カテゴリー「仏像」の188件の記事

2022/05/08

【仏像】奈良国立博物館の仏像を東京で見れました「SHIBUYAで仏教美術」松濤美術館

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 渋谷の松濤美術館で開催している「SHIBUYAで仏教美術」に行ってきました。奈良国立博物館の仏教美術コレクションからの展示のようです。仏像は6点のみでしたが、ふたつの重文も含まれ、なかなか見に行くことができない奈良国立博物館の像を東京で見れるのはありがたいです。

【展覧会】SHIBUYAで仏教美術 ー奈良国立博物館コレクションより
【会場】松濤美術館
【会期】2022年4月9日〜5月29日
【拝観日】2020年4月下旬
【入館料】一般1,000円
【公式サイト】・https://shoto-museum.jp/exhibitions/195nara/
【作品リスト】・作品リスト.pdf
【仏像】◎重文 番号は作品リストの番号
 7  不動明王立像 銅造 鎌倉時代 文永6年(1269) お姿
◎8  如意輪観音菩薩坐像 木造 平安時代(9〜10世紀) お姿
 52 観音菩薩立像 銅造 飛鳥時代(7世紀) お姿
 53 観音菩薩立像 銅造 奈良時代(8世紀) お姿
◎54 薬師如来座像 銅造 奈良時代(8世紀) お姿
 55 毘沙門天立像 木造 彩色・截金 鎌倉時代(13世紀) お姿

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 東京に長く生息するぽん太ですが、松濤美術館に行ったのは生まれて初めてです。神泉駅近くの住宅街の中にいきなり写真のような建物があってびっくりします。

 設計はどなたでしょう? 公式サイトに白井晟一(しらいせいいち)と書いてあります。知らんがな。困った時のWikipediaを見てみると、1905年生まれ、1983年死去。独特な作風や言説から「哲人建築家」「異端の作家」などとも称されたとのこと。作品リストを見ても、知ってる建物がありません。ノアビルとかは有名ですが、タヌキのぽん太には麻布台は出没範囲外なので、見たことがありません。

 あ、見たことあるのがありました。1954年竣工の群馬県前橋の本屋・煥乎堂(かんこどう)ですが、現存していないようです。1992年(平成4年)に白井晟一設計の旧店舗の向かいに新店舗がオープン。旧店舗は2005年に取り壊されたそうです。ぽん太が前橋に生息していたのは1970年台で、煥乎堂は足繁く通っていましたが、そんなすごい建築だとは知りませんでした。玄関に読めない横文字が書かれていた記憶はありますが、当時はネットもない時代で調べる術もなく、「QVOD PETIS HIC EST」(もとめるものはここにある) というラテン語だったようです。

 松濤美術館は1980年に竣工、1981年に開館したとのこと。区立の美術館でこのような建物を作ったのは偉いですね。でもなんか運営がお役所っぽいというか、もっと魅力的な空間にできるような気もします。

 で、仏像の感想に移ります。1階の展示場には1躯のみ。不動明王像(7)。40cm余りの銅造で、腰がきゅっとくびれて、全体に細身。憤怒の表情もちょっと男前です。迫力や躍動感よりも美しさが勝っています。

 2階には5躯の仏像があります。一番大きくて目を引くのは、如意輪観音菩薩坐像(2)。ふつ如意輪さまというと、しなやかでちょっと優美な像を思い浮かべますが、この像はどっしりとして圧迫感があり、暑苦しいです。お顔がでっかく、太い胴体も直立しています。下半身はなんか華奢。表情も、怪しい切長の目におちょぼ口。おまけに眉毛は繋がっていて、ウズベキスタンか「鎌倉殿の13人の」巴御前か。定朝様以前の力強さと迫力が感じられる像で、さすが重要文化財です。

 もうひとつの重要文化財は、銅造の薬師如来坐像。こちらは奈良時代の作で、伸びのびしておおらかです。像高は40cm弱ですが、台座があるので総高は50cm。衣が垂れ下がって台座を覆い、その布の下に蓮弁の形が浮き上がっている様子が美しいです。どんなに薄い衣なんだ! 仏の世界の布でできているんでしょうね。パンパンに膨らんだお顔はちょっと微笑んでいるか? 螺髪がないのはなぜでしょう。

 約30cm大の飛鳥時代と奈良時代の銅造観音菩薩立像が並んでいます。飛鳥時代の方は(52)、伸びやかで可愛らしい白鳳仏。ほっそりしたスタイルで、冠や飾りも美しいです。右手をお腹あたりに当て、瓔珞(ようらく)を指で挟んでいるのが珍しいです。なんか宝石を自慢してるみたいで可愛いですね。

 奈良時代の方は(53)、装身具や大きい手足など白鳳仏に倣ったお姿ですが、がっしりした体型や、装飾品の細かな表現、きりっとした表情など、時代が下った感じがします。右手で小さな宝珠を持っています。二つの像を見比べると面白いです。

 最後は鎌倉時代の毘沙門天像(55)。像高約80cmで、リアルで整った美しい像で、彩色も残っています。どっしりと立ち、天邪鬼を踏みしめてます。躍動感はないですが、内からパワーがみなぎってくる素晴らしい像でした。

2022/05/07

【仏像】甲斐善光寺御開帳で御本尊善光寺如来を拝観

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 ぽん太とにゃん子の六善光寺ご開帳巡り、2ヶ所目は甲斐善光寺です。

 甲斐善光寺は、2016に訪れたことがありますが、その時はもちろん秘仏御本尊を拝観することはできず、仏像は宝物館だけでした。7年に1度の御開帳ですが、着いたのが夕方4時ごろだったこともあり、閑散としておりました。

【寺院】甲斐善光寺 (常額山浄智院善光寺) 浄土宗
【住所】山梨県甲府市善光寺3-36-1
【拝観日】2022年4月下旬
【拝観】御開帳期間:2022年4月3日〜6月29日
    御開帳参拝共通券:一般500円
【関連サイト】
・甲斐善光寺公式サイト:http://www.kai-zenkoji.or.jp/index.html
【仏像】◎重文 ◯県指定 □市指定
本堂
◎御本尊善光寺如来(銅像阿弥陀如来及両脇侍立像) 鎌倉時代 お姿

本堂裏側
 笑い閻魔

宝物館
◎阿弥陀三尊像 藤原時代 お姿
 光背の飛天2躯
◯源頼朝像 鎌倉時代 お姿
□源実朝像 鎌倉時代
□蓮生法師直実像 鎌倉時代 
□玄和居士像 鎌倉時代
□本田善光像 室町時代
□本田弥生像 室町時代

 江戸時代:重源上人像、鬼子母神像、大日如来坐像、地蔵菩薩像、阿弥陀三尊像、善導大師像、法然上人像、聖観音像、聖観音像、聖徳太子(孝養)像、聖徳太子(二歳)像、小野小町像、釈迦涅槃仏像
 桃山時代:役行者像

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 さて、まず本堂の御本尊善光寺如来を拝観。やはりよっと離れたところからの拝観となりますが、信州善光寺と違って仏様が大きいです。中尊は等身大よりひと回り小さいくらい? 信州善光寺では仏様の細部がほとんどわからなかったですから、甲斐善光寺の方のこの大きさはありがたいです。

 金銅ではなく銅像なので、チョコレート色に光ってます。信州の方は3体とも細身で棒のように立っている感じですが、甲斐の方はふっくらして、表情やプロポーションが写実的です。信州の脇侍は円筒形の冠をつけ、両手を胸の前の高いところで合わせていますが、甲斐の方はニット帽のようなかぶりもので、両手も自然にお腹のあたりで印を結んでいます。同じ鎌倉時代の作とはいえ、信州の方が恐らく本来のご本尊の姿を写したのだとすれば、甲斐の方は古めかしさを保ちながらも鎌倉時代らしい造形となっています。像の後側はフラットな銀色の背景となっており、模様や化仏はありませんでした。一光三尊式の光背があるのかどうか、よくわかりませんでした。

 信州善光寺の記事にも書いたように、甲斐善光寺では次のように伝えられています。信州の御本尊とお前立は、川中島の合戦の後、武田信玄によって甲斐に移され、甲斐善光寺が建立されました。武田氏滅亡の後、こんどは織田家によって御本尊は岐阜に持ち去れれましたが、お前立は甲斐に残されました。それが現在の甲斐善光寺の御本尊善光寺如来であり、つまりこの像は元々は信州善光寺のお前立だったそうです。

