カテゴリー「雑学」の69件の記事

2022/05/19

【東京の秘境】京王よみうりランド周辺の秘境を探訪(4) ありがた山、国安神社跡?

20220502_144213
 さて、妙覚寺の左側(南側)の細い道を上がっていきます。この先には「ありがた山」というのがあるはず。ぽん太は予備知識なしです。

 周囲は再開発が進んでいます。道の左手に工事現場の仮囲いに囲まれて、なにやら石塔が見えますが、どこから近づけばいいのかわからないのでとりあえずパス。

20220502_145328-1
 登っていくと、斜面に階段状に普通の墓地が広がります。

20220502_145501
 さらに登っていくと、あれ? なんじゃこりゃ〜? 突然風景が一変します。古い墓石や石仏が見渡す限りみっちりと並んでいます。

20220502_145558
 途中に井戸があり、二体の薬師如来の石仏が祀られています。

20220502_145615
 え? の、飲み水? ほんまかいな。枯れ葉などが浮かんで濁ってますけど……。ひょっとして、石仏や墓石様のお飲み物かしら?

20220502_145723
 空が見えてきて、稜線が近づいている感じです。ちょ、ちょ待てよ〜。ひょっとしてここって、あの開発地帯に出るんじゃね?

20220502_145814
 やっぱし……。

20220502_145946
 さらに登っていくとなにやらお堂があります。基礎がコンクリートで打たれてますから、そんな古いものではないですね。

20220502_145928
 白雲山鶴林閣ですね。ネットの中には「静林閣」と読んでいるサイトもありますが、二つ上の写真でわかるように屋根の上に鶴の置物があるし、「鶴林閣」が正解だと思います。

Img02010
 山頂にかけて、石仏と墓石がさらにみっちりと並んでおり、見ていてちょっとゾワゾワします。墓石に刻まれている字は風化していてよく読めないのですが、大正何年の日付けがありました。そんなに古いものではなさそうですね。

Img02016_hdr
 最高地点には中心に石造層塔と両側に五輪塔が置かれています。ここがありがた山山頂でしょうか。ああ、あそこに山頂の標識がありますね。なになに?

Img02015
 あらら、武蔵国五字ヶ峯 一丁? ありがや山じゃないんだ。何、一丁って。

Img02020
 周囲は広大な開発地。ぽん太は麓からはるばる登って山頂に辿り着きましたが、開発地の方から見ると、ちょっとした小山にすぎません。

 
 以前ぽん太が道の方を車で走っていた時、真っ平らな中にちょこんと取り残された、木に覆われ石塔の立つ小山を見て、なんかこれはお堂かお墓があって崩せないんだろ〜な〜と思ったことがあるのですが、それがありがた山だったんですね。

Img02017
 反対側の西方向の風景です。手前には巨大な水槽があります。雨水の溜池みたいなものでしょうか。最後は上を塞ぐんでしょうね。その向こう側には、メキシコのピラミッドみたいな土の段丘。なにこれ? 開発地の模型を見てもこんなピラミッドはありませんから、そのうち崩して土砂を利用するんですかね。

800pxadashino_nenbutsuji01s3200
 さて、このありがた山の墓石・石仏群はいったい何なのでしょうか。ぽん太が一番に思い浮かべるのは、上の写真(Wikipediaからライセンスフリーのものです)の、京都の嵯峨野にある化野(あだしの)念仏寺の西院(さい)の河原です。化野は鳥辺山などと並んで、京都では平安時代以来の墓地でした。長い時代に埋没していた無縁仏を掘り出して、安置供養しているのがこの西院の河原です。ということは、ひょっとして稲城のこの辺りも、古来からの墓地だったのでしょうか?

 ネットで検索するといくつかの記事が出てくるのですが、残念ながらどれもはっきりしたソースは示されておらず、Wikipediaさえ個人のブログを典拠にしています。ですが、とりあえずネットの情報を総合すると、古くからの墓地だったわけではなく、1939年から1941年頃、本郷・駒込・小石川付近に放置されていた無縁仏を、中山日徳道明師が率いる日徳海の人々が、妙法寺の敷地を借りて作ったもののようです。ぽん太が確認した墓石は大正時代のものでしたが、中には江戸時代のものもあるようです。現在でも手入れが行き届いており、日徳海の人たちが管理を続けているそうです。

 実は化野念仏寺の西院の河原も古いものではなく、明治30年代に宗教奉仕団体・福田海(ふくでんかい)の開祖・中山通幽(なかやまつうゆう)師が、埋没していた埋没していた無縁仏を掘り出して集めて配列し、祀ったものだそうです。

 あれ? 福田海と日徳海、中山通幽と中山日徳、ちょっと似てますね。二つの団体に関連があるのか、それとも日徳海が福田海の活動を参考にしてありがた山を作ったのか、よくわかりません。でもありがた山の方が、斜面に配置されている分、なんか迫力がありますね。

Img20220508121024603
 開発以前は、ありがた山の山頂から西方向(上の写真のい方向)に尾根が伸びていて、尾根伝いの道を進むと石塔や建物があったそうです。国土地理院の地図にも、西に向かう道と、その先になにやら建物が書かれていますね。

 こちらのサイトの2枚目の写真に、かつてあった4つの石塔(ブログ主は「仏舎利」と書いてますが、仏舎利は仏様の骨そのもののことですから、「仏舎利塔」あるいは「石塔」が正しいですね)の写真があり、奥に小屋が写っています。現在は開発に伴って撤去されたと考えられます。

 ひょっとしてありがた山の山頂にあった石塔はここから移築されたもの? しかし、こちらのサイトこの写真(1975年にテレビ放映された「仮面ライダーストロンガー」)に山頂の石塔が写っているので、これは開発前から元々あったもののようです。ありがた山は特撮ヒーロー物のロケ地としてたびたび使われたようですね。

 開発によってありがた山が消滅するのではないかと心配している方も多いようですが、スカイテラス南山のサイトを見るかぎり、現在以上に山を崩すことはなく、墓石・石仏群は残るように見えます。

 

Img02026
 さて、ありがた山から下山。冒頭の写真の石塔の方に向かう道があったので行ってみます。すると空き地に上のような告知がありました。ちょっと意味がとりにくい文章なのですが、「国安神社がかつて山際にあったが、大正年間に穴沢天神社に合祀され、国安神社の跡地は社地(神域?)として受け継がれてきた。しかし今回の開発に社地がかかってしまったので、替わりに与えられた土地を神域とし、そこからかつて国安神社があった方角に向かって神事を行う遥拝所とする」という意味でしょうか。この立札がある空き地が、その土地なのかしら?

