国立博物館で開催された六波羅蜜寺展を観に行ってきました。特別展とコラボして総合文化展でも5躯の像が展示されておりますので、お見逃しにならないように。
京都の東山区にある六波羅蜜寺には、ぽん太とにゃん子は2回行ったことがあります。最初に訪れた時の記事が「【観光】夏を迎える京都(六波羅蜜寺、永観堂、戒光寺、泉涌寺、東福寺など)(2014/08/15) 」ですが、仏像のことはあんまり書いてありませんね。
こんかいの展覧会は、六波羅蜜寺の宝物館に展示されている仏さまたちがいらっしゃいました。なんでも六波羅蜜寺では、2022年5月末に新宝物館が開館するそうで、移転の機会を利用して本展覧会が開かれたと推察されます。
宝物館の仏さまが全員いらっしゃったのかどうかは、ちょっとぽん太の記憶力ではわかりませんが、同時に総合文化展で展示されている仏さまと併せて、ほとんどは来ているように思えます。秘仏の国宝・十一面観音立像は、残念ながら今回は出品されておりませんでした。12年に一度のご開帳なので、今度は2014年になるはずですが、もしかして今年の新宝物館開館に伴ってご開帳するかしら? マークしておかないと。
【展覧会】特別展「空也上人と六波羅蜜時」
【会場】東京国立博物館 本館特別5室(特別展)、本館11室(総合文化展)
【会期】特別展:2022年3月1日〜5月8日
総合文化展:2022年2月1日〜5月8日
【拝観日】2020年3月上旬
【観覧料金】特別展+総合文化展:一般1,600円 (※時間予約制です)
【関連サイト】
特別展 ・https://kuya-rokuhara.exhibit.jp(公式サイト)
・https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2129(東京国立博物館)
総合文化展 ・https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6642(東京国立博物館)
六波羅蜜寺 ・https://www.rokuhara.or.jp(六波羅蜜寺の公式サイトです)
【作品リスト】
・特別展作品リスト
・総合文化展作品リスト
【仏像】◎重文 (以下すべて六波羅蜜寺・京都 蔵)
◎空也上人立像 康勝作 鎌倉時代13世紀 お姿a お姿b
◎四天王像 平安時代10世紀(増長天のみ鎌倉時代13世紀) お姿a
◎薬師如来坐像 平安時代10世紀 お姿a
◎地蔵菩薩立像 平安時代11世紀 お姿a お姿b
◎地蔵菩薩坐像 運慶作 鎌倉時代12世紀 お姿a お姿b
◎閻魔王坐像 鎌倉時代13世紀 お姿a
夜叉神立像 平安時代11世紀 お姿
◎伝運慶坐像 鎌倉時代13世紀 お姿b
◎伝湛慶坐像 鎌倉時代13世紀 お姿b
◎伝平清盛坐像 鎌倉時代13世紀 お姿a お姿b
※お姿aは公式サイト、お姿bは六波羅蜜寺のサイトです。
総合文化展
司録坐像 江戸時代17世紀 お姿
司命坐像 鎌倉時代 13世紀 お姿
奪衣婆坐像 康猶作 江戸時代 寛永6年(1629) お姿
◎弘法大師坐像 長快作 鎌倉時代 13世紀 お姿
◎吉祥天立像 鎌倉時代13世紀 お姿
(この写真と以下の写真は、Wikipediaからのパブリック・ドメインのものです。)
さて、お目当ての空也上人立像は、押すなおすなの大混雑かと思いきや、7〜8人が囲んでいる程度でした。ガラスケース入りですが、間近で360度から見ることができました。運慶の4男・康勝による肖像彫刻の傑作です。どの方向から見ても美しいポーズ。細部も手を抜くところがなく、足の指の一本いっぽんまで細かく美しく作り込まれています。手足が細くて痩せているのは布教のため諸国を歩いたからでしょうか。「南無阿弥陀仏」の6字を意味する小さな阿弥陀仏が口から出ているという意匠も面白いです。前屈みの姿勢で、やや苦しそうな表情。「南無阿弥陀仏」という言葉を口にするまでの、修行や布教といった産みの苦しみを感じさせます。
なぜ空也の像が六波羅蜜寺にあるかというと、六波羅蜜寺を創建したのが空也だからです。若い頃から「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら諸国を遍歴し、社会事業を行っていた空也は、938年、京都で口自称仏を勧める活動を本格的に開始。951年には十一面観音像、梵天・帝釈天像、四天王像を造り、西光寺を建立しました。これが六波羅蜜寺の始まりです。当時の京都には疫病が蔓延し、鴨川の岸は遺体の捨て場になっていました。空也はこの十一面観音を車に乗せて引きながら、念仏を唱え、病人に茶を振舞ったそうです。このうち十一面観音と、増長天以外の四天王は、現在まで六波羅蜜寺に伝えられています [1][2]。
で、その四天王像(増長天だけは鎌倉時代の補作です)がこんかい出品されていました(秘仏・十一面観音はお出ましにならなかったのは、上に書いた通りです)。鎌倉時代の躍動感あふれるポーズとは異なり、平安時代らしく悠然と構えた像。お顔が小さめです。衣服や甲冑などが細かく丁寧に表現されていますが、彫りは浅めです。あと、天邪鬼を踏んづけていないですね。鎌倉時代の増長天も、他の三体の様式に合わせて作られてはいますが、どことなく鎌倉風の写実性が感じられます。
