カテゴリー「思想・宗教」の56件の記事

2018/03/17

【奈良】東大寺二月堂のお水取りを初めて見る。

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 奈良の東大寺は二月堂で行われる有名な宗教行事、お水取りを見てきました。
 とはいえ、それを目当てに行ったのではなく、たまたま奈良・京都を旅行していて、奈良の居酒屋に入ったら、店員さんからちょうどお水取りの最中であることを知らされ、急遽見に行くことにしたのです。
 店員さんの口調は「なんでこの時期に奈良に来てお水取りを見に行かないんだ!?」みたいな感じで、奈良市民のお水取りに対する並並ならぬ思い入れを感じました。

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 こちらが昼間の二月堂。参拝客で賑わっております。

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 まだ17時ごろだというのに、早くも場所取りの人たちがいます。

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 ところでお水取りってそもそもなに?二月堂に松明が掲げられる映像が頭に浮かびますが……。
 Wikipedia東大寺のホームページを見てみると、二月堂のお水取りは、修二会(しゅにえ)と呼ばれる宗教行事らしい。古来より、冬が終わって一年の初めに豊作を祈る祈年祭(としごいまつり)という儀式が重視されておりましたが、それに相当する仏教行事が修二会だそうです。ですから修二会は、日本各地のお寺で、さまざまなやり方で行われております。
 東大寺の二月堂でもそうした修二会が行われてきたわけですが、ここにひとつの伝説が加わります。若狭神様が魚を採っていて、二月堂の参集に遅れてしまったため、二月堂のほとりに清水を涌き出させて観音様に捧げたんだそうです。
 そういうわけで二月堂の修二会には、「水を汲む」という行事が組み込まれることになり、二月堂の修二会全体が「お水取り」と呼ばれることになったのです。
 修二会は現在3月1日から2週間にわたって行われますが、12日深夜に狭義の「お水取り」の儀式が行われるそうです。二月堂の隣にある若狭井(わかさい)という井戸から水を組んできて、秘仏十一面観音さまの須弥壇の下の甕に「香水」として収めるのだそうです。これらの甕のうちの一つは、「根本香水」と呼ばれ、お水取りの儀式が始まって以来、減った分だけ継ぎ足されてきたものだそうです。「秘伝のタレ」みたいなものですね。

 お水取り(=修二会)の有名な儀式に「お松明」があります。2月堂のテラス(?)に火が焚かれた映像は、誰でも見たことがあると思います。
 木造建築で火を使って火事になったりしないのかと思いますが、心配した通り、寛文7年(1667年)の修二会の最中に失火して二月堂は消失。1669年に再建されたものが、現存の二月堂だそうです。
 お松明は、もともとは儀式をする人たちが二月堂に入場するときの道灯りでした。それが「せっかくだから派手にしよう」ということで、現在のようなかたちに至ったわけですね。お松明は3月12日だけ行われていると思っている人が多いのですが、実は2週間の期間中毎日行われております。ただ12日は、ひときわ大きい松明(籠松明)が11本、一度に焚かれるそうです。

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 というわけで、14日間の修二会では、お松明やお水取り以外にもさまざまな儀式がおこなれているわけで、たとえばこちら(pdf)でその時刻表を見ることができます。
 実はこれらの儀式は、勝手に二月堂の中に入って、無料で見ることができるのです。
 二月堂の正面と両側面の板戸(壁のように見えます)がところどころ開くようになっていて、そこから中に入れます。扉をあけると、暗闇の中に多くの人が座っております。中はほとんど真っ暗で、行われている儀式は何も見えず、ただ物音を聞き、気配を感じるだけです。それでも、とても宗教的な気持ちになることができます。


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 さて、6時過ぎに二月堂に到着。すでに多くの観光客が詰め掛けてます。火の粉を浴びれる真下にはもう入れず、手前の広場からの見学です。灯篭と灯篭の間からテラスが見える位置をゲット。

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 向かって左手から松明が登ってきて、テラスから突き出され、振り回されます。

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 松明が左から右へ、勢い良く移動します。

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 そして右側で再び振り回されます。飛び散る火の粉。真下で見てる人は、ダウンとかに穴があいちゃうんじゃないかな?お寺の人が箒で一生懸命建物から火の粉を払います。
 これが次々と10本。12日のように、11本が勢ぞろいすることはなかったですが、素晴らしい光景でした。
 奈良仏教は、こういう大掛かりな儀式を伝えてきたのですね。お松明だけでなく、12日間続く修二会のパワーは、「鎮護国家」の力がありそうです。

2017/10/04

【神社】三斗小屋温泉神社本殿がヤバい!(栃木県那須塩原市)

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 栃木県は那須岳の西側山麓にある三斗小屋温泉には、2軒の雰囲気ある山小屋があり、疲れた汗を源泉掛け流しの温泉で流すことができます。

 し、しかし、今回の話はそれではニャイ!