 かつてこのあたりにあった国安(くにやす)神社が大正時代に穴沢天神社に合祀されたことは、穴沢天神社の案内板にも書かれていました。いつごろ創建されたものかは『江戸名所図会』にも新編武蔵国風土記稿』にも書かれていませんが、銅製の御神体には応安六年(1373年)の日付が記されていたようです。

 国安神社の位置に関しては、『江戸名所図会』には「威光寺の南五十歩ばかり」と書かれていますが、同書の挿絵には威光寺の東に国安神社が描かれており、矛盾しております。威光寺の「西」なのか、「明覚寺」の南なのかわかりませんが、記載が間違っているようです。上の国土地理院の地図には、立札のある土地あたりに神社の記号が書かれてますね。国土地理院の地図って、いつ頃の情報なんでしょうか。

 さらに『江戸名所図会』の挿絵を見ると、平地に「社人」(しゃにん。神主、神職など)と書かれた家があり、そこから石段を登った高台に「国安社」と書かれた建物があります。社人の家は、上の立て札があった土地に近い気がします。本殿がそこから南なのか、東なのか、絵からはちょっとわかりません。

 『江戸名所図会』には国安明神の神職は山本氏と書いてありますが、あれ?、確か現在の穴沢天神社の神職も山本さん。どういう関係なのかしら。一族でしょうか。ひょっとしたら、国安神社は穴沢天神社に合祀されましたが、神職は国安神社の山本さんが穴沢神社の神職になったとか。よくわかりません。

 

Img02029_hdr
 その近くに、最初に見えた石塔がありました。これが国安神社の遥拝所? それともひょっとしたら、ありがた山から移設した石塔か? これまたよくわかりません。このあたりが今後どうなっていくか、見守っていきたいと思います。

2022/05/11

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(3) 妙覚寺

20220502_142931
 続いて妙覚寺(みょうかくじ)へ。「雲騰山 妙覚禅寺」と書かれていますね。案内板によると、室町時代の終わり頃に足利義晴によって開山されたとのこと。鎌倉の臨済宗大本山建長寺の末寺だそうです。

20220502_142942
 石段を登ってすぐ右に、地蔵菩薩が祀られています。

20220502_143025
 こちらが本堂です。1796年(寛政8年)に再建されたものとのこと。お庭もきれいに整っていて、禅寺らしい凛とした空気が漂います。

20220502_143155
 右手の石段を登ってすぐ、左手に筆塚と不動明王の石仏があります。案内板によると筆塚は、1845年(嘉永7年)に学業指導の功績を称えて筆子代表が建立したものだそうです。当時で寺子屋をやってたのでしょうか?

20220502_143233
 石段の上には観音堂があります。額には(ぽん太には読めませんが)「松荘堂」と書かれております。いつ頃の建物が情報はありませんが、庇がぴんと張り出して、宋風のかっちょいい建物ですね。裏手は崖になっていて、崖下を京王相模原線が走り、はるか北側の風景を展望できます。

20220502_143321
 さらに少し上がるとちょっとした平地があり、板碑、鐘楼、お墓などがあります。

 まずは板碑。案内板によると室町時代中頃の1454年(享徳三年)に建てられたもので、三つの梵字は阿弥陀三尊(阿弥陀、観音、勢至)を現しているそうです。古い物なのに、風化せずにきれいに残ってますね。

20220502_143340
 鐘楼は1908年(明治41年)に再建されたものとのこと。鐘は銘がなく、装飾もシンプルでした。

2022/05/10

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(2) 威光寺の弁天洞窟(閉鎖中)、陸軍血清馬如来塔

20220502_141453
 さて、次は威光寺です。このお寺が穴沢天神社の別当寺であったことは、穴沢天神社の案内板にありましたし、『江戸名所図会』にも書かれています。神仏習合が行われていた江戸時代以前は、明治以降とは違って神と仏は渾然一体で、神社には別当寺と呼ばれる寺が置かれました。

20220502_141531
 こちらが本堂ですね。古い部分もありますが、ガラス戸はアルミサッシュになってます。

20220502_141718
 で、本堂の右手に回り込むと、洞窟の入り口があります。残念ながら現在は鉄柵で塞がれており、中に入ることはできません。ネット上のブログを検索してみると、「閉鎖」という言葉は2014年以降に現れるので、どうやらその頃に閉鎖されたと思われます。

20220502_141741
 案内板です。これによると洞窟の全長は65mで、広さは約200坪とのこと! 図を見ると、複雑かつ大規模に掘られているんですね。内部には23体の石仏があり、池や井戸、壁に2体の大蛇の彫刻もあるそうです。元々1500年以前前に作られた奥行き10mの横穴があり、それを明治初めに掘り進んで作られたと書いてあります。

20220502_141825
 鉄柵から中を覗くと、手前の方はレンガで固めてあります。ちょっと行くと突き当たりになっていて、なにやら石仏がありますが、これが宇賀神でしょうか? 閉鎖される前に入っておきたかったな〜。再公開を望みます。1982年に制定された新東京百景にもせっかく選ばれてるんですから。ネットで昔のブログを探すと、内部の写真もいろいろと見ることができます。案内図ではわかりませんが、階段もあって立体的になっているみたいです(例えばこちら→日本すきま漫遊記)。

 古くからあったという入口の横穴部分ですが、「横穴式古墳」と書いてあるブログがいっぱいあります。古墳というのは人工的に土を盛ったもので、これは崖に穴を掘ったものですから、「横穴墓」が正しいと思います。誰かが間違えて「古墳」としたものが、コピペで広がっているのですね。ネットでよくある現象です。

 困った時のWikipediaにも弁天洞窟の項目がありますが、ソースがまったく示されていません。また「東京の名湧水57選に選定された」と穴沢天神社と混同した明らかな誤りもあり、残念ながら信用できません。

 色々と探してみたところ、稲城市教育委員会の「弁天洞窟(新東京百景)」文化財ノートNo.45(pdf)が見つかりました。教育委員会の文章ですから、いい加減な情報はないでしょう、たぶん。

 で、それによると、まず先ほど書いた横穴問題ですが、「もともとは古墳時代の横穴墓であったといわれています(考古学者 鳥居龍蔵氏談)」と書かれています。鳥居龍蔵氏は案内板にも名前が出てましたが、人類学者・考古学者・民俗学者で、1870年生まれ1953年死去。国内のみならず広く海外のフィールドワークを行なったそうな。しかし「鳥居龍蔵氏談」の「談」が怪しいです。ちゃんと調査して論文にしたわけではなく、「きみ〜こりゃ古墳時代の横穴墓じゃよ〜」と言ったというぐらいの話かもしれません。だいいち弁天洞窟は1884年に完成しているわけで、そのとき鳥居氏は14歳だったわけですから、氏は拡張工事前の横穴は見てなかったと思われます。

 洞窟が1884年(明治17年)に作られたということは洞窟内の石碑に書かれいるそうで、発願人として笹久保惣兵ヱ・小俣勇造、願主として村人28人の名前が記されているそうです。このうち小俣勇造は、当時矢野口に住んでいた関流和算家で、新たに掘られた洞窟を設計した「といわれている」そうです。

 また洞窟内の石仏は、もともと穴沢天神社の洞窟に祀られていたものが移されたと「考えられ」るとのこと。穴沢天神社の案内板に書かれていた神仏分離令との関係については書かれていませんが、ぽん太にはその可能性は高いように思われます。ただぽん太が気になるのは、前の記事で触れましたが、弁天洞窟内に置かれた石仏が21体もあること。現在の穴沢天神社の洞窟には、これだけの数の石仏を置くスペースはありません。昔は洞窟がもっと広かったのか、あるいは洞窟の周辺に祀られていたのか、よくわかりません。

 また、威光寺には次のような伝説があると書かれています。

威光寺周辺の小峰沢には昔から大蛇が棲んでいるといわれていました。ある夜、村人の一人が、大蛇が現れ弁財天と化すのを夢で見ました。そこで村長ら村人28人が集まって相談し、この洞窟を掘ったところ、中から弁財天を見つけました。化身となった大蛇が弁財天を導き出したのです。この弁財天に大黒天と毘沙門天を加え、三福神として祀ったのが弁天洞窟の始まりとされます。

 村人28人というのは弁天洞窟の願主の28人だと思われます。しかし蛇と大黒天と毘沙門天に関しては、それらの像が穴沢天神社の洞窟に祀られていたと『新編武蔵国風土記』に書いてあったことが思い出されます。この伝説には、威光寺の弁天洞窟の縁起と、穴沢天神社の洞窟の縁起が混ざっているようにぽん太には思えます。