 左脇侍の足裏に建久6年(1195年)の銘があるそうです。この年は善光寺の僧定尊が夢のお告げによって等身大模造を造顕する年にあたるので、この像がそれであるとも言われています。

 さて、御本尊を見た後は、鳴き龍体験をして、戒壇廻りへと移りますが、戒壇廻りの入口は、信州善光寺は内陣の袖にありましたが、甲斐善光寺は内陣の裏側から入ります。内陣の左側から裏へ回り込むのですが、読売新聞の記事にあるように、ここで絹製の仏具が燃える事件があり、火の気がないことから放火も疑われました。

 本堂裏側にいろいろな仏像が置かれておりましたが、「笑い閻魔」に目が止まりました。文字通り笑っている閻魔で、栃木県益子町の西明寺は笑い閻魔で有名ですね。

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 続いて本堂の西側にある宝物館を見学。たくさんの仏像が安置されていますが、藤原時代の重文の阿弥陀三尊像が一押しです。いわゆる定朝様の仏さまですが、丸いお顔に圧迫感が感じられ、ちょっと傷んでいるせいもあるのか、優美さよりちょっと迫力を感じさせます。元々の光背にあったという飛天も2躯展示されています。

 ちなみに甲斐善光寺には、少し時代が下って12世紀後半の重文阿弥陀三尊もありますが、こちらは非公開となってます。

 ついで、山梨県指定文化財の源頼朝像。ぽん太にはなじみのない像ですが、いまでは学校の教科書に頼朝像として載ってるんですってね。ぽん太の頃は神護寺の像(画像)でした。文保3年(1319)の銘があり、製作年か修理年かわかりませんが、いずれにしても最古の頼朝像だそうです。あんまり大泉洋には似てません。元々は信州善光寺にあったもので、御本尊と一緒に甲斐善光寺に持って来られたと考えられています。信州善光寺と頼朝につながりがあるの?という疑問が生じますが、頼朝は当時荒廃していた信州善光寺の再建を行い、1191年に再建供養を行ったそうです。大河ドラマで出てくるかしら?

 頼朝像とセットの実朝像もあります。

 蓮生法師直実像も、信州善光寺から来た像。「蓮生法師直実」と聞いても一般には「誰それ?」という感じでしょうけど、歌舞伎ファンには「一谷嫩軍記」で有名です。熊谷直実は平安末期から鎌倉時代の武将で、頼朝方について源平合戦を戦いました。しかし戦に明け暮れる毎日のなか無情を悟り、出家して法然上人の弟子となりました。直実の肖像彫刻を見るのはぽん太は初めてです。この像も信州善光寺から移されたものですが、なぜ信州善光寺と熊谷直実が関係があるのかよくわかりませんが、直実が信州善光寺を参詣したという言い伝えもあるそうです。

 玄和(げんな)居士像は、鎌倉時代の作で、やはり信州善光寺から移されたもの。僧形の像で、胎内に「甲斐国/玄和居士之像」という銘がありますが、どういう人物かもわからず、後付けだろうと考えられているそうです。

 本田善光(ほんだ よしみつ)とその妻・弥生の像もありました。本田善光は、「善光寺」の名前の由来となった人物。難波に打ち捨てられていた阿弥陀如来像を持ち帰り、信濃の地で祀りました。のちにそこに寺院が建立され、善光(よしみつ)の名にちなんで「善光寺」(ぜんこうじ)と名付けられました。

 その他、江戸時代を中心としたたくさんの仏像があり、上に挙げておきましたが、ぽん太のメモをもとに書いたので、細かいところが違っていたらご容赦を。

2022/05/06

【仏像】放光院長楽寺の秘仏御本尊・聖観世音菩薩が御開帳

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 高速の姨捨サービスエリア内に貼ってあったポスターから情報を得て、長野県千曲市にある長楽寺の御開帳に行ってきました。

【寺院】長楽寺  放光院姨捨山 (天台宗)
【住所】長野県千曲市八幡4984
【期間】2022年4月9日〜5月8日
【拝観日】2020年4月下旬
【拝観料】無料
【関連サイト】信州千曲観光局 https://chikuma-kanko.com/2022-02-25/post-32317/
  (公式サイトはありません)
【仏像】
 聖観世音菩薩(秘仏御本尊)

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 千曲川を望む高台にあります。茅葺き屋根で、ちょっと鄙びた曲がり屋風ながら、瀟洒で風流な建物です。

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 製材されていない梁を使ってますが、それがいい味になってます。

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 ご本尊の撮影は禁止ですが、上の写真の撮影はOKとのこと。善光寺の御開帳と同時期で、回向柱も立っていると、また善光寺式阿弥陀三尊かと思いますが、長楽寺の秘仏は聖観音菩薩さま。足を一歩踏み出し、腰をかがめ、蓮華台を捧げ持っています。このポーズは、来迎形式の阿弥陀三尊像の、向かって右の脇侍ですね。例えばこちらの写真の京都聞名寺の阿弥陀三尊像をご参照下さい。そっくりでしょう? 来迎形式とは、我々が亡くなったときに阿弥陀様がお迎えにくる時のお姿です。

 大きさは50cmくらいでしょうか。内陣の真ん中に厨子に入れずに置かれていて、内陣まで入って間近で拝むことができます。細身でしなやかで美しいプロポーション、衣類の表現も細かく丹念です。こんな仏さまがお迎えに来てくれるのなら、死ぬのもあんまり怖くないですね。

 額縁には「伝 善導大師作」と書かれていますが、善導は中国浄土宗の僧で7世紀ごろの人。そんなに古いとは思えません。ぽん太の印象では、鎌倉後期から室町時代の作のような気がします。

 また額縁には、昭和50年の修理落慶記念として、明治5年以来秘仏とされていた本尊の御開帳をしたときの写真だと書かれています。以前はほとんどお目にかかることができなかった仏さまなのですね。今回お会いできてありがたい限りです。

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 本堂の斜面側に付随した建物は「月見堂」と呼ばれています。窓からは千曲川周辺の平地を一望できます。姨捨は平安時代から観月の名所とされてきました。『古今和歌集』の読み人知らずの歌、「わが心慰めかねつさらしなや 姨捨山に照る月を見て」は有名ですね。また西行も「隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき」と詠んでいます。

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 近世以降は棚田が作られるようになり、その水面に映る月は「田毎の月」と呼ばれるようになりました。写真は長楽寺の東に広がる棚田ですが、残念ながらまだ水が張られていません。

 芭蕉は、『奥の細道』の旅の前年の1688年(元禄元年)、信州更科へ名月を見る旅にでかけました。岐阜から木曽路を経て更級に到着、善光寺を参詣し、碓氷峠を経て江戸に帰りました。そのときに詠んだ「俤や姥ひとり泣く月の友」(おもかげや うばひとりなく つきのとも)は、姨捨伝説を踏まえた句で、「捨てられた姥がひとりで泣きながら月を見ていたという、そのおもかげを思いながら、今宵は月を友としよう」といった感じ? また「十六夜もまだ更級の郡哉」(いざよひも まださらしなの こほりかな)は、「十五夜を過ぎて月が欠け始めているというのに、名月に心を奪われて更級を去ることができない」といった感じでしょうか。

 こちらのサイトには、歌川広重が描いた「田毎の月」の3点の浮世絵の画像があります。2毎目と3毎目には、今と変わらぬ長楽寺が描かれています。棚田の一つひとつに同時に月が映るということは、よっぽど遠くから望遠で見ないとありえないと思いますが、心の中の風景ですね。

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 こちらは観音堂。巨岩のよこにあり、宙に浮いているかのような建物ですね。

2022/05/03

【仏像】善光寺がコロナで1年遅れの秘仏前立本尊の御開帳

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 善光寺のご開帳に行って参りました!

