カテゴリー「精神医療・福祉」の76件の記事

2018/05/31

【拾い読み】鈴木晶『ニジンスキー 神の道化』(2)病歴のまとめ

 鈴木晶氏の『ニジンスキー 神の道化』(新書館、1998年)の拾い読み、今回はニジンスキーの精神障害に関する部分です。


 今回は、ニジンスキーの病歴を、医学レポートの形式でまとめてみました。

*************************************

病歴報告書
東京都多摩地区狸の穴1番地
どうぶつ精神科病院
医師:ぽん太


【氏名】ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキー(Вацлав Фоми́ч Нижи́нский)
【性別】男性
【生没年月日】1890年3月12日〜1950年4月8日
【診断】統合失調症
【既往歴】帝室舞踊学校時代(1898〜1907)に転倒事故にて4日間の意識不明となり生死をさまよい、2ヶ月間入院(後遺症はなし)。
18歳ごろ淋病。5ヶ月ほどで改善。
【家族歴】兄、妹がいる。兄は幼少時からぼんやりしたが、精神障害を発症して入院歴もあり、第二次対戦中に病院内で自殺。また祖母がうつ病で自殺?。
【生活歴】1889年3月12日にウクライナのキエフで出生。両親はポーランド人のバレエ・ダンサー。幼少期は活発で冒険好きで机に向かうことが苦手など、多動傾向が認められた。また言語コミュニケーションが苦手だった。
 1898年、帝室舞踊学校に入学。舞踊技術は優れていたが、陰湿ないじめに会う。いじめのなかで転倒し、上記のように4日間の意識不明となり生死をさまよう。
 1907年、帝室舞踊学校卒業と同時にマリインスキーバレエ団に入団し、頭角をあらわす。
 1909年、ディアギレフが旗揚げしたバレエ・リュスに加わって大活躍し、振付家としても革新的な振り付けにより高い評価を受ける。この頃、気に入らないことがあると興奮して大声でわめくことがしばしばあった。
 1913年、ハンガリー人の女性と結婚。これが原因となりバレエ・リュスを解雇されたため、1914年、自分の一座を組んで公演を行うがうまくいかず、強いストレスを受ける。
【病歴】この頃から、ちょっとしたことで大声を出し、だだをこねるように転げ回ったり、他人に殴りかかるなどの行動が見られるようになった。その後抑うつ状態となり、不眠、思考力低下、易疲労感、情動不安定、不安・抑うつなどがみられ、稽古もできずに横になっている状態となったが、数ヶ月で軽快。1916年からはバレエ・リュスに復帰し、全米ツアーなどに参加。だがここでも癇癪を起こすことが多かった。また友人の影響でトルストイ主義に心酔し、菜食主義となり、ロシアの農民服を着用し、コール・ド・バレエに主役を踊らせるなどした。
 1917年、スイスのサンモリッツに転居。当初は心身ともに回復したようだったが、1918年にはバレエへの興味を失い、マンダラのような抽象画を描きまくるようになる。精神分析に興味を持つ内科医フレンケルと知り合う。
 1919年1月19日、サンモリッツのホテルにて私的なダンス・リサイタルを開くが、かなり前衛的なもので、途中で第一次大戦についての説教をするなどした。
 この日から2ヶ月間、『手記』の執筆に没頭。絵に対する興味はなくなり自分のデッサンをしまい込む。『手記』は極めて混乱しており、妄想的な内容であった。この頃から言動が誰の目にも「異常」と映るようになり、家に閉じこもったり、家族に暴力を振るうなどしたため、フレンケルはオイゲン・ブロイラーにニジンスキーを紹介した。
 1919年3月5日、チューリッヒのブルクヘルツリ病院でブロイラーの診察を受ける。軽度の躁病性興奮をともなう混乱した統合失調症と判断し、同病院では監禁的処遇しかできないため、クロイツリンゲンにあるベルヴューという私立のサナトリウム(院長がビンスヴァンガー)への入院を勧めた。その日の夜、ホテルで騒ぎを起こし、ブルクヘルツリ病院に強制入院となり、2日後にベルヴューに転院となった(ブルクヘルツリの最終診断はカタトニー(緊張病))。
 ベルヴューでは開放的な環境で治療を受けたが、症状は緊張病性の興奮と昏迷を繰り返し、指を目につっこむといった自傷行為や、幻聴も認められた。
 同年7月、妻が来院し、患者の退院を執拗に要求。退院できる状態ではないことを説明したが納得せず、地元の保健所と相談の上、「サンモリッツに患者のために特別な部屋を用意すること、自殺に使えるものを一切置かないこと、経験ある看護人2名が24時間患者を監視すること、精神科医の監視下に置くこと」という条件のもと、7月29日に退院となった。
 しかし約束が十分守られなかったため、12月3日にベルヴューに強制入院となる。病状はかなり悪化しており、暴力を振るったり、床に排泄するなどした。
 1920年2月、妻の転居に伴いウィーンのシュタインホーフ精神病院に転院。この間、妻がフロイトに相談に行ったというが、真偽は不明。
 1922年、同院を退院し、ブダペストの妻の実家に戻り、その後さらにパリに転居。フランスの高名な医師の診察を受けるが改善はみられず。
 1926年、妻がアメリカに渡ったため、妻の姉と看護人が面倒をみたが、道で他人に危害を加えたり、体を出血するまで引っ掻くなどの自傷行為がみられたため、私立の精神病院に入院。退院後、自宅で劣悪な条件で監置される。
 1929年4月、ベルヴューのスタッフが苦労して移送し、ベルヴューに3度目の入院。病状は進行していて、興奮は見られなかったが、外界への興味を失い、ぼうっと座って過ごすことが多かった。
 1934年、妻がアドラーを伴ってベルヴューを訪問。転院を試みるが、本人の同意が得られずにあきらめる。
 この年と翌年に2回の心臓発作。
 1938年、ザーケル医師が自らベルヴューを訪れ、病院内でインシュリン・ショック療法を行う。2ヶ月間行うが、効果なし。
 同年12月、ベルヴューの院長ビンスヴァンガーがインシュリン・ショック療法を禁じたため、効果を信じる妻の希望でミュンシンゲンの州立病院に転院し、インシュリン・ショック療法を継続。
 1939年、インシュリン・ショック療法を計128回行うが、効果は見られず終了となる。ミュンシンゲン病院を退院。
 1940年、ミンシュンゲン病院に再入院。夏、妻の実家のブダペストに移るが、暴力が手に負えず、1942年に私立のサナトリウムに入院。5月、膀胱炎と痔の治療のためブダペストの公立病院に入院。一度退院したが、再度入院。
 1943年、ウィーンの聖ヨハネ病院に入院。
 1945年3月24日、ドイツ軍から精神病患者を全員処刑するよう命令が下ったため、看護人が機転をきかせて患者を妻の疎開先に連れて行く。
 妻とともにウィーンに転居。
 1947年、ロンドンに転居。1948年、ロンドン郊外に居を構える。
 1950年4月4日、ベッドから起き上がれなくなり、ロンドンの私立クリニックに救急搬送。4月8日に死去(死因、慢性腎炎による尿毒症)。

*************************************

2015/01/11

【苦情】デイ・ケアに行った日は「通院精神療法」が算定できないなんてオカシイにゃん

 一年の最初のブログを苦情で始めるのもどうかと思いましたが、温泉や観劇の報告じゃなくて本業に関することから始めるのもいいかと思って、投稿することにしました。
 医療を行った場合の医療機関の収入は、「診療報酬点数表」によって定められております。診察をするといくら、処方箋を発行するといくら、精神療法をするといくらというのが、こと細かに決めれているわけです。
 で、精神科の診療報酬に関することで、ぽん太が常々疑問に思っていたことを、今日は書いてみたいと思います。もちろん、「医者の儲けが少なすぎる」みたいないな下賎な文句ではありません。

