の右側には、びんずる様と、弘法大師像がありました。

 宮殿の向かって左の部屋には、四体の仏像が安置されております。

 向かって一番左が室町時代の阿弥陀如来坐像。ちょっと人をくったような表情をしております。

 その右が木造阿弥陀如来立像。通称「歯吹きの弥陀」と呼ばれるのは、口の中に金属製の歯が埋め込まれているからだそうです。螺髪もひとつひとつ刻んで漆で貼り付けられているそうです。どういう思想でこのような像を作ったのか、ぽん太には皆目見当がつきません。全体としてはどっしりと落ち着いた感じの美しい像で、細かい截金細工がほどこされております。なかなかの名品です。
 解説によると、地元の誰だかが奈良まででかけて快慶一派に仏像の制作を依頼し、出来上がった仏像をかついで戻ってきたという言い伝えがあるそうです。

 

 その右は木造聖観音立像。鎌倉時代の作でありながら一木造で、目も彫眼。これは、古い時代の檀像(香木を使った仏像)を模した復古像なんだそうです。わずかに左足を曲げて腰をひねったポーズも、どこか雅やか。お顔は赤ん坊のようです。髪の毛の髻(もとどり)がないのも珍しいですね。しぶくていい仏像です。

 

 一番右は、今年の3月に国重要文化財に指定されることが決まった聖徳太子像。髪を中央で分け、袈裟をかけ、右手に柄香炉を持ったお姿で、聖徳太子が16歳のときに父である用明天皇の病気平癒を祈ったという伝説を基にした、いわゆる「孝養像」です。思いつめたような表情、シンプルながら美しい袈裟の襞、截金などによる細かい紋様など、素晴らしい像です。体内には血液を使って書いたお経(血書経)などが収められていたそうです。

 

Img_9445

 

 薬師堂に移動すると、正面に薬師三尊像が祀られており、その背後には十二神将が控えております。

 

 薬師如来は像高70cmとそれほど大きいものではありませんが、とてもきらびやかで神々しい仏様です。内部に花洛院保の銘が見つかり、院派の大仏師院保の作であることがわかりました。鎌倉時代というと、運慶に代表される慶派の力強く躍動的な仏像を思い浮かべますが、院派はこのようにきらびやかで、かつちょっと硬い感じだそうです。
 両脇侍の日光・月光菩薩は、ちょっと見慣れない面長のお顔。なんか昔、漫画家イラストで見たことあるような……。両像とも左足を曲げていて、対称的になっていないのも面白いです。中尊とは作風が違うと考えれているそうです。

 

 十二神将は、表情もポーズも非常に生き生きとしており、彩色もかなり残っていて、いつまで見てても見飽きません。辰・午・未・申の4体は後補だそうです。
 
Img_9442  前回に来た時、なんだかわからなかった祠のなかの池、今回解説してくださった方に聞いて見たところ、生活水として利用した湧き水なんだそうです。慈恩寺がある場所は、地質の関係か湧き水が少なく、境内の何ヶ所かの湧き水を大切に使っていたそうです。

 

 面白い言い伝えがあるそうで、慈恩寺の地区に嫁いで来た娘が、湧き水でお米を研いでいたところ、一人のお坊さんが通りかかり、水を所望しました。その娘は水が貴重と言われていたので、米の研ぎ汁を僧侶に与えたそうです。お坊さんは「美味しい」といって研ぎ汁を飲みましたが、それ以来湧き水は、米の研ぎ汁のように白く濁ってしまったそうです。

 

Img_9444  確かに白く濁ってます。

 

 

 非公開の仏像も多い慈恩寺ですが、本堂落慶400年を記念して、今年(2018年)の9月10日から10月14日まで「慈恩寺の宗教と仏像展」と称する特別公開があるようです(本堂落慶400年記念 「慈恩寺の宗教と仏像展」のご案内)。ちらしでは、釈迦如来坐像、木造騎獅文殊菩薩及脇侍像、木造騎象普賢菩薩及十羅刹女像が公開されるようですが、他のも見れるといいな……。

2018/06/23

【仏像】木造阿弥陀如来立像・安国寺(山形県鶴岡市)

Img_9456

 

 山形県鶴岡市の安国寺にある、県指定の木造弥陀如来さまです。

 

 

【寺院名】浄土宗 安国寺
【公式サイト】みつかりません。山形の宝検索naviにリンクしておきます。
http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1341 【住所】山形県鶴岡市新海町22-5
【拝観日】2018年6月13日
【拝観】要事前連絡 拝観料:志納
【仏像】阿弥陀如来立像  像高97.6cm 鎌倉後期? 県指定
  大きめの写真が、上記の山形の宝検索naviにあります。

 

 

 像高1m弱のいわゆる三尺阿弥陀。外陣からの拝観でやや遠いのと、色が黒っぽいのとで、ぽん太の老眼ではあまりよく見えませんでした。
 上にリンクした写真を見ると、けっこうがっしりした体型で、長く垂れ下がった袖の波打ち具合が独特な気がします。
 両脇侍も小さく、子供のような顔で、制作年代は新しいかもしれません。

 

Img_9458  境内に六地蔵が祀られておりました。
 また、北海道開拓使大判官の松本十郎のお墓があるという案内板が出ておりましたが、あいにくぽん太は聞いたことがない人でした。

2018/06/22

【仏像】大きな定朝様の木造阿弥陀如来坐像・極楽寺(山形県鶴岡市)

Img_9455

 

 山形県鶴岡市の極楽寺に、県指定文化財の阿弥陀如来坐像を拝観しに行きました。鶴岡市にはもうひとつ、加茂にも極楽寺がありますので、お間違えにならぬようご注意ください。
 思ったより大きくて、立派な阿弥陀さまでした。

 

 

 

【寺院名】浄土宗 華蔵山光明院 極楽寺
【公式サイト】公式サイトはないようなので、山形の宝検索Naviにリンクしておきます。
http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1347 【住所】山形県鶴岡市陽光町11-5
【拝観日】2018年6月13日
【拝観】要事前連絡。拝観料:志納
【仏像】
木造阿弥陀如来坐像 寄木造 漆箔 像高107.2cm 平安末期? 県指定
観音菩薩立像 江戸時代?
勢至菩薩立像 江戸時代?
【写真】どうしても見つかりません。いただいたコピー刷りのパンフレットの画像をアップしておきます(画像)。

 

 

 

 事前連絡せずに、ダメもとで訪れました。住職さんはお出かけ前だったようですが、東京から来たと聞いて、時間を取ってくださいました。内陣に入れていただき、間近から拝観させていただきました。本当にありがとうございました。

 

 像高107センチとけっこう大きいのにびっくり。定朝様の良いお姿の阿弥陀さまでした。右手をあげ、左手を下げた来迎院。お顔は丸顔で、鼻筋が通って口が小さく、温和で涼やかな表情です。額の白毫には水晶が埋め込まれています。衣紋も美しく流れています。

 

 脇侍として観音・勢至菩薩を伴っています。向かって右の観音菩薩は蓮台を捧げ、左の勢至菩薩は合掌しており、いわゆる来迎形式の阿弥陀三尊像となっておりますが、両脇侍は江戸時代の後補のようです。

 

 かなりの補修がされているためか、国指定にはなっておりませんが、なかなか素晴らしい平安時代後期の優美な阿弥陀如来さまだと思いました。

2018/06/21

【温泉】巨大ビニールハウス露天風呂と新鮮な日本海の幸 湯の瀬温泉・湯の瀬旅館(山形県鶴岡市)(★★★★)

Img_9508

 ビニールハウスのような巨大露天風呂で有名な湯の瀬旅館、行って来ました。公式サイトはこちらです。
 ほぼ25メートルプールに匹敵する露天風呂は、なんと源泉掛け流し。毎分800リットル!の豊富な湯量のなせる技。これは唯一無二の価値があります。さらにお料理は新鮮な日本海の魚介類が味わえます。シャキシャキの生牡蠣や、キトキトのお刺身。焼き魚も生臭さ全くなし。女将ほか従業員のみなさんの、庄内弁のアットホームなおもてなしも心地よいです。建物はのどか風の和風建築。野良猫ちゃんのおもてなしつき。
 なんといっても露天風呂の得点が高く、ぽん太の評価は5点に近い4点!

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!


Img_9513  山形県は鶴岡市の南部、山あいにある一軒宿です。敷地はけっこう広いです。建物はやや鄙び風。

Img_9459
 お部屋は普通の和室ですね。目の前に沢があり、その向こうには錦鯉の養殖池が見え、広々とした風景です。

Img_9463
 この旅館の名物は、ビニールハウスみたいな巨大露天風呂。さっそく入りに行きました。脱衣場の隣は、小さな内湯と洗い場。そして戸の向こうがお目当の露天風呂。冒頭の写真をご覧ください!