20220502_142237
 さて、境内には、珍しい六角柱型の庚申塔があります。案内板によると、1684年に現地近くの山頂に建立されたものだそうです。

20220502_142240
 その隣の石碑を読んでみると、「陸軍血清馬如来塔」とのこと。なにこれ? 初めて見た。

 「陸軍 馬 血清」で検索してみると、戦時中にガス壊疽菌の血清を作るために、陸軍の命令で千葉県の中山競馬場で500頭の馬が生きたまま血を抜かれて犠牲になったという話が出てきます。稲城でも血清馬の供出が行われたのでしょうか。ひょっとして多摩川の反対側の府中市の東京競馬場? んなことはないですよね。よくわかりませんが、疲れてきたので、きょうのみちくさはこの辺で。

2022/05/09

【東京の秘境】京王よみうりランド駅周辺の秘境探検(1) 穴沢天神社

 GW中の2022年5月上旬、読売ランドは家族連れやカップルで大混雑だったそうですが、ぽん太とにゃん子は混雑を避け、以前から気になっていた京王よみうりランド周辺の探索に出掛けてきました。華やかな読売ランドの麓に、このような秘境があったとは驚きでした。

20201117231430
南山東部地区のまちづくり」(稲城市役所)より

 京王よみうりランドがある丘陵は「南山」と呼ばれ、古くは里山として利用されていましたが、近年は樹木が伸び放題に生い茂った状態でした。しかし現在、南山東部の広範にわたる開発計画が進められています(スカイテラス南山 – 関東平野を見渡す丘の街づくり)。開発の是非については様々な立場から様々な意見があると思いますが、今後周囲の状況が大きく変わる可能性があり、自然が残る今のうちに一度訪れておくのもいいかと思います。

 
(1)穴沢天神社、(2)威光寺、(3)妙覚寺、(4)ありがた山

 京王よみうりランド駅で降りたら、北側のよみうりランド行きゴンドラ駅に向かう人々の流れに背を向け、線路の南側に沿った道を東に向かいます。両側には梨畑が点在します。稲城は、ソフトボールよりおっきな稲城梨で有名で、秋にはあちこちに直売所が設置されます。

20220502_133531
 三沢川にぶつかったところで、橋の手前を右折します。穴沢天神社と書かれた幟が立っています。京王相模原線をくぐって山に近づくと……。

20220502_133712
 石の鳥居があり、その向こうに急な石段が見えます。山が迫り、緑が生い茂り、東京都とは思えない山深さです。

20220502_133718
 「延喜式内 穴澤神社」と書かれています。確かに延喜式神名帳に出ています(→国立国会図書館デジタルコレクション)。延喜式が作られた平安中期から「穴澤天神社」という名前だったのですね。明治4年の近代社格制度では郷社となりました。

20220502_133910
 石段を登って左に行くと少し平地が広がっており、社殿が並んでいます。入り口に案内板があります。

 主祭神は少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)、創立は孝安天皇4年。元禄7年(1694)に社殿を改修し、菅原道真を合祀。8月25日に例大祭があり、神職山本家に伝わる里神楽と獅子舞が奉納される。現在の社殿は昭和61年12月に修復した、とのこと。

 神社の主祭神に関しては、実は明治初頭の神仏分離令以降に割り振られたものが多いので、注意が必要です。1834年に刊行された『江戸名所図会』3巻を見てみると、「『武蔵国風土記』残編に曰く、武蔵国多磨郡 穴沢天神 (…中略…) 祭るところ少名彦神なり」と書かれておりますから、明治維新以前から少彦名神だったことが確認されました。少彦名神は、大国主命が出雲の岬にいたときに、船に乗ってやってきた小さな神様で、大国主命とともに国造りに力をそそぎました。医療・医薬とかかわりが深く、酒や温泉の神でもあります。また一寸法師の原型とも言われています。

 創建の時期ですが、孝安天皇は実在が疑われている天皇ですから、孝安天皇4年に創建というのは言い伝えになります。

 元禄時代に菅原道真を合祀したとのこと。現代では「天神=菅原道真」みたいに思われて、天神社は菅原道真を祀ってるように考えがちですが、日本には古来「天神・地神」といった信仰がありました。のちに菅原道真の死後、その怨霊を恐れた人々が北野の天神祠の傍に霊廟を建て、天満大自在天と呼んで霊を慰めました。こうして天神信仰と、道真の霊を慰める天満宮が結びついていったのです(『日本の神様読み解き事典』)。穴沢天神社の場合、もともとは天神を祀った神社でしたが、江戸時代に「天神社ってくれえだから、道真さまを祀ってね〜とな〜」みたいな感じで、菅原道真が合祀されたんだと思います。

 穴沢天神社にはもうひとつ案内板があるのですが、写真を撮り忘れたので、「御朱印神社メモ」というサイトこちらの写真をご参照ください。

 この案内板から得られる新たな情報としては、大正時代の1918年、さらに国安神社の大己貴命(おおあなむちのみこと)(=大国主命)が合祀されたこと、現在の洞窟が2代目であること、内部に安置されていた石仏は明治4年の神仏分離の際に別当寺だった威光寺に移されたことです。

20220502_134053
 正面が本殿ですね。深い森に囲まれてます。左のテントの上に見えている庇が神楽殿です。

20220502_134547
 本殿は、案内板によると、江戸時代前期(17世紀前期)の建立だそうです。一間社流造ですが、千木・鰹木を戴き、千鳥破風・軒唐破風を持つ立派な建物です。

20220502_134821
 手水舎の水盤に花が浮かべてあるのは、ぽん太は初めて見ました。あとで調べてみると「花手水」(はなちょうず)というそうで、コロナ禍で手や口を清める行為が行われなくなり、柄杓も撤去されたため、使われなくなった水盤に花を浮かべるのが流行っているそうです。

20220502_135638
 神社を出て鳥居を出てすぐの右手の急坂(弁天坂)を下ると、弁天社があります。写真の中央あたりに湧水があり、右手に鳥居が見えますね。この湧水は「東京の名湧水57選」に入っていて、大きなポリタンクを持った人たちが次々と水を汲みにきておりました。「水質検査をしてますが、飲む前に煮沸してください」の但し書きありましたが、ちょっと飲んでみるととても美味しかったです。

20220502_135316
 右の鳥居の向こうには、新しそうな弁天様の石仏が祀られております。琵琶を引く二臂の像ですが、麗しの美女ではなく、ちょっと古風なお顔立ちですね。

20220502_135340
 弁天様の向かって左には二つの洞窟があります。中は真っ暗。足元は水っぽく、飛石から踏み外すと茶色い泥に足がずぶっと入ります。懐中電灯を持参するか、携帯のライトで照らすなどして入りましょう。長さは両方とも4〜5mくらいで短いです。。途中で左右がつながっております。

20220502_135504
 右の洞窟の突き当たりは、壁龕があるだけ。写真は左側の洞窟で、石の祠のようなものがありました。上からも水がぽたぽた垂れてくるので早々に退散。

 案内板にはこの洞窟は2代目と書いてありましたが、『江戸名所図会』(1834)に既に昔の洞窟は崩れたと書かれているので、2代目が掘られたのは1834年以前ということになります。また同署には、洞窟の入り口が一つで中が二つに分かれており、様々な神仏の石像があると書いてあります。現在は入り口が2つですから、昔の入口部分は崩落したため除去したのかもしれません。後で威光寺のところで書きますが、この洞窟の中にはかなりたくさんの石像が収められていたはずで、現在の洞窟の規模からするとちょっと腑に落ちない気がします。

 同じ頃に出版された『新編武蔵国風土記稿』(1830)には、洞窟の正面に白蛇があり、穴の入り口に大黒天と毘沙門天の像があると書いてあります。ということは、弁財天が祀られ弁天社と呼ばれるようになったのは、もっと後なのでしょうか。しかしここで思い出されるのが「三面大黒天」。三面大黒天とは、大黒天が毘沙門天、弁財天と合体した像で、日本では最澄が比叡山延暦寺に祀ったのが最初で、秀吉が生涯拝んだことでも知られています。ぽん太は三面大黒天の信仰や歴史については不案内なのですが、ひょっとしたらこの洞窟の「中」には弁財天が祀られ、入り口の大黒天、毘沙門天像とともに、三面大黒天ユニットを形成していたのかもしれません。ただこのユニット、大黒天と弁財天がセンターを交換したりするものなのでしょうか。

 なお威光寺の記事で書く予定ですが、明治初頭には既に弁財天が祀られていたようです。

2022/05/05

【キッチュ】善光寺大本願別院観音寺ご開帳・日本歴史館


 翌日、一般道を千曲市の方に向かって進んでいると、目の前の山の上に巨大な瓦葺きの建物が出現。なんだろ〜お寺かな?