 それは、ある医療機関で精神科ショート・ケア、あるいはデイ・ケアを行うと、同一日に、例え他の医療機関であっても、「精神科専門療法」を算定できないことです。
 これはどこに書いてあるかというと、厚労省のページの「第3 関係法令等」の「 【省令、告示】(それらに関連する通知、事務連絡を含む。) 」の、「(2) 3 診療報酬の算定方法の一部改正に伴う実施上の留意事項について(通知)」の別添1(医科点数表)というpdfファイル(こちら)のI009(3)に、「また、精神科デイ・ケアを算定している患者に対しては、同一日に行う他 の精神科専門療法(他の医療機関で実施するものも含む。)は、別に算定できない。」と書かれています。
 わかりやすい一般サイトのURLをあげれば、例えばこちらのサイトの(3)の終わりの部分ですね。
 ちなみに問題の「(他の医療機関で実施するものも含む。)」という文言は、平成26年4月から加わったものだそうです。

 具体的にいうと、ぽん太のクリニックの外来に通っている患者さんが、うちではデイ・ケアを行ってないので、他の大きな病院のデイ・ケアに通っていたとすると、その同じ日にぽん太の外来を受診した場合、「通院精神療法」を算定できなくなるのです。
 患者さんが外来通院した場合、普通ならば、再診料72点+処方箋料70点+通院精神療法330点=472点=4,720円の収入があるのですが、通院精神療法が算定できない場合は、再診料72点+処方せん料70点+外来管理加算52点=194点=1,940円と、収入が半分近くになってしまいます。同じ診療を行っていて、こんなに収入を下げられてしまっては、経営が成り立ちません。仕方ないので、デイ・ケアに行かない日に当院を受診してもらってますが、頑張って月曜から金曜までデイ・ケアに通っている患者さんは、わざわざ土曜日に当院を受診してもらわなければなりません。患者さんにしてみれば面倒きわまりなく、デイ・ケアの帰りにクリニックに寄って一日ですませ、土日はゆっくりすごしたいところだと思います。

 通院精神療法とは、同じく留意事項通知(こちら)のI002の(1)に書いているように、「精神科を担当する医師(研修医を除く。)が一定の治療計画のもとに危機介入、対人関係の改善、社会適応能力の向上を図るための指示、助言等の働きかけを継続的に行う治療方法をいう。」となっており、いくら患者さんがデイケアに通っているからといって、ぽん太が「じゃ、薬出しておきますから、困ったことや相談したいことがあったら、あとはデイ・ケアで聞いて下さいね」というわけにはいきません。ぽん太が行っている医療行為は、患者さんがデイ・ケアに通っているからといって、減るわけではありません。
 厚労省の考えは、どうせ「あちこちで精神科専門療法を算定するのは医療費のムダ!」ということなんでしょうが、ぽん太にはどうにも納得できません。デイケアと外来が別の医療機関の場合は、外来で「通院精神療法」を算定するのは構わないんじゃないでしょうか?

2014/10/15

【拾い読み】DSM-5を使う前に読んでおこう。アレン・フランセス『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』

 たまたま気が向いて、アレン・フランセスの『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(大野裕監修、講談社、2013年)を読んでみました。
 DSMというと、ぽん太はどのバージョンも一緒くたにしてましたが、DSM-IVの作成委員長だった著者が、DSM-5の問題点を批判したのが本書です。最大の論点は、著者が「診断のインフレーション」と呼ぶ、なんでもかんでも精神障害に診断してしまう傾向への警告です。こうしたことは精神科医なら誰でも感じていることで(例えば現在でもすでに何でもかんでもうつ病です)、その裏には製薬会社の営利主義があることなども衆知の事実ですが、自らDSMに関わった人が言っているところに説得力があります。また、うちわを知っている人だからこその証言もあって、面白い本でした。もちろん著者の主張が正しいかどうかもわからないので、本書を読むときも批判的な精神を忘れてはなりません。最近流行の、ドグマチックな精神医学批判の本ではございません。
 さて、興味がある人は自分で読んでいただいて、ぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。

 「DSMは正常と精神疾患のあいだに決定的な境界線を引くものであるため、社会にとってきわめて大きな意味を持つものになっており、人々の生活に計り知れない影響を与える幾多の重要な事柄を左右しているーーたとえば、だれが健康でだれが病気だと見なされるのか、どんな治療が提供されるのか、だれがその金を払うのか、だれが障害者手当を受給するのか、だれに精神衛生や学校や職業などに関したサービスを受ける資格があるのか、だれが就職できるのか、養子をもらえるのか、飛行機を操縦できるのか、生命保険に加入できるのか、人殺しは犯罪者なのかそれとも精神異常者なのか、訴訟で損害賠償をどれだけ認めるのかといった事柄であり、ほかにもまだまだたくさんある」(p.17)
 ぽん太が思うに、DSMの分類が、純粋な医学的・科学的なものではなく、アメリカ社会の、アメリカの医療制度のもとでの分類であることは常識でしょう。また精神科医の診断という行為も、常に社会的な側面を持つことを忘れてはなりません。

 フランセスは、DSM-IVの作成にあたって、リスクのあるもの、科学的データによる裏付けがないものをすべて却下しました(その結果、DSM-IVはDSM-IIIRとあまり変わりませんでした)。一方DSM-5は、正常な多くの人を新たな「患者」にしたてる危険性があり、それを製薬会社がいかに利用してやろうかと、手ぐすね引いて待っていると彼は言います。
 そのように用心して作成したDSM-IVでさえも、三つの精神疾患のまやかしの流行を引き起こしました。それは自閉症、ADHD、小児双極性障害だそうです。
 「アメリカ人の成人の5人にひとりが、精神的な問題のために一種類以上の薬を飲んでいる。2010年時点で、全成人の11パーセントが抗うつ薬を服用している。小児の4パーセント近くが精神刺激薬を飲み、ティーンエイジャーの4パーセントが抗うつ薬を服用し、老人ホーム入居者の25パーセントに抗精神病薬が与えられている」(p.20)
 日本の現状はどうなのでしょうか。ここまではひどくないような気がしますが。常々ぽん太思うには、精神的な問題を解決するには、つべこべ言わずに薬を飲めというのに、快楽を得るためには薬を使ってはいけないというのは、筋が通らないですよね。覚せい剤や危険ドラッグの使用が増えるのは、仕方ないことに思えます。

