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2022年5月の12件の記事

2022/05/19

【東京の秘境】京王よみうりランド周辺の秘境を探訪(4) ありがた山、国安神社跡?

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 さて、妙覚寺の左側(南側)の細い道を上がっていきます。この先には「ありがた山」というのがあるはず。ぽん太は予備知識なしです。

 周囲は再開発が進んでいます。道の左手に工事現場の仮囲いに囲まれて、なにやら石塔が見えますが、どこから近づけばいいのかわからないのでとりあえずパス。

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 登っていくと、斜面に階段状に普通の墓地が広がります。

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 さらに登っていくと、あれ? なんじゃこりゃ〜? 突然風景が一変します。古い墓石や石仏が見渡す限りみっちりと並んでいます。

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 途中に井戸があり、二体の薬師如来の石仏が祀られています。

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 え? の、飲み水? ほんまかいな。枯れ葉などが浮かんで濁ってますけど……。ひょっとして、石仏や墓石様のお飲み物かしら?

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 空が見えてきて、稜線が近づいている感じです。ちょ、ちょ待てよ〜。ひょっとしてここって、あの開発地帯に出るんじゃね?

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 やっぱし……。

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 さらに登っていくとなにやらお堂があります。基礎がコンクリートで打たれてますから、そんな古いものではないですね。

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 白雲山鶴林閣ですね。ネットの中には「静林閣」と読んでいるサイトもありますが、二つ上の写真でわかるように屋根の上に鶴の置物があるし、「鶴林閣」が正解だと思います。

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 山頂にかけて、石仏と墓石がさらにみっちりと並んでおり、見ていてちょっとゾワゾワします。墓石に刻まれている字は風化していてよく読めないのですが、大正何年の日付けがありました。そんなに古いものではなさそうですね。

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 最高地点には中心に石造層塔と両側に五輪塔が置かれています。ここがありがた山山頂でしょうか。ああ、あそこに山頂の標識がありますね。なになに?

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 あらら、武蔵国五字ヶ峯 一丁? ありがや山じゃないんだ。何、一丁って。

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 周囲は広大な開発地。ぽん太は麓からはるばる登って山頂に辿り着きましたが、開発地の方から見ると、ちょっとした小山にすぎません。

 
 以前ぽん太が道の方を車で走っていた時、真っ平らな中にちょこんと取り残された、木に覆われ石塔の立つ小山を見て、なんかこれはお堂かお墓があって崩せないんだろ〜な〜と思ったことがあるのですが、それがありがた山だったんですね。

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 反対側の西方向の風景です。手前には巨大な水槽があります。雨水の溜池みたいなものでしょうか。最後は上を塞ぐんでしょうね。その向こう側には、メキシコのピラミッドみたいな土の段丘。なにこれ? 開発地の模型を見てもこんなピラミッドはありませんから、そのうち崩して土砂を利用するんですかね。

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 さて、このありがた山の墓石・石仏群はいったい何なのでしょうか。ぽん太が一番に思い浮かべるのは、上の写真(Wikipediaからライセンスフリーのものです)の、京都の嵯峨野にある化野(あだしの)念仏寺の西院(さい)の河原です。化野は鳥辺山などと並んで、京都では平安時代以来の墓地でした。長い時代に埋没していた無縁仏を掘り出して、安置供養しているのがこの西院の河原です。ということは、ひょっとして稲城のこの辺りも、古来からの墓地だったのでしょうか?

 ネットで検索するといくつかの記事が出てくるのですが、残念ながらどれもはっきりしたソースは示されておらず、Wikipediaさえ個人のブログを典拠にしています。ですが、とりあえずネットの情報を総合すると、古くからの墓地だったわけではなく、1939年から1941年頃、本郷・駒込・小石川付近に放置されていた無縁仏を、中山日徳道明師が率いる日徳海の人々が、妙法寺の敷地を借りて作ったもののようです。ぽん太が確認した墓石は大正時代のものでしたが、中には江戸時代のものもあるようです。現在でも手入れが行き届いており、日徳海の人たちが管理を続けているそうです。

 実は化野念仏寺の西院の河原も古いものではなく、明治30年代に宗教奉仕団体・福田海(ふくでんかい)の開祖・中山通幽(なかやまつうゆう)師が、埋没していた埋没していた無縁仏を掘り出して集めて配列し、祀ったものだそうです。

 あれ? 福田海と日徳海、中山通幽と中山日徳、ちょっと似てますね。二つの団体に関連があるのか、それとも日徳海が福田海の活動を参考にしてありがた山を作ったのか、よくわかりません。でもありがた山の方が、斜面に配置されている分、なんか迫力がありますね。

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 開発以前は、ありがた山の山頂から西方向(上の写真のい方向)に尾根が伸びていて、尾根伝いの道を進むと石塔や建物があったそうです。国土地理院の地図にも、西に向かう道と、その先になにやら建物が書かれていますね。

 こちらのサイトの2枚目の写真に、かつてあった4つの石塔(ブログ主は「仏舎利」と書いてますが、仏舎利は仏様の骨そのもののことですから、「仏舎利塔」あるいは「石塔」が正しいですね)の写真があり、奥に小屋が写っています。現在は開発に伴って撤去されたと考えられます。

 ひょっとしてありがた山の山頂にあった石塔はここから移築されたもの? しかし、こちらのサイトこの写真(1975年にテレビ放映された「仮面ライダーストロンガー」)に山頂の石塔が写っているので、これは開発前から元々あったもののようです。ありがた山は特撮ヒーロー物のロケ地としてたびたび使われたようですね。

 開発によってありがた山が消滅するのではないかと心配している方も多いようですが、スカイテラス南山のサイトを見るかぎり、現在以上に山を崩すことはなく、墓石・石仏群は残るように見えます。

 

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 さて、ありがた山から下山。冒頭の写真の石塔の方に向かう道があったので行ってみます。すると空き地に上のような告知がありました。ちょっと意味がとりにくい文章なのですが、「国安神社がかつて山際にあったが、大正年間に穴沢天神社に合祀され、国安神社の跡地は社地(神域?)として受け継がれてきた。しかし今回の開発に社地がかかってしまったので、替わりに与えられた土地を神域とし、そこからかつて国安神社があった方角に向かって神事を行う遥拝所とする」という意味でしょうか。この立札がある空き地が、その土地なのかしら?

 かつてこのあたりにあった国安(くにやす)神社が大正時代に穴沢天神社に合祀されたことは、穴沢天神社の案内板にも書かれていました。いつごろ創建されたものかは『江戸名所図会』にも新編武蔵国風土記稿』にも書かれていませんが、銅製の御神体には応安六年(1373年)の日付が記されていたようです。

 国安神社の位置に関しては、『江戸名所図会』には「威光寺の南五十歩ばかり」と書かれていますが、同書の挿絵には威光寺の東に国安神社が描かれており、矛盾しております。威光寺の「西」なのか、「明覚寺」の南なのかわかりませんが、記載が間違っているようです。上の国土地理院の地図には、立札のある土地あたりに神社の記号が書かれてますね。国土地理院の地図って、いつ頃の情報なんでしょうか。

 さらに『江戸名所図会』の挿絵を見ると、平地に「社人」(しゃにん。神主、神職など)と書かれた家があり、そこから石段を登った高台に「国安社」と書かれた建物があります。社人の家は、上の立て札があった土地に近い気がします。本殿がそこから南なのか、東なのか、絵からはちょっとわかりません。

 『江戸名所図会』には国安明神の神職は山本氏と書いてありますが、あれ?、確か現在の穴沢天神社の神職も山本さん。どういう関係なのかしら。一族でしょうか。ひょっとしたら、国安神社は穴沢天神社に合祀されましたが、神職は国安神社の山本さんが穴沢神社の神職になったとか。よくわかりません。