 近づいていくと、何とか温泉と書かれた看板があります。温泉旅館かしら? 泊まってみたいな〜。

 などと言いながら走っていくと、車は温泉街に突入。「戸倉(とぐら)上山田温泉」というところらしい。こんなところに温泉地があるとは、温泉好きのぽん太ですが、まったく知りませんでした。


 昭和感が漂う歓楽街もあります。どこか良さそうな宿がないかと調べてみましたが、高級旅館が多く、ぽん太の好みの古くて安い宿はなさそうですね。笹谷ホテルに登録有形文化財の建物があるようですが、それなりのお値段なので、GoToが始まったら考えてみようかな。

 戸倉上山田温泉|Wikipediaによると、明治中期の開湯だそうで、けっこう新しいんですね。善光寺参りの精進落としとして賑わい、大正時代に現在の繁華街が成立。昭和後期には企業の団体客などで最盛期を迎えたそうです。

 で、温泉街を走っていると、ご開帳と書かれた幟が立ち並んでいます。なんでも山の上にある善光寺大本願別院・観音寺で、善光寺のご開帳に合わせてご開帳が行われるとのこと。スマホで調べてみると、善光寺、善光寺大本願、善光寺大本願別院・観音寺の3カ所を参拝することを「三世詣り」というらしい。これは行ってみなくては! ひょっとしてさっき見えた建物でしょうか?

Img_6182
 細い山道を登っていくと、ありました。善光寺大本願別院・観音寺です。わ〜、回向柱が立ってる! 

Img_6184
 建物もコンクリート製で、鉄骨も露出しています。なんだか静か。人っ子一人おらず、受付もシャッターが下されています。中には入れず、外から覗くと、はるか奥の方に善光寺式阿弥陀三尊像が見えます。どうやら朝の6時半から始まる「お朝事」に参加しないと、お寺の中に入って近くからお参りすることはできないようです。そしてこの時期お朝事があるせいで、それ以外は閉じてしまっているのかもしれません。

Img_6183
 観音寺の裏手には廃墟のような建物というか、廃墟が。左には澳津神社があり、「男女和合の神」との看板があり、どのような御神体が祀られているかほぼ予測ができたので、見学は省略しました。

 帰宅してから検索してみると、信濃毎日新聞の2015年3月7日の記事「縁に引かれて「三世詣り」へ 千曲の大本願別院・観音寺が初企画」に、「千曲市上山田の観音寺が、長野市の善光寺御開帳(4月5日〜5月31日)の期間に合わせ、同市の善光寺と善光寺大本願、千曲市の観音寺の3カ所を参拝する「三世詣(まい)り」を初めて企画した。観音寺は善光寺大本願の別院だがあまり知られておらず、これまでの御開帳の期間に参拝客が訪れることはほとんどなかったという。三世詣りの期間は、御開帳より長い今月30日から6月7日まで。別院にも足を運んでもらおうとの狙いだ。」と書いてあります。

 なんだ、「三世詣り」は前回のご開帳の2015年に初めて作られたもので、伝統的なものではないのですね。町おこしの一種かしら?

 「三世」の意味に関しても、同記事に「>三世詣りは、極楽往生を願う善光寺を「来世」、先祖供養をする善光寺大本願を「前世」、現世利益を願う観音寺を「現世」とし、三つを合わせて「三世」と観音寺が位置付けた。」と説明されております。仏教には三世仏という考え方があり、過去・現在・未来に例えば薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来など仏さまを割り振るものです。お寺のご利益で前世・現世・来世を割り振るというのは、ぽん太はちょっとしっくり来ません。

 ところで、車から山の上に見えた建物は観音寺ではなく、観音寺の向かいにある「日本歴史館」のようです。間近で見るとちょっと廃墟っぽくて妖しい雰囲気だったので、入るのはやめました。公式サイトはこちら、facebookはこちらです。それらによると、地元の宮本光儀と、肖像画家・馬堀法眼喜孝によって1969年(昭和44年)に開館され、歴代124代の天皇の資料や馬堀法眼による肖像画が展示されていました。しかし時代の変化とともに来館者は減少し、この20年年間は休館状態となり、建物も廃墟同然となっておりました。2018年に経営を引き継いだ現経営者が再建を試みている、という状態のようです。

 馬堀法眼喜孝って誰れ? Wikipediaに出てるじゃん。明治40年(1907) - 平成11年(1999)。横須賀生まれの肖像画家とのこと。え〜!昔の一万円札の聖徳太子、五百円札の岩倉具視、千円札の伊藤博文の原画を描いた人なんだって。知らんかった。さらに調べてみると、彼の描いた歴代天皇の肖像画、明治神宮宝物殿や、群馬県富岡市の一之宮貫前神社、新潟の彌彦神社などにも奉納されているみたい(参照元)。しかもこれらの奉納には佐川急便の創始者・佐川清氏がかかわっているという(参照元)。こ、これはみちくさを続けると遭難しそうなので、この辺で引き返しましょう。

 宮本光儀氏は、戸倉上山田温泉の発展に努めた人で、戦前はグランドの建設や国立長野病院の誘致、そして戦後は観音寺の開山などを行って人のようです(参照元)。

 


 さて、日本歴史館に話を戻すと、Youtubeもあります。経営者は西澤正太郎という人のようですね。

 さらに検索を続けると、2021年10月5日の産経新聞の「歴代天皇の肖像ずらり 若者が再建に挑む 「日本歴史館」」という記事が見つかりました。それによると日本歴史館の一帯は昭和40年代に観光用に開発され、動植物園や遊園地、善光寺本願別院の観音寺、奥津神社などが作られ、日本歴史館は5階建てホテルの最上階でした。しかし平成に入ってホテルは閉館し、歴史館も希望者がいるときだけ開館する状態となりました。ところが、西澤正太郎氏の父親は温泉経営をしていましたが、大学で僧侶の過程を履修し、跡継ぎのいなかった観音寺の管理僧侶となり、奥津神社、日本歴史館も管理することになりました。大学でウェブデザインなどを学んだのち故郷に戻っていた西澤氏が、これを機に日本歴史館の再建に乗り出したようです。

 いろいろわかってきたぞ。あとは、どういう経緯で観音寺が「善光寺大本願別院」となったかですが、そこら辺にありそうな人間の大人の事情には、狸のぽん太は立ち入らないことにいたしましょう。

 珍寺大道場というサイトには、2006年時点の観音寺、日本歴史館の状況がリポートされています。ぜひご覧ください。

2021/09/20

【ハイソ】武相荘(旧白州邸)に行ってみました。

20210812_112536
 ぽん太は白州次郎・正子といってもあんまり良く知りません。ぽん太が知っているのは、白洲次郎は高級外車に乗ったダンディなおじさんで敗戦後に活躍したこと、白州雅子は十一面観音の本をかいたことぐらいです。でもちょっと、なんとなく気になる存在。
 そんな白州夫妻が住んでいた家が、ぽん太の生息地から遠くない町田にあり、ミュージアムとして公開されていると知り、コロナ禍のなか行ってまいりました。
旧白州邸「武相荘」(ぶあいそう)
【訪問日】2021年夏
【住所】東京都町田市能ヶ谷7-3-2
【開館日】ミュージアム 10:00〜17:00(入館は16:00まで)、月曜定休
【入館料】1100円
【公式サイト】https://buaiso.com
【ご注意】駐車場がちょっとわかりにくいところにあるので、お出かけ前に公式サイトで確認を!

