カテゴリー「鉄道模型」の7件の記事

2021/01/03

【鉄道模型】青梅電気鉄道1号形電気機関車・その2(1/80、16番)

 ということで、青梅電気鉄道1号形電気機関車(正確には2号形)の3番機、1929年(昭和4)5月から1940年代初めに1013に改番されるまでの間の姿を、模型化することにしました。しかし技術や気力の関係で断念したところや、よくわからずに推測で作ったところなどがあるのはご容赦を。

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 下廻りで一番悩んだのは、砂箱と、デッキの梯子。
 砂箱は逆おむすび形のものがついていたようですが、探してみてもそのようなパーツはなし。ダイカストの台車と一体に成形された砂箱を削り取り、新たな砂箱を真鍮ブロックから削り出して取り付けるのは、ちょっと気持ちが萎えてしまって、そのままにしました。砂撒管は、適当なパーツを取り付けました。
 キットにはデッキの梯子がついておりましたが、これは1955年の写真にはなく、1956年のED36の写真で初めて現れるもの。そこで写真を見ながら、真鍮アングルからステオップを自作し、デッキ側面、砂箱の上のところにとりつけました。これで少し古風な感じになりました。
 車体前部の下部にある小エアタンクは、まるで救助犬セントバーナードの首の樽みたいな、可愛らしいパーツ。本来は床板に固定されているもので、キットでもそうなっておりますが、急カーブ対策として取り外せるようになっております。しかし走らせるたびに取り外すのはめんどくさいので、思い切って台車に固定する構造にしました。邪道と言えば邪道ですが、そもそも1/80で16.5mmゲージというところに問題があるわけですから、どこかにしわ寄せが行くのは仕方ありません。
 カプラーはIMONカプラー(HO109)。側面のエアタンクにはパイピングを施しました。小さいけど付けると細密に見える空気溜ドレンコックは、形が似ているエコーモデル(1221)のパーツ。
 下廻りを組み立てて試運転したところ、ガタガタと引っ掛かってうまく走りません。調べてみると、パワートラックの車軸についているギアーが劣化して割れてました。キットを買ったのが30年くらい前なので仕方ないか。新たに購入しようと思ったのですが、この天賞堂製のパワートラックは、すでに新しい製品に更新されています。ネットで模型店の在庫を調べまくり、神戸市の鉄道模型店に在庫があるのをようやく見つけて、送ってもらいました。
 
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 上回りに行って、側板はほぼキット通り。

 妻板ですが、ドア横の小窓は国鉄のED36になってから開けられたもののようです。しかしそれに気づいたのは工作がかなりすすんでから。そこから真鍮板で塞ごうとすると、全てがバラバラになりそうだったので、後の祭りということで諦めました。

 下部左右にある吊りかけ式(?)のテールライト は、輸入当時の写真を見ると、埋め込み式のフラットなライトになっているようです。パーツをいろいろ探し、Nゲージ用の「湘南形ヘッドライト(100Wタイプ)P210」(BONA FIDE PRODUCT製)を利用。

 昔のワイパーはどうなっているのかと、写真を目を凝らして見つめたのですが、なんか写ってません。ひょっとして昔ってワイパーがなかったのかな。そういえば蒸気機関車はワイパーないし(雪国では旋回窓があるけど)。

 そこでワイパーの歴史を調べてみると(進化していないようで進化している?ワイパーの歴史https://car-me.jp › articles )、自動車の世界で1903年に初めて手動式ワイパーが発明されました。手動ワイパーが初めて標準装備されたのがキャデラックで、1922年のこと。同年にTri-Continental Corporationがエンジンの動力を利用した真空式ワイパーを開発しましたが、エンジンの回転数によって速度が変わり、エンジンが止まるとワイパーも止まってしまうという不便なものでした。電動式ワイパーは、1926年にBOSCHが初めて開発したそうです。

 とすると、1920年代末に作られた青梅電気鉄道1号形には、やはりワイパーはなかったかも。蒸気機関車と同じように、視界が悪い時は側面の窓から顔を出して前方を確認していたのでしょう。