 

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 その近くに、最初に見えた石塔がありました。これが国安神社の遥拝所? それともひょっとしたら、ありがた山から移設した石塔か? これまたよくわかりません。このあたりが今後どうなっていくか、見守っていきたいと思います。

2022/05/11

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(3) 妙覚寺

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 続いて妙覚寺(みょうかくじ)へ。「雲騰山 妙覚禅寺」と書かれていますね。案内板によると、室町時代の終わり頃に足利義晴によって開山されたとのこと。鎌倉の臨済宗大本山建長寺の末寺だそうです。

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 石段を登ってすぐ右に、地蔵菩薩が祀られています。

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 こちらが本堂です。1796年(寛政8年)に再建されたものとのこと。お庭もきれいに整っていて、禅寺らしい凛とした空気が漂います。

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 右手の石段を登ってすぐ、左手に筆塚と不動明王の石仏があります。案内板によると筆塚は、1845年(嘉永7年)に学業指導の功績を称えて筆子代表が建立したものだそうです。当時で寺子屋をやってたのでしょうか?

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 石段の上には観音堂があります。額には(ぽん太には読めませんが)「松荘堂」と書かれております。いつ頃の建物が情報はありませんが、庇がぴんと張り出して、宋風のかっちょいい建物ですね。裏手は崖になっていて、崖下を京王相模原線が走り、はるか北側の風景を展望できます。

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 さらに少し上がるとちょっとした平地があり、板碑、鐘楼、お墓などがあります。

 まずは板碑。案内板によると室町時代中頃の1454年(享徳三年)に建てられたもので、三つの梵字は阿弥陀三尊(阿弥陀、観音、勢至)を現しているそうです。古い物なのに、風化せずにきれいに残ってますね。

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 鐘楼は1908年(明治41年)に再建されたものとのこと。鐘は銘がなく、装飾もシンプルでした。

2022/05/10

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(2) 威光寺の弁天洞窟(閉鎖中)、陸軍血清馬如来塔

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 さて、次は威光寺です。このお寺が穴沢天神社の別当寺であったことは、穴沢天神社の案内板にありましたし、『江戸名所図会』にも書かれています。神仏習合が行われていた江戸時代以前は、明治以降とは違って神と仏は渾然一体で、神社には別当寺と呼ばれる寺が置かれました。

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 こちらが本堂ですね。古い部分もありますが、ガラス戸はアルミサッシュになってます。

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 で、本堂の右手に回り込むと、洞窟の入り口があります。残念ながら現在は鉄柵で塞がれており、中に入ることはできません。ネット上のブログを検索してみると、「閉鎖」という言葉は2014年以降に現れるので、どうやらその頃に閉鎖されたと思われます。

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 案内板です。これによると洞窟の全長は65mで、広さは約200坪とのこと! 図を見ると、複雑かつ大規模に掘られているんですね。内部には23体の石仏があり、池や井戸、壁に2体の大蛇の彫刻もあるそうです。元々1500年以前前に作られた奥行き10mの横穴があり、それを明治初めに掘り進んで作られたと書いてあります。

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 鉄柵から中を覗くと、手前の方はレンガで固めてあります。ちょっと行くと突き当たりになっていて、なにやら石仏がありますが、これが宇賀神でしょうか? 閉鎖される前に入っておきたかったな〜。再公開を望みます。1982年に制定された新東京百景にもせっかく選ばれてるんですから。ネットで昔のブログを探すと、内部の写真もいろいろと見ることができます。案内図ではわかりませんが、階段もあって立体的になっているみたいです(例えばこちら→日本すきま漫遊記)。

 古くからあったという入口の横穴部分ですが、「横穴式古墳」と書いてあるブログがいっぱいあります。古墳というのは人工的に土を盛ったもので、これは崖に穴を掘ったものですから、「横穴墓」が正しいと思います。誰かが間違えて「古墳」としたものが、コピペで広がっているのですね。ネットでよくある現象です。

 困った時のWikipediaにも弁天洞窟の項目がありますが、ソースがまったく示されていません。また「東京の名湧水57選に選定された」と穴沢天神社と混同した明らかな誤りもあり、残念ながら信用できません。

 色々と探してみたところ、稲城市教育委員会の「弁天洞窟(新東京百景)」文化財ノートNo.45(pdf)が見つかりました。教育委員会の文章ですから、いい加減な情報はないでしょう、たぶん。

 で、それによると、まず先ほど書いた横穴問題ですが、「もともとは古墳時代の横穴墓であったといわれています(考古学者 鳥居龍蔵氏談)」と書かれています。鳥居龍蔵氏は案内板にも名前が出てましたが、人類学者・考古学者・民俗学者で、1870年生まれ1953年死去。国内のみならず広く海外のフィールドワークを行なったそうな。しかし「鳥居龍蔵氏談」の「談」が怪しいです。ちゃんと調査して論文にしたわけではなく、「きみ〜こりゃ古墳時代の横穴墓じゃよ〜」と言ったというぐらいの話かもしれません。だいいち弁天洞窟は1884年に完成しているわけで、そのとき鳥居氏は14歳だったわけですから、氏は拡張工事前の横穴は見てなかったと思われます。

 洞窟が1884年(明治17年)に作られたということは洞窟内の石碑に書かれいるそうで、発願人として笹久保惣兵ヱ・小俣勇造、願主として村人28人の名前が記されているそうです。このうち小俣勇造は、当時矢野口に住んでいた関流和算家で、新たに掘られた洞窟を設計した「といわれている」そうです。

 また洞窟内の石仏は、もともと穴沢天神社の洞窟に祀られていたものが移されたと「考えられ」るとのこと。穴沢天神社の案内板に書かれていた神仏分離令との関係については書かれていませんが、ぽん太にはその可能性は高いように思われます。ただぽん太が気になるのは、前の記事で触れましたが、弁天洞窟内に置かれた石仏が21体もあること。現在の穴沢天神社の洞窟には、これだけの数の石仏を置くスペースはありません。昔は洞窟がもっと広かったのか、あるいは洞窟の周辺に祀られていたのか、よくわかりません。

 また、威光寺には次のような伝説があると書かれています。

威光寺周辺の小峰沢には昔から大蛇が棲んでいるといわれていました。ある夜、村人の一人が、大蛇が現れ弁財天と化すのを夢で見ました。そこで村長ら村人28人が集まって相談し、この洞窟を掘ったところ、中から弁財天を見つけました。化身となった大蛇が弁財天を導き出したのです。この弁財天に大黒天と毘沙門天を加え、三福神として祀ったのが弁天洞窟の始まりとされます。

 村人28人というのは弁天洞窟の願主の28人だと思われます。しかし蛇と大黒天と毘沙門天に関しては、それらの像が穴沢天神社の洞窟に祀られていたと『新編武蔵国風土記』に書いてあったことが思い出されます。この伝説には、威光寺の弁天洞窟の縁起と、穴沢天神社の洞窟の縁起が混ざっているようにぽん太には思えます。

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 さて、境内には、珍しい六角柱型の庚申塔があります。案内板によると、1684年に現地近くの山頂に建立されたものだそうです。

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 その隣の石碑を読んでみると、「陸軍血清馬如来塔」とのこと。なにこれ? 初めて見た。

 「陸軍 馬 血清」で検索してみると、戦時中にガス壊疽菌の血清を作るために、陸軍の命令で千葉県の中山競馬場で500頭の馬が生きたまま血を抜かれて犠牲になったという話が出てきます。稲城でも血清馬の供出が行われたのでしょうか。ひょっとして多摩川の反対側の府中市の東京競馬場? んなことはないですよね。よくわかりませんが、疲れてきたので、きょうのみちくさはこの辺で。