 長さ23メートル、幅13メートル、水深1.2メートルと、ほとんど25mプール大。天井は、鉄パイプの骨組みに、ビニールが張ってあります。
 なんとこの巨大浴槽が、源泉掛け流しです。どれだけ湯量が豊富なんだというと、毎分800リットルだそうです。

 これは当然泳ぎたくなります。というか、女将が「泳いでください」と言ってました。ぽん太は2往復泳いでみました。

 混浴ですが、右手前に女性専用スペースがあり、暖簾がかかっていて見えないようになっております。この日の宿泊客はぽん太とにゃん子だけだったの使いませんでしたが、湯浴み着を借りることもできるそうです。

Img_9465
 温泉分析書です。無色透明、無味無臭のお湯。泉質はアルカリ性単純温泉。pH9.4とかなりのアルカリ度ですが、そんなにんヌルヌル感はありません。泉温は48.1度です。

 元々は泉温24度の源泉が湧いていたそうですが、先代がより高温の源泉を求めてボーリングを決行。平成3年に、1050mという限界ギリギリの深度で、泉温48度の湯量豊富な源泉を掘り当てたそうです。

Img_9472
 男女別の内湯は、タイルが美しいです。

Img_9468
 露天風呂とは別に本物の温水プールもありますが、水(お湯?)が張ってありませんでした。

Img_9469
 カラオケルームもあります。1曲200円也。

Img_9477
 風呂上がりに、ウェルカム揚げ魚をつまみに、ビールを飲む。
 すると、どこからか猫の鳴き声が……。

Img_9480
 にゃにゃ? いた!

Img_9507
 とても人懐っこい猫ですが、旅館で飼っているわけではなく、野良ちゃんだそうです。かなりの甘えん坊ですが、まだ子供なんでしょうか。ひとしきり遊んでくれました。でも、魚はあげないよ。


Img_9492
 さて、新鮮な海の幸満載の夕食も、この宿の売りです。山の中の旅館だけど、日本海は目と鼻の先ですもんね。さらにこの旅館は、鮮魚商もやっているそうです。

Img_9493
 生牡蠣は新鮮シャキシャキ系です。

Img_9494
 お刺身も角が立っていて、コリコリです。

Img_9496
 鯛の焼き魚もお刺身で頂けそうな新鮮さ。

Img_9499
 寝る支度をしていたら、猫の訪問。

Img_9500
 翌朝、モーニングコールです。

Img_9505
 朝食も美味しい家庭料理でした。

Img_9506
 また来た……

2018/06/20

【舞台】もっと斜面を!『斜面』小野寺修二×首藤康之

 にゃん子が「首藤見たいにゃ〜、見たいにや〜」と鳴くので観に行ってきました。公式サイトはこちらです。

  小野寺と首藤のコラボは、『空白に落ちた男』と『シレンシオ』は観たかな。『ジキルとハイド』は観てない気がします。
 こんかいのタイトルは『斜面』。これはぽん太にはマニアックすぎました……。
 東京芸術劇場は、コンサートホールやプレイハウスは何度も来てるけど、シアターウェストは初めて。ハコの小ささにびっくりする。集客力ないのね……。
 舞台上のセットは、上手の急な斜面と、下手舞台奥のなだらかな斜面からなるミニマルなもの。この「斜面」がどのように使われるんだろう、とワクワクしていたのですが、ちと期待はずれでした。
 なだからな斜面は、ほぼ人物の出入りに使われるだけ。急な斜面は、何度か駆け上がったり下がったり、途中で止まったり、一回人がずり落ちてきたりしたのですが、あんまい有効に使われているとは思えませんでした。

 斜面があることで、どのような新たな動きが人間に生じるか、その身体性みたいなのを見たかったな〜。

 そういう意味では、ぽん太が一番面白かったのは、小野寺が急斜面の上で椅子に座ろうと試みる場面。人間の身体や重心のバランスに関して、新鮮な体験をすることができました。

 とはいえ、いつもながら不可思議な小野寺ワールドを堪能いたしました。

 初めて観た雫境(だけい)さん、 聾の舞踏家とのこと。冒頭のソロや、ギョロ目をむいたときのヤ◯ザみたいなど迫力、良かったです。
 首藤も、ライトを持ってのダンス、短かったけど良かったです。皆が体重を支え合っての動きみたいなのは、バレエの振り付けから取った動きか?王下、藤田のレギュラー陣も活躍。
 小野寺はいつものがらうまいです。お面をかぶった役人みたいなのも、カフカ的な雰囲気がありました。


「斜面」
小野寺修二×首藤康之

東京芸術劇場 シアターウェスト
2018年6月17日

作・演出 小野寺修二
出演 首藤康之、王下貴司、雫境、藤田桃子、小野寺修二

企画 サヤテイ NAPPOS UNITED
主催 NAPPOS UNITED カンパニーデラシネラ

2018/06/15

【仏像】お顔がパンパン。不空羂索観音坐像 不空院(奈良市高畑町)

Img_6990

 

 不空院は、鑑真住房跡に建てられたお寺と言われております。言われは定かではありませんが、八角円堂が建てられ、不空羂索観音が安置されました。鎌倉時代には大いに栄えましたが、その後衰退。江戸時代の安静の大地震で八角円堂以下堂宇が倒壊し、明治の廃仏毀釈を迎えました。大正時代に再興されて現在の本堂が建てられました。もともと弁財天が祀られていたことなどから、ならまちの芸妓たちの信仰を集め、さらにかけこみ寺の役割も果たしたそうです。
 写真の向かって左の鳥居のあるところに祀られているが、「縁きりさん」と「縁結びさん」と呼ばれる神様です。

 

Img_6988Img_6989
 鳥居の横にいるのは、なぜか狛犬ではなく狛狸。いわれはわかりません。

 

 

 

【寺院名】真言律宗 春日山(しゅんにちざん) 不空院
【公式サイト】http://fuku-in.com/index.htm 【住所】奈良県奈良市高畑町1365
【拝観日】2017年11月2日
【拝観】春秋の特別拝観以外は予約が必要。拝観料は忘れました。
【仏像】
不空羂索観音菩薩坐像 寄木造 漆箔 玉眼 像高103,9cm 鎌倉時代 重文 写真1写真2

 

 

 

 不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん、ふくうけんじゃくかんのん)は、六観音、あるいは七観音のひとつに数えられ、菩薩の様々な変化のうちのひとつであり、古いものに属するそうです。
 経典にはさまざまな姿で描かれておりますが、多くの腕を持ち、鹿の毛皮を着ているという特徴があるそうで、シカつながりで春日大社で祀られているタケミカヅチの本地仏とされるそうです。
 日本では、一面三目八臂の像容が普通で、手のひとつには羂索(投げ縄)を持っています。この投げ縄で、衆生を救ってくれるわけですね。
 以前の記事で書いた、東大寺三月堂の不空羂索観音が有名ですね。

 

 

 さて、不空院の不空羂索観音さまですが、座って像高1mということで、ほぼ等身大の大きさ。額に縦に目があって、一面三目八臂のしきたり通りのお姿。服は特に鹿皮っぽくありません。座っているのがちと珍しいですね。鎌倉時代の作とのことで、ウェストが引き締まり、肘を貼り、力強いお姿。正面で合掌する二臂以外の腕は、細く作られてます。お顔がパンパンではち切れんばかり。顔力はハンパないです。

 

 

 このお寺には秘仏の宇賀弁財天女がありますが、そのお厨子の扉は……「私の記憶の限りでは、見た覚えはございません」。

2018/06/14

【仏像】吉祥天女像特別公開 浄瑠璃寺(京都府木津川市)

 浄瑠璃寺は、猫寺でした。
Img_7004 Img_7010 Img_7028

【寺院名】真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺
【公式サイト】公式サイトはなさそうなので、木津川観光協会のサイトにリンクしておきます。
  ・http://0774.or.jp/temple/jyoruriji.html
【住所】京都府木津川市加茂町西小札場40
【拝観日】2017年11月3日
【拝観】拝観料400円
【仏像】
九体阿弥陀如来像 檜材 寄木造 漆箔 像高 中尊像224.0cm、脇仏139.0〜145.0cm 藤原時代 国宝 写真
四天王像(持国天、増長天) 寄木造 漆箔 彩色 截金 像高167.0〜169.7cm 藤原時代 国宝 写真
薬師如来坐像 一木割矧ぎ造 彫眼 彩色 像高85.7cm 藤原時代 重文 写真
子安地蔵菩薩像 檜材 一木造 彩色 像高157.6cm 藤原時代 重文 写真
不動明王、矜羯羅童子、制多迦童子 檜材寄木造。玉眼 彩色 截金 中尊像高99.5cm 鎌倉時代 重要文化財 写真
吉祥天女像 檜材 割矧ぎ造 彩色 截金 像高90.0cm 鎌倉時代 重文 写真は本文にあり