 ということでワイパーはつけないことに決定。後年に加えられた手すりも取り付けず、取り付け用の穴をハンダで塞ぎました。

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 屋上に目を向けると、まず大きなパンタが目につきます。いろいろ探してみると、安達製作所のEE型パンタグラフ(No.016)(現在は品切れ)というのが見つかりました。横向きの碍子のかたちまでぴったりです。関節部の左右を結んでいる棒は切除しました。
 ED36やE41では、屋根上の片側に並んだベンチレーターや、ランボードが目を引きますが、輸入当初は無かったようです。代わり、高圧引き込み線を支える碍子がずらりと並んでいたようです。上から撮った写真がなく、側面からの解像度の悪い写真しかないので細部がわからりません。ここは想像でそられしく作ってみました。本当にこんなになってるかどうかわかりませんが。
 タイフォンも思わず目を引く可愛らしいアイテム。アルモデルのタイフォン(C3039)を加工して、大小2つが並んだ姿を再現しましたが、なかなかいい感じです。二つのタイフォンの音がハモって鳴るのが聞こえてきそうです。
 運転席と機械室を分ける壁を、真鍮板で作成。『青梅線玉手箱 眠りからさめた鉄道資料』(青梅市郷土博物館、2005年)に、なんと昭和2年(1927)の日付の2号機電気機関車の組立図があります。簡略な図ながら、内部の貫通路が左右非対称で中心からずれていることなどがわかり、壁のドアの位置も非対称にしました。
 運転台イス(エコーモデル、No.1693)、電車用運転台(旧型用)(エコーモデル、No.1685)を取り付け、片側に機関士人形(KATO, 6-511)を座らせました。
 

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 実は一番苦労したのが青梅電気鉄道のマーク。「青梅」ということで、梅の花の形をした可愛いマークです。もちろん模型用パーツがあるはずもなく、𝝓1.0mm の真鍮パイプを整形しながら6個組み合わせ、レンコン状にしたものを薄切りして作成しました。色は、白黒写真しかないのでわかりません。熟す前の「青梅」の色は、黄緑っぽい色です。また江戸時代に青梅で作られていた染物「青梅縞」の色は藍色で、現在の青梅市でも濃い青色をOme Blueと名付けて観光プロモーションしているようです(Ome Blue(青梅ブルー)公式ホームページhttps://omeblue.tokyo )。どこかに問い合わせればわかるのかもしれませんが、ここは自由に作ることにして、梅の花をイメージしたピンクにしてみました。

 塗装は、輸入当時の色はわかりませんが、ピンクで遊んだ分ここは常識的に、上回りがぶどう色1号、下廻りが黒としました。久々にエアブラシを使ったら、劣化したチューブから油滴のようなものが出てきて、塗装面が荒れてしまいました。シンナーのバケツにドボンして塗り直す気力もなく、「まあいいや」ですませました。

 例によって最後にタミヤのウエザリングマスターで、錆や埃を控えめにウエザリング。

 ナンバープレートは、本物はやや横に長い楕円形をしているようですが、円形のパーツしか見つからなかったので、それを利用しました(ナンバープレート セット2(C3005)アルモデル)。地の色は黒ではつまらないので、ピンクとの相性から青色にしてみました。ちょっとヨーロッパぽくなったかも。

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 車体下部の台枠に、それらしい検査表記のインレタ を貼りました。その横の「青梅電氣鐵道」の表記は、デカールを特注するほどの元気はなかったので、エーワンのデカールシール(品番81023)を初めて使ってみました。字体は古風な雰囲気を出すために教科書体を使用。社名表記がいつまで旧字体で、いつから新字体になったのか、これもググってみたけどよくわかりません。写真からも、解像度が悪くて読み取れず。古めかしさを出すために旧字体を採用しました。このデカールシールは、染料インクのプリンタ用に作られており、うちのプリンタは黒だけ顔料なのですが、なんとかなりました。白地のシールに、ブドウ色1号で白抜き文字を印刷して作ったので、よく見ると長方形にテカっておりますが、肉眼ではそんなに目立たず、いい感じの仕上がりです。