 ご開帳は数えで7年毎ですから、6年に1度ですね。本当は昨年行われる予定でしたが、コロナ禍で中止。今年は蜜を避けるために通常57日間の公開期間を88日間に伸ばすなど、感染対策に万全を期した上での開催となりました。

 ご開帳は信州の善光寺に留まらず、山梨、岐阜、愛知に位置する六善光寺でのご開帳となります。またそれにともなって他の様々なお寺でもご開帳が行われます。還暦を超えたぽん太もは6年後に見れると言い切れないので、この機会を逃すことはできません。

【寺院】善光寺 (常額山)
【住所】長野県長野市大字長野元善町491-イ
【拝観日】2022年4月上旬
【拝観】御開帳期間:2022年4月3日〜6月29日
    御開帳参拝共通券:一般1,200円、前立本尊・お戒壇巡り参拝券:一般500円
【関連サイト】
・善光寺公式サイト:https://www.zenkoji.jp
・善光寺公式サイト、ご開帳のページ:https://www.zenkoji.jp/gokaicho-info/
 ※ホームページで混雑状況などが公開されておりますので、蜜を避けてのご参拝を。
【仏像】◎重文
本堂
◎金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)お姿

世尊院釈迦堂
◎銅像釈迦涅槃像 鎌倉末期

山門
 文殊菩薩起騎獅像
 四天王像
 菩薩立像? お姿
 弘法大師坐像? お姿
 四国四十八ヶ所仏像?

善光寺史料館 お姿
 阿弥陀三尊像 平安時代
 薬師如来坐像 平安時代
 阿弥陀如来像
 周防得像

経蔵
 傅大士と二子像

大勧進宝物館
 定朝作善光寺式阿弥陀如来

 

 こんかい善光寺で秘仏公開されるのは「前立本尊」。仏像ファンからすると、これはちょっとレアなケースです。

 ご本尊(そのお寺の信仰の中心となる仏像)が秘仏(通常は公開されない設定)の場合、多くは厨子(仏さまを安置する箱)の中に収められ、扉が閉められています。でも通常お参りするときに閉められた厨子に向かって拝んでもありがたみが少ないというか、イメージがわかないので、秘仏を模した仏像である「前立」(まえだち。お前立、前立仏とも言う)が厨子の前に置かれるわけです。つまり普段は前立を拝み、ご開帳の時は秘仏ご本尊を拝むわけですね。ところが善光寺では、前立もまた秘仏になっており、ご開帳されるのは前立です。ご本尊は「絶対秘仏」で決してご開帳されないどころか、住職や僧侶ですら見ることができません。

 善光寺の御本尊やお前立はいつ頃どのような理由で秘仏になったのでしょうか。

 紹介|善光寺公式サイトを見ると、『善光寺縁起』によれば、ご本尊は552年の仏教伝来のときに日本にもたらされたものであり、従って日本最古の仏像となるそうです。本田善光(よしみつ)が信濃にお連れし、642年に現在の地に遷座されました。664年に伽藍が造営され、善光の名前をとって善光寺と名付けられました。またご開帳とは|善光寺公式サイトには、ご本尊は654年に秘仏となり、お前立は鎌倉時代に作られたと書かれています。内々陣|善光寺公式サイトには、本堂の最も奥にある内々陣の向かって左側に瑠璃段があり、そこに御本尊が内厨子(うちずし)に収められて安置されているそうです。手前には龍が描かれた戸張(とちょう)が掛けられており、参拝者が内厨子を見ることはできません。上に書いたように、普通だとここにお前立が置かれるわけですが、善光寺のお前立は山内の寺院「大勧進」の御宝庫に収められており、ご開帳の時だけ善光寺本堂に移されるのです。

 善光寺公式サイトに書かれているとはいえ、言い伝えや、信仰上の解釈も混ざっているでしょうから、全部が事実とは限りません。でも、大まかな流れはわかりますね。それでも色々と疑問が残ります。

 ご本尊が作られたのは本当にそんなに古いのか?ーー善光寺式阿弥陀三尊 - Wikipediaによると、中国の南北朝時代(439年〜589年)に似たような仏像が作られていたそうで、特に上海博物館にある石造漆金仏坐像(546年)は善光寺如来の非常によく似たお姿だそうです。仏教伝来のときに伝わったかどうかは別にして、その頃の時代のものである可能性は高そうです。

 ご本尊が秘仏になった理由は?ーーネット上では、信州長野善光寺参りというサイトに、『善光寺縁起』に、如来の宣託を受け、つまり自身のお告げにより秘仏化したと書かれています。『善光寺縁起』はこちらのサイト(信州デジタルコモンズ)で見ることができ、巻第5の4章(7ページ)に秘仏となったいわれが書かれているようですが、ぽん太には読めません。現代語訳もあるようなので、手に入れて読んでみたいと思います。

 秘仏ご本尊を見た人はいないの?ーー善光寺式阿弥陀三尊 - Wikipediaに、「偽物出現により、1692年12月14日に柳沢吉保の仲介で、敬諶が秘仏の善光寺本尊を検分・報告している『善光寺由来記』。」と書かれています。『善光寺由来記』は善光寺由来記|国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますが、63ページには、頼朝が拝観したことが『古今著聞集』に書かれてあるとし、また元禄年間にはご本尊がいつの間にかいなくなってしまったという噂が流れたため、元禄5年にご開帳して確かめたことが、善光寺の古記に記されていると書かれています(64ページ)。しかしWikipediaに書かれているような記載は、ぽん太は見つけられませんでした。『善光寺由来記』もいろいろあるのでしょうか? また、レファレンス協同データベースによれば、江戸以降秘仏御本尊を鑑定・修理した記述は見つけられなかったとしたうえで、『信州善光寺案内』(善光寺事務局監修、しなのき書房、2009)によれば、元禄5年(1962)に幕府が見仏使の敬湛(けいたん)を派遣して調査し、厨子を開けて御本尊を確認したと伝えられ、これが御本尊を見た最後といわれている、と書いています。Wikipediaはこれと間違えたのかな? ということで、秘仏御本尊を見た人がいるかどうかは、よくわかりませんね。

 お前立が鎌倉時代に作られたのは本当か?ーー国指定文化財等データベースには、鎌倉時代の作と書かれています。しかし重文指定年月日を見ると1906年(明治39年)となっており、1897年制定の古社寺保存法の時代に国宝指定されたものです。この当時、どこまで制作年代の特定を厳密に行なっていたかは疑問も残ります。

 現在の前立は、いつからお前立となり、いつから秘仏になったの?ーー甲府にある甲斐善光寺の言い伝えでは、川中島の合戦の後、武田信玄は善光寺のご本尊とお前立を甲斐に移し、甲斐善光寺を建立しました。武田氏の滅亡後、ご本尊は織田によって岐阜に持ち去れらましたが、その時お前立の方は甲斐に残され、後に甲斐善光寺のご本尊とされました。つまり、信濃善光寺の当初のお前立は、現在の甲斐善光寺の御本尊であると言います。しかしこれは、甲斐善光寺側の主張なので、本当かどうかわかりません。しかしながら、信州善光寺のお前立が、いつ頃からお前立になり、そしていつ秘仏になったかについては情報がないのも事実です。

 いろいろと講釈が長くなりましたが、前立御本尊のご開帳の感想。こんかい本堂の内陣にまで入って拝むことができます。連休前の雨の平日だったせいか空いていて、ほとんど待たずに見ることができました。し、しかし……。内々陣の奥の厨子のなかにある前立ご本尊は、遠いです。黄金色の輝きを放っていますが、仏さまのお姿は目を凝らしてなんとなく見えるくらい。双眼鏡を持って来ればよかった。ということで、「この目で見れた」という感動だけをいただき、細かいお姿は写真で見るしかないようです。

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 続いて山門の見学です。

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 急な階段を登っていくと、回廊から周囲の景色を眺めることができます。こちらは本堂側。

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 こちらは仲見世方面ですね。両側にお店や、宿坊が並んでいます。

 上層にはいくつかの仏像が置かれています。四天王を従えた文殊菩薩騎獅像、妙なプロポーションの菩薩像、四国四十八ヶ所の仏像などが安置されておりますが、確か江戸期のもので、あまり見応えはないです。

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 忠霊殿は、コンクリート造りの三重の塔。基壇の中に「善光寺史料館」があります。平安時代の阿弥陀三尊像と薬師如来像、快慶様式の阿弥陀如来像、周防得業像などがあったような気がしますが、あまり覚えていません。直径1m以上の懸仏がいくつかありましたが、それぞれがジオラマ風になっていて、なかなか迫力がありました。