 

Img_7025  浄土式庭園の池に映る国宝の本堂。この世とは思えない美しい光景です。この中に、国宝の九体阿弥陀がいらっしゃいます。

 

 う〜ん、ぽん太が阿弥陀さまたちにお会いするのは、高校の修学旅行以来うん十年ぶり。この間いろいろありました。ぽん太もすっかり老けたけど、阿弥陀さまたちは……変わってないのね。
 阿弥陀如来を9体安置するのは、『観無量寿経』の「九品往生」の考えに基づくそうです。東京の住人には、九品仏駅(くほんぶつえき)という駅名がお馴染みですが、近くにある九品仏浄真寺にちなんだ駅名で、このお寺にも9体の阿弥陀さまが祀られています。
 中尊は丈六に近い大きさで、他の8体は半丈六。印相も、中尊は右手を上げて左手を下げた来迎院で、他は定印です。光背も中尊のものがひときわ大きく、化仏と飛天がありますが、4体の飛天は当初のものの流用で、化仏のある光背自体は後補と考えられているそうです。
 彫りが浅く、ふっくらどっしりした如来さまです。

 

Jyoruriji_kissyoten_srii  浄瑠璃寺-Wikipediaより、パブリックドメインの写真です。
 秘仏の吉祥天女像(重文)が公開されておりました。本堂の中尊の向かって左の厨子に納められており、普段は扉が閉められております。1m足らずの像ですが、ふくよかなお嬢さんで、彩色や装飾がとても美しいです。

 四天王像も国宝です。ただ、広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託されており、浄瑠璃寺にいらっしゃるのは持国天と増長天です。等身大の堂々たる仏様で、四天王らしい迫力もさることながら、截金が施された美しい装飾も見事で、光り輝く浄土世界にマッチしてます。

 不動明王三尊像(重文)は、中尊の像高が約1メートルと小さめながら、鎌倉時代の迫力ある仏様です。不動明王の火炎が、なんか現代デザインっぽいです。

 子安地蔵菩薩(重文)は、錫杖を持たず、右手を下げたお姿。腹巻をまいているので子安地蔵と呼ばれているようです。威圧感がなく、まるでこけしを見ているかのような気分になる、 素朴な仏様です。

 

Img_7023  本堂と池を挟んで反対側には、国宝の藤原時代の五重塔が建っております。京都一条大宮から平安末期に移築されたものだそうですが、此岸の東方世界に見立てて、初層内には薬師如来(重文)が安置されております。お寺の創建当初の御本尊だったそうです。たしかに、薬師如来さまが仕切っているのが浄瑠璃世界ですからね。ちなみに阿弥陀さまが仕切っているのが極楽浄土です。
 この薬師如来さまは秘仏となっており、年に数日しか拝観できませんが、今回は特別公開されておりました。1mに満たない小さめの像ですが、腰をしっかりと地面に落ち着け、背筋をすっくと伸ばしたお姿は、切れ者の感じがします。お顔も利発そうで、表情ひとつ変えずにテキパキとお願いを聞いて下さいそうです。

 もうひとつの秘仏、大日如来さまは、こんかいは公開されておりませんでした。

2018/06/13

【仏像】これは美しい! 十一面観音坐像・現光寺(京都府木津川市)

Img_7030

 現光寺の十一面観音坐像を、特別公開で見に行きました。上の写真は本堂? かなり傷んでます。

【寺院名】真言宗智山派 覆養山 現光寺
【公式サイト】公式サイトは見当たらないので、木津川市観光サイトにリンクしておきます。
http://0774.or.jp/temple/genkouji.html 【住所】京都府木津川市加茂町北山ノ上9
【拝観日】2017年11月3日
【拝観】ぽん太は秋の特別公開で拝観しました(拝観料800円)。
通常は、10名以上で電話予約(拝観料500円)。
【仏像】
木造十一面観音坐像 檜材 寄木造 像高74.0cm 鎌倉時代 重要文化財 写真
四天王像 像高62.8cm〜65.1cm 鎌倉時代 写真
【写真】
収蔵庫の内部の様子はこちらをどうぞ
「京都非公開文化財」十一面観音が魅了 先行公開始まる|朝日新聞DIGITAL

 

Img_7029  この小さな収蔵庫のなかに、観音様と四天王が収められております。
 特別開帳で、けっこう人が来ておりました。中で関係者が解説をして下さるのですが、観光客が入りきれず、列を作って待っている状態でした。
 順番が来て収蔵庫に入った瞬間、おもわず「わ〜っ」と声を上げそうになりました。この十一面観音さまはとにかく美しいです。像高74cmと小さめですが、金箔が多く残っていて金色に光り輝いております。細いウェスト。胸や足の上の衣の襞の流れ。下に長く垂れ下がった美しい髪飾りなど、繊細かつ流麗です。丸いお顔も、子供のようにも見えますが、俗っぽさはなく、神々しい雰囲気です。背筋を伸ばし、左手にゆったりと蓮の花瓶を持ち、右手をすっと差し出しています。見ているこちらが思わず手のひらを重ねたくなります。脇の下が少し開いていて、ゆったりとしています。
 本蔵のような、十一面観音の「坐像」は、珍しいそうです。確かに、重要文化財の木造十一面観音坐像は全国で8躯だけのようです(国宝はなし)。櫟野寺(らくやじ)の大きな十一面観音坐像は、国立博物館の櫟野寺展で見たことがあります。

 四天王像は、像高六十数センチの小さなものですが、ダイナミックなポーズで迫力があり、それぞれ緑・赤・白・青で色鮮やかに塗られております。鎌倉時代に再建された東大寺大仏殿に安置されていた四天王像と同じスタイルで作られたもので、これを「大仏殿様四天王像」というそうな。

2018/06/12

【仏像】二つの重文十一面観音・海住山寺(京都府木津川市)

Img_7033

 秋の特別公開で訪れました。上の写真が本堂です。
 けっこう観光客で賑わっておりました。また、茶道の団体の法要が行われていて、ちょっと拝観を待たされました。

【寺院名】融真言宗智山派 補陀洛山 海住山寺(かいじゅうせんじ)
【公式サイト】・http://www.kaijyusenji.jp/index.html
【住所】京都府木津川市加茂町例幣海住山境外20
【拝観日】2017年11月3日
【拝観】ぽん太は秋の「五重塔開扉と秘宝特別公開」で拝観しました(拝観料800円)。
 通常は、本尊十一面観音立像は拝観できますが(拝観料400円)、小さい方の観音さまは奈良国立博物館に寄託されているようです。
【仏像】
 木造十一面観音立像(本尊) 一木造 像高189cm 平安時代 重要文化財 写真
 木造十一面観音立像 一木造 像高45.5cm 平安時代 重要文化財 写真
 役行者像 鎌倉時代
 地蔵菩薩像 鎌倉時代
 薬師如来座像 平安時代
 慈心上人像
 文殊菩薩騎獅像 鎌倉時代

 海住山寺には二つの十一面観音様がおりますが、本尊ではない小さい方が有名。普段は奈良国に寄託されていて拝観できないようですが、こんかいは里帰りしておりました。左側のスペースのガラスケースのなかにおられましたが、素通りする人も多く、間近でじっくり拝観することできました。非常に細かく、繊細かつ正確に掘られていて、お腹のあたりの衣の襞も美しいです。
 お顔は丸顔で、目は切れ長で大きく、お口はキュッと小さく結んでいて、涼やかなお顔。お身体は右足を軽く上げて腰を左にひねり、お身体も張りがあって、全体にゆったりしております。これはなかなかの仏様ですね。

 ご本尊の十一面観音さまの方は、素朴で親しみのあるお姿。ちょっと面長で、頬がぷっくり、唇が小さくて、こんなおばさんいるよな、という感じ。下半身は隠れて見えませんが、ちょっとイカリ肩で、まっすぐ立っております。お願いごとをなんでも聞いてくれそうです。