四天王に囲まれて安置されている薬師如来も平安時代の作ですが、空也の没後に比叡山延暦寺の僧・中信が977年に六波羅蜜寺と改名し、天台宗に改宗したときに作られた像とされ、ちょっと年代が下がります[2]。なんか独特のお姿で、肉髻(頭髪の盛り上がり)のくびれが浅く、ネパールの耳当て付きニット帽みだいです(わかるかな〜?)。唇は「マカロニほうれんそう」のきんどーちゃんのような(わかるかな〜?)おちょぼ口。薬壺を持つ左手は指先が内側を向いており、胸の高さの右手は親指と中指で輪をつくってます。なんでも「天台様式」が取り入れられているそうですが、ちょっとぐぐってみただけではよくわかりません。
地蔵菩薩がふたつ出品されており、比べてみると面白いです。ひとつは平安時代の立像、もうひとつは鎌倉時代に坐像です。
平安時代の方はとても優美な像で、定朝様というか、定朝の作と伝えられています。定朝は11世紀に活躍した仏師で、「和様」と呼ばれる優美な仏像の様式を完成させました。頭が小さくてすらっとした七頭身(?)のお姿。ちょっと眠たそうなお顔。腰から足にかけての斜めに走る衣の襞がとても繊細です。彩色・截金が施されているそうですが、截金はちょっと見つけられませんでした。左手に頭髪を持つのが独特で、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれているそうです。また『今昔物語』(巻17第21話、現代語訳はこちら→今昔物語集現代語訳)に登場することでも知られているそうです。
鎌倉時代の地蔵菩薩は運慶の作ですね。写実的で、両腕の微妙な空間構成、美しい青年のような表情、深く流れるような衣の襞など、見事な仏さまです。定朝と運慶の作品を同時に見比べられるとは、豪華ですね。
鎌倉時代の閻魔王坐像は、デフォルメされた迫力ある像。なんで六波羅蜜寺に閻魔大王像があるのかというと、この寺は京都の有名な葬送の地・鳥辺野(とりべの)の入り口にあることなどから、地獄信仰と結びついたようです。
運慶・湛慶親子の肖像彫刻と伝えられている2躯。運慶が生前に京都に建立した地蔵十輪寺という寺にから移されたと言われています。上の写真は運慶像ですね。ぽん太にとって運慶というと、眼光鋭く無口で、作仏に全てを捧げる修行者のようなイメージでしたが、なんかこの彫像の運慶は、ベラベラとようしゃべるオッサンみたいです。「頼朝はん。この仏さまええでっしゃろー。こっちのお寺にもうひとつ造りまへんか〜」などと営業していた感じがします。
伝・平清盛像は、これもまた恰幅が良くて傲慢なぽん太のイメージとは異なり、痩せていて神妙に経典を読んでおります。でもお顔が、菅元総理というか(わ〜ごめんなさい)、何か良からぬことを企んでいる気がします。
なんで平清盛像が六波羅蜜寺にあるのかというと、平安末期、この寺の周囲に六波羅殿と呼ばれる平家の大邸宅群が建てられ、その中には平清盛の館もありました。1183年、平家都落ちの際に焼け落ちましたが、鎌倉時代になってその跡地に、朝廷監視のための六波羅探題が置かれました。
さて、上に書いたように、六波羅蜜寺の宝物館の所蔵品の一部は、総合文化展(いわゆる常設展みたいなものですね)に出品されています。見逃さないようにご注意ください。
弘法大師像は、快慶の弟子の長快の作。慶派の立派な像ですが、運慶の躍動感や、会計の優美さには欠ける気がします。長快の現存作は、これ以外にはパラミタミュージアムの十一面観音立像だけです。
吉祥天というと、見目麗しいお姿が頭に浮かびますが、この像はぷっくり(でっぷり?)していて、お顔もそこらのおばさん風、腰の帯の上にお腹の脂肪がはみ出てます。癒し系か? ちょっとぐぐってみましたが、どうしてこのような像容なのか、他にもこのような吉祥天の像容があるのか、ちとわかりませんでした。
司録、司命(しみょう)、脱衣婆は、地獄信仰に関するキャラクターですね。地獄信仰は、仏教に取り込まれたヒンズーの神々が、中国で道教と習合・発展したものが、さらに日本に伝わってから独自の変化をしているようで、複雑すぎてぽん太にはよくわかりません。
司録、司命は、地獄の裁判官閻魔大王の書記官のような存在で、功徳を読み上げたり判決を記録したりする役目だそうです。閻魔大王の左右に眷属のように配置されることが多いようです。元々は道教に由来するそうで、唐風の服装をしています。巻物や筆、名札を持っていますが、変化が多いようです。
六波羅蜜寺の像は、司命が右手に筆、左手に巻物を持っています。鎌倉時代らしく、写実的で空間構成が見事です。司録は持ち物が失われていますが、巻物を広げて読んでいるように見えます。江戸時代のもので、お腹から下半身のあたりなど、様式的で簡略化されております。
脱衣婆(だつえば)は、死んだ人間が最初に会う地獄の官吏で、三途の川のほとりに立ち、亡者の衣服を剥ぎ取ります。剥ぎ取られた衣服は大樹に掛けられ、そのしなり具合で罪の重さがわかるのだそうです。
本像は、康猶(こうゆう)作の命があります。康猶は江戸初期の仏師で、東寺(教王護国寺)大仏師。奪衣婆の像は、胸をはだけてスルメおっぱいを露出した怪異な姿をしておりますが、たしかにこの像は、ちゃんとした技術を持った人が、素朴でデフォルメされた姿を表現した感じがします。
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