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 経蔵は重要文化財の優美な建物。中に輪蔵(回転式の経蔵)があり、一周回すと全てのお経を読んだご利益が得られます。善光寺の輪蔵は、重要文化財でありながら、参拝者が実際に押して廻すことができます。入り口には、輪蔵を発明した中国の傅大士とその二子の像がありますが、これはお決まりですね。

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 大勧進の宝物館が無料公開されているので入ってみました。書や絵も多いですが、仏像もいくつかありました。室町や江戸の小さめで端正な仏像が多かった気がします。なかに「定朝作」というキャプションの善光寺式阿弥陀三尊がありましたが、ちょっと作風が違うかな〜という感じでした。

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 参拝の順序からご紹介が最後になりましたが、仲見世の真ん中あたりから東にちょっと入ったところにある世尊院釈迦堂の釈迦涅槃像を見逃す手はありません。国指定の重要文化財です。

 布団を何枚も敷いて横たわっています。正面から見るとちょっと遠く、右に回り込むと足が見えず、左に回り込むと頭が見えません。ちょっと細かいところまではわかりませんでした。右手で頭を支えており、鎌倉以降でよく見られるお姿。涅槃像としては、銅像で、等身大のものは珍しいそうです。

2022/04/29

【神像】重文を含む神像群は必見!・特別企画展「箱根神社の御神像」箱根神社宝物館

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 久々に箱根神社を訪れたところ、宝物館で神像の特別展が開かれておりました。「箱根神社神像群」と呼ばれる神像8体のうち7体が公開されているとのことで、当然重要文化財も含まれております。

 前回訪れたのは2016年10月末。その時の記事はこちらです(【神社】万巻上人坐像(国重文)箱根神社(神奈川県箱根町)2017/05/13
)。その時万巻上人にお会いしたのは覚えてますが、神像を見たかどうかは、認知症の入り口に立つぽん太には定かではありません。

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 当日は春休みで天気も暖かく、平日だというのに箱根神社は家族連れで賑わっておりましたが、宝物館は我々以外に二組の見学者しかおりませんでした。

【展覧会】特別企画展「御鎮座1265年特別公開 箱根神社の御神像 ー信仰と歴史ー」
【会場】箱根神社 宝物館
【住所】神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1
【拝観日】2022年3月下旬
【拝観】大人500円
【公式サイト】・https://hakonejinja.or.jp/hakone/#link_05
【仏像】◎重文 ◯県指定
箱根神社神像群
◎男神坐像 木造 彩色 平安時代 お姿
◎女神坐像 木造 彩色 平安時代 お姿
◯女神立像 木造 彩色 鎌倉時代 お姿
◯男神坐像 銅鋳造 鎌倉時代 お姿
 僧形神立像 木造 彩色 鎌倉時代
 男神立像 木造 彩色 鎌倉時代
 女神立像 木造 彩色 鎌倉時代

 柿本人麻呂像 木造 室町時代

常設展
◎万巻上人坐像 平安時代 お姿
 役行者像・前鬼像・後鬼像
 親鸞聖人像

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 第一駐車場の近くにある宝物館です。2007年の新築。あんまり風情はありませんね。でも中身はけっこうすごいです。こちらの有隣堂のサイト([座談会]箱根神社とその遺宝 −秘蔵されていた平安時代の神像を初公開−)、宝物館ができた時の座談会で、とても興味深い内容なので、一読をお勧めいたします。

 箱根神社は、奈良時代の757年、万巻上人(まんがんしょうにん)によって創設されました。箱根山に入峰した万巻上人は、箱根の最高峰・神山の三神、比丘(びく)形(僧形神)、宰官(さいかん)形(男神)、婦女(ふじょ)形(女神)を祀る社殿を造営し、「箱根三所権現」と消しました。以後、さまざまな時代に、信仰の対象となる神像が作られました。

 現在は8体の神像が伝えられております。今回公開されている8体から柿本人麻呂像を除いた7体と、今回公開されなかった室町時代前期の木造男神像1体の、計8体です。

 平安時代の男神坐像・女神坐像は重要文化財。お顔が似ていて同一の作者により、構造から11世紀頃の作と考えられるそうです。男神の鼻が高いことから外来神の特徴が伺えるそうです(文化財オンライン)。高貴で端正な素晴らしい像ですね。ぽん太は、なんか天皇陛下とお顔の雰囲気が似ているような気がします。体の表現が同時代の仏像に比較して大雑把なのは、下手なわけでも手を抜いたわけでもなく、もともと神様というものが姿形のないおぼろげなものだからですね。

 神奈川県指定文化財の鎌倉時代の女神は、プックラしたおばさんが片袖を頭にかぶってます。なんか能だか神楽だかでこんなポーズを見たことある気がするのですが、ぐぐっても見つかりません。

 鎌倉時代の銅像の男神坐像は、ちまちまっとしたお顔に、眉毛や唇の紅の彩色が残っていて、ちょっと嫌ったらしい貴族みたいな雰囲気です。

 残りの鎌倉時代の僧形神、男神、女神はよく似たお姿で、三体で祀られていたと思われます。リアルでありながら、ちょっと素朴な像。

 威厳や厳しさ、崇高さを感じさせる仏像と違い、なんかここの神像はほっこりしていて心が安らぎますね。

 さて、箱根神社神像群には含まれませんが、柿本人麻呂像は、片膝立てて足を崩し、ツンと上を向いたちんちくりんのおっさん。なんでこんな格好をしているのかと思いましたが、ぐぐってみると、人麻呂像は絵も彫刻もみんなこんな感じ。なんでやねん。よくわかりません。

 ただ一つ残った室町時代の男神立像、なぜ今回は公開されなかったのか……。ぼろぼろなのでしょうか? いつかお会いしたいです。

 2Fの常設展に行き、まず重文の万巻上人に再会。福禄寿みたいに頭が大きく、上体が細身ですっくと立ったお姿ですが、キャラが立ってます。このお方のおかげで今の箱根がある。ありがたい限りです。

 役行者像・前鬼像・後鬼像は、室町だか江戸だかの作で、頭巾をかぶり脛を出した定型的なお姿。前鬼・後鬼は両方とも男の姿で、持ち物も失われたのか、もともとないのか、ありません。お口は阿吽になってますね。

 親鸞聖人像は、聖人自作の像と伝えられているそうですが、表情も衣服もちょっとつたない感じ。

2022/04/07

【登山】高尾山で初めて見たスカシダワラ(クスサンの繭)と福徳弁財天洞

 3月中旬のある日、ぽん太とにゃん子は、運動不足解消のために高尾山に出かけました。

 

【山域】奥多摩・高尾
【山名】高尾山(599.3m)
【登山日】2021年3月中旬
【天気】晴れ
【登山者】ぽん太、にゃん子
【コース】高尾山口駐車場11:57…(稲荷山コース)…13:34高尾山14:21…14:47高尾山薬王院15:01…15:14霞台園地…15:36琵琶滝…16:07高尾山口駐車場

 さて、登山口に立ってどの登山道を使おうかと思案。4月中旬並みの暖かい日だったので、平日とはいえハイカーも多かろうと思い、道幅の広い稲荷山コースを選びました。

 でも当日の暖かさとは裏腹に、花は全く咲いておらず、スミレの一輪もありませんでした。これまで寒い日が続いていたので、急に咲けといわれても、花の方も準備ができていなかったのかもしれません。

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 にゃん子が不思議なものを発見! ぽん太も初めてです。

 木の枝についた、落花生ほどの大きさのカゴのようなものです。なんか気持ち悪る。昆虫系かしら、それとも蔓性植物の実か何か?