Img_7032  五重塔は鎌倉時代の作で、国宝に指定されております。初層内陣が特別公開されておりました。扉絵が美しかったです。

 本坊の庭園もなかなか見事でした。

2018/06/11

【仏像】薬師かどうか謎が残る。菩薩形立像・常念寺(京都府精華町)

Img_7035

 

 昨年の11月、京都非公開文化財特別公開を利用して、京都とはいっても奈良に近い南山地域にある、常念寺の菩薩形立像を拝観して来ました。

 

 

【寺院名】融通念仏宗 常念寺
【公式サイト】みつかりません。
【住所】京都府相楽郡精華町大字祝園小字神木段55
【拝観日】2017年11月3日
【拝観】要事前連絡。ぽん太は秋の京都非公開文化財特別公開で拝観しました(拝観料800円)。
【仏像】
 菩薩形立像 一木造 像高179.5cm 平安時代前期 重要文化財
【写真】
観仏日々帖 【動画】

 

 

 ほぼ等身大で、どっしりとした、力強いお姿です。お顔もふっくらとして、鼻や唇がぼってりしていて、顎がコブのようになってます。目は細く、ちょっと外国っぽい感じがします。平安後期の女性的な菩薩のお姿とはまったく異なります。
 両眉がつながっている表現や、衣が膝の前で複雑に絡み合っているあたりも、特徴だそうです。
 元々は、常念寺の北にある祝園(ほうその)神社の薬師堂に薬師菩薩として祀られていたそうです。薬師如来ではなく、薬師「菩薩」というのが珍しいですね。当時は、江戸時代に作られた、薬壷を持った左手が付けられていたそうですが、昭和25年の修理の時に現在の左手に作り変えられたそうです。現在も、薬師如来の眷属である十二神将を従えてます。
 もともとは神仏習合思想のなかで、神様を菩薩として表現したものだそうです。本来の左手がどうだったかは、議論が続いているそうです。

2018/06/10

【温泉】日本秘湯を守る会の無料ご招待で新穂高温泉・野の花山荘(岐阜県奥飛騨温泉郷)(★★★★★)

Img_7042
 2017年11月上旬、日本秘湯を守る会のスタンプ帳のご招待で、新穂高温泉にある野の花山荘を再訪いたしました。人気旅館なのでまさか予約は取れないだろうと、ダメ元で申し込んだのですが、紅葉が終わった時期だったのが良かったのか、泊まることができました。公式サイトはこちらです。
 前回泊まったときの記事もご参照ください(【温泉】オープンキッチンで楽しむ料理とおしゃべり。新穂高温泉 野の花山荘(★★★★★)

 新穂高の美しい自然に囲まれた山荘風の温泉旅館。紅葉のピークは過ぎていましたが、まだまだ名残を楽しめました。この宿の何よりの楽しみは、オープンキッチンのカウンターに座っての、会話を楽しみながらの夕食。前回強い印象を残した支配人さんはお辞めになってましたが、今回も美味しい食事と楽しい会話を楽しめました。ワンちゃんも健在。評価は5点満点ですな。

Img_7040
 前回訪れたのは7月下旬の夏でしたが、今回は紅葉のピークも過ぎて、冬に向かおうとしております。

Img_7097
 ワンちゃんたちもご健在。おい、おまいら、表情がないぞ。


Img_7064
 夕食はオープンキッチンのカウンターでいただくのがこの宿の特色。前回のよく喋る支配人さんは辞められたそうで、この前は一言も口を聞かなかった従業員さんたちが、今回は色々話をしてくれました。
 写真は「大鱒の薄づくり ラビゴットソース」です。

Img_7069
 「色々きのこの春巻き」です。春巻きの中身は季節のキノコが詰まってます。

Img_7072
 「岩魚の炭火塩焼き」です。炭火を使ってじっくりと水分を飛ばして焼き上げた、本当の岩魚の焼き方です。もちろん頭からしっぽまで食べられます。

Img_7075
 栗ご飯とえのきスープ。ご飯はかまどで炊き上げているので、おコゲもあって美味しいです。

Img_7077
 デザートは、暖炉のスペースでいただきました。デザートの量をご覧ください。


Img_7099
 翌朝、少し晴れ間が出て来て、宿の背後にある錫杖岳の岩壁が姿を見せてくれました。


Img_7080
 朝食は、もちろん飛騨の名物・朴葉焼きがつきます。

Img_7082
 目の前でコックさんが焼いてくれたオムレツ、炭火で焼いた干物です。美味しゅうございました。

2018/06/09

【温泉】こんかいは「山荘」だよ。四万温泉・積善館(群馬県)(★★★★★)

Img_7160

 2017年11月中旬のことですが、中之条町のふるさと納税のクーポンを使って、四万温泉の積善館に泊まって来ました。公式サイトはこちらです。
 ぽん太もなんども泊まっている老舗旅館。何よりも大正ロマン感あふれる「元禄の湯」が有名ですね。昭和5年に造られたもので、登録有形文化財に指定されております。客室は、こんかいはふるさと納税のお力添えを得たので、「山荘」を選択。昭和時代に作られた見事な旅館建築です。お料理も格式の感じられる会席料理。何度来てもぽん太の評価は5点満点ですね。

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!

Img_7100
 こちらが今回泊まった山荘の客室です。標準タイプなので広くはありませんが、細かく作り込まれた美しい和室です。

Img_7101
 欄間の透し彫りです。

Img_7103
 書院のついた床の間。格式を感じさせながらも、一部に天然木を使い、温泉旅館らしい風情を出してます。

Img_7104
 書院の障子にはスズメが飛び交います。


Img_7123
 元禄の湯の内部は撮影禁止なので、写真はありません。この写真の左側が、元禄の湯です。右は本館の一部で、元禄時代に建てられた湯宿建築が、改築を経て現在に至ってます。

Img_7131
 こんかいは有料貸切風呂がついたプランでした。林の中にあり、窓の外には美しい自然が広がります。


Img_7137
 お食事どころでいただく夕食も、格式があり、手の込んだ会席料理で、一つひとつ説明してくれます。


Img_7127
 「佳松亭」と「山荘」を結ぶ通路の一つ。無機質なコンクリートのトンネルと、使い込まれた木の床、レトロなライトの取り合わせがいいですね。

Img_7158
 朝食も美味しゅうございました。

2018/06/08

【温泉】フォトジェニックに生まれ変わった草津温泉・奈良屋(群馬県)(★★★★)

Img_7891

 今年の1月中旬、ふるさと納税のクーポンを使って、久々に草津温泉に泊まってきました。湯畑に照明が設置され、「インスタ映え」するように生まれ変わってました。外人さんもいっぱいいて、すごく活気がありました。
 ご存知のとおり、この数日後に草津白根山が噴火。もう観光客は戻っているでしょうか?がんばれ草津、がんばれ群馬。

 こんかいお世話になったのは、奈良屋さん。こちらが公式サイトです。
 湯畑に面する老舗旅館。レトロな雰囲気がいいですね。草津温泉というと、熱くて酸っぱくて入れないという印象がありますが、この宿では源泉を冷ましながら引き込み、さらに湯小屋に貯湯することで、加水することな泉温を調節しております。こんなに入りやすい「草津の湯」は初めてです。もちろんお料理も最高。文句のつけようがありませんが、それなりにお値段もいいので、ぽん太の評価は4点です。

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!

Img_7878
 中居さんが、「お客さん草津は久しぶりですか。湯畑をライトアップしてるので、見に行くといいですよ」とのこと。ええ?雨降ってんのに湯畑なんかいいよ、と思ったのですが、酔い覚ましに出かけて見たらびっくり。色付きの照明で幻想的な風景に生まれ変わってました。外人さんたちも写真を撮りまくってました。

Img_7886
 なんでも、2010年に草津町長に就任した黒岩信忠氏が、都市デザインを手がける北山総合研究所の北山孝雄氏(建築家の安藤忠雄の双子の弟さんですね)と手を組んで、再開発に取り組んだそうです。こちらのサイトに、経緯が書かれております(V字回復した草津温泉 湯畑再開発を主導した町長の「経営力」|事業構想)。
 ライトアップだけではなく、湯畑沿いにあった駐車場を閉鎖して昭和レトロのイベント広場「湯治広場」とし、大正レトロ風な湯もみショー施設「熱乃湯」や、明治風の大型日帰り温泉「御座之湯を作るなどして、観光価値を高めました。その結果、草津を訪れる観光客数はV字回復をとげたそうです。

Img_7909
 しかし、ぽん太とにゃん子が草津を訪れてた数日後に草津白根山が噴火。犠牲者も出て、風評被害による予約キャンセルもあいついだようですが、現在はどうなっているのでしょうか?