 三斗小屋温泉神社(さんどごやおんせんじんじゃ)なのだ!!

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 場所は、三斗小屋温泉から東に、那須岳稜線に向かって登ってすぐのところにあります。温泉に温泉神社はけっこう付き物ですし、雪が多いところなので、ご覧のような覆屋(おおいや)がかかっており、うっかり通り過ぎてしまいそうです。
 しかし、試しになかをのぞいて見ると……

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 じゃじゃ〜ん! その中にある本殿がこちら!!
 こ、これはすごいです。マニエリムの世界ですな。ちょっとやりすぎというか、執拗な感じで、ものすごいエネルギーが伝わってきます。こんな山の中の小さな温泉神社に、なんでこんな彫刻が!

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 案内板です。日光東照宮の彫刻師が保養に来たときに作ったという言い伝えがあるそうですが、ぽん太には、東照宮より時代が下がっているように感じられます。幕末に新潟すごい彫刻を残した石川雲蝶をちょっと連想しました。

 那須岳の登山地図はたとえばこちら。左上に三斗小屋温泉神社があります。ロープウェイ山麓駅を通り越して少し登ったところの、那須岳登山指導所の駐車場から行くのが最短コースですが、片道2時間弱かかり、登山装備と十分な登山経験が必要となりますので、良い子は安易に行かないようにご注意ください。

2016/09/24

【寺院】日本最古の回転式経蔵/飛騨安国寺経蔵【国宝】

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 高山の清峯寺の近くにある安国寺には、国宝の経蔵があります。
 さすが国宝だけあって、見た瞬間に「おおっ」と声を上げるほどの美しさ。それだけでなく、歴史的にも貴重なものだそうです。

 

Img_2661 室町初期の応永15年(1408)年に建立。簡素で剛健な禅宗様(唐様)造りで、四隅が跳ね上がった屋根が美しいです。二階建てに見えますが、下の屋根は裳階(もこし)で、内部は一層です。

 

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 壁の上部の欄間には、美しいカーブを描いた風抜きがあります。とても暑い日でしたが、建物のなかに入ると涼しい風が吹き抜けます。大事な経典が傷まないようにという工夫でしょうか。

 

 内部は撮影禁止です。写真は例えばこちらの高山市のサイトにあります。
 八角形の大きな回転式のお経収蔵庫(八角輪蔵)があります。回転式のものでは日本最古だそうです。
 下を除くと、石の上に心棒の柱が乗って、回転するようになっている仕組みを見ることができます。もちろん今は廻してみたりできませんが、昔は子どもが廻して遊んでいたそうです。
 収蔵された木版一切経は、中国の元の時代に作られたものを三年がかりで持ち帰ったものとのこと。欄間の彫刻が美しく、また柱には昔の人の落書きがあったりします。

 

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 木の梁と白い壁が美しい本堂です。
 飛騨安国寺は、室町幕府が日本各地に作った安国寺のひとつで、貞和3年(1347)の創建。それいぜんは少林寺という名前のお寺だったそうです。戦国時代の天文・永禄年間に、兵火によって経蔵、開山堂を除いて焼失したそうです。

 

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 こちらがそのもう一つ焼け残った開山堂。

 

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 開山堂のなかには「開山瑞巌和尚像」があります(お顔は見えません)。須弥壇と、像の内部にあった写経三巻とともに、国の重要文化財に指定されております。

 

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 こちらは薬師堂です。

 

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 内部に祀られた薬師如来は、脇侍の日光・月光菩薩とともに、行基の作と伝えられているそうです。