 帰宅してから調べてみると、クスサンという蛾の繭で、スカシダワラという名前がついているそうです。「クスサン - Wikipedia」によれば、7月前半ごろに繭が作られ、9月〜10月に羽化するそうです。どこかに穴が開いていて羽化した後なのか、羽化する前に死んでしまったものなのか、よく見なかったので今となってはわかりません。

 それにしても現代芸術のような見事な造形ですね。にゃん子えらい! よくぞ見つけた。

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 山頂は、高校生だか大学生だかの団体がいて、けっこう混んでました。晴れですが雲が多く、富士山は見えなくて、みんな残念がってました。適当な場所を見つけて昼食をとりました。

 帰りは、これまで歩いたことがない道ということで、3号路と1号路の間あたりにある、薬王院に至る道を選択しました。道自体は山頂に至る資材運搬用の車道という感じで趣きはなかったのですが、思いがけない発見がありました。

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 それがこれ! この道は高尾山薬王院の裏手に降りてくるのですが、そこに「福徳弁財天洞」というものがありました。多摩地区に生息するぽん太とにゃん子は、これまで数えきれないほど高尾山に登っておりますが、こんなスポットがあるとは知りませんでした。

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 石段の向かって左に、新しそうな石像があります。琵琶を弾く女性、弁天様(=弁財天)ですね。隣にある案内板によると、この洞窟の中には弁財天が安置されていましたが、いつの時か無くなっていました。薬王院の27世範秀僧正が昭和天皇の即位を記念して、昭和元年に新たに弁財天像を造って安置したとのことです。

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 ということで、石段の上の洞窟に入ってみます。

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 入り口には一段下がってアーチがあります。お約束どおり、ぽん太は頭をぶつけました。アーチの上にはお地蔵様や仏具が置かれています。

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 洞窟は、十メートルほど進んだところに柵があって行き止まりになっており、そこになにやら仏像が置かれています。暗くて見えませんが、写真を撮って後からみると、このような石仏でした。これも弁財天ですね。上記の解説文に書いたあった昭和元年に造られた弁財天は、洞窟の外にあった弁財天ではなく、洞窟の中のこの弁財天だったのですね。

 多くの人は弁財天というと、美しい女神様が琵琶を抱いて七福神の船に乗っている姿を思い浮かべるかと思いますが、元々はヒンズー教の女神サラスヴァティーが仏教に取り込まれたものです。像容は、2臂像(腕が2本)と8臂像(腕8本)に別れます。2臂像はよく見る琵琶を弾く女神の姿で、音楽や学芸の神です。弁財天はヒンズー教ではサラスヴァティー川の化身とされていたことから、川辺や湖のほとりに祀られます。一方、8臂像は手に弓・箭・刀・矟(さく)・斧・長杵・鉄輪・羅索などを持ち、戦いの神の性格を持っております。ひとつの神様に、性格がまったく異なるふたつのお姿があるというのは面白いですね。

 上の写真を拡大してよく見ていただくと、頭の上にとぐろが巻いてあって、翁の顔があるのがわかります。これは蛇の体に翁の顔を持つ宇賀神(うがじん)と呼ばれる正体不明の神です。弁財天と宇賀神は日本で中世以降に習合し、宇賀弁財天と呼ばれます。頭上に宇賀神を戴き、持ち物にも宝珠や鍵が加わり、福徳神・財宝神としての性格が加わっております。高尾山の弁財天の洞窟は「福徳弁財天洞」と名付けられておりますので、宇賀弁財天でピッタリですね。

 ただ現在の弁財天は、上に述べたように昭和元年に造られたものなので、元々の弁財天がどのようなお姿でいつ頃作られたものなのかはよくわかりません。

 洞窟の中に弁財天が祀られる例は各地にあるようで、鎌倉の銭洗弁天が有名ですね。洞窟から湧き出る水でお金を清めると、金運が上昇するそうです。高尾山のこの洞窟からかつて水が湧き出ていたかどうか、ぽん太にはわかりません。

 なんでこんな山の上に弁財天が?という疑問もあるかと思いますが、修験道の始祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が弁財天と出会ったという言い伝えがある六甲山周辺には弁財天を祀る寺が多くありあす。また大峰山の入り口にある奈良県天川村にも、天河大弁財天社があります。高尾山も山岳修験道が古くから行われていた山です。薬王院の本尊・飯綱大権現の起りである信州の飯綱山は役の行者によって開かれたとされており、神変堂(じんぺんどう)には神変大菩薩(=役行者)が祀られております(後述)。高尾山の弁財天は、役行者と関係があるのかもしれません。

 もうひとつ思い浮かぶのは、高尾山が古くから滝行の場であったという事実です。滝といえば水です。しかも現在高尾山に残るふたつの水行道場の滝の名は、「琵琶」滝と「蛇」滝。う〜ん、な〜んか宇賀弁財天っぽいですね〜。でもこれはぽん太の推測。信じるも信じないもあなた次第です。

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 薬王院飯綱権現堂です。もちろん立派な神社です。でも高尾山薬王院はお寺ですね。日本伝統の神仏習合がしっかりと残っているところが嬉しいです。彫刻の飾りがとても見事です。案内板によると、写真の拝殿は1753年(宝暦3年)に建てられたそうです。

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 さて、こちらが先に触れた「神変堂」(じんぺんどう)です。薬王院から降って行った場合、浄心門の手前の右側にあります。神変大菩薩(=役の小角=役行者)を祀っております。

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 中には役行者が祀られておりますが、ガラスの反射でよく見えません。見える範囲で、修験道の姿で岩座に座り、頭に頭巾。典型的な像容と思われます。

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 お堂の前には、左右に善童鬼(ぜんどうき)・妙童鬼(みょうどうき)の石像があります。前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)とも呼ばれ、役行者が従えていた夫婦の鬼です。一般的な像容は、善童鬼は赤鬼で、役行者の進む道を切り拓くための斧をもっています。妙童鬼は青鬼で、霊水を入れた水瓶を持っています。この二つの像も、それに従っておりますね。

 さて帰路は、いつもの琵琶滝に抜ける道を下り、有喜堂の蒸し立てのまんじゅうを食べ、高尾山温泉・極楽湯で汗を流して帰りました。

2022/04/05

【仏像】@東京国立博物館・総合文化展2022年3月上旬

 3月中旬、特別展「空也上人と六波羅蜜時」を見学したあと、総合文化展(いわゆる常設展)へ。常設展といっても、定期的に展示替えがなされ、重要文化財などが次々と展示されるので、見逃す手はありません。

【展覧会】総合文化展
【会場】東京国立博物館 本館1室、3室、11室
【会期】
 1室:2022年2月1日〜3月13日
 3室:2022年2月1日〜3月13日
 11室:2022年2月1日〜5月8日
【拝観日】2020年3月上旬
【観覧料金】総合文化展:一般1,000円 (特別展入館者は、無料で見学できます)
【作品リスト】
 ・1室作品リスト
 ・3室作品リスト
 ・11室作品リスト
【仏像】◉国宝 ◎重文
1室
 菩薩半跏像 那智山出土 飛鳥時代・7世紀 E-14846 お姿と解説
 如来立像 法隆寺献納宝物 飛鳥時代・7世紀 N-193 お姿と解説
 聖観音菩薩立像(模造) 1躯 原品=奈良・薬師寺 昭和時代・20世紀、原品=飛鳥〜奈良時代・7〜8世紀 C-1830
3室
 聖徳太子立像 鎌倉時代・13世紀 C-1866 お姿
11室
◎弘法大師坐像 長快作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
◎吉祥天立像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
 奪衣婆坐像 康猶作 江戸時代・寛永6年(1629) 京都・六波羅蜜寺蔵
 司録坐像 江戸時代・17世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
 司命坐像 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
 薬師如来坐像 奈良時代・8世紀 C-318 お姿
◎釈迦涅槃像 鎌倉時代・13世紀 奈良・岡寺蔵
◎大日如来坐像 平安時代・11〜12世紀 C-311
◎十一面観音菩薩立像 平安時代・11世紀 奈良・當麻寺蔵 お姿
 阿弥陀如来坐像 鎌倉時代・12〜13世紀 静岡・願生寺蔵
◎広目天立像 平安時代・9世紀 福島・勝常寺蔵 お姿(向かって左です)
 千手観音菩薩坐像 南北朝時代・14世紀 C-306
 四天王立像 鎌倉時代・14世紀 文化庁蔵

 

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 1室には、飛鳥時代の金銅仏。あ、総合文化展は特に撮影禁止の表示がない場合、原則として写真撮影可です。これもありがたいですね。

 この時代らしい伸びやかでおおらかな仏さま。キャプションに、この仏像は那智山で出土したもので、56億7千万年後の弥勒菩薩がこの世に現れるのに備えて埋められたものだ、と書かれているのを読み、ぽん太はちょっとびっくりしました。だいたいこのような仏さまは奈良にあるもので、和歌山の熊野にある那智山から「出土」というのは珍しいです。飛鳥時代に熊野に仏像が祀られていたのでしょうか。当時の熊野は修験道の世界だったような気がしますが。また、未来に世に出ることを願って埋めたという点についてですが、チベット仏教では埋蔵経という考え方がありますが、経典を土の中に埋めておくと、それが必要となった時代に発見されるというものです。中には新作の偽物の経典を「大昔に埋められた埋蔵経を発見した」と言い張るようなやからもいたようですが、それは置いといて……。チベットでそういうものがあるのは知っていましたが、日本にも似たようなものがあるとは知りませんでした。しかも仏像を埋めるとは?