 台枠の反対側にはイングリッシュ・エレクトリック社の長方形の銘板が、そして車体側面には円形のDick Kerr社の銘板があります[a]。市販のパーツは、イギリスの模型屋さんもググってみたのですが見つからず。ならばとプリンタでそれらしいものを印刷して作ろうとしましたが、解像度が悪くて使い物にならず。エッチング特注までする気はないし。ちょっと似ている東芝の円形の銘板を貼ろうかとも思いましたが、これはこの機関車の表札というか、名刺というか、顔みたいなものなので、インチキするよりは、無しを選びました。そのうち手に入ったら貼り付けたいと思います。

 

 

[1] 「私鉄買収電機の系譜〈下〉 (RM library (4))」 ネコ・パブリッシング 1999年

[2] 「電気機関車展望 1」久保田敏、日高冬比古著、交友社、1976年

 ネット上では、

[a] 東武鉄道の電気機関車 - Gゲージ鉄道模型・風雅松本亭:ED36と同形な、東武博物館に保存された東武ED101型の写真。

2021/01/02

【鉄道模型】青梅電気鉄道1号形電気機関車・その1(1/80、16番)

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 コロナ禍の自粛生活を利用して、青梅電気鉄道1号形電気機関車が完成いたしました。

 と聞いても「なにそれ」と言う人が多いかと思いますが、国鉄のED36形、西武鉄道のE41形と言ったらわかるでしょうか。ぽん太も東京育ちなので、子供のころ見たピンク色のE41形をカッコイイと感じたのを覚えてます。デッキを備え、正面の扉が偏っていて、前後・左右で異なる窓配置、側面のベンチレーターなど、独特の風貌が魅力。それもそのはず、元々はイギリスから輸入された電気機関車なのです。

 いつ買ったのか覚えていない(おそらく30年くらい前)フクシマ模型のED36キットを作り始めたのは数年前。このキットはED36としてもE41としても組み立てられる仕様なたのですが、国鉄旧型電気機関車ファンのぽん太としては当然ED36として、しかも写真で見た大型パンタを中央に一基備えた姿でくみたてようと考えました。

 ところがいろいろ資料を集めている過程で、嘘かホントかパンタが一基なのは戦争の物資不足が関係しているなどという記述を見つけ、平和主義者のぽん太としてはちょっと迷いが出てきました。そしてさらに様々な写真を眺めているうちに、イギリスから輸入した直後の青梅鉄道時代の姿が、エキゾチックで古風でとっても魅力的に見えてきました。

 という次第で青梅鉄道1号形として組み立てることに決定! しかしながら、ぽん太の技術不足から作りきれなかったところや、資料が足りずに想像で作った部分もあるのはご勘弁を。正確には「青梅電気鉄道1号形スタイル」といったところでしょうか。

 

 青梅電気鉄道1号形は、イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社から輸入されました。同社から輸入された電気機関車としては、側面にずらりと並んだベンチレーターが印象的なED17や、複数の孔があけられた台枠のEF50が有名ですね。これらはディック・カー(Dick Kerr)工場で製作されたため、日本ではディッカーという愛称で呼ばれました。

 実は日本の輸入電気機関車のうち、一番両数が多いのがEE社製でした。ただ当時のイギリスの電気機関車性能が良かったわけではなく、トラブルも多かったようです。このような問題のある電機を大量に輸入した背景には、当時の日英通称の政治的思惑が絡んでいたなどという噂もあるようです。

 青梅鉄道は4両を輸入しましたが、同形機が総武鉄道(現在の東武)、秩父鉄道、伊勢電気鉄道(現在の近鉄)などにも導入されたようです[1][a]。

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 さて、まず青梅鉄道1号機1-4の歴史と移り変わりをまとめましょう[a][f][g]。

青梅鉄道1号形1

青梅電気鉄道1号形1

青梅電気鉄道1号形1011

国鉄1011

西武鉄道41

西武鉄道E41

廃車解体

青梅鉄道2号形2

青梅電気鉄道2号形2

青梅電気鉄道2号形1012

国鉄1012

西武鉄道42

西武鉄道E42

廃車解体

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青梅電気鉄道2号形3

青梅電気鉄道2号形1013

国鉄1013

国鉄ED361

西武鉄道43

西武鉄道E43

廃車、横瀬で保管


青梅電気鉄道2号形4

青梅電気鉄道2号形1014

国鉄1014

国鉄ED362

西武鉄道44

西武鉄道E44

廃車、横瀬で保管

JR新鶴見機関区で保存?