2022/05/09

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(1) 穴沢天神社

 GW中の2022年5月上旬、読売ランドは家族連れやカップルで大混雑だったそうですが、ぽん太とにゃん子は混雑を避け、以前から気になっていた京王よみうりランド周辺の探索に出掛けてきました。華やかな読売ランドの麓に、このような秘境があったとは驚きでした。

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南山東部地区のまちづくり」(稲城市役所)より

 京王よみうりランドがある丘陵は「南山」と呼ばれ、古くは里山として利用されていましたが、近年は樹木が伸び放題に生い茂った状態でした。しかし現在、南山東部の広範にわたる開発計画が進められています(スカイテラス南山 – 関東平野を見渡す丘の街づくり)。開発の是非については様々な立場から様々な意見があると思いますが、今後周囲の状況が大きく変わる可能性があり、自然が残る今のうちに一度訪れておくのもいいかと思います。

 
(1)穴沢天神社、(2)威光寺、(3)妙覚寺、(4)ありがた山

 京王よみうりランド駅で降りたら、北側のよみうりランド行きゴンドラ駅に向かう人々の流れに背を向け、線路の南側に沿った道を東に向かいます。両側には梨畑が点在します。稲城は、ソフトボールよりおっきな稲城梨で有名で、秋にはあちこちに直売所が設置されます。

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 三沢川にぶつかったところで、橋の手前を右折します。穴沢天神社と書かれた幟が立っています。京王相模原線をくぐって山に近づくと……。

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 石の鳥居があり、その向こうに急な石段が見えます。山が迫り、緑が生い茂り、東京都とは思えない山深さです。

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 「延喜式内 穴澤神社」と書かれています。確かに延喜式神名帳に出ています(→国立国会図書館デジタルコレクション)。延喜式が作られた平安中期から「穴澤天神社」という名前だったのですね。明治4年の近代社格制度では郷社となりました。

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 石段を登って左に行くと少し平地が広がっており、社殿が並んでいます。入り口に案内板があります。

 主祭神は少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)、創立は孝安天皇4年。元禄7年(1694)に社殿を改修し、菅原道真を合祀。8月25日に例大祭があり、神職山本家に伝わる里神楽と獅子舞が奉納される。現在の社殿は昭和61年12月に修復した、とのこと。

 神社の主祭神に関しては、実は明治初頭の神仏分離令以降に割り振られたものが多いので、注意が必要です。1834年に刊行された『江戸名所図会』3巻を見てみると、「『武蔵国風土記』残編に曰く、武蔵国多磨郡 穴沢天神 (…中略…) 祭るところ少名彦神なり」と書かれておりますから、明治維新以前から少彦名神だったことが確認されました。少彦名神は、大国主命が出雲の岬にいたときに、船に乗ってやってきた小さな神様で、大国主命とともに国造りに力をそそぎました。医療・医薬とかかわりが深く、酒や温泉の神でもあります。また一寸法師の原型とも言われています。

 創建の時期ですが、孝安天皇は実在が疑われている天皇ですから、孝安天皇4年に創建というのは言い伝えになります。

 元禄時代に菅原道真を合祀したとのこと。現代では「天神=菅原道真」みたいに思われて、天神社は菅原道真を祀ってるように考えがちですが、日本には古来「天神・地神」といった信仰がありました。のちに菅原道真の死後、その怨霊を恐れた人々が北野の天神祠の傍に霊廟を建て、天満大自在天と呼んで霊を慰めました。こうして天神信仰と、道真の霊を慰める天満宮が結びついていったのです(『日本の神様読み解き事典』)。穴沢天神社の場合、もともとは天神を祀った神社でしたが、江戸時代に「天神社ってくれえだから、道真さまを祀ってね〜とな〜」みたいな感じで、菅原道真が合祀されたんだと思います。

 穴沢天神社にはもうひとつ案内板があるのですが、写真を撮り忘れたので、「御朱印神社メモ」というサイトこちらの写真をご参照ください。

 この案内板から得られる新たな情報としては、大正時代の1918年、さらに国安神社の大己貴命(おおあなむちのみこと)(=大国主命)が合祀されたこと、現在の洞窟が2代目であること、内部に安置されていた石仏は明治4年の神仏分離の際に別当寺だった威光寺に移されたことです。

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 正面が本殿ですね。深い森に囲まれてます。左のテントの上に見えている庇が神楽殿です。

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 本殿は、案内板によると、江戸時代前期(17世紀前期)の建立だそうです。一間社流造ですが、千木・鰹木を戴き、千鳥破風・軒唐破風を持つ立派な建物です。

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 手水舎の水盤に花が浮かべてあるのは、ぽん太は初めて見ました。あとで調べてみると「花手水」(はなちょうず)というそうで、コロナ禍で手や口を清める行為が行われなくなり、柄杓も撤去されたため、使われなくなった水盤に花を浮かべるのが流行っているそうです。

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 神社を出て鳥居を出てすぐの右手の急坂(弁天坂)を下ると、弁天社があります。写真の中央あたりに湧水があり、右手に鳥居が見えますね。この湧水は「東京の名湧水57選」に入っていて、大きなポリタンクを持った人たちが次々と水を汲みにきておりました。「水質検査をしてますが、飲む前に煮沸してください」の但し書きありましたが、ちょっと飲んでみるととても美味しかったです。

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 右の鳥居の向こうには、新しそうな弁天様の石仏が祀られております。琵琶を引く二臂の像ですが、麗しの美女ではなく、ちょっと古風なお顔立ちですね。

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 弁天様の向かって左には二つの洞窟があります。中は真っ暗。足元は水っぽく、飛石から踏み外すと茶色い泥に足がずぶっと入ります。懐中電灯を持参するか、携帯のライトで照らすなどして入りましょう。長さは両方とも4〜5mくらいで短いです。。途中で左右がつながっております。

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 右の洞窟の突き当たりは、壁龕があるだけ。写真は左側の洞窟で、石の祠のようなものがありました。上からも水がぽたぽた垂れてくるので早々に退散。

 案内板にはこの洞窟は2代目と書いてありましたが、『江戸名所図会』(1834)に既に昔の洞窟は崩れたと書かれているので、2代目が掘られたのは1834年以前ということになります。また同署には、洞窟の入り口が一つで中が二つに分かれており、様々な神仏の石像があると書いてあります。現在は入り口が2つですから、昔の入口部分は崩落したため除去したのかもしれません。後で威光寺のところで書きますが、この洞窟の中にはかなりたくさんの石像が収められていたはずで、現在の洞窟の規模からするとちょっと腑に落ちない気がします。

 同じ頃に出版された『新編武蔵国風土記稿』(1830)には、洞窟の正面に白蛇があり、穴の入り口に大黒天と毘沙門天の像があると書いてあります。ということは、弁財天が祀られ弁天社と呼ばれるようになったのは、もっと後なのでしょうか。しかしここで思い出されるのが「三面大黒天」。三面大黒天とは、大黒天が毘沙門天、弁財天と合体した像で、日本では最澄が比叡山延暦寺に祀ったのが最初で、秀吉が生涯拝んだことでも知られています。ぽん太は三面大黒天の信仰や歴史については不案内なのですが、ひょっとしたらこの洞窟の「中」には弁財天が祀られ、入り口の大黒天、毘沙門天像とともに、三面大黒天ユニットを形成していたのかもしれません。ただこのユニット、大黒天と弁財天がセンターを交換したりするものなのでしょうか。