 菩薩半跏像 - ColBaseというサイトを見て腑に落ちました。飛鳥仏だから飛鳥時代に埋められたのかと思い込んでましたが、埋められたのは平安時代後期だったんですね。末法思想の元で、経典を後世に伝えようという考えから経典を塚に埋納するという信仰形態が生まれ、その塚を「経塚」と呼ばれました。経塚 - Wikipediaによれば、日本で最古のものは1007年に藤原道長が造営した金峰山経塚だそうです。

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 如来立像も同じく飛鳥時代のものですが、木造なのが珍しいです。像高約50センチとけっこう大きめです。同時代の渡来仏がまるで宇宙人のようなデフォルメされたスタイルなのと違って、日本風な素朴なお姿です。施無畏与願印が見慣れたものとは左右が逆なのも、古さを感じさせますね。もともとは法隆寺にあったもので、いわゆる「法隆寺献納宝物」のひとつ。法隆寺献納宝物とは、明治11年(1878)に法隆寺から皇室に献納された三百余の宝物のことで、その経緯はよくわかっておりません。戦後になって国有となり、東京国立博物館の所蔵となりました。

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 3室には聖徳太子の立像が安置されております。いわゆる「二歳像」で、数え年2歳の聖徳太子が旧暦2月15日の涅槃会(お釈迦様が涅槃に入られた=亡くなられた)の日に、東の空に向かって「南無仏」と唱えたという伝説に基づく、太子像の定型のひとつですね。本像は、鎌倉時代らしいリアルで迫力ある造形が魅力。お肌は子どもらしくプリプリしてますが、厳しい表情はとても2歳に見えないですね。

 4室に入って、六波羅蜜寺像の5体に関しては以前のブログ(【仏像】六波羅蜜寺の宝物館が引っ越し公開・特別展「空也上人と六波羅蜜寺」&総合文化展@東京国立博物館(2022/03/31))に感想を書きましたので、そちらをご覧ください。

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 薬師如来坐像は、奈良時代8世紀の木心乾漆像です。像高1mあまり。ちょっと面長で細くて切長の目ですが、あんまり威厳は感じられず、「あちゃ〜やっちゃった〜」って言っているお父さんのようです。衣紋の表現も薄くて様式的。胸も左右に分かれてませんね。右手の施無畏印もちょっと高さが低くて手のひらが内側を向いています。施無畏印の意味は「怖がらなくてもいいよ」というメッセージですが、もとから怖くないんですけど。なんかちょっと気が小さそうな仏さまですね。

 

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 釈迦涅槃像は奈良の岡寺の所有で、東京国立博物館に寄託されているもの。重要文化財です。像長約170cmでほぼ等身大。お釈迦様の入滅のお姿ですが、絵画が圧倒的に多く、彫像は珍しいそうです。そういえばぽん太も日本では見た記憶がありません。タイだかネパール・チベット・ミャンマーだか覚えてませんが、海外では馬鹿でかいのを見た記憶があります。右手を頭に添えたポーズは鎌倉時代以降に多いそうで、じっさい鎌倉時代の作ですが、線が浮き出したような衣紋の表現や、ゆったりした感じなど、ぽん太はなんかガンダーラ風な印象を感じます。すばらしい仏さまですね。

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 このとっても優美な大日如来様は、ぽんたはなんと3回目のご対面。っていうか、いつも展示されてるんじゃないの? 東京国立博物館の推しメンか? 平安時代後期の定朝様の美仏です。

 奈良の當麻寺の十一面観音様というと、本堂(曼荼羅堂)にいる通称・織姫観音(お姿)が有名ですが、それとは別の十一面観音様が来ておりました。撮影禁止だったので、写真はありません。「當麻寺だね〜」などと言いなが見ていたのですが、残念ながらゼ・ン・ゼ・ン覚えてません。もったいないことをしました。ネットで写真を探しても全く見つかりません。真剣に見ておけばよかった。1909年の重文指定となっているので、現在まで続いている1950年(昭和25)施行の文化財保護法の前の、1929年(昭和4)施行の国宝保存法のさらに前の、1897年(明治30)古社寺保存法時代の「国宝」指定ですね。現在は東京国立博物館に寄託されているようです。

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 静岡・願生寺の阿弥陀如来は、鎌倉時代の作。なんかこんな相撲取りいなかったけ?という感じの、力強く写実的な像です。

 次は福島県は勝常寺の広目天(重文)。ぽん太は勝常寺は、2018年に訪ねたことがあります(【仏像】国宝・重文の平安仏がいっぱい 勝常寺(福島県湯川村)(2018/09/06))。国宝・重文の平安仏がいっぱいありました。そこで四天王像を見たのですが、広目天だけは東博に寄託中とのことで拝むことができませんでしたが、こんかい初めてお目にかかることができました。お姿(一番上です)をご覧ください。す・ご・い迫力ですね〜。顎から喉にかけての肉付きが、マツコデラックスを超えてます。

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 さて、最後は美しい仏さまでお口直しを(わ〜広目天様ごめんなさい、鶴亀鶴亀)。南北朝時代の千手観音菩薩坐像と、鎌倉後期の四天王です。組み合わせれて配置されておりますが、元々は別の仏さまです。でも、ともに時代が近く、流麗で装飾性が際立っていて、いい組み合わせですね。大きさもちょうどいいです。千手観音さまは院派によるもので、光背の繊細な透かし彫りも見事です。この像も以前にお目にかかった気がします。東博の仏像の学芸院さんは、美仏好きか? 四天王は、躍動的なポーズと執拗な甲冑の表現が素晴らしく、現代のアニメに通じます。中尊と脇侍の、静と動の対比も面白いですね。

 四天王像は文化庁が所有とのこと。へ〜。文化庁が所有する仏像があるのか。ぐぐってみると(文化庁保管文化財一覧 - Wikipedia)、国宝・重要文化財に相当する文化財を売り渡す申し出があった場合、国が購入して文化庁が保管する制度があるそうで、順次国立博物館等に移管されるのだそうです。もうひとつ、国の機関が発掘した埋蔵文化財で所有者が明らかでない場合は国に帰属するという法律があるそうで、それによって文化財所有になっている文化財があるそうですが、それはぽん太の興味の範囲外です。

 国有品図版目録(令和3年3月現在)文化庁文化財第一課(pdf)を見ると、13ページに出てますね。像内墨書により鎌倉時代(元徳3・1331)の作で、平成12年買い取り、東京国立博物館貸与だそうです。

2022/03/31

【仏像】六波羅蜜寺の宝物館が引っ越し公開・特別展「空也上人と六波羅蜜寺」&総合文化展@東京国立博物館

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 国立博物館で開催された六波羅蜜寺展を観に行ってきました。特別展とコラボして総合文化展でも5躯の像が展示されておりますので、お見逃しにならないように。

 京都の東山区にある六波羅蜜寺には、ぽん太とにゃん子は2回行ったことがあります。最初に訪れた時の記事が「【観光】夏を迎える京都(六波羅蜜寺、永観堂、戒光寺、泉涌寺、東福寺など)(2014/08/15) 」ですが、仏像のことはあんまり書いてありませんね。

 こんかいの展覧会は、六波羅蜜寺の宝物館に展示されている仏さまたちがいらっしゃいました。なんでも六波羅蜜寺では、2022年5月末に新宝物館が開館するそうで、移転の機会を利用して本展覧会が開かれたと推察されます。