 青梅鉄道の立川 - 青梅間が開通したのが1894年(明治27)。青梅の石材や織物、木材、日向和田の石灰石の運搬が主な目的でした。

 1926年(大正15)、イギリスのイングリッシュ・エレクトリック社から電気機関車を1台輸入。1号形1となりました。ついで1927年(昭和2)と1929年(昭和4)10月の2回に分けて、3両が輸入されました(細かい内訳不明)。1号形とは自重や細部がことなるため2号形-2,3,4とされましたが、実質的には同一形式です。

 同時期の1929年(昭和4)5月に、青梅鉄道は「青梅電気鉄道」に社名変更しております。

 1931年(昭和6)、青梅電気鉄道西立川駅と、南武鉄道立川駅のあいだに貨物連絡線ができ、共同運行が行われるようになります。

 これに伴って、1 - 4番機が、順番に1011 - 1014に番号変更となります。その時期は不明ですが、1941年4月12日に撮られた1番機[2]、3番機[1]の写真があるので、それ以降と考えられます。

 1944年(昭和19)4月1日、青梅電気鉄道が鉄道省に戦時買収されます。当時の例に倣って、買収後も私鉄時代と同じ形式番号で運用されました。

 1948年(昭和23)5月に1012、11月に1011が廃車され、西武鉄道に譲渡され、41形(1011→41、1012→42)となります。

 1952年(昭和27)、1013,1014に国鉄形式番号が与えられ、ED36形1,2となりました。

 1960年(昭和35)、ED361、ED362が廃車となり、西武鉄道へ譲渡され、それぞれ41形43、44となりました。

 1961年(昭和36)、西武鉄道の41形がE41形に変更となり、41 - 44は、それぞれE41-E44となりました。

 1976年(昭和51)、E41は廃車・解体処分。

 1986年(昭和61)、E42も廃車・解体処分となりました。さらに翌1987年(昭和62)、E43、E44があいついで廃車となりますが、両者は解体されずに横瀬車両基地に保管。E44はさらに1990年(平成2)にJR貨物に譲渡され、新鶴見機関区で動態保存。2015年(平成27)に搬出されたという情報がありますが、詳細不明です。

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 さて、フクシマ模型のキットはED36-1(E43)を模型化したと書いてあるので、青梅の1号形 - 3ということになります。これが輸入されたのが、1927年(昭和2)か1929年(昭和4)10月のどちらか。そして1929年(昭和4)5月に青梅鉄道は青梅電気鉄道に改名されておりますから、3番機には短期間の青梅鉄道時代があったのかもれしませんし、なかったのかもしれません。それ以後1013に番号が変更となるまで(上記のように、1941年4月から1944年4月1日の間のどこか)が、今回のぽん太の模型の年代設定となります。(その2 に続く)



参考文献

[1] 「私鉄買収電機の系譜〈下〉 (RM library (4))」 ネコ・パブリッシング 1999年

[2] 「電気機関車展望 1」久保田敏、日高冬比古著、交友社、1976年

[3] 「青梅線玉手箱 眠りからさめた鉄道資料」青梅市郷土博物館、2005年(平成17年10月4日から18年1月15日まで青梅市郷土博物館で行われた同名の特別展の図録)参考サイト

[a] 青梅鉄道1号形電気機関車 - Wikipediahttps://ja.wikipedia.org › wiki › 青梅鉄道1号形電気機...:ご存知Wikipedia

[b] フクシマ 国鉄ED36形 - 岡山模型店DANhttp://www.lok.jp › ed36:フクシマ模型ED36の完成写真。

[c]  西武鉄道 横瀬車両基地の保存車 E43http://c5557.photoland-aris.com › yokoze › yokoze-E43:横瀬に保存されている西武鉄道E43の写真。

[d]  東武鉄道の電気機関車 - Gゲージ鉄道模型・風雅松本亭:ED36と同形な、東武博物館に保存された東武ED101型の写真。

[e] English Electric Traction for Japan – Railway Mattershttps://twsmedia.co.uk › english-electri...:英語のサイトですが、イングリッシュ・エレクトリック社から日本に輸出した電気機関車について書かれているページで、そこに秩父鉄道の同形機の写真?あり。