2016/08/28

【神社】武道の神様・香取神宮

Img_1861 ようやくこれで6月分の報告が終わり。香取神宮です。リオ・オリンピックも閉会式を迎えましたが、スポーツや武道の神様として有名ですね。こちらが公式サイトです。
 ちなみに上の写真は拝殿です。なかなかカッコいいですが、昭和11年(1936)に造営された新しいものです。
Img_1881 香取神宮の駐車場は実は密かなネコスポットか?数匹のネコちゃんがくつろいでました。
Img_1855 参道を進んで行くと、立派な石の鳥居の向こうに総門が見えてきます。
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 小道具なし、ツノなしのシンプルな狛犬です。胸を張り、ポーズはちょっと固め。
Img_1860 楼門は国指定重要文化財です。元禄13年(1700)造営。
Img_1868 右側の建物が本殿です。左奥が、冒頭の写真の拝殿ですね。
 本殿も、楼門と同じく元禄13年(1700)の造営で、こちらも重文に指定されております。黒塗りの柱にくわえられた金色の装飾がとても美しいです。
 鹿島神宮が、自然のままの樹林が広がり、なにもなくて厳かなのに比べ、香取神宮は少し派手で賑やかな感じがします。
 御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。鹿島神宮のときに書いたように、『日本書紀』で国譲りに際して、武甕槌大神(たけみかづちのかみ)を伴って地上に降り、日本を平定した神様です。
 そのことから香取神宮は、武道の神様と考えられております。時代劇でよく道場に、香取神宮の掛け軸がかざってありますよね。
Img_1865 ご神木です。樹齢千年以上といわれる杉の木で、幹の周囲は7.4mあるそうです。
Img_1873 要石です。この地方には地震が多かったため、地中のナマズが暴れないようにするため、香取神宮と鹿島神宮に棒状の石を埋め込んで、ナマズを刺し通したんだそうです。石の頭の部分だけ地上に出てますが、全長は「幾十尺」といいますから、一尺が約30センチなので、10メーターくらいということでしょうか。貞享元年(1684)に水戸光圀がこの岩を掘り出そうとしましたが、根元に到達できなかったそうです。
 江戸末期に自身の原因であるナマズを描いた「鯰絵」と呼ばれる浮世絵が大量に作られたことはよく知られますが、 ナマズ - Wikipediaによると、江戸時代中期には、ナマズと地震を結びつける考え方が、民衆の間に広まっていたそうです。この要石は1864年以前に埋められていたことになりますから、地震ナマズ原因説の早期に作られたということになりますね。
Img_1878 奥宮は鹿島神宮よりもこじんまりとしています。昭和48年の伊勢神宮御遷宮のときの古材を用いて作られているそうです。

2016/08/22

【神社】森の深さに驚く。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)