 なお威光寺の記事で書く予定ですが、明治初頭には既に弁財天が祀られていたようです。

2022/05/08

【仏像】奈良国立博物館の仏像を東京で見れました「SHIBUYAで仏教美術」松濤美術館

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 渋谷の松濤美術館で開催している「SHIBUYAで仏教美術」に行ってきました。奈良国立博物館の仏教美術コレクションからの展示のようです。仏像は6点のみでしたが、ふたつの重文も含まれ、なかなか見に行くことができない奈良国立博物館の像を東京で見れるのはありがたいです。

【展覧会】SHIBUYAで仏教美術 ー奈良国立博物館コレクションより
【会場】松濤美術館
【会期】2022年4月9日〜5月29日
【拝観日】2020年4月下旬
【入館料】一般1,000円
【公式サイト】・https://shoto-museum.jp/exhibitions/195nara/
【作品リスト】・作品リスト.pdf
【仏像】◎重文 番号は作品リストの番号
 7  不動明王立像 銅造 鎌倉時代 文永6年(1269) お姿
◎8  如意輪観音菩薩坐像 木造 平安時代(9〜10世紀) お姿
 52 観音菩薩立像 銅造 飛鳥時代(7世紀) お姿
 53 観音菩薩立像 銅造 奈良時代(8世紀) お姿
◎54 薬師如来座像 銅造 奈良時代(8世紀) お姿
 55 毘沙門天立像 木造 彩色・截金 鎌倉時代(13世紀) お姿

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 東京に長く生息するぽん太ですが、松濤美術館に行ったのは生まれて初めてです。神泉駅近くの住宅街の中にいきなり写真のような建物があってびっくりします。

 設計はどなたでしょう? 公式サイトに白井晟一(しらいせいいち)と書いてあります。知らんがな。困った時のWikipediaを見てみると、1905年生まれ、1983年死去。独特な作風や言説から「哲人建築家」「異端の作家」などとも称されたとのこと。作品リストを見ても、知ってる建物がありません。ノアビルとかは有名ですが、タヌキのぽん太には麻布台は出没範囲外なので、見たことがありません。

 あ、見たことあるのがありました。1954年竣工の群馬県前橋の本屋・煥乎堂(かんこどう)ですが、現存していないようです。1992年(平成4年)に白井晟一設計の旧店舗の向かいに新店舗がオープン。旧店舗は2005年に取り壊されたそうです。ぽん太が前橋に生息していたのは1970年台で、煥乎堂は足繁く通っていましたが、そんなすごい建築だとは知りませんでした。玄関に読めない横文字が書かれていた記憶はありますが、当時はネットもない時代で調べる術もなく、「QVOD PETIS HIC EST」(もとめるものはここにある) というラテン語だったようです。

 松濤美術館は1980年に竣工、1981年に開館したとのこと。区立の美術館でこのような建物を作ったのは偉いですね。でもなんか運営がお役所っぽいというか、もっと魅力的な空間にできるような気もします。

 で、仏像の感想に移ります。1階の展示場には1躯のみ。不動明王像(7)。40cm余りの銅造で、腰がきゅっとくびれて、全体に細身。憤怒の表情もちょっと男前です。迫力や躍動感よりも美しさが勝っています。

 2階には5躯の仏像があります。一番大きくて目を引くのは、如意輪観音菩薩坐像(2)。ふつ如意輪さまというと、しなやかでちょっと優美な像を思い浮かべますが、この像はどっしりとして圧迫感があり、暑苦しいです。お顔がでっかく、太い胴体も直立しています。下半身はなんか華奢。表情も、怪しい切長の目におちょぼ口。おまけに眉毛は繋がっていて、ウズベキスタンか「鎌倉殿の13人の」巴御前か。定朝様以前の力強さと迫力が感じられる像で、さすが重要文化財です。

 もうひとつの重要文化財は、銅造の薬師如来坐像。こちらは奈良時代の作で、伸びのびしておおらかです。像高は40cm弱ですが、台座があるので総高は50cm。衣が垂れ下がって台座を覆い、その布の下に蓮弁の形が浮き上がっている様子が美しいです。どんなに薄い衣なんだ! 仏の世界の布でできているんでしょうね。パンパンに膨らんだお顔はちょっと微笑んでいるか? 螺髪がないのはなぜでしょう。

 約30cm大の飛鳥時代と奈良時代の銅造観音菩薩立像が並んでいます。飛鳥時代の方は(52)、伸びやかで可愛らしい白鳳仏。ほっそりしたスタイルで、冠や飾りも美しいです。右手をお腹あたりに当て、瓔珞(ようらく)を指で挟んでいるのが珍しいです。なんか宝石を自慢してるみたいで可愛いですね。

 奈良時代の方は(53)、装身具や大きい手足など白鳳仏に倣ったお姿ですが、がっしりした体型や、装飾品の細かな表現、きりっとした表情など、時代が下った感じがします。右手で小さな宝珠を持っています。二つの像を見比べると面白いです。

 最後は鎌倉時代の毘沙門天像(55)。像高約80cmで、リアルで整った美しい像で、彩色も残っています。どっしりと立ち、天邪鬼を踏みしめてます。躍動感はないですが、内からパワーがみなぎってくる素晴らしい像でした。

2022/05/07

【仏像】甲斐善光寺御開帳で御本尊善光寺如来を拝観

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 ぽん太とにゃん子の六善光寺ご開帳巡り、2ヶ所目は甲斐善光寺です。

 甲斐善光寺は、2016に訪れたことがありますが、その時はもちろん秘仏御本尊を拝観することはできず、仏像は宝物館だけでした。7年に1度の御開帳ですが、着いたのが夕方4時ごろだったこともあり、閑散としておりました。

【寺院】甲斐善光寺 (常額山浄智院善光寺) 浄土宗
【住所】山梨県甲府市善光寺3-36-1
【拝観日】2022年4月下旬
【拝観】御開帳期間:2022年4月3日〜6月29日
    御開帳参拝共通券:一般500円
【関連サイト】
・甲斐善光寺公式サイト:http://www.kai-zenkoji.or.jp/index.html
【仏像】◎重文 ◯県指定 □市指定
本堂
◎御本尊善光寺如来(銅像阿弥陀如来及両脇侍立像) 鎌倉時代 お姿

本堂裏側
 笑い閻魔

宝物館
◎阿弥陀三尊像 藤原時代 お姿
 光背の飛天2躯
◯源頼朝像 鎌倉時代 お姿
□源実朝像 鎌倉時代
□蓮生法師直実像 鎌倉時代 
□玄和居士像 鎌倉時代
□本田善光像 室町時代
□本田弥生像 室町時代

 江戸時代:重源上人像、鬼子母神像、大日如来坐像、地蔵菩薩像、阿弥陀三尊像、善導大師像、法然上人像、聖観音像、聖観音像、聖徳太子(孝養)像、聖徳太子(二歳)像、小野小町像、釈迦涅槃仏像
 桃山時代:役行者像

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 さて、まず本堂の御本尊善光寺如来を拝観。やはりよっと離れたところからの拝観となりますが、信州善光寺と違って仏様が大きいです。中尊は等身大よりひと回り小さいくらい? 信州善光寺では仏様の細部がほとんどわからなかったですから、甲斐善光寺の方のこの大きさはありがたいです。