[f]  青梅線 - Wikipediahttps://ja.wikipedia.org › wiki › 青梅線

[g] JR東日本八王子支社|中央線まめ知識|青梅・五日市線の歴史https://www.jreast.co.jp › chuousen › history_oume

2014/02/17

【鉄道模型】トラ6000プラキット(HO1067、Models IMON)

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 ワム50000と同時にトラ6000も作ってみました。

 参考サイトはこちら!
IMON ワム50000 プラキット/models IMONの製品紹介ページ。ご購入もこちらから。
IMONプラ貨車、トラ6000 | 拝啓 井門義博です/井門氏のブログ。トラ6000の製作記。
国鉄トラ6000形貨車 - Wikipedia
[PDF]橡 トラ6000/トラ6000の形式図のpdfファイル。
貨車のページ 無蓋車編/トラ6000を含む無蓋車の写真あり。

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 トラ6000形は、戦前から戦後にかけて、汎用の無蓋車の主力として全国で使用されました。
 1941年(昭和16年)から1954年(昭和29年)にかけて計6,122両が新製されました。他形式から編入されたものも合わせると、総数は6,649両に及ぶそうです。一部が戦時中にトキ66000形に改造され、戦後に復元されるなど、複雑な経過を辿っているようです。
 1968年(昭和43年)10月国鉄ダイヤ改正時までにほとんどが2段リンク式に改造され、残りはトラ16000形に改称されて北海道で使われました。
 1965年(昭和40年)から廃車が始まり、1983年(昭和58年)に形式消滅となりました。

 作り方は、ワム50000と基本的に同じです。車輪は12φ 9.8スポークPL長軸黒車輪、カプラーはIMONカプラーHO101、インレタトラ6000用インレタを使用しました。
Img_7801 金属製のアオリ戸押さえは、井門氏のブログにあるように確かにかなり華奢なパーツなので、井門氏の失敗を参考に、折り曲げた部分にハンダを流しておきました。
 また井門氏の言う通り、この模型は手すりや札受けの位置に問題があるため、インレタを貼るスペースがなかったりします。井門氏はしかたなく別の位置に貼ったようですが、ぽん太は貼れないものは省略しました。
 アオリ戸押さえの接着には合成ゴム系を使用。つや消し黒のラッカー系スプレーで塗装したのち、タミヤのウェザリングセットで軽くウェザリングを施しました。
 次はこいつらを引っ張るものを造りたいところですが、いつのことになるやら。

2014/02/16

【鉄道模型】ワム50000プラキット(HO1067、Models IMON製)

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 Models IMONのワム50000プラキットは、HO1067の車両が格安で手に入るという、ありがたい製品です。プラスチック製ということで、正月休みを利用して気軽に作ろうと思ったのですが、けっこう時間がかかってしまいました。

 参考URLはこちら!
 ・IMON ワム50000 プラキット | 鉄道模型 Models IMON/購入もこちらから。
 ・ワム50000を組立る | 拝啓 井門義博です/井門氏のブログ。自身による製作記があり、参考になります。
 ・ワム50000 - 筒井俊之の貨車研究サイト/ワム50000のデータや豊富な写真、形式図のpdfファイルもあり。
 ・国鉄ワム50000形貨車 - Wikipedia

Img_7795 ワム50000形は、1940年(昭和15年)から各社によって製造され、1946年(昭和21年)までに合計3645両が製造されました。前身のワム23000が鋼製だったのに対し、ワム50000は戦時設計だったため、木造に後戻りしました。筋交いの入った鉄柱に横羽目式の木造構造は、古風な魅力があります。
 1956〜57年(昭和31〜32年)に、90両が車体の鋼体化と2段リンク化の改造を施され、ワム90000形に編入されました。
 1963年(昭和38年)から、約半数の車両に対して、雨漏り対策として羽目板を耐水合板に交換する工事が進められました。同時に大部分に2段リンク化が施されました。
 1968年10月ダイヤ改正時に2段リンク化されていなかった26両は、ワム150000形と形式変更され、北海道で使われた後、1970年(昭和45年)までに全廃されました。
 大部分はダイヤ改正後も引き続き使用されましたが、1970年代前半から廃車が始まり、1985年(昭和60年)までに全廃されました。