 「DSM-IVのADHDは慎重に作成されたが、変更の提案による有病率の上昇は15パーセントにとどまるとわれわれは予測していた。データが収集された1990年代はじめの現実を考えれば、これはかなり正確な推定だったと言えよう。われわれは1997年にこの現実が一変するとは予見できなかった。この年、製薬会社がADHDの高価な新薬を売りだし、しかも同時に、親や教師に直接宣伝することが認められたのである。まもなく、ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになったーー予想外の流行が発生したわけで、ADHDの有病率は3倍になった」(p.86)。
 高価な薬が出ることと、診断が流行していることは確かにリンクしているとぽん太も思います。双極性障害の流行も、ラミクタールの発売と関係しているのではないでしょうか。これまで双極性障害の第一選択薬であったリーマスは、標準使用量1日600mgで62.7円ですが、2008年12月に発売されたラミクタールは1日200mgで547.6円と、ほぼ十倍の価格です。さらに2012年9月にリーマスの添付文書(こちら)が改訂され、わざわざ医薬品医療機器総合機構から「炭酸リチウム投与中の血中濃度測定遵守について」という文書(こちら)まで出されました。これによると、リーマスを服用中の患者さんは、2〜3ヶ月に一度血液検査が事実上義務づけられることになりました。ごていねいに「適切な血清リチウム濃度測定が実施されずに重篤なリチウム中毒に至った症例などは、基本的に医薬品副作用被害救済 制度においても、適正な使用とは認められない症例とされ、救済の支給対象とはなっておりません」という文言もあります。「リチウム中毒を防ぐ」という大義名分はありますが、背後に、有効で安価なリーマスを使いにくくさせようとする何らかの圧力があったのでは、と考えるのは考え過ぎでしょうか。ここらの裏事情を知る立場にぽん太はありません。
 また最近、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬、睡眠薬の使用を制限する動きが出ており、これはこれで過剰使用を防ぎ、依存を減らすという大義名分があるのですが、一方で代わりにSSRIや非定型抗精神病薬を売りたいという製薬会社の意図があるのではないか、というのもぽん太の妄想でしょうか?
 また、たとえば風邪薬など薬局で売っている薬はテレビのCMで宣伝することができますが、病院で医者が処方する薬は宣伝することができませんでした。ところがいつの頃からか、薬の名前こそ言わないものの、「〇〇の症状があったら、よく効く薬があるので、病院を受診しましょう。××製薬」というCMが流れるようになりました。これは製薬会社の申し出によって、コマーシャルの基準が変更されたのだと思いますが、これがどこの管轄で、どのように決められ、具体的にどこに明記されているのか、ぽん太はいまだにわかりません。
 ついでに上の引用の「ADHDの診断を商品として売るのが、雑誌やテレビや小児科病院のどこでも見られるようになった」というのは、ADHDの診断チェック表みたいなのが、雑誌やテレビでやってたり、病院に(製薬会社が作った)パンフレットとして置かれていることを言ってるんだと思いますが、原文にあたるのは面倒なのでよくわかりません。

 精神疾患の定義を、統合失調症80・双極性障害10みたいに数値で表すという考え方にかんしては、将来的には主流になるのかもしれないが、現時点では実現不可能と書いてます。

 DSM-IIIに関して。1970年代、精神疾患の診断の不正確さに対する批判が強まりました。ひとつはイギリスとアメリカの国際共同研究で、アメリカとイギリスで診断が大きく異なることが示されました。もうひとつは、正常な人が症状を偽ることで、誤った診断や不適切な治療に誘導できることがわかりました。
 こうしたことで、統一した診断システムを作ることが必要となり、ロバート・スピッツァー(1932 - )がDSM-III(1980年)の責任者に選ばれました。診断のパラダイムシフトをもたらしたDSM-IIIですが、診断基準の作成は科学的なものとは言えませんでした。十人弱の専門家が一室に閉じ込められ、午前中はそれぞれが、科学的データではなく実体験に基づく診断基準を無秩序に主張し合い、昼食が済むとスピッツァーが論点を神業のように整理して草案を作成し、それを疲れて眠気を催した専門家が微調整したそうです。「論争がつづくときは、声のいちばん大きな者、自信に満ちた者、頑固な者、年長の者、ボブ(スピッツァー)に最後に話したものがいつだって有利になった(p.117)そうです。ひどい方法でしたが、当時としては最上の方法で、しかもうまくいったそうです。
 DSM-IIIは病因論を棚上げにしたので生物学的・心理学的・社会的モデルのどれにも利用できるとされましたが、実際は生物学的モデルによくあてはまり、心理学的・社会的側面は軽視される結果をもたらしました。またいわゆる「多軸診断」を導入しましたが、これはほどなく忘れ去られました。
 DSM-IIIが非常に売れて、いわゆるバイブルになってしまったことは、良く知られたとおり。

 DSM-IIIR(1987年)に関しては、著者は「誤りであり、混乱のもとだった」と批判的です。その内容というよりも、DSM-IIIからわずか7年後に改訂をしたことを問題としているようです。DSM-IIIが科学的データの裏付けがある診断基準ではない以上、思いつきで安易に変更すべきではなく、科学的研究が追いついて、基準が確認されたり、変更の必要性が実証されるのを待つべきだったと言います。

 DSM-IV(1994年)の作成委員長に著者はなったわけですが、IIIRからの変更は最小限とし、科学的な必要性が証明されない変更は却下したそうです。また彼は、DSM-IVをバイブルではなく、ガイドブックとしたかったそうで、このことを「序文」に書いておいたそうです。ぽん太はDSMの序文なんて読んだことありませんでした。こんど読んでみたいと思います。
 著者は、当時は予測できなかったけれど、後から振り返ると、過剰診断がおきないようにもっと注意を払うべきだったと書いてます。特にADHDの診断基準をわずかに緩めたこと、双極II型を導入したことを後悔しています。また、「性的倒錯の項目でずさんな表現を使ったために、憲法に違反する精神科病院への強制入院が広く乱用されることになった」と反省していますが、ぽん太には具体的にはわかりません。

 著者は、早期診断のリスクを指摘します。正常だけど「病気になりかけている」人を発掘することで、医産複合体は急速に成長していますが、それによって必要ない人に過剰な医療が行われ、必要としている人に適切な医療が施せていません。
 最近「かくれ〇〇病」や「〇〇病予備軍」といった言葉がマスコミに溢れてます。また最近言われている「統合失調症の早期発見と早期治療」という考え方も、ひとつ間違えば、発病以前の「前駆期」の名のもとに、正常な人たちへの過剰診断・過剰医療が行われる可能性がありそうです。

 過去に流行して、消えてしまった疾患として、彼は「悪魔憑き」と並べて、神経衰弱やヒステリー、多重人格などを挙げてます。たとえば多重人格を、「保険会社が支払いをやめ、疲れたセラピストが現実に目覚めると、多重人格の治療を求める声は激減した」と切って捨ててます。

 現在の流行に関して、ADHDや小児双極性障害、自閉症などをあげて検討しておりますが、この辺は現役の精神科医にとっては周知の事実なので省略。

 DSM-5に関して、高く飛ぼうとしすぎて燃え尽きたイカロスに例えて、3つの点から批判しています。DSM-5は、第一に、神経科学の進歩を土台にもってきて精神科の診断を一新することを目標にしましたが、それは時期尚早で、現実離れした目標でした。第二に、早期発見・予防医学の観点から精神医学の領域を広げようとしましたが、これも行き過ぎた目標でした。第三に、数量化によって診断をもっと正確に下そうとしましたが、臨床現場で使いようのない複雑な多元評価を作っただけでした。

 また著者は、DSM-5の作成の手順についても疑問を呈しています。全体をコントロールするリーダーシップを発揮する人がおらず、作業グループごとに検討の方法や質のばらつきがった、また事前に時間定期な計画を立てなかった。また、文献調査を独立した評価者が行うといった、公平性を保つ手段も講じなかった。

 またフィールドトライアル(診断基準を実際に使ってみて、妥当性を評価すること)に関しても、DSM-IVでは、外部の研究者が方法を評価した上で、アメリカ国立精神保健研究所(NIMH)の資金を得て行われました。しかしDSM-5は、計画は非公開で、NIMHは十分な資金を調達できず、実施機関も短すぎたため、低い信頼性しか得られませんでした。しかもアメリカ精神医学会(APA)は、利益を見込んである2013年の出版予定日を守るため、必要な修正や検証を行わずに、出版してしまったそうです。