Img_1715 6月末。天気、曇りのち雨。ぽん太とにゃん子は茨城県の鹿島神宮に行きました。公式サイトはこちら鹿島神宮 - Wikpediaも参考にさせていただきました。
 冒頭の写真は楼門(寛永11年(1634)築、国重文)です。
 Img_1714 大鳥居をくぐって境内に入ります。元々は笠間市産の御影石を用いた石鳥居がありましたが、東日本大震災で倒壊したため、境内の杉の巨木を使って再建されたそうです。
 我が国に「神宮」と名のつく神社は数々あれど、平安時代に作られた「延喜式神名帳」に「神宮」と書かれているのは、伊勢神宮内宮・鹿島神宮・香取神宮の三つだけです。
Img_1716 夏越大祓祭りの準備か、茅の輪の飾り付けが行われてました。
Img_1718 楼門をくぐるとすぐ右に本殿があります。長い参道を予測していたので、ちょっと拍子抜け。建物も荘厳さはなく、むしろ地味。写真は拝殿ですね。
 この社殿は元和5年(1619)に徳川2代将軍・秀忠が寄進したもので、国の重文に指定されております。
Img_1720 横手に廻ると本殿が見えます。権現造ですが、幣殿と本殿の間にさらに石の間があるというちょっと変わった形式らしいのですが、ぽん太にはよくわかりません。
 御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。いわゆる「国譲り」で活躍した神様ですね。『古事記』によると、その方法がアニメ顔負けですごいです。
 神々の国である高天原を支配していた天照大神は、大国主命が支配していた葦原中国(あしはらのなかつくに:つまり我々が住む日本です)を、統治しようと企てます。天照大神は神々を何回か地上に派遣したもののうまくいきません。そこで選ばれたのが武甕槌大神と天鳥船神(あめのとりふね)。地上に降り立った二人は、十掬剣(とつかのつるぎ)を地面に逆さに立て、その上にあぐらをかいて座るというパフォーマンスで天津神(あまつかみ:高天原の神々)パワーを見せつけます。大国主命は、二人の息子、事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が了承するなら自分もいいよ、と答えます。事代主神はあっけなく了承するものの、建御名方神は力比べをしようと、武甕槌大神の手をつかみます。すると武甕槌大神は、自分の手をまずつららに変え、次に剣にかえました。そして逆に建御名方神の手をつかむと、握りつぶして投げ捨てました。建御名方神は逃げ出し、諏訪湖に追いつめられたところでごめんなさいと降参。以後ここから出ないので許して下さいと泣きを入れ、諏訪大社の御祭神となりました。
 一方『日本書紀』では、いくつかのヴァージョンがありますが、日本平定を命じられた經津主神(ふつぬしのかみ)の助っ人として、武甕槌大神は地上に使わされます。經津主神は、鹿島神宮と利根川をはさんで反対側にある香取神宮の御祭神ですね。そして建御名方神は出てきません。
 ところで、パフォーマンスに使われた十掬剣は、後に神武天皇の手に渡り、神武東征のおりに大活躍。剣の霊力で味方の軍勢は活力を得、戦は大勝利となりました。この剣は「布都御魂」(ふつのみたま)と呼ばれるようになり、しばらくは宮中で祀られておりましたが、崇神天皇の頃に奈良県天理市の石上神宮の御神体となり、拝殿裏手に埋められました。なんとそれが明治7年(1874)に発掘され、現在も御神体として本殿で祀られているそうです。
 一方で鹿島神宮にも布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)という巨大な直刀が伝わっております。奈良時代末期から平安時代初期に作られたもので、国宝に指定されており、鹿島神宮の宝物館に展示されているようですが、ぽん太とにゃん子は見学は省略いたしました。
Img_1723 これでもう終わりかと思いましたが、ここから先の参道がすごい!木の大きさを、下を歩く人と比べて感じて下さい。
Img_1730 参道から樹林に向かってわかれる小径。登山が趣味のぽん太からしても、なかなかの樹林で、人の手が入っていない原生林の雰囲気があります。木の種類も、南方的な樹々がまざっているように思えます。
 こういう森を実際に見ると、南方熊楠が神社の森を守るために神社合祀反対運動に力を注いだ理由がよくわかります。
Img_1725 境内で鹿を飼っておりました。鹿島神宮のお使いはしかとされているようですが、こんかいはみちくさは省略。
Img_1726 静謐な雰囲気の奥社(国重文)。木漏れ日に光る屋根の苔が美しいです。慶長10年(1605)に本宮の社殿として徳川家康によって奉納された建物だそうです。2代将軍秀忠が新たに現在の本宮の社殿を寄進したため、移築されて奥社となったそうです。

Img_1732 現代の聖地、鹿島スタジアムです。Jリーグが始まって、ジーコやアルシンドの素晴らしいプレイにびっくり仰天した記憶が甦ります。

2016/08/14

【寺院】複雑な造形の茅葺き屋根が圧巻。笹野観音(山形県米沢市)

Img_1523 6月下旬、ぽん太とにゃん子が訪れたのは、山形県は米沢市にある笹野観音です。
 正式名称は長命山幸徳院笹野寺。真言宗豊山派に属するお寺です。公式サイトはこちら
Img_1504 現在の地に観音堂が築かれたのは弘仁元年(810年)。観音菩薩と羽黒権現が祀られました。しかし天保4年(1833年)、観音堂は炎上。幸い、秘仏だけは焼失を免れました。天保14年(1843年)、上杉斉憲公によって観音堂が再建され、今に伝わっております。
Img_1506 市指定文化財の観音堂は、お寺ではありますが社殿様式。屋根は茅葺きの入母屋造りで、正面から見ると大きな三角形の屋根(千鳥破風)がせり出し、また軒のラインが丸みを持ってせり上がってます(軒唐破風)。造形的に複雑で美しい仕上がりとなっており、冒頭の写真の角度から見ると、空に飛び上がって行きそうな勢いが感じられます。
Img_1508 軒下の彫刻も透かし彫りで細かく彫られており、とても見事です。
Img_1522 こんなところにも般若(?)の顔が。
Img_1518 不動明王が刻まれた石碑がありました。
 御本尊の観音菩薩は秘仏とされ、公開されておりません。
Img_1524 境内にはたくさんの紫陽花が植えられており、紫陽花寺とも呼ばれているそうです。