Img_7893
 さて、こちらが奈良屋さん。和風の格調ある建物です。

Img_7853
 温泉は、男女入れ替えの大浴場があり、それぞれに浴槽が二つあります。上で書いたように、ほどよく温度調節されていて、ゆったりと入ることができます。

Img_7856
 夕食も本格的な会席料理です。


Img_7896
 朝食も美味しゅうございました。


Img_7916
 車で軽井沢に抜ける途中、雪をかぶった浅間山が見えました。

2018/06/07

【舞踏】若手への転生 『卵を立てることからー卵熱(リ・クリエーション)』山海塾

 ぽん太とにゃん子のお気に入りの山海塾、観に行って参りました。日曜だったせいか席もほどんど埋まってました。山海塾の公演ではお馴染みの「指定席解除」でも、ほとんど詰める余地はなかったですね。世田谷パブリックシアターの公式サイトはこちらです。

 下は、北九州芸術劇場提供の動画です。

 ぽん太が前回『卵熱』を観たのは2009年、東京芸術劇場中ホール。こんかいは「リ・クリエーション」とうたってますが、前回とどこが違うのがちっともわかりません。
 ぽん太にもわかる大きな違いは、天児牛大と蟬丸が出演しないということ。会場に着いてから初めて知りました。
 そういえばどっかのインタビューかなんかで、天児牛大が、「いつまでも同じ舞踏手がやるのではなく、新しい人を入れていく必要がある」みたなことを行ってた気がします。観客としても、おじさんの枯れた肉体もいいですが、若者のピチピチした身体も見たいところ。

 で、見た感じ、新陳代謝は成功しているようで、山海塾の世界を満喫することができました。ヘンテコな動きなのに、西洋のバレエを見ているより親近感を感じるのは、日本人の「身体性」というものか。

 ただ、ぽん太は、天児牛大だけは、他の舞踏手と体の使い方が違うと思ってました。群舞(?)の方は、体をゆらゆらとくねらせて、水中生物のような、あるいは自動機械のような動きであるのに対し、天児はすっくと背筋を伸ばし、武道のような雰囲気があり、なによりも「魂」が宿った人間に見えます。こんかいのソロ(?)(お名前がわかりませんが……)には、そういったところは感じられませんでした。
 また群舞の方も、ときおり「普通」の動きが見られました。蝉丸のようなオーラはまだありませんが、こればかりは年月を積み重ねて獲得するしかないのでしょう。


山海塾
『卵を立てることからー卵熱(リ・クリエーション)』

世田谷パブリックシアター
2018年6月3日

演出・振付・デザイン 天児牛大
音楽 YAS-KAZ、吉川洋一郎
演出助手 蝉丸
舞踏手 竹内晶、市原昭仁、松岡大、石井則仁、百木俊介、岩本大紀

2018/06/06

【寒ブリ・温泉】寒ブリに源泉掛け流しの温泉/指崎温泉・民宿いけもり(富山県氷見市)(★★★★★)

Img_7932

 氷見の寒ブリを食べたい!と、ぽん太とにゃん子は何年も前から思っていたのですが、今年の1月末にようやくチャンスが訪れ、念願がかないました
 ぐぐってみると氷見で寒ブリを提供する宿はたくさんあるようで、どこがいいのかわからなかったのですが、「とにかく寒ブリがたべたい」といのなら旅館やホテルより民宿の方がよさそうで、さらに源泉掛け流しの温泉があるということで、民宿いけもりさんに決定しました!こちらが公式サイトです。
 「氷見の寒ブリ」とはいうけど所詮はブリ。大したことないんでないかい、とも思ってたのですが、とってお美味しかったです。新鮮でコリコリしているのですが、旨味と甘みがあって、脂っこさがありません。お造りの舟盛りに、ぶり大根やぶり焼きはあたりまえ、分厚いブリしゃぶもついて、もう食べられません。残ったお刺身は昆布締めにして、朝食に出してくれました。源泉掛け流しの温泉もあり、ぽん太の評価は5点満天です。

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!


Img_7917
 こちらがいけもりさんの建物です。民宿とはいえなかなか立派です。

Img_7918
 お部屋も広々した和室です。今回は夕食は部屋食でした。ガスコンロはブリしゃぶ用。わくわく

Img_7921
 スターティングメンバーがセットアップされて、夕食のスタートです。

Img_7922
 ブリ大根ですね。味が濃すぎず、上品なお味です。

Img_7923
 ぶり焼きです。身が柔らかくてとろけそうです。

Img_7927
 来た来た、舟盛りだぜい。ブリ刺しだけでなく、他のお魚たちもそろってぽん太とにゃん子を歓迎。
 刺身というものは、獲れたては歯ごたえがあるけど旨味がなく、何日か置くと旨味が出てくるけど柔らかくなって来ます。氷見の寒ブリは、コリコリと歯ごたえがあるのに旨味と甘味があって、脂がのっているのにしつこさがありません。これは驚きでした。さすが「氷見の寒ブリ」。
 冒頭の写真がブリしゃぶ用のブリです。ブリ「しゃぶ」というので薄く切るのかと思っていてら、こんなに厚切りなんですね。美味しかったです。
 宿のおばちゃんが、「わたしらはここに住んでても寒ブリなんて食べられないからね〜」と言ってました。贅沢させていただきました。


Img_7936
 温泉は、一人になるタイミングがなかったので写真はありません。泉質はナトリウムー塩化物泉。加水なしの源泉掛け流しですが、循環加温・消毒はしているようです。
 美味しいお魚をいただいて温泉に浸かる。至福のひとときです。


Img_7933
 朝食も美味しゅうございました。

Img_7935
 前日の夕食で食べきれなかったお刺身を、昆布締めにして出してくれました。これも絶品でしたよ。

2018/06/05

【温泉】源泉掛け流しの温泉と美味しいディナーが魅力のプチホテル/新赤倉温泉・赤倉ユアーズイン(新潟県妙高市)(★★★★)

Img_7955
 今年の1月の話ですが、ぽん太とにゃんこは新赤倉温泉の赤倉ユアーズインに泊まってきました。

 新潟の妙高山周囲のスキー場に行った時、近くになかなかぽん太好みの鄙びた温泉宿がありません。少し奥まったところにはあるのですが、ちょうど記録的な大雪に見舞われていたのでちょっと不安。そこで今回は、いつものぽん太とコンセプトとは違いますが、洋風のプチホテルに泊まってみました。実はこの宿、ずっと以前、ぽん太が若かりしころ、木風舎の講習で泊まったことがあるのです。公式サイトはこちら
 おしゃれなプチホテルで内装も素敵。赤倉観光リゾートスキー場も目と鼻の先です。温泉が源泉掛け流しというところにこだわりが感じられます。なによりもフルコースのディナーがとても美味しく、これを目当てに泊まりたいところ。お部屋はちょっと狭めですが、1万円以下のお値段を考えるとコスパも最高。ぽん太の評価は堂々の4点です。

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!


 外観の写真を撮るのを忘れました。公式サイトか、上の楽天トラベルのリンクからご覧ください。
 Img_7949
 お部屋は綺麗な洋室。ベッドの幅はちょっと狭めです。二重窓に床暖が入っていて、とても暖かく快適です。

Img_7948
 こちらがレストラン。素敵ですね。

Img_7947
 一角には暖炉もあります。

Img_7942
 こちらが温泉です。男女別の内湯となっており、露天はありません。浴槽はあまり大きくありませんが石貼りにあなっていて、壁はタイルで清潔感があります。なんといっても源泉掛け流しが自慢!