 DSM-5には、診断のインフレーションを引き起こしかねない疾患が多く見られます。小児の「重篤な気分調節不全障害」は、ただの癇癪を病気と診断する危険があります。また老人の「軽度神経認知障害」も、アルツハイマー病の早期発見と早期治療という専門家の無邪気な善意から作られたのでしょうが、多くの人に有害無益な検査や投薬が行われ、結局は医産複合体だけが喜ぶという結果になりかねません。「大食い」が精神病とされ、「成人注意欠陥・多動性障害」は過剰診断の危険性があります。また、死別後の喪が「うつ病」と混同されかねないなどなど。

 著者は大胆にも、製薬会社と麻薬組織を併せて論じております。そして、製薬会社が利益を上げるために行っているマーケティング能力を制限することを求めます。また、精神科医の同業組合であるAPAが、DSMによって精神疾患の診断を独占する状況を批判します。精神疾患の診断は、現在医学的な領域を遥かに越えてしまっています。とはいえその任を担うのにふさわしい組織も、今のところ見当たりません。

 もう飽きてきたので、この辺でやめておくことにします。アレン・フランスセスの基本的なスタンスとしては、精神疾患の診断は医療の領域を越えて大きな影響力を持つようになっていて、しかも製薬会社に代表される医産複合体が利益を拡大するために、過剰診断が行われる危険性が高い(診断のインフレーション)。そのためDSMは、過剰診断が行われにくいものにしておく必要があるが、DSM-5は質の確保をおろそかにしたうえ、拡大解釈されやすい新たな疾患を盛り込んでしまった……ということになりましょうか。
 冒頭に書いたように、これはあくまでもアレン・フランセスの考えてあって、これが正しいのかどうかわかりませんが、これからDSM-5を使って行くうえで、これらの点に注意を払って行く必要があるのは確かでしょう。

2014/09/30

【臨床】抗うつ剤の副作用のプロファイル比較

自分の覚え書きのための記事です。

抗コ胃腸鎮静眠焦性機低血体重CYP阻害Pgp阻害
フルボキサミン++++++強(1AC,2C19)
パロキセチン+++-++++-+強(2D6)
セルトラリン-++-++++--弱中(2D6)
エスシタロプラム-++-++++--
ミルナシプラン-++-++++--
デュロキセチン-++-+++--中(2D6)
ミルタザピン--++--+++
トラゾドン-+++-++++
ミアンセリン+-++--++
アミトリプチリン+++-+++-+++++++強(2C19)

抗コ:抗コリン作用、胃腸:胃腸症状、鎮静:過鎮静、眠焦:不眠焦燥、性機:性機能障害、低血:低血圧、体重:体重増加
(吉田、渡邊:ミルタザピンのすべて:先端医学社:54-59, 2012)

2012/02/13

【珍百景】レトロでシュールな東京都の児童育成手当障害認定診断書

12021201 先日ぽん太は、「児童育成手当障害認定診断書」という書類を書いたのですが、この書類がなかなかユニークだったのでご報告したいと思います。
 福祉に暗いぽん太は、「児童育成手当」という制度も初耳でした。調べてみると、東京都が行っている制度で、基本的には父または母が死亡や離婚などでいない場合に支給される手当のようですが、父または母が重度の障害を持つ場合にも支給されるようです。詳しくは例えばこちらの東京の福祉オールガイドをご覧下さい。
 まず表題ですが、児童「扶養」手当障害認定診断書というのが、手書きで児童「育成」手当に訂正されております。そしてその後にさりげなく、「精神及び脳疾患用」と書かれています。脳疾患……レトロです。
 氏名、住所、病名などは普通ですが、(11)の「現在まで受けた特殊療法等」というところがすごいです。

1 特殊薬物療法 2 インシュリン療法 3 痙攣療法 4 持続睡眠療法 5 熱療法 6 駆梅療法 7 精神療法 8 作業療法 9 その他
 う〜ん、すばらしい。インシュリン療法や持続睡眠療法、やったことがありません。熱療法ってなんでしょう。梅毒のマラリア療法かなんかでしょうか。駆梅療法とともに、時代を感じさせます。薬物療法に「特殊」がついているあたりも、精神病の薬物がまだ珍しかった時代のものなんでしょうね。「ロボトミー手術」がないだけましか。
 続いて「現在の状態像」のところの「21 性的異常行動」。
1 サディズム 2 マゾヒズム 3 フェティシズム 4 その他
 ……丸を付けたくなります。これらが精神障害の症状だったんでしょうかね〜。
 次に「23 問題行動」というところ。
1 殺人 2 傷害 3 暴行 4 脅迫 5 自殺企図 6 自傷 7 破衣 8 不潔 9 放火 10 弄火 11 器物破損 12 窃盗 13 盗癖 14 ぶじょく 15 強盗 16 恐かつ 17 無銭飲食 18 無賃乗車等 19 はいかい 20 家宅侵入 21 性的異常 22 風俗犯的行動 23 無断離院 24 その他
 障害の重さを認定する診断書に、犯罪が列挙されているというあたりに、昔の人権感覚が伺われます。しかもそのなかの「破衣」「ぶじょく」「無銭飲食」「無賃乗車等」「無断離院」などという項目があり、なぜわざわざこれらなのか、よくわかりません。「風俗犯的行動」という言葉も、無知なるぽん太は知らなかったのですが、Yahoo!辞書によると、「狭義では、猥褻(わいせつ)罪など、性道徳に反する犯罪。広義では、賭博罪などの社会の善良な風俗に反する罪を含む。風俗犯罪」とのこと。
 ちなみにぽん太がこの診断書を書いたのは、数十年前ではなく、数ヶ月前です。
 この診断書、日々書類の山と格闘している精神科医にとって、一服の清涼剤となっていいですけど、もし東京都の担当者がこのブログを目にとめたら、早々に書式を変更することをおすすめします。

2011/01/25

【拾い読み】共感覚に基づく驚異的な記憶力 ルリヤ『偉大な記憶力の物語』

 A.R.ルリヤの『偉大な記憶力の物語――ある記憶術者の精神生活』(天野清訳、岩波書店、2010年、岩波現代文庫)を読んでみました。
 ルリヤ(Алексндр Ромнович Лрия、1902年 – 1977年) はソ連の神経心理学者・発達心理学者として有名です。日本語のWikipediaには項目がないようですが、英語版Wikipediaには出ています。それによれば彼はユダヤ人で、差別的な待遇を受けたこともあるようです。ちょっと面白かったのは、カザン州立大学の学生だった頃(1921年卒業)、彼はカザン精神分析協会を設立し、フロイトと手紙のやり取りをしていたのだそうです。へ〜え、ということで、エレンベルガーの『無意識の発見 下 — 力動精神医学発達史』(木村敏、中井久夫監訳、弘文堂、1980年)を読んでみたら、しっかり出てました。「ロシアのすぐれた心理学者アレクサンドル・ルリヤ(Алексндр Лрия)は、精神分析を熱烈に支持する著書と論文を発表し、精神分析を『一元的心理学体系』で、『真のマルクス主義心理学を構成するための基本的な唯物論的原理』であると考えた」(502ページ)。これは1925年の『心理学とマルクシズム』に掲載された「一元論的心理学体系としての精神分析学」という論文だそうです。
 ルリヤを含む20世紀初頭のロシアと、精神分析との関係については、国分充「20世紀初めのロシアにおける精神分析の運命 ─覚え書─」東京学芸大学紀要1部門 56 pp . 309 ~320, 2005(https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/2085/1/03878910_56_24.pdf)、国分 充・牛山 道雄「ロシア精神分析運動とヴィゴツキー学派 ──ルリヤのZeitschrift 誌の活動報告──」東京学芸大学紀要 総合教育科学系 57 pp.199~215,2006(https://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1467/1/18804306_57_20.pdf)という面白そうな論文がネット上に見つかりましたが、みちくさは別の機会にいたしましょう。
 