2016/07/15

【寺院】 各国の人たちでにぎわう高尾山薬王院

 6月の高尾山登山のご報告をしてましたが、長くなりましたので、薬王院だけ別にご報告いたします。薬王院の公式サイトはこちらです。

Img_1259 山門です。
 薬王院の正式名称は、高尾山薬王院有喜寺。天平16年(744年)に聖武天皇の勅命により開山。本尊は薬師如来でした。
 永和年間(1375年 - 1379年)に飯縄権現を守護神とした頃から、修験道の性格も加わりました。

Img_1258 さて、恒例の仁王様は……。あれ?変な人が入ってるぞ。何でしょう。神社の鍾馗様でもないし。四天王の誰かでしょうか?

Img_1257 その先の真新しい仁王門に、仁王様がいました。阿形だけご紹介。

Img_1251 そして大本堂です。建立は明治34年(1901年)と新しいですが、細かく彫刻が作り込まれ、さまざまな札やら旗やらの装飾も加わって、参拝客が多くて栄えているお寺の印象です。このなかに開山時の本尊の薬師如来と、途中で加えられた本尊の飯綱権現が祀られているはずですが、拝観することはできません。たまにご開帳をしているようなので、機会があったら行きたいと思いますが、いつかよくわかりません。
 薬師如来の写真はちょっとググったんですけど見つかりませんでした。
 飯綱権現の方は、薬王院の公式サイトに写真があります(http://www.takaosan.or.jp/about/img/gongensama_2.jpg)。なかなかの異形です。烏天狗のようにクチバシがあり、背中には羽根があります。右手に剣、左手には索を持つところは不動明王のようですが、索を上から掴むように持っているのが気になります。光背はメラメラと炎のごとく、頭上でグルグル渦巻いてます。狐に乗っており、その狐の口は金剛杵を咥えております。
 しかしこの写真が、薬王院の御本堂のものかどうかは書いてないのでわかりません。

Img_1253 軒下には、でっかい烏天狗のお面が飾られています。

Img_1239 こちらが御本社(権現堂)です。こちらははっきりと権現造の神社形式ですね。現在の本殿は(享保14年)1729年建立され、幣殿と拝殿は宝暦3年(1753年)にが建立されたそうです。

Img_1237 美しく彩色された彫刻が見事です。

Img_1236 人物の顔など、どこかマンガチックです。

Img_1234 奥の院(不動堂)です。室町以前の作の「木造不動明王及び二童子立像」が祀られているそうですが、これも拝観はできません。

2015/04/23

【堺市観光】国宝桜井神社、仁徳天皇陵、穴子寿司@深清鮓、茶寮つぼ市製茶本舗

Img_3217 3月中旬の関西の旅、あまみ温泉南天苑を後にしたぽん太とにゃん子は、大阪府堺市にある唯一の国宝がある桜井神社を訪れました。
Img_3215 住宅地のなかにある小さな神社です。寺院風の門の奥に見える拝殿が国宝に指定されております。上の写真がそれですが、シンプルでなんとなく古風な感じがしますね。鎌倉時代の建築だそうですが、神社の拝殿はあまり古い物が残っておらず、貴重なんだそうです。公式サイトは見当たりませんが、こちらのサイトが詳しいです。
Img_3218 おやくそく、狛犬君(向かって左)です。
Img_3219 続いて向かって右の狛犬君。
Img_3222 建物の真ん中を道が貫通しているのが特徴で、割拝殿(わりはいでん)と呼ばれるそうで、全国的に珍しいそうです。石上神宮にある摂社・出雲建雄神社拝殿(国宝)も割拝殿なんだそうですが、ん?なんかそれ、昔見たぞ。
Img_2438 探したらありました。これが出雲建雄神社拝殿ですね。確かに割れてます。う〜ん、まったく意識してなかった。ぽん太のおばかさん。
Img_3228 まんなかの通路は当初からあったものではなく、後から改築されて作られたものと考えられているそうです。
Img_3229 側面は、二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)と呼ばれる構造が珍しいそうです。横向きのぶっとい柱(虹梁)があって、その上に富士山みたいな格好をした部材(蟇股)が二つあります。その上にもう一本やや短めの横向きの柱(虹梁)があり、まんなかにもひとつ蟇股が乗っております。これを人呼んで二重虹梁蟇股といい、古い建築形式なんだそうです。
Img_3232 正面の戸は桟唐戸(さんからと)と呼ばれ、材木で桟を作り、板をはめ込んでいます。鎌倉時代に中国から伝わった、当時の最先端のデザインなんだそうです。
Img_3230 内拝殿と、それに続く幣殿、本殿。
Img_3225Img_3226 内拝殿の前の狛犬君です。