 金銅ではなく銅像なので、チョコレート色に光ってます。信州の方は3体とも細身で棒のように立っている感じですが、甲斐の方はふっくらして、表情やプロポーションが写実的です。信州の脇侍は円筒形の冠をつけ、両手を胸の前の高いところで合わせていますが、甲斐の方はニット帽のようなかぶりもので、両手も自然にお腹のあたりで印を結んでいます。同じ鎌倉時代の作とはいえ、信州の方が恐らく本来のご本尊の姿を写したのだとすれば、甲斐の方は古めかしさを保ちながらも鎌倉時代らしい造形となっています。像の後側はフラットな銀色の背景となっており、模様や化仏はありませんでした。一光三尊式の光背があるのかどうか、よくわかりませんでした。

 信州善光寺の記事にも書いたように、甲斐善光寺では次のように伝えられています。信州の御本尊とお前立は、川中島の合戦の後、武田信玄によって甲斐に移され、甲斐善光寺が建立されました。武田氏滅亡の後、こんどは織田家によって御本尊は岐阜に持ち去れれましたが、お前立は甲斐に残されました。それが現在の甲斐善光寺の御本尊善光寺如来であり、つまりこの像は元々は信州善光寺のお前立だったそうです。

 左脇侍の足裏に建久6年(1195年)の銘があるそうです。この年は善光寺の僧定尊が夢のお告げによって等身大模造を造顕する年にあたるので、この像がそれであるとも言われています。

 さて、御本尊を見た後は、鳴き龍体験をして、戒壇廻りへと移りますが、戒壇廻りの入口は、信州善光寺は内陣の袖にありましたが、甲斐善光寺は内陣の裏側から入ります。内陣の左側から裏へ回り込むのですが、読売新聞の記事にあるように、ここで絹製の仏具が燃える事件があり、火の気がないことから放火も疑われました。

 本堂裏側にいろいろな仏像が置かれておりましたが、「笑い閻魔」に目が止まりました。文字通り笑っている閻魔で、栃木県益子町の西明寺は笑い閻魔で有名ですね。

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 続いて本堂の西側にある宝物館を見学。たくさんの仏像が安置されていますが、藤原時代の重文の阿弥陀三尊像が一押しです。いわゆる定朝様の仏さまですが、丸いお顔に圧迫感が感じられ、ちょっと傷んでいるせいもあるのか、優美さよりちょっと迫力を感じさせます。元々の光背にあったという飛天も2躯展示されています。

 ちなみに甲斐善光寺には、少し時代が下って12世紀後半の重文阿弥陀三尊もありますが、こちらは非公開となってます。

 ついで、山梨県指定文化財の源頼朝像。ぽん太にはなじみのない像ですが、いまでは学校の教科書に頼朝像として載ってるんですってね。ぽん太の頃は神護寺の像(画像)でした。文保3年(1319)の銘があり、製作年か修理年かわかりませんが、いずれにしても最古の頼朝像だそうです。あんまり大泉洋には似てません。元々は信州善光寺にあったもので、御本尊と一緒に甲斐善光寺に持って来られたと考えられています。信州善光寺と頼朝につながりがあるの?という疑問が生じますが、頼朝は当時荒廃していた信州善光寺の再建を行い、1191年に再建供養を行ったそうです。大河ドラマで出てくるかしら?

 頼朝像とセットの実朝像もあります。

 蓮生法師直実像も、信州善光寺から来た像。「蓮生法師直実」と聞いても一般には「誰それ?」という感じでしょうけど、歌舞伎ファンには「一谷嫩軍記」で有名です。熊谷直実は平安末期から鎌倉時代の武将で、頼朝方について源平合戦を戦いました。しかし戦に明け暮れる毎日のなか無情を悟り、出家して法然上人の弟子となりました。直実の肖像彫刻を見るのはぽん太は初めてです。この像も信州善光寺から移されたものですが、なぜ信州善光寺と熊谷直実が関係があるのかよくわかりませんが、直実が信州善光寺を参詣したという言い伝えもあるそうです。

 玄和(げんな)居士像は、鎌倉時代の作で、やはり信州善光寺から移されたもの。僧形の像で、胎内に「甲斐国/玄和居士之像」という銘がありますが、どういう人物かもわからず、後付けだろうと考えられているそうです。

 本田善光(ほんだ よしみつ)とその妻・弥生の像もありました。本田善光は、「善光寺」の名前の由来となった人物。難波に打ち捨てられていた阿弥陀如来像を持ち帰り、信濃の地で祀りました。のちにそこに寺院が建立され、善光(よしみつ)の名にちなんで「善光寺」(ぜんこうじ)と名付けられました。

 その他、江戸時代を中心としたたくさんの仏像があり、上に挙げておきましたが、ぽん太のメモをもとに書いたので、細かいところが違っていたらご容赦を。

2022/05/06

【仏像】放光院長楽寺の秘仏御本尊・聖観世音菩薩が御開帳

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 高速の姨捨サービスエリア内に貼ってあったポスターから情報を得て、長野県千曲市にある長楽寺の御開帳に行ってきました。

【寺院】長楽寺  放光院姨捨山 (天台宗)
【住所】長野県千曲市八幡4984
【期間】2022年4月9日〜5月8日
【拝観日】2020年4月下旬
【拝観料】無料
【関連サイト】信州千曲観光局 https://chikuma-kanko.com/2022-02-25/post-32317/
  (公式サイトはありません)
【仏像】
 聖観世音菩薩(秘仏御本尊)

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 千曲川を望む高台にあります。茅葺き屋根で、ちょっと鄙びた曲がり屋風ながら、瀟洒で風流な建物です。

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 製材されていない梁を使ってますが、それがいい味になってます。

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 ご本尊の撮影は禁止ですが、上の写真の撮影はOKとのこと。善光寺の御開帳と同時期で、回向柱も立っていると、また善光寺式阿弥陀三尊かと思いますが、長楽寺の秘仏は聖観音菩薩さま。足を一歩踏み出し、腰をかがめ、蓮華台を捧げ持っています。このポーズは、来迎形式の阿弥陀三尊像の、向かって右の脇侍ですね。例えばこちらの写真の京都聞名寺の阿弥陀三尊像をご参照下さい。そっくりでしょう? 来迎形式とは、我々が亡くなったときに阿弥陀様がお迎えにくる時のお姿です。

 大きさは50cmくらいでしょうか。内陣の真ん中に厨子に入れずに置かれていて、内陣まで入って間近で拝むことができます。細身でしなやかで美しいプロポーション、衣類の表現も細かく丹念です。こんな仏さまがお迎えに来てくれるのなら、死ぬのもあんまり怖くないですね。

 額縁には「伝 善導大師作」と書かれていますが、善導は中国浄土宗の僧で7世紀ごろの人。そんなに古いとは思えません。ぽん太の印象では、鎌倉後期から室町時代の作のような気がします。

 また額縁には、昭和50年の修理落慶記念として、明治5年以来秘仏とされていた本尊の御開帳をしたときの写真だと書かれています。以前はほとんどお目にかかることができなかった仏さまなのですね。今回お会いできてありがたい限りです。

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 本堂の斜面側に付随した建物は「月見堂」と呼ばれています。窓からは千曲川周辺の平地を一望できます。姨捨は平安時代から観月の名所とされてきました。『古今和歌集』の読み人知らずの歌、「わが心慰めかねつさらしなや 姨捨山に照る月を見て」は有名ですね。また西行も「隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき」と詠んでいます。

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 近世以降は棚田が作られるようになり、その水面に映る月は「田毎の月」と呼ばれるようになりました。写真は長楽寺の東に広がる棚田ですが、残念ながらまだ水が張られていません。

 芭蕉は、『奥の細道』の旅の前年の1688年(元禄元年)、信州更科へ名月を見る旅にでかけました。岐阜から木曽路を経て更級に到着、善光寺を参詣し、碓氷峠を経て江戸に帰りました。そのときに詠んだ「俤や姥ひとり泣く月の友」(おもかげや うばひとりなく つきのとも)は、姨捨伝説を踏まえた句で、「捨てられた姥がひとりで泣きながら月を見ていたという、そのおもかげを思いながら、今宵は月を友としよう」といった感じ? また「十六夜もまだ更級の郡哉」(いざよひも まださらしなの こほりかな)は、「十五夜を過ぎて月が欠け始めているというのに、名月に心を奪われて更級を去ることができない」といった感じでしょうか。

 こちらのサイトには、歌川広重が描いた「田毎の月」の3点の浮世絵の画像があります。2毎目と3毎目には、今と変わらぬ長楽寺が描かれています。棚田の一つひとつに同時に月が映るということは、よっぽど遠くから望遠で見ないとありえないと思いますが、心の中の風景ですね。

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 こちらは観音堂。巨岩のよこにあり、宙に浮いているかのような建物ですね。

2022/05/05

【キッチュ】善光寺大本願別院観音寺ご開帳・日本歴史館


 翌日、一般道を千曲市の方に向かって進んでいると、目の前の山の上に巨大な瓦葺きの建物が出現。なんだろ〜お寺かな?