 さて本書は、驚異的な記憶力を持つひとりの人物について書かれています。その記憶力たるや、50のランダムな数字が書かれた表を3分ほどで覚えてしまい、それを数十秒で再現することができたそうです。その記憶は数ヶ月たっても完全に保たれており、記憶の再生にかかる時間は、記憶直後に再生した場合とほとんど変わりませんでした。それどころか彼は、一度覚えたことは決して忘れることがなく、時間とともに記憶が薄れてくるということもありません。数ヶ月どころか10年経っても20年経っても、完全に思い出すことができたそうです。
 彼は単に記憶力がいいというだけでなく、実は「共感覚」の持ち主であって、それが記憶力と関連していたのです。普通は感覚は、五感というように、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の5つに別れており、それらが混じり合うことはありません。「共感覚」とは、音を聞くと形や色が見えたり、形や色を見ると匂いがしたりする現象です。
 彼は、言葉や数字を見たときに生じる形やイメージを、風景の中に配列することによって、言葉や記号を記憶しました。そしてそれを思い出す時は、風景の中に配置されている「もの」を読み取っていくだけでよかったのです。と、書いても分かりにくいと思いますが、例えば「緑の」という言葉を聞くと、色のついた緑色のツボがあらわれ、「赤い」という語を聞くと、似合った赤い服を着た人が現れる。そうしたツボや人を、見慣れた通り沿いに配置していくのだそうです。思い出す時はその通りの風景を再現し、置かれている物を読み取っていくのだそうです(よけいわからないですか?あとは自分で読んで下され)。
 こうした共感覚に裏付けられた記憶は、彼の思考や人格にさまざまな影響を与えており、そこらの記述が、この本の面白さであります。普通の人なら忘れているような、1歳以前の記憶が残っていたりします。また、言葉によって浮かぶイメージが思考の邪魔をすることもあり、言葉の意味と、言葉から生じるイメージがずれていると、その言葉がうまく使えなかったりするそうです。また、「誰々が一本の木によりかかっていた」という文章を読むと、森の中で男が菩提樹によりかかっている風景が浮かんできますが、次の文章が「彼はショーウィンドウを覗き込んだ」だったりすると、今度は街の中の風景に、一から作り直さないといけないという苦労もあったそうです。

 いや〜、記憶力の弱いぽん太はうらやましい限りです。ぽん太がブログを書いているのも、「あのバレエ誰が踊ってたっけ」とか、忘れそうなことを記録しておく意味もあり、自分の記憶をグーグルで検索できるのでとっても重宝しております。便利な世の中になったものですね。
 本書に書かれている人の場合は極端な例ですが、ものごとの捉え方は人によってさまざまなんだな〜と、改めて思いました。他人も自分と同じように、感じたり考えたりしていると思うと、大間違いということですね。
 共感覚といえば、有名な精神医学者の中井久夫先生も共感覚があったことはよく知られており、そのことは例えば『私の日本語雑記』(中井久夫著、岩波書店、2010年)にも書かれております。「私には共通感覚があって、語の記憶は色彩と結びついている。これは記憶の助けにもなるが、『色合わせ』がよくないと、その部分は異質なものとして放り出したくなる。……ただ、色として認識されるのは十八歳ごろに覚えたギリシャ文字までであって、大学に入ってからのロシア文字は全体として黒っぽく、ハングルは白っぽい。」氏は「共通感覚」という言葉を使われておりますが、文脈から「共感覚」のことでしょう。また氏は、本の背表紙を見ると内容が頭に浮かんできて苦しいので、背表紙を向こう側にして本箱に入れておく、とどこかで書いていた気がします。著作から推察するに、氏も卓越した記憶力をお持ちなようで、微分的認知と積分的認知という図式は、「かすかな予兆、徴候的なものが、時間とともにやがて積分的な知識となっていく」という氏の時間体験に基づいていると思われます。ぽん太のように予測力も記憶力もない者にとっては、未来の出来事は突然目の前に現れて行く手を妨げ、過去に遠ざかるとともにやがて記憶が薄れたり混乱したりして、ぐちょぐちょになっていきます。ぽん太は自分の記憶を信じておりません。
 ぽん太の患者さんで、共感覚の持ち主にはお目にかかったことがありませんが、共感覚の有無をわざわざ聞いたりすることはないので、実は隠れているかもしれません。記憶力に関しては、統合失調症の患者さんで、前回血液検査をした日とか、数年前にある薬を初めて投与した年月日とかを、正確に記憶している人が2〜3人います。でも、その患者さんの記憶力一般についてチェックしたことはありません。記憶力とは若干異なりますが、統合失調症の妄想型で家に閉じこもっている患者さんに、息抜きは何をしているのか尋ねたところ、頭のなかで敵味方それぞれ100隻くらいの戦艦を思い浮かべ、それらを(頭の中で)戦わせて遊んでいる、と答えた人がおりました。

2011/01/10

【拾い読み】「エス」はフロイトだけのものではない 互盛央『エスの系譜』

 「エス」といえば言わずと知れたフロイトの精神分析に措ける重要な概念です。「エス」という言葉はフロイトのオリジナルではなく、ゲオルク・グロデックの着想を借りたものでした。しかしフロイトは、グロデックの着想のもとにはニーチェがあると主張することによってグロデックの独創性を否定したため、オリジナリティを主張するグロデックとのあいだに対立が生じたことは有名です。
 しかし「エスが考える」(Es denkt)という表現を使ったのは彼らだけではありません。その表現を辿っていくと、シェリング、ハイネ、フォイエルバッハ、マッハ、ジェイムズ、シュタイナー、ヴィトゲンシュタインといった名立たる思想家が連なっており、その源流にはゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクという人物がいます。彼らが「エスが考える」という言葉をどのような意味で使ったのかを考察することによって、脈々と連なる「エスの系譜」を浮かび上がらせたのが本書です。
 著者は、リヒテンベルクから始まってフォイエルバッハ・ニーチェ・フロイトへと続く第一の系譜と、そこから枝分かれした、フィヒテ・シェリング・ビスマルクに通じる第二の系譜があるといいます。前者は、デカルトの「我思う、故に我あり」以降の近代的な自我の概念を問い直すものですが、後者は「我」の変わりに「自然」や「人種」、「国民」を持ち込み、ナチスにもつながっていくものです。
 実に多くの人物が論じられており、読み物としても面白いですが、総論的になった分、個々の人物の掘り下げが物足りない気がします。おのおのの人物が、「エスが考える」という表現をたまたま使っただけなのか、それともその人の思想の中心的な概念なのか、いまいちよくわかりません。そのせいか、多くの思想家が取り上げられている割には、いまひとつ同時代の思想の全体像が浮かび上がってこないようにも思えます。著者は一見博学であるように思えますが、ひょっとしたら検索サイトで「es denkt」を検索して引っかかった文章を調べていったのではないか、という気もします。また、残念ながらラカンについてはほとんど論じられておりません。
 それにしても「エス」という考え方が、フロイトとグロテックの間でオリジナル争いをするようなものではなく、同時代的にさまざまな人が用いていた概念であることがよくわかりませいた。
 エスに関しては、最近始まったばかりの財津理のブログ(財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー)において、本職の「哲学屋」による綿密な読解が今後展開されそうな気配で、ぽん太はとっても楽しみにしております。