Img_3234 他に観光する所がないかガイドブックを見ると、なんと「仁徳天皇陵」が!そういえば仁徳天皇陵って、小学生の頃から教科書で見てたけど、一度も行ったことがなかった、というか、こんなところにあるとは思ってなかった。早速行ってみよう!
 と、駐車場に車を停めたものの、掘りに囲まれた広大な敷地があるだけで、どこをどうみたらいいのか全く分からん。正面のところに行ってみると、ボランティア・ガイドさんがいて、詳しく説明してくれました。
 一般客は手前の柵のところまでしか入れません。その先に小さな濠があって、鳥居がありますが、さらにその向こうに大きな濠があって、向こうに緑の山が見えます。そこが例の鍵穴の格好をした古墳の部分ですね。内部は宮内庁管轄のため、滅多なことでは入れません。天皇陛下が訪れたときでさえ、鳥居のところまでだったそうです。ちなみに正式には、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)と呼ばれるそうです。ホントに仁徳天皇の墓なのか?という問題もありますが、内部の発掘調査ができない以上、何とも言えないそうです。
Img_3237 仁徳天皇陵は、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに、世界三大墳墓と言われております。高さではピラミッドが、容積では始皇帝陵が、そして面積では仁徳天皇陵が世界一なんだそうです。
Img_3233 その後、向かいにある堺市博物館で無料の解説ビデオを見ました。写真は、堺市博物館のマスコットキャラ、サカイタケル君。こ、これって「せんとくん」じゃん。あゝ、同じ奈良県だからいいのか……って、堺市って奈良じゃなくて大阪じゃん。まさかこれってパ・ク・リ?
 ぐぐってみると、サカイタケル君もせんとくんも、同じ彫刻家・籔内佐斗司さんのデザインなんだそうな。それならパクリではないけど、「使い回し」なんじゃないの?ちなみに籔内さんは、堺市出身なんだそうです。
 で、無料の解説ビデオですが、できたばかりの仁徳天皇陵をCGで見せてくれたのですが、段丘状の斜面は石で整然と覆われ、埴輪で飾られて、とても美しく壮大でした。海から堺を訪れると、仁徳天皇陵を初めとする古墳群が目に飛び込んできて、それはそれは見事で雄大な景観だったようです。

Img_3239 お腹がすいたので、堺市内の深清鮓(ふかせずし)で穴子寿司をテイクアウトしました。
Img_3252 箱寿司もありましたが、ここはやはりにぎりを選択。柔らかくて美味しゅうございました。
深清鮓
ジャンル:寿司屋
アクセス:阪堺電気軌道阪堺線御陵前駅 徒歩5分
住所:〒590-0834 大阪府堺市堺区出島町1-1-22(地図
周辺のお店:ぐるなびぐるなび 堺×寿司
情報掲載日:2015年4月22日

Img_3245 小腹が空いたので、堺市内の茶寮つぼ市製茶本舗でスイーツをいただきました。公式サイトはこちら
Img_3242 抹茶ともなかのセットだったかな?もなかは、自分でアンコと白玉を入れて頂きます。
Img_3234_2 にゃん子は、抹茶のお菓子の盛り合わせみたいなのを注文しました。
 観光も面白かったけど、堺の住人との話しも興味深かったです。堺は「東洋のベニス」などとも言われますが、それは景観だけでなく、自由都市として繁栄してきた堺市民の気構えも含んでいるそうです。フィギュアスケートの高橋大輔や町田樹が育った大阪府立臨海スポーツセンターが財政難から閉鎖されそうになったとき、匿名で1億3千万円をポンと寄付した人がいたそうですが、そういう気風が堺には昔からあるんだそうです。ぽん太は、織田信長の楽市楽座で堺が繁栄したとか習った気がしたので(実はデタラメであるが)、信長の名前を出したら突如興奮し、「信長は堺に大金を出させようとした。はむかったけど脅されて、仕方なく払った。その後も堺を支配しようとするさまざま政治家と戦ってきた。そして今は橋○さんだ。堺を大阪の一部にするなんてもってのほかや。ほならいっそ、大阪都じゃなくて堺都にせい、てなもんや」とのたまわってました。