 さて、キットに戻りますが、井門氏のブログでは塗装をしてから組み立てているようですが、塗装面同士の接着だと強度的に不安な気がしたので、ぽん太は組み立ててから塗装をすることにしました。
 さらにブログによると、このキットの素材は、一般のプラモデルに使われているスチロールではなく、ABS製とのこと。なんだそりゃ、とググってみたところ、普通のプラモ用の接着剤ではうまくくっつかないらしい。あわてて近くのホームセンターに行ってみたら、セメダイン 接着剤 ABS用というのがあったので、それを使うことにしました。
Img_7797 実はこのキットを通販で買ったとき、1台のつもりで、うっかり2台注文してしまいました。まったく同じものが2両というのも芸がないので、一両を耐水合板製に改造することにしました。このキットでは羽目板の合わせ目が凹ではく凸で表現されているので、それを削り取りました。ルーターにヤスリを付けて削り取り、残った隅っこの方は時計用マイナスドライバーのさきっちょでガリガリしました。完全にフラットにはなりませんでしたが、感じは出たと思います。削り終わってから写真を良く見ると、耐水合板製でも、中央に横一本つなぎ目があるようです。筋を一本だけ残しておけばよかったのですが、後の祭りです。凹の削り目を新たに入れることも考えましたが、失敗する可能性大なので止めました。
 また、手すりや連結器の開放テコも浮き彫りで表現されております。削り取って真鍮線で作り直す手もありますが、そこまでするなら最初から真鍮製のキットを買え!という気がしてきて、そのままにいたしました。
Img_7796 車輪は、IMON製の12φ9.8スポークPL長軸黒車輪を使いました。
 塗装は、再び近所のホームセンターで買った、ABSに塗装可能なラッカー系スプレーのつや消し黒を用いました。屋根は、同じくホームセンターで仕入れたストーン調のスプレーを吹いてみました。ちょっと粒子が粗すぎましたが、まあ良しとしました。
 ワム50000用インレタを使ってみましたが、これも慣れない作業で歪んでしまいました。だんだんとコツをつかんではきたのですが、現時点での技術力を反映していると考え、剥がしてやり直すのは止めました。
 妻板のブレーキ位置表示はデルタモデルの16番用があるとのことなので、買って試してみたのですが、古いものだったのかうまく転写できず、あっさりあきらめました。
 カプラーは、HO-101 IMONカプラーを取り付けてみました。ケーディーカプラーに比べて一回り小さいし、組み立てた状態でパチッと整うので、扱いやすいですね。確かにぽん太はこれまでケーディーのアームを使ったことは一度もありません。大きなレイアウトを持っている人でもなければ、アームはいらないと思います。
Img_7793 この車両が、ぽん太のHO1067デビューとなります。鉄道模型を始めた子供の頃から、16番(1/80, 16.5mm)のプロポーションには不満を持っておりました。線路幅が広すぎて狭軌の感じが出ない上に、下回りの彫りが薄っぺらになります。こうした不満のために、1/80, 13mmがあるわけですが、1/80という縮尺も13mmという線路幅も、日本独特のガラパゴス規格という欠点があります。だったらいっそのこと、国際的な縮尺(1/87)にあわせ、12mmにすれば……というのがHO1067の発想のようです。
 こうして妻板側から見た時の、車体と線路のバランスがいいです。スケールモデルならではの美しいプロポーションです。
 それから、ぽん太はこれまでウェザリングをしたことはなかったのですが、こんかい初めてチャレンジしてみました。タミヤからウェザリングマスターという商品が出ているのをネットで知り、これなら大失敗はなさそうだと思ったからです。ウェザリングマスターCセットで連結器やブレーキシューの赤錆色、ウェザリングマスター Aセットで下回りや車体の汚れを、控えめに表現してみました。

2013/06/23

【鉄道模型】木曽の酒井製モーターカー(H0762, 1/87, G=9mm, モデルワーゲン)

