【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(1) 穴沢天神社
GW中の2022年5月上旬、読売ランドは家族連れやカップルで大混雑だったそうですが、ぽん太とにゃん子は混雑を避け、以前から気になっていた京王よみうりランド周辺の探索に出掛けてきました。華やかな読売ランドの麓に、このような秘境があったとは驚きでした。
「南山東部地区のまちづくり」(稲城市役所)より
京王よみうりランドがある丘陵は「南山」と呼ばれ、古くは里山として利用されていましたが、近年は樹木が伸び放題に生い茂った状態でした。しかし現在、南山東部の広範にわたる開発計画が進められています(スカイテラス南山 – 関東平野を見渡す丘の街づくり)。開発の是非については様々な立場から様々な意見があると思いますが、今後周囲の状況が大きく変わる可能性があり、自然が残る今のうちに一度訪れておくのもいいかと思います。
(1)穴沢天神社、(2)威光寺、(3)妙覚寺、(4)ありがた山
京王よみうりランド駅で降りたら、北側のよみうりランド行きゴンドラ駅に向かう人々の流れに背を向け、線路の南側に沿った道を東に向かいます。両側には梨畑が点在します。稲城は、ソフトボールよりおっきな稲城梨で有名で、秋にはあちこちに直売所が設置されます。
三沢川にぶつかったところで、橋の手前を右折します。穴沢天神社と書かれた幟が立っています。京王相模原線をくぐって山に近づくと……。
石の鳥居があり、その向こうに急な石段が見えます。山が迫り、緑が生い茂り、東京都とは思えない山深さです。
「延喜式内 穴澤神社」と書かれています。確かに延喜式神名帳に出ています(→国立国会図書館デジタルコレクション)。延喜式が作られた平安中期から「穴澤天神社」という名前だったのですね。明治4年の近代社格制度では郷社となりました。
石段を登って左に行くと少し平地が広がっており、社殿が並んでいます。入り口に案内板があります。
主祭神は少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)、創立は孝安天皇4年。元禄7年(1694)に社殿を改修し、菅原道真を合祀。8月25日に例大祭があり、神職山本家に伝わる里神楽と獅子舞が奉納される。現在の社殿は昭和61年12月に修復した、とのこと。
神社の主祭神に関しては、実は明治初頭の神仏分離令以降に割り振られたものが多いので、注意が必要です。1834年に刊行された『江戸名所図会』3巻を見てみると、「『武蔵国風土記』残編に曰く、武蔵国多磨郡 穴沢天神 (…中略…) 祭るところ少名彦神なり」と書かれておりますから、明治維新以前から少彦名神だったことが確認されました。少彦名神は、大国主命が出雲の岬にいたときに、船に乗ってやってきた小さな神様で、大国主命とともに国造りに力をそそぎました。医療・医薬とかかわりが深く、酒や温泉の神でもあります。また一寸法師の原型とも言われています。
創建の時期ですが、孝安天皇は実在が疑われている天皇ですから、孝安天皇4年に創建というのは言い伝えになります。
元禄時代に菅原道真を合祀したとのこと。現代では「天神=菅原道真」みたいに思われて、天神社は菅原道真を祀ってるように考えがちですが、日本には古来「天神・地神」といった信仰がありました。のちに菅原道真の死後、その怨霊を恐れた人々が北野の天神祠の傍に霊廟を建て、天満大自在天と呼んで霊を慰めました。こうして天神信仰と、道真の霊を慰める天満宮が結びついていったのです(『日本の神様読み解き事典』)。穴沢天神社の場合、もともとは天神を祀った神社でしたが、江戸時代に「天神社ってくれえだから、道真さまを祀ってね〜とな〜」みたいな感じで、菅原道真が合祀されたんだと思います。
穴沢天神社にはもうひとつ案内板があるのですが、写真を撮り忘れたので、「御朱印神社メモ」というサイトこちらの写真をご参照ください。
この案内板から得られる新たな情報としては、大正時代の1918年、さらに国安神社の大己貴命(おおあなむちのみこと)(=大国主命)が合祀されたこと、現在の洞窟が2代目であること、内部に安置されていた石仏は明治4年の神仏分離の際に別当寺だった威光寺に移されたことです。
正面が本殿ですね。深い森に囲まれてます。左のテントの上に見えている庇が神楽殿です。
本殿は、案内板によると、江戸時代前期(17世紀前期)の建立だそうです。一間社流造ですが、千木・鰹木を戴き、千鳥破風・軒唐破風を持つ立派な建物です。
手水舎の水盤に花が浮かべてあるのは、ぽん太は初めて見ました。あとで調べてみると「花手水」(はなちょうず)というそうで、コロナ禍で手や口を清める行為が行われなくなり、柄杓も撤去されたため、使われなくなった水盤に花を浮かべるのが流行っているそうです。
神社を出て鳥居を出てすぐの右手の急坂(弁天坂)を下ると、弁天社があります。写真の中央あたりに湧水があり、右手に鳥居が見えますね。この湧水は「東京の名湧水57選」に入っていて、大きなポリタンクを持った人たちが次々と水を汲みにきておりました。「水質検査をしてますが、飲む前に煮沸してください」の但し書きありましたが、ちょっと飲んでみるととても美味しかったです。
右の鳥居の向こうには、新しそうな弁天様の石仏が祀られております。琵琶を引く二臂の像ですが、麗しの美女ではなく、ちょっと古風なお顔立ちですね。
弁天様の向かって左には二つの洞窟があります。中は真っ暗。足元は水っぽく、飛石から踏み外すと茶色い泥に足がずぶっと入ります。懐中電灯を持参するか、携帯のライトで照らすなどして入りましょう。長さは両方とも4〜5mくらいで短いです。。途中で左右がつながっております。
右の洞窟の突き当たりは、壁龕があるだけ。写真は左側の洞窟で、石の祠のようなものがありました。上からも水がぽたぽた垂れてくるので早々に退散。
案内板にはこの洞窟は2代目と書いてありましたが、『江戸名所図会』(1834)に既に昔の洞窟は崩れたと書かれているので、2代目が掘られたのは1834年以前ということになります。また同署には、洞窟の入り口が一つで中が二つに分かれており、様々な神仏の石像があると書いてあります。現在は入り口が2つですから、昔の入口部分は崩落したため除去したのかもしれません。後で威光寺のところで書きますが、この洞窟の中にはかなりたくさんの石像が収められていたはずで、現在の洞窟の規模からするとちょっと腑に落ちない気がします。
同じ頃に出版された『新編武蔵国風土記稿』(1830)には、洞窟の正面に白蛇があり、穴の入り口に大黒天と毘沙門天の像があると書いてあります。ということは、弁財天が祀られ弁天社と呼ばれるようになったのは、もっと後なのでしょうか。しかしここで思い出されるのが「三面大黒天」。三面大黒天とは、大黒天が毘沙門天、弁財天と合体した像で、日本では最澄が比叡山延暦寺に祀ったのが最初で、秀吉が生涯拝んだことでも知られています。ぽん太は三面大黒天の信仰や歴史については不案内なのですが、ひょっとしたらこの洞窟の「中」には弁財天が祀られ、入り口の大黒天、毘沙門天像とともに、三面大黒天ユニットを形成していたのかもしれません。ただこのユニット、大黒天と弁財天がセンターを交換したりするものなのでしょうか。
なお威光寺の記事で書く予定ですが、明治初頭には既に弁財天が祀られていたようです。
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