2015/03/23

【最上】アンバランス?元木の石鳥居(重文)、目出た目出たの?若松観音(鈴立山若松寺)

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 上の写真、縦横比を間違えてアップしたわけではありません。ホントにこんなにぶっとい鳥居なんです!
 2月下旬のことですが、雪のなか、山形市とその周辺をぽん太とにゃん子は観光しました。そのとき立ち寄ったのが、この「元木(もとき)の石鳥居」です。山形市内の住宅地のなかに建っており、実際に見ると「ナニコレ〜」という感じです。
Img_2973 案内板にあるように、国指定の重要文化財です。凝灰岩製で、平安時代に建てられたと言われており、日本で最も古い時代に作られた鳥居のひとつだそうです。笠木、島木、貫などの用語は、Wikipediaを御覧下さい。
Img_2971 う〜ん、アンバランスさがいいですね。鳥居はありますが、その後ろにあるべき神社の社殿がありません。後ろに赤い鳥居と小さな祠がありますが、石鳥居とは違う向きに作られています。
Img_2976 額に「鳥居稲荷神社」と書かれています。石鳥居の圧倒的なパワーを祀るべく、あとから建てられたものでしょうか。
Img_2977 細い石の柱の上にでっかい天然石が乗っけられたアンバランスな石灯籠。安定感がありすぎる石鳥居の横に、あえて不安定な石灯籠を建てることで、均衡をとりたくなった気持ちはなんとなくわかります。
 山形市にはもうひとつ重要文化財の「成沢の石鳥居」があり、天童市の「清池の石鳥居」と併せて「最上の三鳥居」と呼ばれているそうです。そのうち訪問してみたいと思います。

Img_2954 ついで、天童市にある鈴立山若松寺( れいりゅうざんじゃくしょうじ)に行きました。若松観音と呼ばれ、信仰を集めているようです。「〽めでためで〜た〜の〜、若松さ〜ま〜よ〜」という歌詞で始まる花笠音頭、若松様ってくらいだから会津の民謡だと思っている人も多いようですが、もちろん山形民謡です。で、じゃあ若松様って何かというと、この若松寺のことだという説があります。ただし若松寺の公式サイト(こちら)では花笠音頭にはまったく触れていないので、真偽は不明です。
 お寺に近づくにつれて雪が深くなってきます。途中に「4WD以外この先通行できません」の表示がありました。
Img_2955 若松寺に到着。門前の茶店で甘酒でも飲ませてもらおうかと思いましたが、当然のことながら営業しておりません。
Img_2958 地蔵堂です。「子育て地蔵」と呼ばれているそうで……
Img_2959_2 内部には特徴的なものが奉納されております。
Img_2964 国指定の重要文化財の「観音堂」ですが……雪の山で覆われていて見えましぇん!
Img_2963 室町時代に建立。慶長年間に山形城主の最上義光が大改修を行いましたが、そのとき最上に多いけど建築にはあまり使われないブナ材を多く用いたことが特徴だそうです。
 若松寺にはこの他にも「板絵著色神馬図」や「金銅聖観音像懸仏」といった重要文化財があるようですが、どこにあっていつ見られるのか、よくわかりませんでした。

 若松観音に参拝するときは、季節を選んで行きましょう。

2013/06/27

【フロイト「不気味なもの」を読む(10)】思考の万能性(p33〜P35)

 フロイトの「不気味なもの」を読み進めております。テキストは岩波書店の『フロイト全集17』です。
 不気味なものの実例として次にフロイトが挙げるのが、「思ったことが実現する」というものです。フロイトは「ポリュクラテスの指輪」を取り上げますが、もちろん無教養のぽん太には初耳です。ありがたいことに訳注がついていて、シラーのバラード作品とのこと。へ〜、しらーんかった。
 このバラードの邦訳がどの書籍に収録されているのか、ググってみてもよくわからないのですが、ありがたいことに原文と邦訳をこちらで読むことができます。あらすじは以下の通りです。