 宝物館の仏さまが全員いらっしゃったのかどうかは、ちょっとぽん太の記憶力ではわかりませんが、同時に総合文化展で展示されている仏さまと併せて、ほとんどは来ているように思えます。秘仏の国宝・十一面観音立像は、残念ながら今回は出品されておりませんでした。12年に一度のご開帳なので、今度は2014年になるはずですが、もしかして今年の新宝物館開館に伴ってご開帳するかしら? マークしておかないと。

 

【展覧会】特別展「空也上人と六波羅蜜時」
【会場】東京国立博物館 本館特別5室(特別展)、本館11室(総合文化展)
【会期】特別展:2022年3月1日〜5月8日
    総合文化展:2022年2月1日〜5月8日
【拝観日】2020年3月上旬
【観覧料金】特別展+総合文化展:一般1,600円 (※時間予約制です)
【関連サイト】
 特別展 ・https://kuya-rokuhara.exhibit.jp(公式サイト)
     ・https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2129(東京国立博物館)
 総合文化展 ・https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6642(東京国立博物館)
 六波羅蜜寺 ・https://www.rokuhara.or.jp(六波羅蜜寺の公式サイトです)
【作品リスト】
  ・特別展作品リスト
  ・総合文化展作品リスト
【仏像】◎重文 (以下すべて六波羅蜜寺・京都 蔵)
◎空也上人立像  康勝作 鎌倉時代13世紀 お姿a お姿b
◎四天王像 平安時代10世紀(増長天のみ鎌倉時代13世紀) お姿a
◎薬師如来坐像 平安時代10世紀 お姿a
◎地蔵菩薩立像 平安時代11世紀 お姿a お姿b
◎地蔵菩薩坐像 運慶作 鎌倉時代12世紀 お姿a お姿b
◎閻魔王坐像 鎌倉時代13世紀 お姿a
 夜叉神立像 平安時代11世紀 お姿
◎伝運慶坐像 鎌倉時代13世紀 お姿b
◎伝湛慶坐像 鎌倉時代13世紀 お姿b
◎伝平清盛坐像 鎌倉時代13世紀 お姿a お姿b
  ※お姿aは公式サイト、お姿bは六波羅蜜寺のサイトです。

総合文化展
 司録坐像 江戸時代17世紀 お姿
 司命坐像 鎌倉時代 13世紀 お姿
 奪衣婆坐像 康猶作 江戸時代 寛永6年(1629) お姿
◎弘法大師坐像 長快作 鎌倉時代 13世紀 お姿
◎吉祥天立像 鎌倉時代13世紀 お姿

 

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(この写真と以下の写真は、Wikipediaからのパブリック・ドメインのものです。)
 さて、お目当ての空也上人立像は、押すなおすなの大混雑かと思いきや、7〜8人が囲んでいる程度でした。ガラスケース入りですが、間近で360度から見ることができました。運慶の4男・康勝による肖像彫刻の傑作です。どの方向から見ても美しいポーズ。細部も手を抜くところがなく、足の指の一本いっぽんまで細かく美しく作り込まれています。手足が細くて痩せているのは布教のため諸国を歩いたからでしょうか。南無阿弥陀仏」の6字を意味する小さな阿弥陀仏が口から出ているという意匠も面白いです。前屈みの姿勢で、やや苦しそうな表情。「南無阿弥陀仏」という言葉を口にするまでの、修行や布教といった産みの苦しみを感じさせます。

 なぜ空也の像が六波羅蜜寺にあるかというと、六波羅蜜寺を創建したのが空也だからです。若い頃から「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら諸国を遍歴し、社会事業を行っていた空也は、938年、京都で口自称仏を勧める活動を本格的に開始。951年には十一面観音像、梵天・帝釈天像、四天王像を造り、西光寺を建立しました。これが六波羅蜜寺の始まりです。当時の京都には疫病が蔓延し、鴨川の岸は遺体の捨て場になっていました。空也はこの十一面観音を車に乗せて引きながら、念仏を唱え、病人に茶を振舞ったそうです。このうち十一面観音と、増長天以外の四天王は、現在まで六波羅蜜寺に伝えられています [1][2]。

 で、その四天王像(増長天だけは鎌倉時代の補作です)がこんかい出品されていました(秘仏・十一面観音はお出ましにならなかったのは、上に書いた通りです)。鎌倉時代の躍動感あふれるポーズとは異なり、平安時代らしく悠然と構えた像。お顔が小さめです。衣服や甲冑などが細かく丁寧に表現されていますが、彫りは浅めです。あと、天邪鬼を踏んづけていないですね。鎌倉時代の増長天も、他の三体の様式に合わせて作られてはいますが、どことなく鎌倉風の写実性が感じられます。

 四天王に囲まれて安置されている薬師如来も平安時代の作ですが、空也の没後に比叡山延暦寺の僧・中信が977年に六波羅蜜寺と改名し、天台宗に改宗したときに作られた像とされ、ちょっと年代が下がります[2]。なんか独特のお姿で、肉髻(頭髪の盛り上がり)のくびれが浅く、ネパールの耳当て付きニット帽みだいです(わかるかな〜?)。唇は「マカロニほうれんそう」のきんどーちゃんのような(わかるかな〜?)おちょぼ口。薬壺を持つ左手は指先が内側を向いており、胸の高さの右手は親指と中指で輪をつくってます。なんでも「天台様式」が取り入れられているそうですが、ちょっとぐぐってみただけではよくわかりません。

 地蔵菩薩がふたつ出品されており、比べてみると面白いです。ひとつは平安時代の立像、もうひとつは鎌倉時代に坐像です。

 平安時代の方はとても優美な像で、定朝様というか、定朝の作と伝えられています。定朝は11世紀に活躍した仏師で、「和様」と呼ばれる優美な仏像の様式を完成させました。頭が小さくてすらっとした七頭身(?)のお姿。ちょっと眠たそうなお顔。腰から足にかけての斜めに走る衣の襞がとても繊細です。彩色・截金が施されているそうですが、截金はちょっと見つけられませんでした。左手に頭髪を持つのが独特で、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれているそうです。また『今昔物語』(巻17第21話、現代語訳はこちら→今昔物語集現代語訳)に登場することでも知られているそうです。

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 鎌倉時代の地蔵菩薩は運慶の作ですね。写実的で、両腕の微妙な空間構成、美しい青年のような表情、深く流れるような衣の襞など、見事な仏さまです。定朝と運慶の作品を同時に見比べられるとは、豪華ですね。

 鎌倉時代の閻魔王坐像は、デフォルメされた迫力ある像。なんで六波羅蜜寺に閻魔大王像があるのかというと、この寺は京都の有名な葬送の地・鳥辺野(とりべの)の入り口にあることなどから、地獄信仰と結びついたようです。

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 運慶・湛慶親子の肖像彫刻と伝えられている2躯。運慶が生前に京都に建立した地蔵十輪寺という寺にから移されたと言われています。上の写真は運慶像ですね。ぽん太にとって運慶というと、眼光鋭く無口で、作仏に全てを捧げる修行者のようなイメージでしたが、なんかこの彫像の運慶は、ベラベラとようしゃべるオッサンみたいです。「頼朝はん。この仏さまええでっしゃろー。こっちのお寺にもうひとつ造りまへんか〜」などと営業していた感じがします。

 伝・平清盛像は、これもまた恰幅が良くて傲慢なぽん太のイメージとは異なり、痩せていて神妙に経典を読んでおります。でもお顔が、菅元総理というか(わ〜ごめんなさい)、何か良からぬことを企んでいる気がします。
 なんで平清盛像が六波羅蜜寺にあるのかというと、平安末期、この寺の周囲に六波羅殿と呼ばれる平家の大邸宅群が建てられ、その中には平清盛の館もありました。1183年、平家都落ちの際に焼け落ちましたが、鎌倉時代になってその跡地に、朝廷監視のための六波羅探題が置かれました。

 

 さて、上に書いたように、六波羅蜜寺の宝物館の所蔵品の一部は、総合文化展(いわゆる常設展みたいなものですね)に出品されています。見逃さないようにご注意ください。

 弘法大師像は、快慶の弟子の長快の作。慶派の立派な像ですが、運慶の躍動感や、会計の優美さには欠ける気がします。長快の現存作は、これ以外にはパラミタミュージアムの十一面観音立像だけです。