Img_7943
 泉温は50.2度。無色透明無味無臭ですが、湯の花が舞っております。泉質は、カルシウム・マグネシウム・ナトリウムー硫酸塩・炭酸水素塩温泉。加水・循環・消毒なしの、正真正銘の源泉掛け流しです。

Img_7946
 成分表です。無色透明ですが、成分が濃いです。


Img_7950
 夕食はレストランでいただきます。オーナーの奥様が作っているそうですが、東京のレストランと比べても遜色ないです。ワインもいろいろ揃ってます。
 前菜はカルパッチョ。

Img_7953
 お魚料理です。ちょっと時間がたってしまって、細かい内容はわすれてしまいました(ゴメンナサイ)。
 冒頭の写真が、肉料理です。

Img_7957
 デザートも美味しゅうございました。
 ウェイターさんが外国人(アジア系、日本語はぺらぺら)でしたが、聞いてみるとネパール人。普段は本国で山岳ガイドをしていて、この時期はアルバイトに来ているそうです。他のお客さんがいなくなってから、ぽん太とにゃん子が以前ネパールのトレッキングに行った時の話などを、楽しくさせていただきました。
 ちなみにこのホテルのオーナーも山好きで、信越トレイルのガイドをなさっているそうです。


Img_7959
 朝食も美味しゅうございました。

2018/06/04

【温泉】鎌田宿の歴史について調べてみた。尾瀬鎌田宿温泉・梅田屋旅館(群馬県片品村)(★★★★)

Img_7971

 今年の2月中旬、ぽん太とにゃん子は、群馬県は片品村にある梅田屋旅館に泊まってきました。何回目かの宿泊ですが、尾瀬方面のスキー場に行くときは重宝する宿です。

 上州の宿場の旅籠を思わせる建物、お肌がすべすべするアルカリ性の美人の湯、地元の新鮮な食材をふんだんい使ったお食事など、目を引くような派手さはありませんが、決して裏切られることのない安心して泊まれる宿なので、ぽん太はリピートしております。評価は堂々の4点です。

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!


Img_7960
 ご覧の通り、旅籠の雰囲気が漂う門構えです。明治44年(1911年)の創業だそうです。
 このあたりでは安心して泊まれる宿。あまりリピートしないぽん太ですが、ここには何回かお世話になっております。過去の記事もご参考にしてください。

Img_7961

 とゆうことで、こんかいはこの旅館がある「鎌田宿」についてみちくさしてみたいと思います。

 だけど、ググってみても、鎌田宿がどのような街道のどのような宿場だったのか、情報がありません。梅田屋旅館のホームページには、宿の歴史は記載されておりません。他のサイトによると、どうやら明治44年(1911年)の創業のようです。
 同じく片品村鎌田にあるちぎら旅館の公式サイトには、ちぎらの歴史というページがあります。それによると、ちぎら旅館ができた大正13年(1924)年には「この辺り一面田んぼや緑に囲まれ民家も数軒ほどしかないのどか~な村だった」とのことです。ということは、やはり江戸時代から栄えた宿場ではなかったようですね。しかしそんな不便な場所に宿屋ができると、「大勢の旅人や開発に携わる人々で賑わいをみせていた」そうです。また昭和になっても状況はかわらず、さらに「時代とともに車が走れるほどの道ができると、当館の庭はバス停の停留所になり、運転手の下宿としても利用され、忙しくても楽しい時代だった」と書いてあります。
 つまり鎌田は江戸時代からの宿場ではなく、大正末期以降、「旅人や開発に携わる人々」が利用した宿場ということですね。

Img_7965
 「宿」(しゅく)というからには「街道」があるはずです。最初に思いつくのは、金精峠を抜けて日光に至る現在の国道120号です。
 金精峠 - Wikipediaによると、金精峠は元々は日光山の修行僧が修行で使っていた路でしたが、1872年(明治5年)に峠越えの道が拓かれて「日光道」という交易路となりました。ここにトンネルが掘られたのはようやく1965年(昭和40年)になってからで、これが現在の金精トンネルです。
 これによって初めて片品村と日光が自動車道でつながれたわけです。しかしこの道も、冬季は閉鎖され、しばしば雪崩に襲われることで知られております。江戸時代にどの程度使われていたのか、峠越えの「日光道」がどれほど賑わったのか、ぐぐってみたけどちとわかりませんでした。
 でも、古くは金精峠を徒歩で越えた人々、そして新しくは金精トンネルを含む自動車道の建設に関わった人々が「鎌田宿」を利用した可能性は高いと思われます。

Img_7968
 開発といえば、電源開発もあるのでは?
 調べて見ると、鎌田よりも上流にある発電所は6カ所で(群馬県の水力発電所マップ)、運用開始が古い順に、一之瀬発電所が昭和12年(1937年)、丸沼発電所が昭和14年(1939年)、栓ノ滝発電所が昭和16年(1941年)、白根発電所と鎌田発電所が昭和29年(1954年)、戸倉発電所が昭和37年(1962年)。そして、一之瀬発電所のための貯水池丸沼ダムは、1928年(昭和3年)着工、1931年(昭和6年)竣工だそうです。
 これらの電源開発に関わった人たちも、鎌田宿を利用していたかもしれません。

Img_7985
 尾瀬のダム計画などを調べているうちに、驚くべき(ぽん太だけか?)事実に行き当たりました。
 なんと尾瀬を超えて沼田と会津若松を結ぶ街道が江戸時代にあったそうで、「会津沼田街道」と呼ばれていたそうです(国道401号 - Wikipedia)。これは盲点でした。現在は国立公園として自然が保護され、ハイカーがザックを背負って訪れる尾瀬が、昔は交易路だったとは思いませんでした。
 片品から三平峠を抜けて尾瀬沼に入ります。長蔵小屋から大江湿原を抜けて沼山峠に出、そこからさらに北に進んで七入を経て檜枝岐に至ったそうです。あら、昭文社の登山地図をみたら、ちゃんと「沼田街道」って書いてある。これはそのうち歩いてみたいですね。
 会津沼田街道は、福島県側が「沼田街道」、群馬県側が「会津街道」と呼ばれたそうです。パリにある、リヨンに向かう鉄道駅がリヨン駅なのと同じですね。
 戸倉には関所があったそうです。戊辰戦争の戦場にもなったそうで、大江湿原には会津軍が築いた土塁が残されているそうです。

Img_7975
 さらにびっくり!尾瀬を横断する道路が計画されていたこともあるんですね(熟年夫婦の山日記)。戸倉から大清水、沼山峠から御池の部分は建設されて現在に至っていることは皆さんご存知の通り。大清水から先は、当初は沼田街道に沿うルートが計画されましたが、後にやや東側を通って小淵沢田代を通るルートに変更されたようです。現在どちらも一部林道が残っております。自然保護運動の高まりによって中止されましたが、最終的に工事がストップしたのは昭和46年(1971年)のことだったそうです。
 尾瀬の自然保護運動というと、尾瀬ダム計画のことは知っていたのですが、道路計画については初めて知りました。

Img_7982
 ちょっと話が脱線しましたが、いろいろ勉強になりました。

 まとめると、鎌田は、江戸時代には会津沼田街道の旅人(そして金精峠を越えた人々?)が行き交ってましたが、その頃は宿場ではなく、旅人が素通りする農村でした。しかし明治末期に梅田屋旅館、大正末にはちぎら旅館ができるなどしてから、旅行者や、尾瀬の開発、発電所、国道401号などの建設に関わる人々などが泊まるようになり、賑わいを見せたのではないかな〜と、ぽん太は推測いたしました。

2018/06/03

【山菜・温泉】上の原高原温泉・いろりあん(新潟県南魚沼市)(★★★★)

Img_9368

 5月下旬、山菜大好きのぽん太とにゃん子は、ここのところ毎年お世話になっている南魚沼の「いろりあん」に泊まってきました。こちらが公式サイトです。
 毎年春頃に「山菜食べ尽くし」プランがあります。ゼンマイ、フキ、ウド、ワラビなどの基本に加え、時期にあわせてさまざまな山菜をいただけます。もちろんぽん太とニャン子が大好きなコシアブラも。今回は山菜天ぷらに加えて、山菜シャブシャブをいただきました。お酒は新潟の地酒の飲み比べ!関越道の六日町インターから車で5分と、アクセスがいいのも魅力。温泉も加水なし。循環加温・消毒しているので1点減点となり四つ星ですが、山菜を頂く目的なら文句なしの五つ星です。

★楽天トラベルからの予約は、右のリンクをクリック!


