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2022/05/10

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(2) 威光寺の弁天洞窟(閉鎖中)、陸軍血清馬如来塔

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 さて、次は威光寺です。このお寺が穴沢天神社の別当寺であったことは、穴沢天神社の案内板にありましたし、『江戸名所図会』にも書かれています。神仏習合が行われていた江戸時代以前は、明治以降とは違って神と仏は渾然一体で、神社には別当寺と呼ばれる寺が置かれました。

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 こちらが本堂ですね。古い部分もありますが、ガラス戸はアルミサッシュになってます。

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 で、本堂の右手に回り込むと、洞窟の入り口があります。残念ながら現在は鉄柵で塞がれており、中に入ることはできません。ネット上のブログを検索してみると、「閉鎖」という言葉は2014年以降に現れるので、どうやらその頃に閉鎖されたと思われます。

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 案内板です。これによると洞窟の全長は65mで、広さは約200坪とのこと! 図を見ると、複雑かつ大規模に掘られているんですね。内部には23体の石仏があり、池や井戸、壁に2体の大蛇の彫刻もあるそうです。元々1500年以前前に作られた奥行き10mの横穴があり、それを明治初めに掘り進んで作られたと書いてあります。

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 鉄柵から中を覗くと、手前の方はレンガで固めてあります。ちょっと行くと突き当たりになっていて、なにやら石仏がありますが、これが宇賀神でしょうか? 閉鎖される前に入っておきたかったな〜。再公開を望みます。1982年に制定された新東京百景にもせっかく選ばれてるんですから。ネットで昔のブログを探すと、内部の写真もいろいろと見ることができます。案内図ではわかりませんが、階段もあって立体的になっているみたいです(例えばこちら→日本すきま漫遊記)。

 古くからあったという入口の横穴部分ですが、「横穴式古墳」と書いてあるブログがいっぱいあります。古墳というのは人工的に土を盛ったもので、これは崖に穴を掘ったものですから、「横穴墓」が正しいと思います。誰かが間違えて「古墳」としたものが、コピペで広がっているのですね。ネットでよくある現象です。

 困った時のWikipediaにも弁天洞窟の項目がありますが、ソースがまったく示されていません。また「東京の名湧水57選に選定された」と穴沢天神社と混同した明らかな誤りもあり、残念ながら信用できません。

 色々と探してみたところ、稲城市教育委員会の「弁天洞窟(新東京百景)」文化財ノートNo.45(pdf)が見つかりました。教育委員会の文章ですから、いい加減な情報はないでしょう、たぶん。

 で、それによると、まず先ほど書いた横穴問題ですが、「もともとは古墳時代の横穴墓であったといわれています(考古学者 鳥居龍蔵氏談)」と書かれています。鳥居龍蔵氏は案内板にも名前が出てましたが、人類学者・考古学者・民俗学者で、1870年生まれ1953年死去。国内のみならず広く海外のフィールドワークを行なったそうな。しかし「鳥居龍蔵氏談」の「談」が怪しいです。ちゃんと調査して論文にしたわけではなく、「きみ〜こりゃ古墳時代の横穴墓じゃよ〜」と言ったというぐらいの話かもしれません。だいいち弁天洞窟は1884年に完成しているわけで、そのとき鳥居氏は14歳だったわけですから、氏は拡張工事前の横穴は見てなかったと思われます。

 洞窟が1884年(明治17年)に作られたということは洞窟内の石碑に書かれいるそうで、発願人として笹久保惣兵ヱ・小俣勇造、願主として村人28人の名前が記されているそうです。このうち小俣勇造は、当時矢野口に住んでいた関流和算家で、新たに掘られた洞窟を設計した「といわれている」そうです。

 また洞窟内の石仏は、もともと穴沢天神社の洞窟に祀られていたものが移されたと「考えられ」るとのこと。穴沢天神社の案内板に書かれていた神仏分離令との関係については書かれていませんが、ぽん太にはその可能性は高いように思われます。ただぽん太が気になるのは、前の記事で触れましたが、弁天洞窟内に置かれた石仏が21体もあること。現在の穴沢天神社の洞窟には、これだけの数の石仏を置くスペースはありません。昔は洞窟がもっと広かったのか、あるいは洞窟の周辺に祀られていたのか、よくわかりません。

 また、威光寺には次のような伝説があると書かれています。

威光寺周辺の小峰沢には昔から大蛇が棲んでいるといわれていました。ある夜、村人の一人が、大蛇が現れ弁財天と化すのを夢で見ました。そこで村長ら村人28人が集まって相談し、この洞窟を掘ったところ、中から弁財天を見つけました。化身となった大蛇が弁財天を導き出したのです。この弁財天に大黒天と毘沙門天を加え、三福神として祀ったのが弁天洞窟の始まりとされます。

 村人28人というのは弁天洞窟の願主の28人だと思われます。しかし蛇と大黒天と毘沙門天に関しては、それらの像が穴沢天神社の洞窟に祀られていたと『新編武蔵国風土記』に書いてあったことが思い出されます。この伝説には、威光寺の弁天洞窟の縁起と、穴沢天神社の洞窟の縁起が混ざっているようにぽん太には思えます。

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 さて、境内には、珍しい六角柱型の庚申塔があります。案内板によると、1684年に現地近くの山頂に建立されたものだそうです。

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 その隣の石碑を読んでみると、「陸軍血清馬如来塔」とのこと。なにこれ? 初めて見た。

 「陸軍 馬 血清」で検索してみると、戦時中にガス壊疽菌の血清を作るために、陸軍の命令で千葉県の中山競馬場で500頭の馬が生きたまま血を抜かれて犠牲になったという話が出てきます。稲城でも血清馬の供出が行われたのでしょうか。ひょっとして多摩川の反対側の府中市の東京競馬場? んなことはないですよね。よくわかりませんが、疲れてきたので、きょうのみちくさはこの辺で。

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