 吉祥天というと、見目麗しいお姿が頭に浮かびますが、この像はぷっくり(でっぷり?)していて、お顔もそこらのおばさん風、腰の帯の上にお腹の脂肪がはみ出てます。癒し系か? ちょっとぐぐってみましたが、どうしてこのような像容なのか、他にもこのような吉祥天の像容があるのか、ちとわかりませんでした。

 司録、司命(しみょう)、脱衣婆は、地獄信仰に関するキャラクターですね。地獄信仰は、仏教に取り込まれたヒンズーの神々が、中国で道教と習合・発展したものが、さらに日本に伝わってから独自の変化をしているようで、複雑すぎてぽん太にはよくわかりません。

 司録、司命は、地獄の裁判官閻魔大王の書記官のような存在で、功徳を読み上げたり判決を記録したりする役目だそうです。閻魔大王の左右に眷属のように配置されることが多いようです。元々は道教に由来するそうで、唐風の服装をしています。巻物や筆、名札を持っていますが、変化が多いようです。

 六波羅蜜寺の像は、司命が右手に筆、左手に巻物を持っています。鎌倉時代らしく、写実的で空間構成が見事です。司録は持ち物が失われていますが、巻物を広げて読んでいるように見えます。江戸時代のもので、お腹から下半身のあたりなど、様式的で簡略化されております。

 脱衣婆(だつえば)は、死んだ人間が最初に会う地獄の官吏で、三途の川のほとりに立ち、亡者の衣服を剥ぎ取ります。剥ぎ取られた衣服は大樹に掛けられ、そのしなり具合で罪の重さがわかるのだそうです。

 本像は、康猶(こうゆう)作の命があります。康猶は江戸初期の仏師で、東寺(教王護国寺)大仏師。奪衣婆の像は、胸をはだけてスルメおっぱいを露出した怪異な姿をしておりますが、たしかにこの像は、ちゃんとした技術を持った人が、素朴でデフォルメされた姿を表現した感じがします。

2022/03/02

【仏像】大法寺の重文・十一面観音立像と普賢菩薩立像/平安中期の見事な地方仏

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 今を去る2019年10月上旬、ぽん太とにゃん子は長野県青木村の大法寺に行ってきました。大法寺といえば国宝の三重塔が有名ですが、ぽん太とにゃん子のお目当ては、重文の十一面観音さまと普賢菩薩さまです。

【寺院】一乗山 大法寺 (天台宗)
【住所】長野県小県郡青木村当郷2052
【拝観日】2019年10月上旬
【拝観】仏像拝観は要予約。料金は境内は300円、仏像拝観は700円です。(ぽん太が行った当時は合計350円でした)
【公式サイト】・https://www.daihoujitemple.com
 ・青木村役場の案内サイト http://www.vill.aoki.nagano.jp/assoc/see/tera/daihouji.html
【仏像】◎重文 
◎十一面観音立像 桂材 一木造 像高171cm 平安時代10世紀後半
◎普賢菩薩立像 桂材 一木造 像高107cm 平安時代10世紀後半
 お前立十一面観音
 文殊菩薩立像
  お姿は、公式サイトや青木村役場のサイトにもありますが、こちらのサイトが充実してます(→祇是未在 - ソゾタケ仏像紀行)。

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 大法寺の本堂です。大法寺は、奈良時代に開山された信州有数の古刹です。ご本尊は釈迦如来です。大法寺とその周辺の風景は、白州正子が絶賛したことで知られています。

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 こちらの観音堂に、十一面観音様と普賢菩薩様がいらっしゃいます。

 中に入ると、重要文化財の須弥壇と厨子が目に入ります。屋根の四隅がぴんと反り上がった禅宗様式の厨子で、鎌倉末期から南北朝の作だそうです。屋根の両端に木彫りの鯱が食いついており、日本最古の鯱だそうです。

 大きさが合わないため、十一面観音様は裏手に安置されており、厨子のなかにはお前立の十一面観音様がいらっしゃいます。こちらはバランスが整った仏さまで、衣紋が執拗に彫られているあたり、鎌倉後期以降と考えられるそうです。

 厨子の裏手に重文の十一面観音様がおり、向かって右に普賢菩薩、左に帝釈天が控えております。

 十一面観音さまはほぼ等身大で、素朴な地方仏ですが、丁寧に彫られていてお優しいお姿です。お顔は卵型で両目を閉じ、唇は微かに開いており、「恍惚」というとちょっと言い過ぎですが、そんな表情に見えます。全身も腰をひねったりせず、まっすぐと、自然に立っておられます。地方仏の名品です。 

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 向かって右に立つ普賢菩薩は、像高107cmと小さいですが、中尊と同じように目を閉じて口を微かに開いており、お姿がよく似ております。頬から喉の肉付きがいいです。

 向かって左には文殊菩薩様がおりますが、こちらは表情が人間的で、子供のようにニコニコ笑っていて、少し新しい時代のものと思われます。

2022/02/27

【仏像】清凉寺、霊宝館特別公開

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 オミクロン株の自粛生活の中、昔の書き残しのブログを書いております。こんかいは2019年11月の京都、清凉寺。

 清凉寺は以前に行ったことがありますが(【仏像・スイーツ】生きているお釈迦さま・清凉寺木造釈迦如来像(国宝)/高台寺 洛匠(らくじょう)の抹茶パフェ(2015/12/29))、ご本尊の釈迦如来さまが中心だったので、今回は霊宝館の感想を。

【寺院】五台山 清凉寺(嵯峨釈迦堂) (浄土宗)
【住所】京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
【拝観日】2019年11月上旬
【拝観】霊宝館は春と秋に特別公開。拝観料、霊宝館本堂共通700円
【公式サイト】・http://seiryoji.or.jp/precincts.html
【仏像】◉国宝 ◎重文
◉阿弥陀三尊坐像 平安前期896年 お姿
◎文殊菩薩騎獅像 平安後期10世紀末 お姿
◎普賢菩薩騎象像(木造帝釈天騎象像) 平安後期10世紀末 お姿
◎釈迦十大弟子像 平安後期11世紀初 お姿
◎四天王立像 平安後期10世紀後半
 清涼寺式釈迦如来模刻像 鎌倉時代
◎兜跋毘沙門天像 平安後期 お姿
◉釈迦如来立像体内納入品 レプリカ写真

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 国宝の阿弥陀三尊坐像は、平安時代前期(898年)の作。清凉寺の元になっている棲霞寺(せいかじ)の本尊でした。光源氏のモデルと言われている源融(みなもとのとおる)が発願したもので、中尊は彼の顔に似せて作られていると言われています。ぽん太が見て、なんだか現代の美男子とはちょっと違う感じがしますが、引き締まった若々しいお顔で伏し目がち、鼻筋が通って口元にちょっと笑みをたたえたあたりが特徴的です。体つきはたくましさと力強さが感じられます。両脇侍は密教の印を結んでいるのが珍しく、他には例がないそうです。宝冠をかぶられ、ウエストが細く、なんだか神秘的な印象があります。

 派手な色彩の獅子に乗った文殊菩薩様は、瞼が出っぱって丸々としたお顔が珍しく、宗の様式に倣ったとも言われているそうです。象に乗った普賢菩薩は、元は帝釈天だったものを転用したもので、童子のような張りのあるお顔です。パンフレットには、帝釈天騎象像は日本に4例しかないと書いてありますが、あと教王護国寺(東寺)のイケメン帝釈天と、京都の醍醐寺と、もひとつどこ? ぽん太にはわかりません。

 釈迦十大弟子像は、1m足らずの大きさで、なんだかみんな頭が大きく、ちょっと宇宙人っぽいです。

 兜跋毘沙門天は、東寺の像(お姿)を模したものだそうで、確かに似ておりますが、お顔が面長だったり、鎧のボコボコがなかったり、地天女・二鬼の造形がちと甘い気がします。当時はじっくり見ながら彫るなんてことはできなかったのでしょうから、模写と記憶を頼りに彫ったのかもしれません。

 釈迦如来立像体内納入品は、霊宝館の説明板にもパンフレットにも「レプリカ」と書かれていませんが、新しくてどうみてもレプリカです。これは医者の端くれのぽん太にとっては見逃すごとのできないもので、「世界」最古の内蔵模型と言われております。

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