 サモス島の攻略に成功したポリュクラテス王は、「私が幸せであるということに異存はあるまい」とエジプト王に話しかけた。
 エジプト王は「まだ一人、あなたに服従していない敵がいる」と言ったが、言い終わらぬうちに死者がやってきて、その敵を倒したと首を差し出した。
 そこでエジプト王が「あなたの艦隊が嵐に遭うことだってある」と言うと、まさに艦隊が到着した。
 驚いたエジプト王が「まだクレタ島の軍勢がこちらに向かっている」と言うと、直ちに「クレタ島の軍勢を追い払った」という勝利の勝ちどきが聞こえてきた。
 エジプト王は、「幸運に恵まれすぎた者は、神々の嫉妬を恐れなければならない。純粋な歓びを神から与えられた人間はいない。不幸を呼びよせるために、最も大切にしているものを海に投げ込みなさい」と言った。
 それを聞いて恐ろしくなったポリュクラテス王は、自分が何よりも大切にしている指輪を海に投げ捨てた。
 翌朝、漁師が、めったに見られぬ大物が網にかかったと、王様に魚を献上しにやってきた。料理人が魚をさばくと、中から、海に投げ捨てた指輪が出て来た。
 エジプト王は恐怖にとらわれ、災難の道連れにならぬようにと、早々にその場を立ち去った。

 ということは、フロイトのテクストのなかで、「友」というのがポリュクラテス王で、「来客」あるいは「彼」というのがエジプト王ですね。すると「友自身が与える『幸運に恵まれすぎた者は、神々の嫉妬を恐れなければならない』という解説は」というのは誤訳で、「友自身」ではなくて「彼自身」ですね。人文書院の『フロイト著作集』の訳は、そうなってます。
 「思ったことが実現する」ことの二番目の例としてフロイトが挙げているのは、彼が分析をした強迫神経症患者の体験です。彼がある水浴施設に滞在したとき、希望した部屋(魅力的な女性看護人の小部屋の隣りでした)が高齢男性によって塞がっていたため、彼は「卒中発作にでも見舞われろ」と言ってうっぷんを晴らしました。すると2週間後に、その男性は実際に卒中の発作に襲われたそうです。
 脚注に、この患者が有名な「鼠男」であることが書かれています。「強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕」を読み返してみると、確かにそのことが書かれています(岩波書店『フロイト全集10』258ページ)。ははあ、彼はその看護婦さんと性的な関係を持ってたんですね。
 「不気味なもの」のテクストに戻ると、フロイトは「私が調べた強迫神経症の患者はみな、これに類することが身の上に起ったと物語ることができた」と下記、さらにいくつかの例を付け加えております。
 強迫神経症患者が「みな」このような体験を持ってるかどうかは、ぽん太は全員の強迫神経症患者に確かめたわけではありませんが、「ホントかな?」という気がします。
 さて、次にフロイトが挙げている不気味なものは、「邪悪な眼差し」です。これに関してフロイトは、その現象も心理学的な機序もよく知られたものとして扱っているようで、はっきりと書かれていないのですが、自分の眼差しによって相手に悪い影響を与える、といった現象でしょうか。フロイトはS. ゼーリヒマンの『邪悪な眼差しとそれに類似のもの』という本をあげていますが、ちょっとググってみてもわかりませんし、深入りする必要もないでしょう。
 フロイトは、「思ったことが実現する」あるいは「邪悪な眼差し」などの根底には、彼が患者(鼠男)が用いた言葉から名づけた「思考の万能」という原理があると言います。この概念に関しては、脚注に書かれているように、フロイトが既に『トーテムとタブー』(1913年)で論じていることであり、ここでもそれが繰り返されています。すなわち、「思考の万能」は原始的な「アニミズム」の思考と類似であり、また人間は発達の過程でアニミズム的な段階を経過する。この段階はわれわれのなかに残渣として残るが、その残渣に触れるような出来事は、「不気味なもの」として感じられる。
 ぽん太からすると、「思考の万能」がアニミズムと類似であるということは「そうかな」と思うし、人間の発達段階の途中でアニミズム的な状態を経過するということも、「そういうこともあるかな」と思いますが、不気味なものはすべてアニミズム的な心の残渣に触れるものであると言われても、そこはちょっと納得できない気がします。

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