 近づいていくと、何とか温泉と書かれた看板があります。温泉旅館かしら? 泊まってみたいな〜。

 などと言いながら走っていくと、車は温泉街に突入。「戸倉(とぐら)上山田温泉」というところらしい。こんなところに温泉地があるとは、温泉好きのぽん太ですが、まったく知りませんでした。


 昭和感が漂う歓楽街もあります。どこか良さそうな宿がないかと調べてみましたが、高級旅館が多く、ぽん太の好みの古くて安い宿はなさそうですね。笹谷ホテルに登録有形文化財の建物があるようですが、それなりのお値段なので、GoToが始まったら考えてみようかな。

 戸倉上山田温泉|Wikipediaによると、明治中期の開湯だそうで、けっこう新しいんですね。善光寺参りの精進落としとして賑わい、大正時代に現在の繁華街が成立。昭和後期には企業の団体客などで最盛期を迎えたそうです。

 で、温泉街を走っていると、ご開帳と書かれた幟が立ち並んでいます。なんでも山の上にある善光寺大本願別院・観音寺で、善光寺のご開帳に合わせてご開帳が行われるとのこと。スマホで調べてみると、善光寺、善光寺大本願、善光寺大本願別院・観音寺の3カ所を参拝することを「三世詣り」というらしい。これは行ってみなくては! ひょっとしてさっき見えた建物でしょうか?

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 細い山道を登っていくと、ありました。善光寺大本願別院・観音寺です。わ〜、回向柱が立ってる! 

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 建物もコンクリート製で、鉄骨も露出しています。なんだか静か。人っ子一人おらず、受付もシャッターが下されています。中には入れず、外から覗くと、はるか奥の方に善光寺式阿弥陀三尊像が見えます。どうやら朝の6時半から始まる「お朝事」に参加しないと、お寺の中に入って近くからお参りすることはできないようです。そしてこの時期お朝事があるせいで、それ以外は閉じてしまっているのかもしれません。

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 観音寺の裏手には廃墟のような建物というか、廃墟が。左には澳津神社があり、「男女和合の神」との看板があり、どのような御神体が祀られているかほぼ予測ができたので、見学は省略しました。

 帰宅してから検索してみると、信濃毎日新聞の2015年3月7日の記事「縁に引かれて「三世詣り」へ 千曲の大本願別院・観音寺が初企画」に、「千曲市上山田の観音寺が、長野市の善光寺御開帳(4月5日〜5月31日)の期間に合わせ、同市の善光寺と善光寺大本願、千曲市の観音寺の3カ所を参拝する「三世詣(まい)り」を初めて企画した。観音寺は善光寺大本願の別院だがあまり知られておらず、これまでの御開帳の期間に参拝客が訪れることはほとんどなかったという。三世詣りの期間は、御開帳より長い今月30日から6月7日まで。別院にも足を運んでもらおうとの狙いだ。」と書いてあります。

 なんだ、「三世詣り」は前回のご開帳の2015年に初めて作られたもので、伝統的なものではないのですね。町おこしの一種かしら?

 「三世」の意味に関しても、同記事に「>三世詣りは、極楽往生を願う善光寺を「来世」、先祖供養をする善光寺大本願を「前世」、現世利益を願う観音寺を「現世」とし、三つを合わせて「三世」と観音寺が位置付けた。」と説明されております。仏教には三世仏という考え方があり、過去・現在・未来に例えば薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来など仏さまを割り振るものです。お寺のご利益で前世・現世・来世を割り振るというのは、ぽん太はちょっとしっくり来ません。

 ところで、車から山の上に見えた建物は観音寺ではなく、観音寺の向かいにある「日本歴史館」のようです。間近で見るとちょっと廃墟っぽくて妖しい雰囲気だったので、入るのはやめました。公式サイトはこちら、facebookはこちらです。それらによると、地元の宮本光儀と、肖像画家・馬堀法眼喜孝によって1969年(昭和44年)に開館され、歴代124代の天皇の資料や馬堀法眼による肖像画が展示されていました。しかし時代の変化とともに来館者は減少し、この20年年間は休館状態となり、建物も廃墟同然となっておりました。2018年に経営を引き継いだ現経営者が再建を試みている、という状態のようです。

 馬堀法眼喜孝って誰れ? Wikipediaに出てるじゃん。明治40年(1907) - 平成11年(1999)。横須賀生まれの肖像画家とのこと。え〜!昔の一万円札の聖徳太子、五百円札の岩倉具視、千円札の伊藤博文の原画を描いた人なんだって。知らんかった。さらに調べてみると、彼の描いた歴代天皇の肖像画、明治神宮宝物殿や、群馬県富岡市の一之宮貫前神社、新潟の彌彦神社などにも奉納されているみたい(参照元)。しかもこれらの奉納には佐川急便の創始者・佐川清氏がかかわっているという(参照元)。こ、これはみちくさを続けると遭難しそうなので、この辺で引き返しましょう。

 宮本光儀氏は、戸倉上山田温泉の発展に努めた人で、戦前はグランドの建設や国立長野病院の誘致、そして戦後は観音寺の開山などを行って人のようです(参照元)。

 


 さて、日本歴史館に話を戻すと、Youtubeもあります。経営者は西澤正太郎という人のようですね。

 さらに検索を続けると、2021年10月5日の産経新聞の「歴代天皇の肖像ずらり 若者が再建に挑む 「日本歴史館」」という記事が見つかりました。それによると日本歴史館の一帯は昭和40年代に観光用に開発され、動植物園や遊園地、善光寺本願別院の観音寺、奥津神社などが作られ、日本歴史館は5階建てホテルの最上階でした。しかし平成に入ってホテルは閉館し、歴史館も希望者がいるときだけ開館する状態となりました。ところが、西澤正太郎氏の父親は温泉経営をしていましたが、大学で僧侶の過程を履修し、跡継ぎのいなかった観音寺の管理僧侶となり、奥津神社、日本歴史館も管理することになりました。大学でウェブデザインなどを学んだのち故郷に戻っていた西澤氏が、これを機に日本歴史館の再建に乗り出したようです。

 いろいろわかってきたぞ。あとは、どういう経緯で観音寺が「善光寺大本願別院」となったかですが、そこら辺にありそうな人間の大人の事情には、狸のぽん太は立ち入らないことにいたしましょう。

 珍寺大道場というサイトには、2006年時点の観音寺、日本歴史館の状況がリポートされています。ぜひご覧ください。

2022/05/04

【温泉】日本秘湯を守る会のスタンプ帳ご招待で沓掛温泉・満山荘に泊まる

 4月中旬、日本秘湯を守る会のスタンプ帳の期限が切れそうだったので、長野県は沓掛温泉の満山荘に泊まらせていただきました。ゴールデンウィーク前の平日とういことで、ガラガラかと思ったら、高齢者中心で満室に近い状態でびっくりしました。

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 ぬるめに設定された肌に優しいお湯。ぼーっとお湯に浸かって景色を眺めていると、とってもくつろげます。

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 宿のご主人の奥様が作った、見た目もお味も素晴らしい夕食も相変わらず。

 満山荘は何度も泊まっている宿で、記事も何回か書いているので、そちらを参照してください。

2022/05/03

【仏像】善光寺がコロナで1年遅れの秘仏前立本尊の御開帳

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 善光寺のご開帳に行って参りました!