20210812_105803
 現在では住宅街の真っ只中にありますが、駐車場からミュージアムに至る小道は、このように鬱蒼とした樹木に囲まれています。

20210812_110014
 入り口には、次郎の最初の愛車であったPAIGEの同型車が展示されておりました。もちろんぽん太には全く価値がわかりません。でも、かっこいいです。
 
 20210812_112056
 内側から門を振り返る。和モダンでいい感じですね。向かって左の建物は、レストランになってます。


20210812_112232
 こちらが白州夫妻が暮らしていた家。武相荘という名の由来は、武蔵と相模の境にあったからだそうですが、もちろん無愛想にかけているのでしょう。
 ぽん太はてっきり一時的に住んだ別邸かと思っていたのですが、1943年(昭和18年)から亡くなるまで住み続けていたんですね。白州正子が1998年まで(ぽん太にとっては「最近」です)ご存命だったことも、初めて知りました。
 内部は古い感じを十分に残しながら、使いやすく改造されており、美的センスに溢れています。林に面したこじんまりとした書斎もいい雰囲気でした。また夫妻が使った食器や着物などの調度品が展示されておりました。正子は、自分が気に入った骨董を買い、飾るのではなくて使っていたと聞きますが、美的センスと「お金」がないとできませんね。ぽん太の巣穴はニトリとユニクロばかりですが、仕方ありません。

20210812_114546
 帰りにレストランでスイーツをいただきました。
 名物の海老カレーやどら焼きも捨てがたかったですが、写真の「カッサータ」を選択。シチリアの伝統的スイーツで、フルーツの砂糖漬けやナッツを、リコッタチーズで冷やし固めたものだそうです。ぽん太はもちろん初めていただきましたが、美味しゅうございました。

2018/06/04

【温泉】鎌田宿の歴史について調べてみた。尾瀬鎌田宿温泉・梅田屋旅館(群馬県片品村)(★★★★)

Img_7971

 今年の2月中旬、ぽん太とにゃん子は、群馬県は片品村にある梅田屋旅館に泊まってきました。何回目かの宿泊ですが、尾瀬方面のスキー場に行くときは重宝する宿です。

 上州の宿場の旅籠を思わせる建物、お肌がすべすべするアルカリ性の美人の湯、地元の新鮮な食材をふんだんい使ったお食事など、目を引くような派手さはありませんが、決して裏切られることのない安心して泊まれる宿なので、ぽん太はリピートしております。評価は堂々の4点です。

★楽天トラベルからの予約は右のリンクをクリック!


Img_7960
 ご覧の通り、旅籠の雰囲気が漂う門構えです。明治44年(1911年)の創業だそうです。
 このあたりでは安心して泊まれる宿。あまりリピートしないぽん太ですが、ここには何回かお世話になっております。過去の記事もご参考にしてください。

Img_7961

 とゆうことで、こんかいはこの旅館がある「鎌田宿」についてみちくさしてみたいと思います。

 だけど、ググってみても、鎌田宿がどのような街道のどのような宿場だったのか、情報がありません。梅田屋旅館のホームページには、宿の歴史は記載されておりません。他のサイトによると、どうやら明治44年(1911年)の創業のようです。
 同じく片品村鎌田にあるちぎら旅館の公式サイトには、ちぎらの歴史というページがあります。それによると、ちぎら旅館ができた大正13年(1924)年には「この辺り一面田んぼや緑に囲まれ民家も数軒ほどしかないのどか~な村だった」とのことです。ということは、やはり江戸時代から栄えた宿場ではなかったようですね。しかしそんな不便な場所に宿屋ができると、「大勢の旅人や開発に携わる人々で賑わいをみせていた」そうです。また昭和になっても状況はかわらず、さらに「時代とともに車が走れるほどの道ができると、当館の庭はバス停の停留所になり、運転手の下宿としても利用され、忙しくても楽しい時代だった」と書いてあります。
 つまり鎌田は江戸時代からの宿場ではなく、大正末期以降、「旅人や開発に携わる人々」が利用した宿場ということですね。

Img_7965
 「宿」(しゅく)というからには「街道」があるはずです。最初に思いつくのは、金精峠を抜けて日光に至る現在の国道120号です。
 金精峠 - Wikipediaによると、金精峠は元々は日光山の修行僧が修行で使っていた路でしたが、1872年(明治5年)に峠越えの道が拓かれて「日光道」という交易路となりました。ここにトンネルが掘られたのはようやく1965年(昭和40年)になってからで、これが現在の金精トンネルです。
 これによって初めて片品村と日光が自動車道でつながれたわけです。しかしこの道も、冬季は閉鎖され、しばしば雪崩に襲われることで知られております。江戸時代にどの程度使われていたのか、峠越えの「日光道」がどれほど賑わったのか、ぐぐってみたけどちとわかりませんでした。
 でも、古くは金精峠を徒歩で越えた人々、そして新しくは金精トンネルを含む自動車道の建設に関わった人々が「鎌田宿」を利用した可能性は高いと思われます。

Img_7968
 開発といえば、電源開発もあるのでは?
 調べて見ると、鎌田よりも上流にある発電所は6カ所で(群馬県の水力発電所マップ)、運用開始が古い順に、一之瀬発電所が昭和12年(1937年)、丸沼発電所が昭和14年(1939年)、栓ノ滝発電所が昭和16年(1941年)、白根発電所と鎌田発電所が昭和29年(1954年)、戸倉発電所が昭和37年(1962年)。そして、一之瀬発電所のための貯水池丸沼ダムは、1928年(昭和3年)着工、1931年(昭和6年)竣工だそうです。
 これらの電源開発に関わった人たちも、鎌田宿を利用していたかもしれません。

Img_7985
 尾瀬のダム計画などを調べているうちに、驚くべき(ぽん太だけか?)事実に行き当たりました。
 なんと尾瀬を超えて沼田と会津若松を結ぶ街道が江戸時代にあったそうで、「会津沼田街道」と呼ばれていたそうです(国道401号 - Wikipedia)。これは盲点でした。現在は国立公園として自然が保護され、ハイカーがザックを背負って訪れる尾瀬が、昔は交易路だったとは思いませんでした。
 片品から三平峠を抜けて尾瀬沼に入ります。長蔵小屋から大江湿原を抜けて沼山峠に出、そこからさらに北に進んで七入を経て檜枝岐に至ったそうです。あら、昭文社の登山地図をみたら、ちゃんと「沼田街道」って書いてある。これはそのうち歩いてみたいですね。
 会津沼田街道は、福島県側が「沼田街道」、群馬県側が「会津街道」と呼ばれたそうです。パリにある、リヨンに向かう鉄道駅がリヨン駅なのと同じですね。
 戸倉には関所があったそうです。戊辰戦争の戦場にもなったそうで、大江湿原には会津軍が築いた土塁が残されているそうです。