Img_9379
 関越道の六日町インターを降りてわずか5分。東京から3時間かからずに到着。黒い梁が美しい和風の建物です。

Img_9359
 客室もきれいで落ち着いた和室。

Img_9362
 お風呂は、男女別の内湯と露天があります。
 写真は内湯。右側の小さな浴槽は薬草風呂になってます。

Img_9363
 こちらが露天風呂。上の原高原の樹々を眺めながら入浴できます。

Img_9360
 温泉分析書です。無色透明無臭のお肌に柔らかいお湯です。泉質はナトリウムー塩化物温泉。pH7.6の弱アルカリ性で、ちょっとヌルヌル感があるかも。

Img_9361
 加水はしてないのですが、循環ろ過・加温・消毒しているのがちと残念。

Img_9365
 さあてお待ちかね、夕食です。わ〜い、山菜がいっぱいです。
 お造りは地元の「美雪ます」。「からしなます」は魚沼の郷土料理だそうです。
 山菜天ぷら、岩魚塩焼き、そばがき団子が後から運ばれてきます。ご飯はもちろん魚沼コシヒカリ。

Img_9366
 こちらがメニューです。

Img_9369
 小鉢には、ゼンマイ、フキ、ウド、ワラビなどの定番に、木の芽(アケビの芽)の卵添え。
 この時期は山菜シャブシャブがメインです(冒頭の写真参照)。セリ、うるい、根曲りがけ、コシアブラ。

Img_9373
 山菜天ぷらは、コシアブラ、根曲がり竹、たらの芽ですね。


Img_9370
 新潟県は酒どころ。地酒セットでいろいろ飲み比べをしました。

Img_9377
 朝食も山菜いっぱいでヘルシーです。ご飯はお釜で炊きたての魚沼コシヒカリ。美味しゅうございました。

2018/06/02

【登山】魚沼の大力山で腹ごなし

 魚沼の旅館で山菜料理を堪能したあと、腹ごなしの登山です。
 最初は城山に登るつもりだったのですが、城山トンネル北側の登り口が、車からは良く確認できなかったので、わかりやすい大力山に登ることにしました。

 と、ところが……。帰ってきてヤマレコに位置情報をアップしてみると、山頂まで行ってないじゃん。東屋は山頂ではなかったのか……。でも写真を見返して見ると、山頂と書いてるし。三角点と山頂が違う場合は時々あるけどん……ま、腹ごなしだからどうでもいいや。

【山名】大力山(504m)
【山域】甲信越
【日程】2018年5月24日(日帰り)
【メンバー】ぽん太、にゃん子
【天候】曇のち晴れ
【ルート】宝泉寺11:58…12:51大力山山頂13:11…宝泉寺13:44

大きな地図や3D地図は、「山行記録のページへ」をクリック。
【マイカー登山情報】登山口の宝泉寺に数台車を停められます。
【関連サイト】格好のハイキングコースなのに、コースマップが見つかりません。探したなかでは、下記のマップがとっても詳しいです。
魚沼里山ハイキングコースの紹介|お気楽、魚沼人2008


Img_9383
 大力山という名前からして宗教的ですが、登山道の両側には石仏を飾った石柱がいくつも立ってます。

Img_9384
 これは千手観音さまですかね。

Img_9386
 少し登ると小さなお堂があります。秋葉堂という扁額がかかってます。

Img_9385
 お堂の前の広場の一角にある石仏は……。腕が六本の忿怒相。上に日月、下に三猿で青面金剛ですね。庚申待と関連する明王様です。

Img_9388
 山頂が見えてきました。

Img_9389
 ぽん太とにゃん子が山頂だと思った東屋です。

Img_9390
 ほら〜〜。山頂って書いてある!!
 こっちが山頂で、三角点は別のところってことでいいかな?

Img_9391
 大量発生した毛虫を追っ払いながら昼食を食べていると、雲が切れて晴れ間が出てきました。北側の魚沼の町が見渡せました。南はまだ雲が取れず、魚沼三山は姿を見せてくれませんでした。

Img_9393
 東屋のテーブルの下には、東京では珍しくなったアリジゴクがありました。

2018/06/01

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(3)当時の精神医療

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回でラストです。

 今回は、ニジンスキーと当時の精神医療についての拾い読みです。

 ニジンスキーの性的初体験は娼婦が相手であり、彼はその後も娼婦を買うという習慣を捨てませんでした。しかも初体験の相手から淋病を移されたらしい。そのときニジンスキーは18歳ですから、1908年のことか。世界初の抗生物質のペニシリンが発見されたのが1928年ですから、まだろくな治療法もなかった時代で、治すのに苦労したようです。
 性病といえば、ニジンスキーが晩年に精神病になったことと関連して、梅毒にはかからなかったのかという疑問がわいてきます。
 梅毒の原因である梅毒トレポネーマは、1905年シャウディンとホフマンによって発見されました。翌年1906年にはワッセルマンが、梅毒の感染を検出するワッセルマン反応を発明。梅毒は症状も独特ですが、この時点で診断もかなり精度があがりました。梅毒の治療に関しては、1910年にサルバルサンが発明されました。1928年には抗生物質第一号のペニシリンがフレミングにより発見され、1940年代には広く使われるようになりました。
 ということは、ニジンスキーの時代には梅毒は診断も治療も可能だったことになりますから、ニジンスキーが梅毒で精神障害を起こしたという可能性はなさそうですね。

 1917年にサンモリッツに移ったニジンスキーは、初めこそ精神状態が改善したように見えましたが、次第に舞踊に対する関心を失い、かわりにパステルや木炭による抽象画に熱中するようになりました。これらのデッサンとユングのマンダラの関連性を、鈴木晶氏は指摘しております。
 ちなみにユングは、1875年、スイスの生まれ。チューリヒ大学のオイゲン・ブロイラーの元で学んだあと、フロイトに接近し、1911年には国際精神分析協会の初代会長となりました。しかし1914年にはフロイトと決別し、「心理学クラブ」を設立して分析心理学の確立に集中するようになりました。
 フロイトから次第に離れていく1912年から1916年ごろ、ユング自身がかなり精神的に不安定な状況になったのですが、この時彼は自分の深層心理に導かれて、重なり合った円のような図形を書き続けました。また自分以外にも、回復期の患者がしばしば同様な図形を描くことに気づきました。1928年に中国の錬金術の本を読んでマンダラを知るとそれに夢中になり、1929年に『黄金の華の秘密』という本を出版します。ユングにとってマンダラは、集合的無意識の現われとしてたいへん重要な概念になっていきます。
 ユングが直接ニジンスキーを診察したことはなかったようですが、なんかふたりの間にシンクロニシティーを感じますね。

 ニジンスキーが、1919年の「最後の踊り」の日から一ヶ月半にわたって書き記した『手記』は、鈴木晶氏の訳で完全版が出版されております(『ニジンスキーの手記 完全版』(新書館、1998年)。読んでみると、完全に統合失調症の幻覚妄想状態ですな。この本のみちくさはまたの機会に。

 サンモリッツには、リゾート客を相手にしていたフレンケルという内科医がいましたが、若いころチューリヒ大学でオイゲン・ブロイラーの講義を聴いて以来、精神分析に興味を持っていたこともあり、ニジンスキーの主治医となって素人精神分析を施し、またニジンスキーの妻ロモラと不倫関係になっていたらしいです。『手記』の混乱したように見える記述には、フレンケルの影響があるのかもしれません。

 ブロイラーに関しては、ドイツ語のウィキペディアが詳しいです(Eugene Bleuler-Wikipedia)。1857年にチューリヒの近くで出生。チューリヒ大学の医学部を卒業し、精神医学を志す。博士号を取得し、留学などを経て、1884年から1885年頃にチューリヒ大学医学部の精神科病院ブルクヘルツリの医員となり、1886年からライナウの精神科病院の院長、そして1898年にはブルクヘルツリ院長、チューリヒ大学医学部精神科の教授となりました。1900年から1909年まで、ブルクヘルツリにユングが勤務していたことは知られております。
 ということで、フレンケルがブロイラーの講義を聞いたのは1898年以降と推定されますが、それ以前にブロイラーがチューリヒ大学の講義を受け持っていた可能性もあります。
 ブルクヘルツリは現在も、チューリッヒ大学医学部の精神科病院として機能しております(Burghölzli-Wikipedia英語版)。場所はここです(google map 3D写真)。美しい建物ですね。

 1919年3月、ニジンスキーは妻に伴われてブルクヘルツリを訪れ、ブロイラーの診察を受けます。ブロイラーのカルテには次のように書かれていたそうです。

 彼は精神病と診断されることを怖がっていて、私の質問に対して、ほとんど洪水のような言葉で答えるのだが、あまり内容はなく、言い抜けやはぐらかしが見られた。彼は私に、精神病の人をどうやって見分けるのかといったことをしつこく尋ね、自分は妻がどう反応するかを試すために、妻の前では精神病のふりそしているのだ、それで時どきじっと部屋の隅を見つめたりするのだ、と説明した。妄想に関してはいっさい情報を提供するまいと防衛していた。明らかに以前は知能が非常に高かったと思われるが、いまは軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症である。