 以下は例によって、ぽん太が興味を持ったところの抜き書きです。
 フロイトは、グロデックがエスの概念をニーチェから持ってきたと言いながら、具体的にどこでニーチェがエスに言及したかを挙げておりませんが、例えば『善悪の彼岸』のなかで、「主語『私』は述語『考える』の前提である、と述べるのは事態の捏造である。それが考える[Es denkt]。」と書いているようです。
 「エスが考える」という言葉の源流と言える、ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクという人物の名は、ぽん太は初めて聞きました。Wikipediaを見てみると、リヒテンベルク(Georg Christoph Lichtenberg、1742年 - 1799年)はドイツの物理学者、風刺家だそうです。一流の物理学者として尊敬を集め、ゲーテやカントなど多くの著名人と親交があったそうです。また、樹木状の放電パターンを示す「リヒテンベルク図形」という言葉に、名を留めているそうです。さまざまなリヒテンベルク図形の美しい写真はこちらをどうぞ。リヒテンベルクは、彼が「控え帳」(Sudelbücher)と読んだノートに(互の訳では「雑記帳」)、学生時代から死の直前までメモを書き続けました。そのノートは彼の死後に発見されて出版されましたが、その本は大変な話題となって多くの人に読まれ、さまざまな思想家に影響を与えたそうです。邦訳は平凡社ライブラリーで出版されていたようです(『リヒテンベルク先生の控え帖 』、池内紀訳、平凡社、1996年)。で、その『控え帳』のなかに、「私が考える[ich denke]と言ってはならず、稲妻が走る[es blitzt]と言うのと同じように、それが考える[es denkt]と言わねばならない」という言葉が書かれているそうです。
互盛央『エスの系譜  沈黙の西洋思想史』講談社、2010年。

2010/12/30

【精神医療】教職員の休職、校長がなんと1年半後までの診断書を要求

 教職員5458人、心の病で休職=17年連続増、過去最多-文科省(時事通信:2010/12/24-17:09)という記事が出ていました。教職員の方々のストレスの増大は、大変なことと思います。しかしぽん太は、以前に以下のような体験をしたので、ご報告しておきたいと思います。

 何年も前のことですが、公立高校の先生が受診なさいました。精神的な原因により、教員としての仕事をすることができないとのことでした。診察すると確かに精神疾患に該当し、現状では勤務が不可能で、休職もやむを得ない状態でした。ところが、その方が受診したのは11月だったのですが、翌々年の3月まで働けないという診断書を書いて欲しいと言うのです。「翌年」の3月ではありません。「翌々年」の3月(約一年半後)です。普通、精神疾患の診断書というのは、1ヶ月とか2ヶ月、長くても3ヶ月が普通です。医学的にも翌々年の3月(約1年半後です)までの病状は予測できないので、そんなに長期間の診断書を書くことはできないことをお伝えしましたが、代わりの教員を採用するために「翌々年」の3月までの診断書が必要で、校長からも指示されたとのことでした。そこでぽん太は直接校長先生に電話をかけたのですが、校長先生のおっしゃるにも、手続き上必要なので、どうしてもそのような診断書を出して欲しいとのことでした。どうすべきかぽん太は悩みましたが、公立高校の校長先生がそうおっしゃるのなら、理屈は通らないけど手続き上必要なのだろうと、診断書をお出しすることにしました。

 まさかというか、やっぱりというか、その先生はその後当院を受診することはありませんでした。

 公立高校の独自の制度があるのでしょうが、その業界内の制度で、周囲を振り回さないで欲しいです。精神疾患の1年半後の病状を予測しろという制度は、科学的におかしいのではないでしょうか。身内の特異な制度に従うように医師に要求するのではなく、自分の制度を、一般常識や科学に合致するように変更して欲しいものです。

 1年後、その先生が再び受診なさいました。また1年半後までの休職の診断書を書いて欲しいとのご希望でした。ぽん太が今度はお断りしたことは言うまでもありません。

 今年の最後がグチみたいな記事で申し訳ありません。ぽん太はこの休みは南フランスに行ってきます。戻ってきたらご報告もうしあげます。みなさん、よいお年を!

2010/12/20

【拾い読み】いまや避けられない医療と巨大製薬会社の関係を詳細に分析 デイヴィッド・ヒーリー『抗うつ剤の功罪 SSRI論争と訴訟』

 先日、冨高辰一郎の『なぜうつ病の人が増えたのか』(幻冬舎ルネッサンス、2009年)を読んだ勢いで、デイヴィット・ヒーリーの『抗うつ剤の功罪 SSRI論争と訴訟』(田島治監修、谷垣暁美訳、みすず書房、2005年)を読んでみました。ところがこれが実にすばらしい本で、こんだけ読み応えがある本は久々に読みました。著者は自らも抗うつ剤の開発に関与してきた精神薬理学の専門家であり、幅広い知識と的確に問題点を見抜く力を持っており、そんじょそこらの「薬物療法批判」の本とは格が違います。
 ちなみに英語の原文はこちら(Googleブックス)で読むことができます。
 メイン・ストーリーは、プロザックという抗うつ剤に自殺を引き起こす副作用があるのではないかと疑った著者が、その薬を製造するイーライリリー社に戦いを挑むという話しなのですが、あの手この手の戦いの過程で、市場原理に従う巨大製薬会社の問題点が次々と明らかになっていきます。ついには製薬会社が著者の教授就任の妨害工作に出るなど、まるでサスペンス小説のような面白さがあります。また著者が、プロザックが自殺を増加させるという証拠はないという製薬会社の主張を切り崩すために、忘れ去られた論文を取り上げ、見逃された事実を見いだし、実験のデザインの問題点や統計処理の誤りやごまかし、主張の論理的矛盾を見いだして行くさまは、チェスの試合を見ているかのようです。
 ちょっとした気付きが、最初は誰も賛同しなかったのに、次第に明確な形をとるようになり、ついには大きな潮流となって行くプロセスは、ブラックホールに落ちる粒子の情報が失われるというホーキングの主張を、20年間にわたる論争の末に論破したレオナルド・サスキンドの『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』という本を思い出させます。
 著者は、単に製薬会社を悪として断罪するのではなく、市場原理に従う巨大資本が否応なく大きな位置を占めざるを得ない現代の医療において、どうすれば人々の役に立つ有効で安全な薬を提供していけるのか、という立場を取っておいます。例えば薬の効果や副作用を科学的に検証するには、多くの患者さんを対象にした疫学的な研究が不可欠です。しかしそうした研究は莫大な費用と手間がかかり、現在それが可能なのは巨大な製薬会社だけです。するとそのデータの透明性をいかに高めるかが必要になってくるわけです。また多数の症例を対象とした研究になることで、膨大な生データを集約する時に大切な情報が失われてしまう可能性もあります。実際プロザックでは、自殺につながるような焦燥が、さまざまな副作用項目に分散されることによって、集約された結果に反映されなかったのです。また、都合がいい研究に対する企業の資金援助や、論文そのもののゴーストライティングといった問題、また研究者や論文の審査員が製薬会社の資金援助を受けていたり、株主であったりするという問題も指摘されています。
 ぽん太としても、自分に与えられている情報が、製薬会社のプロモーションによって歪められていることを理解した上で、情報を取捨選択していかなければならないと感じました。