Img_7975
 さらにびっくり!尾瀬を横断する道路が計画されていたこともあるんですね(熟年夫婦の山日記)。戸倉から大清水、沼山峠から御池の部分は建設されて現在に至っていることは皆さんご存知の通り。大清水から先は、当初は沼田街道に沿うルートが計画されましたが、後にやや東側を通って小淵沢田代を通るルートに変更されたようです。現在どちらも一部林道が残っております。自然保護運動の高まりによって中止されましたが、最終的に工事がストップしたのは昭和46年(1971年)のことだったそうです。
 尾瀬の自然保護運動というと、尾瀬ダム計画のことは知っていたのですが、道路計画については初めて知りました。

Img_7982
 ちょっと話が脱線しましたが、いろいろ勉強になりました。

 まとめると、鎌田は、江戸時代には会津沼田街道の旅人(そして金精峠を越えた人々?)が行き交ってましたが、その頃は宿場ではなく、旅人が素通りする農村でした。しかし明治末期に梅田屋旅館、大正末にはちぎら旅館ができるなどしてから、旅行者や、尾瀬の開発、発電所、国道401号などの建設に関わる人々などが泊まるようになり、賑わいを見せたのではないかな〜と、ぽん太は推測いたしました。

2017/03/13

【雑学】歌舞伎にも出てくるお土砂に興味を持った江戸時代のオランダ人・ティチング

 吉田元の『江戸の酒 その技術・経済・文化』(朝日新聞社、1997年)という本を読んでみました。江戸時代の日本酒の状況がわかって面白かったのですが、ぽん太の目が止まったのは別の部分。

 外国人の日本酒に対する関心を論じているところで、長崎オランダ商館長イサーク・ティッツィングが、日本人を出島に密かに招き入れて、目の前で日本酒を作らせた話が出てきます。で、ティッツィングがいかに好奇心おう盛だったかを書いた次の記述に、ぽん太の目は釘付けになりました。

 ティッツィングの好奇心は強烈だった。不幸にも出島において病死した若いオランダ人商館員の遺体にかけられ、死後硬直を解いた真言宗の「土砂」(加持祈祷しをした土砂)の正体解明に執念を燃やし、九州の寺から取り寄せて帰国時に持ち帰ったくらいだから、杜氏を呼び入れることなど何でもなかったろう。

 にゃにゃにゃ、にゃに〜?土砂?
 「お土砂」といえば、歌舞伎の「松竹梅湯島掛額」(しょうちくばいゆしまのかけがく)の「吉祥院お土砂の場」に出てくる、かけられると体がフニャフニャになるという粉ではないか。主人公の紅長は敵にお土砂をかけて撃退しますが、だんだん悪のりして出てくる人に片っ端からお土砂をかけはじめ、さらには舞台に上がってきたお客さん(仕込みです)や劇場の係員、しまいには舞台袖の附け打ちさん(木でバタバタバッタと音を出す係の人)までフニャフニャにしてしまうというドタバタコメディーです。
 ぽん太はてっきりフィクションの世界の話かと思ってたのですが、お土砂は実在したんでしょうか。
 ちなみにここに出てくる吉祥院(きっしょういん)は、おそらく谷中にあった吉祥院で、現在は杉並区に移転しておりますが(吉祥院|猫のあしあと)、真言宗ではなく天台宗のお寺です。

 まず、困ったときのWikipediaを見てみると、イサーク・ティチングという表記で出ています(イサーク・ティチング - Wikipedia)。イサーク・ティチング(Isaac Titsingh。1745年-1812年)はオランダの外科医・学者。1779年から1784年の間3度にわたってオランダ商館長として日本に滞在したそうです。
 で、下の方の「著書」をじっと見てみると、どうやらTitsingh, Isaac. (1822年). Illustrations of Japan, London: Ackermann.というのがあやしい。アマゾンでぐぐってみると、『日本風俗図誌』(丸善雄松堂 、1980年)というのがあります。どうやらこれのようですね。
 でも、近くの図書館にはないようだし、このためにわざわざ買うのも悔しい。ということで、ネット上で探してみると……あった!え、英語ですけど。

 ・同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ Illustrations of Japan

 目次(14ページ)を見てみると、第二章に「土砂という粉と、その発明者・弘法大師に関する報告」という節と、「土砂という粉の報告への注」という節があります!!

 それによると、1783年に一人のオランダ人が出島で亡くなりました。ティチングは土砂の効果を確かめようと、その遺体を冷たい外気に一晩さらして死後硬直を起こさせました。翌日、一人の日本人が土砂を持ってきて、両耳、鼻腔、口にそれを注ぐと、20分ほどで遺体は柔らかくなったそうです。
 ティチングは、それが土砂の効果によるのか、それとも見抜けなかったけれども何らかのトリックが使われたのか、わからないと言っております。
 万能薬としても用いられていた土砂にティチングは興味を持ち、あちこちで買い集めて、帰国の際に持ち帰ったそうです。
 しかしこの後ティチングは、土砂のことは忘れたかのように、土砂の発見者とされる弘法大師の生涯や思想に話を移してしまいます。

 そのあと編集者による注がついていて、フランス人のシャルパンティエ・コシニィ(charpentier-cossingny)が1799年に出版した「ベンガル旅行」のなかで、土砂について触れているそうです。
 コシニィはティチングから土砂の一部を貰い受け、様々な科学的分析を試みた後、死後硬直に対する効果を実験してみましたが、思うような結果は得られなかったと書いてあります。

 う〜ん、ということは、やっぱりお土砂はインチキだったのか?とはいえ、日本で昔から信じられ、広く使われていた「魔法の粉」だったのでしょう。ただ、歌舞伎の「松竹梅湯島掛額」が作られた安政3年(1856)には、ドタバタ劇の小道具として使われたくらいですから、幕末の江戸庶民にはもはや迷信と受け止められていたのでしょう。

2016/02/16

【自由研究】つげ義春と会津西山温泉「中の湯」

Img_8493
 ぽん太は先日、かつてつげ義春が泊まった宿、会津西山温泉の中の湯に行って来ました。その時の感想は既にブログにアップしましたが、会津西山温泉、中の湯とつげ義春との関係については宿題となっていたので、こんかいご報告申し上げます。

 ぽん太が調査したところ、会津西山温泉と中の湯に関連するつげ義春の作品は、以下の8点です。

 まずは代表作、「桃源行」のイラスト3枚。
 「桃源行」は、つげ義春のイラストに、詩人の正津勉(しょうづ べん)が詩を添えたもので、初出は1977年(昭和52年)、雑誌『ポエム』に連載。
 右のリンクの『つげ義春とぼく』(新潮文庫)などに入ってます。
 三つのイラストを[I-1][I-2][I-3]とします。画像は著作権があるのでアップできません。本を買うか、ぐぐってみてね。

 [I-1]木造2階建ての古めかしい温泉宿を描いたもの。壁に「中の湯」と書いてあります。木造の古めかしい建物で、空けられた障子から、浴衣を着てくつろぐ宿泊客が見えます。割烹着を着た宿の従業員もおり、玄関から勢いよくツバメが飛び立っています。

 [I-2]浴室を描いたもの。木造の浴室の、奥と手前に二つの湯船があり、手前の湯船にはおかっぱ頭の女性が腰掛けてます。

 [I-3]女の子がいる集落の風景。

 つぎは「颯爽旅日記」(さっそうたびにっき)(初出:つげ義春『つげ義春とぼく』晶文社、1977年(昭和52年))。
 これも『つげ義春とぼく』に収録されてます。
 つげ義春の旅の日記で、「会津 新潟 群馬」という節で西山温泉に触れています。これを[S-1]とします。引用すると……