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 これまた10年以上前に購入していハンダ付けまでしてあった木曽の酒井製モーターカー。塗装をしてパーツを取り付けてようやく完成いたしました。発売元はモデルワーゲン。公式サイトはこちらです。木曽の酒井製モーターカーの製品情報はこちら。またこちらにはキット組立講座があり、参考にさせていただきました。
Img_5226 とにかくちっちゃくて、未熟なぽん太の手に余りました。細かい所がすっきり仕上がりません。上回りの塗装は一回塗り分けに失敗し、シンナーのプールに投げ込んで、一から塗装し直しました。デカールを貼るのもうまくいかず、マークソフターなども生まれて初めて使ってみたのですが、背面のドアまわりがくっきりいきませんでした。また、上半分の塗装とデカールの色味が少し違ってしまいました。
Img_5236 下回りも、動力部分の調整に手間取りました。モーターの位置をどう調整しても、両輪がうまく回る位置が見つけられず、仕方なしに前後の車軸の間隔を近づける改造を行いました。フレームの溝の内側を少し削り、外側に真鍮線をハンダ付けして、ヤスリで整形しました。おかげで快調に走るようになりました。
 歯を食いしばった子供のような表情がかわいいヤツです。

Photo ところでこのモーターカー、保存車両を見たことがあります。木曽の赤沢森林鉄道記念館にありました。左はそのときの写真です(2004年9月撮影)。
P9010016 こちらが側面です。
P9010017 こちらが後ろです。

2013/05/18

【鉄道模型】飛び出したパンタやSGの煙突が魅力の古豪EF57(珊瑚模型店製キット、HO・16番)

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 15年ほど前に買って組み立てたまま放置してあった珊瑚模型店のEF57を、時間があったので塗装してみました。数十年振りに鉄道模型に復帰して作った第一作なので、いろいろとアラが目立ちますが、いまさら修正するのは面倒なので、そのまま塗装しました。大昔に買ったと思われる天賞堂製のEF56用の運転台パーツがあったので、ヤスって整形して取り付け、KATOの機関士を座らせました。窓を開けた状態にしてあるのがご愛嬌です。EF56の車体前面はカーブが大きいので、EF57だとちょっと隙間ができてしまいますが、窓ガラス越しにはそんなに目立たないと考えて良しとしました。
Img_5108 昭和12年(1937年)、電気機関車として初めて列車暖房用のボイラー(SG)を搭載したEF56が登場。昭和15年(1940年)に、東海道本線の輸送力増強のため、MT38型主電動機を搭載して誕生したのがEF57です。最初の1輛はEF56と同じ外観でしたが、翌年から昭和18年(1943年)まで量産された14量は全面的に設計が変更され、パンタグラフが車体の両端に設置されました。当初はボイラーの調子が良くなく、わざわざ折り返し地点で向きを変えてボイラーが常に前に出るようにして機関助士がボイラーの面倒を見れるようにしたり、暖房車を連結して運転されることもあったそうです。
 昭和24年(1949年)に東海道本線の電化区間が浜松まで延長されたことで、静岡市内の架線の低い跨線橋を通過するため、パンタグラフを低くする必要が生じました。そのため取り付け位置がさらに前に出され、EF57独特の風貌が生まれました。特急「つばめ」や「はと」を牽引し、EF57の全盛期でした。
 しかし昭和31年(1956年)に東海道本線が全線電化されると、EF57ではボイラーの容量が不足するようになったため、EF58とコンバートされて、EF57は上越線に移りました。雪対策として可動式スノープロウが新設され、正面窓につらら切り(日よけ)、汽笛に雪よけカバーがつけられました。この頃は客車に乗り切れなかったスキー客がデッキにも乗車し、スキーがパンタグラフに当たって感電する事故もあったと聞いております。
  昭和35年(1960年)、長岡−新潟間の電化にともなって再びボイラー容量不足が懸念され、全機宇都宮に移動。スノープロウや汽笛カバーが撤去されました。
 昭和40年(1965年)、列車暖房装置が電気式(EG)に改造され、助手席窓側に表示灯、デッキ両端にジャンパ栓が新設され、屋根上の煙突と水タンクハッチが撤去されました(以上「とれいん」平成4年11月号参照)。
 この珊瑚模型店のキットを見てみると、暖房用蒸気発生装置(SG)を搭載し、つらら切りとスノープロウ取り付け座がありますが、スノープロウや汽笛の雪よけカバーはありません。ということは、宇都宮(東北線)に移った数年後と考えられます。塗装に関しては、ブドウ色2号が正式に採用されたのは昭和34年(1959年)ですが、EF57が直ちに塗り替えられたわけではなく、修理や改造のおりに徐々に塗り替えられたと考えられます。電気機関車でありながらボイラーの煙突を備え、屋根上にベンチレーターを並べた古風な出で立ちの車両なので、ぽん太はブドウ色1号で塗ってみました。
Img_5106 ディティールは特に付け加えませんでした。屋根上の高圧引き込み線は目立つアイテムですが、こちらのムサシノモデルのページにあるように時期によっていろいろ変わっているようで、細かい構造もよくわからないので、今回は省略しました。台車の第1エンドにある手動ブレーキぐらいは付ければよかったです。