 で、以下はいつものように、ぽん太が興味深く思ったことの覚え書きです。
 序章のプロザック以前の歴史の部分が、知らないことばかりで面白かったです。現在の医療で用いられている概念が、どのような経緯でいつ頃生じ、どう変遷して来たかということは、とても大切なことだと思うのですが、自分にそういう知識が欠けていることがよくわかりました。
 19世紀にはアヘンとアルコールが鎮静薬の定番でしたが、20世紀前半にブロム化合物とバルビツール剤にとってかわり、1930年代にはデキストロアンフェタミンなどの中枢刺激薬が売り出され、1950年代にはデキストロアンフェタミンとアモバルビタールを組み合わせたデキサミル®が売り出され、大いに売れたそうです。1955年にはメプロバメート(ミルタウン®)が「トランキライザー」として売り出され、さかんにもてはやされたそうです。どんな薬だったのか興味がわきますが、ぽん太にはわかりません。そして1960年代前半、リブリウム®(一般名クロルジアゼポキシド、日本の商品名はコントール®、バランス®)、ヴァリウム®(一般名ジアゼパム、日本の商品名セルシン®)といったベンゾジアゼピン系の薬が登場します。これらを製造したロシュ社は非常にうまく売り込み、高血圧や喘息の背後に不安が隠れているかもしれないという考え方を医者に与え、1970年代には多くの人がヴァリウムを服用するようになりました。しかし1970年代からベンゾジアゼピンの依存性の問題が持ち上がってきて、1980年代には新聞やテレビなどのマスコミで盛んに取り上げられるようになりました。臨床医たちは、ヘロインやコカインなどのような濫用傾向がみられないこと、高値で闇取引されるようなことがないこと、治療薬として有効であること、多くの患者が問題にならず服用を中止していることなどを指摘して擁護しましたが、マルコム・レーダーの常用量依存の概念によって、とどめを刺されたそうです。
 ぽん太がヴァリウムと聞くと思い出すのは『スター・ウォーズ』をパロったメル・ブルックスの映画の『スペースボール』(goo映画)です。ジム・J・ブロックの演ずる王子は「アクビ王子」と訳されておりましたが、もともとの役名はPrince Valium(ヴァリウム王子)で、何かあるとヴァリウムを飲んで居眠りばかりしている人を当てこすっているわけです。この映画の制作は1987年ですから、ベンゾジアゼピン批判の風潮の中で作られたわけですね。
 ここで著者が指摘している面白い点は、依存性がないというセロトニン作動性の薬を臨床試験中だったスクイブ社が、キャンペーンの一環として、シンポジウムや論文でベンゾジアゼピンの危険性を強調するという戦略をとったのだそうです。
 アカシジア(akathisia)という語は、1955年にハンス・シュテック(H. Steck)やハンス・ハーゼ(H-J. Haase)らによって命名されたそうです。
 1952年に使われるようになったレセルピンは、自殺を誘発するという問題が認識されるようになりました。なぜプロザックではそういう認識が作られなかったかというと、1960年代に行われた特許法の改正が関係していると著者はいいます。それまでは製造法や用途に関して特許が与えられていたので、多くの企業がレセルピンを含む化合物の特許を持っていました。特許法の改正によって化学物質そのものに特許が与えられることになったので、プロザックを製造しているのはリリー社だけであり、プロザックが問題点を認めることは、リリー社の死活問題となったのです。
 初のSSRIはプロザックではなく、スウェーデンのアストラ社から1971年に売り出され、1972年に特許が承認されたジメリジン(zimelidine)(ツェルミドzelmid®)だそうです。この薬はギランバレ症候群を引き起こす副作用が明らかになって、市場から消えたそうです。
 1970年代から、エコロジストやサイエントロジー教会(トム・クルーズの抗うつ剤批判で有名ですね)などの、精神医学の身体療法に反対するファーマコビジランス(薬剤監視)グループが力を持つようになったそうです。彼らはインダルピン、ノミフェンシンを市場から排除し、さらにミアンセリンに打撃を与えたそうです。
 フルボキサミン(ルボックス®、デプロメール®)の歴史も面白かったです。自殺の誘発や吐き気の問題で、抗うつ剤市場での評価は低かったそうです。ところがラポポート(J.L.Rapoport)が1980年代に強迫性障害をの概念を広め、セロトニン系に作用するクロミプラミン(アナフラニール®)の有効性を指摘したことから、強迫性障害の治療薬としてアメリカ市場に参入しました。ところが1999年に起きたコロンバイン高校銃乱射事件の犯人の一人がフルボキサミンを服用していたことから、アメリカでは2002年に販売中止に到りました。ちなみに被害者遺族がソルベイ社を相手に起こした裁判の結果は、因果関係証明されないとされました。日本ではフルボキサミンは今でも使われております。
 サートラリン(ゾロフト®、日本ではジェイゾロフト®)は、半減期が短く、代謝経路が単純で、相互作用が少ないという特徴を持っていたため、ファイザー社はプロザックやパキシルよりもクリーンで副作用が少ないというイメージを与えるような論文を後押ししたそうです。CRAM(Central Research Assists Marketting)というプログラムを用い、プライマリケアでみられるうつ病の研究によって、プライマリケア医にサートラリンの使用を促したり、患者の教育と服薬コンプライアンスの研究によって、抗うつ剤のコンプライアンスを高めようとしたそうです。
 パロキセチン(パキシル®)を開発したグラクソスミスクライン社は、初めてSSRIという用語を作りましたが、この言葉の浸透力が強かったため、逆にプロザックやゾロフトなどがSSRIと呼ばれるようになったそうです。パキシルは、パニック障害・全般性不安障害、さらに社会恐怖などの「不安」に焦点をあてることによって大いに売れました。ただ社会恐怖(social phobia)という名は聞こえがよくなかったので、社会不安障害(social anxiety disorder)という名前に変わったそうです。パキシルに関しては、1990年代から、依存性・習慣性の問題が指摘されるようになりました。プロザックを販売していたリリー社にとっても、SSRIの依存性は認められないものでしたから(そもそも依存性のあるベンゾジアゼピンに取って代わるものとしてSSRIが開発されたのでしたね)、リリー社は「抗うつ剤中断症候群」という問題を提起し、半減期が短いために中断症候群が起きやすいと考えられるパキシルやゾロフトと、プロザックの差異化を図ったのだそうです。
 う〜ん、序章だけの覚え書きで、こんなになってしまった。疲れたのでこのへんで止めておきます。それにしてもこの本を読むと、製薬会社のMRさんたちがぽん太に言ってたことが、一つひとつ思いあたって、身につまされます。

2010/11/25

【拾い読み】製薬会社による抗うつ剤プロモーション 冨高辰一郎『なぜうつ病の人が増えたのか』

 精神科医なら誰でも、最近うつ病の患者さんが急激に増えたという実感を持っているはずです。その原因については、不況によるストレスの増大だとか、性格や考え方の変化など、諸説入り乱れておりますが、本書は、SSRIと呼ばれる新しいタイプの抗うつ剤の登場がその原因であると主張します。また例によってぽん太が興味深かったところを拾い読みいたしますので、興味がある方は原著をお読みください。冨高辰一郎『なぜうつ病の人が増えたのか』(幻冬舎ルネッサンス、2009年)です。

2150_2 筆者はまず、厚生労働省の調査データに基づき、気分障害の患者数が1999年以降に急速に増大し、2005年までの6年間で2倍以上になった事実を指摘します。おなじデータによるグラフを左にあげておきます。引用元はこちら(社会実情データ図録)です。ただし「気分障害」には、うつ病だけではなく、躁病や躁うつ病の患者さんも含まれております。