 [S-1]「このメモはわりあい新しいもので、雑誌『ポエム』に連載した「桃源行」の一回目の取材に出たときのもの。
 ……中略……
 六月十六……会津若松からすぐ只見線に乗換え柳津下車。そばを食べ、タクシーで西山温泉へ。途中、八木沢集落を写真にとる。そこから歩いて一・五kmで温泉に。前に来たことのある中ノ湯に泊る。新館の立派なのができてしまったが、旧館に泊めてもらう。旧館の素朴な造りに正津さんは喜んでいた。」

 つまり、この取材旅行をもとにして、「桃源行」の3つのイラストが生まれたことになります。

 おつぎは『つげ義春の温泉』(初出:カタログハウス、2003年(平成15年))に載っている写真3枚。[P-1][P-2][P-3]とします。あとがきに、未発表の写真と書いてあるので、これが初出です。

 [P-1]「昭和46年5月」と日付が入れられた、温泉宿の玄関の内側と思われる写真。向かって右に階段があり、左には女性と男の子が座っている。

 [P-2]「昭和51年6月」の日付。手前に川が流れ、対岸に林を背景に、二階建ての建物が見える。

 [P-3]「昭和51年6月」の日付。温泉宿の部屋に浴衣を着た男性が座っている。

最後は『新版 貧困旅行記』(新潮社、1995年、新潮文庫)にある写真。もともとの晶文社の『貧困旅行記』(1991年)には存在せず、新版で初めて収録されたもの。
 ぽん太はあいにくこの本を持ち合わせてないのですが、手元にある「芸術新潮」新潮社、2014年1月号に同じ写真が載ってます。

 [P-4]「福島県柳津西山温泉付近」お面をつけた少女のいる集落。1971年(昭和46年)5月撮影。

 会津西山温泉、中の湯に関するつげ作品は、ぽん太の調べた限り、イラスト3点、文章1つ、写真4点の、計8点です。

 さて、分析を開始しましょう。

Img_8522 中の湯」の壁には、左の新聞記事が掲示してありました。笠井尚という人の「西山温泉 つげ義春 ふくしまのいで湯と作家たち」というエッセイで、2006年10月18日の福島民友です。
 つげについて書かれている部分を書き出してみます。

 つげは、柳津町の西山温泉「中の湯」に、三度ばかり訪れている。「颯爽旅日記」では二度目であった。
 ……中略……
 「中の湯」の原忠社長と妻の延子さんは、一風変わった泊まり客だったこともあり、毎回、二泊程度しか滞在しなかったが、つげのことは印象に残ったという。
 まず口数が少なく、こちらから話しかけなければ、口をひらくことがなかった。
 ぽつんと独りっ切りで、物思いに耽っているという感じだった。一番ビックリしたのは、テーブルの前にでんと坐っているのではなく、片隅の方に隠れるようにしていたことだ。
 何の商売をしている人間かも分からず、後になって売れっ子の漫画家だと聞かされたとか。
 ……中略……
 つげが、もっとも気に入ってたのは、湯殿であったようだ。原社長によると、豪雪でつぶれてしまったので、にわかづくりでこしらえたのだ。
 それでも、コンクリートの浴槽が二つあって、水でうするめるたのホースがすぐ近くにあった。

 う〜ん、いいですね。部屋の片隅に坐ってじ〜っとたたずむつげさんの様子が頭に浮かんできます。

 で、ここから、つげ義春が中の湯に3回宿泊したこと、2回目が「颯爽旅日記」の取材であったことがわかります。[S-1]の日付が正しいとすると、昭和51年6月16日に、正津勉氏と二人で一泊したことになります。
 さらに[S-1]によれば、このとき新館ができていたけど、旧館の方に泊めてもらったということです。新館はこの前ぽん太が泊まった建物だと思いますが、旧館を壊して建て替えたのではなく、旧館は新館と別の所にあったことになります。
 こちらのつげ義春の旅を行く2「西山温泉」というサイトでは、新館を出て右手にある建物の場所に、かつて旧館があったことを、宿の人に確認しているようです。
 ちなみに中の湯の新館がいつ建てられたのかは、ちょっと調べがつきませんでした。

 ということでイラスト[I-1]は、昭和51年6月16日時点での、中の湯の旧館を描いたものですね。ツバメの季節感も6月ということで合致します。

 そしてイラスト[I-2]は、新聞記事の記載通りコンクリートの浴槽が二つあるので、中の湯の温泉です。これが現在の離れのお風呂の位置にあったことも、上のサイトの人が確認しています。

 さてイラスト[I-3]ですが、場所はいったいどこでしょう……。
 実はこれも上のブログですでに調べがついております。ブログにその場所の写真が出ていますが、具体的にどこかわかりません。
 どうやら西山温泉から柳津駅へ向かう道のどこからしいので、ぽん太がグーグル・ストリートビューを眺め続けること30分、ようやく見つけました!この風景ですね。

 グーグル・マップでは下記の場所です。ここから北側を見たのが上のストリートビューです。

 住所でいうと、福島県河沼郡柳津町大字郷戸で、字居平丁か字岩下丁のどちらかか?

 ところで、図柄がほとんど一致していることから、イラスト[I-3]は写真[P-4]を元に描いたと思われます。しかし[P-4]の日付は、取材旅行をした昭和51年より5年前の昭和46年(1971年)5月。
 上の新聞記事には、つげ義春は中の湯に3回泊まったと書いてあります。2回目が昭和51年6月16日であることはすでに明らかにしたので、1回目の宿泊が昭和46年5月だったということでしょうか。
 じっさい『つげ義春漫画術 下巻』(つげ義春・権藤晋著、ワイズ出版、1993年)に収録された、つげ義春の年譜を見てみると、1971年(昭和46年)5月に「会津・檜枝岐へ」と書かれています。これが第1回目の中の湯宿泊で確定ですね。
 ちなみに1976年(昭和51年)には「ポエムの取材で会津へ」と書かれており、これが2回目の中の湯泊です。
 では3回目はいつだろうかと年譜をチェックしてみましたが、残念ながらそれらしい記載は見つかりませんでした。

 というわけで、話しを元に戻すと、第2回目の中の湯宿泊のあとに描いた「桃源行」の3枚のイラストのうち[I-3]だけは、5年前の第一回目の中の湯宿泊のおりに撮った写真[P-4]を元に描いたことになります。
 「颯爽旅日記」によれば、つげと正津はタクシーで西山温泉に向かいましたが、途中の八木沢集落で車を降りて写真を撮り、そこから中の湯まで歩いていきました。おそらくつげは八木沢で思うような風景に出会えず、以前に撮ったお面の女の子が写っている写真が気になってきて、そちらをイラストに採用したのでしょう。
 それとも単につげ義春が写真の日付を間違えたという可能性は……ありませんよね。

 続いて写真[P-1]。日付が昭和46年5月ですから、最初に中の湯に泊まった時に撮ったものですね。温泉宿の玄関の中の写真と思われます。どこの旅館でしょう?
 ふ、ふ、ふ、イラスト[I-1]に描かれた中の湯旧館の、玄関部分をよく見て下さい。向かって右に急な階段があり、写真[P-1]と同じです。ということでこの写真は、中の湯の旧館に決定!
 