 ご開帳は数えで7年毎ですから、6年に1度ですね。本当は昨年行われる予定でしたが、コロナ禍で中止。今年は蜜を避けるために通常57日間の公開期間を88日間に伸ばすなど、感染対策に万全を期した上での開催となりました。

 ご開帳は信州の善光寺に留まらず、山梨、岐阜、愛知に位置する六善光寺でのご開帳となります。またそれにともなって他の様々なお寺でもご開帳が行われます。還暦を超えたぽん太もは6年後に見れると言い切れないので、この機会を逃すことはできません。

【寺院】善光寺 (常額山)
【住所】長野県長野市大字長野元善町491-イ
【拝観日】2022年4月上旬
【拝観】御開帳期間:2022年4月3日〜6月29日
    御開帳参拝共通券:一般1,200円、前立本尊・お戒壇巡り参拝券:一般500円
【関連サイト】
・善光寺公式サイト:https://www.zenkoji.jp
・善光寺公式サイト、ご開帳のページ:https://www.zenkoji.jp/gokaicho-info/
 ※ホームページで混雑状況などが公開されておりますので、蜜を避けてのご参拝を。
【仏像】◎重文
本堂
◎金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)お姿

世尊院釈迦堂
◎銅像釈迦涅槃像 鎌倉末期

山門
 文殊菩薩起騎獅像
 四天王像
 菩薩立像? お姿
 弘法大師坐像? お姿
 四国四十八ヶ所仏像?

善光寺史料館 お姿
 阿弥陀三尊像 平安時代
 薬師如来坐像 平安時代
 阿弥陀如来像
 周防得像

経蔵
 傅大士と二子像

大勧進宝物館
 定朝作善光寺式阿弥陀如来

 

 こんかい善光寺で秘仏公開されるのは「前立本尊」。仏像ファンからすると、これはちょっとレアなケースです。

 ご本尊(そのお寺の信仰の中心となる仏像)が秘仏(通常は公開されない設定)の場合、多くは厨子(仏さまを安置する箱)の中に収められ、扉が閉められています。でも通常お参りするときに閉められた厨子に向かって拝んでもありがたみが少ないというか、イメージがわかないので、秘仏を模した仏像である「前立」(まえだち。お前立、前立仏とも言う)が厨子の前に置かれるわけです。つまり普段は前立を拝み、ご開帳の時は秘仏ご本尊を拝むわけですね。ところが善光寺では、前立もまた秘仏になっており、ご開帳されるのは前立です。ご本尊は「絶対秘仏」で決してご開帳されないどころか、住職や僧侶ですら見ることができません。

 善光寺の御本尊やお前立はいつ頃どのような理由で秘仏になったのでしょうか。

 紹介|善光寺公式サイトを見ると、『善光寺縁起』によれば、ご本尊は552年の仏教伝来のときに日本にもたらされたものであり、従って日本最古の仏像となるそうです。本田善光(よしみつ)が信濃にお連れし、642年に現在の地に遷座されました。664年に伽藍が造営され、善光の名前をとって善光寺と名付けられました。またご開帳とは|善光寺公式サイトには、ご本尊は654年に秘仏となり、お前立は鎌倉時代に作られたと書かれています。内々陣|善光寺公式サイトには、本堂の最も奥にある内々陣の向かって左側に瑠璃段があり、そこに御本尊が内厨子(うちずし)に収められて安置されているそうです。手前には龍が描かれた戸張(とちょう)が掛けられており、参拝者が内厨子を見ることはできません。上に書いたように、普通だとここにお前立が置かれるわけですが、善光寺のお前立は山内の寺院「大勧進」の御宝庫に収められており、ご開帳の時だけ善光寺本堂に移されるのです。

 善光寺公式サイトに書かれているとはいえ、言い伝えや、信仰上の解釈も混ざっているでしょうから、全部が事実とは限りません。でも、大まかな流れはわかりますね。それでも色々と疑問が残ります。

 ご本尊が作られたのは本当にそんなに古いのか?ーー善光寺式阿弥陀三尊 - Wikipediaによると、中国の南北朝時代(439年〜589年)に似たような仏像が作られていたそうで、特に上海博物館にある石造漆金仏坐像(546年)は善光寺如来の非常によく似たお姿だそうです。仏教伝来のときに伝わったかどうかは別にして、その頃の時代のものである可能性は高そうです。

 ご本尊が秘仏になった理由は?ーーネット上では、信州長野善光寺参りというサイトに、『善光寺縁起』に、如来の宣託を受け、つまり自身のお告げにより秘仏化したと書かれています。『善光寺縁起』はこちらのサイト(信州デジタルコモンズ)で見ることができ、巻第5の4章(7ページ)に秘仏となったいわれが書かれているようですが、ぽん太には読めません。現代語訳もあるようなので、手に入れて読んでみたいと思います。

 秘仏ご本尊を見た人はいないの?ーー善光寺式阿弥陀三尊 - Wikipediaに、「偽物出現により、1692年12月14日に柳沢吉保の仲介で、敬諶が秘仏の善光寺本尊を検分・報告している『善光寺由来記』。」と書かれています。『善光寺由来記』は善光寺由来記|国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますが、63ページには、頼朝が拝観したことが『古今著聞集』に書かれてあるとし、また元禄年間にはご本尊がいつの間にかいなくなってしまったという噂が流れたため、元禄5年にご開帳して確かめたことが、善光寺の古記に記されていると書かれています(64ページ)。しかしWikipediaに書かれているような記載は、ぽん太は見つけられませんでした。『善光寺由来記』もいろいろあるのでしょうか? また、レファレンス協同データベースによれば、江戸以降秘仏御本尊を鑑定・修理した記述は見つけられなかったとしたうえで、『信州善光寺案内』(善光寺事務局監修、しなのき書房、2009)によれば、元禄5年(1962)に幕府が見仏使の敬湛(けいたん)を派遣して調査し、厨子を開けて御本尊を確認したと伝えられ、これが御本尊を見た最後といわれている、と書いています。Wikipediaはこれと間違えたのかな? ということで、秘仏御本尊を見た人がいるかどうかは、よくわかりませんね。

 お前立が鎌倉時代に作られたのは本当か?ーー国指定文化財等データベースには、鎌倉時代の作と書かれています。しかし重文指定年月日を見ると1906年(明治39年)となっており、1897年制定の古社寺保存法の時代に国宝指定されたものです。この当時、どこまで制作年代の特定を厳密に行なっていたかは疑問も残ります。