2005/12/05

ED12(ムサシノモデル、HOゲージ)を作ってみた

 ムサシノモデルのED12(HOゲージ)が完成いたしました。
 買ったのはいつだか記憶なし。数年前にハンダ付けまで終えて放置してあったのを、こんかい色を塗って仕上げました。ブレーキロッドが台車と一体のダイカスト製だったので、真鍮線で作り直しました。また、独特の形の砂まき管を付け加えました。
PC040004 ED12はスイスのブラウン・ボーベリ社(Brown Boveri)から輸入された電気機関車です。形態は異彩を放っており、細くしぼった運転室、長いひさし、ひさしにちょこんとつり下がったヘッドライト、大きな車輪、屋根上に担いだ2本の大きなエアータンクなどが特徴です。
 車輪が大きい理由ですが、久保敏他『電気機関車展望1』(交友社、1986年、絶版?)によると、通常は片側にある主電動機(モーター)の歯車が、ED12では両側に取り付けられているのだそうです。そのため主電動機の長さが短くなる分、直径が大きくなってしまいます。その大きい主電動機を納めるため、車輪の直径を大きくせざるをえないのだそうです。同書に収められた土田宗一の真横から撮った写真を見ると、車輪と車輪のあいだに主電動機が見えますが、ムサシノモデルのキットはこのシルエットもモデル化してあります。
PC040017 1924年の東海道線の電化にむけて各国より電気機関車がサンプル的に輸入されましたが、この電気機関車もそのひとつだそうです。1923年(大正12年)にブラウン・ボーベリ社で1020形として製造されたものを、2両輸入しました。
 ED12-1は1936年2月10日、国府津で西尾克三郎が撮った写真が前掲書に収められており、これが今回作ったムサシノモデルの模型のプロトタイプとなっています。側面に交互に並んでいた窓とベンチレーターが窓に改造され、両端は当初と異なる形のベンチレーターがはめ込まれています。1948年11月に廃車となって西武鉄道に払い下げられ、E51として長く使われたのち、1976年に動輪のスポークにひびが入ったため廃車になっています。
 ED12-2は1949年3月に廃車となって同じく西武鉄道に払い下げられてE52となりました。1986年まで現役で活躍しましたが廃車となり、その後は横瀬駅で保存されています。
 色は当初は黒で、しばらくして濃い茶色になったそうですが、その年代はわかりません。特異な形態の真黒い電気機関車もおもしろそうだったので、ぽん太は黒く塗ってみました(写真では茶色っぽく写っていますが)。

ED121
 1923年、1020として新製
 1928年、ED121に形式変更
 1948年11月、廃車
 1950年、西武鉄道E51となる
 1976年、廃車

ED122
 1923年、1021として新製
 1928年、ED122に形式変更
 1949年3月、廃車
 1950年、西武鉄道E52となる
 1986年、廃車となり、横瀬に保存

参考リンク
http://jnr.site.ne.jp/weekly/htm/e52.htm2001年10月8日に横瀬で撮影したE52のカラー写真。
http://www.hobidas.com/blog/rail/photo/archives/2005/12/ed12.html1969年4月25日に所沢で撮ったE52の白黒写真。
http://hokuso.com/meiki/html-meiki-el-02.html1976年1月、石神井公園駅で撮影したE52の白黒写真。

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