2740 うつ病急増の原因を、バブル崩壊などの社会環境の悪化によるストレスだとする考え方がありますが、著者はこの説明を否定します。その理由の第一として、うつ病が急増する1999年よりも前の1998年に、すでにリストラなどによる失業率の上昇とともに、自殺率の上昇が見られています。第二に自殺率の推移は、うつ病の患者数のように増加し続けてはおりません。左のグラフの出典はこちら(社会実情データ図録)。
 ぽん太が思うに、この主張に関しては、ストレスの増大からある程度時間がたってからうつ病が発症する場合が多いことや、自殺者が必ずしもうつ病になって病院を受診していたとは限らないこと、うつ病医療の発展によって自殺率が低下した可能性も否定できないことなどから、十分説得力があるとは思えません。

10111301_2 実はうつ病患者が急増する1999年という年は、日本で初めてSSRIと呼ばれる抗うつ剤が発売された年であり、その後の抗うつ剤市場の伸びは、まさにうつ病患者数の増大と同じカーブを描いていることがわかります(グラフは「医療用医薬品データブック」(富士経済、2004年No.2)。
 また著者は日本以外の外国でも、SSRI導入後に、同様のうつ病患者数の増大が見られていることを指摘します。こうしてうつ病患者の増加が、社会環境の変化によるものではなく、SSRIの登場とリンクしていることを論証します。
 すると次は、なぜSSRIの登場によってうつ病患者が増えたのかということになるのですが、それは製薬会社による販売促進活動の結果であると著者は言います。
 SSRIは、製薬会社にとって、多額の売り上げが期待できる薬剤です。その理由は第一に、SSRIはこれまでの抗うつ剤に比べて価格が数倍します。第二に、うつ病は10人に1人が一生涯のうちにかかると言われているように多くの人がかかる病気で、また一度うつ病になると服薬が長くなる可能性が高いため、大きな需要が見込まれます。
 ただ、ひとつ問題があります。うつ病になっても、病院を受診しない人が多いのです。日本の疫学的調査の結果によれば、過去1年間にうつ病にかかった人の、わずか15%しか病院を受診しなかったそうです。そこでSSRIの売り上げを増やすため、これまで病院を受診しなかった人が病院に行くようにすることが大切であり、多大な費用と時間を要する新薬開発などに比べて、手っ取り早い売上増進の手段となるのです。
 これまでのように、医者に対して宣伝活動をしていてもだめなのであり、一般社会に向けて、「あなたはうつ病かもしれない。うつ病だったら病院に行き、薬を飲むべきである」というメッセージを発する必要があるのです。これがDTC(Direct to Customer Campaign)です。まず、テレビや雑誌、新聞広告、インターネットなどを使い、うつ病の露出を増やします。内容は、有名人のうつ病体験だったり、精神科医による解説だったりします。それを見た人を電話のコールセンターやインターネットサイトに誘導します。
 確かに「あなたは●●かもしれません。それは治療可能な病気です。病院を受診しましょう」というテレビコマーシャルも、抗うつ剤に限らず、ED(勃起不全)、AGA(男性型脱毛症)、記憶に新しい禁煙など、いつの頃から目につくようになりました。こうしたコマーシャルは、決して具体的な薬の名前をあげません。製薬会社名も昔は出なかったけど、最近はファイザーの「お医者さんと禁煙しよう」のように露出する例も出てきているようです。このあたりは広告規制と絡んでいると思われますが、ぽん太はよくわかりません。
 こうした手法は、製薬会社がすでにアメリカ、ヨーロパで行って確立したプロモーションの方法を、日本で繰り返しただけだそうです。
 しかしこうした病気の啓発活動(Awareness campaign)は、ひとつ間違うと病気の押し売り(disease mongering)になりかねません。著者は、アメリカで小児躁うつ病キャンペーンの結果、患者数が40倍に増えたことを指摘し、また日本の「脳循環代謝改善剤」の教訓を思い出させます。
 また、スポンサー名を隠しての啓発活動もあります。一例として著者があげるのがUTU-NETという啓発サイトです。このサイトは、「うつ・不安啓発委員会」が運営し、製薬会社のイベント業務を専門とする広告代理店が事務局になっておりますが、ある製薬会社が支援しているのだそうです。
 また製薬会社は、学会や研究会の支援、あるいは研究費の援助を行います。また、「オピニオンリーダー」と呼ばれる、自社の薬剤をサポートしてくれる有力医師に対しては、国際学会への招待や、コンサルタント料などの名目による報酬も支払われるそうです。
 著者は、製薬会社の支援する啓発活動の内容にある程度のバイアスがかかるのは仕方ないが、少なくとも製薬会社が支援していることを明示すべきだと主張します。
 いわゆる非定型うつ病の増大に関しても、SSRIプロモーション以後の受診患者層の変化が影響していると考えられます。「自分は病気であり、薬で治療すべきである」という思いが強すぎると、回復を妨げることもあります。薬物療法だけではなく、認知療法の併用なども、患者さんによっては必要です。アイスランドにおける研究では、抗うつ剤の普及が、かならずしも社会全体におけるうつ病の現象につながらないことを示しています(Helgason T et al. Antidepressants and public health in Iceland. Time series analysis of national data. Br J Psychiatry. 2004 184:157-62)。
 また2008年には抗うつ剤の有効性に疑問をなげかける論文が発表され、世界中に衝撃を与えたそうですが、なぜか日本のマスコミはまったく騒がなかったそうです(Kirsch I et al. Initial Severity and Drug Antidepressant Benefits: A Meta-Analysis of Data Submitted to the Food and Drug Administration PLoS Medicine)。キルシュ教授は、アメリカのFDAにSSRIの臨床データを、これまで公表されていなかったものも含めて開示請求し、メタアナリシスを行いました。その結果、抗うつ剤の効果はプラセボと比較してあまり強くないということが明らかになったそうです。この研究は二つの意味で衝撃を与えたそうです。第一に、抗うつ剤の効果が実は強くないということ、第二に製薬会社が自社の薬に不利なデータを公表してなかったという事実がわかったということです。
 実際欧米のうつ病治療ガイドラインでは、軽症のうつ病には薬物療法を積極的には勧めていません。イギリスのNICEのうつ病の治療ガイドラインでは、「リスクと利益の比率が乏しいので、抗うつ薬は軽症うつ病の最初の治療としては勧められない」とされていますし、またアメリカでも「もし患者が希望するなら、軽症うつ病の最初の治療として抗うつ薬を投与していもよい」と書かれています。日本ではこうした論調はなく、軽症でも最初から抗うつ剤による治療が行われています。
 抗うつ剤と自殺の関係に関しては、論争に決着はついておらず、著者自身も判断できないとしています。またSSRIが従来の抗うつ剤に比べて優れているかどうかに関しては、副作用も含め、優れているとは言い切れず、それぞれに長所・短所があると考えるべきであるとしている。メンタル休職を減らすには、復職支援やリハビリが大切であって、さしあたって取り組むべき課題として残業対策をあげています。

 以上がこの本の内容で、製薬会社によるプロモーションに関しては、ぽん太も薄々感じていた点が、とても明確になりました。できれば製薬会社や広告業界に詳しい人にも、同じテーマで書いて欲しいです。また本書ではオピニオンリーダーと呼ばれ、仲間内では「御用学者」と呼ばれている、特定の製薬会社と密接に関連した医師に関しては、誰かにもっと細かく内輪話を暴露して欲しいですが、精神科医が名前を出してそういうことをすると、我が身を滅ぼすことになる危険性が高いです。
 いろいろと感想もあるのですが、長くなってしまったので、またの機会に述べたいと思います。

より以前の記事一覧

無料ブログはココログ
フォト
2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31