 お次ぎは写真[P-2]。西山温泉の風景と思われます。川があって、対岸の遠くに二階建ての建物が見えます。中の湯の旧館の可能性が高いと思われますが、昭和51年6月だと新館ができていたはずですが見当たりません。木の後ろに建物が隠れているようにも見ます。
 最近の写真(例えばこちらの冒頭の写真)と比べると、川と建物の距離が遠い気がすます。しかし、中の湯でないとすると滝の湯になりますが、滝の湯だとこちらの一番下の写真にあるように、建物が川からかなり高い位置にあるし、川が左へカーブした感じになります。写真[P-2]を良く見ると、川の水が奥から手前に向かって流れいるようなので、やはり中の湯と考えていいでしょう。川筋が少し変わったのかもしれません。赤い橋もできてますし。

 最後に写真[P-3]。昭和51年6月ということで、中の湯に2度目に泊まったときの写真ですね。人物はもちろんつげさん。口にくわえた煙草にライターで火をつけようとしているようです。畳の上にお膳が二つあります。外が明るいので朝食でしょうか。向かいの席には正津勉がいたはずで、彼が席を立ってこの写真を撮ったのでしょう。

 以上でぽん太の分析は終了です。


 まとめます。

 会津西山温泉と中の湯に関連するつげ義春の作品は下記の8点。

 つげ義春、正津勉「桃源行」(初出:1977年(昭和52年)、雑誌「ポエム」に連載)
 [I-1] イラスト。中の湯の旧館。
 [I-2] イラスト。中の湯の浴室。
 [I-3] イラスト。只見線滝谷駅近くの集落。

 つげ義春「颯爽旅日記」(初出:つげ義春『つげ義春とぼく』晶文社、1977年(昭和52年))
 [S-1] 文章。「桃源行」の取材で、正津勉とともに中の湯に泊まった時の記録。

 つげ義春『つげ義春の温泉』カタログハウス、2003年(平成15年)
 [P-1] 写真。昭和46年5月。中の湯の玄関の内側。
 [P-2] 写真。昭和51年6月。中の湯の遠望。
 [P-3] 写真。昭和51年6月。中の湯の客室にいるつげ義春。

 つげ義春『新版 貧困旅行記』新潮社、1995年(平成7年)、新潮文庫。
 [P-4] 写真。只見線滝谷駅近くの集落で撮った、お面をつけた少女のいる風景。1971年(昭和46年)5月撮影。

 つげ義春が会津西山温泉中の湯に宿泊したのは3回。1回目は1971年(昭和46年)5月、2回目は1976年(昭和51年)6月16日、3回目の時期は不明。
 1回目の宿泊時、中の湯の玄関内の写真[P-1]が撮影された。また、途中の集落でお面の女の子がいる写真[P-4]を撮影した。
 2回目は、雑誌『ポエム』の連載の取材で、詩人の正津勉氏との二人旅だった。この旅の様子が「颯爽旅日記」に記載されている[S-1]。この時撮った写真が[P-2]と[P-3]。
 そしてこの取材旅行から「桃源行」のイラスト2枚[I-1]と[I-2]が描かれた。また、1回目の宿泊時に撮影した写真[P-4]を元にしたイラスト[I-3]も加えられた。

 以上で〜す♡

2015/03/29

【医は算術】一般の寄附を行っている個人事業者の、ふるさと納税の限度額は?

 ぽん太の「医は算術」シリーズ、今回が2回目です……たぶん。
 ふるさと納税。話題になってますね。なんでもたった2,000円の負担で、魚やら野菜やらふるさとの名産品やら温泉宿泊券がもらえるという制度だそうです(なんか間違って理解してる気がします)。
 細かい部分が難しそうですが、物は試しと、昨年山陰のどこにあるかもわからない某自治体に寄附をし、見事ズワイガニをゲットしました。美味しかったです。でも、いくら節税になったのか、よくわかりませんでした。
 そして気になるのは限度額。得をするためには納税額に限度があるらしく、それを超えると節税のメリットがなくなるそうです。しかし計算はなんだか難しそうで、ちまたに早見表のようなものもあふれてますが、「何人家族の月収いくら」というサラリーマン向けのものばかりで、ぽん太のような個人事業の場合の限度がよくわかりません。

 そこでググってみたところ、個人事業の場合に限度額を知ることができるサイトがありました。こちらの小西公認会計士事務所さまのサイトです。これを参考にしながら考えて、計算してみました。

 ♪ピンポ〜ン。以下の記述は、会計のかの字もしらないタヌキのぽん太がネットの情報を参考に考えたものですので、ぜんぜん違っている可能性もあるのでご注意を。うっかり信じ込んであなたが大損しても、ぽん太は責任を取りません。ネットは使用上の注意を守って正しく利用しましょう。

 ふるさと納税による控除の概要は、こちらの総務省のサイトのpdfファイルにも書いてあります。

都道府県・市区町村に対する寄附金(ふるさと納税)のうち2千円を超える部分については、一定の上限まで、原則として次のとおり所得税・個人住民税から全額控除される。
① 所得税・・・(寄附金-2千円)を所得控除(所得控除額×所得税率(0~40%(※))が軽減)
② 個人住民税(基本分)・・・(寄附金-2千円)×10%を税額控除
③ 個人住民税(特例分)・・・(寄附金-2千円)×(100%-10%(基本分)-所得税率(0~40%(※)))
→ ①、②により控除できなかった寄附金額を、③により全額控除(所得割額の1割を限度)
(※) 平成26年度から平成50年度については、復興特別所得税を加算した率とする。
 タヌキにもわかる言葉で書くと、ふるさと納税額のうち2千円は、お通し代だと思ってさしあげる。残りの(寄付金ー2千円)に関して、まず①の所得税は、(寄付金ー2千円)に収入などに応じた所得税率をかけた分だけ税金が安くなる。さらに②で、(寄付金ー2千円)の10%が安くなる。③はなんか複雑だけど、要するに(寄付金ー2千円)から①と②を引いた残りの分だけすべて税金が安くなる。
 ということは、①と②と③をあわせれば、(寄付金ー2千円)が全額税金から引かれるということではないか!わはははは、やったぜ!

 ところが、ここで注意すべきことは、上になにげに書かれている③が「所得割額の1割を限度」という言葉。これがふるさと納税額のリミッターになっているわけですね。
 ということで限度額を知るには、

(寄附金-2千円)×(100%-10%(基本分)-所得税率(0~40%))
  =住民税(所得割額)×10%

という方程式を解いていけばいいわけで、小西公認会計士事務所さまの計算によると、

Photo

となります。課税所得金額は、個人事業者なら確定申告書を見るとわかりますから、それから計算すると、ふむ、ふむ、ふむ、なるほどね……。額は秘密だよ。

 ところがぽん太の場合、自慢じゃないけど、福祉団体などに一般の寄附をしているのでさらに話しが複雑です(ほめて、ほめて)。一般の寄付金による控除に関しては、総務省のサイトに「ふるさと納税以外の寄附金税制」というページ(こちら)があります。
 これをじっと見つめてタヌキにも分かるように大雑把に言えば、要するにふるさと納税の①と②だけ。ただし②の「10%」という率が、どこが指定した寄付金控除かによって6%になったり4%になったりする。それから②の「寄付金」は「総所得金額等の30%を限度」と書いてるけど、もちろんぽん太はそんなに高額の寄附はしていないので関係なし。
 ここで大切なのは、③のリミッターはふるさと納税だけに関するものであり、一般の寄付金額がふるさと納税の限度額に影響を及ぼすことがない、というところ。

 ということで、結論としては、一般の寄付金による所得控除も含めて計算した課税所得金額から、小西公認会計士事務所さんの算出した表で限度額を計算し、用心のためにそれよりやや少ない額をふるさと納税すればいいようです。

 ふふふ、今年は何をもらおうかな?

より以前の記事一覧

無料ブログはココログ
フォト
2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31