 現在の前立は、いつからお前立となり、いつから秘仏になったの?ーー甲府にある甲斐善光寺の言い伝えでは、川中島の合戦の後、武田信玄は善光寺のご本尊とお前立を甲斐に移し、甲斐善光寺を建立しました。武田氏の滅亡後、ご本尊は織田によって岐阜に持ち去れらましたが、その時お前立の方は甲斐に残され、後に甲斐善光寺のご本尊とされました。つまり、信濃善光寺の当初のお前立は、現在の甲斐善光寺の御本尊であると言います。しかしこれは、甲斐善光寺側の主張なので、本当かどうかわかりません。しかしながら、信州善光寺のお前立が、いつ頃からお前立になり、そしていつ秘仏になったかについては情報がないのも事実です。

 いろいろと講釈が長くなりましたが、前立御本尊のご開帳の感想。こんかい本堂の内陣にまで入って拝むことができます。連休前の雨の平日だったせいか空いていて、ほとんど待たずに見ることができました。し、しかし……。内々陣の奥の厨子のなかにある前立ご本尊は、遠いです。黄金色の輝きを放っていますが、仏さまのお姿は目を凝らしてなんとなく見えるくらい。双眼鏡を持って来ればよかった。ということで、「この目で見れた」という感動だけをいただき、細かいお姿は写真で見るしかないようです。

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 続いて山門の見学です。

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 急な階段を登っていくと、回廊から周囲の景色を眺めることができます。こちらは本堂側。

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 こちらは仲見世方面ですね。両側にお店や、宿坊が並んでいます。

 上層にはいくつかの仏像が置かれています。四天王を従えた文殊菩薩騎獅像、妙なプロポーションの菩薩像、四国四十八ヶ所の仏像などが安置されておりますが、確か江戸期のもので、あまり見応えはないです。

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 忠霊殿は、コンクリート造りの三重の塔。基壇の中に「善光寺史料館」があります。平安時代の阿弥陀三尊像と薬師如来像、快慶様式の阿弥陀如来像、周防得業像などがあったような気がしますが、あまり覚えていません。直径1m以上の懸仏がいくつかありましたが、それぞれがジオラマ風になっていて、なかなか迫力がありました。

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 経蔵は重要文化財の優美な建物。中に輪蔵(回転式の経蔵)があり、一周回すと全てのお経を読んだご利益が得られます。善光寺の輪蔵は、重要文化財でありながら、参拝者が実際に押して廻すことができます。入り口には、輪蔵を発明した中国の傅大士とその二子の像がありますが、これはお決まりですね。

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 大勧進の宝物館が無料公開されているので入ってみました。書や絵も多いですが、仏像もいくつかありました。室町や江戸の小さめで端正な仏像が多かった気がします。なかに「定朝作」というキャプションの善光寺式阿弥陀三尊がありましたが、ちょっと作風が違うかな〜という感じでした。

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 参拝の順序からご紹介が最後になりましたが、仲見世の真ん中あたりから東にちょっと入ったところにある世尊院釈迦堂の釈迦涅槃像を見逃す手はありません。国指定の重要文化財です。

 布団を何枚も敷いて横たわっています。正面から見るとちょっと遠く、右に回り込むと足が見えず、左に回り込むと頭が見えません。ちょっと細かいところまではわかりませんでした。右手で頭を支えており、鎌倉以降でよく見られるお姿。涅槃像としては、銅像で、等身大のものは珍しいそうです。

2022/05/02

【温泉】広い庭園のなか回廊で結ばれた登録有形文化財の建物・別所温泉・旅館花屋

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 広い庭園のなかに張り巡らされた回廊。大正ロマンあふれる別所温泉・旅館花屋に泊まってきました。なんかGoToキャンペーンの副作用で高級志向になっちゃったな〜。まあ、またいつコロナが増えて旅行に行けなくなるかわからないし。

 ぽん太とにゃん子は9年ぶり2回目の宿泊。前回の記事はこちらです(【温泉】庭園のなかの回廊。大正ロマンあふれる宿。別所温泉花屋(★★★★★)2013/10/10)。

【旅館名】旅館花屋
【温泉名】別所温泉
【住所】長野県上田市別所温泉169
【公式サイト】・https://www.hanaya.ne.jp
【宿泊日】2022年4月上旬
【泉質】単純硫黄泉(低張性アルカリ性高温泉)
【宿泊料】本館和室 お部屋おまかせ基本プラン 19,800円(2名1室、1人分料金)

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!

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 別所温泉は信州は上田市にある静かな温泉街で、周囲にはお寺が散在し、国宝の三重塔もあったりします。

 旅館花屋は、温泉街の入り口近くに位置し、広大な敷地を持ち、歴史を感じさせる建物が魅力。創業は大正6年。建物の多くが登録有形文化財に指定されております。冒頭の写真の廊下は昭和前期のもので登録有形文化財、上の写真の玄関棟は昭和4年頃の築でこれまた登録有形文化財。ってゆ〜か、ほとんど登録有形文化財なので、以下はいちいち書きません。

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 大正ロマン漂うロビーです。

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 渡り廊下を進んでいき……

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 こちらが今回泊まった本館の客室です。大正7年築。宮大工が手掛けたとのことでしっかりした作りですが、建具の桟などに遊び心を感じます。

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 いい感じでございますね。

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 裏側から見た本館。なんか、トトロの世界です。

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 温泉は、なんといっても大理石風呂が見事ですね。脱衣所とのあいだはステンドグラスがあって、大正ロマン満載です。無色透明のお湯は、ちょっと硫化水素臭がします。ぬるぬる感がすごい。転ばないように注意が必要です。 写真の左奥と、右側にもそれぞれ湯船があります。

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 右側の湯船との間には、高さ50cmほどの塀があり、それをまたぐか、いったん脱衣所を通らないと行き来できません。おそらく昔はここが壁で塞がれていて、女湯になっていたんだろうと推測したのですが……

 館内の古い写真を見ていたら、壁がないまま、女湯として使われていたようです。半分混浴みたいな感じですね。日本の温泉文化は現代の我々から見ても計り知れないものがあります。

 大浴場はもうひとつ「若草風呂」があります。現在ではもう採石されなくなった「伊豆若草石」でできており、緑色が美しいです。

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 木立の間の回廊を抜けたところに露天風呂があります。開放感はあまりありませんが、周囲の木々に癒されます。

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 夕食は和モダンな食堂でいただきます。

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 八寸は彩あざやかな旬菜の盛り合わせ。

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 上田周辺の信州名酒の飲み比べを注文。

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 本日のメニューです。

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 メインは和牛のすきしゃぶ鍋ですね。

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 夜景も美しいです。

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 朝食も美味しゅうございました。

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 帰りに桜を求めて別所温泉街を車で巡っていたら、柏屋別荘が閉館していました。こちらも1910年創業の老舗旅館で、木造4階建ての建物が見事でした。コロナ禍による観光客減少に耐えられなかったのでしょうか。同じく別所温泉の中松屋が買い取り、2023年4月の開業を目指すそうですが、ぜひとも貴重な建物を生かした経営をお願いしたいところです。

2022/05/01

【昆虫】なんかの半導体? ジンガサハムシって初めて見たよ

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 朝、出勤しようとしたら、ぽん太のフェラーリ(嘘です)に何かキラキラ光る物体が……。

 ゴミか? なんか樹脂が付いたのかしら……。大きさ6mm程度。

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 じっくり見ると、透明な樹脂状のもののなかに金色の物体がはいってます。半導体? それともひょっとして生き物? なんか気持ち悪っ。

 「透明なテントウムシ」でググってみたら簡単にヒット! ジンガサハムシという昆虫だそうです。Wikipediaはこちら

 ヒルガオの葉を食べるそうで、ヒルガオの葉の裏に張り付いていることが多く、ありふれた虫ながら目につくことが少ないそうです。ぽん太も人生で初めて出会いました。この歳になってもまだまだ新しい出会いがあるんだね。みんなも年取るのを恐れないようにしましょう。

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