 このあたりの記述は、アメリカの精神科医オストウォルドの『ヴァーツラフ・ニジンスキー 狂気への跳躍』(Peter Ostwald, Vaslav Nijinsk: A Leap into Maddness, A Lyle Stuart Book, 1991)に基づいているようです。邦訳はありませんが、アマゾンで原書を購入できます。ぽん太も一応購入手続きをしてみましたが、読む元気があるかどうかはわからないです。Ostwaldってどっかで聞いたと思ったら、『グレン・グールド伝―天才の悲劇とエクスタシー』の著者ですね(こちらは邦訳あり)。
 上記の引用の中で、「軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症」という表現に関し、鈴木晶氏はオストウォルドの見解どおり、「躁鬱病である可能性も否定できないが、おそらく統合失調症だろう」という意味にとっています。しかしぽん太には、ちょっと陽気で多弁な状態の統合失調症だったように読めます。このあたりは原書を読んで見ないとなんとも言えないですね。
 ブロイラーは、ニジンスキーの妻ロモラに、環境のよい高級私立病院のベルヴューへの入院をすすめました。また離婚も勧めたそうで、鈴木氏はロモラを「結婚の義務から解放してやるべきだと考えた」と書いておりますが、「ロモラと一緒にいることがニジンスキーにとってよくない」と考えたからかもしれず、ぽん太には判断がつきません。
 ニジンスキーとロモラはホテルに戻りましたが、その晩にホテルでトラブルを起こし、ブルクヘルツリに緊急入院させられました。そして2日後にベルヴューに転院になりました。ブルクヘルツリでの診断は(そしてベルヴューでも)カタトニー(緊張病)だったそうです。オストウォルドは現在ならば「自己愛性人格における統合失調感情障害」と診断されるだろうと書いているそうですが、緊張病の興奮と昏迷と、統合失調感情障害の躁状態とうつ状態は、全然異なるものなので、混同されるとは思えません。もっともぽん太はブロイラーの時代の診断体系には詳しくないので偉そうなことは言えませんが、ここもちょっと疑問に思えるところです。
 というか、書いたばかりのニジンスキーの『手記』を読めば、躁鬱病ではなく統合失調症であることは一目瞭然のはずですが、『手記』はロシア語で書かれておりましたし、ロモラとしては他人の目に触れさせたくないことも書いてありましたから、この時はブロイラーが読む機会はなかったのでしょう。

 1919年にニジンスキーはベルヴューに入院しました。ベルヴュー(Sanatorium Bellevue )は、ビンスワンガー家が4代にわたって運営した個人精神科病院で、ニジンスキー入院時の院長は、現存在分析の創始者のルートヴィヒ・ビンスヴァンガーでした。もっとも彼が現存在分析を確立したのは1930年代から40年代のことですから、もっとあとの話です。というか、ビンスヴァンガーはちょうどニジンスキーとの関わっている時期に、現存在分析を確立していったことになります。
 ベルヴューは、ルートヴィヒのあと、息子のウォルフガング・ビンスヴァンガーが後を継ぎましたが、財政の事情から1980年に閉院しました。場所はたぶんこの辺ですね(googe map 3D写真)。建物の多くは現在は建て替えられてしまっているようです。
 ビンスヴァンガーは病院のなかで、外部からの客も集めて、ニジンスキーのダンス・リサイタルを開いたそうです。またビンスヴァンガーは、妻との再会が良い効果をもたらすだろうと考え、妻と外泊させたりしました(ブロイラーの考えとはちょっと違うのが面白いですね)。

 その後、ニジンスキーの病状はいろいろと変化し、様々な症状が出たようですが、精神科医からみて統合失調として普通の経過、普通の症状なので、バッサリと省略。

 1920年2月、ロモラはニジンスキーを、ウィーンのシュタインホーフ精神病院に入院させました。
 この病院はウィーンの西部にあり、建築家オットー・ワーグナーの計画に基づいて作られたもので、広大な敷地を擁し60もの建物からなっておりました。現在もオットー・ワーグナー病院として診療を続けているようです。付属施設のひとつであるシュタインホーフ教会は、オットー・ワーグナー自身の設計によるユーゲント・シュティールの建物で、現在でも人気観光スポットとなっております。こちらがgoogle map 3D写真です。
 で、当時この病院の院長だったのがヴァグナー=ヤウレックで、梅毒による進行麻痺に対するマラリア療法を1917年に発明して、1927年にノーベル賞を受賞した人ですね。ほんとにニジンスキーは当時の一流の医師の治療を受けてますよね。

 ウィーン滞在中に、ロモラはフロイトに相談に行ったと書いているそうですが、真偽は不明です。

 その後、1922年か23年ごろ、フランスの高名な医師たちに診てもらったそうですが、具体的な名前はわかりません。

 次はまたまた有名人、深層心理学者、アルフレート・アドラーです。最近は、アドラー心理学を踏まえた『嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え』などという本が売れてますね。
 ロモラは、1936年に出版されることになる『ニジンスキーの手記』の序文をアドラーに依頼したのだそうです。しかし、出来上がった序文をロモラは気に入らず、今度はユングに依頼しましたが、診察したことがないからと、丁重に断られたそうです。
 スゴイですね。三大深層心理学者コンプリートです。
 で、1934年、ロモラはそのアドラーをつれて、再びベルヴューに入院していたニジンスキーを訪ねます。アドラーはニジンスキーを引き取るつもりでしたが、ニジンスキー本人の同意が得られず、転院はかないませんでした。
 オーストリア生まれの医師アドラーは、フロイトの精神分析学派に加わりますがやがて決別。次第にその名声は世界に知れ渡り、アメリカとヨーロッパで半々過ごしながら、世界各地を飛び回る生活でした。しかしアドラーはユダヤ人だったので、ナチスの台頭により、1935年にアメリカに移住をしております。

 ロモラは何かよい治療がないかと、あちこちの病院や大学を訪れ、手紙を書いたそうですが、インシュリン・ショック療法を選びました。アメリカの医師、マンフレート・ザーケルが始めた治療法で、患者にインシュリンを注射し、一定時間、低血糖の昏睡状態に置くというもので、事故死の可能性も否定できませんでした。
 1937年8月、ロモラはザーケル自身を連れてベルヴューへ乗り込みました。しかし精神病を人間的現象として捉えるビンスヴァンガーはこの治療法を拒否。それでも翌1938年7月、ロモラの強い要望の結果インシュリン・ショック療法が開始されました。
 2ヶ月後、目覚ましい改善が見られた、とロモラとザーゲルは思ったのですが、実際はなんの変化もなく、ビンスヴァンガーはこれ以上インシュリン療法を行うことを禁止。そこで12月、ニジンスキーは、ビンスヴァンガーの親友マックス・ミューラーが院長をつとめるミュンシンゲンの州立病院に転院し、そこでインシュリン療法を続けることになりました。
 ミュンシンゲンの州立病院とはこちらでしょうか(Psychiatriezentrum Münsingen - E
Wikipediaドイツ語版
, google map 3D写真)。マックス・ミューラー(Max Müller)はぽん太は聞いたことありませんが、ドイツ語のWikipediaを見ると、のちにベルン大学の教授になったようです。
 ニジンスキーのインシュリン療法は翌1938年6月まで続けられ、ベルヴューと通算228回施行されましたが、莫大な医療費とは裏腹に、さしたる効果はありませんでした。

 何回か入退院を繰り返したのち、ミュンシンゲン病院に入院していたニジンスキーを、1945年3月12日、看護人がロモラのところに連れてきました。敗走するドイツ兵が、精神病院の患者を全員処刑するように命令したというのです。やがてソ連軍が進駐してくると、そこにロシアの英雄ニジンスキーがいることを知って驚いたそうです。
 ところが、気さくなロシア兵と接するうちに、ニジンスキーの病状がみるみる改善し、感情が戻ってきて、自分から話しかけたりするようになったそうです。
 それを見たロモラは、精神科医の指示があったとはいえ、これまで自分たちがニジンスキーにしてきたことは間違っていたのではないかと思ったそうです。何十年間にわたって行ってきた治療よりも、数週間の粗野なロシア兵の扱いの方が、ニジンスキーの病気にはるかに良い効果を与えた。私たちはニジンスキーを外界から引き離し、独房に閉じ込めきただけだった。このことに関して、いまでも決して自分を許すことはできない。

 1950年4月8日、ニジンスキーは「慢性腎炎による尿毒症」により死去。

 その2年後の1952年、最初の抗精神病薬クロルプロマジンが発見され、以後、精神医療は薬物療法の時代に入ります。それによって精神病患者は、これまでとはまったく異なる良好な経過を辿ることが可能になりました。
しかし上のロモラの告白は、現在であっても、精神障害に関わる者が決して忘れてはいけない真実を含んでいるとぽん太は思います。

« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »

無料ブログはココログ
フォト
2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31